リビングのサイドボードの上に小さな仏壇が置かれている。仏壇の中には蒼空の写真があり、笑ってこちらを見ていた。
 この写真は高校の入学式のときに、蒼空の家族と私の家族が校門の前で撮ったときのものだ。私も持っているため、すぐに気づいた。
 香炉に線香を刺し、目を瞑って手を合わせる。
 線香の匂いが鼻腔の中に入ってくると、蒼空がこの世界にいないことを再度認識した。
 目を開け、蒼空の写真を見てからダイニングに着いく。
 蒼空のお父さんは仕事でいないらしい。ホテルで勤務していると前に聞いた。土日は忙しいのだろう。
 キッチンから美里さんが出てきて、湯呑みに入ったお茶ときんつばを私の前に置いた。きんつばは仏壇に備えられたものと同じものだ。
「蒼空、きんつば好きだったんだよね」
 そう言って私の前に座り、頬杖をつきながら仏壇に視線を送った。
 懐かしむような声だったが、目はどこか切なさを宿している。
 その顔を見たとき謝らなきゃいけない思った。私が逃げ出さなければ蒼空が亡くなることはなかった。
 あのときのことを話さないといけない。
「美里さん、蒼空が亡くなったのは私のせいなの。蒼空の気持ちを聞くのが怖くて逃げ出した。それで追いかけてきたときに……」
「千星」
 美里さんは私の言葉を遮り、真っ直ぐな目で私を見てきた。双眸に優しさが滲んでいる。
「千星のせいじゃない。蒼空は罪悪感を感じなから生きてほしいなんて思ってない。そんな悲しい顔してたら、蒼空も嫌がるでしょ?」
「でも、私を庇って……」
「なら蒼空の分まで生きて。千星がこれからしないといけないのは償いじゃない。笑って生きること。それが私たちの求めることだよ」
 その言葉が涙腺を緩ませる。ここで泣くのはダメだ。美里さんの方が辛いんだから。
 私は奥歯をグッと噛んで堪えた。美里さんは我慢しなくていいよと言ったが、絶対に泣かないと決めた。
 楽になるためにここに来たのではない。私は背負う覚悟を持つために謝りにきたのだから。
 全身に力を込めて涙を阻止した。かなり踏ん張った顔をしていたからなのか、美里さんは優しく笑っていた。
「ありがとう、美里さん」
「うん」
 気持ちが少し落ち着いてきてから感謝を述べた。
 言葉は不思議な力を持っている。死に追いやることもあれば、命を掬うこともある。
 今の私は、優しさに染められた美里さんの言葉に救われた。
 そのあと美月ちゃんのことを聞いた。まずは引きこもっている理由を探さなければ。
「蒼空から聞いたんだけど、美月ちゃん学校行ってないの?」
 本当は結衣さんに聞いたが、蒼空からということにした。名前を出したら結衣さんのことを聞かれる。そしたら記憶を消されるかもしれない。
「ニヶ月くらい前から行かなくなったの。本人に理由を聞いても答えてくれない。担任に学校での様子を聞いたんだけど、いじめられてるとかはないらしんだよね。普通に友達もいるみたいだし」
 その心配もしていたが、もしないのだとしたら良かった。
「今、美月ちゃんいる?」
「部屋にいるよ」
「会ってもいい?」
 美里さんは「うん」と頷き立ち上がった。二人でリビングを出てニ階に上がる。
 一番奥にある部屋が美月ちゃんの部屋だ。その隣には蒼空の部屋がある。一緒に勉強やゲームをしたことが頭の中に映し出された。
「美月、千星が来た」
 美里さんはドアをノックしたあと、私が来てることを告げた。そもそも出てくるんだろうかと心配したが、少ししてドアが開いた。
「千星ちゃん、久しぶり」
 腰のあたりまで伸びたおさげを揺らしながら、パジャマ姿で出てくるなり満面の笑みで私を出迎えた。
 顔色は悪くなそうだったのでそこは安心したが、思ってた反応と違いびっくりした。
「ひ、久しぶり」
「入って」
 引網のごとく腕を引っ張られ、部屋の中に押し込まれた。私が入るとすぐに美月ちゃんはドアを閉める。
「ここ座って」
 美月ちゃんは学習机の前に置かれたキャスター付きの椅子を回転させ、私の方に座面を向けた。
 座面の高さが低かったので少し上げて座ると、正面に三段のメタルラックが見えた。
 一番下の段には漫画が積まれており、ほとんどが少女漫画だ。なぜかラブコンの五巻と七巻の間にボボボーボ・ボーボボの六巻が挟まっている。
 五巻の終わりに何があったか分からないが、テイスト変わりすぎだろ。同じラブコメでも毛色が違いすぎる。
 真ん中の段にはゲーム機があり、一番上の段にはテレビが置かれていた。
 ラックの隣にはガムテープで閉じられてるダンボールがある。
「ゲームやろう」
 美月ちゃんはゲームのセッティングを始めた。
 部屋を見渡すと画材道具が置かれてないことに気づいた。美月ちゃんは美術部だし、何より絵が好きだったはず。だが部屋には痕跡すら見当たらない。
 唯一近しいものといえば、机の上に置いてある金色に施されたトロフィーだけだった。『月のアートコンクール・小学生の部・金賞』と台座に書かれている。
「はい」
 ワイヤレスのコントローラーを渡された。美月ちゃんも同じカラーのコントローラを持ってベッドの上に座る。
 テレビ画面に映ったのは、赤い帽子を被ったおじさんたちがゴーカートに乗って順位を競い合うレースゲームだ。
 美月ちゃんは金髪のお姫様を選び、私は緑の恐竜を選んだ。
 スタートして間もなく、ゴリラが私に赤甲羅を当ててきた。ムカついたので執拗にゴリラにぶつかりにいく。
 もはや順位など関係なく、ゴリラが私に赤甲羅を当てたことを後悔させるため、待ち伏せして甲羅を投げ続けた。
「千星ちゃん、ルール間違ってる」
 そう言われたのでゴリラ狩りやめ、キノコ狩りをすることにした。
 美月ちゃんは楽しそうな顔でゲームをしており、引きこもっているようには思えなかった。
 それにものすごく違和感を感じた。
 学校に行けていない現状や、蒼空が亡くなってからまだ一ヶ月ということを考えると、幼い少女の無邪気な笑顔は何かを取り繕っているように思える。私の方を見るときの笑顔も、口角を無理に引き上げているように見えた。
 会話の隙間に落ちた沈黙も美月ちゃんはすぐに拾った。ゲームやアニメの話で埋めて、主導権を常に自分の傍に置いておく。
 聞かれたくないことがある。直感でそう感じた。
 雪乃と花山のことを思い出した。表面では自分の中にあるものを隠して、別の顔を作る。
 同じように何かを抱えていて、それを見せたくないのかもしれない。
 でも、笑顔は本心を隠すためにあるものじゃない。
 直接美月ちゃんに聞こうか考えたが今はやめた。
 何も聞かないで側にいてくれる人を求めているかもしれない。
 こういうのはタイミングやきっかけが大事になるから、今日はそばにいるだけにしよう。
 数時間経ち、窓からオレンジに染まった西日が差し込んできた。あまり長居をするのはよくないと思い、私はコントローラーを机に置き、帰る支度をした。
「もう帰るの」と美月ちゃんに言われたため、もう少し居ようか考えたが、夕飯前だったので帰ることにした。
 リビングに行き、美里さんに挨拶をしようとすると「家まで送ってくよ」と言われ、二人で玄関を出た。
 住宅街を美里さんと歩く。二人きりで歩くのは中学生以来だ。
「美月が楽しそうにしてるの久しぶりに聞いた」
「部屋の前にいたの?」
「最初だけね」
「いつもは違うの?」
「何も喋らないし、もっと暗い。まあ、私が厳しく言ったせいもあるんだけどね。理由聞いても言わないから『じゃあ学校行け』って怒っちゃったの。でも久しぶりに笑い声を聞けて安心した。昔から千星には懐いてたもんね」
 私によく絵を見せてきた。褒めるとすごく嬉しそうな顔をしていて、それが可愛かった。
「美月ちゃんはなんで学校に行かなくなったんだろう?」
「蒼空が言ってたんだけど、家で絵を描かなくなったって」
「将来はイラストの仕事就くとか言ってなかった?」
 絵はかなり上手かった。素人目でも分かるくらいに。よく月を描いていた。
「うん。中学でも美術部に入ったし、友達に褒められたって嬉しそうにしてたけど、半年くらい前から一切、絵の話はしなくなった」
 絵のことで何かあったのかもしれない。起因がそこにあるのだとすれば解決策を辿れる。
「でも部活でも何かあったとかはないみたい。担任が美術部の顧問に聞いて、そう言ってたらしい」
「じゃあなんで絵を描かなくなったんだろう?」
 二人で夕日を眺めながら思案したが、全く想像できなかった。
 まだ情報が少なすぎるし、今日の様子だけでは何も判断できない。
 でも取り繕っているように見えたから、笑顔の裏側には苦悩があるのかもしれない。それと、私には悟られないように気丈に振る舞っていたのも気になる。
 頭の中で思考を巡らせていると、家に着いた。
「千星、今日は来てくれてありがとう。また来てよ」
「うん」
 美里さんは「お母さんによろしく」と言って踵を返し、戻っていった。
 私は自分の部屋に戻り、部屋着に着替えてからベッドの上に横になった。
 美月ちゃんの今日の様子を頭に浮かべながら、学校に行かなくなった理由を自分なりに考えた。
「なんでだろう?」
 結局分からず、口から疑問符が零れた。
 ため息混じりに寝返りを打つと、カラーボックスに並べられた小説が目に入った。その中の黒いハードカバーに視点を合わせる。
 しばらく眺めていると、ふと頭の中をよぎるものがあり、その本を手に取った。
 表紙の中央には流れ星に乗った男の絵が描かれており、上部に『夜の祈りは星になる』と黄色い文字で書かれいる。タイトルの下には枯木青葉の文字が置かれていた。
 これは枯木青葉が亡くなってから発表された作品だ。
 孤独を抱える主人公が、死んだ人間の未練を叶えるという物語。
 私と同じだと思いながら、適当にページを捲っていく。
 真ん中あたりのページで指が止まった。
 そこには『枯れた花に願いは届かない』というセリフがある。
 結衣さんは前に『願うだけでは花は咲かない』と言っていた。この言葉と似ている。
 枯木青葉は都市伝説をモチーフに描いてるが、この作品だけモチーフとなるものが調べても出てこない。
 そしてこの本は『人が死ぬと流れ星が落ちる』という一文から物語が始まる。
 亡くなってから発表……死んだ人の未練を叶える……枯れた花に願いは届かない……最後の作品だけモチーフとなったものが不明……人が死ぬと流れ星が落ちる……
 出てきたワードを縒り合わせて、一つの仮説をたてた。
 枯木青葉は亡くなった後、流星の駅で誰かに未練を託した。
 その未練がこの本だ。
 あくまで仮説だが重なる部分がいくつかある。
 私はタイトルの部分を親指で撫で、しばらく表紙を眺めていた。

 日曜日の午後、コンビニで二リットルの炭酸飲料と表面がギザギザのポテトチップスを買って蒼空の家に向かった。
 その往路でレースゲームの動画サイトを見て勉強した。ロケットスタート、ドリフト、ジャンプアクション、色々な小技を覚えた。今ならあのゴリラを確実に仕留めることができる。一日たったが、赤甲羅を当てられたことは許していない。
 蒼空の家に着きインターホンを押すと、スピーカーから「ちょっと待ってて」と美里さんの声がした。
 なのでちょっと待ってると、女の子がやってきた。私から数メートル離れたところで立ち止まり、手に持った紙を見ている。
 腰あたりまで伸びた艶やかな黒い髪に、凛とした顔つき。幼さの隙間に大人びた雰囲気と気品を感じる。黒のニットとグレーのロングスカートが、よりその佇まいを強調させていた。
 目が合うと会釈をしてきたので会釈で返した。たぶん中学生くらいなので、美月ちゃんの同級生のなかもしれない。
 彼女に話しかけようとしたとき、美里さんが出てきた。
「上がって」
 いつものようにフランクな感じで言ってきた。私は美里さんのこういうところが好きだ。なんか姉さん感がある。
「美里さん」
「何?」
 私は離れた場所にいる彼女に視線を向ける。
 大人びた少女は腰を曲げ、綺麗な四十五度で一礼した。
 
 人は空気というもの作る。お互いの関係性やその時の心情、それらが相まって空間の色が決まる。
 今この場所に漂うのは、この二人の内面にある想いだと思う。
 部屋を通されたとき、美月ちゃんは笑顔で出迎えてくれた。それは昨日と変わらない。
 だが私の後ろにいた彼女を見たとき、表情に咲いた小さな花は、一瞬で萎れた。
 彼女の名前は秋山紗奈。美月ちゃんと同じクラスで彼女も美術部らしい。玄関で紗奈ちゃんからそう聞いた。
 美里さんも彼女のことはよく知らないように見える。家に来るのは初めてらしく、クラスの子に聞いたと言っていた。
 この二人は仲が良いのかと思っていたが、そうでもないらしい。二人の醸し出す空気でそう感じた。
 部屋に入ってから十分ほど経つが一切会話がない。美月ちゃんはベットの上、紗奈ちゃんは学習机の椅子、私は床に正座しており、ちょうど三角形の形になった。
 立場的に私は、底辺×高さ÷2でいう÷2の部分だろう。÷2が悪いわけではないが、底辺と高さの個性を否定しているように思えてしまう。底辺と高さに個性があるのかは疑問だが、『なんで俺たちを割ろうとするんだよ』そう言われている気がして÷2には同情の念を抱いていた。
 そして今、私が二人の間を割っているような気がする。良い意味で言えば空気の中和、悪く言えば話を切り出せない理由。たぶん邪魔だろうなと思い、申し訳なさが出てきた。
「私、帰ろうか?」
「千星ちゃんはいて」
 紗奈ちゃんからしたら帰ってとも聞こえる。気まずい空気が部屋を蝕んでいく。
 二人よりも大人な私がなんとかしなければいけない。そう思い、周りを見渡して沈黙を脱するきっかけを探した。
 目に入ったのは、学習机の上に置いてある炭酸飲料とポテトチップスだった。
 とりあえずパーティー感を出そうと思い、ポテトチップスに手を伸ばした。
「せっかくだから食べようか。表面がギザギザのやつ買ったの」
 二人は反応しない。それに焦った私は咄嗟に言葉を見繕う。
「このギザギザが好きで、いつかここに一軒家建てようと思ってるんだよね」
 何か言わないとと思った結果、自分でも意味が分からない言葉を口にしてしまった。
 こういうときは大抵、普段から思ってることを口走ってしまうものだ。私の潜在意識はポテトチップスに一軒家を建てようとしていたらしい。
 恐る恐る二人を見ると顔が死んでいた。
 気まずい空気を÷2するどころか二乗してしまった。きっとやばい女だと思われている。
 もしこれが合コンなら、このあと誰からも話しかけられず、一人でチャーハンを食べているやつだ。私がトイレに行っている間に会計を済まされ、帰って来たらチャーハンだけになってるやつだ。私以外の人でグループラインを作り、みんなで私をチャーハンと呼び合うやつだ。
 絶望に沈んでいると、気まずい空気から産まれたチャーハンの化け物をよそに、紗奈ちゃんが口を開いた。
「絵は描かいてるの?」
 変な空気が一瞬にして張り詰めた。たぶん核心に触れたのだろう。美月ちゃんの顔に陰りが見える。
 前までは、私が来たら真っ先に絵を見せにきたのに、昨日は絵の話すらしてこなかった。むしろ遠ざけているようにも感じた。
「もし描いてないなら描くべきだよ。やめるなんてもったいない」
 紗奈ちゃんは真剣な顔つきで言った。私が作った地獄の空気はすでに消えている。
 何も返答がなかったので美月ちゃんの方に視線を移すと、表情が固まっていた。そして徐々に顔が歪んでいく。
「ちゃんとした理由を聞いてない。なんであのとき絵をやめるって言ったの?」
 美月ちゃんにとって絵は夢だったはず。それを捨てていたことに衝撃が走る。
「なんでもいいでしょ」
「よくない、奥村さんは描くべきだよ」
「うるさい、もうやめるって決めたの。だから帰って」
「理由を聞くまで帰らない」
 美月ちゃんは口を噤んだ。喉元にある言葉を押さえるようにしながら。
「教えて、なんで絵をやめるって言ったの?」
 その言葉が引き金になったのか、押し出されるように美月ちゃんの口から言葉が零れた。
「私が絵を描けなくなった理由は、秋山さんだよ」
 紗奈ちゃんの顔に動揺が見える。それもそうだ、いきなり言われたら理解できない。
「どういう意味?」
「もう帰って」
「言ってくれなきゃ分からない」
「いいから帰ってよ」
 私は何も言えなかった。二人の関係性も事情も知らない。お互いの間にある隔たりを知らなければ、干渉すべきでないと思ったから。
「また来るから、そのときは理由を言って」
 紗奈ちゃんは静かに部屋を出ていった。追いかけようとも思ったが、美月ちゃんを一人だけ残して行くのは憚られた。
 どう声をかけようかと五分ほど思案していたら「ごめん千星ちゃん、今日は一人でいたい」と言われ、私も部屋を後にすることにした。
「何かあった?」
 リビングに行くと、美里さんが不安そうな表情で聞いてきた。
 たぶん下まで声が聞こえていたのだろう。しかもそのあとに紗奈ちゃんだけ先に出て行った。
「学校に行かなくなった理由は、絵をやめたことと関係するんだと思う」
 さっき部屋で起こったことを説明したあと、私はそう言った。
 美里さんは「そっか……」と表情を曇らせ、天井を仰いでいた。

 週明けの月曜日、朝に良い報告を受けた。
 雪乃が好きな相手に告白し、付き合うことになったみたいだ。
 日曜日に二人で映画を見に行き、その帰り道で彼に想いを伝えた結果、幼馴染が彼氏になった。
 雪乃は嬉しさを隠しながら昇降口で私に話した。それは照れ隠しとかではなく、蒼空を好きな私に気を遣ってのことだと思う。
「千星のおかげだよ。ありがとう」
「雪乃が頑張ったからだよ」と嬉しさを隠しながら言い返した。私の方は完全に照れ隠しだ。
 そしてもう一つ、花山が一年生に謝りに行った。
 連絡先の交換を求められた際に、花山は酷い断り方をしてしまった。
「謝りに行った方がいいよな」
「行くべき」
 そう聞いてきたので、即答で答えた。
 昼休み、花山は屋上前の踊り場にその子を呼び出した。
 私は”たまたま“そこに居合わせ一部始終を聞く。
 花山が頭を下げて謝ると、なぜか彼女も頭を下げて謝った。
「話したこともないのに急に呼び出したら、ああなりますよね。迷惑かけてごめんなさい。それとわざわざ謝りに来てくれてありがとうございます」
 礼儀正しい一年生に、花山は再度頭を下げて謝っていた。
 私がいたことを花山は気づいていたみたいで、後ですごく怒られた。
 言い訳をするなら、相手の子がすごい怒っている可能性もあり、そのときは間に入ろうと思っていた。
 結局何もなかったので、ただ興味本位で見に来ただけになってしまった。
 塩谷を殴った件について誤解を解いた方がいいと花山に言った。
 まずは相澤さんに話し、そのあと雪乃にも協力してもらえば、周りからの目も変わると思ったからだ。
「もういいよ。話したところで信じてもらえないだろうし、それにお前らも変な目で見られるかもしれないだろ。分かってくれる人間がいるってだけで救われる」
 花山は首を横に振ってからそう答えた。でも雪乃には話すと言うと「分かった」とだけ言い、教室へ戻っていった。
 花山と友達になったのかは分からないが、蒼空の未練は二つ叶えた。あとは美月ちゃんだけだ。
 なぜ絵をやめたのか。ここが起因になっていると思う。そしてそれは紗奈ちゃんだと言っていた。
 でも紗奈ちゃんもその理由を知らない。直接美月ちゃんに聞くしかないと思い、学校が終わってから蒼空の家に行った。
 リビングに入ると蒼空のお父さんがいた。ダイニングテーブルで真剣な顔つきでパソコンを打っている。
「蒼空パパ、久しぶり」
「ああ、千星ちゃん。久しぶり」
 私の顔を見て表情が柔らかくなった。蒼空の顔はお母さん似だが、優しい雰囲気はお父さんと似ている。
「今日は仕事休み?」
「うん」
 声も優しい。これも蒼空と似ている。
「ありがとね。美月に会いに来てくれて。今は家族だけしか会ってないから、千星ちゃんが来てくれると助かる」
「私で良かったらいつでも来るよ」
 ありがとね、とまた笑顔で言った。
 私は自分の家族より蒼空の家族と話すことのほうが多い。赤の他人の私を家族のように迎えてくれるから、それが心地良かった。だからこそ美月ちゃんの力になりたい。それは蒼空のためだけでなく、二人のためにも。
 美月ちゃんの部屋に行こうとすると、
「せっかく来てもらったところ悪いけど、今は誰とも会いたくないって。部屋からも出てこないんだよね」
 昨日の紗奈ちゃんとのことで、より深いところまで潜ってしまったのだろうか。だが本人に絵をやめた理由を聞かないと前に進めない。
 今日は蒼空と会う日だから、できれば理由を知りたかったが、一日置いた方がいい気がした。
「明日も来るって美月ちゃんに言っといて。会いたくなくても来るって」
「分かった」
 そのあと美里さんにお茶を出してもらい、三十分ほど三人で話したあと、家を出た。

 空を飛ぶ列車から星を眺めていた。
 対面に座る結衣さんは男とは何かを語っている。一区切りついたとこで、私は枯木青葉のことを聞いてみた。
「枯木青葉?」
 顎に手を添えながら考えている。
「亡くなってから小説を出版したんですけど、その本がベストセラーになったんです。物語の内容が、死んだ人の未練を叶えるってもので……」
「作家?」
「はい」
「あー、いたいた。流星の駅で未練を託してたよ」
 結衣さんはワントーン上げた声で頷いた。
「やっぱり。結衣さんが言ってた言葉と似ている台詞があったんです」
「なんて言葉?」
「『枯れた花に願いは届かない』、結衣さんが言ってたのは『願うだけでは花は咲かない』でしたけど」
 結衣さんは隣の座席を見た。どこか懐かしみながら、幻想を見るようにして。
「その作家、自分で命を絶ったのは知ってる?」
「はい」
 夕方のニュースで知った。三十秒ほどで枯木青葉の報道は終わり、次の話題に切り替わったのがショックだった。人の死より芸能人の不倫のほうが長い時間を割かれていたので、子供ながら大人ってくだらない生き物なんだと思った。
「自分が書きたいものを書いても売れない。世間は自分を理解できない。それに絶望したんだって」
 枯木青葉はデビュー作がピークと言われていた。本を出すたびに批判が増えたのは私も辛かった。
「そのときに言ったの。『願うだけでは花は咲かない』って。ただ自分のしたいことを書いてるだけでは、自分を満足させるための作品になってしまう。それでもいいなら何も言わない。でも、嘆くならなぜ理解されないのかを考えろ。その作家にそう言った」
 自ら命を絶った人間に対して厳しい言葉だ。でもこの人なら言いそう。
「向こうも『お前に何が分かるんだ』って怒ってきたんだけどさ、胸ぐら掴んで怒鳴り返したら静かになっちゃった」
 てへっ、みたいな顔をして言って来た。その顔が背筋に悪寒を走らせる。
「何て言い返したんですか?」
「たった一人でいいから、そいつの人生が変わるような本を書いてから死んでいけ」
 死んでいけ……会社の上司なら間違いなく問題になる。この人は現世で生きるには向かないと思った。
「そのあとに本を書いたんじゃないかな」
「枯木青葉も誰か呼んだんですか?」
「担当編集の人だったかな。確か……青木っていう男の人」
 私の仮説は当たっていた。枯木青葉は流星の駅に青木って人を呼び、最後の作品である『夜の祈りは星になる』を書いた。
「その青木って人と会って、枯木青葉の話を聞いてもいいですか?」
「なんで?」
「蒼空の妹が引きこもりになってるって言ってたじゃないですか? 彼女、自分の夢を捨ててしまったんです。その編集の人に枯木青葉のことを聞けば、何か参考になるかなと思って」
「うーん」
 と言いながら、結衣さんは宙を見て逡巡している。
 枯木青葉の最後の作品は、他の作品とかなり毛色が違っていた。二作品目から四作品目までは独りよがりと酷評されたが、死後の小説は絶賛された。
 きっと本人の中で何か変化があったんだと思う。その変化の経路に、美月ちゃんが再び絵を描くきっかけが落ちていたらと期待した。
「まあいいか、うん、いいよ」
 結衣さんは投げやりに答えた。
「青木って人には私から話しとくよ。だから千星ちゃんの携番教えて。電話かけさせるから」
 この間もそうだが、地上に簡単に来れるのだろうか? 普段はどこに住んでるのだろう? そんな疑問を抱きながら番号を伝えた。
 オッケーと軽く答えたので、ちゃんと覚えたのか不安になった。だが、本当に覚えましたか? なんて聞いたら殴られそうなので聞くのをやめた。
「向こうも忙しいだろうから、すぐにはかかってこないと思うけど気長に待ってて」
「はい。ありがとうございます」

 流星の駅に着き、一週間ぶりに蒼空と会った。
 いつもと変わらない優しい笑顔を見ると、どこか安心する。
 雪乃が付き合ったことを報告すると、「良かった」と安堵の表情を浮かべた。
 次に花山のことを話した。中学のときに何があったのか、何を抱えていたのかを。
「花山は自分の中にある優しさで自分を肯定していた。その軸となるものが信用できなくなって人を遠ざけてたのか」
「また傷つけられのが怖かったんだと思う。優しさを捨ててしまえば、傷を作らなくて済むから」
 でも背を向けた先で苦しみながら生きていた。ただ捨てただけでは人は救われない。
「優しさの向け方って難しいね」
 ぼやくように私は言った。
「そのとき、そのときでほしい優しさって変わるからな。でも常に相手が求める優しさを提示できる人なんていないし、相手だけに背負わせるのも違う。優しさを知るって、自分と相手を知ろうとすることなのかも」
 優しさは常に変化する。曖昧なものだからこそ、癒しにも傷にもなる。甘すぎるだけでも、厳しすぎるだけでも、優しさにはたどり着けないのかもしれない。
「千星、頑張ってくれてありがとう」
 唐突に言われたから反応できなかった。でも時間差で来る嬉しさに表情が緩まされた。
 だがすぐに顔を引き締め、美月ちゃんのことを話した。
「ごめん、無理言って」
「ううん、蒼空の家族にはお世話になってるし、私自身も力になりたいから」
 蒼空から再びありがとうと言われたが、嬉しさを噛み締めて美月ちゃんの話に戻した。
「蒼空は秋山紗奈って子、知ってる?」
「美術部の話は聞いたことあるけど、その子のことは知らない」
「絵を描くのをやめたのは、紗奈ちゃんが原因らしいんだよね」
「でも理由が分からない。本人も」
「うん」
 それを知っているのは美月ちゃんだけかもしれない。だから直接聞かないといけないのだが……
「部屋からも出てこないんだよね?」
「うん」
「紗奈ちゃんって子は絵を描かかせようとしてたんだよね。原因はその子よりも美月にあるのかも」
「どういうこと?」
「無理やりやめさせられたというより、自分からやめたってことでしょ? 紗奈ちゃんって子はわざわざ家まで来てるわけだし」
 彼女もそう言っていた。なんで絵をやめるのと。
「その子と話した?」
「まだちゃんと話してない」
 蒼空は視線を落として何か考えている様子だ。一度私を見ると、すぐに視線を落とした。
 なんとなく察しがついた。その案は私も億劫だが、美月ちゃんのためなら仕方ない。
「美術部に行ってみるよ」
「顧問は牧野だよ」
「うん。でも行かないと進めないから」
「ごめん」
「大丈夫、もう昔とは違うから」
 過去が足枷となっていたときは他人が嫌いだったが、雪乃や花山と接して人の見えかたが変わった。
 その纏わりついていた起因が溶ければ、新たな価値観を咲かす。自分の中にある考えかたで世界の景色は決まってくる。
 そのことを二人を通じて知ることができた。
「千星、強くなったね」
 蒼空に言われて顔が綻んだ。好きな人の言葉というものは自分に勇気を与えてくれる。
 その言葉で、私はまた一歩進めそうだった。