言祝ぎの子 陸 ー国立神役修詞高等学校ー


思い出したことがある。

思えば私は一年の時、まだ「呪法」を習う前の時点で呪いを一度だけ祓った事がある。祓ったと言うよりかは呪いを持ち主に返した、という表現の方が正しいのだけれど、持ち主に返すのも祓いのうちに入るらしいので間違いではないだろう。

あの時は正しい対処方法なんて知らなかったから、呪いの正体を突き止めることもせず本当にただ祝詞を奏上しただけだ。

一年生の一学期。空亡の残穢を封印する結界を破ろうとして、腕に呪いが跳ね返った方賢さん。事情を知らなかった私はその呪いを祓った。

すっと短く息を吸い込む。


「懸けまくも畏き大国主神《おおくにぬしのかみ》よ」


部活動見学で究極祝詞研究会に参加した時に作った、短くて難しい言葉も少なくて万能な祝詞。

女性の顔の包帯から光のつぶてが染み出す。


「恐み恐み謹んで吾大神《あがおおかみ》の大御稜威《おおみいづ》を蒙《かがふ》り奉る────」


小さな粒は集まって一つの塊になった。日の入りのような強い光を発すると、溶け込むように包帯の奥に吸い込まれていく。やがて光が収まって、病室はしんと静まり返った。


「ど……どうでしょう?」


恐る恐る尋ねた。女性は固まったまま身動き一つしない。ドキドキしながら動向を見守っていると、女性がゆっくりと包帯に手をかけた。スルスルと解かれていき、呪いのせいでどす黒い色に染まった肌が現れる。

やっぱり私の祝詞程度じゃ効果がなかったんだ、と肩を落としたその時。


「見える……」



呆然とした表情で女性が呟いた。何度かゆっくりと瞬きした女性は、ゆっくりと顔を上げると眩しそうに目を細めて辺りを見回す。確かめるように私達と目を合わせ、一点で動きを止めた。


「あんた……角丸(かくまる)、よな?」

「母ちゃん……?」


お兄さんは零れ落ちそうな程に目を見開いて震える足でベッドに歩み寄った。


「……ああ、あん時コケてできた傷、跡が残ってしもたんか」


女性は愛おしそうにお兄さんの額をそっと撫でて大粒の涙を浮かべた。お兄さんは信じられないというような顔で女性の手をそっと握って顔を覗き込む。


「う、嘘やろ? 見えんのか? 母ちゃん、目が見えんのか!?」

「見える、ちゃんと見える。あんた、しばらく見んうちにこんな大きなったんやな」


わっと声を上げて泣き出したお兄さんの背中を呆然を見つめる。


えっと、つまりこれって────。


となりの鬼市くんを見上げると、驚愕の表情で私を見下ろしている。名前を呼ぼうとした次の瞬間、驚愕の表情のまま両手を広げた鬼市くんはそのままがばりと私を抱きしめた。

私が声を上げるよりも先に、「うわぁああッ」と声を上げた皆が駆け寄ってきて私の背中をバシバシと叩いた。泰紀くんなんて慶賀くんを肩に担いで「わっしょいわっしょい」と神輿上げを始める。

病室内はあっという間にどんちゃん騒ぎになる。


そしてお祭り騒ぎは、お医者さんたちが「何事だ!?」と飛び込んでくるまでしばらく続いた。




騒ぎを聞き付けた八瀬童子一族の頭領鬼三郎(きさぶろう)さんに診てもらった女性は、結果的に呪いを完全に祓えていた訳ではなかったらしい。

ただ、鬼三郎さん曰く"100あったものが80まで減少した"おかげで呪いのせいで見えなくなっていた目が見えるようになったらしい。私が作った祝詞が呪いの祓除に効果的であることが分かった。

今後の治療について協力を求められ、もちろん二つ返事で引き受けた。


女性とお兄さんからは「ありがとう」とおいおい泣かれ、養生所の医者さん達からは「卒業後はうちで働かないか」と熱烈な勧誘を受けた。神職さまたちからは作った祝詞について色々と尋ねられたけれど、専門的な質問すぎて結局ほぼ来光くんに答えてもらった。

そんなこんなでバタバタと一日が終わり、鞍馬の神修に戻ってきたのは日がすっかり高くなった頃だった。あと数時間すれば学校が始まる。

昼夜逆転生活にすっかり慣れた私達は、眠気と戦いながら何とか各々の部屋へ別れた。

服もそのままで布団に倒れ込む。まるで泥の中に沈みこんでしまったかのように身体が重い。


濃い二日間だったな、と息を吐いた。


八瀬童子の里へ向かうはずが叔父さんに半ば無理やり両親の実家へ連れて行かれて、そこで両親が実は義兄妹だということが発覚し、お兄ちゃんが乱入。

八瀬童子の里では鬼子ちゃんとの関係がさらに悪化して、解呪不能な呪いを偶然にも祓えてしまって。


「あれ……でもそう言えば」


パチリと目を開けて、自分の作った例の祝詞を思い出す。

あの祝詞の効果は、主に平癒と厄除け。厄除けは呪いを剥がす事は出来ても、祓うことはできないはずだ。

実際に私が方賢さんに試した時は、剥がした呪いは呪いを仕掛けた嬉々先生に跳ね返った。


でも今回、あの女性を診た鬼三郎さんは「100あっものが80まで減った」と言った。つまり、呪いは剥がれた訳ではなく消滅したということだ。





「どういうこと……? 祝詞の効果が変わったの?」


でも祝詞の効果を変えるには、祝詞の中の言葉を変える必要がある。それ以外に違う効果を得る方法はないはずだ。

だとしたら、変わったのは何故だろう?

特別なことをした覚えはないし、私は何も────。


「……あ、もしかして春休みの?」


一年生が終わって二年生に進級する前の春休み。一年生で色々無茶をして体の中の言祝ぎの総量がガクンと減ってしまった私はかむくらの社で修行を行った。

自分の中の増えた呪を言祝ぎに転じさせる修行だ。

思えばあれ以降、祝詞の制度や威力が増した気がする。実習の授業で(くゆる)先生に褒められることも多かった。

方賢さんにあの祝詞を奏上したのは、残穢を浴びた後。つまり私の体の中の言祝ぎが減少していた頃だ。

つまり言祝ぎが多い正常な状態であれば、私の祝詞はかなり強い効果を生むことができる……?


ふわぁ、と欠伸が零れて目を擦る。

今考えるのは止めよう。明日この考察を来光くんに聞いてもらって、一緒に考えてもらった方がいい。

もう一度欠伸をして布団に潜り込むとすぐに瞼は降りた。






新嘗祭(にいなめさい)

豊作祈願祭。







「お疲れ様、皆見えてる?」


パイプ椅子の上に置かれたパソコンの画面を覗き込み、慣れない手つきで操作する聖仁さん。

画面の向こうにそう問いかけるとパッと画面が切り替わり、神修の稽古場と神楽部の部員たちの顔が映る。『お疲れ様です!』と元気な返事が返ってきた。


「お、映った映った!」


聖仁さんの肩越しに画面を覗いていた瑞祥さんが嬉しそうに声を上げた。おーい、と手を振った瑞祥さんに画面の向こうのみんなも「わぁー!」と手を振り返す。


『便利な世の中ねぇ。これは、もう私たちが向こうにも見えてるの?』


向こう側のパソコンを覗き込んだらしく、我慢いっぱいに富宇(ふう)先生の顔が写った。富宇センセー邪魔邪魔!と向こう側のみんなが騒ぐ。

そんなやり取りに私たちはくすくす笑った。


今日は神楽部の活動がある日。

二学期の終わりにある奉納祭(ほうのうさい)で演舞予定の八岐大蛇伝説(やまたのおろちでんせつ)の稽古が少し前から始まっているけれど、高等部の私たちは鞍馬の神修で異文化理解学習の最中だ。

11月いっぱいまでは神修に帰れず部員全員揃っての稽古ができないので、天叡さんの提案でパソコンのミーティングアプリを使ってリモート稽古が実施されることになった。




配役は去年とほぼ変わらずそのままで、今年も倭舞、巫女舞の学年代表に選ばれた聖仁さんと瑞祥さんは監督役に徹している。

私はと言うと八姉妹のうち三番目に八岐大蛇に食べられる三女の役だ。

出番は少ないものの八岐大蛇を模した大道具にぱくりと頭から飲み込まれるシーンがかなり気に入っていて、上手く飲み込まれたら大道具操作役の部員達とハイタッチしながら大蛇のお尻から脱出するのが結構楽しい。

楽しいけれど、来年はもう少し難しい役に挑戦してみたいなんて思ったり。


「じゃあいつも通り準備運動から始めるよ〜」


聖仁さんのその一声で、皆はわらわらと動き出した。




一度目の通し稽古が終わると10分休憩が挟まれた。私は盛福ちゃん瑞祥さんと雑談をしながら休憩をとる。


「ええッ、初デートに山梨でぶどう狩り!?」


話題は週末の話になった。

瑞祥さんは先週の休日に聖仁さんと山梨でぶどう狩りデートをしてきたらしい。

飯の後でお裾分け持ってくわ、と自慢げに鼻を鳴らす。


「山梨って……じゃあ一泊したんですか!?」

「ば、泊まるわけねぇだろッ! 日帰りだ日帰り!」

「だって山梨って、交通機関を使っても片道六時間くらいかかりますよね!? だったらどうやって一日で往復したんですか!」


たしかに京都から山梨となると、まず京都駅まで行ってそこから新幹線に乗り、おそらく途中で特急への乗り換えも必要だろう。

移動時間もそうだけれど、交通費もかなりかさむはずだ。


「鞍馬の神修は学生のために迎門の面を貸出してるんだよ。それ使ったおかげで往復二時間だ」


二本指を立ててヒヒヒと笑った瑞祥さん。


「あ、瑞祥さんも迎門の面借りたんですね。私もお借りして、八瀬童子の里に遊びに行ったんです」

「お、巫寿も有効活用してんだな! いいよなアレ。こっちの神修にも導入してくれればなぁ」


たしかになぁ、と頷く。

神修も学期末や長期休み明けは学生に迎門の面を配ってくれるけれど、私用で利用したい場合は実費だ。残念なことに学生がそう簡単に買えるような値段ではない。



「鞍馬の神修って迎門の面の貸し出ししてるんですか!?」

「おう。学生なら誰でも自由に使っていいんだってよ」

「先に教えてくださいよぉ!」


不貞腐れた盛福ちゃんをまぁまぁと宥めながらお茶を啜る。

するとパソコンの前で富宇先生と話していた聖仁さんがこちらへ歩いてきた。ダンナが来ますよダンナが、と茶化す盛福ちゃんに照れ隠しでプロレス技を決める瑞祥さん。


「こら瑞祥、後輩いじめないの」

「い、いじめてねーし! むしろ盛福が私の事いじめるんだよ!」

「いじめてませーん。いじってるだけでーす」


この、と腕の力を強める瑞祥さんにきゃあっと楽しげな声を上げる。

呆れたような、どこか愛おしそうな目で瑞祥さんを見つめる聖仁さん。晴れてお付き合いに発展し我慢する必要がなくなった聖仁さんは、色んなことを隠さなくなった。

私も応援していた身なので喜ばしいことなのだけれど、見つめる視線が情熱的すぎてたまに目のやり場に困る。


「あ、そうそう。瑞祥が可愛くて大事なこと忘れてた」


私に向き直った聖仁さんに苦笑いを零す。

もう何も言えない。


「富宇先生が巫寿ちゃんのこと呼んでるよ」

「富宇先生がですか?」


舞の注意はさっき一通り受けたばかりだけれど、まだ何かあったんだろうか。

何だろう、と不思議に思いつつ聖仁さんにお礼を伝えて立ち上がった。