泡沫のような冬が終わり春が芽吹き始める。
 蒼空との別れから一ヶ月が過ぎ、心に空いた穴は未だ塞がっていなかった。まだどこかで生きてるのではないかと、幻想を追ってしまうことがある。
 こんなことを思っていたら蒼空は怒るだろう。
 だけどもう少しだけ思い出に浸らせてほしい。好きな人の言葉は特別だから。
 学校では少し変化があった。
 雪乃は求められる自分から卒業し、私や周りの友達に相談することが増えた。相談される相手は嬉しそうな顔をする。それは雪乃だからだろう。かく言う私も、その一人だ。
 花山は今もよく一人でいる。そっちの方が楽だと言っていた。
「藤沢や富田が知ってくれてるから、今は辛くない」と付け足して。
 でも相澤さんには中学の時のことを説明した方がいいと思った。
 花山に聞くと「どっちでもいい」と言ったので、空き教室に相澤さんを呼んで、花山が塩谷を殴った理由を説明した。
「どうしよう、みんなに花山くんが殴ったこと言っちゃった」
 自責の念からか、彼女は頭を抱えながら慌てふためいていた。
「花山は周りからの軽蔑の視線で理由を言えなかった。人って恐怖を感じると言葉が出せなくなるの。私も似たようなことがあったから分かる」
「謝ったほうがいいのかな?」
「相澤さんにこのことを言ったのは、知っとくべきだと思ったから。それ以上でも以下でもない。花山は誤解を解いてほしいとは言わなかった。むしろ言わなくていいと言った。ここからは憶測だけど、今もまだ怖いんだと思う。周りに信頼されていると思っていたのに、そのときは誰も間に入ろうする人がいなかった。塩谷の意見だけ鵜呑みにして、本人に直接理由を聞いてくる人もいない。だから人を寄せ付けないようにした。それなら、初めから期待しないで済むから。その場にいなかった私が偉そうに言えることではないけど、もし誰か一人でも花山を信じてくれる人がいたら、生きかたが変わってたのかもしれない」
 相澤さんは俯いたまま聞いている。
「言いたかったのはそれだけ。ごめんね、せっかくの昼休みに呼び出して」
 じゃあ、と言い残し教室から去ろうとしたときだった。
「私、謝ろうと思う。みんなに言うべきことではなかった。それでね、できれば藤沢さんにも付いて来てほしい。一人では怖くて……」
 今の花山の風貌なら、一人で行くのは怖いだろう。目を見られただけで、何も言えなくなるかもしれない。
「分かった。一緒に行こう」

 放課後、花山に事情を説明してから、一緒に校舎裏へ向かった。
 陸上部の掛け声が響く校庭を横切り、校舎の影が覆う殺風景な場所に相澤さんはいた。
 緊張しているのが遠目でも分かる。私がいなかったら告白する場面に見えるかもしれない。
「あのね、花山くん」
 私たちが目の前に来ると、相澤さんは視線を泳がせながら口を開いた。
「理由も知らずに、みんなに中学のときのこと言ってごめんなさい。それと、あのとき信じてあげられなくてごめん」
 肩まで伸びた髪が地面に着きそうなほど、彼女は頭を下げた。
 数秒の沈黙を置き「顔上げて」と花山が言うと、相澤さんはゆっくりと頭を上げ、恐る恐る花山の顔を見た。
「俺にも原因はあるし、その後もそういう態度をとってた。だから相澤が謝ることじゃない。もう忘れていいよ。それと、わざわざ謝ってくれてありがとう。その気持ちだけで救われる」
「でも、みんなに誤解させちゃったから……」
「相澤が言ってなくても、自分から周りを突き放してたから一緒だよ。俺は優しい自分に酔ってただけだった。それを大人になる前に知れたから、これでよかったと思ってる。成長するために必要なことだったんだよ」
 本当にごめんなさい、と相澤さんは頭を下げた。
 そのあと、「もういいから」という花山の声と「ごめんなさい」という謝罪のラリーが一分ほど続いた。
 相澤さんは先に帰り、私は花山と駅まで向かっていた。
「何度も言うけど、みんなの誤解解かなくていいの?」
「何度も言うけど、知ってくれてる奴がいればいいよ。自分の持ってる優しさは、そういう人たちに使いたい」
 花山の顔を見ると、どこか吹っ切れたような表情を浮かべていた。
「成長したな、花山」
「うるせえ、黙れ」
「女の子にハゲなんて言うな」
「ハゲなんて言ってねーだろ」
 桜の蕾を携えた並木道を、私たちは笑いながら歩いた。
 
 ある日の放課後、雪乃に誘われてショッピングモールにあるアパレルショップに来ていた。
 昼休みに洋服の話しになり、一緒に見に行こうとなったからだ。
「これどう思う?」
 雪乃がショート丈の白のパーカーを見ながら言った。
「木の上で首をかしげるシマエナガを見て喜んでいる孫娘を、微笑みながら遠くで見守っている祖父母くらい可愛い」
「表現が独特過ぎて分からない。もう少し短めで例えて」
「木の上で首をかしげる祖父母くらい可愛い」
「それホラーだよ。可愛いが見つからない」
「花山はどう思う?」
 私と雪乃の後ろで手持ち無沙汰でいる花山に聞いた。
 六限目の終わりに誘ったら、行くと言ったので一緒に来た。
「いいんじゃない」
 素っ気なく答える。
「何エナガくらい可愛い?」
 私がそう聞くと、花山は無視して視線を逸らした。
「おい、無視するな。交響曲第九番・第四楽章・歓喜の歌を熱唱するぞ」
「恥ずかしいからやめろ」
「じゃあ私が指揮やろうか?」
 雪乃がジェスチャーで指揮棒を振る。
「それなら私は観客をやるから、花山が歌って」
「観客いらないだろ。それでなんで俺が歌うんだよ」
 私と雪乃が笑うと、花山は照れくさそうにする。
 数ヶ月前なら考えられなかった。蒼空以外の人とこうして笑い合っていることが。
 今までは狭い円の中で生きていて、そこから世界を見ていた。境界線の外に踏み出すのを恐れ、先の見えない道に背を向けていた。
 大事なのは円を広げるということだ。その円は価値観や考え方が作るもので、自分と向き合うことがで広げることができる。そうすれば境界線を超えなくとも、見える景色は変わってゆく。
「千星、大丈夫?」
 雪乃が私の顔を覗き込み聞いてきた。
 目の前にある小さな幸せを噛み締めていたからか、たぶんぼーっとした顔になっていたのかもしれない。
「楽しいね」
「どうしたんだよ、急に」
「別に」
 この時間は大切なものにしたい。蒼空が残してくれた日常だから。
 それと二人には笑っていてほしい。私の大切な友達だから。

 二人と別れたあと、家の付近で美月ちゃんと会った。どうやら部活帰りらしい。
 あのあとから休まず学校に行っていると美里さんから聞いた。家に帰って来たらクラスのことや絵のこと、それと紗奈ちゃんの話を楽しそうにしてるみたいだ。その顔を想像すると思わず顔が綻ぶ。
「今日、紗奈にキャラクターの描き方を教わったの。今までそういう絵を描いてこなかったけど、これからは月以外も描いてみようと思ってるんだ」
「そうなの?」
「月だけが生きる絵じゃなくて、月を生かす絵を描いたほうがいいって紗奈に言われたの。だから色んな絵に触れて、技術の幅を伸ばそうかなって」
「月だけが生きる絵と月を生かす絵って何が違うの?」
 美月ちゃんは宙を見上げて思案したあと、閃いたように口を開いた。
「右のパンチが得意なボクサーがいるとするでしょ? でも右のパンチばっかり鍛えていても相手に対策される。だから左のパンチも練習することで、警戒するポイントが増える。だから右のパンチが当たりやすくなる。そんな感じ」
 いや、どんな感じか分からん。
 とりあえず頭の中で整理して、別の例えを出してみた。
「食材だけに目をやるのではなく、調理法にも目を向けて、もっと美味しくするってこと?」
「そう、そんな感じ」
 当てずっぽうで言ったら的を得ていたらしい。
「最初から教えてもらえばよかった。今の自分を褒めてほしいって気持ちが強すぎて、成長を奪ってた。紗奈は人物画も上手でしょ? だからあの絵に想像という奥行きが生まれた。そこが私と紗奈の差だったのかもしれない。瞬間ではなく心に残り続ける。私もそういう絵を描きたい」
 大人になるって言うのは、見た目や年齢ではなく考え方。蒼空がそう言っていた。
 今まさに、その階段を美月ちゃんは上っている。
 紗奈ちゃんと言う存在が境界線を広げ、新たに見つけた道で夢の解像度を上げた。
 壁にぶつかったとしても、それを糧にして世界を見ることができるだろう。
「描けるよ、美月ちゃんなら」
「うん。ありがとう」

 夜に描かれた星を、部屋のベランダから眺めていた。
 すると星影が灯す三月の空に流れ星が落ちる。
 私は願う代わりに「頑張って」と声をかけた。
 蒼空が亡くなってからの出来事は、長い人生において小さな一歩かもしれない。でもこの一歩が私の生きかたを変えた。
 過去という檻の中で世界を嫌悪してた頃より、今は少しだけ見える景色が変わった。
 臆病な星は雪に触れて人を知り、花を見て優しさ知り、月を見て夢を知った。
 夜を彷徨うだけでは知り得ない世界を空が教えてくれた。
 空が美しいのは周りを輝かせるからだと思う。いつか私もそうなりたい。大切な人が笑って過ごせて、いつでも泣ける場所に。
 一人よがりな星では夜を照らすことはできない。何かを求めるだけでは自分の世界に光は射さない。
 夜があるから星は輝き、星があるから夜は輝く。