週明けの月曜日、一週間で最も憂鬱な日がやってきた。週の始まりというのもあるが、今日は蒼空に会える最後の日だ。
私の中では蒼空は生きている。実際に会ってもいるし。でも明日からは本当にいなくなってしまうと考えると気分が重くなった。
この四週間、未練を叶えることに集中していたからか、蒼空がいなくなる想像ができない。みんなはもう現実を受け止めて、次に進んでいるのかもしれないが、私は今日という日が本当の別れになる。
世界には空が広がっていて、星はその中を彷徨い続けてきた。天気のような感情に一喜一憂しながら、縋るように生きてきたと思う。
太陽の光は自分の存在を薄めていく。そのたびに夜に輝きを求め、黒を奪っていく朝を嫌悪した。
これからは自分の力で光を灯さないといけない。だから蒼空は私を選び、未練という名の道を与えたんじゃないかと思っている。
でもやっぱり辛い。別れの言葉なんて言いたくないし、できるならずっと会いたい。今までみたいにくだらない冗談で笑い合っていたい。
結局、覚悟ができないまま夜を迎え、流星の駅に向かう列車に乗った。
四度目となる空飛ぶ列車だが、今日は感動がなかった。窓に映る星空も、幻想的な空間も、どこか絵空事に見える。
美しい景色よりも、蒼空と一緒に見るありふれた風景の方が、私には価値があると思った。
「最後だからね」
目の前で足を組んで座る結衣さんに、釘を刺すように言われた。もしかしたら表情に出ていたのかもしれない。
「本当に最後なんですか?」
「うん」
素っ気なく返された。結衣さからしたら何でもないことかもしれないが、私は大切な人との最後になる。もう少し温情がほしい。
「伝えたいことがあるならちゃんと伝えなよ。後悔しても、もう会えないからね」
――好き
このニ文字を言うか迷っていた。蒼空が好きなのはたぶん雪乃だから。
「さよなら」の代わりに「ごめん」と言われてしまったら、私はきっと立ち直れない。なら仲の良い幼馴染で終わりたいと思っていた。
「蒼空くんのこと好き?」
唐突に聞かれた。冷静な人は動揺しても隠せるのだろうが、私みたいな乙女は瞳がマーメイドになる。
翻訳すると、目が泳いでしまう。
たぶん結衣さんにもバレてるだろう。隠してもしょうがないと思ったので小さく口を開く。
「……好きです」
からかわれそうな気がしたので目線を落として言った。零した恋心を捏ねくり回されたくなかった。
「過去が未練に変わるのは、今を生きてないから。目の前にある新しい道を見ないで、後悔したものだけが美化されていく。今の千星ちゃんだったら、伝えても、伝えなくても、胸に抱えた想いはいずれ未練に変わる。どちらが正しいかは自分次第で、大事なのは、なぜその選択をしたのかという理由」
死んだ人は今を生きられない。だからこそ未練が強くなる。変えることはできないし、新しい道を選べないから。
今は『伝えない』という割合の方が大きい。その理由は傷つきたくないから。これでは前と一緒だ。逃げ出した自分から成長していない。
結衣さんは色んな人を見てきているから分かるのかもしれない。私の持っている想いがどう変わっていくのかを。
「過去は変えられない。だからこそ未練に変わりやすい。自分でコントロールできないものほど、人は執着して苦しんでゆく。特に恋っていう特別な感情はね。言う言わないは、千星ちゃんの好きにしたらいい。でもどんな結果が出ようと、今を生きることを忘れないで。変えられないものは糧にするしかない」
過去は強力な呪いになることを知っている。ずっと縛り付けられてきたから。
蒼空のことを過去にするつもりはないが、未来への隔たりにしてはいけない。それは蒼空が一番嫌がることだ。
「気持ちを伝えてみようと思います。もう一人でも歩いていけるよって、蒼空に知ってほしいから」
結衣さんは微笑んでくれた。この人は厳しい言葉をよく使うが、笑った顔は本当に優しい。
「好きって言ったことイジられるかと思いました」
雑談を重ねたあと、会話の隙間に言ってみた。
この言葉に意味はなかったが、結衣さんとも今日で最後だから空白を作るのが惜しかった。
陽気に返してくるんだろうなと思っていたが、結衣さんは真剣な顔つきで私を見た。
「いい女は人の恋を茶化さないんだよ」
それから姉さんと呼ぶようになった。
流星の駅に着き、蒼空が待っている部屋へと向かった。階段の一段一段に心臓が波打つ。
今日で最後だけど、いつも通りの二人でいたい。くだらない冗談を言って、何でもないことで笑いあって、そして好きと伝えてさよならを言いたい。
しんみりとしたお別れは後悔に変わりそうだから、楽しく過ごして蒼空を見送ろう。
そう思ったが、五年間の二人の思い出が頭の中を通り過ぎていくたび、涙が出そうになる。辛いことも楽しいことも、そのすべてが愛おしい。
このままでは涙腺が崩壊してしまいそうなので、思い出の中の蒼空の顔をゴリラに変えて耐え忍ぶことにした。
ゴリラと一緒に夕日を見ているところで、扉の前に着いた。危うくゴリラを好きになってしまいそうだったので、良いタイミングだった。
一度深呼吸する。息を吐きながら頭の中のゴリラに別れを告げ、涙腺に叱咤してから、ゆっくりと扉を開ける。
ガラス張りの部屋には星の明かりが差し込み、幻想的な空間を演出する。
シンデレラのように自分を着飾ることはできないが、この雰囲気だけで特別なものになれたような気がした。
「千星」
声の方に視線を移すと、蒼空がこちらに歩いてくるのが見えた。
この優しい笑顔を見るのが最後だと思うと泣きそうになる。でもここで涙を見せたら、いつものように話せなくなるので、太ももをつねって笑顔を作った。
肩を並べて、窓の前にあるベンチに向かう。
その間、お互いに何も話さなかった。蒼空も今日が最後だと意識しているのかもしれない。
――お前ピーマンみたいな顔してるな
これぐらいの挨拶をしてくれると流れを作れるのだが、そんな雰囲気でもなかった。仮にされたとしても、ぶん殴ってしまう。いくら何でもピーマンに失礼すぎる。
沈黙が緊張を産み落とすなか、二人でベンチに腰を下ろす。話すことはいくつもあるが、最後ということを意識しすぎて口が開かない。
だんだんと頭の中がゴリラとピーマンで溢れてきて、ピーゴリラーマンという造語を爆誕させた頃、蒼空が沈黙に言葉を添えた。
「無茶なお願いをしてごめん。千星が人と関われないと知りながら、俺のわがままに付き合わせた。一人で辛かったろ」
「ううん、そのおかげで自分を変えることができた。蒼空が私を選んでくれたおかげ。ありがとう」
短い会話だったが緊張がほぐれた。蒼空の声は安心できる。
「美月ちゃん、学校行ったよ。それと、また絵を描くって」
今日の昼休みに美里さんから連絡がきた。『美月が登校した。千星ありがとう』と。
『最終的には自分で選択したことだから、美月ちゃんを褒めてあげて。それが学校に行くモチベーションに変わるから』と返信した。
学校に行くのは当たり前かもしれないが、その当たり前を褒めてあげることも大事だと思う。人に何かを言われて決めるより、自分の意思で行動するほうが納得できると思う。
そのあと、美月ちゃんが絵をやめた理由や紗奈ちゃんのことなど、一連の流れを蒼空に説明した。
「あれだけ好きだったから、絵をやめてるなんて思ってなかった。なんで気づいてあげれなかったんだろう。もっと早く美月を救えたかもしれないのに」
蒼空は表情を曇らせて言った。
「紗奈ちゃんが必要だったから、今で良かったんだと思う。もしまた同じようなことがあっても、美月ちゃんはそれを糧に絵を描き続けられる。挫折した先の希望を見つけるには、違う視点を持つことが大事。二人にそう教わった。迷いは人は成長させるから、今回のことは大事な通過点だったんだよ」
私がそう言うと、蒼空は笑みを浮かべた。どこか嬉しそうに見える。
「千星、変わったね。見ないうちに大人になった」
「雪乃に化粧教わったから、それでかな」
今日のために雪乃に色々と聞いた。可愛いと思われたかったのでメイクには一時間かけ、洋服は昨日買ったオフホワイトのニットとレース生地のロングスカートを合わせた。
もちろん衣服にはファブリーズプレミアム・パステルフローラル&ブロッサムの香りをつけた。最近の女子高生はみなファブリーズを愛用している。私調べだ。私調べということは私だけにしかアンケートはとっていない。
「外見じゃなくて中身のほう。大人になるって、見た目とか年齢より考え方だと思う。この四週間で言葉が変わった」
色んな人に触れて世界が広がった。人との接し方、優しさの向け方、夢との向き合い方、それぞれが自分の考えの幅を広げたと思う。教室の片隅で嫉妬と嫌悪を抱いていた頃より、見える景色が鮮やかになった。思考という根で、言葉の咲きかたは変わる。表面だけ着飾っても美しい花は育たない。
「一人では何も変えられなかった。周りの人たちがいたから、外の世界や自分と向き合うことができた。そのきっかけを作ってくれたのは蒼空だよ」
ここに呼んでくれなかったら、今も私は部屋の中で閉じこもっていたと思う。蒼空が残した未練が私の道標になった。
「きっかけだけでは始まらないよ。一歩踏み出すことを選んだのは千星だし、それがあったから雪乃も花山も美月も変わることができた。千星が頑張ったから、周りも自分も変われたんだよ」
「でも運がよかったのもある。雪乃から話しかけてくれなかったらどうなってたか分からないし、蓮夜くんがいなかったら花山と話せなかったと思う。紗奈ちゃんがいたから、美月ちゃんはまた絵を描くことを選べた。私一人では何もできなかった」
今振り返ると、少しでも道が違えば同じ結果にはなっていなかったのかもしれない。偶然が重なって生まれた変化だった気がする。
「運が良かった部分もあるかもしれない。でも待っているだけでは何も起こらなかったと思う。行動がなければ偶然も生まれない」
今までの私は種を植えていない花壇を眺めながら、咲いてほしいと願っているだけだった。
過去の傷が足枷となって、外の世界に踏み出すことを躊躇するようになった。
それがダメなことだとは今も思ってないが、傷を痛みだけで終わらせてしまえば、未来にある可能性まで捨ててしまうことになる。それを伝えたくて、私を呼んだのかもしれない。
「蒼空が私を選んだのは、一人でも歩いていけるようになるためでしょ? 本当は他に会いたかった人もいたと思う。ごめんね、最後まで気を遣わせちゃって。それと、ありがとう。私の背中を押してくれて」
「べ、別に千星のためじゃないから。俺の未練を叶えてほしいだけだったから。だから、そういうわけじゃないから」
蒼空は照れくさそうにしながら、下手くそなツンをかましてきた。
「私のツンを盗るな。逮捕するぞ」
「ツンって何?」
「ツンデレのツン」
「ツンだけ言われても分からないから」
「義務教育で習っただろ。開国したときにツンとデレがお忍びで来日したのを覚えてないのか」
「ツンデレって伝来してきたの?」
「鉄砲の中に入ってたらしい」
「伝来に引っ張られてるじゃん」
「べ、別に引っ張られてないんだからね、蒼空が伝来って言ったから鉄砲って単語を出したわけじゃないんだからね」
「最早ツンなのかも分からない」
最後の会話がこれでいいのか分からなかったが、いつもの二人でいられると思うと楽しかった。
意味のない言葉たちは、やがて思い出に変わって意味を持つようになる。だから今は何も考えず、この瞬間を大切にしよう。過去を振り返ったとき、私は笑っていたい。
「そうだ、美月ちゃんの絵、撮ってきたよ」
スマホを取り出して、海の上空に浮かぶ月の絵を蒼空に見せた。
「上手い、やっぱり続けるべきだよ」
慈しむような目で絵を見ながら、表情を満悦で染める。その顔を見て私まで嬉しくなった。
「美月ちゃんと紗奈ちゃんを見てて、私も何か目指してれば良かったって思った。人生の支えになるようなものを」
「今からでも遅くはないんじゃない」
「今から? うーん……何がいいと思う?」
蒼空は視線を宙に向けて思案している。
「何に就くかじゃなく、どう生きたいかを決めてみたら」
「どういうこと?」
「たとえばだけど、人の役に立つ仕事をしたいと思ったらいくつか選択肢が生まれるでしょ? でも軸がなければどこに向かっていいか分からなくなるし、したいことが見つかりにくくなる。仮に車を製造する仕事に就いたとする。何となくすごい車を作りたいと思ってる人と、人の役に立つ車を作りたいと思っている人では発想が変わるし、自分の視点を持つことができる。だからまずは軸を探したらいいんじゃないかな。それがいつか道に変わるよ」
軸はまだ持ってない。今は先の見えない森の中をただ歩いているだけなのかもしれない。要はコンパスを持てということなのだろう。
「なんのために生きるか……幼稚園の頃はブロッコリーおばさんになりたいと思ってたけど、そこに軸はないしな……」
「何その仕事?」
「私が三歳のときに作った仕事。ひたすらブロッコリーを体に浴びるの。そうだ、ブロッコリーの役に立つ仕事をするってのもいいかも」
「千星はまだ軸を作らなくていい。今は模索の時期にしよう」
「なんか緑の軸が見えてきた。ありがとう蒼空、生きる目的ができるかも」
「頭の中にあるブロッコリーを一回冷蔵庫に戻せ。ブロッコリーのために生きることも素晴らしい人生だけど、ブロッコリーに身を捧げるのはもう少し考えてからにしろ」
「確定申告のときにブロッコリーを書く欄てあるのかな」
「ねーよ」
「何でだよ」
「誰も書かないからだよ」
「書けよ」
「書けねーよ」
「ブロッコリーの想いを汲み取れよ」
「汲み取れねーよ」
蒼空と目が合うと、二人で笑った。最後の会話なのにブロッコリーの話をするなんてバカらしい。でも変わらない日常がそこにはあった。この先もずっと続いていくような、思い出の中でも笑えるような、そんないつものくだらない会話が。
「楽しいね」
私がそういうと、蒼空は優しく微笑んで、
「そうだね」
と言ってくれた。
その言葉で、またあなたを好きになる。
そのあとも何でもない話を続けた。
美里さんが大事にとっていたクッキーをこっそり食べて二人で怒られたこと。中学の卒業式で蒼空の第二ボタンを無理やり奪い、女の子たちの争奪戦を止めたこと。部屋で一緒にゲームをしているときに、負け続けた私が怒って拗ねたこと。数え上げたらキリがない思い出たちを、味がなくなるまで笑いあった。
時間の流れというのは想いと反比例する。退屈なときほどゆっくりと進むのに、幸福を抱くと光の如く過ぎてゆく。本来なら逆にすべきだ。苦しいことはすぐに消えてしまえばいいし、楽しいことは永遠に続けばいい。流れ星が刹那で消えるのは、幸せを祈るからかもしれない。
懐中時計をポケットから取り出して確認すると、残り五分となっていた。
お互い、終わりが近いと意識し始めたのか、澱みなく続いていた会話に沈黙が挟まっていた。
あと少しでお別れをしなければならないと思うと、先ほどまで咲いていた笑顔はいつの間にか萎れていた。
まだ自分の気持ちも伝えてない。でもこんな顔で好きなんて言いたくないし、悲しいさよならではなく、笑ってさよならをしたい。
物語のエンドロールは、涙ではなく笑顔がいい。
私が感情を落ち着かせていると、蒼空が沈黙に言葉を挿した。
「星、綺麗だね」
窓の外を見ると星屑が夜を染めていた。これが二人で見る最後の景色となる。
「綺麗だね」
そう返すと蒼空は「星と空だね」と言った。
世界から切り離されそうになったとき、蒼空が私を救ってくれた。あの日と同じ言葉が私の鼓膜を優しく撫でる。
「星と空だね」
私も倣ってそう言った。
「小学生のとき千星に憧れてた。俺もこうなれたらって」
「私に?」
「うん。あの頃はずっと三宅が怖かったんだ」
小学六年のあの日から、ずっと過去に縛られてきた。三宅は私が人を嫌いになる原因を作った奴だ。よく暴言を吐いたり手を上げてたりしていた。
「体が大きくて力も強かっただろ? いじめられている子がいても、恐怖で何もできなかった。そんな自分が嫌いだったし、友達を作る資格もないと思ってた。俺も他の子らも自分を守ることで必死だったのに、千星だけが三宅に立ち向かっていった。その姿を見て、誰かを守れる人になろうって決めたんだ。覚悟を持つまで、だいぶ時間はかかったけど」
前に蒼空は私に変えられたと言っていたが、どうりで覚えていないはずだ。私と話すようになる前なら気づけない。
「千星の居場所になれていたと思うと嬉しかった。今の俺がいるのは千星のおかげだから。遅いかもしれないけど、変えてくれてありがとう。友達になれて良かった」
友達……その言葉が胸に刺さる。この期に及んで、期待していたのかもしれない。蒼空も私と同じ気持ちを持っているかもと。
徒恋に降る切なさが涙に変わりそうだった。それでも散りゆく想いをかき集め、言葉にして伝えないといけない。
落としたものを眺めるだけでは、この先の道で花は咲かない。
「あの日、手を差し伸べてくれたから一人にならずにすんだ。蒼空がいなかったら今も人を嫌いなままだった。私を救ってくれて、私を変えてくれてありがとう。でもね、友達じゃなければって思うことがたくさんあった。蒼空が女の子と話してると嫉妬したし、その子を嫌いになりそうになったこともある。自分以外の人間が消えて、二人だけになれたらって何度も考えた。こんなどうしようもない人間だけど、一つだけ誇れることがあるの。それはね、奥村蒼空という人を好きになれたこと」
蒼空は何かを堪えるような顔で私の目を見ている。今ままでだったら恥ずかしくて視線を逸らしていたが、それだと真っ直ぐに想いが伝わらないような気がした。だから今日は俯かない。たとえ神様が下を向けと言っても。
「泣きたくなることもあったし、苦しくなることもあった。でも好きになったことを後悔した日は一度もない。恋をするために好きになったんじゃなく、蒼空という人に恋をしたから、辛いことがあっても好きで居続けられた。迷惑かもしれないけど、これが私の気持ち。蒼空のことが大好きです」
初恋という花をくれたあなたに、想いを摘んだ言葉の花束を渡す。美しくはないけれど、心の片隅にでもいいから飾ってほしい。
蒼空は口を閉ざしたままだった。それが答えだということは明白だったが、逃げずに伝えた私を褒めてあげたい。そうしないと泣いてしまうから。
「いやー、緊張するね告白って。手汗がすごいや。たった二文字言うだけなのに、MP消費全部したよ。今魔王が現れたら、即キルされるわ。来たら媚び売って仲間にしてもらおう。きっといいところ住んでるだろうな。あいつら無職のくせにお城持ってるんだよ。ずるい……よね」
明るさで誤魔化そうとしたが、涙が込み上げてきた。話すのをやめたら絶対に泣く。今日は笑顔でさよならを言いたい。
「そうだ、覚えてる? 小学生のときに二人でRPGやっててさ、私が勇者の名前を『三代目よしぞう』にしようって言ったら、蒼空がよしぞうって誰だよってツッコミいれたけど、普通は『初代と二代目いるのかよ』だからね。そのツッコミだと……どんな名前でもそうなるから……だから……あれは間違って……」
泣くなよ。もうお別れを言わないといけないのに、笑って見送らないといけないのに、なんでこんなときに泣くんだよ。
「るからね……そんなんじゃ、女の子にモテないから……私くらいだよ……そんなツッコミで許して……許してあげれるのは……こんないい女、他に……他にいないんだから……」
涙が小雨から本降りに変わったとき、蒼空が私を抱き寄せた。
「千星、一緒にいれて楽しかった。くだらない冗談を言い合ったり、何でもないことで笑いあったり、そんな何気ない日常が本当に好きだった。思い出の一つ一つに名前を付けたいと思えるほど、大切な時間を過ごすことができて嬉しかった。今日が最後になるけど、明日からも笑っていてほしい。千星には笑顔が似合うから」
涙を堪えながら、一つ一つの言葉を頭に入れた。今日という日が思い出に変わったとき、一秒も忘れていたくなかったから。
「これからは自信を持って生きてほしい。前にも言ったけど、千星には人を変える力がある。そのことを忘れないで」
「うん」
「忘れたら化けて出るから」
「じゃあ忘れる」
「いいの? 写真撮るたび俺が写るけど」
「お化けは嫌いだけど、好きな人なら嬉しい」
わがままを言いたい、優しく甘やかしてもらいたい、幸せに溺れながらこの腕の中で眠ってしまいたい。本音を言えば、欲望を満たしてずっとこうしていたい。
「千星」
「何?」
「もうそばにいることはできないけど、今の千星なら俺がいなくても大丈夫だと思う。これからは自信を持って生きてほしい。変わってるところもあるけど、でもそれが千星の良さだし、自分らしくいれば笑っていられるから。過去を振り返るときは、後悔ではなく一歩進むために。それも覚えといて」
「私、変わってないもん」
声を潤ませながらで精一杯返す。
「変わってるよ。でもそれがいいところだから。千星が千星でいるときが一番輝いてる」
「うん」
「いつか誰かと恋をして、幸せに生きてほしい。今日という日を思い出にするなら涙ではなく笑顔で。もう過去に縛られなくていい、大切のものはこれから進んでいく道に落ちてるから。だから泣かないで。これは悲しい別れではなく、千星にとっては始まりだから」
涙を止めるため、思いっきり鼻を啜った。その音が可笑しかったのか、蒼空の笑い声が耳に入った。
「千星がいてくれてよかった。本当に楽しかったし、たくさん思い出をもらった。これでお別れだけど、元気でね。それと……好きになってくれてありがとう」
「バカ、せっかく涙が止んだのに、また出てくるだろう」
実際はまだ泣いていた。梅雨のような涙腺が頬を何度も濡らし、床に涙の跡を残していた。
歯を食いしばりながら止めようとしていると、抱き寄せられていた体が蒼空から離れる。
「まだ泣いてるじゃん」
そう言いながら優しく涙を拭ってくれた。微笑んだ顔が視界に映る。
「私も一緒にいれて楽しかった。蒼空があのときいてくれたから、生きる意味を見つけられた。本当に会えて良かった。それと……好きという気持ちを教えてくれてありがとう」
最後に笑うことができた。今もまだ辛い気持ちは残ってるけど、蒼空に安心してほしくて笑顔を残した。
物語の終わりは、沈むような雨ではなく、歩きたくなるような青空がいい。
察したのかどうかは分からないが、部屋の扉が開き結衣さんが入ってきた。
目の前に来ると「もう大丈夫?」と、私たちの顔を交互に見て確認した。
「はい」
私と蒼空は、声を重ねて言った。
「じゃあ千星ちゃん、行こうか」
最後は笑顔で、何度も頭の中で復唱してから蒼空の顔を見た。
「もう行くね」
「うん」
「……さよなら」
「さよなら」
私も蒼空も笑ってお別れをした。背中に残る視線で何度も振り返ろうとしたが、決心が鈍ってしまいそうだったので前だけを見た。
本当は『またね』と言いたかった。花が散り、再度季節で会えるような、そんな別れをしたかったから。
でも『さよなら』じゃないとダメだと思った。花の代わりに未練が咲きそうだったから。
部屋を出るときは蒼空の顔は見ないで出た。泣いてる顔を見せたくなかったから。
名残惜しいが、涙で締めたくなかった。
名状しがたい感情を抱えながら列車の席に着いた。結衣さんは運転席に入る。
今は一人だと辛いから、目の前に座ってほしかった。もしかしたら気を遣ってくれたのかもしれない。
扉が閉まり列車が動き出すと、強い光が窓から差し込んできたので、目を瞑って下を向いた。これで本当にお別れなんだなと思いながら。
程なくして光が消えたのを感じ、ゆっくりと目を開ける。窓の外には夜空一帯に広がる星々が映った。
感覚的にだが、速度がいつもより遅いような気がする。余韻がそう思わせているだけかもしれないが。
自然と蒼空の顔が浮かぶ。小中高と一緒だったため、本当の別れはこれが初めてだった。いつかは来ると分かっていたが、こんなにも早いと思わなかった。
当たり前に思っていた日常が当たり前でないと気づくのは、何かを失ってからだ。そうやって人は後悔を繰り返すのだろうなと思った。
外の景色を見ながらため息を吐くと、結衣さんが来て目の前に座った。
「幸せが逃げるよ」
「地獄の果てまで追いかけます」
「それ矛盾してない?」
「地獄で幸せになるので大丈夫です」
結衣さんは怖いけど、なぜだか安心する。気は短そうに見えるけど、包容力がある人だと私は思う。それに裏表のない感じも、安心を与える要因になっている気がする。
「あっという間だったね」
「はい。少し寂しいです」
「少し?」
「かなり」
結衣さんは窓枠に肘をかけ、頬杖をつきながら一笑する。
「蒼空はこれからどうなるんですか?」
「私は案内人だから、この先のことは知らない。未練を叶えるまでが仕事だから」
「他にも案内人ているんですか?」
「いるよ。私が一番美人だけど」
それは聞いてない。
「もし私が未練を残して亡くなったら、結衣さんが担当してください」
「えー、イケメンがいい」
しばくぞ。
「未練を残さない生き方をしなよ。人生の大半は考え方でなんとかなるんだから」
「この四週間でそれを感じました。狭い世界で物事を見ていた気がします」
「世の中にはさ、変えれるものと変えれないものがある。変えれるものに関しては、考え方で良い方向に導くことができる。でもそれを無理だと思ってしまうから世界が狭くなっていく。この先、千星ちゃんが苦境に立たされるようなことがあったら思い出してほしいの。変えれないものより、変えれるものが何かを探して。それが小さな一歩だとしても、やがて世界を広げてくれるから」
「はい」
と頷いたとき、窓から光が差し込んだ。
外に目を向けると、十数個ほどの流星が空に降り注いでいる。青や緑、白や黄色など、様々な色で夜を染めている。
「綺麗」
「他の案内人に頼んだの。千星ちゃんが頑張ったからご褒美」
「全部列車ですか?」
「うん」
流星のにわか雨は列車を降りるまで続いた。
この色づく夜を忘れることはないだろう。
人が死んだら流れ星が落ちる。
その言葉は嘘ではなかった。
いつか今日という日が思い出に変わったとき、
私は何を思って生きているのだろう。
悲しみに暮れていても、
喜びに満ちていても、
前を見て歩いていたい。
たとえ小さな光だとしても、
孤独の中を彷徨っていたとしても、
輝きを失わなければ、
星は夜空で結ばれる。
私の中では蒼空は生きている。実際に会ってもいるし。でも明日からは本当にいなくなってしまうと考えると気分が重くなった。
この四週間、未練を叶えることに集中していたからか、蒼空がいなくなる想像ができない。みんなはもう現実を受け止めて、次に進んでいるのかもしれないが、私は今日という日が本当の別れになる。
世界には空が広がっていて、星はその中を彷徨い続けてきた。天気のような感情に一喜一憂しながら、縋るように生きてきたと思う。
太陽の光は自分の存在を薄めていく。そのたびに夜に輝きを求め、黒を奪っていく朝を嫌悪した。
これからは自分の力で光を灯さないといけない。だから蒼空は私を選び、未練という名の道を与えたんじゃないかと思っている。
でもやっぱり辛い。別れの言葉なんて言いたくないし、できるならずっと会いたい。今までみたいにくだらない冗談で笑い合っていたい。
結局、覚悟ができないまま夜を迎え、流星の駅に向かう列車に乗った。
四度目となる空飛ぶ列車だが、今日は感動がなかった。窓に映る星空も、幻想的な空間も、どこか絵空事に見える。
美しい景色よりも、蒼空と一緒に見るありふれた風景の方が、私には価値があると思った。
「最後だからね」
目の前で足を組んで座る結衣さんに、釘を刺すように言われた。もしかしたら表情に出ていたのかもしれない。
「本当に最後なんですか?」
「うん」
素っ気なく返された。結衣さからしたら何でもないことかもしれないが、私は大切な人との最後になる。もう少し温情がほしい。
「伝えたいことがあるならちゃんと伝えなよ。後悔しても、もう会えないからね」
――好き
このニ文字を言うか迷っていた。蒼空が好きなのはたぶん雪乃だから。
「さよなら」の代わりに「ごめん」と言われてしまったら、私はきっと立ち直れない。なら仲の良い幼馴染で終わりたいと思っていた。
「蒼空くんのこと好き?」
唐突に聞かれた。冷静な人は動揺しても隠せるのだろうが、私みたいな乙女は瞳がマーメイドになる。
翻訳すると、目が泳いでしまう。
たぶん結衣さんにもバレてるだろう。隠してもしょうがないと思ったので小さく口を開く。
「……好きです」
からかわれそうな気がしたので目線を落として言った。零した恋心を捏ねくり回されたくなかった。
「過去が未練に変わるのは、今を生きてないから。目の前にある新しい道を見ないで、後悔したものだけが美化されていく。今の千星ちゃんだったら、伝えても、伝えなくても、胸に抱えた想いはいずれ未練に変わる。どちらが正しいかは自分次第で、大事なのは、なぜその選択をしたのかという理由」
死んだ人は今を生きられない。だからこそ未練が強くなる。変えることはできないし、新しい道を選べないから。
今は『伝えない』という割合の方が大きい。その理由は傷つきたくないから。これでは前と一緒だ。逃げ出した自分から成長していない。
結衣さんは色んな人を見てきているから分かるのかもしれない。私の持っている想いがどう変わっていくのかを。
「過去は変えられない。だからこそ未練に変わりやすい。自分でコントロールできないものほど、人は執着して苦しんでゆく。特に恋っていう特別な感情はね。言う言わないは、千星ちゃんの好きにしたらいい。でもどんな結果が出ようと、今を生きることを忘れないで。変えられないものは糧にするしかない」
過去は強力な呪いになることを知っている。ずっと縛り付けられてきたから。
蒼空のことを過去にするつもりはないが、未来への隔たりにしてはいけない。それは蒼空が一番嫌がることだ。
「気持ちを伝えてみようと思います。もう一人でも歩いていけるよって、蒼空に知ってほしいから」
結衣さんは微笑んでくれた。この人は厳しい言葉をよく使うが、笑った顔は本当に優しい。
「好きって言ったことイジられるかと思いました」
雑談を重ねたあと、会話の隙間に言ってみた。
この言葉に意味はなかったが、結衣さんとも今日で最後だから空白を作るのが惜しかった。
陽気に返してくるんだろうなと思っていたが、結衣さんは真剣な顔つきで私を見た。
「いい女は人の恋を茶化さないんだよ」
それから姉さんと呼ぶようになった。
流星の駅に着き、蒼空が待っている部屋へと向かった。階段の一段一段に心臓が波打つ。
今日で最後だけど、いつも通りの二人でいたい。くだらない冗談を言って、何でもないことで笑いあって、そして好きと伝えてさよならを言いたい。
しんみりとしたお別れは後悔に変わりそうだから、楽しく過ごして蒼空を見送ろう。
そう思ったが、五年間の二人の思い出が頭の中を通り過ぎていくたび、涙が出そうになる。辛いことも楽しいことも、そのすべてが愛おしい。
このままでは涙腺が崩壊してしまいそうなので、思い出の中の蒼空の顔をゴリラに変えて耐え忍ぶことにした。
ゴリラと一緒に夕日を見ているところで、扉の前に着いた。危うくゴリラを好きになってしまいそうだったので、良いタイミングだった。
一度深呼吸する。息を吐きながら頭の中のゴリラに別れを告げ、涙腺に叱咤してから、ゆっくりと扉を開ける。
ガラス張りの部屋には星の明かりが差し込み、幻想的な空間を演出する。
シンデレラのように自分を着飾ることはできないが、この雰囲気だけで特別なものになれたような気がした。
「千星」
声の方に視線を移すと、蒼空がこちらに歩いてくるのが見えた。
この優しい笑顔を見るのが最後だと思うと泣きそうになる。でもここで涙を見せたら、いつものように話せなくなるので、太ももをつねって笑顔を作った。
肩を並べて、窓の前にあるベンチに向かう。
その間、お互いに何も話さなかった。蒼空も今日が最後だと意識しているのかもしれない。
――お前ピーマンみたいな顔してるな
これぐらいの挨拶をしてくれると流れを作れるのだが、そんな雰囲気でもなかった。仮にされたとしても、ぶん殴ってしまう。いくら何でもピーマンに失礼すぎる。
沈黙が緊張を産み落とすなか、二人でベンチに腰を下ろす。話すことはいくつもあるが、最後ということを意識しすぎて口が開かない。
だんだんと頭の中がゴリラとピーマンで溢れてきて、ピーゴリラーマンという造語を爆誕させた頃、蒼空が沈黙に言葉を添えた。
「無茶なお願いをしてごめん。千星が人と関われないと知りながら、俺のわがままに付き合わせた。一人で辛かったろ」
「ううん、そのおかげで自分を変えることができた。蒼空が私を選んでくれたおかげ。ありがとう」
短い会話だったが緊張がほぐれた。蒼空の声は安心できる。
「美月ちゃん、学校行ったよ。それと、また絵を描くって」
今日の昼休みに美里さんから連絡がきた。『美月が登校した。千星ありがとう』と。
『最終的には自分で選択したことだから、美月ちゃんを褒めてあげて。それが学校に行くモチベーションに変わるから』と返信した。
学校に行くのは当たり前かもしれないが、その当たり前を褒めてあげることも大事だと思う。人に何かを言われて決めるより、自分の意思で行動するほうが納得できると思う。
そのあと、美月ちゃんが絵をやめた理由や紗奈ちゃんのことなど、一連の流れを蒼空に説明した。
「あれだけ好きだったから、絵をやめてるなんて思ってなかった。なんで気づいてあげれなかったんだろう。もっと早く美月を救えたかもしれないのに」
蒼空は表情を曇らせて言った。
「紗奈ちゃんが必要だったから、今で良かったんだと思う。もしまた同じようなことがあっても、美月ちゃんはそれを糧に絵を描き続けられる。挫折した先の希望を見つけるには、違う視点を持つことが大事。二人にそう教わった。迷いは人は成長させるから、今回のことは大事な通過点だったんだよ」
私がそう言うと、蒼空は笑みを浮かべた。どこか嬉しそうに見える。
「千星、変わったね。見ないうちに大人になった」
「雪乃に化粧教わったから、それでかな」
今日のために雪乃に色々と聞いた。可愛いと思われたかったのでメイクには一時間かけ、洋服は昨日買ったオフホワイトのニットとレース生地のロングスカートを合わせた。
もちろん衣服にはファブリーズプレミアム・パステルフローラル&ブロッサムの香りをつけた。最近の女子高生はみなファブリーズを愛用している。私調べだ。私調べということは私だけにしかアンケートはとっていない。
「外見じゃなくて中身のほう。大人になるって、見た目とか年齢より考え方だと思う。この四週間で言葉が変わった」
色んな人に触れて世界が広がった。人との接し方、優しさの向け方、夢との向き合い方、それぞれが自分の考えの幅を広げたと思う。教室の片隅で嫉妬と嫌悪を抱いていた頃より、見える景色が鮮やかになった。思考という根で、言葉の咲きかたは変わる。表面だけ着飾っても美しい花は育たない。
「一人では何も変えられなかった。周りの人たちがいたから、外の世界や自分と向き合うことができた。そのきっかけを作ってくれたのは蒼空だよ」
ここに呼んでくれなかったら、今も私は部屋の中で閉じこもっていたと思う。蒼空が残した未練が私の道標になった。
「きっかけだけでは始まらないよ。一歩踏み出すことを選んだのは千星だし、それがあったから雪乃も花山も美月も変わることができた。千星が頑張ったから、周りも自分も変われたんだよ」
「でも運がよかったのもある。雪乃から話しかけてくれなかったらどうなってたか分からないし、蓮夜くんがいなかったら花山と話せなかったと思う。紗奈ちゃんがいたから、美月ちゃんはまた絵を描くことを選べた。私一人では何もできなかった」
今振り返ると、少しでも道が違えば同じ結果にはなっていなかったのかもしれない。偶然が重なって生まれた変化だった気がする。
「運が良かった部分もあるかもしれない。でも待っているだけでは何も起こらなかったと思う。行動がなければ偶然も生まれない」
今までの私は種を植えていない花壇を眺めながら、咲いてほしいと願っているだけだった。
過去の傷が足枷となって、外の世界に踏み出すことを躊躇するようになった。
それがダメなことだとは今も思ってないが、傷を痛みだけで終わらせてしまえば、未来にある可能性まで捨ててしまうことになる。それを伝えたくて、私を呼んだのかもしれない。
「蒼空が私を選んだのは、一人でも歩いていけるようになるためでしょ? 本当は他に会いたかった人もいたと思う。ごめんね、最後まで気を遣わせちゃって。それと、ありがとう。私の背中を押してくれて」
「べ、別に千星のためじゃないから。俺の未練を叶えてほしいだけだったから。だから、そういうわけじゃないから」
蒼空は照れくさそうにしながら、下手くそなツンをかましてきた。
「私のツンを盗るな。逮捕するぞ」
「ツンって何?」
「ツンデレのツン」
「ツンだけ言われても分からないから」
「義務教育で習っただろ。開国したときにツンとデレがお忍びで来日したのを覚えてないのか」
「ツンデレって伝来してきたの?」
「鉄砲の中に入ってたらしい」
「伝来に引っ張られてるじゃん」
「べ、別に引っ張られてないんだからね、蒼空が伝来って言ったから鉄砲って単語を出したわけじゃないんだからね」
「最早ツンなのかも分からない」
最後の会話がこれでいいのか分からなかったが、いつもの二人でいられると思うと楽しかった。
意味のない言葉たちは、やがて思い出に変わって意味を持つようになる。だから今は何も考えず、この瞬間を大切にしよう。過去を振り返ったとき、私は笑っていたい。
「そうだ、美月ちゃんの絵、撮ってきたよ」
スマホを取り出して、海の上空に浮かぶ月の絵を蒼空に見せた。
「上手い、やっぱり続けるべきだよ」
慈しむような目で絵を見ながら、表情を満悦で染める。その顔を見て私まで嬉しくなった。
「美月ちゃんと紗奈ちゃんを見てて、私も何か目指してれば良かったって思った。人生の支えになるようなものを」
「今からでも遅くはないんじゃない」
「今から? うーん……何がいいと思う?」
蒼空は視線を宙に向けて思案している。
「何に就くかじゃなく、どう生きたいかを決めてみたら」
「どういうこと?」
「たとえばだけど、人の役に立つ仕事をしたいと思ったらいくつか選択肢が生まれるでしょ? でも軸がなければどこに向かっていいか分からなくなるし、したいことが見つかりにくくなる。仮に車を製造する仕事に就いたとする。何となくすごい車を作りたいと思ってる人と、人の役に立つ車を作りたいと思っている人では発想が変わるし、自分の視点を持つことができる。だからまずは軸を探したらいいんじゃないかな。それがいつか道に変わるよ」
軸はまだ持ってない。今は先の見えない森の中をただ歩いているだけなのかもしれない。要はコンパスを持てということなのだろう。
「なんのために生きるか……幼稚園の頃はブロッコリーおばさんになりたいと思ってたけど、そこに軸はないしな……」
「何その仕事?」
「私が三歳のときに作った仕事。ひたすらブロッコリーを体に浴びるの。そうだ、ブロッコリーの役に立つ仕事をするってのもいいかも」
「千星はまだ軸を作らなくていい。今は模索の時期にしよう」
「なんか緑の軸が見えてきた。ありがとう蒼空、生きる目的ができるかも」
「頭の中にあるブロッコリーを一回冷蔵庫に戻せ。ブロッコリーのために生きることも素晴らしい人生だけど、ブロッコリーに身を捧げるのはもう少し考えてからにしろ」
「確定申告のときにブロッコリーを書く欄てあるのかな」
「ねーよ」
「何でだよ」
「誰も書かないからだよ」
「書けよ」
「書けねーよ」
「ブロッコリーの想いを汲み取れよ」
「汲み取れねーよ」
蒼空と目が合うと、二人で笑った。最後の会話なのにブロッコリーの話をするなんてバカらしい。でも変わらない日常がそこにはあった。この先もずっと続いていくような、思い出の中でも笑えるような、そんないつものくだらない会話が。
「楽しいね」
私がそういうと、蒼空は優しく微笑んで、
「そうだね」
と言ってくれた。
その言葉で、またあなたを好きになる。
そのあとも何でもない話を続けた。
美里さんが大事にとっていたクッキーをこっそり食べて二人で怒られたこと。中学の卒業式で蒼空の第二ボタンを無理やり奪い、女の子たちの争奪戦を止めたこと。部屋で一緒にゲームをしているときに、負け続けた私が怒って拗ねたこと。数え上げたらキリがない思い出たちを、味がなくなるまで笑いあった。
時間の流れというのは想いと反比例する。退屈なときほどゆっくりと進むのに、幸福を抱くと光の如く過ぎてゆく。本来なら逆にすべきだ。苦しいことはすぐに消えてしまえばいいし、楽しいことは永遠に続けばいい。流れ星が刹那で消えるのは、幸せを祈るからかもしれない。
懐中時計をポケットから取り出して確認すると、残り五分となっていた。
お互い、終わりが近いと意識し始めたのか、澱みなく続いていた会話に沈黙が挟まっていた。
あと少しでお別れをしなければならないと思うと、先ほどまで咲いていた笑顔はいつの間にか萎れていた。
まだ自分の気持ちも伝えてない。でもこんな顔で好きなんて言いたくないし、悲しいさよならではなく、笑ってさよならをしたい。
物語のエンドロールは、涙ではなく笑顔がいい。
私が感情を落ち着かせていると、蒼空が沈黙に言葉を挿した。
「星、綺麗だね」
窓の外を見ると星屑が夜を染めていた。これが二人で見る最後の景色となる。
「綺麗だね」
そう返すと蒼空は「星と空だね」と言った。
世界から切り離されそうになったとき、蒼空が私を救ってくれた。あの日と同じ言葉が私の鼓膜を優しく撫でる。
「星と空だね」
私も倣ってそう言った。
「小学生のとき千星に憧れてた。俺もこうなれたらって」
「私に?」
「うん。あの頃はずっと三宅が怖かったんだ」
小学六年のあの日から、ずっと過去に縛られてきた。三宅は私が人を嫌いになる原因を作った奴だ。よく暴言を吐いたり手を上げてたりしていた。
「体が大きくて力も強かっただろ? いじめられている子がいても、恐怖で何もできなかった。そんな自分が嫌いだったし、友達を作る資格もないと思ってた。俺も他の子らも自分を守ることで必死だったのに、千星だけが三宅に立ち向かっていった。その姿を見て、誰かを守れる人になろうって決めたんだ。覚悟を持つまで、だいぶ時間はかかったけど」
前に蒼空は私に変えられたと言っていたが、どうりで覚えていないはずだ。私と話すようになる前なら気づけない。
「千星の居場所になれていたと思うと嬉しかった。今の俺がいるのは千星のおかげだから。遅いかもしれないけど、変えてくれてありがとう。友達になれて良かった」
友達……その言葉が胸に刺さる。この期に及んで、期待していたのかもしれない。蒼空も私と同じ気持ちを持っているかもと。
徒恋に降る切なさが涙に変わりそうだった。それでも散りゆく想いをかき集め、言葉にして伝えないといけない。
落としたものを眺めるだけでは、この先の道で花は咲かない。
「あの日、手を差し伸べてくれたから一人にならずにすんだ。蒼空がいなかったら今も人を嫌いなままだった。私を救ってくれて、私を変えてくれてありがとう。でもね、友達じゃなければって思うことがたくさんあった。蒼空が女の子と話してると嫉妬したし、その子を嫌いになりそうになったこともある。自分以外の人間が消えて、二人だけになれたらって何度も考えた。こんなどうしようもない人間だけど、一つだけ誇れることがあるの。それはね、奥村蒼空という人を好きになれたこと」
蒼空は何かを堪えるような顔で私の目を見ている。今ままでだったら恥ずかしくて視線を逸らしていたが、それだと真っ直ぐに想いが伝わらないような気がした。だから今日は俯かない。たとえ神様が下を向けと言っても。
「泣きたくなることもあったし、苦しくなることもあった。でも好きになったことを後悔した日は一度もない。恋をするために好きになったんじゃなく、蒼空という人に恋をしたから、辛いことがあっても好きで居続けられた。迷惑かもしれないけど、これが私の気持ち。蒼空のことが大好きです」
初恋という花をくれたあなたに、想いを摘んだ言葉の花束を渡す。美しくはないけれど、心の片隅にでもいいから飾ってほしい。
蒼空は口を閉ざしたままだった。それが答えだということは明白だったが、逃げずに伝えた私を褒めてあげたい。そうしないと泣いてしまうから。
「いやー、緊張するね告白って。手汗がすごいや。たった二文字言うだけなのに、MP消費全部したよ。今魔王が現れたら、即キルされるわ。来たら媚び売って仲間にしてもらおう。きっといいところ住んでるだろうな。あいつら無職のくせにお城持ってるんだよ。ずるい……よね」
明るさで誤魔化そうとしたが、涙が込み上げてきた。話すのをやめたら絶対に泣く。今日は笑顔でさよならを言いたい。
「そうだ、覚えてる? 小学生のときに二人でRPGやっててさ、私が勇者の名前を『三代目よしぞう』にしようって言ったら、蒼空がよしぞうって誰だよってツッコミいれたけど、普通は『初代と二代目いるのかよ』だからね。そのツッコミだと……どんな名前でもそうなるから……だから……あれは間違って……」
泣くなよ。もうお別れを言わないといけないのに、笑って見送らないといけないのに、なんでこんなときに泣くんだよ。
「るからね……そんなんじゃ、女の子にモテないから……私くらいだよ……そんなツッコミで許して……許してあげれるのは……こんないい女、他に……他にいないんだから……」
涙が小雨から本降りに変わったとき、蒼空が私を抱き寄せた。
「千星、一緒にいれて楽しかった。くだらない冗談を言い合ったり、何でもないことで笑いあったり、そんな何気ない日常が本当に好きだった。思い出の一つ一つに名前を付けたいと思えるほど、大切な時間を過ごすことができて嬉しかった。今日が最後になるけど、明日からも笑っていてほしい。千星には笑顔が似合うから」
涙を堪えながら、一つ一つの言葉を頭に入れた。今日という日が思い出に変わったとき、一秒も忘れていたくなかったから。
「これからは自信を持って生きてほしい。前にも言ったけど、千星には人を変える力がある。そのことを忘れないで」
「うん」
「忘れたら化けて出るから」
「じゃあ忘れる」
「いいの? 写真撮るたび俺が写るけど」
「お化けは嫌いだけど、好きな人なら嬉しい」
わがままを言いたい、優しく甘やかしてもらいたい、幸せに溺れながらこの腕の中で眠ってしまいたい。本音を言えば、欲望を満たしてずっとこうしていたい。
「千星」
「何?」
「もうそばにいることはできないけど、今の千星なら俺がいなくても大丈夫だと思う。これからは自信を持って生きてほしい。変わってるところもあるけど、でもそれが千星の良さだし、自分らしくいれば笑っていられるから。過去を振り返るときは、後悔ではなく一歩進むために。それも覚えといて」
「私、変わってないもん」
声を潤ませながらで精一杯返す。
「変わってるよ。でもそれがいいところだから。千星が千星でいるときが一番輝いてる」
「うん」
「いつか誰かと恋をして、幸せに生きてほしい。今日という日を思い出にするなら涙ではなく笑顔で。もう過去に縛られなくていい、大切のものはこれから進んでいく道に落ちてるから。だから泣かないで。これは悲しい別れではなく、千星にとっては始まりだから」
涙を止めるため、思いっきり鼻を啜った。その音が可笑しかったのか、蒼空の笑い声が耳に入った。
「千星がいてくれてよかった。本当に楽しかったし、たくさん思い出をもらった。これでお別れだけど、元気でね。それと……好きになってくれてありがとう」
「バカ、せっかく涙が止んだのに、また出てくるだろう」
実際はまだ泣いていた。梅雨のような涙腺が頬を何度も濡らし、床に涙の跡を残していた。
歯を食いしばりながら止めようとしていると、抱き寄せられていた体が蒼空から離れる。
「まだ泣いてるじゃん」
そう言いながら優しく涙を拭ってくれた。微笑んだ顔が視界に映る。
「私も一緒にいれて楽しかった。蒼空があのときいてくれたから、生きる意味を見つけられた。本当に会えて良かった。それと……好きという気持ちを教えてくれてありがとう」
最後に笑うことができた。今もまだ辛い気持ちは残ってるけど、蒼空に安心してほしくて笑顔を残した。
物語の終わりは、沈むような雨ではなく、歩きたくなるような青空がいい。
察したのかどうかは分からないが、部屋の扉が開き結衣さんが入ってきた。
目の前に来ると「もう大丈夫?」と、私たちの顔を交互に見て確認した。
「はい」
私と蒼空は、声を重ねて言った。
「じゃあ千星ちゃん、行こうか」
最後は笑顔で、何度も頭の中で復唱してから蒼空の顔を見た。
「もう行くね」
「うん」
「……さよなら」
「さよなら」
私も蒼空も笑ってお別れをした。背中に残る視線で何度も振り返ろうとしたが、決心が鈍ってしまいそうだったので前だけを見た。
本当は『またね』と言いたかった。花が散り、再度季節で会えるような、そんな別れをしたかったから。
でも『さよなら』じゃないとダメだと思った。花の代わりに未練が咲きそうだったから。
部屋を出るときは蒼空の顔は見ないで出た。泣いてる顔を見せたくなかったから。
名残惜しいが、涙で締めたくなかった。
名状しがたい感情を抱えながら列車の席に着いた。結衣さんは運転席に入る。
今は一人だと辛いから、目の前に座ってほしかった。もしかしたら気を遣ってくれたのかもしれない。
扉が閉まり列車が動き出すと、強い光が窓から差し込んできたので、目を瞑って下を向いた。これで本当にお別れなんだなと思いながら。
程なくして光が消えたのを感じ、ゆっくりと目を開ける。窓の外には夜空一帯に広がる星々が映った。
感覚的にだが、速度がいつもより遅いような気がする。余韻がそう思わせているだけかもしれないが。
自然と蒼空の顔が浮かぶ。小中高と一緒だったため、本当の別れはこれが初めてだった。いつかは来ると分かっていたが、こんなにも早いと思わなかった。
当たり前に思っていた日常が当たり前でないと気づくのは、何かを失ってからだ。そうやって人は後悔を繰り返すのだろうなと思った。
外の景色を見ながらため息を吐くと、結衣さんが来て目の前に座った。
「幸せが逃げるよ」
「地獄の果てまで追いかけます」
「それ矛盾してない?」
「地獄で幸せになるので大丈夫です」
結衣さんは怖いけど、なぜだか安心する。気は短そうに見えるけど、包容力がある人だと私は思う。それに裏表のない感じも、安心を与える要因になっている気がする。
「あっという間だったね」
「はい。少し寂しいです」
「少し?」
「かなり」
結衣さんは窓枠に肘をかけ、頬杖をつきながら一笑する。
「蒼空はこれからどうなるんですか?」
「私は案内人だから、この先のことは知らない。未練を叶えるまでが仕事だから」
「他にも案内人ているんですか?」
「いるよ。私が一番美人だけど」
それは聞いてない。
「もし私が未練を残して亡くなったら、結衣さんが担当してください」
「えー、イケメンがいい」
しばくぞ。
「未練を残さない生き方をしなよ。人生の大半は考え方でなんとかなるんだから」
「この四週間でそれを感じました。狭い世界で物事を見ていた気がします」
「世の中にはさ、変えれるものと変えれないものがある。変えれるものに関しては、考え方で良い方向に導くことができる。でもそれを無理だと思ってしまうから世界が狭くなっていく。この先、千星ちゃんが苦境に立たされるようなことがあったら思い出してほしいの。変えれないものより、変えれるものが何かを探して。それが小さな一歩だとしても、やがて世界を広げてくれるから」
「はい」
と頷いたとき、窓から光が差し込んだ。
外に目を向けると、十数個ほどの流星が空に降り注いでいる。青や緑、白や黄色など、様々な色で夜を染めている。
「綺麗」
「他の案内人に頼んだの。千星ちゃんが頑張ったからご褒美」
「全部列車ですか?」
「うん」
流星のにわか雨は列車を降りるまで続いた。
この色づく夜を忘れることはないだろう。
人が死んだら流れ星が落ちる。
その言葉は嘘ではなかった。
いつか今日という日が思い出に変わったとき、
私は何を思って生きているのだろう。
悲しみに暮れていても、
喜びに満ちていても、
前を見て歩いていたい。
たとえ小さな光だとしても、
孤独の中を彷徨っていたとしても、
輝きを失わなければ、
星は夜空で結ばれる。