「君は一人の命を救ったんだよ」
 小学四年生のとき、警察署長から感謝状を授与された。
 学校の帰りに熱中症で倒れていたおばあちゃんを発見し、持っていたスマホで救急車を呼んだからだ。
 後日、母と弟と共に警察署に行き、署長室で表彰を受けた。制服を着た警察官がたくさんいたのを覚えている。
「翔吾くんえらいね」
「よく通報したね」
 大人に頭を撫でられながら褒められた。
 そこにおばあちゃんの家族もおり、「君がいなかったら母は亡くなってかもしれない。本当にありがとう」そう言われて自分が誇らしく思えた。
 何より嬉しかったのは「兄ちゃんすごい」と蓮夜が嬉しそうにしていたことと、「息子さん立派ですね」と褒められ、照れくさそうにしている母を見れたことだ。
 人の役に立つと自分だけではなく家族も喜ぶ。それを知り、優しい人間になろうと思った。
 それからは困っている人を見たら積極的に手助けするようになり、友達がたくさん増えた。
 家に友達が来るたび、蓮夜は俺の部屋に来る。
 人懐っこい性格からか、みんなから可愛がられていた。
「俺も兄ちゃんみたいに優しい人になる」
 蓮夜は口癖のように言っており、それが人に優しくするためのモチベーションにもなっていた。
 ある日、教師が生徒に暴力を振るうという事件がテレビで報道されていた。
 それを見て怒りが湧いた。この教師は何も分かってない。力で解決することなんて何もないんだ。優しさがあれば相手は理解してくれるし、こんな問題にもならない。俺は暴力を使う人間を軽蔑した。
 中学三年のとき、塩谷という子と同じクラスになった。
 伏目がちで、どことなく暗い雰囲気纏っていたため、周りの生徒たちは距離をとっていたように思う。
 昼休みに勉強ばかりしていたので『ガリ勉』と呼ぶ生徒もいた。俺はその言い方が好きではなかった。人が一生懸命やっているのをバカにするような言葉を使うべきではない。むしろ褒めるべきことだ。
 塩谷は帰宅部で、清掃が終わるとすぐに下校する。部活での交流もないため、クラスにも馴染みづらかったのかもしれない。
 きっと辛いだろうと思い、昼休みに話しかけてみた。
「塩谷はすごいよな。俺はそんなに勉強はできない。だから尊敬するよ」
「別に好きでやってるわけじゃない」
 急に声をかけたからか、塩谷は驚いた顔で俺を見たあと、目を伏せてそう答えた。
「だったら尚更すごい。好きじゃないことを昼休みにまでやってるんだから」
「別に普通だと思う」
 塩谷はノートをとりながら消え入りそうな声で言う。
「勉強もいいけど、たまには外でサッカーやらない? みんなと過ごすのも大事なことだよ」
 クラスの人と打ち解けるきっかけを作りたかった。塩谷もきっと仲良くしたいと思ってるはずだ。
「今から外行って、一緒にやろう」
 塩谷は迷っているように見えた。
 それもそうだ、クラスに馴染めていないのだから。だから間に入る人間が必要になる。
 他の人は塩谷を得体の知れない人間という目で見てたと思う。だからこそ知ってもらわなければならない。一人でいることは辛いはずだから。
「大丈夫、俺と一緒のチームでやろう」
 自分で言うのもなんだが、学年の中心にいたし、周りからの信頼も厚いと思う。俺と一緒にいれば、塩谷も話しかけられやすくなるはずだ。そうすればクラスから浮くことはない。
「……分かった」
 塩谷の腕をとり、グラウンドへ向かった。
 
 それから塩谷とよく話すようになった。野球部が休みの日は一緒に帰ったり、昼休みにもサッカーやバスケをするようになった。
 最初は馴染めていなかった塩谷も、夏頃には周りと話すようになり雰囲気も明るくなった。
「花山は本当に優しいよね」
 移動教室の際、クラスの女子に言われた。
「最近は変わったけど、最初は塩谷のこと暗くて苦手だったんだよね。あっ、今はそんなことないよ。でもなんで花山は塩谷と話してるんだろうって不思議だった。花山だけじゃない? あの時の塩谷に話しかけようとしたの」
「一人でいたから辛そうだなって思って。だから話しかけた。でもみんなと打ち解けられて良かったよ」
「花山といるから塩谷にも声かけやすくなった。他の子もそう言ってる。あっ、そういえばさ、二組の子が花山くんって優しいから良いよねって言ってた。たぶん好きっぽいよ」
「いいよ、そういうのは」
 今の塩谷はクラスにだいぶ馴染んでいる。友達も増え、一人でいるところはほとんど見なくなった。
 それは嬉しかったし、自分でも誇らしかった。優しさで人を変えることができたから。
 塩谷はクラスの人と家に来ることもあり、蓮夜も混ざってみんなでテレビゲームをした。
 蓮夜は友達を連れてくるといつも嬉しそうにする。
「兄ちゃんって友達多いから、みんなから慕われてるんだね。俺も兄ちゃんみたいな人になる」
 いずれそういう言葉も言わなくなるだろう。そう考えると寂しくなるが、できるだけ長く、弟が誇れる兄になっていようと思う。
 塩谷にも弟がいるらしいが、病気がちで学校にはあまり行けてないらしい。
「弟は俺くらいしか話す相手がいないからさ、いつか友達を作ってほしいんだよね」
「今度弟も連れて来いよ」
「いいの?」
「蓮夜も喜ぶよ」
「じゃあ今度、弟と一緒に花山の家行くよ」
 塩谷の弟にも居場所を作ってやりたかった。誰かの手助けをすることが自分の生きる意味だと思っていたから。
 人に優しくするとこで自信を持てたし、自分を好きになれた。それが周りからの信頼にも繋がって人が集まってくる。このときはそう思っていた。

「お願い、少しだけでいいからお金を貸してほしい」
 塩谷が家の前まで来て、頭を下げてきた。
 理由を聞くと、「弟が入院して、お金がいるから少しでも足しにしたい、頼めるのは花山しかいない」と、懇願するように言う。
 弟が入院しているのは知っていた。担任が言っていたし、うちの親もそう言ってた。
 塩谷は古びたアパートに住んでおり、私服も同じTシャツをよく着ている。
 そのことが頭をよぎり、俺は迷いなくお金を貸した。
 貸したと言っても中学生では微々たるものだったが、塩谷が嬉しそうにするのを見て、心地よい気分が胸を走る。
 それから定期的にせがまれるようになった。
 お年玉で貯めていた貯金を切り崩し、塩谷の弟のためと言い聞かせながら貸していた。
 このときに疑うべきだった。普通に考えればおかしなことなのに。
 弟がいるから感情移入していたのかもしれない。それと「頼めるのは花山しかいない」という言葉に酔っていたのだと思う。
 これが後に、自分という存在を世界から切り離すきっかけになった。
 蓮夜の誕生日にゲームソフトを買う約束をしていたが、塩谷に二万ほど貸していたため貯金はあまりなかった。
 言いづらかったが、少しだけお金を返してもらおうと思い、校舎裏に塩谷を呼び出して誕生日のことを話した。
「ごめん、入院費で全部使ったから残ってない。母親に相談してみるけど、うちもあまり余裕がないから」 
 申し訳なさそうにする塩谷を見て、これ以上なにも言えなかった。
「ううん、弟が良くなるといいな」
「本当にごめん、絶対に返すから」
 何度も頭を下げるため、こっちが申し訳なくなってきた。
 帰ってから蓮夜に謝った。詳しい事情は話さなかったが、友達のためと言うと「兄ちゃんは優しいね」と笑顔で返してくる。
 来年はちゃんと買うからと言うと、「別にそんなに欲しくなかったらいいよ」と興味なさげな顔でテレビに視線を戻した。
 その気遣いに心苦しくなり、「ちゃんと買うから」と言葉をかけると、再放送のドラマを見ながら「うん」とだけ言った。

 下校時に教科書を忘れたことに気づいて学校に戻った。
 もうすぐ受験が始まるため、誰もいないだろうと思っていたが、教室の中から声がした。
「かっこよくない?」
「俺もこれ欲しかったんだよね」
「てか、このスニーカー結構高くなかった?」
「買うために貯金したから」
 最後の声で扉を開ける手が止まった。
 少しだけ開いた扉から教室を覗くと、机の上に座った塩谷が、クラスの男子二人にスマホを見せている。
「これいくらだった?」
「二万で買った」
 塩谷が自慢気な顔で言った。
 何を言っているかすぐに理解できなかった。二万は弟の入院費に使ったはずだ。じゃあ何でスニーカーを買えたんだ?
 頭の中で絡みあう糸が、点と点を結ぶまで時間がかかった。そのあとの会話は、ほとんど耳に入っていなかったと思う。
 何度も糸を解き、何度も結び直して、ようやく理解に繋げる。
 散らかった思考を整理しながら、煮えたぎるような感情を優しさで抑えていた。
 すると目の前の扉が開いて、三人が出てきた。
「びっくりした。花山いたのかよ」
「教科書忘れて」
「これから駅前のファミレス行くけど花山も行く?」
「いや、いい」
「じゃあ明日な」
 塩谷は目を伏せながら二人に付いて行こうとしていた。
「塩谷、話がある」
 肩をビクッとさせて立ち止まった。その反応を見るかぎり、もう何を言われるか分かったはずだ。
「じゃあ俺ら先行ってるから」
 そう言って二人は廊下を歩いていく。
 彼らの足音が遠のくたび、塩谷の視線は下に向かう。今は自分の黒ずんだ上履きを見てる。
 二人が階段を降りるのを確認したあと、塩谷に教室に戻るよう言った。
 日中は喧騒に包まれている教室も、放課後になると哀愁が漂う。その哀愁が、より緊張感を高めているように感じた。
 塩谷は教卓付近で足を止める。顔を見せたくないのか、こちらに背を向けていた。
「スニーカー買ったんだって」
 塩谷は沈黙で返す。
 正直バカだと思った。なぜクラスの奴にわざわざ自慢したのか。しかも値段まで丁寧に説明して。いずれ俺の耳に入る可能性もあるなら黙っておくべきだ。自己顕示欲の方が勝ったということか。
 そう考えると、こんな奴に貸した自分が哀れに感じた。
「返せばいいんだろ」
 開き直ったのか、投げ捨てるように言った。
「そう言う問題じゃないだろ。俺はお前の弟のためにお金を貸したんだぞ。スニーカーを買わせるためじゃない。嘘までついて自分が情けないと思わないのか?」
「そう言うところがムカつくんだよ……」
 塩谷は肩を震わせながら小さく零した。
 その言葉の意味が分からなかったため聞き返すと、塩谷は形相を変えてこちらを振り返った。 
「お前だって利用してたじゃないか。俺みたいにクラスで浮いていた奴と仲良くすれば、周りから優しいって思われるもんな。聞いたぞ、お前が女子と話してたの。それで自分の好感度を上げて、女に好意を持たれる。そのために俺を使ったんだろ」
 前に廊下で話してた時だ。あのときそばににいたのか。
 でもそんなつもりは全くない。塩谷は言葉の受け取り方を間違っている。
「なんか勘違いしてるぞ。お前と仲良くしたのは利用するためじゃない。一人でいたから辛いと思って……」
「あの時だってそうだ。俺は周りからガリ勉ってバカにされてたのを知っている。お前も『俺はそんなに勉強できない。尊敬する』とか言って、皮肉を言ってきただろ」
「違う、本当にすごいと思ったから言ったんだよ」
「嘘つけ、今もどうせバカにしてるんだろ。お前の偽善みたいな優しさが全部ムカつくんだよ」
 優しさを否定されたことで、怒りの火種が自分の中に生まれたのが分かった。ずっと大切にしていたものを傷つけられたように思えたから。
「弟の誕生日とか言ってたよな? どうせ良いお兄ちゃんを演じて好感度をあげようってことだろ。最悪な兄貴だな、弟まで利用するなんて。それに気づかず、兄ちゃん、兄ちゃん言って、本当に可哀想だよ。だからあんな馬鹿面になったんだな」
 その言葉で糸が切れた。思考よりも早く右手が塩谷を殴る。その衝撃で塩谷は教卓に頭をぶつけ、呻きながら横たわっていた。
 人生で初めて人を殴った。右手の拳に感触が残る。俺は呆然としながら塩谷を見下ろしていた。
「お前だけずるいんだよ……」
 塩谷は泣きそうな声で嘆いた。俺に見られたくないのか、腕で顔を覆いながら喋る。
「俺だって努力したんだよ。クラスの奴と仲良くできるように無理して明るく振る舞った。それなのに全部お前が持っていく。俺がクラスに溶け込めたのは花山のおかげだって。なんでお前だけが褒められるんだよ」
 塩谷に友達ができたのは自分のおかげだと思っていた。俺といるからみんなが声をかける。そう思っていた。
 確かにちゃんと見てなかったかもしれない。塩谷は努力してたのに、それを全部自分の手柄にしていた。そして周りも。
「お前の優しさは人のためじゃない。自分のために周りに優しくしてるだけだ。ただの押し付けだよ。人のことなんて見てないじゃないか」
 その言葉に何も返せなかった。今まで積み上げてきたものが張りぼてのように感じ、それを受け入れることができないまま、ただ立ち尽くすだけだった。
 塩谷は制服の袖で涙を拭いながら立ち上がると、何も言わずに俺の横を通り過ぎていった。
 暴力を嫌悪していたはずなのに人を殴ってしまった。優しさで築き上げてきた今までの自分が、ひどく醜い存在に思える。
 何かが崩れていくのを感じ、俺は何度も頭の中で塩谷を責めた。
 あいつが悪い。あいつがおかしいだけだ。優しさがあれば人は争いなどしない。あいつがまともな人間なら俺が殴ることもなかった。クラスのみんなはきっと理解してくれる。俺はずっと優しくしてきたんだ。その積み重ねがあるから、みんなは俺の味方してくれるはずだし、優しさは自分を守ってくれる。あいつは俺が与えた優しさを無碍に扱ったし、蓮夜も侮辱した。殴られてもしかたのない人間だ。
 汚れていく自分に目を瞑りながら、暴力という行いを正当化した。そうしなければ自分を保つことができなかったから。
 
 翌日、教室に入ると中央付近に人だかりができていた。他のクラスの人間も混ざっている。
 不思議に思っていると「花山」とその中の誰かが言った。
 それを合図にするかのように、一斉に視線がこちらに向く。
 胸がざわついた。その視線に軽蔑のようなものが混じっていたから。その瞬間に恐怖が湧き上がり、足がすくんで動けなくなった。
「花山がこんなことする人だとは思わなかった」
 女子の一人が言った。
 すると人だかりが開き、席に着く塩谷が視界に入る。
 同時に言葉を失った。意味が分からなかった。理解の範疇を超えていた。
 確かに昨日、俺は塩谷を殴った。一発だけ、そう一発だけだ。だが目の前にいる塩谷は頭に包帯を巻き、顔にはガーゼが三枚貼ってある。
 もしかしたら、あのあと転んだりして怪我をしたのかもしれない。そう思い塩谷に問いかけた。
「どうしたんだよ、それ?」
「昨日、花山が俺を殴っただろ。忘れたの?」
「大袈裟すぎるだろ。なんでそうなるんだよ。確かに殴ったけど、俺は一発だけしか殴って……」
「やっぱり殴ったんだ。サイテー」
 侮蔑するような目で、クラスの女子に言葉を遮られた。
「違う、塩谷にお金を貸して……」
 俺が理由を述べようとすると塩谷は立ち上がった。そして「俺が悪いんだ」と話し始めた。
「花山からお金を借りてたんだ。それを自分の貯金と合わせて弟の入院費に充てようとした。だけど都合がついて必要がなくなったんだ。自分が貯めたお金のほうでスニーカーを買ったんだけど、それを花山が勘違いして、『嘘ついてそれを買ったんだろ』って責められた。俺も説明したけど上手くできなくて、そのまま殴られた」
 教室中の視線が俺に集まってきた。完全なる軽蔑に変化した目に戦慄を覚えた。
 再度説明しようとしたが、恐怖で言葉が喉に詰まった。
 その瞬間、塩谷が小さくほくそ笑んだのが見えた。そして制服のポケットから二万を取り出して、俺に渡してきた。
「花山、本当にごめん。俺の説明不足でこんなことになって。みんなも花山を責めないでほしい。悪いのは全部俺だから」
 悲劇の主人公だった。嘘と真実を織り交ぜて脚色したストーリーは、視線というスポットライトを浴びて、俺を悪役に仕立て上げた。
「理由があったとしても、これは流石にやりすぎだろ」
 歓声変わりの同情が、周りの声を感化する。
「良い奴だと思ってたのに」
「花山くんがこんなことするなんて」
 違う、こいつは自分を正当化してるだけだ。なんで騙される、なんで誰も俺に理由を聞いてこない。
 このとき、積み上げた先に何もないと知った。そして自分を肯定してきた優しさは、絶望に変わり散ってゆく。
「俺は……」
 声を出したときに集まった視線が、もう他人に向ける目になっていた。
 三年間ともに過ごしてきた友達ではなく、罪を犯した疎ましい人間を見る目だった。
 その光景に言葉を出すのが怖くなった。今の自分が何を説明しても、すべてが言い訳になってしまう空気が出来上がっているように感じた。
 何より、三年間で積み上げてきた信頼が、こんなにも脆いものだと知りショックを受けた。
「もうすぐ受験だし、俺はこれ以上事を大きくしたくないから、先生には転んだって言う。だからみんなも黙っててほしいんだ。俺は花山のことを恨んでもないから」
 舞台は薄汚れたハッピーエンドで幕を閉じた。
 綺麗事を並べた主人公に観客たちは哀れみを送り、悪役には失望の眼差しが向けられた。

 そのあと、自分に送られる軽蔑の視線や蔑む声を聞きながら一日を過ごした。
 後悔した。ちゃんと説明すればこんなことにはなっていなかったのかもしれない。
 自分の中で期待してしまった。誰かが『ちゃんと花山の話も聞こうよ』と言ってくれることを。それがくるものだと当然のように思っていた。
 だが実際は俺への非難だけで終わった。
 自分は周りから慕われており、信頼を得ている。そう思っていたのは自分だけだった。それが一番辛かった。
 今から説明しようとも思ったが、一度タイミングを外してしまうと、すべてが嘘のように聞こえてしまう。
 一人でいるというのは、こんなにも辛いことなのか。たった一日だが、もう限界だった。
 放課後、俺は塩谷の家に向かった。
 学校で話そうとしたが、塩谷は怯えた表情を浮かべ、クラスの人間を縦にした。
「もう解決したんだろ。これ以上塩谷をいじめるなよ」
「また殴ろうとしてるんじゃない」
 蔑んだ目で非難を浴びると、学校で話かけるのは無理だと思った。
 塩谷の家は、アパート一階の一番奥だった。俺より少し高いブロック塀が周りを覆っており、敷地内は外からは見えづらくなっていた。
 十分ほど家の前で待つと、塩谷が帰ってきた。俺を見るなり「何?」と面倒くさそうな顔をする。
「なんで嘘ついたんだよ。正直にみんなに説明しろよ」
「もう遅いだろ。ていうかさ、お前って誰にも信用されてないんだな。庇う奴もいるかと思ったけど誰もいなかったな。みんな偽善者だって分かってたんだよ」
 痛いとこをついてくる。一番言われたくないことだ。
「お前を殴ったことは謝るし、別に咎めたりしない。頼むからみんなに本当のことを話してくれ」
 屈辱だったが頭を下げた。もうこれしかないと思ったから。
「無理。もうお金も返したし、俺に構わないでくれよ」
「あの金どうしたんだよ。お前スニーカー買ったんだろ?」
 これは気になっていた。親から借りるにも二万という額は大きすぎる。
「スニーカーと弟のゲーム機売ったんだよ。せっかく買ったのにお前のせいで買い損したよ」
「最低だな、お前」
 軽蔑を込めた視線を送るが、塩谷は振り払うように嘲笑う。
「どの口が言ってるんだよ。人のこと殴った奴が最低? ぜんぶお前が蒔いた種だろ。殴らなければこんなことにならなかったのになあ。あのとき我慢できなかったお前が悪い。全部自分のせいだろ。それを棚に上げて、なに被害者ぶってるんだよ。こんな兄貴持った弟が可哀想だよ。いや、あんな馬鹿面の弟を持った兄貴の方が可哀想か」
 俺は塩谷の胸ぐらを掴みブロック塀に押しつけた。その勢いのまま右手を振りかぶる。
 拳が顔の寸前まで伸びたところで自我を戻し、かろうじで止めた。
「なんだよ殴れよ。そしたら慰謝料ふんだぐれたのに。こっちはゲーム機買い戻さないといけねえのに……そうだ、弟が退院するまでにお前が買ってくれよ。そしたら考えてやる」
 腐ってる。こんな人間の言うことを信じたクラスの奴らが腹立たしく思えた。
「お前に話しかけたことがすべての間違いだった。あの日からぜんぶ狂った」
 胸ぐらを掴んでいた手を離し、敷地の外に向かった。
「いいのかよ、最後のチャンスだぞ」
 煩わしい声が背中から聞こえたが、ぜんぶ無視した。
 優しさなんて意味がない。積み重ねたところで紙クズと変わらない。
 俺はこの日、優しさを捨てた。蓮夜の前だけで見せればいい。そう誓って。

 中学を卒業するまでずっと一人で過ごした。
 周りからの軽蔑も「こいつらはすぐに騙される奴ら」と心の中で見下した。このやり方は間違っているが、そうしなければ苦しさに耐えることができなかった。
 高校では誰とも親しくしないと決めた。
 人に優しくすることが自分の存在意義になっていたが、それが今では崩壊した。嫌われてもいいから、一人でいるほうが楽だった。
 だが、声をかけられる度に相手を突き放すのが苦しかった。自分が人を傷つけていると分かりながら、それでも傷つける。
 だから自ら距離をとり、わざと目つきを鋭くさせて近づかせないようにした。最初は耐え難かったが、幸か不幸か、同じ中学だった相澤もここに入学していた。
 すぐに中学の噂は広まり、話しかけてくる者はいなくなった。安堵したが、どこか寂しさも横たわっているように感じた。
 一年の秋頃、校庭の隅に設置されたベンチで昼食をとっていた。
 校舎から聞こえてくる生徒たちの声が、煩わしさと羨望のグラデーションを感情に描いた。
「いい天気だな」
 急な声にカレーパンを喉に詰まらせそうになった。紙パックのレモンティーでなんとか流し込む。
 声の主は隣のベンチに座った。誰かと思い横目で見ると奥村蒼空だった。
 缶コーヒーを手に、青に蹂躙された空を見上げていた。
 奥村を見ていると、塩谷を殴る前の自分を思い出す。学年の中心にいて常に周りには人がいる。そして優しさを兼ね備えていた。
 俺は優しさが仇となって返ってきた。こいつもいずれそうなるんじゃないかと思ってる。いや、どこかで期待しているのかもしれない。
 同じ道を辿れば、俺自身が安心できる。自分だけじゃないと、一人じゃないと。
 俺がベンチを離れようとしたときだった。
「たまにさ、全部が鬱陶しくなることがあるんだよ。もうどうでもいいなって思う日が。でも、そんなときに会いたいって思う人もいる。そいつと会うとさ、澱んでいたものが澄んでいくんだよ。俺もこういう人間になりたいって思う」
 何を言ってるか分からなかった。奥村はそのあと、何も言わずに空を眺めていた。
 それから、俺が一人で飯を食ってると、たまに奥村が来ることがあった。
 特に何かを話すわけではなかったが嫌ではなかった。孤独の中にいた自分にとって、世界と繋がれている感じがしたから。
 無理に何かを求めるのではなく、寄り添ってくれているような気がして居心地が良かった。
 あるとき、気になっていたことを聞いてみた。
「中学のときの噂は知ってるだろ。なんで俺のとこにくるんだよ」
 奥村も知ってるはずだ。そのうえで来てる。その理由が分からなかった。
「噂は聞いたけど、直接見たわけじゃないから。信じるにしても自分の目で見てから決めるよ」
 その言葉に心が揺れた。全員が自分を軽蔑していると思っていたから。
 だがお人好しにも感じた。こいつはいつか俺みたいになるかもしれない。
「奥村は誰にでも優しくしてしんどくならないの?」
 自分と重ねていたのかもしれない。あのときの俺は優しさが存在意義になっていた。でも今は、優しさは自分を傷つけるものだと思っている。
 持っていても意味などない、ただの紙くずだと。
「自分を優しいだなんて思ってない。ただ、相手が自分らしくいられるような場所になりたいとは思う。だからしんどいって感じるときは、自分の優しさに気づいてもらえないときじゃなく、自分が相手の居場所になれなかったときかな。それと全員には優しくしない。自分が苦しくなる相手なら俺は背を向ける。非情さも持ち合わせていないと、誰かに優しくなんてできない。傷が治れば優しさの意味を知るけど、傷が付いたときは自分のことで精一杯だから」
 優しさは持っているだけではダメ。それをどう使うかが大事。そう言われたような気がした。
「なあ、俺も人に優しくしてもいいのかな?」
 思わず零れた。
 捨てたつもりでいたのに、まだ心の奥底に仕舞っていたのか。こんなものを持っていても、自分が傷つくだけなのに……
「それは俺が決めることじゃない。花山が自分で決めればいい」
「……優しさってなんだと思う?」
 分からなくなっていた。あのとき自分が信じていたものは、今となってはガラクラのように思える。それを手放せないでいる自分が惨めだった。答えが欲しい。自分を信じていいと思える答えが。
「優しさで傷を癒すこともできれば、傷を付けることもある。普段からその人を見ていないと、相手の求める優しさを理解できないと思う。優しい人って、優しさとは何かを知っている人なんじゃないかな」
 優しさを知る……自分は分かっていたのだろうか。
 今までの俺は自分本位の優しさだったのかもしれない。それは塩谷に対しても。
「俺みたいな人間でも、友達って作っていいのかな?」
 無意識に言葉が出てきた。心のどこかで救いを求めてたのかもしれない。
「来週の月曜に映画見ようと思ってるんだけど、ホラーだから一人で見るの怖いんだよね。だから付いてきてくれない?」
「子供かよ」
「花山はホラー映画、一人で見れるの?」
「もう十七だぞ」
「じゃあ付いてきてよ」
「……分かった」
 少し迷ったが、自分を見てくれている人間がいると知って嬉しかった。
 それと、奥村なら信じられるような気がした。
「藤沢千星っているだろ?」
「うん」
「あいつもホラー映画苦手でさ、怖いシーンがあると手で目を隠すんだけど、なぜか俺の目まで隠してくるんだよ。しかもさ……」
 話を聞いているだけだったが、高校に入って一番楽しいと思えた瞬間だった。閉ざされた扉が開き、光が差し込むような気がしたから。
 だが、奥村と映画に行くことはなかった。ホームルームで告げられた死は世界から色彩を奪った。
 もう光さえ見たくない。希望が散ったとき心に絶望を咲かせる。
 これ以上苦しみたくなかった。だから人と関わるのはこれで最後にしようと思った。
 いつか離れゆくものに、自分を委ねてはいけない。