幼い頃は何事にも自信がなく臆病な性格だった。
小学校に入学すると、みんなが友達を増やしていくのに対し、私の周りには喧騒だけが響いた。
教室から外で遊ぶクラスの子たちを眺めながら、その中で楽しそうに笑っている自分の姿を想像する。
みんなが私を囲んで、「美月ちゃん」と名前を呼ぶ。そんな夢を教室の隅で思い描いていた。
ある日の夜、お兄ちゃんとこっそり家を抜け出し、岬公園で月を見た。
夜というキャンパスに描かれた月は、今まで見た何よりも美しく、私はその光景を目に焼き付けた。
家に帰ったあと、夢中でノートに月を描いた。あの美しい月を手元に置いておきたいと思い、必死に思い出しながら色鉛筆に感情を乗せた。
このときの拙い月の絵が、私の夢の始まりだった。
それから一年経った小学二年生の秋ごろ、お兄ちゃんが初めて学校の人を家に連れてきた。
四年生までは陽一くんという仲の良い友達がいたらしいが、家に来たことはない。
その子が転校してからは、お兄ちゃんの口から友達の名前を聞いたことがなかった。
でも最近、女の子と一緒にいる所を学校でよく見かける。
今日来てるのは、たぶんその子だ。
私はそっと部屋の前まで行く。どんな話をしているんだろうか? 友達ってどういう風に作るんだろう? 私が知りたいことが目の前の部屋に詰まっていると思った。
ドキドキしながら中の声を聞こうとしたとき、急にドアが開いて女の子が目の前に現れた。いけないことをしているからか、目があった瞬間に体が動かなくなった。
「伊賀と甲賀どっちの者だ。名を名乗れ」
「奥村です」
名前を聞かれたと思い、そう答えた。
女の子は私を怪しんでいる。自分の家にいるのに泥棒になった気持ちがした。
「千星、俺の妹」
女の子の後ろで、お兄ちゃんが言った。兄の声を聞けたからか、少しホッとした。お巡りさんに職務質問を受けている人の気持ちが何となく分かった気がする。
「家康の後輩かと思った」
女の子がお兄ちゃんの方を向いて言う。
「伊賀も甲賀も後輩ではないから」
「地元の怖い先輩に率いられてるんじゃないの?」
「そんなヤンキーみたいな関係性じゃない」
なんの話をしているのか分からなかったが、二人のやりとりを見て、友達っていいなと思った。
「美月、この人は同じクラスの藤沢千星」
お兄ちゃんが紹介したあと、女の子は胸を張って「私が藤沢だ」とドヤ顔で言った。
「妹の奥村美月です」
六年生の人とはあまり話したことがなかったため緊張した。どこに目線をやればいいのか分からず、ずっと自分の靴下を見ていた。
「美月、絵を見せてあげて」
お兄ちゃんがそう言うので、二人を部屋に案内して月の絵を見せた。
初めて他人に絵を見せるため、どんな反応をされるのか怖かった。もし下手と思われたらどうしよう。そう考えたら急に心臓が大きく動いた。
「すごい、上手だ」
アクリル絵具で描いた『海の上空に浮かぶ月』の絵を見たあと、千星ちゃんは笑顔で言った。
褒められたこともそうだが、それ以上に、自分の描いた絵で人を笑顔にできたことが嬉しかった。
「絵ってこれだけ?」
「まだいっぱいある……」
「もっと見せてよ」
机の引き出しから小さいキャンバスボード取り出して見せると、千星ちゃんは目を輝かせていた。
「美月ちゃん本当に上手だね。将来、絵師になれるよ」
「私なんかじゃ無理だよ……」
「なれる。私がなれると言ったからなれる。なれ川なれ子だよ」
最後のは意味が分からなかったが、自分が認められたようで嬉しくなる。
後ろにいるお兄ちゃんを見ると、優しく微笑んでくれた。
初めて外の世界と繋がれた気がした。絵というものが自分の存在を肯定してくれて、生きる意味を与えてくれた。
それから千星ちゃんと仲良くなり、学校や家でよく話すようになった。
千星ちゃんはなぜか、同学年の子とあまり話していないみたいだった。私の前では笑ってくれるのに、六年生が目の前を通ると顔が暗くなる。
お兄ちゃんにそのことを話すと「千星にそのことは絶対に聞かないで」とだけ言われた。
触れてはいけないことなのかなと思い、それ以上は何も聞かなかった。
普段は学校で絵を描かなかった。
見られるのは恥ずかしいので内緒にしていたが、「みんなにも見せた方がいいよ」と千星ちゃんが言うので、昼休みに自分の席で絵具を用意し、海の上空に浮かぶ月を描いた。
「何描いてるの?」
クラスの女の子が上から覗き込んでいた。
どんな反応をするんだろう? 上手くないと思われたらどうしよう? そう考えたら、心臓が飛び出るんじゃないかと思うほどバクバクした。
「美月ちゃん上手だね。すごいよ」
「あ、ありがとう」
「ねえ見て、美月ちゃんって絵描けるんだよ」
その一言で、クラスの子が私の席に集まってきた。
「本当だ。すごい上手」
「綺麗なお月様だね」
「美月ちゃんすごい」
外の世界で聞こえていた音が、自分に向けられている。同じ音なのに、ひとりぼっちの時とは聞こえ方が違う。
「私にも教えてよ」
「うん……」
「じゃあ今日うちで描こうよ。美月ちゃんも来て」
「いいの?」
「うん」
ずっと頭の中で描いていたことが、絵というものを通して叶えられた。
絵が私と世界を結んでくれて、絵が私という存在を世界に教えてくれる。絵が私のすべてだと思った。
小学六年生に上がった頃には、もう寂しいという気持ちはなかった。友達もたくさん増え、羨ましく思っていた声が日常に溶け込んでいたから。
最初は拙かった絵もだいぶ上達した。
お小遣いで買ったイラスト集や教本、お父さんから借りたパソコンで動画を見ながら勉強し、人物や静物画も描くようになった。
でも一番多く描いたのは原点である月だ。始まりであり、私の世界を変えてくれたもの。
誕生日にUー35というアクリル絵の具を買ってもらい、今はそれを愛用している。
本当はゲームにしようと思っていたが、動画で見たときに欲しくなった。
画材にこだわると絵を描くのが楽しくなる。思い入れも強くなるし、モチベーションも高くなる。
将来はイラストの仕事に就く。SNSで流れる絵を見たときにそう思った。
いいねがいっぱい貰えて、コメント欄で賞賛を得られる。キラキラした世界で私も輝きたかった。
千星ちゃんにそのことを話したら、
「美月ちゃんなら絶対なれるよ」
初めて私の絵を褒めてくれた人がそう言ってくれた。
その言葉で、真っ直ぐ夢を追うことが出来る。
そして、今まで迷っていたコンクールに応募することを決めた。
規模は小さかったが、月をテーマにしたコンクールだったので絶対に出したかった。
月の絵だけは誰にも負けたくなかったし、自分なら賞を獲れる自信もあった。
だが初めての公募で不安が募り、千星ちゃんに背中を押してもらいたかった。
結果は、小学生の部で金賞を受賞した。
学校でも表彰され、先生も周りのみんなも褒めてくれた。
絵が私を照らしてくれる。絵が私の未来を彩ってくれる。絵が私という人間を証明してくれる。絵が私のすべてを作ってくれている。絵を描いたことで、人生は大きく変化し、幸せが滲む日々を手にすることができた。
中学に上がり、入学初日から新しい友達ができた。同じ小学校の子が、私の絵をみんなに紹介してくれたことで、話すきっかけを作ることができた。
「上手だね」
「奥村、すごいな」
月の絵をみんなが褒めてくれる。その声が自分を輝かせてくれるようだった。
だがその輝きは、より大きな光によって薄まっていくことになる。
私は美術部に入った。
部員は私も含めて四人しかいない。二年生が三人、一年生が私だけだった。
しかも先輩たちはすぐに帰り、顧問の牧野先生もなんか適当だ。
ガッカリしたが、美術室で絵を描くのはワクワクした。
染みついた絵具の匂い、使い古された画材、飾られた彫刻や絵、そのすべてが心を震わせた。
数日語、初めての美術の授業を迎えた。
みんなが教室を見渡し、ソワソワしているのが伝わってくる。
美術室は他の教室と違うので、別世界に感じているのかもしれない。
美術部の私からすると、その光景がなんだか嬉しく感じた。
牧野先生が入ってきて授業が始まった。最初は美術とは何かということを話していた。私は早く絵を描きたかったので、授業が終わらないか心配なり、何度も時計を見ては鉛筆を握りしめていた。
十五分経ち、話しが一区切り着く。やっとだと思い、気持ちが高ぶる。
「じゃあ今日は手を描くか」
手はそれなりに自信があった。教本に手の書き方が載っていたので、気分転換に描いてみたら思ったより上手くできた。
それからたまに描くので、この課題は難しいものではなかった。
みんな眉間に皺を寄せながら自分の手を見ている。その姿が面白かった。私はB4のスケッチブックに澱みなく鉛筆を動かしながら、描き終えた後のことを想像していた。
――美月ちゃん上手
――手も描けるんだ
称賛されている自分を頭で思い描いていると、一人の生徒が大きな声を上げた。
「めっちゃ上手じゃん!」
私は廊下側に座っている。でも、声は反対側の方から聞こえた。
窓側を見ると、みんなが一人の席に集まっている。確かあの席は秋山さんだったと思う。
秋山さんはクラスの中でも一目置かれた存在だ。
見た目や雰囲気が大人っぽく、みんなから密かに憧れを抱かれている。男子もよくチラチラと見ていた。
でもクールな印象からか、話しかけたくても話しかけられない、クラスではそんな立ち位置だった。秋山さんもあまり話す人ではないから余計にだ。
私もみんなが集まっている場所に向い、その中心にある一枚の絵を見た。
声を失った。鉛筆だけで書かれた手は、絵ではなく本物のように見えた。造りものではなく生きている、そう感じた。
「秋山さんすごい」
「俺にも教えてよ!」
称賛の声が飛び交うたび、何かを奪われたような感覚が襲った。
「上手いな秋山」
牧野先生が来てそう言った。そのあと私を見るなり、
「奥村、お前は美術部だろ。秋山に負けてられないぞ」
――勝てない、そう思わせるほどの画力だった。
「奥村のも見せてよ」
一人の男子がそう言いうと、私の席に向かう。それに倣って他の子もついて行く。
『見ないで』心で叫びながら後を追ったが、間に合わなかった。
「あー……」
「でも上手だよね」
気を遣ったことがすぐに分かるような褒め方だった。
美しい花の後では、造花で心は揺らせない。人生で初めての挫折を味わった瞬間だった。
昼休みにも秋山さんの周りには人が集まっていた。
一人の生徒が「絵を見せてよ」と言うと、秋山さんは鞄からスケッチブックを取り出して開いた。私も気になり見にいく。
そこに描かれていたのは漫画のキャラや幻想的な風景で、色は透明水彩で塗られている。どれも目を惹きつけるほど上手で、私には絶対に描けない絵だった。
大衆的な絵だが、そこに技術がある。SNSに出せばバスるだろう。みんな私の絵を見たときより目を輝かせている。その光景に胸が苦しくなり自分の席に戻った。
「このキャラ私好き!」
「これ、秋山さんのオリジナルなの?」
「すごい、めっちゃ綺麗!」
中学生なら私の絵より、秋山さんの絵の方を好むだろう。
外の世界から聞こえてくる喧騒が、心の中に黒い感情を垂らしてくる。彩っていた自分の世界に、あの頃の色が再び滲んできた。
それから三日経った日の放課後、美術室に向かおうとすると秋山さんから声をかけられた。
「奥村さんも絵を描いてるんだよね?」
「うん……」
「みんなが奥村さんの月の絵がすごいって言ってたから」
月の絵は私の中でも特別で、これだけは他の人にも負けない自信がある。
「見せてほしいなって……」
恥ずかしながら俯むいて言う表情が美しかった。絵にしたいと思うほど。
「美術室に置いてあるから見に来る?」
「うん」
鞄の中にあるスケッチブックでも良かったが、それを見せるのは怖かった。だから自分の中で一番自信のある作品を彼女に見せようと思った。
二人で美術室に向かう間、秋山さんは何も話さなかった。私も自分の絵がどう思われるかという不安で頭の中がいっぱいだった。
美術室に着き準備室に案内した。私は部屋の奥にあるイーゼルに被さっていた布に手をかける。
指が震えた。布を取れば私の絵を秋山さんが見ることになる。この絵は小学生のときから半年以上かけて描いた絵だ。三日前にやっと完成させた。
もし反応が悪かったとき、私のすべてが否定されることになる。それだけは嫌だ。
静けさが緊張を煽るなか、覆いかぶさっていた布を取った。
アクリル絵具で描いた『海の上空に浮かぶ月』の絵。最高傑作であり、自分自身でもある。
反応を知りたかったが秋山さんの顔を見れなかった。その顔に浮かぶ表情で心の中が分かってしまう。視線を自分の足元に置き、声を待った。
だが、しばらく沈黙は続き秒針の音だけが響いた。何を思っているんだろう? 良かったのかな? 悪かったのかな? 頭の中で思考が右往左往する。
あまりに無言の時間が長かったので、耐えきれず秋山さんの顔を見ると、彼女の目は少し輝いているように見えた。
「これはアクリル絵具?」
「うん」
やっと発した言葉はすぐに途絶えた。
どう? その一言が言えれば良かったが、怖くて聞けなかった。空気感に耐えられず、
「私、向こうにいるから、何かあったら言って」
「うん」
準備室を出て椅子に座った。結局どう思っているのか分からずモヤモヤとする。
しばらくの間、秋山さんは準備室から出て来なかった。
オレンジの光が差し込む美術室は静寂さに包まれていた。
一週間後、美術部に秋山さんが入部した。
彼女は人物、静物、風景どれも上手で、しかも絵の幅も広かった。
美術館に飾られているような芸術的な絵も描けば、大衆的なアニメチックな絵も卒なく描く。
そのどれもが目を見張るもので、才能の残酷さを思い知らされた。
部活の時間はニ人きりで絵を描くことが多かった。
彼女は淡々と描くだけで特に会話もなかったが、私がアクリル絵具で月の絵を描いてるときだけ、彼女の視線を感じた。それが緊張を誘い、部活が終わった頃には、筆の軸に染み付きそうなくらい手汗をかいた。
この日も、お互い無言のまま美術室で絵を描いていた。
私はスケッチブックに月のラフ画を描き、秋山さんは一列挟んだ隣の席で、水彩ペンでキャラクターの絵に色を塗っている。
『私の月の絵どうだった?』
この一言が今も言えない。秋山さんは絵の感想を言ってくれないため、ずっとモヤモヤしている。
いつか言ってくれると期待したが、待っていても聞けそうにないので、きっかけ作りで話しかけてみることにした。
「秋山さんて、誰かに絵を習ってたりしたの?」
「動画見ながら描いてただけ」
絵を塗りながら秋山さんは答える。
「そうなんだ……」
才能の差を感じさせられたため心が折れそうになった。
上手い人に習っていたなら、まだ自分を保てていたかもしれない。
だが、私と同じ手法で描いてきたとなれば、環境のせいにはできなかった。
「奥村さんは?」
「私も動画とか本を見て勉強した」
「月の絵も?」
「うん。でもひたすら描いて、徐々に上手くなっていったって感じかな。初めて描いたのも、初めて褒められた絵も月だった。だから私にとって、月の絵は特別なものなんだよね」
「上手だった……月の絵」
秋山さんを見ると、体をこちらに向けている。だが、視線は私の周りを泳いでいた。
「ありがとう……」
いつもならもっと素直に言えるのに、今日は小さな声で言ってしまった。
千星ちゃんは嬉しいことがあると、よくタップダンスを踊っている。意味が分からなかったが、今ならその気持ちが理解できる。
「秋山さんは将来、絵の仕事に就くの?」
「まだ分からない。でもたくさんの人が私の絵を見て笑顔になってくれたらって思ってる」
なんか意外だった。秋山さんの口からそういう言葉を聞くのは。
「できるよ、秋山さんの絵なら。だって上手だもん」
少しだけ秋山さんの口角が上がった。だが私の視線に気づくと表情を戻した。
「秋山さん、笑った顔のほうがいいよ。クールな感じがするから、みんな話かけづらいんだと思う。それに笑顔も可愛いし」
「……そうしてみる」
照れくさそうに頬を赤らめる秋山さんは、すごく可愛かった。
六月にある体育祭に向け、クラスで応援旗を作ろうということになった。
私と秋山さんが中心となって、クラスの女子数名と共に、昼休みの教室で相談していた。
「なんか可愛い感じのがいい」
「かっこいいのもよくない?」
「キャラクターがあったほうがいいでしょ?」
みんな自分の好みを言い合っていて中々話がまとまらない。
だんだんと面倒くさくなってきたのか、アイドルに話題がすげ替えられた。
そうこうしているうちにチャイムが鳴ると、一人の子が腕を伸ばしながら投げやりに言う。
「もう決まらないから、秋山さんに任せる」
「それな。秋山さんのセンスなら任せても大丈夫だわ」
ショックだった。同じ美術部である私の名前がでなかったことに。
みんな私の絵を見ている。そのうえで彼女が選ばれた。自然とスカートを握る拳が固くなる。
「奥村さんと一緒に決まる」
秋山さんがみんなを静めるように言った。
「じゃあ二人に任せた」
再びアイドルの話をしながら、みんな自分の席に戻っていく。
「部活のとき決めよう」
「うん……」
心ここに在らずで頷く。秋山さんが椅子を引いた音がどこか虚しく聞こえ、遠ざかる足音に孤独を感じた。
「秋山さん、絵見せて」
誰かが言った言葉が耳に入った。何気ない言葉が痛みに変わっていく。
周りの人は私に絵の話をほとんどしない。絵を描いてと言われるのは、たいてい秋山さんだ。
それが少しづつ、世界と私を解離させていくように感じてきた。
夏休みが明け数週間が経った。この頃には、秋山さんの周りには常に人が集まっていて、彼女自身もよく笑うよになった。
体育祭のために作った応援旗は、今流行っているアニメのキャラを描き、クラスのみんなからは好評を得た。
私は月を描きたいと思っていたが、「クラスのみんなが好きなものにしよう」と秋山さんは言い、自分が否定されたように感じた。
クラスの中で自分だけが浮いている。世界だけが先に進み、自分は取り残されている。いつからかそう思うようになった。
だから必死に描いた。来る日も、来る日も絵を描き続けた。本を買って、動画もたくさん見て、夜中まで絵に没頭した。
「美月の絵も上手だけど、秋山さんは別格だよね」
そんな声を耳にした。
凡人はいくら努力しても、才能という壁を越えることはできない。
だんだんと美術部にも顔を出さなくなった。秋山さんを見ていると、自分という存在が薄まっていく気がしたから。
家に早く帰っても、特にすることはなかった。絵も描きたいと思わないし、かといって他にすることもない。
椅子に座ってぼーっとしていると、机の上にあるトロフィーが目に入った。
六年生の時、月をテーマにしたコンクールで金賞を獲ったときのものだ。そういえば去年の今ごろに……
私はスマホでコンクールの公募を調べた。
「あった」
締切は来週になっているが、すでに完成させた月の絵がある。私の中の最高傑作……今は準備室にあるため、明日家に持ってかえり発送することにしよう。
もう一度トロフィーを見ると、一層輝いて見えた。
翌日の昼休みに職員室に行き、牧野先生に応募していいか確認を取った。
「好きにしていいぞ」
いつも通り適当な返答だったが、私は高揚感に包まれていた。
放課後、美術部に絵を取りに行ったが、秋山さんが中に入るのが見えた。
ずっと顔を出していなかったため、彼女とはどこか気まづさがあった。最近はあまり話していない。
どうしようかと考えていると、美術室から秋山さんが出てきた。正面の階段を降りていく。
空き教室に身を隠していた私は、駆け足で美術室に入る。
中に入るとイーゼルが二脚並んでおり、片方には私が描いた月の絵。そしてもう一方には、『向日葵を抱えた少女が月を見上げている絵』が立てられていた。
たぶん秋山さんが描いたものだろう。私はその絵を見て絶句した。あまりの月の美しさに。
他の絵で負けるのは仕方ないと思っていた。でも月の絵だけは負けたくなかった。だが圧倒的な才能の前では、自分が守りたいものなど簡単に踏み潰されてしまうと知った。
「奥村だけか?」
振り向くと、牧野先生が入ってきた。
「秋山さんは今出て行きましたけど、たぶん戻ってくると思います」
「そうか……ん?」
先生は絵に気づくと、目の前まで行って足を止めた。
「どっちが奥村の絵だ?」
「海が描かれている方です」
「こっちは秋山か」
月を見上げる少女の絵を指差し、聞いてきた。
「たぶん」
先生の背中しか見えないが、何かを考えている様子は分かった。
うーん、という声が何度も美術室に響く。声が漏れるたび背中に寒気が走り、その先の言葉は聞いてはいけない気がした。
「奥村」
名前を呼ばれ、鼓動が速くなる。
「確か月のコンクールに出すって言ってたよな」
「はい……」
それ以上は言わないで。
「そのコンクールに出すのをやめて、他のにしたらどうだ? 奥村の絵も悪くはないが、秋山の絵は次元が違う。こっちの方が賞を獲る可能性が高い。だから来年に回すか、別のコンクールに出して、二人で賞を狙いにいくほうが効率いいと思わないか?」
私の方を振り向き、ドヤ顔で問いかけてきた。
「私の絵より、秋山さんの絵の方が素晴らしいってことですか?」
「単体で見たらこの絵でも賞を獲れそうなんだけど、並ぶと何か足らないように感じるんだよな」
下唇が痛かった。気づかないうちに強く噛んでいたみたいだ。もしかしたら血が出てるかもしれない。でもそんなのどうでもよかった。今は目に見える傷より、心が痛かった。
「そうですよね……そうします」
自分の絵を手に取って美術室から出ていった。横目に映った月の美しさが自分を醜くさせている、そう思いながら。
廊下に出ると、スケッチブックを持った秋山さんと出会した。
「大丈夫?」
ハンカチをポケットから取り出して、私の前に差し出してきた。
最初は何でハンカチ? と思ったが、視界がぼやけてることに気づいて急いで袖で拭った。
「大丈夫」と答えると、秋山さんは私が持ってる絵に視線を合わせた。
「ごめんなさい、勝手に拝借して。その絵を参考にして月を描こうと思って。私、その絵が……」
「あの絵、どれくらいで描いたの?」
一瞬悩んでいたが、すぐにどの絵か気づいたようだった。
「一ヶ月くらいかな」
「月を描いたのは初めて?」
「ちゃんと描いたのは初めて」
「そっか……」
夢というものは人を強くするものでもあるが、ときに残酷に人を傷つける。太陽の前では、月は輝くことができない。
何も言わずに階段を降りた。背中に刺さる視線を感じながら。
それから一週間後、秋山さんの周りに集まる人たちを眺めがら、静かに夢を枯らせた。
「最近部活に来ないけど、絵は描いてる?」
放課後、昇降口で靴を履き替えようとした時、秋山さんにそう聞かれた。
「……」
私は沈黙で返した。彼女になんて言えばいいのか分からなかったから。
「もし描いてないなら、一緒に描かない? 奥村さんが月を描いて、私が周りの情景を描く。共同で絵を創作したいなって……」
そんなことしたら、私の下手さが目立つだけだ。
彼女だけが賞賛され、私は再度心を折られる。
「できない……」
「そっか……もし一緒に描きたいと思ったら、部活に来て。私は奥村さんと絵を描きたい」
「……やめる」
「え?」
「絵はもうやめる」
秋山さんは放心状態で私を見ている。
「どうして?」
その問いかけには答えられない。
だって……あなたに筆を折られたのだから。
私は何も言わず、昇降口を出た。
秋山さんの「待って」という声を無視して。
彼女を見るだけで心が苦しかった。
そして、湧き出る黒い感情で自分を嫌悪する日々が、部屋のドアを開けることを拒んだ。
部屋にあった画材を段ボールにしまい、月の絵をクローゼットに閉じこめた。自分の絵を見ることすら苦痛を伴うようになったから。
これから先、私は誰にも求められないまま生きていく。絵を描かない私に価値なんてないから。
学校に行かなくなってから一ヶ月が過ぎた。
お母さんから理由聞かれたが、なんと答えればいいか分からなかった。
きっと大人には理解されない悩みだし、言ったとしても行けと言われるのがオチだ。
私にとって絵は人生そのものだったから「そのくらいで」と言われるのが嫌だった。
お兄ちゃんには絶対に言えない。千星ちゃんに絵をやめたことを知られたくなかったから。
言わないでと頼めば内緒にしてくれるだろうが、もしものこともある。私の絵を初めて褒めてくれた人に、自分の価値がなくなったと思われたくなかった。
ある日、お兄ちゃんが部屋に入ってきて絵具を渡さしてきた。私がよく使っていたアクリル絵具だ
「何で買ってきたの?」
「最近絵を描いてるところ見てないから、久しぶりに美月の絵を見たいなと思って。今日、千星と一緒に買いに行った」
千星ちゃんの名前が出てドキッとした。もしお兄ちゃんが絵をやめたことを察しているなら、そのことを話しているのではないか。そしたら千星ちゃんは失望するかもしれない。私から絵を取ったら何も残らなくなる。そしたらもう……
「絵は描いてる。昔も今も好きだから」
「そっか。じゃあ今度見せてほしい。美月の描いた月」
その優しい笑顔が私の胸を締め付けた。学校に行かなくなってからも、兄はいつも通り接してくれている。それが救いだった。すべてを失った私にとって、兄という存在が唯一残されたものだと思った。
だが、最後の光も失われた。
初雪の降る夜にこの世界から姿を消した。名前と同じ空へと旅立ち、私は一人になった。
――絵が好き
それがお兄ちゃんについた最後の嘘となった。
小学校に入学すると、みんなが友達を増やしていくのに対し、私の周りには喧騒だけが響いた。
教室から外で遊ぶクラスの子たちを眺めながら、その中で楽しそうに笑っている自分の姿を想像する。
みんなが私を囲んで、「美月ちゃん」と名前を呼ぶ。そんな夢を教室の隅で思い描いていた。
ある日の夜、お兄ちゃんとこっそり家を抜け出し、岬公園で月を見た。
夜というキャンパスに描かれた月は、今まで見た何よりも美しく、私はその光景を目に焼き付けた。
家に帰ったあと、夢中でノートに月を描いた。あの美しい月を手元に置いておきたいと思い、必死に思い出しながら色鉛筆に感情を乗せた。
このときの拙い月の絵が、私の夢の始まりだった。
それから一年経った小学二年生の秋ごろ、お兄ちゃんが初めて学校の人を家に連れてきた。
四年生までは陽一くんという仲の良い友達がいたらしいが、家に来たことはない。
その子が転校してからは、お兄ちゃんの口から友達の名前を聞いたことがなかった。
でも最近、女の子と一緒にいる所を学校でよく見かける。
今日来てるのは、たぶんその子だ。
私はそっと部屋の前まで行く。どんな話をしているんだろうか? 友達ってどういう風に作るんだろう? 私が知りたいことが目の前の部屋に詰まっていると思った。
ドキドキしながら中の声を聞こうとしたとき、急にドアが開いて女の子が目の前に現れた。いけないことをしているからか、目があった瞬間に体が動かなくなった。
「伊賀と甲賀どっちの者だ。名を名乗れ」
「奥村です」
名前を聞かれたと思い、そう答えた。
女の子は私を怪しんでいる。自分の家にいるのに泥棒になった気持ちがした。
「千星、俺の妹」
女の子の後ろで、お兄ちゃんが言った。兄の声を聞けたからか、少しホッとした。お巡りさんに職務質問を受けている人の気持ちが何となく分かった気がする。
「家康の後輩かと思った」
女の子がお兄ちゃんの方を向いて言う。
「伊賀も甲賀も後輩ではないから」
「地元の怖い先輩に率いられてるんじゃないの?」
「そんなヤンキーみたいな関係性じゃない」
なんの話をしているのか分からなかったが、二人のやりとりを見て、友達っていいなと思った。
「美月、この人は同じクラスの藤沢千星」
お兄ちゃんが紹介したあと、女の子は胸を張って「私が藤沢だ」とドヤ顔で言った。
「妹の奥村美月です」
六年生の人とはあまり話したことがなかったため緊張した。どこに目線をやればいいのか分からず、ずっと自分の靴下を見ていた。
「美月、絵を見せてあげて」
お兄ちゃんがそう言うので、二人を部屋に案内して月の絵を見せた。
初めて他人に絵を見せるため、どんな反応をされるのか怖かった。もし下手と思われたらどうしよう。そう考えたら急に心臓が大きく動いた。
「すごい、上手だ」
アクリル絵具で描いた『海の上空に浮かぶ月』の絵を見たあと、千星ちゃんは笑顔で言った。
褒められたこともそうだが、それ以上に、自分の描いた絵で人を笑顔にできたことが嬉しかった。
「絵ってこれだけ?」
「まだいっぱいある……」
「もっと見せてよ」
机の引き出しから小さいキャンバスボード取り出して見せると、千星ちゃんは目を輝かせていた。
「美月ちゃん本当に上手だね。将来、絵師になれるよ」
「私なんかじゃ無理だよ……」
「なれる。私がなれると言ったからなれる。なれ川なれ子だよ」
最後のは意味が分からなかったが、自分が認められたようで嬉しくなる。
後ろにいるお兄ちゃんを見ると、優しく微笑んでくれた。
初めて外の世界と繋がれた気がした。絵というものが自分の存在を肯定してくれて、生きる意味を与えてくれた。
それから千星ちゃんと仲良くなり、学校や家でよく話すようになった。
千星ちゃんはなぜか、同学年の子とあまり話していないみたいだった。私の前では笑ってくれるのに、六年生が目の前を通ると顔が暗くなる。
お兄ちゃんにそのことを話すと「千星にそのことは絶対に聞かないで」とだけ言われた。
触れてはいけないことなのかなと思い、それ以上は何も聞かなかった。
普段は学校で絵を描かなかった。
見られるのは恥ずかしいので内緒にしていたが、「みんなにも見せた方がいいよ」と千星ちゃんが言うので、昼休みに自分の席で絵具を用意し、海の上空に浮かぶ月を描いた。
「何描いてるの?」
クラスの女の子が上から覗き込んでいた。
どんな反応をするんだろう? 上手くないと思われたらどうしよう? そう考えたら、心臓が飛び出るんじゃないかと思うほどバクバクした。
「美月ちゃん上手だね。すごいよ」
「あ、ありがとう」
「ねえ見て、美月ちゃんって絵描けるんだよ」
その一言で、クラスの子が私の席に集まってきた。
「本当だ。すごい上手」
「綺麗なお月様だね」
「美月ちゃんすごい」
外の世界で聞こえていた音が、自分に向けられている。同じ音なのに、ひとりぼっちの時とは聞こえ方が違う。
「私にも教えてよ」
「うん……」
「じゃあ今日うちで描こうよ。美月ちゃんも来て」
「いいの?」
「うん」
ずっと頭の中で描いていたことが、絵というものを通して叶えられた。
絵が私と世界を結んでくれて、絵が私という存在を世界に教えてくれる。絵が私のすべてだと思った。
小学六年生に上がった頃には、もう寂しいという気持ちはなかった。友達もたくさん増え、羨ましく思っていた声が日常に溶け込んでいたから。
最初は拙かった絵もだいぶ上達した。
お小遣いで買ったイラスト集や教本、お父さんから借りたパソコンで動画を見ながら勉強し、人物や静物画も描くようになった。
でも一番多く描いたのは原点である月だ。始まりであり、私の世界を変えてくれたもの。
誕生日にUー35というアクリル絵の具を買ってもらい、今はそれを愛用している。
本当はゲームにしようと思っていたが、動画で見たときに欲しくなった。
画材にこだわると絵を描くのが楽しくなる。思い入れも強くなるし、モチベーションも高くなる。
将来はイラストの仕事に就く。SNSで流れる絵を見たときにそう思った。
いいねがいっぱい貰えて、コメント欄で賞賛を得られる。キラキラした世界で私も輝きたかった。
千星ちゃんにそのことを話したら、
「美月ちゃんなら絶対なれるよ」
初めて私の絵を褒めてくれた人がそう言ってくれた。
その言葉で、真っ直ぐ夢を追うことが出来る。
そして、今まで迷っていたコンクールに応募することを決めた。
規模は小さかったが、月をテーマにしたコンクールだったので絶対に出したかった。
月の絵だけは誰にも負けたくなかったし、自分なら賞を獲れる自信もあった。
だが初めての公募で不安が募り、千星ちゃんに背中を押してもらいたかった。
結果は、小学生の部で金賞を受賞した。
学校でも表彰され、先生も周りのみんなも褒めてくれた。
絵が私を照らしてくれる。絵が私の未来を彩ってくれる。絵が私という人間を証明してくれる。絵が私のすべてを作ってくれている。絵を描いたことで、人生は大きく変化し、幸せが滲む日々を手にすることができた。
中学に上がり、入学初日から新しい友達ができた。同じ小学校の子が、私の絵をみんなに紹介してくれたことで、話すきっかけを作ることができた。
「上手だね」
「奥村、すごいな」
月の絵をみんなが褒めてくれる。その声が自分を輝かせてくれるようだった。
だがその輝きは、より大きな光によって薄まっていくことになる。
私は美術部に入った。
部員は私も含めて四人しかいない。二年生が三人、一年生が私だけだった。
しかも先輩たちはすぐに帰り、顧問の牧野先生もなんか適当だ。
ガッカリしたが、美術室で絵を描くのはワクワクした。
染みついた絵具の匂い、使い古された画材、飾られた彫刻や絵、そのすべてが心を震わせた。
数日語、初めての美術の授業を迎えた。
みんなが教室を見渡し、ソワソワしているのが伝わってくる。
美術室は他の教室と違うので、別世界に感じているのかもしれない。
美術部の私からすると、その光景がなんだか嬉しく感じた。
牧野先生が入ってきて授業が始まった。最初は美術とは何かということを話していた。私は早く絵を描きたかったので、授業が終わらないか心配なり、何度も時計を見ては鉛筆を握りしめていた。
十五分経ち、話しが一区切り着く。やっとだと思い、気持ちが高ぶる。
「じゃあ今日は手を描くか」
手はそれなりに自信があった。教本に手の書き方が載っていたので、気分転換に描いてみたら思ったより上手くできた。
それからたまに描くので、この課題は難しいものではなかった。
みんな眉間に皺を寄せながら自分の手を見ている。その姿が面白かった。私はB4のスケッチブックに澱みなく鉛筆を動かしながら、描き終えた後のことを想像していた。
――美月ちゃん上手
――手も描けるんだ
称賛されている自分を頭で思い描いていると、一人の生徒が大きな声を上げた。
「めっちゃ上手じゃん!」
私は廊下側に座っている。でも、声は反対側の方から聞こえた。
窓側を見ると、みんなが一人の席に集まっている。確かあの席は秋山さんだったと思う。
秋山さんはクラスの中でも一目置かれた存在だ。
見た目や雰囲気が大人っぽく、みんなから密かに憧れを抱かれている。男子もよくチラチラと見ていた。
でもクールな印象からか、話しかけたくても話しかけられない、クラスではそんな立ち位置だった。秋山さんもあまり話す人ではないから余計にだ。
私もみんなが集まっている場所に向い、その中心にある一枚の絵を見た。
声を失った。鉛筆だけで書かれた手は、絵ではなく本物のように見えた。造りものではなく生きている、そう感じた。
「秋山さんすごい」
「俺にも教えてよ!」
称賛の声が飛び交うたび、何かを奪われたような感覚が襲った。
「上手いな秋山」
牧野先生が来てそう言った。そのあと私を見るなり、
「奥村、お前は美術部だろ。秋山に負けてられないぞ」
――勝てない、そう思わせるほどの画力だった。
「奥村のも見せてよ」
一人の男子がそう言いうと、私の席に向かう。それに倣って他の子もついて行く。
『見ないで』心で叫びながら後を追ったが、間に合わなかった。
「あー……」
「でも上手だよね」
気を遣ったことがすぐに分かるような褒め方だった。
美しい花の後では、造花で心は揺らせない。人生で初めての挫折を味わった瞬間だった。
昼休みにも秋山さんの周りには人が集まっていた。
一人の生徒が「絵を見せてよ」と言うと、秋山さんは鞄からスケッチブックを取り出して開いた。私も気になり見にいく。
そこに描かれていたのは漫画のキャラや幻想的な風景で、色は透明水彩で塗られている。どれも目を惹きつけるほど上手で、私には絶対に描けない絵だった。
大衆的な絵だが、そこに技術がある。SNSに出せばバスるだろう。みんな私の絵を見たときより目を輝かせている。その光景に胸が苦しくなり自分の席に戻った。
「このキャラ私好き!」
「これ、秋山さんのオリジナルなの?」
「すごい、めっちゃ綺麗!」
中学生なら私の絵より、秋山さんの絵の方を好むだろう。
外の世界から聞こえてくる喧騒が、心の中に黒い感情を垂らしてくる。彩っていた自分の世界に、あの頃の色が再び滲んできた。
それから三日経った日の放課後、美術室に向かおうとすると秋山さんから声をかけられた。
「奥村さんも絵を描いてるんだよね?」
「うん……」
「みんなが奥村さんの月の絵がすごいって言ってたから」
月の絵は私の中でも特別で、これだけは他の人にも負けない自信がある。
「見せてほしいなって……」
恥ずかしながら俯むいて言う表情が美しかった。絵にしたいと思うほど。
「美術室に置いてあるから見に来る?」
「うん」
鞄の中にあるスケッチブックでも良かったが、それを見せるのは怖かった。だから自分の中で一番自信のある作品を彼女に見せようと思った。
二人で美術室に向かう間、秋山さんは何も話さなかった。私も自分の絵がどう思われるかという不安で頭の中がいっぱいだった。
美術室に着き準備室に案内した。私は部屋の奥にあるイーゼルに被さっていた布に手をかける。
指が震えた。布を取れば私の絵を秋山さんが見ることになる。この絵は小学生のときから半年以上かけて描いた絵だ。三日前にやっと完成させた。
もし反応が悪かったとき、私のすべてが否定されることになる。それだけは嫌だ。
静けさが緊張を煽るなか、覆いかぶさっていた布を取った。
アクリル絵具で描いた『海の上空に浮かぶ月』の絵。最高傑作であり、自分自身でもある。
反応を知りたかったが秋山さんの顔を見れなかった。その顔に浮かぶ表情で心の中が分かってしまう。視線を自分の足元に置き、声を待った。
だが、しばらく沈黙は続き秒針の音だけが響いた。何を思っているんだろう? 良かったのかな? 悪かったのかな? 頭の中で思考が右往左往する。
あまりに無言の時間が長かったので、耐えきれず秋山さんの顔を見ると、彼女の目は少し輝いているように見えた。
「これはアクリル絵具?」
「うん」
やっと発した言葉はすぐに途絶えた。
どう? その一言が言えれば良かったが、怖くて聞けなかった。空気感に耐えられず、
「私、向こうにいるから、何かあったら言って」
「うん」
準備室を出て椅子に座った。結局どう思っているのか分からずモヤモヤとする。
しばらくの間、秋山さんは準備室から出て来なかった。
オレンジの光が差し込む美術室は静寂さに包まれていた。
一週間後、美術部に秋山さんが入部した。
彼女は人物、静物、風景どれも上手で、しかも絵の幅も広かった。
美術館に飾られているような芸術的な絵も描けば、大衆的なアニメチックな絵も卒なく描く。
そのどれもが目を見張るもので、才能の残酷さを思い知らされた。
部活の時間はニ人きりで絵を描くことが多かった。
彼女は淡々と描くだけで特に会話もなかったが、私がアクリル絵具で月の絵を描いてるときだけ、彼女の視線を感じた。それが緊張を誘い、部活が終わった頃には、筆の軸に染み付きそうなくらい手汗をかいた。
この日も、お互い無言のまま美術室で絵を描いていた。
私はスケッチブックに月のラフ画を描き、秋山さんは一列挟んだ隣の席で、水彩ペンでキャラクターの絵に色を塗っている。
『私の月の絵どうだった?』
この一言が今も言えない。秋山さんは絵の感想を言ってくれないため、ずっとモヤモヤしている。
いつか言ってくれると期待したが、待っていても聞けそうにないので、きっかけ作りで話しかけてみることにした。
「秋山さんて、誰かに絵を習ってたりしたの?」
「動画見ながら描いてただけ」
絵を塗りながら秋山さんは答える。
「そうなんだ……」
才能の差を感じさせられたため心が折れそうになった。
上手い人に習っていたなら、まだ自分を保てていたかもしれない。
だが、私と同じ手法で描いてきたとなれば、環境のせいにはできなかった。
「奥村さんは?」
「私も動画とか本を見て勉強した」
「月の絵も?」
「うん。でもひたすら描いて、徐々に上手くなっていったって感じかな。初めて描いたのも、初めて褒められた絵も月だった。だから私にとって、月の絵は特別なものなんだよね」
「上手だった……月の絵」
秋山さんを見ると、体をこちらに向けている。だが、視線は私の周りを泳いでいた。
「ありがとう……」
いつもならもっと素直に言えるのに、今日は小さな声で言ってしまった。
千星ちゃんは嬉しいことがあると、よくタップダンスを踊っている。意味が分からなかったが、今ならその気持ちが理解できる。
「秋山さんは将来、絵の仕事に就くの?」
「まだ分からない。でもたくさんの人が私の絵を見て笑顔になってくれたらって思ってる」
なんか意外だった。秋山さんの口からそういう言葉を聞くのは。
「できるよ、秋山さんの絵なら。だって上手だもん」
少しだけ秋山さんの口角が上がった。だが私の視線に気づくと表情を戻した。
「秋山さん、笑った顔のほうがいいよ。クールな感じがするから、みんな話かけづらいんだと思う。それに笑顔も可愛いし」
「……そうしてみる」
照れくさそうに頬を赤らめる秋山さんは、すごく可愛かった。
六月にある体育祭に向け、クラスで応援旗を作ろうということになった。
私と秋山さんが中心となって、クラスの女子数名と共に、昼休みの教室で相談していた。
「なんか可愛い感じのがいい」
「かっこいいのもよくない?」
「キャラクターがあったほうがいいでしょ?」
みんな自分の好みを言い合っていて中々話がまとまらない。
だんだんと面倒くさくなってきたのか、アイドルに話題がすげ替えられた。
そうこうしているうちにチャイムが鳴ると、一人の子が腕を伸ばしながら投げやりに言う。
「もう決まらないから、秋山さんに任せる」
「それな。秋山さんのセンスなら任せても大丈夫だわ」
ショックだった。同じ美術部である私の名前がでなかったことに。
みんな私の絵を見ている。そのうえで彼女が選ばれた。自然とスカートを握る拳が固くなる。
「奥村さんと一緒に決まる」
秋山さんがみんなを静めるように言った。
「じゃあ二人に任せた」
再びアイドルの話をしながら、みんな自分の席に戻っていく。
「部活のとき決めよう」
「うん……」
心ここに在らずで頷く。秋山さんが椅子を引いた音がどこか虚しく聞こえ、遠ざかる足音に孤独を感じた。
「秋山さん、絵見せて」
誰かが言った言葉が耳に入った。何気ない言葉が痛みに変わっていく。
周りの人は私に絵の話をほとんどしない。絵を描いてと言われるのは、たいてい秋山さんだ。
それが少しづつ、世界と私を解離させていくように感じてきた。
夏休みが明け数週間が経った。この頃には、秋山さんの周りには常に人が集まっていて、彼女自身もよく笑うよになった。
体育祭のために作った応援旗は、今流行っているアニメのキャラを描き、クラスのみんなからは好評を得た。
私は月を描きたいと思っていたが、「クラスのみんなが好きなものにしよう」と秋山さんは言い、自分が否定されたように感じた。
クラスの中で自分だけが浮いている。世界だけが先に進み、自分は取り残されている。いつからかそう思うようになった。
だから必死に描いた。来る日も、来る日も絵を描き続けた。本を買って、動画もたくさん見て、夜中まで絵に没頭した。
「美月の絵も上手だけど、秋山さんは別格だよね」
そんな声を耳にした。
凡人はいくら努力しても、才能という壁を越えることはできない。
だんだんと美術部にも顔を出さなくなった。秋山さんを見ていると、自分という存在が薄まっていく気がしたから。
家に早く帰っても、特にすることはなかった。絵も描きたいと思わないし、かといって他にすることもない。
椅子に座ってぼーっとしていると、机の上にあるトロフィーが目に入った。
六年生の時、月をテーマにしたコンクールで金賞を獲ったときのものだ。そういえば去年の今ごろに……
私はスマホでコンクールの公募を調べた。
「あった」
締切は来週になっているが、すでに完成させた月の絵がある。私の中の最高傑作……今は準備室にあるため、明日家に持ってかえり発送することにしよう。
もう一度トロフィーを見ると、一層輝いて見えた。
翌日の昼休みに職員室に行き、牧野先生に応募していいか確認を取った。
「好きにしていいぞ」
いつも通り適当な返答だったが、私は高揚感に包まれていた。
放課後、美術部に絵を取りに行ったが、秋山さんが中に入るのが見えた。
ずっと顔を出していなかったため、彼女とはどこか気まづさがあった。最近はあまり話していない。
どうしようかと考えていると、美術室から秋山さんが出てきた。正面の階段を降りていく。
空き教室に身を隠していた私は、駆け足で美術室に入る。
中に入るとイーゼルが二脚並んでおり、片方には私が描いた月の絵。そしてもう一方には、『向日葵を抱えた少女が月を見上げている絵』が立てられていた。
たぶん秋山さんが描いたものだろう。私はその絵を見て絶句した。あまりの月の美しさに。
他の絵で負けるのは仕方ないと思っていた。でも月の絵だけは負けたくなかった。だが圧倒的な才能の前では、自分が守りたいものなど簡単に踏み潰されてしまうと知った。
「奥村だけか?」
振り向くと、牧野先生が入ってきた。
「秋山さんは今出て行きましたけど、たぶん戻ってくると思います」
「そうか……ん?」
先生は絵に気づくと、目の前まで行って足を止めた。
「どっちが奥村の絵だ?」
「海が描かれている方です」
「こっちは秋山か」
月を見上げる少女の絵を指差し、聞いてきた。
「たぶん」
先生の背中しか見えないが、何かを考えている様子は分かった。
うーん、という声が何度も美術室に響く。声が漏れるたび背中に寒気が走り、その先の言葉は聞いてはいけない気がした。
「奥村」
名前を呼ばれ、鼓動が速くなる。
「確か月のコンクールに出すって言ってたよな」
「はい……」
それ以上は言わないで。
「そのコンクールに出すのをやめて、他のにしたらどうだ? 奥村の絵も悪くはないが、秋山の絵は次元が違う。こっちの方が賞を獲る可能性が高い。だから来年に回すか、別のコンクールに出して、二人で賞を狙いにいくほうが効率いいと思わないか?」
私の方を振り向き、ドヤ顔で問いかけてきた。
「私の絵より、秋山さんの絵の方が素晴らしいってことですか?」
「単体で見たらこの絵でも賞を獲れそうなんだけど、並ぶと何か足らないように感じるんだよな」
下唇が痛かった。気づかないうちに強く噛んでいたみたいだ。もしかしたら血が出てるかもしれない。でもそんなのどうでもよかった。今は目に見える傷より、心が痛かった。
「そうですよね……そうします」
自分の絵を手に取って美術室から出ていった。横目に映った月の美しさが自分を醜くさせている、そう思いながら。
廊下に出ると、スケッチブックを持った秋山さんと出会した。
「大丈夫?」
ハンカチをポケットから取り出して、私の前に差し出してきた。
最初は何でハンカチ? と思ったが、視界がぼやけてることに気づいて急いで袖で拭った。
「大丈夫」と答えると、秋山さんは私が持ってる絵に視線を合わせた。
「ごめんなさい、勝手に拝借して。その絵を参考にして月を描こうと思って。私、その絵が……」
「あの絵、どれくらいで描いたの?」
一瞬悩んでいたが、すぐにどの絵か気づいたようだった。
「一ヶ月くらいかな」
「月を描いたのは初めて?」
「ちゃんと描いたのは初めて」
「そっか……」
夢というものは人を強くするものでもあるが、ときに残酷に人を傷つける。太陽の前では、月は輝くことができない。
何も言わずに階段を降りた。背中に刺さる視線を感じながら。
それから一週間後、秋山さんの周りに集まる人たちを眺めがら、静かに夢を枯らせた。
「最近部活に来ないけど、絵は描いてる?」
放課後、昇降口で靴を履き替えようとした時、秋山さんにそう聞かれた。
「……」
私は沈黙で返した。彼女になんて言えばいいのか分からなかったから。
「もし描いてないなら、一緒に描かない? 奥村さんが月を描いて、私が周りの情景を描く。共同で絵を創作したいなって……」
そんなことしたら、私の下手さが目立つだけだ。
彼女だけが賞賛され、私は再度心を折られる。
「できない……」
「そっか……もし一緒に描きたいと思ったら、部活に来て。私は奥村さんと絵を描きたい」
「……やめる」
「え?」
「絵はもうやめる」
秋山さんは放心状態で私を見ている。
「どうして?」
その問いかけには答えられない。
だって……あなたに筆を折られたのだから。
私は何も言わず、昇降口を出た。
秋山さんの「待って」という声を無視して。
彼女を見るだけで心が苦しかった。
そして、湧き出る黒い感情で自分を嫌悪する日々が、部屋のドアを開けることを拒んだ。
部屋にあった画材を段ボールにしまい、月の絵をクローゼットに閉じこめた。自分の絵を見ることすら苦痛を伴うようになったから。
これから先、私は誰にも求められないまま生きていく。絵を描かない私に価値なんてないから。
学校に行かなくなってから一ヶ月が過ぎた。
お母さんから理由聞かれたが、なんと答えればいいか分からなかった。
きっと大人には理解されない悩みだし、言ったとしても行けと言われるのがオチだ。
私にとって絵は人生そのものだったから「そのくらいで」と言われるのが嫌だった。
お兄ちゃんには絶対に言えない。千星ちゃんに絵をやめたことを知られたくなかったから。
言わないでと頼めば内緒にしてくれるだろうが、もしものこともある。私の絵を初めて褒めてくれた人に、自分の価値がなくなったと思われたくなかった。
ある日、お兄ちゃんが部屋に入ってきて絵具を渡さしてきた。私がよく使っていたアクリル絵具だ
「何で買ってきたの?」
「最近絵を描いてるところ見てないから、久しぶりに美月の絵を見たいなと思って。今日、千星と一緒に買いに行った」
千星ちゃんの名前が出てドキッとした。もしお兄ちゃんが絵をやめたことを察しているなら、そのことを話しているのではないか。そしたら千星ちゃんは失望するかもしれない。私から絵を取ったら何も残らなくなる。そしたらもう……
「絵は描いてる。昔も今も好きだから」
「そっか。じゃあ今度見せてほしい。美月の描いた月」
その優しい笑顔が私の胸を締め付けた。学校に行かなくなってからも、兄はいつも通り接してくれている。それが救いだった。すべてを失った私にとって、兄という存在が唯一残されたものだと思った。
だが、最後の光も失われた。
初雪の降る夜にこの世界から姿を消した。名前と同じ空へと旅立ち、私は一人になった。
――絵が好き
それがお兄ちゃんについた最後の嘘となった。