目を覚ますと、目の前には幻想的な星空が広がっていた。
 あまりの美しさに見惚れてしまったが、すぐに千星のことを思い出した。
 鉄製の黒いベンチから立ち上がって、辺りを見渡す。
 一辺が三十メートルほどの正方形の部屋だった。
 ガラス張りになっているが、高い天井と床、一辺の壁はコンクリートのように見える。その壁には鉄製の黒い扉が下側の中央に設置されていた。照明は無く、窓から入る星彩のみで部屋を照らしているため全体は薄暗い。
 あの扉から入ってきたのだろうかと考えたが、見覚えのない場所に頭が混乱する。
 千星の背中を押したところまでは覚えているが、その先の記憶がない。
 なぜここにいるんだろうか? どうやってここまで来たのだろうか? 一体ここはどこなのだろうか? 疑問点が多すぎて線が繋がらなかった。
 錯綜していると扉が開いた。そこから女の人が入ってきて、こちらに向かってくる。
「やっほ」
 目の前に来た女性は、片手を上げながら陽気に言った。
 状況がさらに分からなくなる。この人は俺のことを知っているのだろうか? 初対面の人間に「やっほ」なんて挨拶はしないだろうから、もしかしたら会ったことがあるのかもしれない。でも俺はまったく記憶にない。
「どちら様ですか?」
 とりあえず状況を整理するために聞いてみた。
「私は流星の案内人。君が現世に残した未練を聞きにきた」と彼女は答えた。
「案内人?」
「信じられないかもしれないけど、君は交通事故で亡くなったの。それで死んだ人間の中から……」
「ちょっと待ってください。死んだってどういうことですか?」
「車に轢かれたんだよ。覚えてない? いや覚えてないか。確か……女の子を庇って轢かれたって言ってたかな。うん、たぶんそんな感じ。私が直接見た訳ではないから分からないけど、視察官がそう言ってた」
 理解できなかった。実際に自分の体はここにあって、動くことも話すこともできる。でも女の子を庇って轢かれたと言うのは心当たりがある。たぶん……
「千星ちゃんだっけ? 幼馴染の子。あの子無事だったみたいよ。良かったね」
「千星はどこにいます? いるなら会わせて下さい」
「会いに行く?」
「はい」
「でもその前にちゃんと事実を受け止めて」
 そう言ったあと、色々と説明を受けた。
 ここは流星の駅と言って、死んだ人の未練を叶える場所。。
 現世で生きる人間を一人だけ指定して、その人に未練を託すことができる。
 その人とはここで会い、面会時間は一時間。
 亡くなってから四十九日を迎えると、現世の人間には会えなくなる。
 未練を残して亡くなると、来世に影響が残る。
 そして最後に、奥村蒼空は交通事故で亡くなったと、再度説明された。
 正直、何を言っているのか理解できなかった。いきなり非現実なことを並べられても「はい、分かりました」とはならない。彼女もそれを察したのか、「まあ信用できないよね。とりあえず地上に降りて現実を見て」と言い、扉の方へ歩き出した。
「地上ってなんですか?」
 彼女は足を止めたあと、長い黒髪を揺らしてこちらに振り向いた。
「ここは空の上にあるの。窓から下を覗いてみて。まあ、夜だから何も見えないだろうけど」
 言われた通り窓から下を覗くと、底の見えない暗闇が続いていた。
 浮いてると言うことなのだろうか? 余計に混乱してきて頭が痛くなる。
「少しだけ実感できたかな?」
 彼女は俺の隣に来て、そう言った。
「いえ、まだ自分が死んだなんて思ってないですし、さっき説明していたことも信じてないです」
「言い忘れてたけど、審査するのに二週間かかったから、あと四週間しかない。そしたら千星ちゃんて子にも会えなくなるし、未練も叶えられなくなる。それでもいいなら、ずっとここにいたらいい。でも消える前に会いたい人がいるなら、私に付いてきて」
 どのみち、ここから出ないといけない。付いていく以外の選択は無いように思えた。
「分かりました……」
「じゃあ行こうか」
 彼女は扉の方に再度向かったが、途中で足を止め振り返った。
「そうだ、名前言ってなかったよね。私は結衣。結衣ちゃんでもいいし、ゆっちゃんでもいいよ」

「うそ……」
 列車が空を飛んでいた。強い光が消えたあと、窓の外には星空が映し出され、下には海が広がっていた。
「すごいでしょ」
 目の前に座る結衣さんが言った。膝の上にはファイルがある。
「これ本当に飛んでるんですか?」
「飛んでるよ」
 ファイルを開き、中身に視線を落としながら答えた。
「何を見てるんですか?」
「このファイルの中に、蒼空くんの今までのことが書かれてるの。どこで生まれて、どう育って、どういう人間かってことが。小学生のときに陽一って子と仲良かったでしょ?」
「何で陽一を知ってるんですか?」
 思わず体が前に出た。陽一の名前が出て驚いたから。
「視察官っていう記録係がいるの。その人間が生まれてからの行動を記録して、死んだ後に私たちに報告する」
 結衣さんは、俺に見せるようにファイルを持ち上げた。
「俺のことをずっと見てた人がいるってことですか?」
 さっきまでなら、視察官がいるなんて聞かされても信じなかっただろう。でも空を飛ぶ列車に乗っていることで、本当に自分は死んでいるんじゃないかと思い始めてきていた。今は突拍子もないことを言われても、すべてが真実に聞こえる。
「そういうこと。でも一人で何人も担当してるから、全部の行動を記録できるわけでは無いんだけどね。同時期に亡くなった人がいた場合、調査書を渡されてそこから私たちが選ぶんだけど、案内人にも好みがあるからねー。どうせなら自分が良いと思う人にしたいじゃん」
「俺のことを見てたのってどんな人ですか?」
「規定で言えないけど、節目で担当が変わるから何人かいる。君の視察官は真面目な奴が多かったから、しっかりと書かれてるよ。小学生のときはちょっと贔屓目だけど」
「結衣さんはなんで俺のことを選んだんですか?」
「顔」
 即答で返ってきた。なんだか複雑な気持ちになる。
「まあそれはおまけみたいなもん。君の生きかたが好きだったから」
 結衣さんは優しい笑顔で言った。
「俺って、本当に死んだんですか?」
『そんなことないって思う自分』と『本当かもと思っている自分』の間で揺れていた。もし死んでいたら、千星とは……そう考えると、胸が痛くなる。
「もうすぐ地上に着くから、自分の目で確かめてみて」

 岬公園の展望広場に列車は降りた。月がどこか孤独に見える。
「良い場所だね。ここにするか」
 列車を降りたあと、星空を見上げながら結衣さんがそう零した。
「そうだ、先に説明しとくね。自分たちは俗に言う霊体みたいなものだから姿は見えない。それと行く場所は私が指定する。ここに来たのは、君に死んだという事実を確認させるため。色んな所に行って未練が増えたら意味がないでしょ?」
「あの……陽一の所には行きますか?」
 今どうなっているのかが知りたかった。あれから七年経つが、陽一のことは忘れたことがない。
「行くのは蒼空くんの家と千星ちゃんの所だけ。全部の未練を叶えるのは難しいの。だから蒼空くんの中で、大きい未練を一番に取り除く。基本は家族だけなんだけど、亡くなった時の状況からして、千星ちゃんには会った方がいいと思った。私の判断でそう決めたの」
「……分かりました」
「じゃあ蒼空くんの家から行こうか」
 
 家の前で列車は止まった。この列車も周りの人には見えないらしい。
 先に結衣さんが降りると、門扉をすり抜け玄関の前まで行った。
「すり抜けられるんですか?」
「さっきも言ったけど、霊体みたいなものだから。蒼空くんも早く来て」
 列車から降りて突っ切ると、体が門扉をすり抜けた。
「じゃあ中に入ろう」
 玄関の扉を抜けると、たたきに靴が3足並べられていた。
 一つは父の革靴。その隣には母が良く履いていたサンダル。そしてもう一つは、美月が履いていた白い綺麗なスニーカー。
 小学校から履いていたスニーカーで学校に通っていたが、靴底が剥がれたため夏頃に新しいものを買ってもらっていた。まだほとんど汚れていないのを見ると、悲しい気持ちが溢れてくる。
 結衣さんは正面の扉を抜けていった。そこはリビングだ。すりガラスから明かりが漏れている。
 後に続きリビングに入ると、ダイニングに着く母とソファに座る父がいた。二人の表情はどこか沈んでいる。
「ねえ」
 二人に声をかけた。だが、まったく反応はない。
「ねえ」
 再度かけたが、反応はない。
「蒼空くん」
 結衣さんはサイドボードの上を指で差しており、そこには仏壇が置いてあった。
「見て」
「見たくないです……」
「ダメ、見て」
「嫌です」
「蒼空くんは死んだ。それを受け止めさせるために、ここに来たの」
「俺はまだ死んで……」
 ここまでくれば分かっていた。体がすり抜けることで確証を得たし、声が届かないことで理解した。でも信じたくはなかった。
 まだ十七歳だ。やりたいことはたくさんある。死んだことを受け入れるには、時間が足りなすぎる。どこかで嘘だと思いたかった。どこかでまだ期待していた。
 だけどもう、自分が生きているという理由を見つけることができなかった。
 いつの間にか涙が溢れていた。その涙を生きている理由にしたかったが、「死んでも泣くことはできるの」という結衣さんの言葉で、薄く差し込んだ光は遮断された。
「本当に死んだんですね……俺」
「君は死んだ。それは間違いない」
 ただ事実を述べるニュースキャスターのように、その言葉に温情はなかった。
「美月の部屋に行っていいですか?」
「うん」
 涙を拭い、美月の部屋に行った。
「妹ちゃん、学校に行ってないみたいだね」
「はい」
 美月はベッドのヘッドボードにもたれながら、俺があげた絵具を手に持って眺めていた。その目には哀愁が纏っている。
「美月が学校に行ってない理由とかは分からないんですか?」
「それは知らない。基本的には死んだ人間の調査書しか見れないから。学校に行っていないということが書かれていても、理由までは分からない」
「そうですか……」
 せめて理由だけでもと思ったが、期待は早々に散っていった。
「そろそろ千星ちゃんの家に行こうか」
「もうですか?」
「ここに来たのは、死んだということを自覚させるため。懐かしむ為ではないから」
「分かりました」
 最後にもう一度リビングに寄らせてもらい、両親に「今までありがとう」と言葉を残して家を出た。

「重症だね、これは」
 カーテンが閉め切られた真っ暗な部屋で、俺と結衣さんはベッドで泣き沈む千星の姿を見下ろしていた。
 家族に聞かれないようにしているのか、腕で口を塞ぎながら、漏れる声を抑えている。
 時折、「蒼空ごめん……」という声が耳に届き、何とも言えない気持ちになった。
「自分のせいで蒼空くんが亡くなったと思ってるのかも。だとしたら結構引きずるかもね」
 自分を責めなくていい。俺が死んだのは千星のせいじゃないから。
「じゃあ流星の駅に戻って、呼ぶ人を決めよう」
「もう決まってます」
 美月と迷っていたが、この姿を見て決断した。
「誰?」
「千星を呼んで下さい」
 結衣さんは千星に視線を移し「この子で本当に大丈夫? 余計に辛くなるかもよ」と言った。
「千星には変わってもらいます。ずっとこのままではいられないから」
「分かった。じゃあ私の手を握って」
 と言って、左手を差し出してきた。
「何をするんですか?」
「案内人はね、記憶を消すことと、記憶を呼び起こすことが許可されてるの。まあ制限はあるんだけどね。これからすることは呼び起こす方。特定の記憶を彼女の頭にセットして、明日のこの時間にその記憶が呼び起こされるようにする。そうすると、その記憶の場所に彼女は行くって仕組み」
「これは?」
 結衣さんの左手を見ながら言った。
「特定の記憶をセットするって言ったでしょ? 蒼空くんがその記憶を決めるの。決めるって言っても、場所は私が指定する。急に私が家に来ても、怪しんで列車に乗らないでしょ? だから空から降りて来るところを見せる。そうすれば信じてもらいやすいから」
 確かにそうだ。最初は信じられないが、空飛ぶ列車を見たら信憑性は増す。
「場所ってどこですか?」
「さっきの公園。海が見える所」
「岬公園ですね」
「二人で行ったことはあるでしょ? 審査書に書いてあったし」
「あります」
 千星の好きな場所だ。そして俺も。
「何度か行ってると思うけど、その中の一つを頭に思い浮かべて」
――自分と向き合って生きることが大事だと思うんだ。
 岬公園で俺が千星に言った言葉だ。二人で行ったのは、あれが最後になった。
 俺はもう、そばにいることはできない。これからは一人で外の世界を歩いていかなければならない。だから前を向いてほしい。そういう想い込めて、このときの記憶に決めた。
「決まったら、私の手を握って」
 左手を握ると結衣さんは目を瞑った。
 程なくして目を開き「今の千星ちゃんにはぴったりかもね」と言った。
 俺が選んだ記憶が、結衣さんの頭の中に流れたのかもしれない。
「じゃあ千星ちゃんに、この記憶をセットするね」
 結衣さんは千星の頭の上に左手を置いた。
「触れるんですか?」
「私だけね。でも相手は気づかないけど」
 言った通り、千星はずっと泣いたままだ。
 十秒ほどして手を離すと「これでOK」とウインクしてきた。
「じゃあ流星の駅に帰ろう」
 最後に千星の頭を撫でようとしたが、手がすり抜け触れることは叶わなかった。
 再び列車に乗って、流星の駅に向かった。
 窓の外を見ると、街がどんどん小さくなっていく。もし千星がこれを見たら、シルバニアファミリーみたいと言うだろう。
「あの……」
「ん?」
 目の前に座る結衣さんは、眠たそうな顔でこちらを見てきた。
「来るのは明日なんですよね?」
「そうだよ」
「できれば、会うのは一週間に一度にしてほしいんですけど」
 結衣さんは微睡んでいた目を見開いて、驚いた顔をしている。
「別にいいけど、何で?」
「千星はずっと人を避けてきたから友達は俺しかいません。でもこれからは一人で歩まないといけない。だから自分の力で立ち直ってほしいんです。誰かに頼らなくても大丈夫だって思ってほしい。俺の未練は……千星を変えられないまま死んでしまったことです」
 本当は毎日会いたいが、それでは俺が満足するだけで終わってしまう。今一番大切なのは、千星が自分で自分を支えられるようになることだ。
 千星には人を変える力がある。もしそれを実感できたら、自分に自信が付くのではないかと思った。
 その先で道を見つけられたら、
 世界との結び目を見つけられたら、
 孤独な星は星座に変わる。
「分かった」
「ありがとうございます。でも初めに俺から伝えさせて下さい。その方が千星も納得しやすいだろうから」
「うん」
 結衣さんは微笑みながら頷いた。

「ごめん、蒼空。私のせいで……」
「千星のせいじゃないよ」
 千星は泣きながら俺の胸に飛び込んできた。とても愛おしく、とても切ないハグだった。
 その後、ルールを説明した。一週間に一度と言うと、千星は寂しそうな顔で小さく頷く。
 本当は毎日会いたかったが、喉元でその言葉を抑え、胸に下ろした。
「雪乃の恋を叶えてほしい」
 そう言うと、千星は愕然としていた。
 それもそうだ。学校では俺以外の人と滅多に話すことはないし、千星にとって他人と関わることは非常に難関なことだ。
 でも雪乃と友達になってほしかった。
 色んな人を見てきた結果、雪乃なら千星を受け入れてくれると思った。
 そして何より信頼できる。初めの一人で躓いてしまったら、もっと深い孤独の底に落ちてしまう可能性がある。そしたら二度、外の世界で笑えなくなる。
 だからこそ慎重に人を見てきた。
 もし友達になれることができたら、自信を取り戻し、自分らしく振る舞うことができる。そうなることを願っていた。
 『恋を叶えてほしい』と言ったのは雪乃のためでもある。
 完璧な人間が恋に悩んでいても、
「雪乃なら大丈夫だよ」
 と言われるだけで、何の解決にもならない。
 でも千星なら真剣に向き合い、別の角度から一緒に悩んでくれるはずだ。
 雪乃に必要なのは、寄り添ってくれる人であり、理解してくれる人だと思う。
 友達になるにしても、雪乃だけに頼ってはいけない。千星も踏み出さなければ、本当の意味で友達になることはできない。
 そいういことも含めて『恋を叶えてほしい』とお願いした。
 
 千星は一週間で雪乃の背中を押し、しかも友達になった。
 正直、こんなに早くできると思っていなかったので驚いた。
 でも一番嬉しかったのは、雪乃との出来事を楽しそうに話していることだった。
 俺と千星の会話で他人の名前が出ることは滅多にない。むしろ避けてきたことだ。
 名前を出せば悲しそうな顔をするから、ある時から言わなくなった。
 だけど今は「雪乃がね……」と、千星の口から他人の名前が出る。
 感慨深くて泣きそうになったが、グッと堪えて話に耳を傾けた。
 聞き終えたあと、もう一つの未練を言った。
「花山翔吾と友達になってほしい」
 花山に陽一を重ね合わせていた。
 あのとき救えなかったことを今でも後悔している。だから手を差し伸べたかった。
――なあ、俺も人に優しくしていいのかな?
 花山はこんなことを言っていた。普通なら人に聞かないことだ。
 言葉から推測すると、人を避ける理由は自責からきてる可能性がある。
 それは中学時代のことかは分からないが、花山が三宅のような人間には見えなかった。
 だとしたら殴った理由を知りたい。そこに苦悩の種があるような気がする。
――俺みたいな奴でも、友達を作っていいのかな?
 花山はこんなことも言っていた。
 このときはまだ、どういう人間かは知らなかったが、みんなが思ような人ではないと思った。
 ちゃんと向き合って花山翔吾を知る必要がある。
 あの頃は陽一を救えなかったが、今の自分ならできる自信があった。
 だが、その想いは叶えられなかった。だからこの未練を千星に託した。
 
「千星ちゃん、一週間で成長したね」
 地上に千星を送ったあと、戻ってきた結衣さんが俺の隣に座って言った。
「自分も驚いてます。他人と関われなかった千星が、たった一週間で友達を作るなんて」
 小学生のときは友達がたくさんいたが、あの出来事で人を信用できなくなった。
 だから過去という足枷が無くなれば、周りと溶け込むことはできると思っていた。
 でもこんな早いとは思わなかったが。
 雪乃にも感謝しなければいけない。
「妹のことはいいの?」
「迷ってます。千星は美月と仲がいいので、言えば力になってくれると思うけど、今は外の世界との繋がりを優先しなければいけない。千星が自分で自分を支えられるようになるまでは、色んなものを背負わせたくないんです。それと、自分のせいで俺が死んだっていう自責の念は、まだ消えてないと思います。俺の両親と会うだけも、きっと辛いだろうから」
 美月のことを言えば、全力で救おうとしてくれるだろうけど、まだ不安定な時期だと思う。
 雪乃と友達になれたとはいえ、土台をしっかりさせないとすぐに崩れてしまう。
 そのためには学校生活を安定させる必要がある。
 順番を間違えれば、余計に苦しませてしまうような気がした。
「未練は人を成長させる。色んな人間を見てきて、そう思った。蒼空くんの言うことも間違ってないけど、千星ちゃんは自分で考えられる子だよ。そういう人間は背負ったものを糧にできる。一つの物事を色んな角度から見ようとするから。もちろん背負いすぎるのは良くないけど、信じてみてもいいんじゃないかな」
 時間が経てば経つほど、自分の力で立ち直ることは難しくなる。そしていつか、外の世界を嫌悪してしまう。美月にはそうなってほしくない。
 どこに向かっていいのか分からなくなっているとしたら、誰かの導きが必要になる。千星なら……
「結衣さんはいつでも地上に降りられるんですか?」
「うん、降りられるよ」
「明日にでも、妹のこと伝えられたりしますか?」
「できるよ」
「お願いします。でも無理はしなくていいとお伝えください」
「分かった」

 千星はまたしても、誰にも打ち明けられなかった苦悩を花山から引き出した。
 雪乃と友達になれたことが自信に繋がったのか、自ら人と関わりに行けるようになっている。
 少しずつだが、地上の星は線を描き始めていた。
 そして美月にも会いに行ってくれたようだ。
 今の千星なら状況を変えられる。そう思わせるほど、この短期間で成長した。
 できればその過程をそばで見ていたかった。
 千星が前に進んでいく姿を、隣で見守っていたかった。
 一週間の出来事を話す千星を見ていると、嬉しさと切なさが胸の中で混ざり合った。
 
 千星を地上に送り、結衣さんが戻ってきた。
「次で最後だね」
「はい」
 そう答えたあと、お互いベンチに座った。
「蒼空くんは千星ちゃんのこと好きなの?」
 唐突な質問に顔が火照る。
「……はい」
 少し時間を置いてから答えた。誰にも言ったことのない気持ちだったため、喉で閊える。
「伝えるの?」
「ずっと考えてたんですけど、言わないと決めました。最後は笑ってお別れをしたいんです。俺の片想いだから、きっと気まずくなる」
「本当にいいの?」
「仲の良い幼馴染で終わらせます。そっちの方が千星も良いだろうから」
 本当は伝えたいが、いつもの二人で終わらせたかった。最後に見る景色は千星の笑顔がいい。
「千星ちゃんのどこを好きになったの?」
「この人がいるから辛いことでも頑張れる。それは好きになったからではなく、好きになる前からそう思えた。だからですかね」
 もし千星がいなかったら、今の自分はいない。
 ずっと陽一のことを悔やみ続け、自分を嫌悪しながら生きていたと思う。
 人の世界を変えられる人はほとんどいない。でも千星はそれができる人だった。
 周りからしたら、夜に紛れる小さな星かもしれない。でも俺にとっては、夜空を美しく変えるたった一つの星だった。
「『好きだから頑張れる』と『頑張れるから好きになった』では確かに違うね。うん、素敵な理由だ」
 結衣さんは穏やかな笑顔でそう言ってくれた。
「恋をしたいから好きになったわけではなく、千星だったから好きになりました。そんな人に会えたこと、そして好きになれたことが、俺の短い人生で誇れることです」
「君みたいな人がいるから、私は案内人という仕事を選んだ。良かったよ、蒼空くんを選んで」
「案内人と視察官以外にもあるんですか?」
「このあと関わるので言えば、裁司《さいし》かな」
「裁司?」
「君たちの言う天国と地獄ってあるでしょ? それと似た場所があるの。来世に行くまでの間はそこで過ごすんだけど、どちらに振り分けるかは裁司が決める。何人かの裁司がそれぞれの視点から議論して、最終的に一番偉い司長《しちょう》が判断するの。ざっくり言うとこんな感じかな。千星ちゃんとお別れした後に裁司の見習いの人が迎えに来るから、その人に付いていってね」
 本来なら信じられないことだが、今までのことを振り返ると「そうなんですね」という言葉が簡単に出てしまう。
「俺はどっちですかね?」
「私はあくまで案内人だから、期待させるようなことは言わないようにしてる。私の役割はなるべく来世に未練を残さないようにすること。それだけを全うする」
 陽一のことがあるから、もしかしたら地獄かもしれない。そうなったとしても受け止めようと思った。親友を救えなかった償いなら、俺はいくらでも受ける。

 窓に映る無数の星々に見守られながら、千星との最後時間を過ごしていた。
「星、綺麗だね」
「綺麗だね」
 一緒にいられる時間も僅かとなり、五年間の物語にエンドロールがかかり始める。
「星と空だね」
 あの日と同じ言葉を告げた。
 そして千星も「星と空だね」と、あの日と同じように返してきた。
 小学生の時に千星に憧れていたことを話した。
 今まで言えなかった言葉を、思い出の中から紡いでいく。
「千星の居場所になれていたと思うと嬉しかった。今の俺がいるのは千星のおかげだから。遅いかもしれないけど、変えてくれてありがとう。友達になれて良かった」
 友達……自分で言っときながら悲しくなった。好きというニ文字を抱えながら、枯れることない想いが胸に咲く。
 何よりも美しく、何よりも切ないこの一輪を、俺は渡さないと決めた。好きな人の笑顔で最後を飾りたいから。
「……こんなどうしようもない人間だけど、一つだけ誇れることがあるの。それはね、奥村蒼空という人を好きになれたこと」
 真剣な眼差しで千星が言った。
 空飛ぶ列車や、霊体のようになる自分。信じられない出来事をいくつか経験したが『奥村蒼空という人を好きになれたこと』、この一言が一番信じられなかった。
 思わず涙が零れそうになったが何とか堪える。最後まで千星の目を見て、話を聞きたかったから。
「……迷惑かもしれないけど、これが私の気持ち。蒼空のことが大好きです」
 迷惑じゃない。俺も千星のことが好きだから。
 でも自分の想いは伝えられない。
 『好き』と言ってしまったら、千星はこの先ずっと引きずってしまうかもしれない。せっかく過去の足枷を外すことができたのに、再び立ち止まらせることをしてはいけない。
 俺が足を引っ張り、これから歩んでいく道の障害になりたくなかった。
 何か言葉を返したかったが、口を開けば想いを伝えてしまいそうだった。
 ずっと言えなかった二文字の言葉を、奥歯を噛み締めて喉元で抑えた。
「いやー、緊張するね告白って。手汗がすごいや。たった二文字言うだけなのに、MP全部消費したよ……そうだ覚えてる? 小学生のときに二人でRPGやっててさ、私が勇者の名前を『三代目よしぞう』にしようって言ったら、蒼空がよしぞうって誰だよってツッコミいれたけど、普通は『初代と二代目いるのかよ』だからね。そのツッコミだと……どんな名前でもそうなるから……だから……あれは間違って……」
 泣くなよ、バカ。
 最後は笑ってさよならを言いたいのに……そんな顔されたら、俺も泣くだろ。
「るからね……そんなんじゃ、女の子にモテないから……私くらいだよ……そんなツッコミで許して……許してあげれるのは……こんないい女、他に……他にいないんだから……」
 千星の涙が大粒に変わったとき、自然と体を抱きしめていた。
 ずっと好きだった人の体温が胸の中で重なり合う。そして少しだけ優しい香りがした。
「……今日が最後になるけど、明日からも笑っていてほしい。千星には笑顔が似合うから」
 俺が話し始めると、啜り泣く声は止んだ。
「千星」
「何?」
「もうそばにいることはできないけど、今の千星なら俺がいなくても大丈夫だと思う。これからは自信を持って生きてほしい。変わってるところもあるけど、でもそれが千星の良さだし、自分らしくいれば笑っていられるから。過去を振り返るときは、後悔ではなく一歩進むために。それも覚えといて」
「私、変わってないもん」
「変わってるよ。でもそれがいいところだから。千星が千星でいるときが一番輝いてる」
「うん」
 たとえ変な人と言われても、それは千星の良いところを知らない奴の言葉だ。
「いつか誰かと恋をして、幸せに生きてほしい。今日という日を思い出にするなら涙ではなく笑顔で。もう過去に縛られなくていい、大切のものはこれから進んでいく道に落ちてるから。だから泣かないで。これは悲しい別れではなく、千星にとっては始まりだから」
 千星は思いっきり鼻を啜った。その音が可笑しくて、つい笑ってしまった。
 でもこの空気感がいつもらしい。
「千星がいてくれてよかった。本当に楽しかったし、たくさん思い出をもらった。これでお別れだけど、元気でね。それと……」
――俺も好きだよ
「好きになってくれてありがとう」
「バカ、せっかく涙が止んだのに、また出てくるだろう」
 抱き寄せていた体を離して千星の顔を見ると、目から涙が零れていた。
「まだ泣いてるじゃん」
 そう言って、涙を拭った。
「私も一緒にいれて楽しかった。蒼空があのときいてくれたから、生きる意味を見つけられた。本当に会えて良かった。それと……好きという気持ちを教えてくれてありがとう」
 その言葉が合図になったように、部屋の扉が開いて結衣さんが入ってきた。
「もう大丈夫?」
 結衣さんに聞かれ「はい」と声を重ねて言う。
「じゃあ千星ちゃん、行こうか」
 最後は笑顔で、何度も頭の中で復唱してから千星の顔を見た。
「もう行くね」
「うん」
「……さよなら」
「さよなら」
 俺も千星も笑って別れを告げた。
 だが千星が背中を向けたとき、今まで我慢していたものが目から溢れてきた。
『またね』本当はそう言いたかった。
 また笑って隣を歩きたかった。
 下らない会話で日常を灯したかった。
 でも『さよなら』でなければいけない。
 千星がこれから進む先に、奥村蒼空はいないのだから。
 最後にもう一度顔を見たかったが、千星は振り向かずに部屋を出て行った。
 でもそれで良かったと思う。
 名残惜しく過去を振り返っても、未来の隔たりになるだけだ。
 それと、二人の終わりには笑顔が相応しい。

 千星と別れてから数時間ほど経ち、夜に瞬く星を眺めていた。
 後ろから足音が聞こえてきたので、結衣さんが戻ってきたのかと思い振り向くと、そこには同い年くらいの男が立っていた。
 星の明かりに照らされた男は、あの頃の面影を残したままだった。
「久しぶり」
「なんで……」
「今は裁司の見習いをやってる」
「俺の視察官って……」
「途中で外されたけど、小学生のときは俺が担当だった。視察官は対象に感情移入しすぎてはいけないし、ましてや好きになってもいけない。基本的には何があっても俯瞰して見ないといけないんだけど、俺はそれが出来なかった。しかも俺の母親も、蒼空を好意的に見てた。まあ簡単に言えば規則を守れなかったってことだけど」
 視察官の子供は両親と地上で暮らし、そこで視察官の教育を受けながら、俺たちと同じように生活するとも説明された。
 子供の判断だけでは難しいため、家に友達を呼んで両親にも審査してもらうらしい。なぜ他人の家で遊びたがらなかったのかが今わかった。
「視察官としては三宅の行いに目をつぶらないといけなかった。でも耐えらなかったから母親に相談したんだ。そしたら、『自分は小学生の時にクラスの子がいじめられていたのを見過ごした。視察官としては正しい行いだったけど、今でもあのことを後悔してる。だからあなたのしたいようにすればいい。責任は私が取る』って言ってくれた。視察官としては失格だけど、母親としては最高だと思った」
「ごめん、あのとき俺が救ってあげられなかったから……」
「普通は自分のことで精一杯なのに、それでも蒼空は話しかけてくれた。それだけで十分救われたよ。それに悪いのは三宅だろ? お前は何一つ悪くない」
「うん……」
「そうだ、調査書見たよ。今日まで千星のことを守ってくれてありがとう。お前に託して正解だった」
 あの頃と変わらない笑顔で、そう言ってくれた。だけど……
「もう一つ謝らないといけないことがある。俺、千星のことを好きに……」
「それも謝ることじゃないだろ。ずっとそばにいたのはお前だし、千星だって蒼空のこと……」
 急に口を噤んだ。どうしたのかと思い問いかけると「ううん、何でもない」と首を横に振った。
「そういえば、結衣さんが褒めてたぞ。あの若さで立派なもんだって」
「そうなの?」
「あの人元々は視察官だったんだよ。だから客観的に人を見るんだけど、その上で褒めるってことは相当なもんだぞ」
「そっか。向こうに行く前に聞けて良かった」
「なあ、蒼空」
「何?」
「俺は規則違反を繰り返した。視察官としては失格だけど、まったく後悔はしてない。蒼空と千星に会えて良かった。お前らがいてくれたから、本当に楽しかった。ありがとう、友達になってくれて」
 枯れることのない言の葉が胸に落ちた。
 旧友の言葉は、人生の終わりに相応しいピリオドを打ってくれた。
「それは俺だよ。お前がいてくれたから……俺は……」
 あの頃の思い出が蘇り、涙で言葉が詰まった。
「泣くなよ、バカ」
「うん」
 顔を上げると、向こうも顔を崩して泣いていた。
「泣くなよ、バカ」
「うん」
 あの日の別れのように二人は泣いた。まるで子供のように。
 薄命の人生に降り積もったいくつもの日常を、俺はいつかは思い出せなくなる。
 だけど、残してきたものは消えることはない。
 『ただ生きる』ということが許されない世界で、
 『どう生きる』かを強いられながら人は命を削っていく。
 だからこそ何かに縋り、救いを求めるのだろう。
 だけど自分の中にある可能性を見失ってはいけない。
 たとえ小さな光だとしても、
 何も見えない闇の中を彷徨っていても、
 輝きを灯せるのは自分自身だ。
 そしてその光が道を照らし、
 星は世界と結ばれて星座に変わる。
「じゃあ、そろそろ行くか」
「ああ」
 しばらく二人で泣いたあと、肩を並べて扉に向かった。
「あの世で全員と友達になる」
「全員は無理だよ」
「やってもないのに出来ないって思うのは勿体無いぞ。大抵のことは自分次第で変えられるんだよ」
「そうだったな」
 あの日を思い出し、二人で笑い合った。