孤独は夜空で星を結ぶ

 雪乃が抱えていたものが分かった。
 褒められることが自分を苦しめるなんて、他人では理解できないかもしれない。人によっては雪乃の言う通り、自慢に聞こえてしまうだろう。
 彼女より完璧な存在がいないから、誰にも理解されないと奥底に閉じ込めてしまう。
 唯一、近い存在だった蒼空には、少しだけ自分を見せれたのかもしれない。
「富田雪乃という存在が自分を苦しめている。褒められたくてやっきたことが今は義務になってる。でもその重荷が下ろすことができない。染みついた思考は言葉も行動も支配する。好きな人にそれを向けたくないの」
――もし、好きな人を嫌いになったら
 あの質問の意味はそういうことだったのか。
 求められる自分を作り上げてきた雪乃にとって、『そうならなければならない』という脅迫概念に近いものが自然と出てきてしまう。
 それが積み重なれば『好き』という大切な気持ちが『嫌悪』に変わる。一歩踏み出せない理由はそれだった。
 雪乃はベンチの下に残る、溶けかけた雪を見ていた。
「雪ってさ、降り続けないと太陽に溶かされてしまう。その存在がなかったように日常が過ぎていくの。幼い頃はそれが怖かった。だから必死に努力した。消えないように。雪はきっと太陽のことが嫌いだと思う」 
 自分という存在が周りによって決まられてしまう。抗ったとしても何もなかったかのように世界は進んでいく。雪乃はその恐怖とずっと戦ってきたんだ。
「千星が部活を見に来てくれた日、私から声をかけたでしょ?」
 ほとんど接点がないのに不思議だった。
「自分と関わりがない人と話したかったの。蒼空がいなくなってから、学校では誰にも相談できなくなった。富田雪乃は誰かに弱音を吐かないから。だから精神的に不安定になってた。私のことを決めつけないでフラットに話せる人がほしかったの。たぶん千星のこと安定剤代わりにしようと思ってた。私、最低でしょ? 一緒に電車乗ったとき、子供が騒いでたでことがあったの覚えてる? あの時も『元気がいいね』って言ったけど、本当はうるさいと思ってたし、かなりムカついた。でも富田雪乃ならこう言うだろうなって言葉を繕ってしまう。そんな自分が本当に嫌になる」
 色んな選択肢があっても『周りが思ってる富田雪乃』が優先されてしまう。それが外の世界とのフィルターになっているんだと思った。
「私も一緒だよ。蒼空に依存してたし、安定剤代わりにしてたのかもしれない。電車で騒いでた子供の母親にも『味噌まみれになればいいのに』って思った」
「ごめん、私はそこまで思ってなかった」
 味噌まみれエピソードを出すタイミングではなかった。寄り添おうとするつもりが引かれてしまった。
「でも千星と話せて良かった。勇気をもらえたし、一歩踏み出そうとも思えた。それに自分のことを誰かに話すなんて一生ないと思ってたから、気持ちが楽になった」
 ありがとう、雪乃は笑顔で言った。もう吹っ切れた、みたいな笑顔で。
「想いは伝えないの?」
 そう聞いたら口を噤んだ。気持ちはまだ彷徨っているように見える。
「誰かのために頑張るってすごいことだと思う。それが義務になってたとしても、もっと自分を褒めていいんじゃないかな。春野くんの存在は大きかったかもしれない。だけど成績もバスケも周りからの信頼も、全部自分の力で得たものでしょ。自分を変えるために、誰よりも頑張ったから富田雪乃がいるんだよ。私はそれを悪いことだと思わない。だから、今までの自分を否定しなくていいよ」
 根本にあるものを変えようとするんじゃなく、認めてあげることが大事だと思った。
 苦しい中で頑張って生きてきたなら、それを肯定してあげたい。それが今の雪乃にとって必要なものだと思う。
「私はずっと受け身だった。蒼空がいたから自分で何かを変えようなんて思わなかったの。でも今は後悔してる。与えられているときは、幸せの価値を知ることはできない。失ったときに初めてその価値に気づけるから。取り戻せないと分かれば想いだけが心に残り、いずれ世界を歪めてしまう」
 もし蒼空が私を選んでなかったら、今も部屋に閉じこもり、世界から取り残されていたと思う。
 卑屈な後悔を垂れ流しながら、命を絶っていた可能性もある。
 知らなかった世界を見れたことで考え方が変わった。そのおかげで新たな道を見つけられた。
 私も蒼空のように誰かの居場所を作れる人になりたい。
「雪乃は私とは逆で、全部一人で抱えこんで道に迷ってしまった。二人ともバランスを崩していたのかもしれない。今までと同じような考えになったら私に相談して。良い言葉はかけられないけど、負担は減らせると思うから。もう一人で無理しなくていい。頼りないかもしれないけど、辛くなったら私がいる」
 ずっとブレーキを踏み続けていた私。ずっとアクセルを踏み続けた雪乃。お互い偏った生き方をしていたのかもしれない。
「雪乃、私と友達になって。片方だけがしがみついているような関係ではなく支え合えるような友達に。背伸びしなくてもいい自由な場所を作ろう。それと、他人に言われて好きな気持ちを捨てる必要なんてないよ。自分が求めるものも大事にして。富田雪乃だろうが、姉の妹だろうが、雪乃は雪乃だよ」
 雪は美しい。だけどその先で咲く花もまた美しい。
 季節を超えらなかったあなたに、春を知ってもらいたい。
「うん……言ってくる。大好きだって、付き合おうって。私の恋だから、私が決める」
 雪乃の目から涙が落ちた。
 雪解けに流れる一滴の雫のように。
 そのあと、私の過去も話した。
 なぜ人を嫌いになってしまったのか、なぜ他人と話せなくなったのか。雪乃はただ静かに、寄り添うように聴いてくれいた。
「私の前では自分らしくいて。私も千星の前では自分らしくいるから」
 話し終えると、雪乃はそう言ってくれた。
「蒼空の前と私の前では違うでしょ? 子供のお母さんを味噌まみれにしようとする千星が見たい」
 それは忘れてくれ。
「分かった」
 降り積もった雪が溶け、花笑むような笑顔がそこにはあった。
 
 お互いの好きなものを話し合っていたら、六限目もサボってしまった。
 私たちが学校に戻ると、下校する生徒たちが昇降口に溢れていた。
「雪乃、どこ行ってたの?」
 下駄箱で靴を履き替えようとしたとき、クラスの女子三人と鉢合わせした。
「面倒くさいからサボった」
 雪乃がそう言うと、三人は隣にいる私に視線を送る。藤沢と? と疑問視した目で。
「雪乃なんかあったの?」
「たまにはそういう時もあるんだよ、私にも」
「なら誘ってよ、私もサボりたかった」
「じゃあ今度サボってうち来ない? 雪乃にお菓子作り教わりたいし」
 その言葉で雪乃は俯いた。表情がだんだんと曇っていく。
「どうしたの雪乃?」
 一人の子が察して言葉をかけた。
 具合が悪いと思ったのか、心配そうに顔を覗いている。
 私は雪乃の背中に手を添えた。『大丈夫、私がいるから』そういう想いを込めて。
「ごめん、私お菓子作れないんだ」
 視線を落としたまま雪乃は言った。肩の震えが私の手に伝わってくる。
 普通の人にとっては何でもない言葉だが、雪乃にとっては長年縛り付いたものを祓う言葉だ。
 そこには痛みが伴うし、きっと不安だと思う。作り上げてきた富田雪乃という存在を否定されるかもしれないから。
「なんだ、言ってよ。じゃあ動画見ながら一緒に作ろう」
 雪乃は呆然としていた。
 本人の覚悟とは反比例し、“できない”ことがすんなりと受け入れられたからだと思う。
「うん。今度作ろう」
 声を震わせながら雪乃は言った。
 長年降り積もった想いが溶けていくように。
「え? 大丈夫?」
 ひとりの子がそう言った。雪乃の顔を見ると目が潤んでいる。
「大丈夫、部活だから行くね」
 靴を履き替え、二人で教室に向かう。
 背中から「藤沢さんと仲良かったんだ」と声が聞こえた。
「友達だからね」
 雪乃がつぶやくように言った言葉を、私は聞き逃さなかった。
 
 部活に行く雪乃と別れ、鼻歌を歌いながら校門を曲がろうとしたとき、男子生徒とぶつかった。
 忘れ物を取りに戻ったきたのか、反対方向から歩いてきた。
 鼻歌を聞かれた恥ずかしさから、私は顔を隠すようにして「すいません」と頭を下げる。
 こんなときに限ってアルマゲドンの主題歌をチョイスしてしまった。
 令和の女子高生にしては渋すぎた。明日から渋沢渋子と呼ばれるかもしれない。
 ぶつかった拍子に肩に掛けていた鞄を落としてしまった。拾おうとしたら相手が先に手をかける。
 相手の顔を見ると、同じクラスの花山翔吾だった。
 短髪で目つきが鋭く、身長も百八十くらいあるからか威圧感がすごい。不良漫画に出てきそうな風貌だ。中学生のときに同じクラスの人を殴ったという噂を耳にしたことがある。
 花山は鞄の持ち手を掴んだまま動かない。早く返してと思っていると、掴んでいた持ち手を離し、私を睨んでから校舎の方へ去っていった。
 何がしたいんだ花山。一度手にかけたなら拾え。そして女の子にぶつかったら謝れ。そのあとは舞踏会に招待して豪勢な料理を振る舞い、お土産にヘッドスパの回数券をプレゼントしろ。私の地元ではみんなそうするぞ。
 ふてぶてしい花山の背中にがんを飛ばし、鞄を拾って校門を出た。

 夜になり岬公園の展望広場に来ていた。これから一週間ぶりに蒼空と会う。
 学校から家に着いて、ずっとソワソワしていた。ソワソワというよりドキドキかワクワクかもしれない。いや、その三つが混ざったものとも言える。とにかく、嬉しいっていうことだ。
 雪乃の背中を押せたことは、ものすごく大きな一歩だった。
 蒼空との約束を果たしただけでなく、自分の変化、誰かの人生に影響を与える、今までの自分では考えられないことをこの一週間でやった。
 何かを待っているだけの人生では得られなかっただろう。これも全部蒼空のおかげだ。だから、会ったときにお礼を言おうと思う。
 直接ありがとうと言うのはなんだか恥ずかしかったので、スワヒリ語で言おうと思った。
 スマホで言語を検索しようとしたとき、夜空に流れ星が降る。
 その光は強い光を携えて展望広場に落ちた。纏う光を徐々に弱めていき、黄色い列車の姿をあらわにする。
 完全に光が消えると、列車の中から結衣さんが出てきた。
「やっほ」
 なんか古臭い挨拶だなと思った。
 結衣さんはニコニコしながらこちらに歩いてくる。 
 駆け寄って挨拶しようとしたら、握り潰すように私の頬を掴んできた。
「今、古臭い挨拶したなとか思っただろ」
「おぼってましぇん」
 頬を思いっきり潰されているためうまく喋れない。
「そうだよね、古臭いなんて千星ちゃんは思わないよね」
 目が笑っていない笑顔を浮かべながら、頬を握る手は力強さを増していく。
「ふぁい。もちろんです」
「よろしい」
 そう言ったあと、結衣さんは私の頬から手を話した。
「じゃあ行こうか」
 列車に向かう結衣さんの背中に「ババアめ」と、聞こえないような声で吐き捨て、後を付いていく。
 すると結衣さんはバッっと私の方を振り向き、
「今ババアって言った?」
「言っておりません。こんな綺麗で奥ゆかしく淑やかで艶やかなお姉様にババアだなんて言うわけがございません」
 蒼空のもとには綺麗な顔のまま行きたかったので、私が知るかぎりの褒め言葉を並べてみた。
「もうそんなに褒めないでよ。おばさんぐらいでいいからね」
 おばさんって言ったらきっとぶっ飛ばされる。
「結衣さん」
「何?」
「あんな派手に落ちてきたら誰かに見られませんか?」
 疑問に思っていたことを聞いた。他の人にはこのことを言うなと釘を刺された。なら見られるのもダメなはずだ。
「この列車は私と千星ちゃん以外見えてないから大丈夫」
「そうなんですか?」
「選ばれしものだけが見えるの」
 選ばれしもの……厨二心をくすぐる。
「じゃあ行こう」
 私たちは列車に乗り、蒼空のもとに向かった。

 空飛ぶ列車から見る星空は、いつ見ても美しいと思える。
 この景色をずっと眺めていたいが、ババ……結衣さんが私の前で絶えず喋っている。
 どういう経緯でその話になったのかは分からないが、今は肉まんの椎茸について語ってる。
 私は「そうなんですね」と「確かに」の二パターンの相槌をうちながら、夜空に浮かぶ星たちを見ていた。
「どうだった、この一週間?」
 急に聞かれたので「確かに」と言いそうになったが、喉元で言葉を引き留め、別の言葉を脳内から引っ張り出した。
「願いって自分で叶えるものなんだなって思いました」
 この一週間で知ったことだ。踏み出すことをしなければ世界は変わらない。
「願いっていうのは待っているだけでは叶えてくれない。行動したうえで、それが咲くように祈りを込める。種を植えるのも、育てるのも、蕾をつけるのも、自分ですること。願うだけでは花は咲かない。それは種のない花壇に水をやるのと一緒」
 結衣さんの言葉が胸に染みた。
 今までは願うだけで花を咲かそうとしていた。
 だけどこれからは、種を植えて育てないといけない。
「蒼空は私に気づいてほしかったのかもしれない。花を咲かせるのは他人ではなく自分だと。今までは小さい角度から世界を見てきた。でも見えていなかった部分に新しい選択肢があった。生き辛くなるのは、知らないことが多いからなんですね」
「良い一週間を過ごしたんだね」
「はい」
 大人の笑みというのだろうか、結衣さん子供の成長を見守るような顔で一笑した。

 流星の駅に着き、結衣さんに見送られながら階段を上った。
 もう少しで会えると思うと心音が弾む。その音に合わせながら駆け上がる。
 ガラス張りの部屋に着くと、星に照らされた蒼空の背中が見えた。窓の前に置かれたベンチに座っている。
「蒼空」
 近くまで行き声をかけると、蒼空が微笑みながら振り向いた。
「久しぶり」
 私の顔はニヤついているだろう。そう思いながら蒼空の隣に座る。
「あのね……」
 私は興奮気味に、この一週間の出来事を話した。
 雪乃が一歩踏み出せかった理由や背中を押せたこと。そして友達になれたことも。
 息継ぎをせずに喋っていたと思う。蒼空はそんな私を優しい表情で見守りながら、ときおり嬉しそうな顔を浮かべていた。
「頑張ったね」
 私が話し終えると、そう言ってくれた。
 好きな人に褒められると、これまでの苦労が嬉しさに変わる。
 特別な言葉ではないかもしれないけど、その一言で私の心音は一音上がる。
「ありがとう」
 スワヒリ語ではなく、ちゃんと日本語で伝えた。
「お礼を言うのは俺だよ」
「ううん、蒼空が私を変えるきっかけをくれたの。もし私を選んでくれなかったら、ずっと過去に縛られたままだった。自分の力で一歩踏み出すことができたのは、蒼空のために頑張ろうと思えたから。だから、お礼を言うのは私のほう」
 勢いで「好きだよ」と言ってしまいそうだったけど、今は胸に仕舞っておこう。
「千星は人を変える力があるんだよ。でもそれを過去に置いてきてしまった。だからもっと自分を信じてほしい。俺も藤沢千星という人間に変えてもらったんだから」
 私が蒼空を変えた記憶はない。むしろずっと依存していた。蒼空がいなかったら本当に一人になっていたし、雪乃とも友達になれていなかった。
「でも良かった、友達ができて」
「うん、私が一番驚いてる」
「あと、もう一つの未練なんだけど……」
「何?」
 蒼空は真っ直ぐな目で私を見てきた。
「花山翔吾と友達になってほしい」
 真実を知りたければ咲いた花ではなく、植えられた種に目を向けること。
 この言葉はかの有名な探偵、藤沢千星が残した言葉だ。そう、今作ったのだ。
 私は現在、校庭の片隅で花山翔吾を観察している。
 なんでこうなったかといえば、
――花山翔吾と友達になってほしい
 蒼空の言葉に、開いた口が開いたまま開いていて、開いたまま開いていたので開いたままになった。
 ようは塞がらなかった。
「花山翔吾って、あの怖い人でしょ?」
「うん」
 私が鼻歌を歌っていたときに、校門でぶつかった男だ。
「私に学校のてっぺんを取れと?」
「いや、喧嘩するんじゃなくて、友達になってほしい」
 無理だ。雪乃のときも同じことを思ったが、今回は流石に無理中の無理の介だ。
「今日、ものすごく睨まれた。あれは完全に私を敵視してた。明智光秀が本能寺に向かうときの目だった。このままだと本能寺の変・シーズン2〜令和炎上編〜が始まってしまう」
 蒼空は間を置かずに「それはよく分からない」と言って話を続ける。
「あまり話したことはないから断言はできないけど、俺は花山が悪いやつではないと思ってる。中学の時にクラスの子を殴ったことも、それなりの理由があると思う。もし話してみて嫌なやつだと感じたら、そのときは未練を叶えなくていい」
「あまり話したことないのに、なんで友達になってほしいの?」
「孤独の中でもがいていそうだったから」
 その理由だけで理解できた。蒼空はそういう人だった。
「花山も何かを抱えていて、だから人を遠ざけるんだと思う。その理由を知りたい」
 雪乃も自分の中だけで苦しんでいた。誰にも相談できずに孤独の中を彷徨っていた。
 もし花山も同じなのだとしたら、その辛さは私にも分かる。
「雪乃の時よりも難しいお願いだと思う。でも話すだけでもいいから試みてほしい。無理そうだったら何もしなくていいから」
 本音を言えば断りたい。
 雪乃は私を受け入れようとしてくれたが、花山は受け入れるどころか弾いてきそうだ。
 話しかけても、きっと一言、二言で会話も終わる。私自身がそうだったから、よく分かる。
 花山も人を避けて高校生活を送っているように思う。よっぽどのきっかけがない限り、友達になるなんて無理だ。
「花山はいつも一人でいるけど、本当は友達が欲しいんじゃないかと思ってる。でも作れない理由がある。話してみてそう感じた。表面には出さないけど、奥底ではきっと何かを抱えている。俺は花山と仲が良いわけじゃないけど、もし道に迷っているなら手を差し伸べたい」
 蒼空がここまで言うのは珍しかった。話してみて、花山に何か感じるところがあったのかもしれない。
 人は表と裏で違う顔を持っている。表で嘘を隠せても、裏に張り付いた苦悩はそう簡単に偽れない。複雑に絡み合い、いずれ自分だけでは解けなくなる。私も雪乃もそうだったように。
「花山が一人で居たいなら私はそっとしておく。でも蒼空の言うように何かを抱えていて、友達が欲しいと思っているなら力になりたい。孤独でもがく辛さは私も分かるから」
 蒼空が私にしてくれたように。
「ありがとう」
 いつものように優しさを滲ませた笑顔を向けてくれた。その顔を見るだけで頑張ろうと思える。
 
 そして今、校庭で花山翔吾を観察している。
 私の知っているかぎり、花山はいつも一人でいる。 
 入学してから、誰かと仲良くしているところも見たことがない。
 怖い人。一年のときからそう言われていたと思う。
 中学のときにクラスの子を殴ったという噂が拍車をかけ、余計に人が寄りつかなくなったのだろう。
 確かに見た目はヤンキーみたいで怖い。でも蒼空が怖くはないと言っていたから、話したら意外と可愛いのかもしれない。
 もしかしたら語尾にピョンを付けてくるのかもしれない。いや、たぶんそれはない。
 ノリツッコミを終え、朝から昼休みまでの観察過程を頭の中でまとめた。
 朝は登校時間ぎりぎりに来て、ホームルームまで自分の席で音楽を聴きながらうつ伏せで寝ている。
 授業中はちゃんとノートを取っている。
 廊下を歩けば周りの人たちは道を開ける。
 目つきが怖いので誰も近寄らない。
 そして昼休みの今、花山はテニスコートの外側で、フェンスに寄りかかりながら購買で買ったチキンカツサンドを一人で食べている。
 ここまで誰とも会話していないし、ずっと一人で行動している。
 一昔前の私みたいだ。そう思うと親近感が湧いてくる。
 ちなみに私は、少し離れたベンチで食事をとりながら花山を観察している。
 ぼっちという属性は一人でいる人間を好意的に見る。もし花山の視界に私が入れば、「あれ、あいつも一人なんだ。めっちゃ良いやつじゃん」となり、私に好印象を持つかもしれない。そうなれば話かけやすくなる。
 だが雪乃と違って、花山は人を寄せ付けない。
 昨日も私を睨んでどこかへ行った。話かけても回避される可能性を考慮しないといけない。かなり難関だ。
 ツンデレのツンだけで好きになってもらうくらい難しい。デレがあってこそのツンだ。デレのないツンはエビのないエビフライみたいなものだ。
 花山は結局、昼休みの間ずっとそこにいた。ただ時間が過ぎるのを待っているように。
 そして何も掴めないまま、放課後を迎えた。
 これでは一生話せないと思い、覚悟を決めて下校時に話しかけることにした。
 昇降口で声をかけようとしたが、今じゃないと思いやめた。
 校門を出るときに声をかけようとしたが、今じゃないと思いやめた。
 駅前で声をかけようとしたが、今じゃないと思いやめた。
 電車の中で声をかけようとしたが、今じゃないと思いやめた。
 花山が電車を降り、改札を出たときに声をかけようとしたが、今じゃないと思いやめ――
 何をやっているんだ私は。これじゃあストーカーじゃないか。今話しかけても「学校からここまで付いてきたの、キモ」と思われるだけだ。
 明日からストーキングレディ藤沢という深夜ドラマみたいな異名がつけられてしまう。そして今もどうしていいか分からず、花山の後ろを歩いている。完全にストーカーだ。私は薄汚れた女になってしまった。蒼空に合わせる顔がない。
 辺りも薄暗くなり、河川敷でサッカーをしていた子供たちも帰る支度を始めていた。
 自宅まで行ったら犯罪者予備軍になってしまうので、駅まで引き返そうと思っとき、
「兄ちゃん」
 一人の子供が堤防を上がってきて、花山に駆け寄ってきた。
 さっきまでサッカーをしていたからか、冬というのに半袖半ズボンだ。兄ちゃんと言っていたから弟かもしれない。
「一緒に帰ろう」
 弟(仮)にそう言われると、花山は「うん」と笑顔を向けていた。
 驚いた、あんな顔もするのか。しかも学校とは違い、雰囲気が優しくなったように見える。
 日曜劇場に出てくる優しいお兄ちゃんみたいだ。ナレーションとBGMをつけたい。
 そう思っていたら弟がこちらを見てきた。
 やばいと思い、咄嗟に鞄で顔を隠す。
 怪しい人に映ってるかもしれない。踵を返し、背を向けたほうがまだ自然だった。しかも見られたのは弟(仮)の方だから、顔を隠す必要はなかったのに。
 鞄を下に少しずらして花山の様子を伺うと、弟(仮)がこちらに向かってきている。
 なんで私の方に来るんだ。いや大丈夫だ落ち着け、たぶん珍しい虫でも見つけたのだろう。たまたま私の方に虫がいただけだ。
 私は鞄を上げて完全に顔を隠した。話しかけてこないよう祈りながら。
「兄ちゃんと同じ学校の人?」
 祈りは通じず、声をかけてきた。 
「私は通りすがりの女子高生。あなたのお兄ちゃんなんて知らないよ」
 テンパって少しだけ声を高くして言ってしまった。アニメのキャラみたいだ。 
「そっか……兄ちゃんの友達かと思ったけど違うんだ……」
 悲しみを帯びた声だった。
 どんな表情なのか気になり、鞄を少し下にずらすと、
「なんで藤沢がいんの?」
 弟(仮)の後ろに花山がいた。怪訝な顔でこちらを見ている。
「道に迷って……」
 無理がある理由だった。学校からここまで電車で一時間。迷ってくるような場所ではない。
 劇場版ちいかわを観に来たつもりが、箱根の森美術館に来てしまったようなものだ。いや、この例えはなんかしっくりこない。ちいかわは現代美術の最高峰だから、あながち間違ってない。
 マサラタウンに行こうとしたのに、渋谷に来てしまったようなものだ。いや、これも違う。あそこはモンスターがたくさん集まるから、あながち間違ってない。
「兄ちゃんの友達?」
 弟(仮)は嬉しそうな顔で花山に問いかけた。
「同じクラスだけど、友達ってわけじゃ……」
「お姉ちゃん、うちに来てよ。すぐそこだから」
 弟(仮)は花山の語尾を摘み取り、その嬉しそうな顔をこちらに向けてきた。
「家?」
「うん。来てよ!」
「いや……」
 私が当惑していると、すかさず花山が入ってきた。
「蓮夜《れんや》、友達じゃなくて同じクラスってだけだから」
「これから友達になればいいじゃん」
 弟(仮)改め、蓮夜くんは私の腕を掴み、
「じゃあお姉ちゃん行こう」
「へ?」
 私は引っ張られる形で後を付いていく。河川敷にいた友達に「また明日ね」と手を振る蓮夜くんの顔は喜びに満ちていた。
 後ろを振り返ると、思い悩んでいるような表情で立ち尽くす、花山の姿が目に入った。  
 
「兄ちゃんの友達が家に来るの久しぶりなんだ」
 蓮夜くんは楽しそうに笑いながら、キャラクターが描かれたグラスをコーヒーテーブルに置き、そこに紙パックのオレンジジュースを注いだ。 
 私は花山の部屋に来ていた。
 モノトーンで構築されたシンプルなレイアウトで、窓際の背の低い本棚の上には、枝だけが伸びた植木鉢が置かれている。
 母親が同窓会に行っているため、家には私を含め三人だけらしい。
 この五年間、蒼空の家を除けば、よそ様の家に来たのは初めてだった。
 他人の家というのは、こうも落ち着かないのか。ソワソワしたものが胸の辺りを這いずり回っているようだ。
「じゃあゆっくりしていってね」
 蓮夜くんはそう言い、部屋を後にした。
 気を遣ったのか分からないが、かなり気まずい。あまりよく知らない親戚の叔父さんと、二人きりでいるときのようだ。
 ベッドに腰を掛けている花山を横目で見ると、床に視線を落とし一点を見つめていた。何かを考えているようにも見える。
 お互い何も発さないまま会話が枯れた。枯れたというか咲いてもいない。
 私は話の種を探すため部屋を見渡した。
「何育ててるの?」
 とりあえず、本棚の上の植木鉢を種にする。そこから会話を育てていこう。
「夜香木《やこうぼく》」
「木?」
「夜にだけ咲く花」
 なんかオシャレだ。
「いつ咲くの?」
「夏頃」
「じゃあまだ先だね」
「……」
 会話が終わった。これが映画なら開始数秒でエンドロールが流れている。
「この間、雪降ったよね」
「うん」
「……」
「最近寒いよね」
「うん」
「……」
「お鍋が食べたくなるね」
「うん」
「……」
 会話がうまくない同士だと各駅停車になる。しかも駅と駅の間隔が徒歩一分くらいの距離にあるから止まるのも早い。
「たまに蒼空とお昼ご飯食べてたみたいだね」
 最終兵器を使った。まだ部屋に来て五分も経ってないが。
「……仲良かったわけじゃないけど」
「そうなんだ。私は蒼空と小学校から一緒だったの。幼馴染ってやつかな」
「知ってる」
「蒼空から聞いた?」
「うん」
「そっか……」
 話を繋げ、藤沢千星。お前ならできる。
「蒼空とどんな話してたの?」
「別になんも話してない。一緒に飯食ってただけ」
 男子高校生なんだからスケベな話しくらいしろ。
「そうなんだ……」
 雪乃との会話を思い出せ。
 確かあの時は、好きな映画の話をしてくれて、駅まで場を繋いでくれた。
「枯木青葉って作家がいるんだけど知ってる?」
「知らない」
「私、その人の小説が好きなの。都市伝説をモチーフにしてるんだけど、主人公が孤独を抱えて……」
「藤沢」
 これからと言うところで、花山は話の腰を折ってきた。
「俺が中学の時の話、知ってる?」
 たぶんクラスの子を殴った話だろう。
「うん」
「それ弟には言わないでくれ」
 といことは、あれは噂ではなく本当だったということか。それと蓮夜くんは知らないようだ。
「分かった」
「奥村と住んでるとこ同じだろ? ここからだと一時間以上かかるから、もう帰ったら」
 花山からしたら確かに迷惑だ。蓮夜くんに連れてこられたとはいえ、急によく知らないクラスメイトが部屋に来たら、私だって帰ってほしいと思う。
「……じゃあ帰るね。また明日」

 花山の家から駅に向かっていた。
 結局、何の成果もあげられずに一日を終えてしまった。友達になるどころか会話すらままならない。
 花山はこちらの投げたボールをその場に捨てるような返答だった。
 雪乃ならそれでも拾って会話を広げるのかもしれないが、私の会話の守備範囲では拾うことすらできない。
 途方に暮れていると、「お姉ちゃん」と後ろから呼び止められた。
 振り返ると、蓮夜くんが走って向かってくる。急いで来たのか、足元を見るとサンダルを履いていた。
「どうしたの?」私がそう聞くと、蓮夜くんは息を切らしながら「もう帰るの?」と寂しそうな顔で言った。
「うん」
「じゃあ駅まで送ってくよ」
「ありがと、でも遅いから大丈夫だよ」
 蓮也くんは息を整えている。表情を見ると、何か言いたいことがあるが、言い出せずにいるように感じた。
「お姉ちゃんは、兄ちゃんの友達じゃないの?」
 落ち着きを取り戻したあと、不安が滲むような声で聞いてきた。
「クラスメイトかな」
「そっか……」
 冬の木々から葉が落ちていくように、蓮夜くんは表情を枯らした。
 その顔に心苦しくなり「友達だよ」と思わず嘘をついてしまった。
「本当に?」
 蓮夜くんの顔に笑顔が咲いた。
 嘘を信じた純粋な少年に、罪悪感が胸を這うようだった。
「……うん」
「じゃあまた来てよ。今度三人でゲームしよう」
「分かった」
 造花のような笑顔で答えた。蓮夜くんのためと言い訳をしながら。
 駅まで見送くられ「またね」と手を振られた。私も振り返すが、いつもより腕が重く感じた。

 教室に入ると花山に呼び止められた。いつもギリギリで来るはずなのに、なぜか今日は私よりも登校が早い。
「何?」
「ちょっと来て」
 後を付いて行くと、屋上前にある踊り場まで来た。下の階から生徒たちの笑い声が微かに耳に入る。
 花山は視線を突き刺すように私を見てきた。空気が急に重くなり、緊張が腹の奥から脳天に向かって走る。
「昨日、弟に友達って言った?」
 重低音を響かせた声が心臓にのしかかる。
「うん……」
「勝手なこと言うのやめろ。迷惑だから」
「ごめん、蓮夜くんの顔みたらつい……」
 蓮夜くんの名前を出したとき、花山の顔色が変わった。怒りが枯れ落ちて、そこから悲しみが芽生えてくるように。
「昨日は弟が悪かった。でも……」
 花山は言いかけた言葉を飲み込んだように見えた。そこから数秒の沈黙を置き、再び口を開く。
「もう関わらないでくれ」
 そう言って階段を降りていった。悔やむような表情を残して。
 人は心に何かを抱えている。見えない境界線がその人の中にあって、知らないうちにその線を踏んでしまうことがある。
 もしかしたら私も踏んでしまったのかもしれない。
 そう考えると一歩踏み出すことが怖くなった。花山と友達になってという蒼空の願いは、流れ星のように消えてしまいそうだった。

 移動教室の際、雪乃に花山のことを聞いてみた。
「話かけても、すぐに切り上げられちゃうからよく分からない」
 雪乃にもそうなのか。私なら尚更だ。
「花山くんて自分から人を遠ざけてるよね。目つきとか怖いけど、なんか作ってるというか、来るなって言ってるような感じ」
 蓮夜くんといたときが本来の花山ならそうなのかもしれない。でも何でわざわざ嫌われるようなことをするのだろう。
「何で花山くんのこと知りたいの?」
 ギクッ、漫画でしか見たことない擬音が頭の中で鳴った。
 そう聞かれると予想できたのに、今朝のことで頭が回らなかった。
「蒼空がたまに話すみたいなこと言ってたから、どんな人なのかなーと思って」
 瞬時に脳内をフル回転させて絞り出した。
「私や千星と同じかもね」
「同じ?」
「何かに縛られてるように感じる。何となくだけど」
 蒼空も言っていた。何かを抱えているかもしれないと。
 雪乃の時と同様、それを聞き出せたらいいんだが、関わるなと言われてしまった。
「花山の噂知ってる?」
「中学のとき、同じクラスの子を殴ったってやつ?」
「うん」
「私はあんまり興味なかったけど、一年のとき結構話題になったよね」
「何でクラスの子を殴ったのかな?」
 もし何かを抱えているとしたら、この事件が影響しているかもしれない。
「聞いてみる?」
「誰に?」
「3組に相澤さんっているでしょ? その子が花山くんと同じ中学だよ」
 その子がみんなに花山のことを話したということか。
「話し聞きたいなら昼休みに誘おうか? 私も人伝てで聞いただけだから、本当のところは分からないし」
 過去を知ることも大事だ。クラスメイトを殴った理由も知りたい。もしかしたらそこに何かあるのかもしれない。

 昼休み、空き教室で相澤さんを交え、三人で昼食をとった。
 雪乃と相澤さんはそこまで親しくないみたいで、誘ったときに驚いた顔をしていた。
「花山くん、中学の時はあんな感じじゃなかったの」
「そうなの?」
 雪乃が合いの手を入れる。
「うん、もっと優しい感じだった。奥村くんみたいな」
 蒼空と同じ……想像つかない。それは雪乃も同じようだった。「え?」ていう顔をしている。
「高校からだよ、あんなに目つきが悪くなったの。あんなヤンキーみたいじゃなかった。中学のときはみんなから慕われてたし、友達も多かったと思う。でも三年のときに、花山くんが仲の良かった男の子を殴ったの。相手の子は頭に包帯を巻いて、顔にはガーゼを何枚か貼ってた。酷いよね、いくらなんでもやりすぎだよ」
「花山くんは何で殴ったの?」
 私が聞こうとする前に雪乃が聞いた。
「花山くんがその子にお金を貸してたみたいなんだけど、なんかすれ違いでトラブったみたい」
 金銭トラブルか……ややこしそうだ。
「私ガッカリしちゃった。花山くんのこと好きだったのに」
 当時を思い出したのか、彼女は箸で掴んだハンバーグにため息を吐いていた。
「花山は本当にその人を殴ったの?」
「殴ったのは本当みたい。本人もそう言ってたから。でも一発しか殴ってないし、包帯とガーゼを見て大袈裟すぎるって言ってた。それ聞いてさらに引いちゃった。殴った人が言うことじゃないじゃん。本当に幻滅しちゃった」
 再びハンバーグにため息を吐く。何だかハンバーグが可哀想に思えてきた。
「それから、花山くんは一人でいるようになった。話しかける人も、ほとんどいなかったんじゃないかな」
 そのあと、弁当を食べ終わった相澤さんは自分のクラスに戻って行った。
 空き教室には、大きな穴が空いたような余韻が残る。
「雪乃はどう思う? さっきの話」
「なんか腑に落ちない。もともとは蒼空みたいな人だったんでしょ? そんな人がそこまでやる? 花山くんがお金を貸してたなら尚更。本当のところは分からないけどさ、なんかありそう」
 同感だ。蓮夜くんといた時の顔を見ているから余計にそう思う。
「て言っても本人には聞けないよね。あのとき何があったのなんて。花山くんも嫌がるだろうし」
「花山の弟に、家に来てって誘われてる」
「何で? しかも弟って」
 雪乃に昨日のことと、今朝のことを説明した。
 もちろん私がストーカー紛いのことをしてたのは言ってない。買い物してたら河川敷でたまたま会ったと伝えた。
「なんか少しだけ私と似てる」
 雪乃は花山の話を聞き、そう答えた。
「花山くんは蓮夜くんの前では良いお兄ちゃんでいたいのかも。私も両親に見てほしくて頑張ってたから、なんか分かる」
 雪乃は求められる自分を作り続けてきた。それが自分を苦しめることになって生きかたを見失った。花山も自分の中に何かを抱え、その何かに縛られているのかもしれない。
「本当の花山くんってどんな人なんだろうね?」
 雪乃がそう言ったように、私も知りたいと思っていた。蒼空も殴ったという話は聞いていたはずだ。そのうえで花山と接していた。しかも私に友達になってほしいとお願いしてきた。きっとそれには意味があるんだと思う。
 中学で孤立した彼は高校でも孤立している。それも自らそうなるように。そこにも意味があるはずだ。
「花山にもう一回話しかけてみる」
「関わるなって言われたんでしょ?」
「花山は本音を吐き出す場所を求めてるかもしれないし、誰かに救ってほしいとも思ってるかもしれない。本心は分からないけど、もしそうなんだとすれば、きっと今すごく苦しいと思う。孤独の中で生きる辛さは私も知ってるから。本当に迷惑だったらもう関わらないし、花山の言う通りにする。でも何も分からないまま終わりにはしたくないかなって」
「じゃあ私も協力する。形は違えど孤独の中で生きる辛さは私も知ってるから」
 雪乃の言葉で一人ではないんだと思った。なんだか私が救われる。
 次は私が誰かの光になれるようになりたい。蒼空のように。
学校が終わり、花山にどう話しかけるかを考えながら自宅近くの並木道を歩いていた。
 関わるなと言う相手に話しかけるのは、初期装備でラスボスに挑むくらい難しい。
 いや、なんかしっくりこない。
 関ヶ原の戦いに手刀だけで挑むくらい難しい。
 いや、手刀を極めたら案外いけそうだ。
 エリンギ一本で宇宙人の侵略を阻止するくらい難しい。
 いや、エリンギのポテンシャルを考えたら難しいことじゃない。
 膝の裏でポメラニアンを育てるくらい難しい。
 よしこれにしよう。
 関わるなと言う相手に話しかけるのは、膝の裏でポメラニアンを育てるくらい難しい。
「千星ちゃん」
 本年度ナンバーワンの比喩が飛び出したとき、後ろから声をかけられた。
 振り向くと、手を振りながら歩いてくる結衣さんの姿が視界に入った。
「何でいるんですか? 蒼空と会うのはまだ先ですよね?」
「会うのはまだ先なんだけど、言伝を蒼空くんから預かってきた」
「言伝?」
 何だろう? 言い忘れたことがあったのかな。
「蒼空くんにはもう一つ未練があるの」
「何ですか?」
「妹を救ってほしい」
 美月ちゃんのことだ。でも救ってほしいというのはどういうこと何だろう?
「蒼空くんが亡くなる前から、学校も行かずに家に引きこもってるんだって。理由も分からないから、せめてそれだけでも聞いてほしいって言ってた」
 美月ちゃんが学校に行ってないことは知らなかった。蒼空と一緒に絵具を買いに言ったときは、そんな話をしていなかった。
「何で今なんですか?」
「千星ちゃんの負担を増やしたくなかったんだって。学校生活だけでも大変でしょ? だから無理しなくていいって言ってたよ」
 蒼空が亡くなってから蒼空の家には行っていない。正確に言えば行けなかった。私があのとき逃げなければ……そう思うと、どんな顔で行けばいいのか分からなかった。
「じゃあ私は行くね。今ある未練も頑張って」
 そう言って結衣さんは去っていった。
 頬にあたる風が先ほどよりも冷たく感じる。そのせいか、指先が震えて上手く動かせなかった。
「無理しなくていいか……」
 その言葉を反芻しながら、澄んだ空に向けて息を吐いた。
 白煙のように濁る息は、冬と同化するように刹那に消えていった。
 
 朝から昼休みにかけて、花山に話かけようと何度か試みた。だが私が近くに行くと離れていってしまう。
 完全に距離をとられている。
 でもどうにか話したかったので、花山の家まで行くことにした。
 それを雪乃に言ったら、「私も行く」と言ったので、二人で花山の家に向かっていた。バスケ部は週末のどちらかと水曜日が休みらしい。
 私たちは先に学校を出て、花山の自宅付近で待機した。今は電信柱で身を隠しながら家を見ている。
「なんかストーカーみたいじゃない?」
「大丈夫」
 駅の売店で買った牛乳とあんパンを鞄から取り出し、雪乃に渡した。
「今の私たちは女子高生じゃなく、張り込みをする刑事だから。ストーカーじゃない」
 無理矢理な理論で罪悪感を消す。
「ねえ警部、花山くんが帰ってきたらどうするの?」
「家に入ったらインターホンを押す。中に蓮夜くんがいたら開けてくれると思うから、そしたら突入する。流石に家まで来たら逃げられないでしょ」
「蓮夜くんがいなかったら?」
 雪乃はあんパンを食べながら言った。
「出るまで押す」
「ものすごい迷惑だね」
 実際出なかったら帰ろうと思う。また別の方法を考えて話すきっかけを作る。現時点では話しかけても避けられるだけだから、家に行くという方法以外に思いつかなかった。
「お姉ちゃん?」
 二人で振り向くと、ランドセルを背負った蓮夜くんが声をかけてきた。
「蓮夜くん」
「また来てくれたの?」
 蓮夜くんは嬉しそうな顔で私を見たあと、雪乃に視線を送る。
「こんにちは。お兄ちゃんと同じクラスの富田雪乃です」
 雪乃はにこやかに自己紹介をした。
「兄ちゃんの友達?」
 雪乃は困った表情で私を見てきた。
 『友達』と言うと花山に怒られるし、かと言って『クラスメイト』と答えると、蓮夜くんは昨日みたいに悲しんだ顔をする。
 どうしようかと、私が目を泳がせながら逡巡していると、
「兄ちゃん」
 蓮夜くんが私たちの後ろ向けて手を振った。家の方を見ると、歩いてくる花山がいた。
 花山は私を見るなり、呆れたように小さく息を吐いた。

 四人でファミレスに来た。
 窓際の四名席に案内されたあと、蓮夜くんがメニューを開く。
「何か食べたいのある?」
 雪乃が優しく問いかけた。
 私が「エスカルゴのオーブン焼き」と答えると、『お前じゃねーよ』という視線で雪乃と花山に睨まれた。
 蓮夜くんは私に気を遣ったのか、「じゃあそれにしよう」と言ってくれたが、雪乃が秒で却下し、ドリンクバーとフライドポテトを注文した。
「飲み物は何がいい? 僕が持ってくるよ」
 蓮夜くんが嬉々に言う。
 私と雪乃がメロンソーダをお願いすると「一人じゃ持てないだろ」と花山は言い、一緒に付いて行った。たぶん気まずかったのだろう。
 ここに来たのも花山の提案だった。
 たぶん部屋に上げたくなかったんだと思う。閉鎖された空間に私といれば、自分の部屋なのに監獄みたいになる。かといって、嬉しそうにする弟の前で追い払うこともできない。
 強引に選択させたことと、蓮夜くんをだしに使ったことを、今になって申し訳なく思った。
 二人が飲み物を持ってテーブルに戻ってきたあと、フライドポテトもテーブルに運ばれてきた。
「蓮夜くんは何年生?」
 雪乃が聞くと、蓮夜くんはポテトを頬張りながら六年と答える。
 それから学校で流行ってること、好きな漫画やアニメなどを話してくれた。
 雪乃が上手く相槌を打ちながら、澱みなく会話を繋げていて、さすがだと思った。
 私は正面に座る花山をバレないようにチラッと見る。やり場のない気持ちからか、ずっと窓の外を見ていた。グラスに入った二杯目のコーラは三分の二ほど飲まれている。
「トイレ行ってくる」
 花山はそう言い、店の奥に向かっていった。
「兄ちゃんて、優しいから学校でも人気者でしょ?」
 唐突に聞かれた質問に、ポテトを口に運ぼうとした手が止まった。隣を見ると雪乃も同じだった。
 沈黙すら許されない質問だっため「そうだね」と雪乃が答え、動揺を隠すようにポテトを口に入れた。
「兄ちゃんてすごいんだよ。倒れてるおばあちゃんを助けて、警察に表彰されたんだ。友達もたくさんいて、よく家にも来てた」
 兄のことを語る弟は、自分のことのように誇らしげに話している。
「でもね、中学三年の秋ぐらいかな。その頃から友達が来なくなった。兄ちゃんは受験だからって言ってたけど、学校のことも話さなくなったんだ」
 クラスの子を殴ったときだろう。蓮夜くんはそのことを知らないから不思議に思ったのかもしれない。
「高校に入ってからも学校の話をしない。友達はいるよって言ってたけど、全然家に来ないから心配してたんだ。でもお姉ちゃんが昨日来てくれて安心した。兄ちゃんが嘘ついてるのかなって思ってたけど、やっぱり人気者なんだね」
 その喜ぶ顔に胸が苦しくなる。私が昨日ついた嘘は、蓮夜くんを安心させるという意味では正しかったのかもしれない。でもついてはいけない嘘のような気もした。
 心が天秤のように揺れるたび、心臓に痛みが走る。
「これからも兄ちゃんの友達でいてね」
「うん……」
 私も雪乃も笑顔を無理やり作る。たぶん目の奥は笑えてない。
 二度目の嘘をついてしまった。でも『友達じゃない』なんて言えない。嘘で人を救えるのならつくべきだと思う。だが、何も変わらない張りぼての未来に、希望というものは微笑まない。瞬間的に傷は癒せても、その傷が消えたわけではないのだから。
 蓮夜くんはこのあとも、兄の良いところをいくつも話した。
 トイレから戻ってきた花山は、蓮夜くんの話を制止しようとした。だが払いのけるようにして、蓮夜くんは兄のことを語り続けた。
 ドリンクバーとトイレを往復する花山は、積んでは降ろすを繰り返す、配送ドライバーみたいだった。

 私たちは堤防の舗装された道を歩いていた。外はすっかり暗くなり、日中に萎れていた星が夜空に咲いている。
 蓮夜くんはしゃべり疲れたのか、花山の背中でぐっすりと眠っていた。
「蓮夜くんにとって自慢のお兄ちゃんなんだね。花山くんは」
 雪乃が花山に向かって言葉を投げるが返ってこない。
 私たちは花山の後ろを歩いているため表情は見えない。今どんな顔をしているんだろうと想像するが、迷惑そうにしてる顔しか頭に浮かばなかった。
「なあ」
 ずっと黙っていた花山が声を発する。
「昨日も言ったけど、俺にもう関わるな」
 やっぱり怒っていた。言った次の日に家に来られたら誰だって怒る。
「蓮夜くん心配してたよ。学校のこと話さなくなったから」
 私と花山の間に流れる澱んだ空気を切るように、雪乃が割って入る。
 中学のことを聞きたいが、眠っているとはいえ蓮夜くんの前では憚られる。それは雪乃も一緒なのかもしれない。だから間接的に引き出そうとしているようにも思えた。
 花山は再び口を閉ざした。沈黙のせいか足音がやけに響くように感じる。
 このままだと何も変わらずに、また明日を迎えてしまう。今すぐ変わらなくてもいいから、きっかけとなる種を作らないといけないと思った。
「私はこの間まで蒼空しか友達がいなかった。でも蒼空は友達が多いから、孤独を感じることがたくさんあったの。ずっと他人のことが嫌いで、蒼空以外の人と関わるのを避けてきた。でも最近になって分かった。人は何かを抱えていて、それに縛られながら生きている。その人の中にあるものが、物事や自分を歪ませてしまう。もし花山の中にも傷や痛みがあるなら、一人で背負わなくてもいいと思う」
 私の言葉がブレーキになったのか、花山が急に立ち止まった。
 それに倣い、私と雪乃も立ち止まる。
 言葉を待ったが、耳に届くのは静けさを強調する風の音だけだった。
 時間だけが過ぎていき、諦めかけたときだった。花山が重い沈黙に言葉を挿した。
「迷惑なんだよそういうの。お前うざいよ」
――うざい。あの日のことがフラッシュバックしそうになる。
「勝手に来たのは謝るし迷惑かけたのも謝る。でも、千星の前で『うざい』って言葉は二度と使わないで」
 蓮夜くんがいたからだろうか、雪乃は冷静に言った。
 雪乃には私の過去を話した。だからそう言ってくれたのだろう。それが心強かった。
「もう来ないでくれ、迷惑だから。それと……学校でも話しかけないでほしい」
 そう言って花山は歩き出した。
 厳しい言葉ではあったが、言い方は優しかった。

 駅のホームには会社帰りのサラリーマンや、スマホをいじりながらヘッドホンをする高校生など、これから帰宅するであろう人たちが散見する。
 私と雪乃はホームに設置されたプラスチック製の青いベンチに腰を下ろした。
「人を避ける根本的な理由があるんだと思う」
「中学でクラスの子を殴った時かな」
 雪乃の問いに、そう返す。
「私も千星も過去に縛られながら生きてきた。もしかしたら花山くんもそうなのかもしれない。人って過去が影響して内面が形成されていくんだと思う。環境や周りの人間、何を求めて生きてきたか。もし変わりたいなら、その過去と向き合う必要がある。でも簡単にできるものではない。長年染みついた思考の癖は言動を支配するから。私は千星に変えてもらえたけど、一人だったら今も苦しんでたと思う。もし何かに縛られて生きているなら、花山くんにも誰かが必要なのかもしれない」
 今の自分を支配しているもので、世界の見えかたは変わる。
 花山の中にあるものが他人の見えかたを変えているなら、その起因となるものを知らなければならない。でも固く閉ざした奥底の言葉は、簡単には聞けそうになかった。
「花山くんがどんな人なのかって話しだったのに、方向性が変わってきちゃったね」
 そうだった。蒼空がたまに話すからどんな人なのかな、って雪乃には言ったんだ。
 本当は蒼空に友達になってと頼まれたのだが、それを言ったら記憶を消すと結衣さんに言われている。そして蒼空にも会えなくなる。雪乃には話したいがやめておこう。
「雪乃はたくさん友達がいるでしょ? もし花山みたいに、周りの人間が離れていったらどう思う?」
 私よりも雪乃の方が理解できそうだと思った。
「人を殴ったっていう理由があるから難しいところだけど……でも話は聞いてもらいたよね。それだけの理由があると思うから。実際どうだったんだろうね花山くんは。聞いてもらえたのかな?」
「それも聞いてみたい」
「でもあそこまではっきりと『話しかけないで』って言われると、聞くのは難しいよね」
 雪乃の言う通りだった。まるで国境のような線を引かれ、足を踏み入れることすら困難になった。
 話しかけることが、銃口を向けることと同等の行為にも感じた。

 登校する生徒たちで賑わう昇降口に花山がいた。
 昨日家に帰ってから考え、今日は話しかけるのをやめた。無理に近づけば傷をつけるかもしれないので、自重することを決めた。
 花山の後ろ姿を横目に、大人しくしていようと自分に言い聞かせる。
 が、昼休みになって事情が変わった。
 私が屋上前の踊り場で昼食をとっていると、階段を上がってくる足音が耳に入った。
 この場所は人が来ることはあまりないが、たまに隠れんぼや鬼ごっこをしている生徒がやってくる。
 そういう場合は心の中で『クソ野郎』とつぶやき、私がここを離れる。
 弁当を素早く片し、心の中で『クソや……』と言おうとした時だった。
「用って何?」
 一つ下の踊り場で足音が止まり、聞いたことのある声が聞こえた。
 この場所は、階段を上がった横のスペースは壁に覆われており、下からは見えないようになっている。
 私は壁に身を隠しながら、そーっと下を覗くと、女の子が立っていた。
 対面する形でもう一人いるみたいだが、もう少し身を乗り出さないと見えない位置にいた。
 でも声を聞いて、その相手が誰かは想像できた。
「急に呼び出してすいません。あの……」
 敬語だから一年生なのかもしれない。女の子は緊張しているみたいで、後ろで組んだ指先が忙しなく動いている。
 あの……と言ってから彼女は何度も小さく息を吐く。自分を落ち着かせているのだろう。
 そして大きく息を吐いたあと、勢いよく頭を下げた。
「連絡先を交換してくれませんか」
 勇気を出した彼女に心の中で拍手を送る。その一言はきっと、何度も喉元で引っかかっては胸の奥に戻っていっただろう。
 よく言った、そう思いつつ不安はあった。なにせ相手が相手だから。
「……あのさ」
 彼女からの言葉を受け取ったあと、少ししてから言葉を返した。
「何で俺なの?」
「前からかっこいいなと思って」
 女の子は顔を上げ、照れながら答える。
「俺の噂とか聞いてないの?」
「噂って何ですか?」
 やっぱり一年生だった。上級生に知り合いがいないのかもしれない。いたら聞いているだろう。 
「そういうの……やめてほしい。面倒だから」
 女の子は今にも泣きそうな顔をしている。勇気を出して言った言葉は、咲くことを知らないまま枯れていった。いや摘み取られた。
「そうですよね……ごめんなさい」
 涙を堪え、声を震わせながら彼女は階段を降りていく。
 それを見た私は、一瞬で感情が沸点を超えた。
「花山!」
 私は花山に詰め寄った。
『何でいるんだよ』そんな顔をしている。でも知ったこっちゃない。
「お前……」
 花山が何か言おうとしたが、その言葉食って感情を吐き出した。
「あの子は勇気を出して花山に連絡先を聞こうとしたんだよ。それを受けるか断るかは好きにしたらいい。でもね、その勇気を踏み躙ることは私は許さない。好きな人に傷つけられることがどんなに辛いか分かる?」
 もし蒼空に同じことを言われたら……そう思うと胸が張り裂けてしまいそうだった。
 あの子は今日まで気持ちを抱えながら、花山に言葉を届けたのだと思う。それを無下にしたことが許せなかった。
「ていうか何でお前がいるんだよ」
「私が先にいた」
「そうだとしても、お前に言われる筋合いはない」
「そうだよ。私はまったく関係ない。でも言う」
 呆れたように息を吐いた花山は、その場から立ち去ろうとする。
「待て、まだ終わってない」
 花山は立ち止まって振り向く。
「だから何度も言ってるだろう。もう俺に関わるなよ。関係ないことまで口を挟むな。迷惑なんだよ」
「迷惑だろうが関わるよ。だって蒼空に頼まれたから」
 花山は怪訝な顔をした。
 その表情の意味が分からなかったが、少ししてから自分の言ってしまったことに気づいた。
「あの……前にそう言われた」
 勢いを失くした言葉が、私と花山の間を漂う。
「そうだとしても、もう関わるな」
「嫌だ」
「だから関わるな」
「絶対嫌だ」
「だからそういうのがうざい……」
 吐いた言葉を花山は飲み込んだ。
 昨日、雪乃に言われたことを思い出したのかもしれない。
「お願いだから関わらないでくれ。苦しくなるだけだから」
 花山は目を伏せながら言った。これ以上は踏み込んではいけない。そう思ったが、その苦しそうな声と表情は助けを求めてるように聞こえた。
「何でそんなに人を避けるの? 中学のときに何があったの? 私は花山の口から聞きたい。他人の言葉ではなく花山の言葉で」
 一瞬だが、花山の目に涙が見えた気がした。でもすぐに背を向けられたため、それが何かは分からなかった。
「もういいから、ほっといてくれ」
 その言葉を残して、花山は階段を降りていった。

 花山はホームルームが終わるとすぐに教室を出た。私に話しかけられるのを嫌がったのかもしれない。
 それを見て私の中に迷いが出た。冷静になって考えたら自分勝手すぎたと思う。私の考えを押し付けて花山を困らせている。
 でもこのままでいいのかという想いもある。私はこの短い間で考え方が変わった。この変化は私にとってものすごく良いことだった。
 だからこそ花山にも押し付けてしまいそうになる。これが自分よがりで迷惑なだけなら、今すぐにやめるべきだと思った。
 私も今まで人を避けてきた。他人と接するという経験値のなさが、自分の行動に迷いを生む。
 何が正解か分からない。そう思いながら校門を出ると、「お姉ちゃん」という声が聞こえた。
 誰だと思い振り向くと、駆け寄ってくる蓮夜くんが視界に入った。
「どうしたの?」
 そう問いかける私の顔に困惑が滲んでいたのか、払拭するように説明を始めた。
 蓮夜くんが言うには、今日は創立記念日のため半日で学校が終わったらしい。ここまでの道はホームページで調べたみたいだ。手には印刷した地図が握られている。
「すごいね、一人で来たんだ」
「うん」
「でも、お兄ちゃん帰っちゃたかも」
「知ってる。さっき見たから」
 よく分からなかった。兄を迎えにきたのではないのか?
「お姉ちゃんに会いに来た」
「私?」
「うん」

 十分ほど歩き、住宅街の中にあるパン屋に着いた。ここは学校の生徒もよく来ているが、放課後は駅前のファーストフードやカフェに行く。
 今は私と蓮夜くんだけだった。
 店内にはパンを販売しているスペースと、飲食スペースが五席ある。パンと紙パックのオレンジジュースを買い、席に着いた。
 私は塩クロワッサン、蓮夜くんはメロンパンを選んだ。
「何で会いに来たの?」
 蓮夜くんはメロンパンを口に運ぼうとしていたが、手を止めてお皿の上に戻した。
「兄ちゃんが、もうお姉ちゃんたちは来ないって言うから、本当かどうか確かめにきた」
 蓮夜くんは私たちが来たのを嬉しそうにしていた。それは花山も分かっていただろう。そのうえで酷なことを弟に告げた。
 それだけ私が嫌いなのか、それとも人と関われな絶対的な理由があるか。
 蓮夜くんはメロンパンに視線を預けている。私を見ないのは、もし本当だったらという気持ちの現れかもしれない。
「分からない」
 そう答えたのは、今後の花山と私の関係性次第だからだ。本当にどうなるのか分からない。今のところ花山の言った通りになりそうだが。
「お姉ちゃんは兄ちゃんの友達なんだよね?」
 メロンパンに視線を置いたまま、蓮夜くんが聞いてきた。
 店内のBGMは最近流行りのアイドルの歌だった。先ほどまでは気づかなかったが、今は鮮明に鼓膜に響く。
「ごめん蓮夜くん、嘘ついてた。本当は友達じゃない。ただのクラスメイト」
 本当のことを言うことが必ずしも正しいのかは分からない。目の前にいる男の子は悲しそうな顔をしている。
 だけど、このまま嘘をつくのは余計に蓮夜くんを傷つけてしまうような気がした。
 私の視線は、いつの間にか塩クロワッサンに落ちていた。
「本当は分かってたんだ」
 その言葉で再び蓮夜くんに視線を戻した。
「お姉ちゃんたちが僕に気を遣ってるって。兄ちゃんの良いところをいっぱい言えば、もしかしたら友達になりたいと思うかもしれない。そしたらまた、兄ちゃんも昔みたいにたくさん笑ってくれる……そうなってほしかった。最近の兄ちゃんは、一人でいると寂しそうな顔をよくしてるんだ。僕が話しかけると笑った顔を作ってくれるけど、それを見てるのが辛かった」
 河川敷で声をかけられたとき、おかしいと思った。どこの誰かも分からない人間に普通は話しかけない。蓮夜くんなりに頑張っていたんだ。大好きお兄ちゃんのために。
 あのときの私は怪しい人間だったと思う。でも蓮夜くんからしたら、希望に見えたのかもしれない。もしかしたら友達かもと。
 一人でいる花山を救いたいと願っていた。家に連れてったり、わざわざここまで会いに来たのは、全部お兄ちゃんのためだったんだ。
「ねえ蓮夜くん、今はただのクラスメイトだけど、私は友達になりたいと思ってる」
 蓮夜くんは顔を上げた。悲しみの底に光が射し込み、それを見上げるように。
 私の中に迷いはあった。無理に花山と関わるべきかどうかと。でも蓮夜くんを見て覚悟が決まった。この選択が正しいのか間違っているのかは、私次第だと思う。
「任せてとは言えないけど、私なりに頑張ってみる」
 そう言うと、蓮夜くんはメロンパンを食べ始めた。泣きそうになる自分を抑えるようにして。
 食べ終わると、ごちそうさまの代わりに「ありがとう」と言った。鼻水をすすりながら。
 明日、花山と話してみよう。迷惑に思うかもしれないが真っ直ぐ向き合いたい。蓮夜くんを見てそう決めた。

 登校する生徒たちの中に花山の後ろ姿を見つけた。私は駆け寄って声をかける。
 イヤホンを付けていたため最初は無視されたが、二度目は肩を叩いた。
 振り向いた花山は、私の顔を見るなり早足で昇降口に向かう。『俺はお前と話さない』という意思表示だろう。
 なので、追いかけて隣を歩いた。すると花山はさらに速度を早める。だが私もそれに合わせた。
 だんだん早くなり、歩く生徒たちをごぼう抜きする。ほぼ競歩だ。
 恥ずかしくなったのか、呆らめたのかは分からないが、昇降口の入り口で花山はイヤホンを外し、苛立ちを声と表情に出しながら「何だよ」と言った。
「花山の家の近くに河川敷があるでしょ? 今日の十七時半に来て。話があるから」
「行かねえよ」
「じゃあ家まで行って大声でドナドナを歌う。そのあと花山の家の両隣の人とバンドを組んでメジャーデビューする。そしたら毎日私のドナドナを聞くことになる。されたくなかったら来て」
「勝手にしろ」
 それが河川敷に行くことなのか、隣家の人とバンドを組むことなのかは分からなかったが、花山はそう言って下駄箱に向かっていった。
「待ってるから」
 背中に言葉を投げたが、反応はなかった。
 周りの生徒が私を見ていることに気づき、恥ずかしさが込み上げてくる。でもそれ以上に、花山が来てくれるかが心配だった。
 昼休み、男の友情を知るためにはヤンキー漫画が一番だと思い、公園で昼食をとりながらスマホで読むことにした。
 男は喧嘩すると仲良くなる生き物らしい。拳を交えたあと二人で青空を見る。そうすると友情が芽生える。
 その理論は理解できないが、そうなるらしい。単純なのか複雑なのかよく分からないと思いながら読み進めた。
 昼休みを終えた頃には、私は学校の番長になった。もちろん気持ちだけだが。
 放課後、すぐに学校を出て家に帰った。花山と会う前に用意しないといけないものがある。
 家にいた弟にお願いしてキャッチャーマスクと胸に装着するプロテクターを借りた。
「何に使うの?」と聞かれたが、友情に必要だからと言うと怪訝な顔をされた。
 膝に付けるやつもあったが、動きが鈍りそうだっため置いていった。
 用具ケースに防具を入れ、河川敷に向かう。
 花山が来ているのか不安だった。
 向こうからしたら迷惑だろうし、何より関わりたくないと宣言されている。花山が来る理由を頑張って探したが、まったく見当たらなかった。
 希望もないまま河川敷に着くと、堤防で座る制服姿の花山がいた。遠くを見るように、沈んでゆく夕陽を眺めている。
 私は堤防の反対側にある階段を降りて、用具ケースからキャッチャーマスクとプロテクターを取り出した。
 これから世紀の一戦を交える。この喧嘩に勝ち、花山と夕日を見ながら交友を深めるつもりだ。
 目的がずれているかもしれないが、友情を築かなければ心を開いてくれない。
 雪乃がいたら止められていただろうが、今の私は『紅の狂犬、藤沢千星』だ。女の言葉では止められない。
 防具を装着し用具ケースを肩にかける。羞恥心はギリ残っていたので、周りに人がいないことを確認したあと花山の前に出た。
「花山、私とタイマン張れ」
 漫画で見た言葉をそのまま言うと、唖然とした様子で私を見てきた。
「何やってんの?」
「いいから私とタイマン張れ」
 花山が立ち上がったため、腕を前に出し構えをとった。が、花山は背中を向けて反対側に歩き出す。
「ちょっと待て。どこに行く」
「帰る」こちらを見ず、背中越しにそう答えた。
「ここで逃げるなら、明日からこの格好で花山の後をずっと付いていく。私と親友だとこの格好で言い回る。昼休みにこの格好で花山と一緒にご飯を食べる。そしたら私のあだ名は特級過呪怨霊って言われるし、花山は闇落ちした呪詛師に狙われることになる。それが嫌なら私とタイマンを張れ」
 花山は立ち止まり、再び堤防に腰を下ろした。
「それじゃあ、私とタイマンをは……」
「いいから座れ」
 花山は冷静に言った。温度差の違いでなんだか恥ずかしくなる。
 少年誌のような熱い展開になり『お前やるじゃん』みたいな言葉を期待していたのだが、言われた言葉は『座れ』だったので、とりあえず隣に座った。
「それ脱いでくれない。恥ずかしいから」
 そう言われたのでキャッチャーマスクを取ると、
「防具をそういう扱いすんのはよくない」
「はい」
 確かにそうだった。しかも弟の。帰ったら謝ろう。
 プロテクターも取り用具ケースにしまう。特級過呪怨霊から普通の女子高生に戻ったところで、花山が問いかけてきた。
「話って?」
「中学のときのことを聞きたい。クラスの子を殴ったときのこと。ある程度の話は聞いたけど、何故殴ったのかを知りたい」
「それを知ってどうするの?」
「花山が何を抱えてるかを知りたい。自分を隠しながら生きてるように見えるから。人の生きかたは周りだけで決まるものではない。自分の中にあるものが変われば、世界の見えかたも変わると思う。私はそうだった。『花山も変わろう』なんて簡単には言えないけど、話すことで何か変わるかもしれない。価値観の押し付けかもしれないけど、進むきっかけになれたらって」
 周りに影響されて人は変わっていく。それ自体は悪いことではない。でもいきすぎてしまうと人は方向を見失う。私も雪乃もそうだったように。
 自分自身と向き合うことを、いつかはしなければならない。背を向けた先にあるものは、瞬間的な安らぎと継続する痛みだ。
 その痛みを和らげるために言い訳をして自分を正当化する。そして周りに劣等感を吐き散らす。そうなってはいけない。それは世界から自分を乖離させるだけだ。
 花山は周りをどう思ってるかは分からないが、もし憎しみに満ちた世界に足を踏み込んでいるなら、手を差し伸べなければいけない。蓮夜くんのためにも。
「奥村に頼まれたからってなんでここまですんだよ。藤沢には関係ないことだろ。それに……俺は人を殴るような人間だぞ。そんな奴に関ろうなんて、普通思わないだろ」
「私は蒼空に救ってもらった。その人から頼むって言われたら、どんなことがあってもその願いを叶えたい。花山が善い人間か悪い人間かは今は分からないけど、蒼空が悪い人じゃないって言ってたから、私はそれを信じる」
「人を信じたって報われない。そんなものに縋っても傷つくだけだ。その先に何があるんだよ」
 花山は頭を抱え、思い悩むようにそう言った。
 葛藤の境界線を行き来しながら、自分と向き合っているのかもしれない。
「何かに縋るために人を信じてはいけない。それでは周りに生きかたを決められてしまうから。信じた先にあるものは自分で作るんだと思う」
 誰かが育てた花を摘むだけでは、花の本当の美しさは分からない。自分で育て、初めてその美しさを知れる。
「私を信用してなんて言わない。でも今まで見てきたものと、これから見るものを全部重ねなくていい。真っ直ぐなものさえ歪んで見えてしまうから。一生なんて言わないし、この瞬間だけでもいい。だけど今だけは隣を歩かせて」
 もし抱えているものを吐き出すことができたら、花山は一歩進めるような気がした。私がすべきことは、そのきっかけを作ること。
 面倒くさい奴とも思われていい、嫌われてもいい、でもこの瞬間だけでも頼ってほしい。自分の中にある枷を言葉にしてほしい。
 祈りに近い想いが届いたのか、花山は固く結んだ口を開いた。夜にだけ咲くと決めた花が、再び太陽の下で蕾を開くように。
「人に優しくすることが好きだった。その優しさが自分の生きる意味になっていた」
 花山は枯れた花を眺めるように、自らの過去を話し始めた。
「君は一人の命を救ったんだよ」
 小学四年生のとき、警察署長から感謝状を授与された。
 学校の帰りに熱中症で倒れていたおばあちゃんを発見し、持っていたスマホで救急車を呼んだからだ。
 後日、母と弟と共に警察署に行き、署長室で表彰を受けた。制服を着た警察官がたくさんいたのを覚えている。
「翔吾くんえらいね」
「よく通報したね」
 大人に頭を撫でられながら褒められた。
 そこにおばあちゃんの家族もおり、「君がいなかったら母は亡くなってかもしれない。本当にありがとう」そう言われて自分が誇らしく思えた。
 何より嬉しかったのは「兄ちゃんすごい」と蓮夜が嬉しそうにしていたことと、「息子さん立派ですね」と褒められ、照れくさそうにしている母を見れたことだ。
 人の役に立つと自分だけではなく家族も喜ぶ。それを知り、優しい人間になろうと思った。
 それからは困っている人を見たら積極的に手助けするようになり、友達がたくさん増えた。
 家に友達が来るたび、蓮夜は俺の部屋に来る。
 人懐っこい性格からか、みんなから可愛がられていた。
「俺も兄ちゃんみたいに優しい人になる」
 蓮夜は口癖のように言っており、それが人に優しくするためのモチベーションにもなっていた。
 ある日、教師が生徒に暴力を振るうという事件がテレビで報道されていた。
 それを見て怒りが湧いた。この教師は何も分かってない。力で解決することなんて何もないんだ。優しさがあれば相手は理解してくれるし、こんな問題にもならない。俺は暴力を使う人間を軽蔑した。
 中学三年のとき、塩谷という子と同じクラスになった。
 伏目がちで、どことなく暗い雰囲気纏っていたため、周りの生徒たちは距離をとっていたように思う。
 昼休みに勉強ばかりしていたので『ガリ勉』と呼ぶ生徒もいた。俺はその言い方が好きではなかった。人が一生懸命やっているのをバカにするような言葉を使うべきではない。むしろ褒めるべきことだ。
 塩谷は帰宅部で、清掃が終わるとすぐに下校する。部活での交流もないため、クラスにも馴染みづらかったのかもしれない。
 きっと辛いだろうと思い、昼休みに話しかけてみた。
「塩谷はすごいよな。俺はそんなに勉強はできない。だから尊敬するよ」
「別に好きでやってるわけじゃない」
 急に声をかけたからか、塩谷は驚いた顔で俺を見たあと、目を伏せてそう答えた。
「だったら尚更すごい。好きじゃないことを昼休みにまでやってるんだから」
「別に普通だと思う」
 塩谷はノートをとりながら消え入りそうな声で言う。
「勉強もいいけど、たまには外でサッカーやらない? みんなと過ごすのも大事なことだよ」
 クラスの人と打ち解けるきっかけを作りたかった。塩谷もきっと仲良くしたいと思ってるはずだ。
「今から外行って、一緒にやろう」
 塩谷は迷っているように見えた。
 それもそうだ、クラスに馴染めていないのだから。だから間に入る人間が必要になる。
 他の人は塩谷を得体の知れない人間という目で見てたと思う。だからこそ知ってもらわなければならない。一人でいることは辛いはずだから。
「大丈夫、俺と一緒のチームでやろう」
 自分で言うのもなんだが、学年の中心にいたし、周りからの信頼も厚いと思う。俺と一緒にいれば、塩谷も話しかけられやすくなるはずだ。そうすればクラスから浮くことはない。
「……分かった」
 塩谷の腕をとり、グラウンドへ向かった。
 
 それから塩谷とよく話すようになった。野球部が休みの日は一緒に帰ったり、昼休みにもサッカーやバスケをするようになった。
 最初は馴染めていなかった塩谷も、夏頃には周りと話すようになり雰囲気も明るくなった。
「花山は本当に優しいよね」
 移動教室の際、クラスの女子に言われた。
「最近は変わったけど、最初は塩谷のこと暗くて苦手だったんだよね。あっ、今はそんなことないよ。でもなんで花山は塩谷と話してるんだろうって不思議だった。花山だけじゃない? あの時の塩谷に話しかけようとしたの」
「一人でいたから辛そうだなって思って。だから話しかけた。でもみんなと打ち解けられて良かったよ」
「花山といるから塩谷にも声かけやすくなった。他の子もそう言ってる。あっ、そういえばさ、二組の子が花山くんって優しいから良いよねって言ってた。たぶん好きっぽいよ」
「いいよ、そういうのは」
 今の塩谷はクラスにだいぶ馴染んでいる。友達も増え、一人でいるところはほとんど見なくなった。
 それは嬉しかったし、自分でも誇らしかった。優しさで人を変えることができたから。
 塩谷はクラスの人と家に来ることもあり、蓮夜も混ざってみんなでテレビゲームをした。
 蓮夜は友達を連れてくるといつも嬉しそうにする。
「兄ちゃんって友達多いから、みんなから慕われてるんだね。俺も兄ちゃんみたいな人になる」
 いずれそういう言葉も言わなくなるだろう。そう考えると寂しくなるが、できるだけ長く、弟が誇れる兄になっていようと思う。
 塩谷にも弟がいるらしいが、病気がちで学校にはあまり行けてないらしい。
「弟は俺くらいしか話す相手がいないからさ、いつか友達を作ってほしいんだよね」
「今度弟も連れて来いよ」
「いいの?」
「蓮夜も喜ぶよ」
「じゃあ今度、弟と一緒に花山の家行くよ」
 塩谷の弟にも居場所を作ってやりたかった。誰かの手助けをすることが自分の生きる意味だと思っていたから。
 人に優しくするとこで自信を持てたし、自分を好きになれた。それが周りからの信頼にも繋がって人が集まってくる。このときはそう思っていた。

「お願い、少しだけでいいからお金を貸してほしい」
 塩谷が家の前まで来て、頭を下げてきた。
 理由を聞くと、「弟が入院して、お金がいるから少しでも足しにしたい、頼めるのは花山しかいない」と、懇願するように言う。
 弟が入院しているのは知っていた。担任が言っていたし、うちの親もそう言ってた。
 塩谷は古びたアパートに住んでおり、私服も同じTシャツをよく着ている。
 そのことが頭をよぎり、俺は迷いなくお金を貸した。
 貸したと言っても中学生では微々たるものだったが、塩谷が嬉しそうにするのを見て、心地よい気分が胸を走る。
 それから定期的にせがまれるようになった。
 お年玉で貯めていた貯金を切り崩し、塩谷の弟のためと言い聞かせながら貸していた。
 このときに疑うべきだった。普通に考えればおかしなことなのに。
 弟がいるから感情移入していたのかもしれない。それと「頼めるのは花山しかいない」という言葉に酔っていたのだと思う。
 これが後に、自分という存在を世界から切り離すきっかけになった。
 蓮夜の誕生日にゲームソフトを買う約束をしていたが、塩谷に二万ほど貸していたため貯金はあまりなかった。
 言いづらかったが、少しだけお金を返してもらおうと思い、校舎裏に塩谷を呼び出して誕生日のことを話した。
「ごめん、入院費で全部使ったから残ってない。母親に相談してみるけど、うちもあまり余裕がないから」 
 申し訳なさそうにする塩谷を見て、これ以上なにも言えなかった。
「ううん、弟が良くなるといいな」
「本当にごめん、絶対に返すから」
 何度も頭を下げるため、こっちが申し訳なくなってきた。
 帰ってから蓮夜に謝った。詳しい事情は話さなかったが、友達のためと言うと「兄ちゃんは優しいね」と笑顔で返してくる。
 来年はちゃんと買うからと言うと、「別にそんなに欲しくなかったらいいよ」と興味なさげな顔でテレビに視線を戻した。
 その気遣いに心苦しくなり、「ちゃんと買うから」と言葉をかけると、再放送のドラマを見ながら「うん」とだけ言った。

 下校時に教科書を忘れたことに気づいて学校に戻った。
 もうすぐ受験が始まるため、誰もいないだろうと思っていたが、教室の中から声がした。
「かっこよくない?」
「俺もこれ欲しかったんだよね」
「てか、このスニーカー結構高くなかった?」
「買うために貯金したから」
 最後の声で扉を開ける手が止まった。
 少しだけ開いた扉から教室を覗くと、机の上に座った塩谷が、クラスの男子二人にスマホを見せている。
「これいくらだった?」
「二万で買った」
 塩谷が自慢気な顔で言った。
 何を言っているかすぐに理解できなかった。二万は弟の入院費に使ったはずだ。じゃあ何でスニーカーを買えたんだ?
 頭の中で絡みあう糸が、点と点を結ぶまで時間がかかった。そのあとの会話は、ほとんど耳に入っていなかったと思う。
 何度も糸を解き、何度も結び直して、ようやく理解に繋げる。
 散らかった思考を整理しながら、煮えたぎるような感情を優しさで抑えていた。
 すると目の前の扉が開いて、三人が出てきた。
「びっくりした。花山いたのかよ」
「教科書忘れて」
「これから駅前のファミレス行くけど花山も行く?」
「いや、いい」
「じゃあ明日な」
 塩谷は目を伏せながら二人に付いて行こうとしていた。
「塩谷、話がある」
 肩をビクッとさせて立ち止まった。その反応を見るかぎり、もう何を言われるか分かったはずだ。
「じゃあ俺ら先行ってるから」
 そう言って二人は廊下を歩いていく。
 彼らの足音が遠のくたび、塩谷の視線は下に向かう。今は自分の黒ずんだ上履きを見てる。
 二人が階段を降りるのを確認したあと、塩谷に教室に戻るよう言った。
 日中は喧騒に包まれている教室も、放課後になると哀愁が漂う。その哀愁が、より緊張感を高めているように感じた。
 塩谷は教卓付近で足を止める。顔を見せたくないのか、こちらに背を向けていた。
「スニーカー買ったんだって」
 塩谷は沈黙で返す。
 正直バカだと思った。なぜクラスの奴にわざわざ自慢したのか。しかも値段まで丁寧に説明して。いずれ俺の耳に入る可能性もあるなら黙っておくべきだ。自己顕示欲の方が勝ったということか。
 そう考えると、こんな奴に貸した自分が哀れに感じた。
「返せばいいんだろ」
 開き直ったのか、投げ捨てるように言った。
「そう言う問題じゃないだろ。俺はお前の弟のためにお金を貸したんだぞ。スニーカーを買わせるためじゃない。嘘までついて自分が情けないと思わないのか?」
「そう言うところがムカつくんだよ……」
 塩谷は肩を震わせながら小さく零した。
 その言葉の意味が分からなかったため聞き返すと、塩谷は形相を変えてこちらを振り返った。 
「お前だって利用してたじゃないか。俺みたいにクラスで浮いていた奴と仲良くすれば、周りから優しいって思われるもんな。聞いたぞ、お前が女子と話してたの。それで自分の好感度を上げて、女に好意を持たれる。そのために俺を使ったんだろ」
 前に廊下で話してた時だ。あのときそばににいたのか。
 でもそんなつもりは全くない。塩谷は言葉の受け取り方を間違っている。
「なんか勘違いしてるぞ。お前と仲良くしたのは利用するためじゃない。一人でいたから辛いと思って……」
「あの時だってそうだ。俺は周りからガリ勉ってバカにされてたのを知っている。お前も『俺はそんなに勉強できない。尊敬する』とか言って、皮肉を言ってきただろ」
「違う、本当にすごいと思ったから言ったんだよ」
「嘘つけ、今もどうせバカにしてるんだろ。お前の偽善みたいな優しさが全部ムカつくんだよ」
 優しさを否定されたことで、怒りの火種が自分の中に生まれたのが分かった。ずっと大切にしていたものを傷つけられたように思えたから。
「弟の誕生日とか言ってたよな? どうせ良いお兄ちゃんを演じて好感度をあげようってことだろ。最悪な兄貴だな、弟まで利用するなんて。それに気づかず、兄ちゃん、兄ちゃん言って、本当に可哀想だよ。だからあんな馬鹿面になったんだな」
 その言葉で糸が切れた。思考よりも早く右手が塩谷を殴る。その衝撃で塩谷は教卓に頭をぶつけ、呻きながら横たわっていた。
 人生で初めて人を殴った。右手の拳に感触が残る。俺は呆然としながら塩谷を見下ろしていた。
「お前だけずるいんだよ……」
 塩谷は泣きそうな声で嘆いた。俺に見られたくないのか、腕で顔を覆いながら喋る。
「俺だって努力したんだよ。クラスの奴と仲良くできるように無理して明るく振る舞った。それなのに全部お前が持っていく。俺がクラスに溶け込めたのは花山のおかげだって。なんでお前だけが褒められるんだよ」
 塩谷に友達ができたのは自分のおかげだと思っていた。俺といるからみんなが声をかける。そう思っていた。
 確かにちゃんと見てなかったかもしれない。塩谷は努力してたのに、それを全部自分の手柄にしていた。そして周りも。
「お前の優しさは人のためじゃない。自分のために周りに優しくしてるだけだ。ただの押し付けだよ。人のことなんて見てないじゃないか」
 その言葉に何も返せなかった。今まで積み上げてきたものが張りぼてのように感じ、それを受け入れることができないまま、ただ立ち尽くすだけだった。
 塩谷は制服の袖で涙を拭いながら立ち上がると、何も言わずに俺の横を通り過ぎていった。
 暴力を嫌悪していたはずなのに人を殴ってしまった。優しさで築き上げてきた今までの自分が、ひどく醜い存在に思える。
 何かが崩れていくのを感じ、俺は何度も頭の中で塩谷を責めた。
 あいつが悪い。あいつがおかしいだけだ。優しさがあれば人は争いなどしない。あいつがまともな人間なら俺が殴ることもなかった。クラスのみんなはきっと理解してくれる。俺はずっと優しくしてきたんだ。その積み重ねがあるから、みんなは俺の味方してくれるはずだし、優しさは自分を守ってくれる。あいつは俺が与えた優しさを無碍に扱ったし、蓮夜も侮辱した。殴られてもしかたのない人間だ。
 汚れていく自分に目を瞑りながら、暴力という行いを正当化した。そうしなければ自分を保つことができなかったから。
 
 翌日、教室に入ると中央付近に人だかりができていた。他のクラスの人間も混ざっている。
 不思議に思っていると「花山」とその中の誰かが言った。
 それを合図にするかのように、一斉に視線がこちらに向く。
 胸がざわついた。その視線に軽蔑のようなものが混じっていたから。その瞬間に恐怖が湧き上がり、足がすくんで動けなくなった。
「花山がこんなことする人だとは思わなかった」
 女子の一人が言った。
 すると人だかりが開き、席に着く塩谷が視界に入る。
 同時に言葉を失った。意味が分からなかった。理解の範疇を超えていた。
 確かに昨日、俺は塩谷を殴った。一発だけ、そう一発だけだ。だが目の前にいる塩谷は頭に包帯を巻き、顔にはガーゼが三枚貼ってある。
 もしかしたら、あのあと転んだりして怪我をしたのかもしれない。そう思い塩谷に問いかけた。
「どうしたんだよ、それ?」
「昨日、花山が俺を殴っただろ。忘れたの?」
「大袈裟すぎるだろ。なんでそうなるんだよ。確かに殴ったけど、俺は一発だけしか殴って……」
「やっぱり殴ったんだ。サイテー」
 侮蔑するような目で、クラスの女子に言葉を遮られた。
「違う、塩谷にお金を貸して……」
 俺が理由を述べようとすると塩谷は立ち上がった。そして「俺が悪いんだ」と話し始めた。
「花山からお金を借りてたんだ。それを自分の貯金と合わせて弟の入院費に充てようとした。だけど都合がついて必要がなくなったんだ。自分が貯めたお金のほうでスニーカーを買ったんだけど、それを花山が勘違いして、『嘘ついてそれを買ったんだろ』って責められた。俺も説明したけど上手くできなくて、そのまま殴られた」
 教室中の視線が俺に集まってきた。完全なる軽蔑に変化した目に戦慄を覚えた。
 再度説明しようとしたが、恐怖で言葉が喉に詰まった。
 その瞬間、塩谷が小さくほくそ笑んだのが見えた。そして制服のポケットから二万を取り出して、俺に渡してきた。
「花山、本当にごめん。俺の説明不足でこんなことになって。みんなも花山を責めないでほしい。悪いのは全部俺だから」
 悲劇の主人公だった。嘘と真実を織り交ぜて脚色したストーリーは、視線というスポットライトを浴びて、俺を悪役に仕立て上げた。
「理由があったとしても、これは流石にやりすぎだろ」
 歓声変わりの同情が、周りの声を感化する。
「良い奴だと思ってたのに」
「花山くんがこんなことするなんて」
 違う、こいつは自分を正当化してるだけだ。なんで騙される、なんで誰も俺に理由を聞いてこない。
 このとき、積み上げた先に何もないと知った。そして自分を肯定してきた優しさは、絶望に変わり散ってゆく。
「俺は……」
 声を出したときに集まった視線が、もう他人に向ける目になっていた。
 三年間ともに過ごしてきた友達ではなく、罪を犯した疎ましい人間を見る目だった。
 その光景に言葉を出すのが怖くなった。今の自分が何を説明しても、すべてが言い訳になってしまう空気が出来上がっているように感じた。
 何より、三年間で積み上げてきた信頼が、こんなにも脆いものだと知りショックを受けた。
「もうすぐ受験だし、俺はこれ以上事を大きくしたくないから、先生には転んだって言う。だからみんなも黙っててほしいんだ。俺は花山のことを恨んでもないから」
 舞台は薄汚れたハッピーエンドで幕を閉じた。
 綺麗事を並べた主人公に観客たちは哀れみを送り、悪役には失望の眼差しが向けられた。

 そのあと、自分に送られる軽蔑の視線や蔑む声を聞きながら一日を過ごした。
 後悔した。ちゃんと説明すればこんなことにはなっていなかったのかもしれない。
 自分の中で期待してしまった。誰かが『ちゃんと花山の話も聞こうよ』と言ってくれることを。それがくるものだと当然のように思っていた。
 だが実際は俺への非難だけで終わった。
 自分は周りから慕われており、信頼を得ている。そう思っていたのは自分だけだった。それが一番辛かった。
 今から説明しようとも思ったが、一度タイミングを外してしまうと、すべてが嘘のように聞こえてしまう。
 一人でいるというのは、こんなにも辛いことなのか。たった一日だが、もう限界だった。
 放課後、俺は塩谷の家に向かった。
 学校で話そうとしたが、塩谷は怯えた表情を浮かべ、クラスの人間を縦にした。
「もう解決したんだろ。これ以上塩谷をいじめるなよ」
「また殴ろうとしてるんじゃない」
 蔑んだ目で非難を浴びると、学校で話かけるのは無理だと思った。
 塩谷の家は、アパート一階の一番奥だった。俺より少し高いブロック塀が周りを覆っており、敷地内は外からは見えづらくなっていた。
 十分ほど家の前で待つと、塩谷が帰ってきた。俺を見るなり「何?」と面倒くさそうな顔をする。
「なんで嘘ついたんだよ。正直にみんなに説明しろよ」
「もう遅いだろ。ていうかさ、お前って誰にも信用されてないんだな。庇う奴もいるかと思ったけど誰もいなかったな。みんな偽善者だって分かってたんだよ」
 痛いとこをついてくる。一番言われたくないことだ。
「お前を殴ったことは謝るし、別に咎めたりしない。頼むからみんなに本当のことを話してくれ」
 屈辱だったが頭を下げた。もうこれしかないと思ったから。
「無理。もうお金も返したし、俺に構わないでくれよ」
「あの金どうしたんだよ。お前スニーカー買ったんだろ?」
 これは気になっていた。親から借りるにも二万という額は大きすぎる。
「スニーカーと弟のゲーム機売ったんだよ。せっかく買ったのにお前のせいで買い損したよ」
「最低だな、お前」
 軽蔑を込めた視線を送るが、塩谷は振り払うように嘲笑う。
「どの口が言ってるんだよ。人のこと殴った奴が最低? ぜんぶお前が蒔いた種だろ。殴らなければこんなことにならなかったのになあ。あのとき我慢できなかったお前が悪い。全部自分のせいだろ。それを棚に上げて、なに被害者ぶってるんだよ。こんな兄貴持った弟が可哀想だよ。いや、あんな馬鹿面の弟を持った兄貴の方が可哀想か」
 俺は塩谷の胸ぐらを掴みブロック塀に押しつけた。その勢いのまま右手を振りかぶる。
 拳が顔の寸前まで伸びたところで自我を戻し、かろうじで止めた。
「なんだよ殴れよ。そしたら慰謝料ふんだぐれたのに。こっちはゲーム機買い戻さないといけねえのに……そうだ、弟が退院するまでにお前が買ってくれよ。そしたら考えてやる」
 腐ってる。こんな人間の言うことを信じたクラスの奴らが腹立たしく思えた。
「お前に話しかけたことがすべての間違いだった。あの日からぜんぶ狂った」
 胸ぐらを掴んでいた手を離し、敷地の外に向かった。
「いいのかよ、最後のチャンスだぞ」
 煩わしい声が背中から聞こえたが、ぜんぶ無視した。
 優しさなんて意味がない。積み重ねたところで紙クズと変わらない。
 俺はこの日、優しさを捨てた。蓮夜の前だけで見せればいい。そう誓って。

 中学を卒業するまでずっと一人で過ごした。
 周りからの軽蔑も「こいつらはすぐに騙される奴ら」と心の中で見下した。このやり方は間違っているが、そうしなければ苦しさに耐えることができなかった。
 高校では誰とも親しくしないと決めた。
 人に優しくすることが自分の存在意義になっていたが、それが今では崩壊した。嫌われてもいいから、一人でいるほうが楽だった。
 だが、声をかけられる度に相手を突き放すのが苦しかった。自分が人を傷つけていると分かりながら、それでも傷つける。
 だから自ら距離をとり、わざと目つきを鋭くさせて近づかせないようにした。最初は耐え難かったが、幸か不幸か、同じ中学だった相澤もここに入学していた。
 すぐに中学の噂は広まり、話しかけてくる者はいなくなった。安堵したが、どこか寂しさも横たわっているように感じた。
 一年の秋頃、校庭の隅に設置されたベンチで昼食をとっていた。
 校舎から聞こえてくる生徒たちの声が、煩わしさと羨望のグラデーションを感情に描いた。
「いい天気だな」
 急な声にカレーパンを喉に詰まらせそうになった。紙パックのレモンティーでなんとか流し込む。
 声の主は隣のベンチに座った。誰かと思い横目で見ると奥村蒼空だった。
 缶コーヒーを手に、青に蹂躙された空を見上げていた。
 奥村を見ていると、塩谷を殴る前の自分を思い出す。学年の中心にいて常に周りには人がいる。そして優しさを兼ね備えていた。
 俺は優しさが仇となって返ってきた。こいつもいずれそうなるんじゃないかと思ってる。いや、どこかで期待しているのかもしれない。
 同じ道を辿れば、俺自身が安心できる。自分だけじゃないと、一人じゃないと。
 俺がベンチを離れようとしたときだった。
「たまにさ、全部が鬱陶しくなることがあるんだよ。もうどうでもいいなって思う日が。でも、そんなときに会いたいって思う人もいる。そいつと会うとさ、澱んでいたものが澄んでいくんだよ。俺もこういう人間になりたいって思う」
 何を言ってるか分からなかった。奥村はそのあと、何も言わずに空を眺めていた。
 それから、俺が一人で飯を食ってると、たまに奥村が来ることがあった。
 特に何かを話すわけではなかったが嫌ではなかった。孤独の中にいた自分にとって、世界と繋がれている感じがしたから。
 無理に何かを求めるのではなく、寄り添ってくれているような気がして居心地が良かった。
 あるとき、気になっていたことを聞いてみた。
「中学のときの噂は知ってるだろ。なんで俺のとこにくるんだよ」
 奥村も知ってるはずだ。そのうえで来てる。その理由が分からなかった。
「噂は聞いたけど、直接見たわけじゃないから。信じるにしても自分の目で見てから決めるよ」
 その言葉に心が揺れた。全員が自分を軽蔑していると思っていたから。
 だがお人好しにも感じた。こいつはいつか俺みたいになるかもしれない。
「奥村は誰にでも優しくしてしんどくならないの?」
 自分と重ねていたのかもしれない。あのときの俺は優しさが存在意義になっていた。でも今は、優しさは自分を傷つけるものだと思っている。
 持っていても意味などない、ただの紙くずだと。
「自分を優しいだなんて思ってない。ただ、相手が自分らしくいられるような場所になりたいとは思う。だからしんどいって感じるときは、自分の優しさに気づいてもらえないときじゃなく、自分が相手の居場所になれなかったときかな。それと全員には優しくしない。自分が苦しくなる相手なら俺は背を向ける。非情さも持ち合わせていないと、誰かに優しくなんてできない。傷が治れば優しさの意味を知るけど、傷が付いたときは自分のことで精一杯だから」
 優しさは持っているだけではダメ。それをどう使うかが大事。そう言われたような気がした。
「なあ、俺も人に優しくしてもいいのかな?」
 思わず零れた。
 捨てたつもりでいたのに、まだ心の奥底に仕舞っていたのか。こんなものを持っていても、自分が傷つくだけなのに……
「それは俺が決めることじゃない。花山が自分で決めればいい」
「……優しさってなんだと思う?」
 分からなくなっていた。あのとき自分が信じていたものは、今となってはガラクラのように思える。それを手放せないでいる自分が惨めだった。答えが欲しい。自分を信じていいと思える答えが。
「優しさで傷を癒すこともできれば、傷を付けることもある。普段からその人を見ていないと、相手の求める優しさを理解できないと思う。優しい人って、優しさとは何かを知っている人なんじゃないかな」
 優しさを知る……自分は分かっていたのだろうか。
 今までの俺は自分本位の優しさだったのかもしれない。それは塩谷に対しても。
「俺みたいな人間でも、友達って作っていいのかな?」
 無意識に言葉が出てきた。心のどこかで救いを求めてたのかもしれない。
「来週の月曜に映画見ようと思ってるんだけど、ホラーだから一人で見るの怖いんだよね。だから付いてきてくれない?」
「子供かよ」
「花山はホラー映画、一人で見れるの?」
「もう十七だぞ」
「じゃあ付いてきてよ」
「……分かった」
 少し迷ったが、自分を見てくれている人間がいると知って嬉しかった。
 それと、奥村なら信じられるような気がした。
「藤沢千星っているだろ?」
「うん」
「あいつもホラー映画苦手でさ、怖いシーンがあると手で目を隠すんだけど、なぜか俺の目まで隠してくるんだよ。しかもさ……」
 話を聞いているだけだったが、高校に入って一番楽しいと思えた瞬間だった。閉ざされた扉が開き、光が差し込むような気がしたから。
 だが、奥村と映画に行くことはなかった。ホームルームで告げられた死は世界から色彩を奪った。
 もう光さえ見たくない。希望が散ったとき心に絶望を咲かせる。
 これ以上苦しみたくなかった。だから人と関わるのはこれで最後にしようと思った。
 いつか離れゆくものに、自分を委ねてはいけない。
 花山が話し終えると辺りはすっかり暗くなっていた。
 私たちを見守るように夜空には星屑が咲いている。
 花山は自分の軸になっていた優しさを枯らされ、世界から隔絶された。
 それは信じていたものが踏み潰されたことを意味する。
 だが、まだその花を抱えて、咲くことを祈っているように私は思えた。
「どうしたいのか自分でも分からないんだ。心の奥では誰かと繋がっていたいと思う反面、怖さから逃げるために一人でいたいと思う自分もいる。正解が欲しい。どう生きればいいのか」
 優しさという花を太陽の下で散らせ、夜にだけ咲くと決めた。
 でも本心はきっと違う。私や雪乃のように踏み出せないまま揺れている。一枚一枚花びらを落としながら。
「花山が望む生き方をすればいい。でもそのためには自分と向き合わなければいけない。多くの答えは自分の中にあると思うから」
 花山はゆっくりとこちらを見た。夜に紛れてはいるが、切望に染められた表情に見える。 
「花山には悪いけど、その塩谷って子の気持ちが少し分かる。もちろんやったことは許されることじゃないし、話を聞いててムカついた。でもずっと一人でいる人間は周りの人が怖いの。自分がどう思われているか、もし上手く話せなかったらどうしようか、色んな葛藤を抱えて日常を送っている。強引に自分の世界に引き込んだでしょ? たぶん無理してたんだと思う。明るく話しているように見えても、本人のなかではそれが負担になっていた。さらに言えば、花山みたいに常に人に囲まれている人間を疎んでいたのかもしれない。蒼空が一人で来たのは、花山にあった優しさを見つけるためだと思う。優しさって人によって受け取り方が変わるから」
 他人を嫌悪していた私も、もしかしたら塩谷みたいになっていたかもしれない。だけど蒼空という存在がいたから一線を超えなかった。
「最初は奥村のことが嫌いで、自分と同じようになれって思ってた。なのに手を差し伸べられたら嬉しくなって、友達になりたいなんて都合よく考えを変えた。本当に自分が醜い。俺も塩谷と一緒だ。ああなったのは、自分のせいなのかもしれない」
 花山は右手の拳を、もう片方の手で強く握り締めていた。
「自分に余裕がないと人に優しくなんてできないよ。生活が苦しいのに、地球のこと考えろって言われても無理じゃん。だから今は自分を楽にしてあげていいと思う。愚痴ってもいいし、人を嫌いになってもいい。でも進む方向は間違えてはいけない。その人のことを知らないのに、歪んだ想いをぶつけてはいけない。自分が苦しむだけだし、周りはもっと離れていく」
 人と人の間にはフィルターがあり、それが隔たりにもなるし結び目にもなる。思考が歪むと何もないところに壁を造り、相手を蔑んでしまう。そうなれば、外の世界との間に大きな溝ができる。
 今の花山は優しさの向け方が分からなくなっていて、彷徨うことに苦しんでいると思った。それと人の信じ方も。
「優しさって種類があるんだと思う。今進んでる道を肯定して寄り添うこと。別の道を示して背中を押してあげること。蒼空は私に変わらないといけないと言った。突き放されたように感じたけど、それも一つの優しさだった」
 気づいたのは最近だけど。
「優しさを持つことは間違いじゃないよ。だから自分を否定しなくていい。今大事なのは優しさの幅を増やすことじゃないかな」
「自分で優しさの尺度を決めてた。それを押し付けていただけかもしれない。優しさを知るっていうのは相手を見るってことか」
「そうだと思う」
「奥村の優しさは誰かを生かすもので、俺の優しさは自分を生かすものだった。思い上がりだったんだな。自分だけ満足してたから裏切られたのかもしれない」
「仮にその優しさが鼻についたとしても、裏切っていい理由にはならない。それはその塩谷って奴が悪い」
 花山は星を見上げた。遠い空の向こうを眺めるように。
「もう一度優しさを持ってもいいんじゃない。私は嫌なときは嫌って言う。違うと思ったら違うって言う。だから花山も私の前ではそうして。そういう友達が必要だと思う」
 私がそう言うと、花山は何かを堪えるように俯いた。
「俺のこと信用できるの? 今のが嘘かもしれないだろ」
 俯いたまま花山は言う。
「信じるよ。でも嘘だったら花山をぶっ飛ばす」
「ありがとう」
 ずっと閉じていた蕾が開くように、花山は顔を綻ばせた。

 土曜日、私は蒼空の家に向かっていた。
 覚悟を決めれず行くことができなかったが、昨日花山と話して、自分も一歩進まなければと思った。
 あのあと花山の家に行き、蓮夜くんに会った。
 玄関先に出てきた蓮夜くんに親指を立てると、それを察したのか同じく親指を立てた。
 花山は不思議そうに見ていたが、私と蓮夜くんだけ分かればいいのだ。
 蒼空の家が視界に入るとやけに足が重く感じた。家に近づいていくほど、水の中を進んでいるように感じる。
 正直怖い。なんて言われるか分からなかったから。蒼空は私を庇って亡くなった。家族からしたら、私に殺されたと思っているかもしれない。もし鋭利な言葉を投げられたら私は生きていく自信がない。
 蒼空の家族の顔を思い出すと胸が締め付けられた。だから無理やり閉じ込めていた。でも向き合わなければ、本当に進んだことにはならない。蒼空の家族に会って謝らないと、私は一生逃げたままだ。そして美月ちゃんのことも。
 十五分ほどで着くはずが三十分かかった。
 途中で足を止め、何度も深呼吸して緊張を押し殺そうとした。
 門扉の前に着き「奥村」と書かれた表札を見る。隣にはカメラ付きのインターホンがある。
 ボタンに人差し指を置くと小刻みに揺れた。その度に人差し指を強く握りしめ、強引に震えを抑える。
 逃げたかった。自分を楽にしたいから。
 でも逃げた先でずっと縛られたまま生きることになる。それでは前と変わらない。
 最後に大きく息を吐き、覚悟を決めた。
 震えた指でインターホンを押す。チャイムの音が脈を早める。
 数秒経ち「今行くね」とインターホンから聞こえた。蒼空のお母さん――美里さんの声だった。カメラで私と分かったのだろう。
 会うのは、病院で蒼空が亡くなった日以来だ。約一ヶ月ぶり。
 どんな顔で出てくるのだろう? 声はいつも通りだった。でも、それは今だけで……考えれば考えるほど、マイナスなことばかりが脳内を駆け回る。
 ガチャ、と玄関のドアの鍵が開く音がした。ゆっくりと開いたドアから美里さんが出てくる。
 顔を見ることが怖くて、思わず目を伏せてしまった。
 謝らなきゃと思い、目線を上げようとするが、緊張と恐怖で体の動かし方が分からなくなっていた。
ーーなんのために来たんだよ
 心の中で何度も言い聞かせていると、足音が目の前で止まった。
 心臓が一つギアを上げ、胸を強く叩く。
「あの……」
 指先の震えが唇に伝染して小刻みに揺れる。それが緊張と恐怖に拍車をかけた。
 声を発するどころか、言葉が頭の中で霧散し、思考が上手く働かない。
 出口のない森の中に迷い込み、彷徨っているようだった。
「千星」
 一筋の光が差し込むように、私の名前が鼓膜に注ぐ。
 顔を上げると、美里さんは優しく微笑んでいた。
「待ってたよ」
 その笑顔は蒼空とそっくりだった。
 リビングのサイドボードの上に小さな仏壇が置かれている。仏壇の中には蒼空の写真があり、笑ってこちらを見ていた。
 この写真は高校の入学式のときに、蒼空の家族と私の家族が校門の前で撮ったときのものだ。私も持っているため、すぐに気づいた。
 香炉に線香を刺し、目を瞑って手を合わせる。
 線香の匂いが鼻腔の中に入ってくると、蒼空がこの世界にいないことを再度認識した。
 目を開け、蒼空の写真を見てからダイニングに着いく。
 蒼空のお父さんは仕事でいないらしい。ホテルで勤務していると前に聞いた。土日は忙しいのだろう。
 キッチンから美里さんが出てきて、湯呑みに入ったお茶ときんつばを私の前に置いた。きんつばは仏壇に備えられたものと同じものだ。
「蒼空、きんつば好きだったんだよね」
 そう言って私の前に座り、頬杖をつきながら仏壇に視線を送った。
 懐かしむような声だったが、目はどこか切なさを宿している。
 その顔を見たとき謝らなきゃいけない思った。私が逃げ出さなければ蒼空が亡くなることはなかった。
 あのときのことを話さないといけない。
「美里さん、蒼空が亡くなったのは私のせいなの。蒼空の気持ちを聞くのが怖くて逃げ出した。それで追いかけてきたときに……」
「千星」
 美里さんは私の言葉を遮り、真っ直ぐな目で私を見てきた。双眸に優しさが滲んでいる。
「千星のせいじゃない。蒼空は罪悪感を感じなから生きてほしいなんて思ってない。そんな悲しい顔してたら、蒼空も嫌がるでしょ?」
「でも、私を庇って……」
「なら蒼空の分まで生きて。千星がこれからしないといけないのは償いじゃない。笑って生きること。それが私たちの求めることだよ」
 その言葉が涙腺を緩ませる。ここで泣くのはダメだ。美里さんの方が辛いんだから。
 私は奥歯をグッと噛んで堪えた。美里さんは我慢しなくていいよと言ったが、絶対に泣かないと決めた。
 楽になるためにここに来たのではない。私は背負う覚悟を持つために謝りにきたのだから。
 全身に力を込めて涙を阻止した。かなり踏ん張った顔をしていたからなのか、美里さんは優しく笑っていた。
「ありがとう、美里さん」
「うん」
 気持ちが少し落ち着いてきてから感謝を述べた。
 言葉は不思議な力を持っている。死に追いやることもあれば、命を掬うこともある。
 今の私は、優しさに染められた美里さんの言葉に救われた。
 そのあと美月ちゃんのことを聞いた。まずは引きこもっている理由を探さなければ。
「蒼空から聞いたんだけど、美月ちゃん学校行ってないの?」
 本当は結衣さんに聞いたが、蒼空からということにした。名前を出したら結衣さんのことを聞かれる。そしたら記憶を消されるかもしれない。
「ニヶ月くらい前から行かなくなったの。本人に理由を聞いても答えてくれない。担任に学校での様子を聞いたんだけど、いじめられてるとかはないらしんだよね。普通に友達もいるみたいだし」
 その心配もしていたが、もしないのだとしたら良かった。
「今、美月ちゃんいる?」
「部屋にいるよ」
「会ってもいい?」
 美里さんは「うん」と頷き立ち上がった。二人でリビングを出てニ階に上がる。
 一番奥にある部屋が美月ちゃんの部屋だ。その隣には蒼空の部屋がある。一緒に勉強やゲームをしたことが頭の中に映し出された。
「美月、千星が来た」
 美里さんはドアをノックしたあと、私が来てることを告げた。そもそも出てくるんだろうかと心配したが、少ししてドアが開いた。
「千星ちゃん、久しぶり」
 腰のあたりまで伸びたおさげを揺らしながら、パジャマ姿で出てくるなり満面の笑みで私を出迎えた。
 顔色は悪くなそうだったのでそこは安心したが、思ってた反応と違いびっくりした。
「ひ、久しぶり」
「入って」
 引網のごとく腕を引っ張られ、部屋の中に押し込まれた。私が入るとすぐに美月ちゃんはドアを閉める。
「ここ座って」
 美月ちゃんは学習机の前に置かれたキャスター付きの椅子を回転させ、私の方に座面を向けた。
 座面の高さが低かったので少し上げて座ると、正面に三段のメタルラックが見えた。
 一番下の段には漫画が積まれており、ほとんどが少女漫画だ。なぜかラブコンの五巻と七巻の間にボボボーボ・ボーボボの六巻が挟まっている。
 五巻の終わりに何があったか分からないが、テイスト変わりすぎだろ。同じラブコメでも毛色が違いすぎる。
 真ん中の段にはゲーム機があり、一番上の段にはテレビが置かれていた。
 ラックの隣にはガムテープで閉じられてるダンボールがある。
「ゲームやろう」
 美月ちゃんはゲームのセッティングを始めた。
 部屋を見渡すと画材道具が置かれてないことに気づいた。美月ちゃんは美術部だし、何より絵が好きだったはず。だが部屋には痕跡すら見当たらない。
 唯一近しいものといえば、机の上に置いてある金色に施されたトロフィーだけだった。『月のアートコンクール・小学生の部・金賞』と台座に書かれている。
「はい」
 ワイヤレスのコントローラーを渡された。美月ちゃんも同じカラーのコントローラを持ってベッドの上に座る。
 テレビ画面に映ったのは、赤い帽子を被ったおじさんたちがゴーカートに乗って順位を競い合うレースゲームだ。
 美月ちゃんは金髪のお姫様を選び、私は緑の恐竜を選んだ。
 スタートして間もなく、ゴリラが私に赤甲羅を当ててきた。ムカついたので執拗にゴリラにぶつかりにいく。
 もはや順位など関係なく、ゴリラが私に赤甲羅を当てたことを後悔させるため、待ち伏せして甲羅を投げ続けた。
「千星ちゃん、ルール間違ってる」
 そう言われたのでゴリラ狩りやめ、キノコ狩りをすることにした。
 美月ちゃんは楽しそうな顔でゲームをしており、引きこもっているようには思えなかった。
 それにものすごく違和感を感じた。
 学校に行けていない現状や、蒼空が亡くなってからまだ一ヶ月ということを考えると、幼い少女の無邪気な笑顔は何かを取り繕っているように思える。私の方を見るときの笑顔も、口角を無理に引き上げているように見えた。
 会話の隙間に落ちた沈黙も美月ちゃんはすぐに拾った。ゲームやアニメの話で埋めて、主導権を常に自分の傍に置いておく。
 聞かれたくないことがある。直感でそう感じた。
 雪乃と花山のことを思い出した。表面では自分の中にあるものを隠して、別の顔を作る。
 同じように何かを抱えていて、それを見せたくないのかもしれない。
 でも、笑顔は本心を隠すためにあるものじゃない。
 直接美月ちゃんに聞こうか考えたが今はやめた。
 何も聞かないで側にいてくれる人を求めているかもしれない。
 こういうのはタイミングやきっかけが大事になるから、今日はそばにいるだけにしよう。
 数時間経ち、窓からオレンジに染まった西日が差し込んできた。あまり長居をするのはよくないと思い、私はコントローラーを机に置き、帰る支度をした。
「もう帰るの」と美月ちゃんに言われたため、もう少し居ようか考えたが、夕飯前だったので帰ることにした。
 リビングに行き、美里さんに挨拶をしようとすると「家まで送ってくよ」と言われ、二人で玄関を出た。
 住宅街を美里さんと歩く。二人きりで歩くのは中学生以来だ。
「美月が楽しそうにしてるの久しぶりに聞いた」
「部屋の前にいたの?」
「最初だけね」
「いつもは違うの?」
「何も喋らないし、もっと暗い。まあ、私が厳しく言ったせいもあるんだけどね。理由聞いても言わないから『じゃあ学校行け』って怒っちゃったの。でも久しぶりに笑い声を聞けて安心した。昔から千星には懐いてたもんね」
 私によく絵を見せてきた。褒めるとすごく嬉しそうな顔をしていて、それが可愛かった。
「美月ちゃんはなんで学校に行かなくなったんだろう?」
「蒼空が言ってたんだけど、家で絵を描かなくなったって」
「将来はイラストの仕事就くとか言ってなかった?」
 絵はかなり上手かった。素人目でも分かるくらいに。よく月を描いていた。
「うん。中学でも美術部に入ったし、友達に褒められたって嬉しそうにしてたけど、半年くらい前から一切、絵の話はしなくなった」
 絵のことで何かあったのかもしれない。起因がそこにあるのだとすれば解決策を辿れる。
「でも部活でも何かあったとかはないみたい。担任が美術部の顧問に聞いて、そう言ってたらしい」
「じゃあなんで絵を描かなくなったんだろう?」
 二人で夕日を眺めながら思案したが、全く想像できなかった。
 まだ情報が少なすぎるし、今日の様子だけでは何も判断できない。
 でも取り繕っているように見えたから、笑顔の裏側には苦悩があるのかもしれない。それと、私には悟られないように気丈に振る舞っていたのも気になる。
 頭の中で思考を巡らせていると、家に着いた。
「千星、今日は来てくれてありがとう。また来てよ」
「うん」
 美里さんは「お母さんによろしく」と言って踵を返し、戻っていった。
 私は自分の部屋に戻り、部屋着に着替えてからベッドの上に横になった。
 美月ちゃんの今日の様子を頭に浮かべながら、学校に行かなくなった理由を自分なりに考えた。
「なんでだろう?」
 結局分からず、口から疑問符が零れた。
 ため息混じりに寝返りを打つと、カラーボックスに並べられた小説が目に入った。その中の黒いハードカバーに視点を合わせる。
 しばらく眺めていると、ふと頭の中をよぎるものがあり、その本を手に取った。
 表紙の中央には流れ星に乗った男の絵が描かれており、上部に『夜の祈りは星になる』と黄色い文字で書かれいる。タイトルの下には枯木青葉の文字が置かれていた。
 これは枯木青葉が亡くなってから発表された作品だ。
 孤独を抱える主人公が、死んだ人間の未練を叶えるという物語。
 私と同じだと思いながら、適当にページを捲っていく。
 真ん中あたりのページで指が止まった。
 そこには『枯れた花に願いは届かない』というセリフがある。
 結衣さんは前に『願うだけでは花は咲かない』と言っていた。この言葉と似ている。
 枯木青葉は都市伝説をモチーフに描いてるが、この作品だけモチーフとなるものが調べても出てこない。
 そしてこの本は『人が死ぬと流れ星が落ちる』という一文から物語が始まる。
 亡くなってから発表……死んだ人の未練を叶える……枯れた花に願いは届かない……最後の作品だけモチーフとなったものが不明……人が死ぬと流れ星が落ちる……
 出てきたワードを縒り合わせて、一つの仮説をたてた。
 枯木青葉は亡くなった後、流星の駅で誰かに未練を託した。
 その未練がこの本だ。
 あくまで仮説だが重なる部分がいくつかある。
 私はタイトルの部分を親指で撫で、しばらく表紙を眺めていた。

 日曜日の午後、コンビニで二リットルの炭酸飲料と表面がギザギザのポテトチップスを買って蒼空の家に向かった。
 その往路でレースゲームの動画サイトを見て勉強した。ロケットスタート、ドリフト、ジャンプアクション、色々な小技を覚えた。今ならあのゴリラを確実に仕留めることができる。一日たったが、赤甲羅を当てられたことは許していない。
 蒼空の家に着きインターホンを押すと、スピーカーから「ちょっと待ってて」と美里さんの声がした。
 なのでちょっと待ってると、女の子がやってきた。私から数メートル離れたところで立ち止まり、手に持った紙を見ている。
 腰あたりまで伸びた艶やかな黒い髪に、凛とした顔つき。幼さの隙間に大人びた雰囲気と気品を感じる。黒のニットとグレーのロングスカートが、よりその佇まいを強調させていた。
 目が合うと会釈をしてきたので会釈で返した。たぶん中学生くらいなので、美月ちゃんの同級生のなかもしれない。
 彼女に話しかけようとしたとき、美里さんが出てきた。
「上がって」
 いつものようにフランクな感じで言ってきた。私は美里さんのこういうところが好きだ。なんか姉さん感がある。
「美里さん」
「何?」
 私は離れた場所にいる彼女に視線を向ける。
 大人びた少女は腰を曲げ、綺麗な四十五度で一礼した。
 
 人は空気というもの作る。お互いの関係性やその時の心情、それらが相まって空間の色が決まる。
 今この場所に漂うのは、この二人の内面にある想いだと思う。
 部屋を通されたとき、美月ちゃんは笑顔で出迎えてくれた。それは昨日と変わらない。
 だが私の後ろにいた彼女を見たとき、表情に咲いた小さな花は、一瞬で萎れた。
 彼女の名前は秋山紗奈。美月ちゃんと同じクラスで彼女も美術部らしい。玄関で紗奈ちゃんからそう聞いた。
 美里さんも彼女のことはよく知らないように見える。家に来るのは初めてらしく、クラスの子に聞いたと言っていた。
 この二人は仲が良いのかと思っていたが、そうでもないらしい。二人の醸し出す空気でそう感じた。
 部屋に入ってから十分ほど経つが一切会話がない。美月ちゃんはベットの上、紗奈ちゃんは学習机の椅子、私は床に正座しており、ちょうど三角形の形になった。
 立場的に私は、底辺×高さ÷2でいう÷2の部分だろう。÷2が悪いわけではないが、底辺と高さの個性を否定しているように思えてしまう。底辺と高さに個性があるのかは疑問だが、『なんで俺たちを割ろうとするんだよ』そう言われている気がして÷2には同情の念を抱いていた。
 そして今、私が二人の間を割っているような気がする。良い意味で言えば空気の中和、悪く言えば話を切り出せない理由。たぶん邪魔だろうなと思い、申し訳なさが出てきた。
「私、帰ろうか?」
「千星ちゃんはいて」
 紗奈ちゃんからしたら帰ってとも聞こえる。気まずい空気が部屋を蝕んでいく。
 二人よりも大人な私がなんとかしなければいけない。そう思い、周りを見渡して沈黙を脱するきっかけを探した。
 目に入ったのは、学習机の上に置いてある炭酸飲料とポテトチップスだった。
 とりあえずパーティー感を出そうと思い、ポテトチップスに手を伸ばした。
「せっかくだから食べようか。表面がギザギザのやつ買ったの」
 二人は反応しない。それに焦った私は咄嗟に言葉を見繕う。
「このギザギザが好きで、いつかここに一軒家建てようと思ってるんだよね」
 何か言わないとと思った結果、自分でも意味が分からない言葉を口にしてしまった。
 こういうときは大抵、普段から思ってることを口走ってしまうものだ。私の潜在意識はポテトチップスに一軒家を建てようとしていたらしい。
 恐る恐る二人を見ると顔が死んでいた。
 気まずい空気を÷2するどころか二乗してしまった。きっとやばい女だと思われている。
 もしこれが合コンなら、このあと誰からも話しかけられず、一人でチャーハンを食べているやつだ。私がトイレに行っている間に会計を済まされ、帰って来たらチャーハンだけになってるやつだ。私以外の人でグループラインを作り、みんなで私をチャーハンと呼び合うやつだ。
 絶望に沈んでいると、気まずい空気から産まれたチャーハンの化け物をよそに、紗奈ちゃんが口を開いた。
「絵は描かいてるの?」
 変な空気が一瞬にして張り詰めた。たぶん核心に触れたのだろう。美月ちゃんの顔に陰りが見える。
 前までは、私が来たら真っ先に絵を見せにきたのに、昨日は絵の話すらしてこなかった。むしろ遠ざけているようにも感じた。
「もし描いてないなら描くべきだよ。やめるなんてもったいない」
 紗奈ちゃんは真剣な顔つきで言った。私が作った地獄の空気はすでに消えている。
 何も返答がなかったので美月ちゃんの方に視線を移すと、表情が固まっていた。そして徐々に顔が歪んでいく。
「ちゃんとした理由を聞いてない。なんであのとき絵をやめるって言ったの?」
 美月ちゃんにとって絵は夢だったはず。それを捨てていたことに衝撃が走る。
「なんでもいいでしょ」
「よくない、奥村さんは描くべきだよ」
「うるさい、もうやめるって決めたの。だから帰って」
「理由を聞くまで帰らない」
 美月ちゃんは口を噤んだ。喉元にある言葉を押さえるようにしながら。
「教えて、なんで絵をやめるって言ったの?」
 その言葉が引き金になったのか、押し出されるように美月ちゃんの口から言葉が零れた。
「私が絵を描けなくなった理由は、秋山さんだよ」
 紗奈ちゃんの顔に動揺が見える。それもそうだ、いきなり言われたら理解できない。
「どういう意味?」
「もう帰って」
「言ってくれなきゃ分からない」
「いいから帰ってよ」
 私は何も言えなかった。二人の関係性も事情も知らない。お互いの間にある隔たりを知らなければ、干渉すべきでないと思ったから。
「また来るから、そのときは理由を言って」
 紗奈ちゃんは静かに部屋を出ていった。追いかけようとも思ったが、美月ちゃんを一人だけ残して行くのは憚られた。
 どう声をかけようかと五分ほど思案していたら「ごめん千星ちゃん、今日は一人でいたい」と言われ、私も部屋を後にすることにした。
「何かあった?」
 リビングに行くと、美里さんが不安そうな表情で聞いてきた。
 たぶん下まで声が聞こえていたのだろう。しかもそのあとに紗奈ちゃんだけ先に出て行った。
「学校に行かなくなった理由は、絵をやめたことと関係するんだと思う」
 さっき部屋で起こったことを説明したあと、私はそう言った。
 美里さんは「そっか……」と表情を曇らせ、天井を仰いでいた。

 週明けの月曜日、朝に良い報告を受けた。
 雪乃が好きな相手に告白し、付き合うことになったみたいだ。
 日曜日に二人で映画を見に行き、その帰り道で彼に想いを伝えた結果、幼馴染が彼氏になった。
 雪乃は嬉しさを隠しながら昇降口で私に話した。それは照れ隠しとかではなく、蒼空を好きな私に気を遣ってのことだと思う。
「千星のおかげだよ。ありがとう」
「雪乃が頑張ったからだよ」と嬉しさを隠しながら言い返した。私の方は完全に照れ隠しだ。
 そしてもう一つ、花山が一年生に謝りに行った。
 連絡先の交換を求められた際に、花山は酷い断り方をしてしまった。
「謝りに行った方がいいよな」
「行くべき」
 そう聞いてきたので、即答で答えた。
 昼休み、花山は屋上前の踊り場にその子を呼び出した。
 私は”たまたま“そこに居合わせ一部始終を聞く。
 花山が頭を下げて謝ると、なぜか彼女も頭を下げて謝った。
「話したこともないのに急に呼び出したら、ああなりますよね。迷惑かけてごめんなさい。それとわざわざ謝りに来てくれてありがとうございます」
 礼儀正しい一年生に、花山は再度頭を下げて謝っていた。
 私がいたことを花山は気づいていたみたいで、後ですごく怒られた。
 言い訳をするなら、相手の子がすごい怒っている可能性もあり、そのときは間に入ろうと思っていた。
 結局何もなかったので、ただ興味本位で見に来ただけになってしまった。
 塩谷を殴った件について誤解を解いた方がいいと花山に言った。
 まずは相澤さんに話し、そのあと雪乃にも協力してもらえば、周りからの目も変わると思ったからだ。
「もういいよ。話したところで信じてもらえないだろうし、それにお前らも変な目で見られるかもしれないだろ。分かってくれる人間がいるってだけで救われる」
 花山は首を横に振ってからそう答えた。でも雪乃には話すと言うと「分かった」とだけ言い、教室へ戻っていった。
 花山と友達になったのかは分からないが、蒼空の未練は二つ叶えた。あとは美月ちゃんだけだ。
 なぜ絵をやめたのか。ここが起因になっていると思う。そしてそれは紗奈ちゃんだと言っていた。
 でも紗奈ちゃんもその理由を知らない。直接美月ちゃんに聞くしかないと思い、学校が終わってから蒼空の家に行った。
 リビングに入ると蒼空のお父さんがいた。ダイニングテーブルで真剣な顔つきでパソコンを打っている。
「蒼空パパ、久しぶり」
「ああ、千星ちゃん。久しぶり」
 私の顔を見て表情が柔らかくなった。蒼空の顔はお母さん似だが、優しい雰囲気はお父さんと似ている。
「今日は仕事休み?」
「うん」
 声も優しい。これも蒼空と似ている。
「ありがとね。美月に会いに来てくれて。今は家族だけしか会ってないから、千星ちゃんが来てくれると助かる」
「私で良かったらいつでも来るよ」
 ありがとね、とまた笑顔で言った。
 私は自分の家族より蒼空の家族と話すことのほうが多い。赤の他人の私を家族のように迎えてくれるから、それが心地良かった。だからこそ美月ちゃんの力になりたい。それは蒼空のためだけでなく、二人のためにも。
 美月ちゃんの部屋に行こうとすると、
「せっかく来てもらったところ悪いけど、今は誰とも会いたくないって。部屋からも出てこないんだよね」
 昨日の紗奈ちゃんとのことで、より深いところまで潜ってしまったのだろうか。だが本人に絵をやめた理由を聞かないと前に進めない。
 今日は蒼空と会う日だから、できれば理由を知りたかったが、一日置いた方がいい気がした。
「明日も来るって美月ちゃんに言っといて。会いたくなくても来るって」
「分かった」
 そのあと美里さんにお茶を出してもらい、三十分ほど三人で話したあと、家を出た。

 空を飛ぶ列車から星を眺めていた。
 対面に座る結衣さんは男とは何かを語っている。一区切りついたとこで、私は枯木青葉のことを聞いてみた。
「枯木青葉?」
 顎に手を添えながら考えている。
「亡くなってから小説を出版したんですけど、その本がベストセラーになったんです。物語の内容が、死んだ人の未練を叶えるってもので……」
「作家?」
「はい」
「あー、いたいた。流星の駅で未練を託してたよ」
 結衣さんはワントーン上げた声で頷いた。
「やっぱり。結衣さんが言ってた言葉と似ている台詞があったんです」
「なんて言葉?」
「『枯れた花に願いは届かない』、結衣さんが言ってたのは『願うだけでは花は咲かない』でしたけど」
 結衣さんは隣の座席を見た。どこか懐かしみながら、幻想を見るようにして。
「その作家、自分で命を絶ったのは知ってる?」
「はい」
 夕方のニュースで知った。三十秒ほどで枯木青葉の報道は終わり、次の話題に切り替わったのがショックだった。人の死より芸能人の不倫のほうが長い時間を割かれていたので、子供ながら大人ってくだらない生き物なんだと思った。
「自分が書きたいものを書いても売れない。世間は自分を理解できない。それに絶望したんだって」
 枯木青葉はデビュー作がピークと言われていた。本を出すたびに批判が増えたのは私も辛かった。
「そのときに言ったの。『願うだけでは花は咲かない』って。ただ自分のしたいことを書いてるだけでは、自分を満足させるための作品になってしまう。それでもいいなら何も言わない。でも、嘆くならなぜ理解されないのかを考えろ。その作家にそう言った」
 自ら命を絶った人間に対して厳しい言葉だ。でもこの人なら言いそう。
「向こうも『お前に何が分かるんだ』って怒ってきたんだけどさ、胸ぐら掴んで怒鳴り返したら静かになっちゃった」
 てへっ、みたいな顔をして言って来た。その顔が背筋に悪寒を走らせる。
「何て言い返したんですか?」
「たった一人でいいから、そいつの人生が変わるような本を書いてから死んでいけ」
 死んでいけ……会社の上司なら間違いなく問題になる。この人は現世で生きるには向かないと思った。
「そのあとに本を書いたんじゃないかな」
「枯木青葉も誰か呼んだんですか?」
「担当編集の人だったかな。確か……青木っていう男の人」
 私の仮説は当たっていた。枯木青葉は流星の駅に青木って人を呼び、最後の作品である『夜の祈りは星になる』を書いた。
「その青木って人と会って、枯木青葉の話を聞いてもいいですか?」
「なんで?」
「蒼空の妹が引きこもりになってるって言ってたじゃないですか? 彼女、自分の夢を捨ててしまったんです。その編集の人に枯木青葉のことを聞けば、何か参考になるかなと思って」
「うーん」
 と言いながら、結衣さんは宙を見て逡巡している。
 枯木青葉の最後の作品は、他の作品とかなり毛色が違っていた。二作品目から四作品目までは独りよがりと酷評されたが、死後の小説は絶賛された。
 きっと本人の中で何か変化があったんだと思う。その変化の経路に、美月ちゃんが再び絵を描くきっかけが落ちていたらと期待した。
「まあいいか、うん、いいよ」
 結衣さんは投げやりに答えた。
「青木って人には私から話しとくよ。だから千星ちゃんの携番教えて。電話かけさせるから」
 この間もそうだが、地上に簡単に来れるのだろうか? 普段はどこに住んでるのだろう? そんな疑問を抱きながら番号を伝えた。
 オッケーと軽く答えたので、ちゃんと覚えたのか不安になった。だが、本当に覚えましたか? なんて聞いたら殴られそうなので聞くのをやめた。
「向こうも忙しいだろうから、すぐにはかかってこないと思うけど気長に待ってて」
「はい。ありがとうございます」

 流星の駅に着き、一週間ぶりに蒼空と会った。
 いつもと変わらない優しい笑顔を見ると、どこか安心する。
 雪乃が付き合ったことを報告すると、「良かった」と安堵の表情を浮かべた。
 次に花山のことを話した。中学のときに何があったのか、何を抱えていたのかを。
「花山は自分の中にある優しさで自分を肯定していた。その軸となるものが信用できなくなって人を遠ざけてたのか」
「また傷つけられのが怖かったんだと思う。優しさを捨ててしまえば、傷を作らなくて済むから」
 でも背を向けた先で苦しみながら生きていた。ただ捨てただけでは人は救われない。
「優しさの向け方って難しいね」
 ぼやくように私は言った。
「そのとき、そのときでほしい優しさって変わるからな。でも常に相手が求める優しさを提示できる人なんていないし、相手だけに背負わせるのも違う。優しさを知るって、自分と相手を知ろうとすることなのかも」
 優しさは常に変化する。曖昧なものだからこそ、癒しにも傷にもなる。甘すぎるだけでも、厳しすぎるだけでも、優しさにはたどり着けないのかもしれない。
「千星、頑張ってくれてありがとう」
 唐突に言われたから反応できなかった。でも時間差で来る嬉しさに表情が緩まされた。
 だがすぐに顔を引き締め、美月ちゃんのことを話した。
「ごめん、無理言って」
「ううん、蒼空の家族にはお世話になってるし、私自身も力になりたいから」
 蒼空から再びありがとうと言われたが、嬉しさを噛み締めて美月ちゃんの話に戻した。
「蒼空は秋山紗奈って子、知ってる?」
「美術部の話は聞いたことあるけど、その子のことは知らない」
「絵を描くのをやめたのは、紗奈ちゃんが原因らしいんだよね」
「でも理由が分からない。本人も」
「うん」
 それを知っているのは美月ちゃんだけかもしれない。だから直接聞かないといけないのだが……
「部屋からも出てこないんだよね?」
「うん」
「紗奈ちゃんって子は絵を描かかせようとしてたんだよね。原因はその子よりも美月にあるのかも」
「どういうこと?」
「無理やりやめさせられたというより、自分からやめたってことでしょ? 紗奈ちゃんって子はわざわざ家まで来てるわけだし」
 彼女もそう言っていた。なんで絵をやめるのと。
「その子と話した?」
「まだちゃんと話してない」
 蒼空は視線を落として何か考えている様子だ。一度私を見ると、すぐに視線を落とした。
 なんとなく察しがついた。その案は私も億劫だが、美月ちゃんのためなら仕方ない。
「美術部に行ってみるよ」
「顧問は牧野だよ」
「うん。でも行かないと進めないから」
「ごめん」
「大丈夫、もう昔とは違うから」
 過去が足枷となっていたときは他人が嫌いだったが、雪乃や花山と接して人の見えかたが変わった。
 その纏わりついていた起因が溶ければ、新たな価値観を咲かす。自分の中にある考えかたで世界の景色は決まってくる。
 そのことを二人を通じて知ることができた。
「千星、強くなったね」
 蒼空に言われて顔が綻んだ。好きな人の言葉というものは自分に勇気を与えてくれる。
 その言葉で、私はまた一歩進めそうだった。
 学校が終わったあと、中学校を訪問した。
 卒業してから一度も来ていないので約二年ぶりになる。
 中学のときは蒼空しか友達がいなかったし、学年の中でも地味なほうだった。だから私を覚えている先生はほとんどいないかもしれない。
『誰?』という顔をされたらどうしよう。そんな想いを抱きながら昇降口に入った。
「おー、藤沢じゃないか」
 正面にある階段から牧野が降りて来た。大声で私の名前を呼ぶので羞恥心が芽生える。
 二年前と変わらず角刈りだった。ふくよかな体型にジャージ姿なのも一緒だ。
 美術部の顧問と言われても誰も信じないだろう。どちらかといえばラーメン屋の格好の方が似合う。
「どうした? 俺に会いに来たか」
 豪快に笑いながら、ざらついた声でつまらない冗談を言う。
「美術部に一年生の秋山さんていますよね? 会いに来ました」
 本来ならツッコミを入れるところであったがスルーした。面倒くさいから。
「秋山のこと知ってるのか? あっ、奥村の妹から聞いたのか。あいつ学校来なくなってな。次に会ったら来いって言っといてくれ。悩みがあるなら俺が聞くからって。最近の子は何かあるとすぐに引きこもる。気合いと根性が足りないんだよな」
 牧野は美術部の顧問なのに体育会系の考えを持っている。大体のことを根性論で片付けようとするところも相変わらずだった。
 それと、あんまり人の家庭の事情を他人に話すべきではない。私は美月ちゃんのことを知っていたからいいものの。
「秋山なら、美術室にいると思うから案内するぞ」
 一人で行くので大丈夫です。と言ったが、軽快に無視され三階にある美術室に向かった。
「奥村が亡くなったから、藤沢のこと心配してたんだよ。中学のときに奥村しか友達がいなかったろ? だから高校で一人になってないか不安でな……」
 こいつは昔からデリカシーがない。牧野は私が三年のときの担任だった。一人でいた私を無理やり他の生徒と仲良くさせようとしたり、ホームルームで『誰か藤沢と友達になってやれ』と言ってきたり、とにかくムカついた。本人に悪気はないのだが、それもムカついた。私のためと思っていたのかもしれないが、ひたすらムカついた。そのせいで学校に行くのをやめようと思ったこともある。あまりにムカついたから、黒魔術の教室に通おうかと思ったが、蒼空に止められた。
「高校では友達できたか?」
 どうせできてないだろ? みたいな顔で言ってきたので、「学年のほとんどの人と友達です。多すぎて困ってるくらいです」と見栄を張った。
 全然いませんとか言ったら、根性論を発動してくるのでそれを阻止した。
「本当か? 本当に友達か」
 こいつぶん殴ってやろうか。自分の教え子の言ったことを信じろよ。嘘だけど信じろよ。上辺だけでも信じろよ。
「ええ、友達です」
 ほとんど感情の乗ってない「友達です」を言ったとき美術室に着いた。牧野は首を傾げながら扉を開ける。
 中に入ると、窓から入ってくる乾いた風が絵の具の匂いを運んできた。雰囲気や匂いがどこか懐かしく感じる。
 窓側の一番後ろの席に紗奈ちゃんがいた。絵の具を使って何か描いていたが、私に気づくと立ち上がって綺麗なお辞儀をした。
「秋山、藤沢を知ってるか?」
「はい」
「お前に会いに来たみたいだぞ」
 こいつにお前と呼ばれるのはムカつくだろうなと思う。言われてない私がもうムカついてるのだから。
「一昨日は失礼しました」
「ううん」
 私は首を横に振る。
「俺は職員室にいるから、用が済んだら挨拶こいよ」
 牧野は頭をかきながら教室を後にした。先ほどまで胸に纏わりついた不快感が安堵に変わる。
「奥村さんのことですか?」
「それと紗奈ちゃんのことも」
「私ですか?」
「うん」
 そう言ったあと、私は彼女の隣の席に座った。
 紗奈ちゃんは机の上に置いてある画材道具を片付けようとしたが「大丈夫、そのままで」と私が言うと、すいませんと軽く頭を下げた。
「すごい……」
 先ほどまで紗奈ちゃんが描いていた絵を見て、思わず声が漏れた。
 小さなキャンパスには、海に沈んでいく夕日が描かれている。
 オレンジに染まる海と空。空の上部には夜が薄らかにかかり、そのグラデーションがなんとも美しい。絵のことはまったく分からないが、彼女の才能は私でも分かった。
「あの……」
 絵の世界に魅せられていて、現実から意識が遠のいていた。彼女の言葉で戻ってくる。
「ごめん、あまりにすごすぎて、つい見入っちゃった」
「ありがとうございます」
「美術部って紗奈ちゃん一人だけなの?」
「いえ、他にもいます」
 彼女が言うには、部員は美月ちゃんを入れて五人。他の三人はほとんど顔を出さないようだ。来ても漫画を読んだり話をしているだけなので、実質、彼女と美月ちゃんの二人らしい。基本自由な部活みたいだ。
「それで聞きたいことって何ですか?」
「美月ちゃんが絵をやめるって言った理由に心当たりないの?」
「奥村さんは私が理由って言ってたけど、まったく心当たりがなくて……」
「変わった様子もなかった?」
 紗奈ちゃんは細い指を口元に当てながら考えていた。
 音が消えた美術室には、運動部と思われる声が外から響いてくる。
「あっ」
 何かを思い出したように口を開いた。
「奥村さんが絵をやめると言った何日か前に、ここで絵を描いていたんですけど」
「うん」
「教室にスケッチブックを忘れたことに気づいて取りに戻ったんです。帰ってきたら、奥村さんが涙ぐみながら美術室から出てきました」
「泣いてたの?」
「はい。理由は分かりませんが、奥村さんは自分の描いた絵を持っていました。月の絵なんですが、その絵を参考に私も月を描いていたんです」
「そのとき何か話した?」
「私が描いた月の絵を見たらしく、『どれくらいの期間で描いたのか』『月の絵を描くのは初めてか』と聞かれました。質問に答えたら、そのまま去ってしまったので、事情が把握できませんでした。あと、美術室に入ったら牧野先生がいました」
 牧野に何か言われた? あいつなら余計なことを言いそうだ。
「牧野は何か言ってた?」
「私の描いた月の絵を見て、コンクールに出すよう言ってきました」
「コンクール?」
「はい。月をテーマにしたコンクールの公募があるから、そこに出した方がいいって」
 月といえば美月ちゃんが得意な絵だ。
「その絵って今見れる?」
「はい。準備室に置いてあります」
 紗奈ちゃんは立ち上がって、教室の後ろにある準備室に向かった。私もその後を付いていく。
 中は思ったより広く、数人入っても余裕があるぐらいだった。棚にはイラスト集や画材道具、除湿剤などが置いてある。
 そして奥には木の台(確かイーゼル)に立てられた一枚の絵があった。
「これです」
 そこに描かれていたのは、向日葵を抱えた少女が夜空の月を見上げている絵だった。少女はこの学校の制服を着ており、腰まで伸びた髪が風で揺られている。少女の顔は靡いた髪で隠れている。
 さっきの絵もすごいが、こちらはそれ以上だ。なにより月が美しい。白を帯びた満月が少女を照らすようにして夜空に君臨している。この絵で真っ先に目がいくのはこの月だ。それほど存在感がある。
「これは絵の具?」
「はい」
「すごいね。特にこの月が綺麗」
「奥村さんに比べればまだまだです。彼女の描く月は本当に綺麗だし、私はあの絵が好きなんです。だからまた描いてほしい」
 紗奈ちゃんは月の絵を見ながら言った。双眸に切なさを滲ませている。
「この絵、写真撮ってもいい?」
「はい」
 ブレザーのポケットからスマホを出し、絵の写真を撮った。画面越しでもこの絵の素晴らしさは伝わる。
「紗奈ちゃんありがとう。邪魔しちゃってごめんね」
「いえ、奥村さんはあのあと何か言ってませんでしたか?」
 部屋から出てこなくなった、とは言えない。だから代わりに、
「美月ちゃんが絵をやめた理由は分からない。でも描きたいって気持ちがまだあるなら、描いてもらえるように頑張ってみる」
「お願いします。私にも協力できることがあったら言ってください」
「ありがとう」
 そのあと、紗奈ちゃんと連絡先を交換して美術室を出た。
 そのまま家に戻りたかったが、牧野に帰ることを伝えないといけなかった。昇降口に向かう足を無理やり捻り、職員室に入る。
「社会っていうのはお前が思ってるより厳しいところだから、もっとコミュニケーションをとらないとダメだぞ。お前は内気すぎるから……」
 帰りますと伝えると、説教じみた演説を十五分ほど聞かされた。その間、私は一言も喋らなかった。それでも気にせずに話しを続ける牧野を見て、コミュニュケーションとはなんなのだろうと思った。
 牧野が話し終えたあと、さきほど紗奈ちゃんが言っていたことを聞いてみた。こいつが美月ちゃんに何か言ったのではと私は踏んでいる。
「秋山の絵はすごいだろ。俺がすごいと思うってことは、相当すごいぞ」
 それは誰でも分かる。聞いてるのはそっちじゃない。また一人語りが始まりそうなので、「美月ちゃんに何か言いましたか」と具体的に聞いた。
「奥村が応募しようとしていたコンクールがあったんだが、他に変えた方がいいって薦めたんだ。秋山の絵のほうが賞を獲れると思ったからな。コンクールってのはたくさんあるから、可能性があるところに送るのが一番いいんだよ」
 そのあと、牧野は絵のことを語り始めた。長くなりそうなので話を遮り「もう帰ります」と伝えると「そうか」と寂しそうな顔をした。だがそれは、教え子が帰ることへの寂しさではなく、話し相手がいなくなる寂しさだと思った。

 就寝前に写真で撮った紗奈ちゃんの絵を見返した。
 何度見ても美しいと感じる。でも気になる点もあった。絵に描かれた少女は中学の制服を着ている。しかも冬服だ。
 誰かモデルがいるのだろうか? なぜ向日葵を抱えているのだろうか?  制服は冬服なのに抱えているのは夏の花。
 芸術の世界は分からないが、こういうのは意味があったりするもんなのか? 涙ぐんでいたのは、牧野に他のコンクールを薦められたからなのだろうか? 考えれば考えれるほど、疑問が湧き出てきて頭が痛くなる。
 芸術の世界は私みたいな人間には知り得ないことがたくさんあるんだろう。もしそれを知らないと解決できないことだったら、美月ちゃんに再び絵を描いてもらうのは絶望的だ。
 芸術関連の知り合いがいれば何か掴めるのかもしれないけど、そんな人間、私の周りには……
 いた。知り合いではないし、分野も違うけど、創作という点において共通点があるかもしれない。
 私の視線はカラーボックスにある枯木青葉の本に向いていた。
 枯木青葉は担当編集の青木という人を流星の駅に呼んで、あの本を書いた。その人に話を聞けたら、何かヒントを見つけられるかもしれない。
 結衣さんは青木って人に私の番号を伝えると言っていたが、一向にかかってこない。あの人は本当に伝えたんだろうか。一抹の不安を抱えながら、私は眠りについた。

「そうだっんだ……」
 昼休み、公園のベンチで雪乃と昼食をとった。その際に、花山がなぜ殴ってしまったのかという理由を説明した。
 雪乃にも協力してもらったので、報告するべきだと思ったし、私が信頼を置く人には知ってほしかった。
「花山くんは優しく在りたいと思っていたのに、その優しさの向け方が分からなくなったんだね」
「うん。蓮夜くんだけに優しさを向けれたのは、信頼できたからだと思う。他人では何が返ってくるか分からないから」
 優しさって難しいよね、と雪乃は言った。そして付言するように言葉を繋げる。
「『周りの人に優しくできる人が好き』って言ったとしても、特別な優しさは自分だけに向けてほしいじゃん。おばあちゃんが重い荷物を持っているから手伝うとか、店員さんへの接し方とか、これは『周りの人に優しい』。女友達が風邪を引いたからお見舞いに行くは『特別な優しさ』だから『周りの人に優しい』の部分には入らない。だけど言葉だけみれば間違ってはいない。要は安心と不安が境界線になってるんだと思うの。付き合っていく上で、良い関係性を築けるのかって。でも表面の言葉だけで全部は汲み取れない。人によってその線引きは変わるし、優しさをオーダーメイドしないと細部まで理解してもらえない。だからと言って、理想ばかり押し付けたら相手が苦しむ。妥協しながら失敗と経験を経て、人は優しさを理解していくんだと思う」
 人それぞれの生き方があり、バックボーンがある。その過程で考えや価値観が変わり、求めるものや受け取り方が決まってくる。だからこそ、普通に生きるということが難しいんだと思う。違う道を歩いてきたなら見てきたものも違う。だからこそ人に傷つけられることもあれば、人を傷つけてしまうこともある。優しさにも相性があって、噛み合わないとぶつかってしまうのかもしれない。
「生きるって何でこんなに難しいんだろうね」
 美月ちゃんのことも相まって思わず口に出た。
 大人はまだ十七歳だろと笑うだろうが、十七歳でも世知辛い世の中なのだ。
「何ででしょうね」
 雪乃はおばあちゃんみたいな口調で言った。
「幸せになりたいですね」
 私もおばあちゃんみたいな口調で返した。
「そうですね」
 雪乃はおばあちゃん返しを再度してきた。
「いい天気ですね」
 再度私もおばあちゃんで返す。
「雲が綺麗ですね」
「カリフラワーみたいですね」
「茹でましょうか」
「今日の晩御飯にしましょう」
「美味しそうですね」
「ええ、美味しいですとも」
 私たちは昼休みが終わるまで、おばあちゃんをしていた。
 
 放課後、駅前のファーストフード店でポテトとメロンソーダを注文し、二階の奥の席に着いた。
 学校の人も何人かおり、楽しそうに話している。少し前ならその光景に嫌悪していたが、今は何も思わない。孤独は世界を歪んで見せる。今までの澱んだ感情は自分で作っていたんだなと思った。
 ポテトを口に運びながら、スマホで枯木青葉のことを調べた。
 枯木青葉の作品は亡くなった後に出した本も含め、全部で五作品ある。そのどれもが同じ出版社だ。ホワイトノベル大賞というコンクールで大賞を受賞し、デビューに至った。
 デビュー作はそれなりに売れたようだが、二作目からは批判も増え、三作目では売上がだいぶ落ちたらしい。生前最後の作品に至っては、売れもしなければ、批判もかなり多かった。私は四作とも好きだったが、嫌いという人の意見も理解できる。
 枯木青葉の作品は好みがはっきりと分かれる。著者の思考がもろに出ており、その考えに共感できれば面白いだろうが、理解できなければ価値観を押し付けられているように感じると思う。実際にそういうレビューはたくさんあった。
「作者のためにキャラクターがいる」「主人公を理解できないし、共感もできない」「自己満の作品。キャラクターの後ろに作者が透けて見える」
 作品が好きだった私は、その一つ一つの批判にショックを受けたが、反面その理由も理解できた。
 だが、亡くなった後に出た作品は今までとは変わり、読んでいる人に寄り添うような優しい言葉が多かった。枯木青葉という個性を残しつつ、新規層にも届くようになっていたと思う。
 家に帰ったら、もう一度全部読み返そう。そう思ったときスマホに着信が入った。
 知らない番号が表示されていたため、もしやと思いメロンソーダでポテトを流し込んで電話に出た。
「藤沢千星さんの携帯でお間違いないでしょうか?」
「はい」
「白川出版の青木と申します。結衣さんから電話番号を教えてもらい、おかけしました。枯木青葉について聞きたいということですよね?」
 本当にかかってきた。結衣さんを疑ったことを心の中で謝罪し、電話に戻る。
「はい。最後の作品のことをお聞かせいただければと……」
「明日の十七時頃って空いてますか?」
「はい、大丈夫です。どこに行けばいいですか?」
「確か高校生でしたよね? こっちまで来たら帰る時間も遅くなると思ので、こちらから伺います」
「それはかたじけないので、こちらからお伺いするでございます」
 緊張して、得体の知れない敬語の化け物が産まれた。冒頭に武士がいた気がする。
 普段は言葉遣いを意識していないため、丁寧に言おうとすると敬語が絡み合ってしまう。
 電話越しから「フフッ」と一笑した声が聞こえてきて、思わず恥ずかしくなった。
「大丈夫、こっちから行くから。最寄りの駅だけ教えてもらっていい?」
 駅名を伝えたあと、集合場所も決め、明日の十七時に会うことになった。
 電話を切り、再びポテトを口に運ぶ。
 結衣さんの話を聞くかぎり、枯木青葉は絶望していた。自分の作品が世間に評価されないことを悔やみ、命を絶った。
 彼にとって小説とは人生そのものだったのかもしれない。それを否定され、生きる希望を無くしてしまったのだろうか?
 美月ちゃんは絵を描く仕事に就きたいと言っていた。絵を人生の目標に掲げていたなら、夢を捨てるという行為は、命に傷を付けることではないのか? そう思ったら、急に不安が押し寄せ来た。
 不安と連動したようにスマホに着信が入る。画面には美里さんの名前が表示されていた。
 胸がざわついた。まだそうと決まったわけではないが、変な想像が頭をよぎる。
 一度深呼吸をしてから、恐る恐る電話に出た。
「もしもし……」
「今、家にいる?」
「これから帰るとこ」
「……」
 表情の見えない沈黙が想像を広げる。鼓膜から不安が入ってきて、全身を這いずり回り蹂躙していくようだった。
 耐えかねた私は自然と口が開いた。
「何かあったの?」
「美月がいなくなった」
 ため息の数だけ幸せは逃げていく。
 この迷信を信じるなら、美里さんは何度幸せを吐き捨てたのだろう。
 リビングに漂うため息が、この空間を重くしているように感じる。
 頭を抱えながらダイニングテーブルに着く美里さんが、再度幸せを逃がそうとしたので言葉を発してそれを阻止した。
「私が探しに行くから美里さんは家にいて。美月ちゃんが帰って来るかもしれないから」
「ありがとう、千星」
「見つけたら連絡するから。自転車借りてくね」
「宜しく」
 私は玄関に向かい、シューズボックスの上にある自転車の鍵を取って外に出た。
 美里さんが言うには、昼食を部屋まで持っていった際に美月ちゃんと口論になったそうだ。
 学校に行かない理由を聞いたが、一切口を開かないので思わず怒ってしまったらしい。
 夕方頃、部屋に食器を取りに行くと、手のつけられていない昼食が机の上に置いてあり、美月ちゃんの姿はなかった。
 もしかしたら私の家に行っていると思い、自宅の固定電話にかけたらしい。だが来ていないとのことだったので、私のスマホに電話をした。
 というのがここまでの流れだ。
 美月ちゃんのスマホが部屋に置いてあったと美里さんは言っていた。連絡する手段がないため、まずは家周辺を手当たり次第探すことにした。
 コンビニ、スーパー、駅周辺を捜索したが、どこにも姿は見当たらない。
 もしかしたら美術部に顔を出しているかもと思い、【美月ちゃんとはそのあと連絡取った?】と紗奈ちゃんにLINEを送る。
 美月ちゃんが来ていないかを直接聞いた方が早いが、まだ大ごとにしない方がいいと思い、遠回りに確認することにした。
 一分後、通知が鳴ったので開くと、
 【いえ、あれ以来取ってないです】と返ってきたので【そっか、何かあったら連絡してね】と親指を上げたゴリラのスタンプを添えて送り返した。
 すぐに通知が来て【分かりました。私に協力できることがあったら連絡ください】と親指を上げた可愛いネコのスタンプが添えられて返ってきた。
 探し始めてから一時間が経ち、辺りはすっかり暗くなっていた。残すは岬公園だけだ。
 こんなときに枯木青葉が頭をよぎる。自身の書いた本が世間に認められず自ら命を絶った。美月ちゃんは自身で夢を捨て、学校にも行かなくなった……
 したくもない想像が脳内を駆け回る。私は胸中のざわつきを払拭するように、重くなった足を無理やり動かしてペダルを漕いだ。
 十分ほどで着き、駐車場、子供広場とくまなく探したあと、一番奥にある展望広場へ向かった。
 すると柵の手前にあるベンチに、女の子が座っているのが見えた。まだ距離があるため、美月ちゃんかどうかは判断できない。
 もしかしてと思い近づいていくと、その子は立ち上がって柵に手をかけた。
 この公園は高台にあるため、その先を越えると斜面になっており、下には海が広がっている。
 私は咄嗟に「ダメ!」と叫んだ。
 急に大声を出されたからか、女の子は肩をビクッとさせこちらを振り向く。
 月が照らすその顔は、やっとの思いで見つけた美月ちゃんだった。
 私は駆け寄り、力強く美月ちゃんを抱きしめた。「痛いよ」と言う声が聞こえたが、このまま離してしまったらどこか遠くに行ってしまいそうだと思った。
「ダメだよ、死のうとしたら」
 震えた声が出た。憂いと安堵が混ざり合った不安定な声色。白と黒のグラデーションできつく抱きしめる。
「そんなことしないよ。ただ月を見に来ただけ」
「え?」
 腕を解いて美月ちゃんを見ると、怪訝な顔でこちらを見ている。
「飛び降るのかと……」
 美月ちゃんは首を横に振る。
「お兄ちゃんが亡くなったばかりなのに、そんなことできない」
 その言葉で安心の極地までいき、膝から崩れそうになる。今まで探し回っていた疲れがどっと押し寄せてきて、ベンチに腰を下ろした。
「美里さん心配してたよ」
「もしかして、私を探してたの?」
「うん」
「ごめん……」
「帰ったら美里さんにそうとう怒られると思うけど、私も一緒にいるから」
 美月ちゃんは頷いたあと、肩を落として私の隣に座った。落ち込んだ表情を見ていると、夜に捨てられた月を拾ったように思えた。
 早く安心させたいと思い、美里さんに電話をかけた。
 見つけたことを報告すると、力の抜けた様子が声だけで伝わってきた。
「よかった」と何度も口にしている。
「美里さん、少しだけ時間もらってもいい? 二人で話したいことがあるから」
 美月ちゃんがこちらを振り向いた。
――分かった。でもできるだけ早く帰ってきて。
「うん」
 電話を切り、美月ちゃんの方に体を向けると、不安と緊張が見てとれた。
 私が普段は見せない、真剣な顔つきになっているからかもしれない。
「教えて。なんで絵をやめるって言ったのか」
 美月ちゃんは自分の右手に視線を落とした。
「才能がないから。それだけ」
「あんなに上手なのに?」
「自信はあった。月の絵なら誰にも負けない、これだけは絶対に一番になれると思ってた。だからひたすらに月だけを描いてきた。でもね、才能って簡単に人の努力を否定できるの。私が初めて絵を描いてからの数年間、その積み上げてきたものを一瞬で壊されたようだった」
 心当たりがあった。つい最近、その絵を見たから。
「でもこれからじゃない? まだ中学生なんだから」
 美月ちゃんは夜に浮かんでいる満月に視線を移した。
「私にとって絵がすべてだった。それがないと自分に価値なんてないから……」
 憂いた声で、絵をやめた理由を話し始めた。
 幼い頃は何事にも自信がなく臆病な性格だった。
 小学校に入学すると、みんなが友達を増やしていくのに対し、私の周りには喧騒だけが響いた。
 教室から外で遊ぶクラスの子たちを眺めながら、その中で楽しそうに笑っている自分の姿を想像する。
 みんなが私を囲んで、「美月ちゃん」と名前を呼ぶ。そんな夢を教室の隅で思い描いていた。
 ある日の夜、お兄ちゃんとこっそり家を抜け出し、岬公園で月を見た。
 夜というキャンパスに描かれた月は、今まで見た何よりも美しく、私はその光景を目に焼き付けた。
 家に帰ったあと、夢中でノートに月を描いた。あの美しい月を手元に置いておきたいと思い、必死に思い出しながら色鉛筆に感情を乗せた。
 このときの拙い月の絵が、私の夢の始まりだった。
 それから一年経った小学二年生の秋ごろ、お兄ちゃんが初めて学校の人を家に連れてきた。
 四年生までは陽一くんという仲の良い友達がいたらしいが、家に来たことはない。
 その子が転校してからは、お兄ちゃんの口から友達の名前を聞いたことがなかった。
 でも最近、女の子と一緒にいる所を学校でよく見かける。
 今日来てるのは、たぶんその子だ。
 私はそっと部屋の前まで行く。どんな話をしているんだろうか? 友達ってどういう風に作るんだろう? 私が知りたいことが目の前の部屋に詰まっていると思った。 
 ドキドキしながら中の声を聞こうとしたとき、急にドアが開いて女の子が目の前に現れた。いけないことをしているからか、目があった瞬間に体が動かなくなった。
「伊賀と甲賀どっちの者だ。名を名乗れ」
「奥村です」
 名前を聞かれたと思い、そう答えた。
 女の子は私を怪しんでいる。自分の家にいるのに泥棒になった気持ちがした。
「千星、俺の妹」
 女の子の後ろで、お兄ちゃんが言った。兄の声を聞けたからか、少しホッとした。お巡りさんに職務質問を受けている人の気持ちが何となく分かった気がする。
「家康の後輩かと思った」
 女の子がお兄ちゃんの方を向いて言う。
「伊賀も甲賀も後輩ではないから」
「地元の怖い先輩に率いられてるんじゃないの?」
「そんなヤンキーみたいな関係性じゃない」
 なんの話をしているのか分からなかったが、二人のやりとりを見て、友達っていいなと思った。
「美月、この人は同じクラスの藤沢千星」
 お兄ちゃんが紹介したあと、女の子は胸を張って「私が藤沢だ」とドヤ顔で言った。
「妹の奥村美月です」
 六年生の人とはあまり話したことがなかったため緊張した。どこに目線をやればいいのか分からず、ずっと自分の靴下を見ていた。
「美月、絵を見せてあげて」
 お兄ちゃんがそう言うので、二人を部屋に案内して月の絵を見せた。
 初めて他人に絵を見せるため、どんな反応をされるのか怖かった。もし下手と思われたらどうしよう。そう考えたら急に心臓が大きく動いた。
「すごい、上手だ」
 アクリル絵具で描いた『海の上空に浮かぶ月』の絵を見たあと、千星ちゃんは笑顔で言った。
 褒められたこともそうだが、それ以上に、自分の描いた絵で人を笑顔にできたことが嬉しかった。
「絵ってこれだけ?」
「まだいっぱいある……」
「もっと見せてよ」
 机の引き出しから小さいキャンバスボード取り出して見せると、千星ちゃんは目を輝かせていた。
「美月ちゃん本当に上手だね。将来、絵師になれるよ」
「私なんかじゃ無理だよ……」
「なれる。私がなれると言ったからなれる。なれ川なれ子だよ」
 最後のは意味が分からなかったが、自分が認められたようで嬉しくなる。
 後ろにいるお兄ちゃんを見ると、優しく微笑んでくれた。
 初めて外の世界と繋がれた気がした。絵というものが自分の存在を肯定してくれて、生きる意味を与えてくれた。
 それから千星ちゃんと仲良くなり、学校や家でよく話すようになった。
 千星ちゃんはなぜか、同学年の子とあまり話していないみたいだった。私の前では笑ってくれるのに、六年生が目の前を通ると顔が暗くなる。
 お兄ちゃんにそのことを話すと「千星にそのことは絶対に聞かないで」とだけ言われた。
 触れてはいけないことなのかなと思い、それ以上は何も聞かなかった。
 普段は学校で絵を描かなかった。
 見られるのは恥ずかしいので内緒にしていたが、「みんなにも見せた方がいいよ」と千星ちゃんが言うので、昼休みに自分の席で絵具を用意し、海の上空に浮かぶ月を描いた。
「何描いてるの?」
 クラスの女の子が上から覗き込んでいた。
 どんな反応をするんだろう? 上手くないと思われたらどうしよう? そう考えたら、心臓が飛び出るんじゃないかと思うほどバクバクした。
「美月ちゃん上手だね。すごいよ」
「あ、ありがとう」
「ねえ見て、美月ちゃんって絵描けるんだよ」
 その一言で、クラスの子が私の席に集まってきた。
「本当だ。すごい上手」
「綺麗なお月様だね」
「美月ちゃんすごい」
 外の世界で聞こえていた音が、自分に向けられている。同じ音なのに、ひとりぼっちの時とは聞こえ方が違う。 
「私にも教えてよ」
「うん……」
「じゃあ今日うちで描こうよ。美月ちゃんも来て」
「いいの?」
「うん」
 ずっと頭の中で描いていたことが、絵というものを通して叶えられた。
 絵が私と世界を結んでくれて、絵が私という存在を世界に教えてくれる。絵が私のすべてだと思った。

 小学六年生に上がった頃には、もう寂しいという気持ちはなかった。友達もたくさん増え、羨ましく思っていた声が日常に溶け込んでいたから。
 最初は拙かった絵もだいぶ上達した。
 お小遣いで買ったイラスト集や教本、お父さんから借りたパソコンで動画を見ながら勉強し、人物や静物画も描くようになった。
 でも一番多く描いたのは原点である月だ。始まりであり、私の世界を変えてくれたもの。
 誕生日にUー35というアクリル絵の具を買ってもらい、今はそれを愛用している。
 本当はゲームにしようと思っていたが、動画で見たときに欲しくなった。
 画材にこだわると絵を描くのが楽しくなる。思い入れも強くなるし、モチベーションも高くなる。
 将来はイラストの仕事に就く。SNSで流れる絵を見たときにそう思った。
 いいねがいっぱい貰えて、コメント欄で賞賛を得られる。キラキラした世界で私も輝きたかった。
 千星ちゃんにそのことを話したら、
「美月ちゃんなら絶対なれるよ」
 初めて私の絵を褒めてくれた人がそう言ってくれた。
 その言葉で、真っ直ぐ夢を追うことが出来る。
 そして、今まで迷っていたコンクールに応募することを決めた。
 規模は小さかったが、月をテーマにしたコンクールだったので絶対に出したかった。
 月の絵だけは誰にも負けたくなかったし、自分なら賞を獲れる自信もあった。
 だが初めての公募で不安が募り、千星ちゃんに背中を押してもらいたかった。
 結果は、小学生の部で金賞を受賞した。
 学校でも表彰され、先生も周りのみんなも褒めてくれた。
 絵が私を照らしてくれる。絵が私の未来を彩ってくれる。絵が私という人間を証明してくれる。絵が私のすべてを作ってくれている。絵を描いたことで、人生は大きく変化し、幸せが滲む日々を手にすることができた。
 中学に上がり、入学初日から新しい友達ができた。同じ小学校の子が、私の絵をみんなに紹介してくれたことで、話すきっかけを作ることができた。
「上手だね」
「奥村、すごいな」
 月の絵をみんなが褒めてくれる。その声が自分を輝かせてくれるようだった。
 だがその輝きは、より大きな光によって薄まっていくことになる。

 私は美術部に入った。
 部員は私も含めて四人しかいない。二年生が三人、一年生が私だけだった。
 しかも先輩たちはすぐに帰り、顧問の牧野先生もなんか適当だ。
 ガッカリしたが、美術室で絵を描くのはワクワクした。
 染みついた絵具の匂い、使い古された画材、飾られた彫刻や絵、そのすべてが心を震わせた。
 数日語、初めての美術の授業を迎えた。
 みんなが教室を見渡し、ソワソワしているのが伝わってくる。
 美術室は他の教室と違うので、別世界に感じているのかもしれない。
 美術部の私からすると、その光景がなんだか嬉しく感じた。
 牧野先生が入ってきて授業が始まった。最初は美術とは何かということを話していた。私は早く絵を描きたかったので、授業が終わらないか心配なり、何度も時計を見ては鉛筆を握りしめていた。
 十五分経ち、話しが一区切り着く。やっとだと思い、気持ちが高ぶる。
「じゃあ今日は手を描くか」
 手はそれなりに自信があった。教本に手の書き方が載っていたので、気分転換に描いてみたら思ったより上手くできた。
 それからたまに描くので、この課題は難しいものではなかった。
 みんな眉間に皺を寄せながら自分の手を見ている。その姿が面白かった。私はB4のスケッチブックに澱みなく鉛筆を動かしながら、描き終えた後のことを想像していた。
――美月ちゃん上手
――手も描けるんだ
 称賛されている自分を頭で思い描いていると、一人の生徒が大きな声を上げた。
「めっちゃ上手じゃん!」
 私は廊下側に座っている。でも、声は反対側の方から聞こえた。
 窓側を見ると、みんなが一人の席に集まっている。確かあの席は秋山さんだったと思う。
 秋山さんはクラスの中でも一目置かれた存在だ。
 見た目や雰囲気が大人っぽく、みんなから密かに憧れを抱かれている。男子もよくチラチラと見ていた。 
 でもクールな印象からか、話しかけたくても話しかけられない、クラスではそんな立ち位置だった。秋山さんもあまり話す人ではないから余計にだ。
 私もみんなが集まっている場所に向い、その中心にある一枚の絵を見た。
 声を失った。鉛筆だけで書かれた手は、絵ではなく本物のように見えた。造りものではなく生きている、そう感じた。
「秋山さんすごい」
「俺にも教えてよ!」
 称賛の声が飛び交うたび、何かを奪われたような感覚が襲った。
「上手いな秋山」
 牧野先生が来てそう言った。そのあと私を見るなり、
「奥村、お前は美術部だろ。秋山に負けてられないぞ」
――勝てない、そう思わせるほどの画力だった。
「奥村のも見せてよ」
 一人の男子がそう言いうと、私の席に向かう。それに倣って他の子もついて行く。
『見ないで』心で叫びながら後を追ったが、間に合わなかった。
「あー……」
「でも上手だよね」
 気を遣ったことがすぐに分かるような褒め方だった。
 美しい花の後では、造花で心は揺らせない。人生で初めての挫折を味わった瞬間だった。
 昼休みにも秋山さんの周りには人が集まっていた。
 一人の生徒が「絵を見せてよ」と言うと、秋山さんは鞄からスケッチブックを取り出して開いた。私も気になり見にいく。
 そこに描かれていたのは漫画のキャラや幻想的な風景で、色は透明水彩で塗られている。どれも目を惹きつけるほど上手で、私には絶対に描けない絵だった。
 大衆的な絵だが、そこに技術がある。SNSに出せばバスるだろう。みんな私の絵を見たときより目を輝かせている。その光景に胸が苦しくなり自分の席に戻った。
「このキャラ私好き!」
「これ、秋山さんのオリジナルなの?」
「すごい、めっちゃ綺麗!」
 中学生なら私の絵より、秋山さんの絵の方を好むだろう。
 外の世界から聞こえてくる喧騒が、心の中に黒い感情を垂らしてくる。彩っていた自分の世界に、あの頃の色が再び滲んできた。

 それから三日経った日の放課後、美術室に向かおうとすると秋山さんから声をかけられた。
「奥村さんも絵を描いてるんだよね?」
「うん……」
「みんなが奥村さんの月の絵がすごいって言ってたから」
 月の絵は私の中でも特別で、これだけは他の人にも負けない自信がある。
「見せてほしいなって……」
 恥ずかしながら俯むいて言う表情が美しかった。絵にしたいと思うほど。
「美術室に置いてあるから見に来る?」
「うん」
 鞄の中にあるスケッチブックでも良かったが、それを見せるのは怖かった。だから自分の中で一番自信のある作品を彼女に見せようと思った。
 二人で美術室に向かう間、秋山さんは何も話さなかった。私も自分の絵がどう思われるかという不安で頭の中がいっぱいだった。
 美術室に着き準備室に案内した。私は部屋の奥にあるイーゼルに被さっていた布に手をかける。
 指が震えた。布を取れば私の絵を秋山さんが見ることになる。この絵は小学生のときから半年以上かけて描いた絵だ。三日前にやっと完成させた。
 もし反応が悪かったとき、私のすべてが否定されることになる。それだけは嫌だ。
 静けさが緊張を煽るなか、覆いかぶさっていた布を取った。
 アクリル絵具で描いた『海の上空に浮かぶ月』の絵。最高傑作であり、自分自身でもある。
 反応を知りたかったが秋山さんの顔を見れなかった。その顔に浮かぶ表情で心の中が分かってしまう。視線を自分の足元に置き、声を待った。
 だが、しばらく沈黙は続き秒針の音だけが響いた。何を思っているんだろう? 良かったのかな? 悪かったのかな? 頭の中で思考が右往左往する。
 あまりに無言の時間が長かったので、耐えきれず秋山さんの顔を見ると、彼女の目は少し輝いているように見えた。
「これはアクリル絵具?」
「うん」
 やっと発した言葉はすぐに途絶えた。
 どう? その一言が言えれば良かったが、怖くて聞けなかった。空気感に耐えられず、
「私、向こうにいるから、何かあったら言って」
「うん」
 準備室を出て椅子に座った。結局どう思っているのか分からずモヤモヤとする。
 しばらくの間、秋山さんは準備室から出て来なかった。
 オレンジの光が差し込む美術室は静寂さに包まれていた。

 一週間後、美術部に秋山さんが入部した。
 彼女は人物、静物、風景どれも上手で、しかも絵の幅も広かった。
 美術館に飾られているような芸術的な絵も描けば、大衆的なアニメチックな絵も卒なく描く。
 そのどれもが目を見張るもので、才能の残酷さを思い知らされた。
 部活の時間はニ人きりで絵を描くことが多かった。
 彼女は淡々と描くだけで特に会話もなかったが、私がアクリル絵具で月の絵を描いてるときだけ、彼女の視線を感じた。それが緊張を誘い、部活が終わった頃には、筆の軸に染み付きそうなくらい手汗をかいた。
 この日も、お互い無言のまま美術室で絵を描いていた。
 私はスケッチブックに月のラフ画を描き、秋山さんは一列挟んだ隣の席で、水彩ペンでキャラクターの絵に色を塗っている。
『私の月の絵どうだった?』
 この一言が今も言えない。秋山さんは絵の感想を言ってくれないため、ずっとモヤモヤしている。
 いつか言ってくれると期待したが、待っていても聞けそうにないので、きっかけ作りで話しかけてみることにした。
「秋山さんて、誰かに絵を習ってたりしたの?」
「動画見ながら描いてただけ」
 絵を塗りながら秋山さんは答える。
「そうなんだ……」
 才能の差を感じさせられたため心が折れそうになった。
 上手い人に習っていたなら、まだ自分を保てていたかもしれない。
 だが、私と同じ手法で描いてきたとなれば、環境のせいにはできなかった。
「奥村さんは?」
「私も動画とか本を見て勉強した」
「月の絵も?」
「うん。でもひたすら描いて、徐々に上手くなっていったって感じかな。初めて描いたのも、初めて褒められた絵も月だった。だから私にとって、月の絵は特別なものなんだよね」
「上手だった……月の絵」
 秋山さんを見ると、体をこちらに向けている。だが、視線は私の周りを泳いでいた。
「ありがとう……」
 いつもならもっと素直に言えるのに、今日は小さな声で言ってしまった。
 千星ちゃんは嬉しいことがあると、よくタップダンスを踊っている。意味が分からなかったが、今ならその気持ちが理解できる。
「秋山さんは将来、絵の仕事に就くの?」
「まだ分からない。でもたくさんの人が私の絵を見て笑顔になってくれたらって思ってる」
 なんか意外だった。秋山さんの口からそういう言葉を聞くのは。
「できるよ、秋山さんの絵なら。だって上手だもん」
 少しだけ秋山さんの口角が上がった。だが私の視線に気づくと表情を戻した。
「秋山さん、笑った顔のほうがいいよ。クールな感じがするから、みんな話かけづらいんだと思う。それに笑顔も可愛いし」
「……そうしてみる」
 照れくさそうに頬を赤らめる秋山さんは、すごく可愛かった。
 
 六月にある体育祭に向け、クラスで応援旗を作ろうということになった。
 私と秋山さんが中心となって、クラスの女子数名と共に、昼休みの教室で相談していた。
「なんか可愛い感じのがいい」
「かっこいいのもよくない?」
「キャラクターがあったほうがいいでしょ?」
 みんな自分の好みを言い合っていて中々話がまとまらない。
 だんだんと面倒くさくなってきたのか、アイドルに話題がすげ替えられた。
 そうこうしているうちにチャイムが鳴ると、一人の子が腕を伸ばしながら投げやりに言う。
「もう決まらないから、秋山さんに任せる」
「それな。秋山さんのセンスなら任せても大丈夫だわ」
 ショックだった。同じ美術部である私の名前がでなかったことに。
 みんな私の絵を見ている。そのうえで彼女が選ばれた。自然とスカートを握る拳が固くなる。
「奥村さんと一緒に決まる」
 秋山さんがみんなを静めるように言った。
「じゃあ二人に任せた」
 再びアイドルの話をしながら、みんな自分の席に戻っていく。
「部活のとき決めよう」
「うん……」
 心ここに在らずで頷く。秋山さんが椅子を引いた音がどこか虚しく聞こえ、遠ざかる足音に孤独を感じた。
「秋山さん、絵見せて」
 誰かが言った言葉が耳に入った。何気ない言葉が痛みに変わっていく。
 周りの人は私に絵の話をほとんどしない。絵を描いてと言われるのは、たいてい秋山さんだ。
 それが少しづつ、世界と私を解離させていくように感じてきた。

 夏休みが明け数週間が経った。この頃には、秋山さんの周りには常に人が集まっていて、彼女自身もよく笑うよになった。
 体育祭のために作った応援旗は、今流行っているアニメのキャラを描き、クラスのみんなからは好評を得た。
 私は月を描きたいと思っていたが、「クラスのみんなが好きなものにしよう」と秋山さんは言い、自分が否定されたように感じた。
 クラスの中で自分だけが浮いている。世界だけが先に進み、自分は取り残されている。いつからかそう思うようになった。
 だから必死に描いた。来る日も、来る日も絵を描き続けた。本を買って、動画もたくさん見て、夜中まで絵に没頭した。
「美月の絵も上手だけど、秋山さんは別格だよね」
 そんな声を耳にした。
 凡人はいくら努力しても、才能という壁を越えることはできない。
 だんだんと美術部にも顔を出さなくなった。秋山さんを見ていると、自分という存在が薄まっていく気がしたから。
 家に早く帰っても、特にすることはなかった。絵も描きたいと思わないし、かといって他にすることもない。
 椅子に座ってぼーっとしていると、机の上にあるトロフィーが目に入った。
 六年生の時、月をテーマにしたコンクールで金賞を獲ったときのものだ。そういえば去年の今ごろに……
 私はスマホでコンクールの公募を調べた。
「あった」
 締切は来週になっているが、すでに完成させた月の絵がある。私の中の最高傑作……今は準備室にあるため、明日家に持ってかえり発送することにしよう。
 もう一度トロフィーを見ると、一層輝いて見えた。
 翌日の昼休みに職員室に行き、牧野先生に応募していいか確認を取った。
「好きにしていいぞ」
 いつも通り適当な返答だったが、私は高揚感に包まれていた。
 放課後、美術部に絵を取りに行ったが、秋山さんが中に入るのが見えた。
 ずっと顔を出していなかったため、彼女とはどこか気まづさがあった。最近はあまり話していない。
 どうしようかと考えていると、美術室から秋山さんが出てきた。正面の階段を降りていく。
 空き教室に身を隠していた私は、駆け足で美術室に入る。
 中に入るとイーゼルが二脚並んでおり、片方には私が描いた月の絵。そしてもう一方には、『向日葵を抱えた少女が月を見上げている絵』が立てられていた。
 たぶん秋山さんが描いたものだろう。私はその絵を見て絶句した。あまりの月の美しさに。
 他の絵で負けるのは仕方ないと思っていた。でも月の絵だけは負けたくなかった。だが圧倒的な才能の前では、自分が守りたいものなど簡単に踏み潰されてしまうと知った。
「奥村だけか?」
 振り向くと、牧野先生が入ってきた。
「秋山さんは今出て行きましたけど、たぶん戻ってくると思います」
「そうか……ん?」
 先生は絵に気づくと、目の前まで行って足を止めた。
「どっちが奥村の絵だ?」
「海が描かれている方です」
「こっちは秋山か」
 月を見上げる少女の絵を指差し、聞いてきた。
「たぶん」
 先生の背中しか見えないが、何かを考えている様子は分かった。
 うーん、という声が何度も美術室に響く。声が漏れるたび背中に寒気が走り、その先の言葉は聞いてはいけない気がした。
「奥村」
 名前を呼ばれ、鼓動が速くなる。
「確か月のコンクールに出すって言ってたよな」
「はい……」
 それ以上は言わないで。
「そのコンクールに出すのをやめて、他のにしたらどうだ? 奥村の絵も悪くはないが、秋山の絵は次元が違う。こっちの方が賞を獲る可能性が高い。だから来年に回すか、別のコンクールに出して、二人で賞を狙いにいくほうが効率いいと思わないか?」
 私の方を振り向き、ドヤ顔で問いかけてきた。
「私の絵より、秋山さんの絵の方が素晴らしいってことですか?」
「単体で見たらこの絵でも賞を獲れそうなんだけど、並ぶと何か足らないように感じるんだよな」
 下唇が痛かった。気づかないうちに強く噛んでいたみたいだ。もしかしたら血が出てるかもしれない。でもそんなのどうでもよかった。今は目に見える傷より、心が痛かった。
「そうですよね……そうします」
 自分の絵を手に取って美術室から出ていった。横目に映った月の美しさが自分を醜くさせている、そう思いながら。
 廊下に出ると、スケッチブックを持った秋山さんと出会した。
「大丈夫?」
 ハンカチをポケットから取り出して、私の前に差し出してきた。
 最初は何でハンカチ? と思ったが、視界がぼやけてることに気づいて急いで袖で拭った。
「大丈夫」と答えると、秋山さんは私が持ってる絵に視線を合わせた。
「ごめんなさい、勝手に拝借して。その絵を参考にして月を描こうと思って。私、その絵が……」
「あの絵、どれくらいで描いたの?」
 一瞬悩んでいたが、すぐにどの絵か気づいたようだった。
「一ヶ月くらいかな」
「月を描いたのは初めて?」
「ちゃんと描いたのは初めて」
「そっか……」
 夢というものは人を強くするものでもあるが、ときに残酷に人を傷つける。太陽の前では、月は輝くことができない。
 何も言わずに階段を降りた。背中に刺さる視線を感じながら。
 それから一週間後、秋山さんの周りに集まる人たちを眺めがら、静かに夢を枯らせた。
 
「最近部活に来ないけど、絵は描いてる?」
 放課後、昇降口で靴を履き替えようとした時、秋山さんにそう聞かれた。
「……」
 私は沈黙で返した。彼女になんて言えばいいのか分からなかったから。
「もし描いてないなら、一緒に描かない? 奥村さんが月を描いて、私が周りの情景を描く。共同で絵を創作したいなって……」
 そんなことしたら、私の下手さが目立つだけだ。
 彼女だけが賞賛され、私は再度心を折られる。
「できない……」
「そっか……もし一緒に描きたいと思ったら、部活に来て。私は奥村さんと絵を描きたい」
「……やめる」
「え?」
「絵はもうやめる」
 秋山さんは放心状態で私を見ている。
「どうして?」
 その問いかけには答えられない。
 だって……あなたに筆を折られたのだから。
 私は何も言わず、昇降口を出た。
 秋山さんの「待って」という声を無視して。
 
 彼女を見るだけで心が苦しかった。
 そして、湧き出る黒い感情で自分を嫌悪する日々が、部屋のドアを開けることを拒んだ。
 部屋にあった画材を段ボールにしまい、月の絵をクローゼットに閉じこめた。自分の絵を見ることすら苦痛を伴うようになったから。
 これから先、私は誰にも求められないまま生きていく。絵を描かない私に価値なんてないから。

 学校に行かなくなってから一ヶ月が過ぎた。
 お母さんから理由聞かれたが、なんと答えればいいか分からなかった。
 きっと大人には理解されない悩みだし、言ったとしても行けと言われるのがオチだ。
 私にとって絵は人生そのものだったから「そのくらいで」と言われるのが嫌だった。
 お兄ちゃんには絶対に言えない。千星ちゃんに絵をやめたことを知られたくなかったから。
 言わないでと頼めば内緒にしてくれるだろうが、もしものこともある。私の絵を初めて褒めてくれた人に、自分の価値がなくなったと思われたくなかった。
 ある日、お兄ちゃんが部屋に入ってきて絵具を渡さしてきた。私がよく使っていたアクリル絵具だ
「何で買ってきたの?」
「最近絵を描いてるところ見てないから、久しぶりに美月の絵を見たいなと思って。今日、千星と一緒に買いに行った」
 千星ちゃんの名前が出てドキッとした。もしお兄ちゃんが絵をやめたことを察しているなら、そのことを話しているのではないか。そしたら千星ちゃんは失望するかもしれない。私から絵を取ったら何も残らなくなる。そしたらもう……
「絵は描いてる。昔も今も好きだから」
「そっか。じゃあ今度見せてほしい。美月の描いた月」
 その優しい笑顔が私の胸を締め付けた。学校に行かなくなってからも、兄はいつも通り接してくれている。それが救いだった。すべてを失った私にとって、兄という存在が唯一残されたものだと思った。
 だが、最後の光も失われた。
 初雪の降る夜にこの世界から姿を消した。名前と同じ空へと旅立ち、私は一人になった。
――絵が好き
 それがお兄ちゃんについた最後の嘘となった。