日曜日、部屋のベランダから星を眺めていた。
 夜空をため息で曇らせては、悲哀が感情に降り注ぐ。
 昨日と今日は学校が休みだったので、ずっと家に引きこもり模索していた。
 だが、この二日間何もできなかった。
 雪乃に連絡しようとも思ったが、直前で指は止まり、スマホを握りしめるだけの時間が続いた。
 明日の夜は蒼空と会う日。本当は良い報告がしたかったが、まだできそうにない。
 未練は二つあると言っていた。もう一つも叶えたいが、今は雪乃と向き合いたい。
 明日蒼空に謝ろう。もう少し時間がほしいと。
 雪乃は諦めたと言っていたが、たぶん嘘だと思う。そんな簡単に好きな人を諦められるはずがない。それだけは私にも理解できる。
 一昨日の朝に話したとき、一瞬だけ寂しい顔を見せた。もしかしたら私に何か言ってほしかったのかもしれない。でも何も言えなかった。
 この数日で、何度言葉を詰まらせたんだろう。
 他の人たちは、人付き合いの中でたくさん経験をして、適した言葉を渡せるのかもしれない。でも私にはその経験があまりもなさすぎる。
 恋愛相談なんてしたことないし、好きな人と結ばれる方法も知らない。ましてや人と上手く喋れない。
 過去に縛られて、今まで多くの未来を失っていたことに気付いた。
 蒼空に依存していたと思う。だから前を向かなくてもよかった。そこに居場所があったから。
 蒼空は友達が多い。その中で知り得たことが累々にあったのだろう。私がこのままでいけないことも、変わらなくちゃいけないことも、きっと分かっていた。雪乃と接してそれを痛感した。誰かを救いたいなんて思ったこともないのに、今は純粋に雪乃の恋を応援したいと思っている。
 人が嫌いになってから、世界の見え方は大きく変わった。歪んだ見かたをしていたんだと思う。まっすぐ見てしまえば自分を傷つけてしまうから。景色を捻じ曲げれば自分を正当化できるから。
 前までは雪乃のことが苦手だった。
 すべてを兼ね備え、多くの人に囲まれ、蒼空が好きな相手だったから。
 だが話してみて変わった。私と外の世界の間には過去という澱んだフィルターがある。
 雪乃がそのフィルターを取り除くように接してくれたから、こんな自分でも受け入れてもらえることを知れた。
 嫉妬や嫌悪で歪ませていた世界が、少しずつだが変わってきている。
 景色を変えるのは他人だけではない。自分の意識や価値観に目を向けなければ、周りに恵まれていても変えることはできない。
 きっかけを与えてもらったとしても、その先は自分の受け取り方で決まるのだから。
 今の雪乃は、自分一人では変えられないのかもしれない。ならその手助けをしたい。
 ずっと蒼空に手を握ってもらってた。だけどこれからは誰かの手を握れるような人になりたい。
 痛みに寄り添い、見えない傷に気づいてあげられる、そんな人間に。

 昇降口は登校する生徒たちで賑わっている。今日はいつもより早く学校に来ていた。
 日陰にはまだ微かに雪が残っている。明日には完全に溶けてしまうだろう。
 周りを見渡すと、歩いてくる雪乃を視界にとらえた。向こうも私に気づき「おはよう」と顔を綻ばせながら近づいてくる。
 今日はちゃんと話そうと決めていた。
 雪乃が散らせた恋を、もう一度咲かせるために。
「昼休み、一緒にご飯食べない?」
 私がそう聞くと、雪乃は少し間を空けてから、
「ごめん、今日バスケ部の後輩と話すことになってて」
 彼氏に二股をかけられて、学校を休んでいた後輩のことかもしれない。
「そっか……」
「明日一緒に食べよう」
「うん」
 今日も寒いね、と言いいながら靴を履き替える雪乃。私は昨夜に灯した覚悟を消さないようにその姿を見ていた。
 昼休みになり、誰もいない体育館で母が作ったお弁当を口にする。
 ステージに腰掛けながら、この広い空間を眺める。普通なら寂しいと思うのかもしれないが、この静寂さが今は心地いい。思考に何の邪魔も入らず、一人の時間を過ごせる。
「ちょっと待ってよ」
「着いてくんなよ」
 緊迫を纏う声が、入り口の方から聞こえてきた。
 私は咄嗟に緞帳(どんちょう)の裏に隠れた。
 一人でいると、こういう時は姿を隠そうとしてしまう。ぼっちの習性だ。ただごとならぬ声色だったのもあるが。
「ちゃんと話そうよ」
「もう話したろ」
 声は体育館に入ってきた。緊張が走る。
「なんで浮気したの?」
 もしやと思い、緞帳を盾のようにしながら片目だけで覗く。
 体育館の中央に男と女が立っていた。
 男は女に背を向けている。女の後ろには雪乃のがいた。
 彼氏に二股をかけられたバスケ部の後輩だろう。確か、熊倉と言ったか。
 じゃあ前にいる男が二股男と言うことか。不可抗力とはいえ、嫌な場面に出会してしまった。
 男の方は面倒くさそうな表情をしている。女の子の方は今にも泣きそうだ。雪乃は冷静な感じ。
「私はまだ浩司のこと好きなの。もうしないって言うなら、またやり直そう」
 男は呆れた顔でため息を吐き、女の子の方を振り向いた。
「だからもう終わりでいいって言ってんじゃん。別に無理に付き合う必要ないでしょ? そっちも嫌でしょ、浮気したやつと付き合うの」
 完全に開き直っている。
 私は全く関係ないがムカついてきた。あいつのセンター分けした髪を毟り取りたい。分け目すら作れない頭にしたい。
「佳奈は高本くんのことまだ好きなんだよ。だから信じたいの。それなのに、そんな言い方ないんじゃない」
 雪乃は先ほどの冷静な顔つきから打って変わって、怒りが滲み出ていた。
「先輩には関係ないっすよね。俺ら二人の問題なんで」
「私が呼んだの。二人だと不安だったから」
 声を振るわせながら、倉本さんは言う。
「てかさ、お前重いんだよ。友達と遊んでても『女の子いるの?』とか、毎回毎回『私のこと好き?』とか聞いてきてうざいんだよ。こっちの身になってみろよ。監視されてるみたいでマジ面倒くさい。俺が浮気したのはさ、お前が原因だよ」
――うざい。この言葉に私も反応してしまう。その言葉がどれだけ心に傷を付けることか。
 熊倉さんは涙を流しながら、膝から崩れた。
「重いのは分かってる。私に原因があることも。でも好きなの。こんなことされてもまだ嫌いになれない。一緒にいたいって思ってるし、まだ浩司のこと信用してる。だから……」
 涙で言葉が詰まったのか、嗚咽だけが静寂な体育館に響いた。
 雪乃は彼女のもとに行き、優しく背中をさする。そして男を睨みながら後輩の代弁を始めた。
「佳奈はね、ずっと高本くんのことが好きだったの。入学して間もない頃からずっと。付き合うことができたとき、本当に嬉しそうにしてた。重くなるのは、安心したいだけなんだよ。やっと叶えられた恋だから、好きな人に自分を見ていてほしいから。だから言葉が欲しいの。たった二文字だけど、その言葉で明日を笑って過ごすことができる」
 雪乃は途中から涙を浮かべていた。もしかしたら自分と重ねていたのかもしれない。
 ずっと好きだった相手にあんなことを言われたら、きっと明日を生きることも辛くなる。生きる意味を見失ってしまう。好きな人の言葉は明日を生きるための糧になるから。
「そんなの知らねーよ。重いもんは重いの。なんで俺がそれを背負わないといけないんすか。こいつが勝手に俺を好きになって、仕方なく付き合ってるのに、何で面倒かけられなきゃいけないんだよ」
「仕方なくって何? 佳奈の前で何でそんなことが言えるの。人の気持ち考えたことある? 佳奈に謝って。今すぐ」
 雪乃は男の前に立ち、憤怒に燃えるような顔で睨んでいた。
「怒りたいのは、俺の彼女じゃないっすかね。あっ、彼女って言ってもこいつじゃなくて、もう一人の方です。そいつとは中学から付き合ってるんで、正確に言えば浮気はこっちです。だからそこまで重くされると面倒なんすよね。そうだ、先輩俺と付き合いません? それか体だけの関係でもいいっすよ? 富田雪乃とやれたら、クラスの奴に自慢できるんで。どうです? 俺、結構上手いっすよ」
 何でこんな人間が生きてるのだろう? なんの迷いもなく『死ねばいい』と思った。人を傷付けることを何とも思ってない人間。男の目の前に行って全部吐き出したい。この胸にある不快なもの全部。
 雪乃を見ると、肩を震わせながら強く拳を握り締めていた。
「雪乃先輩、もういいです」
 ゆっくりと立ち上がり、涙を拭いながら熊倉さんは言った。
「私が悪いんです。こんな人を好きになったから。だから、もう……」
 ここまで言われても好きな気持ちが残っているように見えた。本人もその気持ちを捨てたいが、心にしがみついてきて離れない。そんな感じだ。
「じゃあもういいっすか? 佳奈もさ、早く新しい男作って忘れなよ。次は遊び程度の相手見つけて、そこそこに楽しみな。たかだか高校生の恋愛で、マジになるとかダサいから。あと、またやりたくなったらいつでも連絡してよ。お前上手くないから、俺がみっちり教えてや……」
「おい!」
 私はステージの上から、男に対して叫んでいた。
「千星」
 雪乃は驚きながら、こちらを見ている。
 我慢できなかった。ずっと自分を好きだった相手に、一生消えないであろう傷を残したことが。
 人を好きになるというのは自分の世界を変えることだ。こいつは今、彼女のすべてを壊そうとしている。それだけは絶対に許せない。
 ステージから飛び降り、男の前に行こうとしたが、着地に失敗し転んだ。
 「ぐへっ」という変な声が、静寂に包まれた体育館に響く。三人の視線が集まるのを感じ、恥ずかしさが増長される。
 顔を上げるのも億劫だったが、今言わないと彼女は私みたいになるかもしれない。あの日、蒼空が私に寄り添ってくれたように、今日は私が蒼空にならないといけない。
 恥ずかしさを押し殺して立ち上がり、三人の方へ向かった。
「誰?」
 男の前に立つと、怪訝な顔で私を見てきた。視界の隅に雪乃の心配そうな顔も入る。
「たかだか高校生の恋愛かもしれない。でもね、それが自分の支えになって生きる理由に変わる。辛い日常も明日に怯える夜も、その人と会うことを想像すれば、また頑張れるんだよ。好きな人の言葉で嬉しくなって、好きな人の言葉で支えられて、そうやって一日を過ごしていく。好きな人の言葉っていうのは、それぐらい特別なの。だから言葉一つですべてを奪うことができる。そうやってできた傷は消えないで残り続けるの。君からしたら長い人生のほんの一瞬の出来事かもしれない。でも彼女にとっては、一生背負っていく出来事になるかもしれないんだよ。私は過去に縛られながら生きてきた。彼女にはそうなってほしくない。必要のない傷を抱えながら生きるのって、ものすごく辛いの」
 自分の生きてきた軌跡を辿りながら、言葉を縒り合わせた。目の前で泣く女の子を助けたくて。
「好きって気持ちは簡単に消えるものじゃない。だから彼女は君に強い言葉を吐けないんだよ。それに甘えないで。君が付けた傷は未来を奪うものなんだよ。もしまた彼女を泣かせることがあったら、私は一生許さない」
 思いの丈を全部ぶちまけると、体育館には熊倉さんの啜り泣く声だけが響いていた。
 目の前のセンター分けクズは、「もうこいつと関わるつもりないんで」とだけ残し、狼狽えながら去っていった。
 私は何かできたんだろうか? そんな不安が残る。彼女がこの先、傷を背負ったまま生きていくかもと思うと、顔を見ることができなかった。
「千星」
 雪乃に名前を呼ばれて我にかえった。関係のない自分が勝手に話を終わらせてしまい、しかも盗み聞きみたいな形になっていたので、急に焦りが出てきた。
「そ、そこでみんなを食べてたらご飯が来て、急だったから思わず自分を隠蔽しないとと思って、なんか、だんだん我慢できなくなって。それで、その、勝手なことしてごめん」
 テンパりすぎて自分が何を言っているのか分からなかった。下げた頭をずっとこのままにしておきたい。
「ありがとうございます」
 雪乃の声じゃなかった。顔を上げると目の前に熊倉さんが立っていた。
 目が充血したように赤く、彼女の心情がその瞳に映し出されているようだった。
「私が思ってることを言ってくれて助かりました。もしかしたらずっと傷が残ってたかもしれない。でも、さっきの言葉で少し和らいだ」
 悲しみが覆っていた表情に、微かだが笑顔が零れる。
「本当は私が言うべきだった。後輩があんな酷いこと言われたのに、立ち竦むだけだった。先輩失格だよ」
 熊倉さんは、首を大きく横に振る。
「雪乃さんがいてくれて助かりました。一人だったら泣くだけで終わってたと思います。あんなクソ野郎なのにまだ気持ちが残ってる。おかしいですよね。さっき言ってたことが嘘なんじゃないかって、どこかでそう思ってる自分がいる。本当バカですよね、私」
「人を好きになることはバカなことじゃないよ。向ける相手は間違ったけど、恋をした自分は責めないで」
 雪乃の言葉に熊倉さんは再び涙を流した。
 この場面で言うか迷ったが、言わないといけない思い、私は喉元で抑えていた言葉を吐いた。
「熊倉さん自身も変わらないといけないと思う。自分が変わらないと、また同じような人を好きになってしまうから。他人の見えかたは自分の心の中にあるもので決まる。それを変えない限り、幸せにはなれないと思う。関係のない私が言える立場ではないし、大きなお世話かもしれないけど、自分のことを大切にしてくれる人を好きになってほしい」
 奥底にあるものが視界を歪めたり、価値観を作ってしまう。それと向き合いながら人は生きていかないといけない。この数日で私が学んだことだった。
「はい。自分でもそう思います。あんなやつを好きになったのは、恋してる自分に酔っていたんだと思う。だから汚れている部分に目を瞑って、自分の好きな世界を作りあげてた。それが楽しかったから。今度はもっと人を見ます。恋をしてる自分ではなく、相手の心を」
 そのあと、熊倉さん笑顔で教室に戻っていった。元カレに一発ビンタする、と息巻きながら。女って怖い。

 私と雪乃は五限目をサボり、第三支部の公園に来ていた。
「サボろっか」と言い出したのは雪乃の方からだった。なので私は公園を案内した。
「こんなとこあったんだ。今度から私もここで食べようかな」
 蒼空以外の人を初めて招いたので緊張したが、喜んでもらえてよかった。私の家ではないが。
 ベンチに座り、一息吐く。
 今日はよく晴れていて青が映える。
 流れる雲が気持ちよさそうに泳でいるのを眺めていたら、
「恋ってなんでこんなに難しいんだろうね?」
 隣を見ると、雪乃も空を見上げていた。
「手を繋いで、一緒に笑って、お互いに気持ちを伝える。これだけで十分なのに、それが上手くいかない。ただ人を好きになっただけなのに、なんでこんなに苦しくなるんだろう」
 雪乃は好きな人に気持ちを伝えることをやめた。そこに大きな隔たりがあるんだと思う。今ならそれを聞けそうな気がした。
「好きな人に気持ちを伝えなくていいの?」
 沈黙が会話に空白を作った。その空白には雪乃の考えていることが詰まっている。私はそれを知りたい。
「うん。そう決めたから。これでいいんだと思う」
 十数秒の沈黙が明けたあと、雪乃は自分を納得させるように言った。
「嘘だよ」
 自分に嘘をついていると思ったから、私はそう言った。
 今まではその先に進まなかったが、今日は無理にでもこじ開けたかった。ここで引いたら、雪乃は心の中に本音を仕舞い込むと思ったから。
「嘘じゃないよ」
「本当は伝えたいくせになんで嘘つくの? 自分の恋でしょ? 自分にまで嘘つかなくていいよ」
「自分の恋だから自分で決めたの、もう伝えないって。だからこれでいいの」
「よくない! 一生後悔するかもしれないんだよ。伝えたくても、二度と伝えられなくなることだってある。あとで言っとけばよかったって思っても遅いの。今思ってることは、今言うべきだよ」
「だからもういいんだって! 千星には私の気持ちは分からないよ」
「分からないよ。だから知りたいの。私は後悔した。自分の気持ちを伝えられないまま、私の好きな人はこの世を去った。あのとき伝えていればって何回も思った。その気持ちはずっと心の中で生き続ける。自分で自分を苦しめることになるんだよ」
「千星の好きな人って……」
「蒼空だよ」
 雪乃は言葉を失ったように押し黙った。
 私も言葉を見失い、二人で地面に視線を送りながら沈黙の中を放浪する。
 頬に当たる冷たい風がさっきよりも強く感じる。車の走行音がいつもより鼓膜に響く。落ち葉の筋が一本一本くっきりと見える。
 静けさが五感を鋭くさせた。そのせいか、言葉が枯れた空間は一層重さを感じる。
 先に声を発したのは雪乃だった。
「本当は好きって伝えたい。でも、一歩踏み出せないの……自分が邪魔をするから」
 喉元で閊えていたものを押し出すように、雪乃は言葉を口にする。
「私……」
 そして抱えたものを紡ぐように過去を語り始めた。