「慶賀坊ちゃん、お疲れでしょう。学校へは夕飯を食べてからお戻りになったらどうです」
「おいジイちゃん、友達の前で坊ちゃん呼びやめろって言ってんじゃん。もうそんな歳じゃないし」
「私の中ではいつまでも坊ちゃんですから」
ほほほと笑う神職さまに、やっと慶賀くんの顔に笑顔が少しだけ戻る。
それにしても。
「慶賀くんのおじいさんだったんですね」
坊ちゃんって呼んでいるから、てっきりお手伝いさんかここの神職さまだと思っていた。
振り返った二人が不思議そうな顔で私を見た。
え……? 私、何か変なことを言っただろうか。
「ああ、そっか。ジイちゃんって聞いたら、確かにそう思うよな」
慶賀くんがおじいさんの横に並んで手を差し出す。
「こちら柳滋伊さん。うちの分社の宮司を任せている神職な」
「じい、さん?」
「そ。滋にイタリアの伊で滋伊」
滋にイタリアの伊で滋伊。
ぽん、と手を打ち思わず大きな声で「なるほど!」と頷く。
滋伊だから、ジイちゃん! 紛らわしいけど親しみがあってなんだか微笑ましい。
私のリアクションが気に入ったのか慶賀くんは声を上げてけらけらと笑う。
「滋伊ちゃんはこう言ってるけど、巫寿どうする?」
スマホのロック画面で時間を確認する。もう少しで部活が始まる時間だ。今から急いで戻れば後半からなら参加できるだろう。
素早く聖仁さんに「遅れて参加します」とメッセージを送って立ち上がった。
「ありがとう。でも後半からなら部活に間に合いそうだから、私は戻るね」
「そっか。なら俺も帰ろっかな。明日も学校だし」
滋伊さんは少し残念そうな顔をしたけれど、すぐさま「では持ち帰れるように重箱に詰めてきます。十分ほどお待ちくださいませ」といそいそ自宅の方へ戻って行った。
重箱って、どれだけ詰めるつもりなんだろう。ありがたいけど食べきれるだろうか。
慶賀くんが私の向かいに座った。
「急に連れ回してごめんな、巫寿」
改めて深々と頭を下げた慶賀くんに慌てて両手を振る。
「本当に気にしないで。私の方こそ役に立てなくてごめんね」
「ごめん、ありがとう」
「それにしても慶賀くんに妹さんがいたなんてびっくりした。てっきり一人っ子なんだと思ってた」
曖昧に笑った慶賀くんは頬をかいて目をそらす。
「あんま賀子の話して、みんなに心配かけたくないからさ」
そっか、と目を細める。
思えば私もお兄ちゃんが入院していることは皆に話したりしなかった。経学んと同じように余計な心配をかけたくないという気持ちがあったからだ。
「皆には黙ってるね」
そう伝えると、安心したようなどこか複雑そうな顔をした慶賀くんは「あんがと」と少しだけ笑みを見せた。
賀子ちゃんにかけられた呪いが何なのか分かれば打つ手はあるのだろうけど、何年も寝たきりの状態ということはきっとたくさんの神職さまたちが調べてその結果突き止められていないのだろう。
「絶対に、俺が何とかする」
揺るがない決意を感じさせる力強い言葉。いつもの慶賀くんとは違う気迫迫る雰囲気が少しだけ怖かった。
「新嘗祭」
豊作祈願祭。
「どへッ」
「ぐはぁッ」
「はい、今回も俺の勝ちやな。泰紀はダッツのクッキーアンドクリームで、来光はストロベリーな。ほなよろしく」
曇り空に潰れたカエルのような二人の悲鳴が響き渡る。
屋外演習場の白砂の上に重なって潰れる泰紀くんと来光くんの背中に、とどめを刺す勢いで腰を下ろしたのは、それはそれは楽しそうに笑みを浮かべる信乃くんだ。
今日で何度目かの組討演習の授業。最近は神修勢も勝率が上がってきているので、少し前から勝った方がアイスを奢るというルールができた。
このところ泰紀くんは三分の二くらいの確率で誰かにアイスを奢っている。私は根本的な力の差を考慮してもらってほぼ見学なので参加していない。
慶賀くんの手を借りて二人は悔しそうに立ち上がる。
「なんでよりによってハーゲンダッツなんだよ!」
「そうだよ! 昨日までガリガリ君とかだったじゃん!」
「金額の上限は指定されてへんしぃ」
しれっと答えた信乃くんに二人はぐぬぬと言葉を詰まらせる。やり取りを聞いていた飛扇先生は「賭けるなら先生の聞いていない所でやりなさい」と苦笑い顔で三人の頭に手刀を落とした。
飛扇先生の講評が始まって、耳を傾けながら何となく遠くの空を眺める。このところ、雨は降っていないのに真っ白な絵の具にほんの少しの黒を混ぜたような重く暗い色の空が続いていて何だか息苦し。
二年生になってから色々な事が起きた。それによって生じた私の身の回りの問題は何一つ解決しないまま山積みになっており、余計に気が重かった。
私の直階一級の件は、解決したようで解決していない。薫先生と恵衣くんの協力のおかげで、本庁の役員がなぜ私に直階一級に合格させたのかは判明したけれど、その後本庁から何か連絡があったわけではない。
恵衣くん曰く私は次の審神者候補者の一人に上がっているようだけれど、現状、二代前の審神者である誉さまと私を引き合わせて、先見の明の使い方を学ぶように促されただけだ。
薫先生は「選ばれた側にも断る権利はある」と言っていたけれど、またあの薄暗い会議室に呼び出されて気難しそうなおじさん達に囲まれて「審神者になれ」と詰められたら、断る勇気より気の弱さが勝ってしまいそうな気がする。
そして夏休みにほだかの社で聞いた薫先生のあの発言。
『ここまで色々起きてるんだよ、あの鉄壁の結界が守る神修の中で。そりゃもう疑うしかないでしょ────裏切り者』
考えたくはないけれど、事実がそろっている以上否定はできない。
この世界に来て知り合った人たちを思い出す。神職さまや先生たち、先輩にクラスメイト。みんないい人たちばかりだ。その中に私達を裏切って仲間の命を危険に晒した人がいる、そう思うとゾッとした。
黒い眼帯が脳裏を過る。薫先生のお兄さんであり元は神修の学生。家族や友人を裏切り空亡に寝返った男、神々廻芽。私は何度も彼に接触した。
神々廻芽の目的はなんなんだろう? 彼自身は薫先生や嬉々先生に危害を加えるつもりはないと言っていたから、彼は明確に狙いがあってあんなことをしたんだろう。
一度目は一学期。神修内に封じられた空亡の残穢の封印場所を、神職のひとりに破らせようとした。直前で私たちによって発見され事なきを得たけれどもしあれが破られていたら、神修やまねきの社の敷地内にいた人たちは無事ではすまなかったはずだ。
二度目は二学期。学生を騙して神修の寮内に応声虫を持ち込ませ、神職の命である声を次々と奪っていった。幸いなことに薬学に精通している亀世さんの知識と技術おかげで大事に至らずに済んだけれど、神々廻芽の発言では神職や学生たちが声が出ない状況になってから奇襲することを考えていたらしい。
そのふたつに共通すること────神修の学生が、狙われている?
走馬灯のように次々と過去の記憶が巡っていく。
『巫寿さん、私は唯一あなたの存在を恐れていたんです。でも、大したことは無かったようですね。これなら、簡単に始末できそうだ』
『でも、俺は君に絶望して欲しいんだ。悲しくて辛くて怖くてひとりぼっち。希望も夢の未来もない。やがてどんどん己の中の呪が増幅して、負の感情に支配される……そうなった君は、とても弱い』
もしかして、でもそんなまさか。だって私が彼と知り合ったのは一年前、顔を合わせたのも口を交わしたのも片手で数えられるくらいしかない。恨みを買う理由なんてこれぽっちもないはずだ。
でもこれは、もしかすると。いいや、もしかしてなんかじゃない。間違いなく神々廻芽は────。
体の中心で小さく身を潜めていた恐怖心がぶわりと膨らみ全身が粟立つ。膝を抱える両手ががたがたと震えた。
「……おい巫寿! 巫寿ってば!」
強く肩を叩かれて我に返った。隣に座っていた泰紀くんが少し慌てた顔をしている。
ハッと顔を上げるとみんなの視線が私に向けられている。組討演習の授業中だったことを思い出した。
「当てられてるぞ、巫寿……!」
「あ、え……あの、聞いていませんでした」
身を小さくしてそう頭を下げる。飛扇先生は「集中しなさい」と呆れた顔をうかべる。すみません、といっそう小さくなる。
「聞いていなかったところは後でクラスメイトに教えてもらいなさい。次の授業の始めに同じ質問をするからな」
はい、と私が答えると同時に飛扇先生は授業を終わらせた。
疲れたー、と伸びをするみんながゾロゾロと更衣室へ歩き出す。
「巫寿が授業中にボーッとしてるなんて珍しいね。昨日は遅かったの?」
不思議そうな顔をした嘉正くんが歩み寄ってくる。
「巫寿ちゃん、なんか顔色悪くない? 大丈夫?」
隣から総顔を覗き込んできた来光くんが不安そうな表情を浮かべる。
なになに巫寿体調悪いの?大丈夫か?とみんながゾロゾロ私を囲み始める。
「あ、あの……」
その時、校舎からわぁッと楽しそうに声を上げながら初等部の子供たちが運動場へ飛び出してきた。2時間目が終わったところだから、初等部は20分休みに入ったらしい。
子供たちに遊びに誘われたのか先生や神職さまたちもゾロゾロと外に出てくる。
「巫寿?」
「どうした?」
「なに変な顔してんだよ」
みんなが私のことを見ている。
まだこれはただの私の憶測だ。それにみんなに相談するとしても、"裏切り者"がどこかにいるかもしれないこの状況で場所を選ばず口を開くのはあまりにも危険すぎる。
「なん、でもない」
なんとか笑みを浮かべていつも通りに答えた。なーんだ、とすぐに興味をなくした皆は、昨日見たバラエティ番組について話し始める。
バクバクと心臓がうるさい。
どうする? どうすればいい? とりあえず薫先生や禄輪さんに相談して、でもまだこれは私の憶測段階でしかないわけだから。でも私一人で抱え込むにはあまりにも。
みんなの背中が遠ざかっていき、慌てて追いかける。焦ってから回る足がもつれた。咄嗟に伸ばした手が何かを掴む。
掴んだのは誰かの白衣の背中だった。
「急になんだよ」
不機嫌そうな声で振り返ったのは恵衣くんだった。
私を見下ろしてギョッとした顔をする。
「ご、ごめん」
慌てて手を離すと、今度は恵衣くんは私の手首を掴む。そして「ちょっと来い」とだけ言うと校舎とは反対の方向に向かって歩き出した。