夫婦のお試し期間が終了する前日の夜、灯織は紅月から話があると切り出された。
これからの話をされることは分かっていたため、驚きはない。お試し期間が終わるということは、取り決めも今日までということ。つまり、明日からふたりは同じ寝室で過ごすことになるという話だろう。
けれど、不思議といやではなかった。灯織はもう紅月に心を寄せているのだ。
しかし、紅月が灯織に言ったのは予想もしない言葉だった。
「婚約は、破棄にしよう」
「――え?」
灯織は困惑気味に紅月を見つめる。
「婚約は、やめよう」
紅月はもう一度、ゆっくりと言った。
婚約破棄。
つまり、灯織と紅月は他人になるということだ。
「……どうしてですか」
灯織が問うと、紅月は申し訳なさそうに目を伏せた。
「君とは合わない。きっと君も、俺じゃないべつのだれかといっしょになったほうが幸せになれる」
灯織は言葉が見つからなかった。
「……ごめんね、灯織さん」
灯織は俯いた。視線を落とした灯織の視界に映ったのは、紅月がくれた月柄の着物だった。
***
紅月の話のあと、荷支度を終えた灯織は早々にトランクケースを持って本堂邸を出た。
紅月からは、しばらくは家にいてもらってかまわないと言われたが、なんとなくいづらさを感じたこともあって、灯織は早々に支度を済ませた。
「今までありがとうございました」
「……うん、元気で」
あまりにあっさりとした紅月の挨拶に、灯織は追いすがる余地もない現実を知る。
灯織は、紅月と本堂家の使用人たちに挨拶をしてから、本堂邸を出た。とりあえず駅に向かう。
紅月には、実家に帰ると伝えた。しかし、千家家へ帰るつもりはなかった。本堂家から暇を出されたなんて言ったら、帰ったところで居場所などない。いたぶられ、最後には殺される未来がやすやすと目に浮かぶ。とても帰る気にはなれない。
とはいえ、灯織に行くあてなどない。
紅月のとなりで生きていく。この一ヶ月少しづつ決めてきた覚悟は、紅月のひとことにより泡となって消えてしまった。
「これからどうしよう……」
灯織は途方に暮れた。
駅に着いたものの、列車に乗ることはせず、そのまま線路脇をしばらく歩いていると、川に出た。
きらきらと光を反射する水面を見つめて思う。この川に飛び込んだらどうだろう。いつか、海に出るのだろうか。もともと淡水で生きてきたが、陸でも生活できたのだ。海水でも生きていけるだろう。灯織は、あやかしなのだから。
そう考えたときだった。
「あら? あなた、灯織さんじゃなくって?」
どこか聞き覚えのある声に振り向くと、そこにいたのは、
「雪野さん……?」
紅月の従姉妹、雪野だった。
雪野はやはり華やかな格好をしていた。
白地に流水柄の着物、それから光沢のある白袴。流水柄は桃色で、黄色や紫色の丸菊が絢爛と咲いている。
さらに雪野は、その上から華やかな桃色をした花柄レースの羽織りを合わせ、頭には紫色のベレー帽を乗せていた。
女性らしさのある可愛らしい格好――まさに大正浪漫だ。
「灯織さんたら、こんなところにおひとりでなにしてるの? 紅月さんは?」
可愛らしい着物に見惚れていると、雪野が灯織の顔を覗き込んだ。
「いえ……その」
――どうしよう。
雪野はおそらく、まだ灯織と紅月の婚約が破談になったことを知らない。
けれど、ほかのいいわけを思いつかない。
灯織が黙り込んでいると、雪野がおもむろに灯織の手を引いた。
「わわっ!?」
あまりに強く引かれたもので、灯織の身体が不安定に傾く。慌てて脚に力を入れて踏ん張る灯織だったが、雪野はそんなことはおかまいなしといった様子で、
「分かったわ! もしかして喧嘩ね!? 紅月さんと喧嘩したのでしょ!?」
などと言い出した。
「えっと……」
「いいのよ! いくら養ってもらってるからと言って、女がすべてを我慢するなんて間違ってるものね。さ、いらっしゃい!」
雪野に手を引かれ、灯織は訊ねる。
「ど、どこへ?」
「私のお家に決まってるでしょ! 家出するのよ!」
「家出……いえあの、私は」
家出もなにも、灯織と紅月は赤の他人だ。そう灯織が否定しようとするも、雪野は勝手な解釈をしたままひとりで怒り出す。
「まったく、灯織さんを困らせるなんて紅月さんもまだまだね! さ、いらっしゃい! 今日は美味しいものを食べて、あたたかいお風呂に入って寝るのがいちばんよ」
こうして灯織は、雪野の家に身を寄せることとなった。
***
灯織が雪野の家に身を寄せて、一週間ほどが経った。
ふたりは街のなかにある二階建ての洋館にいた。看板には、珈琲茶館と書いてある。慣れた様子で一階を過ぎ、そのまままっすぐ二階に続く階段へ向かう雪野のあとを、灯織はおどおどとしながらついていく。
店内は、高級感ただようビロードの洋風椅子と木机がいくつか並び、カウンター近くに置かれたレコードからは、しっとりとしたクラシックが流れている。始めて来た灯織でも、ほっとする空間だ。
入口付近にいた洋装のボーイがふたりに気付き、いらっしゃいませと優雅に微笑む。思わず姿勢を正して挨拶を返そうとした灯織の横で、雪野が言う。
「こんにちは! ふたりなんだけど、いつもの席空いてるかしら?」
「はい。ご案内致します」
ボーイは雪野と数言会話を交わすと、こちらへどうぞ、と言って歩き出す。
案内されたのは、窓際のふたりがけの席だった。向かい合うようにして座る。慣れた様子でメニューを取り出す雪野に、灯織はそろそろと訊ねた。
「あの……雪野さんは、よくここへ来られるのですか?」
「仕事帰りに、たまにね。それより灯織さん、なににする?」
メニューを見せられるが、よく分からない。灯織は雪野に、お任せします、と返した。
雪野はボーイを呼ぶと、珈琲とアイスクリンをふたつ注文する。
ボーイがいなくなると、灯織は再び雪野に訊ねた。窓の外を眺めていた雪野が、灯織を見る。
「あの、雪野さん。せっかくのお休みだったのに、気を遣わせてしまってすみません……」
雪野は、紅月と同じく華族のお嬢さまだ。しかしながら雪野は、礼子の呉服屋で働いている。
雪野は今日、休日だったのだが、家で塞ぎ込みがちだった灯織を気遣い、外へ連れ出してくれたのだ。
「私の趣味に付き合わせてるのだから、気を遣ってくれてるのはあなたよ」
「……ありがとうございます」
胸の辺りがじんわりとあたたかくなる。雪野の優しさが、冷え切った心に染み入ってくるようだった。
灯織は最初、雪野のことが少し苦手だった。
無邪気で明るくて、とにかく生きることを全力で楽しんでいるような雪野は、どこかかつての親友を想起させるようで、直視することが辛かった。
そして同時に、羨ましかった。
はっきりとした物言いや物怖じしない姿がじぶんとあまりにかけ離れていて、当たり前に愛され、なんでも持っているお嬢さまの雪野が、羨ましかった。
でも、彼女と暮らして灯織は知った。
雪野は、お嬢さまなんかではなかった。雪野は、性別や家柄に甘えず、怖じけず、しっかりとじぶんの意志を持ち、逆風にも立ち向かう強さを持っていた。
――私も、あんなふうになれたら。
灯織はそう考えたじぶんに気付き、目を伏せる。なれるわけがないのに。
灯織は雪野を見て、訊ねる。
「あの……雪野さんは、どうして呉服屋で働こうと思ったんですか?」
「あら。どうしたの、いきなり」
雪野が頬杖をつきながら、灯織を見る。
「女性が……華族のお嬢さまが働くなんて珍しいから、気になって」
雪野は喉を鳴らすようにして、そうね、と笑った。
「私ね、お着物が大好きなの。ほら、お着物っていろいろな柄があるじゃない? お花とか動物だけじゃなく、お月さまとか蛍とか! こんなふうに季節を感じられる服は、きっと世界中どこを探してもふたつとないわ」
雪野は無邪気に、心底嬉しそうに自身の姿を見下ろしながら、そう話した。
着物が好きだという彼女の気持ちがまっすぐに伝わってくるようで、灯織は表情を綻ばせる。
でも、とその直後、雪野は声を沈ませた。
「最近みんな、外国のお洋服を着るようになってしまって……呉服屋はどんどん減っているの」
「そうだったんですか」
雪野は困ったような顔をして頷く。
じぶんがいた京都の街よりも、ずっとたくさんの呉服屋がそろっているから気付かなかった。
雪野は窓の外を行き交うひとたちを眺めながら、静かに続ける。
「みんな、新しいものが好きなのよね。まあ、それは私もなのだけど」
でもね、と雪野が灯織を見る。
「この国のお着物には、洋服とはまた違う良さがあると思うの! あ、もちろん洋服がつまらないってことじゃないのよ? 洋服には洋服の良さがある。だからね、私はお洋服とお着物を合わせた新しい服を作りたいと思っているの! だから働いているのよ。いつか、お店を出すために」
そういえば、以前会ったときも雪野は、外国の洋服を合わせながらも、着物を基調にした格好をしていた。
いつか、店を。
想像していたよりずっと壮大な内容だったが、彼女ならきっと叶えてしまうのだろう。灯織はそんな気がした。
いい? 灯織さん、と、雪野がおもむろに灯織の手を握る。
「女性はね、殿方の気を引くためにお洒落をするんじゃない。私たちは私たちを表現するためにお着物を選ぶのよ!」
初めて彼女の格好を見たときは斬新だと思ったが、今はそうは思わない。彼女らしいと灯織は思う。
着物にブーツ。ワンピースに帯。どちらも素敵だ。
「私も、そう思います」
灯織が同意すると、雪野は瞳を輝かせた。
「本当!?」
はいと頷き、灯織は、
「羨ましいな」
と呟いた。
「羨ましい?」
雪野が首を傾げる。
「私にはそんなふうに、はっきりと言い切れることってないから」
灯織はずっと、家族やちづるに言われるまま生きてきた。虐げられ、いじめられても逃げ出す勇気はなかった。
きっと雪野が灯織であったなら、彼らに真っ向から立ち向かったのだろう。
俯く灯織の手を、雪野が取る。
「私と同じね!」
「えっ? 同じ?」
「ええ! こうは言っているけれど私、灯織さんのことも羨ましいと思ってるのよ!」
「えっ?」
灯織が顔を上げると、雪野は笑って頷いた。
「こういう話をすると、殿方はいつも渋い顔をするの。もっと大人しい女性がいいとか言って、縁談はいっつも流れてしまうし。だからね、私、灯織さんが羨ましい! 旦那さま、ハンサムだし!」
「ハンサム?」
「そうよ! 旦那さまのお顔って重要でしょ?」
雪野は内緒話をするように口元に手を添え、身を乗り出した。
「私だっていい殿方がいたら結婚したいのよ? でも、じぶんの好きも諦めたくない。自立して、好きなときに好きなことをするのも楽しいんだもの!」
雪野は机に手をついて、つんと鼻を上に向けた。
「女性はお淑やかに殿方の言うことを聞いていればいい? そんなの私はいや。私らしく生きて、それを受け入れてくれるひとと生きたい。我慢なんてクソ喰らえですわ!」
雪野のはっきりとした物言いに、灯織は笑う。
いつかじぶんも、雪野のようになれるだろうか。そう考えたときだった。
「お節介かもしれないけど、灯織さんは少し我慢し過ぎじゃないかしら」
顔を上げると、雪野は穏やかな表情で灯織を見ていた。
聞けば雪野は、灯織と紅月が婚約破棄したことをはじめから知っていたという。灯織が家を出た際、紅月から雪野に連絡があり、雪野は慌てて仕事を中断して灯織を保護しに来たのだった。
「紅月さんは、私が実家に戻る気がないことを分かっていたってことですか?」
「あなたの性格が、以前会ったときとずいぶん変わっていたから、調べたらしいわ。それで、あなたがご両親から受けていた仕打ちを知ったって」
実家に帰るとは考えにくい。だが、これ以上じぶんのそばに置くことはできない。だから、雪野に頼みたい。紅月は雪野にそう言って頭を下げたという。
「どうしてそこまで……」
灯織は困惑する。婚約破棄した相手に、どうしてそこまで心配してくれるのだろう。
すると雪野はにっこり笑って「好きだからじゃないかしら?」と言った。
「ここだけの話だけれどね、私、紅月さんはあなたを遠ざけるって分かっていたわ」
灯織は眉を寄せる。
「紅月さんはね、大切なひとを遠ざける癖があるの。じぶんのそばにいる人間は、みんな不幸になってしまうから」
「不幸?」
「そう。紅月さんはね――」
雪野は、本堂家が華族となった経緯を話してくれた。それから、紅月の抱える体質のことも。話を聞いた灯織は、驚いた。
「……じゃあ、紅月さんが婚約を破棄したのは」
「あなたに心から惚れていたからよ。守りたかったのね。あなたのこと」
はっきり言われ、灯織は胸が苦しくなった。紅月は灯織がきらいになったわけではない。灯織を守るために遠ざけた。
灯織は唇を噛み締める。
「……それならそうと言ってくれれば」
灯織はあやかしだ。あやかしと混血であるとはいえ、人間の力の影響を受けるほどひ弱ではない。
けれど、紅月は灯織のことを人間だと思っている。だから遠ざける決断をしたのだ。
きっと、灯織が紅月の立場でもそうしただろう。お互いさまだったのだ。灯織も、紅月も。
紅月の決断の裏にあったあたたかな想いに、涙が出た。
「灯織さん。あなたはとってもいい子だけど、紅月さんの前ではじぶんを出していいのよ? 家族なんだから」
でも、と灯織は俯く。
「私はもう、他人です」
「そうね、このままではね」
灯織は膝の上に置いた手を見つめる。
会いに行くべきだろうか。でも……。
黙り込む灯織を見て、雪野がこれみよがしのため息をつく。
「……あのね、灯織さん。ひとは変えられないものよ」
灯織は顔を上げる。
「変えられるとしたらじぶんだけ。あなたが変わりたいって思えば、もうその瞬間に変われるのよ」
「……でも、私は」
「いい? 灯織さん。これからの時代、女はもっと強くたくましくならなきゃだめ。大正乙女は猪突猛進! 行動あるのみなのよ!」
雪野はそう言って、にっと歯を見せて笑った。
「せっかく生まれてきたのだから、人生は楽しまなくちゃ!」
――行動あるのみ。
「……変われるでしょうか、私」
雪野はにっこりと笑う。
「紅月さんの職場、内緒で教えてあげる」
アイスクリンと珈琲を堪能したあと、喫茶店を出た灯織は、紅月ともう一度話すため帝国陸軍駐屯地へ向かった。
本堂邸を出たあの日、灯織は紅月に本心を言うか迷った。迷って、やめた。怖かったのだ。じぶんのわがままを通して、紅月に拒絶されるのが。
もし紅月に拒絶されたら、灯織は今度こそ絶望してしまう。
でも、今は違う。
たとえ手遅れだとしても、灯織はこれまでの感謝と、じぶんの気持ちを紅月にちゃんと伝えたい。
皇居の東側、桔梗門に差し掛かる。駐屯地までもう少しだ。
そのときだった。
――助けて!
どこかから、声がした。
これからの話をされることは分かっていたため、驚きはない。お試し期間が終わるということは、取り決めも今日までということ。つまり、明日からふたりは同じ寝室で過ごすことになるという話だろう。
けれど、不思議といやではなかった。灯織はもう紅月に心を寄せているのだ。
しかし、紅月が灯織に言ったのは予想もしない言葉だった。
「婚約は、破棄にしよう」
「――え?」
灯織は困惑気味に紅月を見つめる。
「婚約は、やめよう」
紅月はもう一度、ゆっくりと言った。
婚約破棄。
つまり、灯織と紅月は他人になるということだ。
「……どうしてですか」
灯織が問うと、紅月は申し訳なさそうに目を伏せた。
「君とは合わない。きっと君も、俺じゃないべつのだれかといっしょになったほうが幸せになれる」
灯織は言葉が見つからなかった。
「……ごめんね、灯織さん」
灯織は俯いた。視線を落とした灯織の視界に映ったのは、紅月がくれた月柄の着物だった。
***
紅月の話のあと、荷支度を終えた灯織は早々にトランクケースを持って本堂邸を出た。
紅月からは、しばらくは家にいてもらってかまわないと言われたが、なんとなくいづらさを感じたこともあって、灯織は早々に支度を済ませた。
「今までありがとうございました」
「……うん、元気で」
あまりにあっさりとした紅月の挨拶に、灯織は追いすがる余地もない現実を知る。
灯織は、紅月と本堂家の使用人たちに挨拶をしてから、本堂邸を出た。とりあえず駅に向かう。
紅月には、実家に帰ると伝えた。しかし、千家家へ帰るつもりはなかった。本堂家から暇を出されたなんて言ったら、帰ったところで居場所などない。いたぶられ、最後には殺される未来がやすやすと目に浮かぶ。とても帰る気にはなれない。
とはいえ、灯織に行くあてなどない。
紅月のとなりで生きていく。この一ヶ月少しづつ決めてきた覚悟は、紅月のひとことにより泡となって消えてしまった。
「これからどうしよう……」
灯織は途方に暮れた。
駅に着いたものの、列車に乗ることはせず、そのまま線路脇をしばらく歩いていると、川に出た。
きらきらと光を反射する水面を見つめて思う。この川に飛び込んだらどうだろう。いつか、海に出るのだろうか。もともと淡水で生きてきたが、陸でも生活できたのだ。海水でも生きていけるだろう。灯織は、あやかしなのだから。
そう考えたときだった。
「あら? あなた、灯織さんじゃなくって?」
どこか聞き覚えのある声に振り向くと、そこにいたのは、
「雪野さん……?」
紅月の従姉妹、雪野だった。
雪野はやはり華やかな格好をしていた。
白地に流水柄の着物、それから光沢のある白袴。流水柄は桃色で、黄色や紫色の丸菊が絢爛と咲いている。
さらに雪野は、その上から華やかな桃色をした花柄レースの羽織りを合わせ、頭には紫色のベレー帽を乗せていた。
女性らしさのある可愛らしい格好――まさに大正浪漫だ。
「灯織さんたら、こんなところにおひとりでなにしてるの? 紅月さんは?」
可愛らしい着物に見惚れていると、雪野が灯織の顔を覗き込んだ。
「いえ……その」
――どうしよう。
雪野はおそらく、まだ灯織と紅月の婚約が破談になったことを知らない。
けれど、ほかのいいわけを思いつかない。
灯織が黙り込んでいると、雪野がおもむろに灯織の手を引いた。
「わわっ!?」
あまりに強く引かれたもので、灯織の身体が不安定に傾く。慌てて脚に力を入れて踏ん張る灯織だったが、雪野はそんなことはおかまいなしといった様子で、
「分かったわ! もしかして喧嘩ね!? 紅月さんと喧嘩したのでしょ!?」
などと言い出した。
「えっと……」
「いいのよ! いくら養ってもらってるからと言って、女がすべてを我慢するなんて間違ってるものね。さ、いらっしゃい!」
雪野に手を引かれ、灯織は訊ねる。
「ど、どこへ?」
「私のお家に決まってるでしょ! 家出するのよ!」
「家出……いえあの、私は」
家出もなにも、灯織と紅月は赤の他人だ。そう灯織が否定しようとするも、雪野は勝手な解釈をしたままひとりで怒り出す。
「まったく、灯織さんを困らせるなんて紅月さんもまだまだね! さ、いらっしゃい! 今日は美味しいものを食べて、あたたかいお風呂に入って寝るのがいちばんよ」
こうして灯織は、雪野の家に身を寄せることとなった。
***
灯織が雪野の家に身を寄せて、一週間ほどが経った。
ふたりは街のなかにある二階建ての洋館にいた。看板には、珈琲茶館と書いてある。慣れた様子で一階を過ぎ、そのまままっすぐ二階に続く階段へ向かう雪野のあとを、灯織はおどおどとしながらついていく。
店内は、高級感ただようビロードの洋風椅子と木机がいくつか並び、カウンター近くに置かれたレコードからは、しっとりとしたクラシックが流れている。始めて来た灯織でも、ほっとする空間だ。
入口付近にいた洋装のボーイがふたりに気付き、いらっしゃいませと優雅に微笑む。思わず姿勢を正して挨拶を返そうとした灯織の横で、雪野が言う。
「こんにちは! ふたりなんだけど、いつもの席空いてるかしら?」
「はい。ご案内致します」
ボーイは雪野と数言会話を交わすと、こちらへどうぞ、と言って歩き出す。
案内されたのは、窓際のふたりがけの席だった。向かい合うようにして座る。慣れた様子でメニューを取り出す雪野に、灯織はそろそろと訊ねた。
「あの……雪野さんは、よくここへ来られるのですか?」
「仕事帰りに、たまにね。それより灯織さん、なににする?」
メニューを見せられるが、よく分からない。灯織は雪野に、お任せします、と返した。
雪野はボーイを呼ぶと、珈琲とアイスクリンをふたつ注文する。
ボーイがいなくなると、灯織は再び雪野に訊ねた。窓の外を眺めていた雪野が、灯織を見る。
「あの、雪野さん。せっかくのお休みだったのに、気を遣わせてしまってすみません……」
雪野は、紅月と同じく華族のお嬢さまだ。しかしながら雪野は、礼子の呉服屋で働いている。
雪野は今日、休日だったのだが、家で塞ぎ込みがちだった灯織を気遣い、外へ連れ出してくれたのだ。
「私の趣味に付き合わせてるのだから、気を遣ってくれてるのはあなたよ」
「……ありがとうございます」
胸の辺りがじんわりとあたたかくなる。雪野の優しさが、冷え切った心に染み入ってくるようだった。
灯織は最初、雪野のことが少し苦手だった。
無邪気で明るくて、とにかく生きることを全力で楽しんでいるような雪野は、どこかかつての親友を想起させるようで、直視することが辛かった。
そして同時に、羨ましかった。
はっきりとした物言いや物怖じしない姿がじぶんとあまりにかけ離れていて、当たり前に愛され、なんでも持っているお嬢さまの雪野が、羨ましかった。
でも、彼女と暮らして灯織は知った。
雪野は、お嬢さまなんかではなかった。雪野は、性別や家柄に甘えず、怖じけず、しっかりとじぶんの意志を持ち、逆風にも立ち向かう強さを持っていた。
――私も、あんなふうになれたら。
灯織はそう考えたじぶんに気付き、目を伏せる。なれるわけがないのに。
灯織は雪野を見て、訊ねる。
「あの……雪野さんは、どうして呉服屋で働こうと思ったんですか?」
「あら。どうしたの、いきなり」
雪野が頬杖をつきながら、灯織を見る。
「女性が……華族のお嬢さまが働くなんて珍しいから、気になって」
雪野は喉を鳴らすようにして、そうね、と笑った。
「私ね、お着物が大好きなの。ほら、お着物っていろいろな柄があるじゃない? お花とか動物だけじゃなく、お月さまとか蛍とか! こんなふうに季節を感じられる服は、きっと世界中どこを探してもふたつとないわ」
雪野は無邪気に、心底嬉しそうに自身の姿を見下ろしながら、そう話した。
着物が好きだという彼女の気持ちがまっすぐに伝わってくるようで、灯織は表情を綻ばせる。
でも、とその直後、雪野は声を沈ませた。
「最近みんな、外国のお洋服を着るようになってしまって……呉服屋はどんどん減っているの」
「そうだったんですか」
雪野は困ったような顔をして頷く。
じぶんがいた京都の街よりも、ずっとたくさんの呉服屋がそろっているから気付かなかった。
雪野は窓の外を行き交うひとたちを眺めながら、静かに続ける。
「みんな、新しいものが好きなのよね。まあ、それは私もなのだけど」
でもね、と雪野が灯織を見る。
「この国のお着物には、洋服とはまた違う良さがあると思うの! あ、もちろん洋服がつまらないってことじゃないのよ? 洋服には洋服の良さがある。だからね、私はお洋服とお着物を合わせた新しい服を作りたいと思っているの! だから働いているのよ。いつか、お店を出すために」
そういえば、以前会ったときも雪野は、外国の洋服を合わせながらも、着物を基調にした格好をしていた。
いつか、店を。
想像していたよりずっと壮大な内容だったが、彼女ならきっと叶えてしまうのだろう。灯織はそんな気がした。
いい? 灯織さん、と、雪野がおもむろに灯織の手を握る。
「女性はね、殿方の気を引くためにお洒落をするんじゃない。私たちは私たちを表現するためにお着物を選ぶのよ!」
初めて彼女の格好を見たときは斬新だと思ったが、今はそうは思わない。彼女らしいと灯織は思う。
着物にブーツ。ワンピースに帯。どちらも素敵だ。
「私も、そう思います」
灯織が同意すると、雪野は瞳を輝かせた。
「本当!?」
はいと頷き、灯織は、
「羨ましいな」
と呟いた。
「羨ましい?」
雪野が首を傾げる。
「私にはそんなふうに、はっきりと言い切れることってないから」
灯織はずっと、家族やちづるに言われるまま生きてきた。虐げられ、いじめられても逃げ出す勇気はなかった。
きっと雪野が灯織であったなら、彼らに真っ向から立ち向かったのだろう。
俯く灯織の手を、雪野が取る。
「私と同じね!」
「えっ? 同じ?」
「ええ! こうは言っているけれど私、灯織さんのことも羨ましいと思ってるのよ!」
「えっ?」
灯織が顔を上げると、雪野は笑って頷いた。
「こういう話をすると、殿方はいつも渋い顔をするの。もっと大人しい女性がいいとか言って、縁談はいっつも流れてしまうし。だからね、私、灯織さんが羨ましい! 旦那さま、ハンサムだし!」
「ハンサム?」
「そうよ! 旦那さまのお顔って重要でしょ?」
雪野は内緒話をするように口元に手を添え、身を乗り出した。
「私だっていい殿方がいたら結婚したいのよ? でも、じぶんの好きも諦めたくない。自立して、好きなときに好きなことをするのも楽しいんだもの!」
雪野は机に手をついて、つんと鼻を上に向けた。
「女性はお淑やかに殿方の言うことを聞いていればいい? そんなの私はいや。私らしく生きて、それを受け入れてくれるひとと生きたい。我慢なんてクソ喰らえですわ!」
雪野のはっきりとした物言いに、灯織は笑う。
いつかじぶんも、雪野のようになれるだろうか。そう考えたときだった。
「お節介かもしれないけど、灯織さんは少し我慢し過ぎじゃないかしら」
顔を上げると、雪野は穏やかな表情で灯織を見ていた。
聞けば雪野は、灯織と紅月が婚約破棄したことをはじめから知っていたという。灯織が家を出た際、紅月から雪野に連絡があり、雪野は慌てて仕事を中断して灯織を保護しに来たのだった。
「紅月さんは、私が実家に戻る気がないことを分かっていたってことですか?」
「あなたの性格が、以前会ったときとずいぶん変わっていたから、調べたらしいわ。それで、あなたがご両親から受けていた仕打ちを知ったって」
実家に帰るとは考えにくい。だが、これ以上じぶんのそばに置くことはできない。だから、雪野に頼みたい。紅月は雪野にそう言って頭を下げたという。
「どうしてそこまで……」
灯織は困惑する。婚約破棄した相手に、どうしてそこまで心配してくれるのだろう。
すると雪野はにっこり笑って「好きだからじゃないかしら?」と言った。
「ここだけの話だけれどね、私、紅月さんはあなたを遠ざけるって分かっていたわ」
灯織は眉を寄せる。
「紅月さんはね、大切なひとを遠ざける癖があるの。じぶんのそばにいる人間は、みんな不幸になってしまうから」
「不幸?」
「そう。紅月さんはね――」
雪野は、本堂家が華族となった経緯を話してくれた。それから、紅月の抱える体質のことも。話を聞いた灯織は、驚いた。
「……じゃあ、紅月さんが婚約を破棄したのは」
「あなたに心から惚れていたからよ。守りたかったのね。あなたのこと」
はっきり言われ、灯織は胸が苦しくなった。紅月は灯織がきらいになったわけではない。灯織を守るために遠ざけた。
灯織は唇を噛み締める。
「……それならそうと言ってくれれば」
灯織はあやかしだ。あやかしと混血であるとはいえ、人間の力の影響を受けるほどひ弱ではない。
けれど、紅月は灯織のことを人間だと思っている。だから遠ざける決断をしたのだ。
きっと、灯織が紅月の立場でもそうしただろう。お互いさまだったのだ。灯織も、紅月も。
紅月の決断の裏にあったあたたかな想いに、涙が出た。
「灯織さん。あなたはとってもいい子だけど、紅月さんの前ではじぶんを出していいのよ? 家族なんだから」
でも、と灯織は俯く。
「私はもう、他人です」
「そうね、このままではね」
灯織は膝の上に置いた手を見つめる。
会いに行くべきだろうか。でも……。
黙り込む灯織を見て、雪野がこれみよがしのため息をつく。
「……あのね、灯織さん。ひとは変えられないものよ」
灯織は顔を上げる。
「変えられるとしたらじぶんだけ。あなたが変わりたいって思えば、もうその瞬間に変われるのよ」
「……でも、私は」
「いい? 灯織さん。これからの時代、女はもっと強くたくましくならなきゃだめ。大正乙女は猪突猛進! 行動あるのみなのよ!」
雪野はそう言って、にっと歯を見せて笑った。
「せっかく生まれてきたのだから、人生は楽しまなくちゃ!」
――行動あるのみ。
「……変われるでしょうか、私」
雪野はにっこりと笑う。
「紅月さんの職場、内緒で教えてあげる」
アイスクリンと珈琲を堪能したあと、喫茶店を出た灯織は、紅月ともう一度話すため帝国陸軍駐屯地へ向かった。
本堂邸を出たあの日、灯織は紅月に本心を言うか迷った。迷って、やめた。怖かったのだ。じぶんのわがままを通して、紅月に拒絶されるのが。
もし紅月に拒絶されたら、灯織は今度こそ絶望してしまう。
でも、今は違う。
たとえ手遅れだとしても、灯織はこれまでの感謝と、じぶんの気持ちを紅月にちゃんと伝えたい。
皇居の東側、桔梗門に差し掛かる。駐屯地までもう少しだ。
そのときだった。
――助けて!
どこかから、声がした。