冬の寒さがやっと溶けて消え、春の暖かさが見え隠れし始めたある日。
 広大な“西の都”に佇む一つの屋敷の一角、私はすっかり荒れてしまっている両手で箒を動かしていた。
 理由は、庭に広がった数多の桜の花弁を捨てる為。

「……お義母様もお義姉様たちも、こんなに綺麗な桜を掃いてしまえだなんて。」

 ぽつりと、思わず本音が漏れ出した。
 っ、こんな事お義母様たちに聞かれたらまた怒られてしまう……。
 無意識の独り言に慌てて蓋をして、きょろきょろとひとしきり周りを確認する。
 けれど誰の気配も感じなくて、ひとまずほっと胸を撫で下ろした。

 よかった……誰にも聞かれていないみたい。
 もしかしたらお義母様たちは、鬱陶しいと思っているからそう言ったんだと思う。それを理解できない私のほうが、おかしいのかもしれないし。

 だからと言って、全てを片してしまうのは……哀しい。
 そう思った私はもう一度周りを確認してから、いくつかの花弁を拾って懐に入れた。
 ……ふふ、これで栞でも作ってみようかな。
 なんて想像して一人頬を綻ばせたその時、背後から冷たい声をかけられた。

「ちょっと若葉!! 庭の掃除まだ終わっていないじゃない!! 何をぼさっとしているのよ!!」
「っ! す、すみません……すぐに終わらせます!」
「早くしてちょうだい。午後からは旦那様の大事な取引相手が来られるんだから、庭が終わったら客間の掃除をして。埃一つも残さないように!!」
「は、はい……わかり、ました。」
「ただでさえ“出来損ない”なあんたに情をかけてやってるんだから、少しは役立ってほしいわ。」

 反射的に振り返り深々と頭を下げ、呼吸するように謝罪の言葉を口にする。相手はお義母様で、振り返った瞬間に冷たい視線が向けられていたのが分かった。
 そうするとお義母様はふんっと気を悪くしたように吐き捨てて、またお屋敷のほうに戻っていった。
 お義母様の足音が聞こえなくなってから頭を上げると、集めていた花弁が春風で散っていくのが見えて苦笑してしまう。
 もう一度早く集めないと、お義母様になんて言われるか分からないな……あはは。

 そして、私はやっぱり嫌われているみたい。
 ……けれど仕方がないよね。私はお義母様の言う通り、“出来損ない”だから。
 お義母様にとって私は邪魔でしかない存在だって、分かっているから。

 少しばかり沈んだ気持ちを押し込め、粗方花弁を集めて箒を元あった場所に戻して客間へと向かう。
 その道中で何人かの使用人さんの言葉が聞こえてきたけれど、聞こえないふりをして足を急がせた。

「若葉様ってご令嬢なのに、どうしてわたくしたちと同じような仕事をさせられているかしら。わたくしたち下女のような仕事をなされては手荒れも酷くなってしまわれるのに……」
「あら、あなた知らないの? 若葉様はご当主様の前妻のお嬢様なのよ。」
「えっ、そうだったんですか?」
「えぇ。今の奥様や奥様の連れ子のお嬢様たちはその事が気に入らないらしくて、若葉様に酷い仕打ちをされてるそうよ。……でも、気持ちは分からなくもないし、あたくしたちは所詮下女だから何も言えないわ。」
「分からなくもないだなんて……どうしてそう言われるんですか?」
「……若葉様は優秀なご当主様と、同じく優れていた前の奥様のお嬢様なのに……“異能”が扱えないからよ。」



 あれはまだ、私が5つの時のお話。

『っ、おかあさま……。』

 いやに大きな棺の中、綺麗なお顔のまま眠っていたお母様を忘れた日なんてない。
 私のお母様は昔から身体が弱く、私を産んでから更に衰弱していった。だから私の記憶の中にいるお母様は、寝室で眠ってばかりのお母様だけ。

 5つの時の私は、まだ充分に死というものを理解できていなかった。それに加えて、お母様から愛情らしい愛情を貰った事なんてなかったから、ずっと泣き喚いていた。
 お父様も……四十九日が過ぎても憔悴していた。お父様はこれでもかというほどお母様を愛していたし、一途であったから気持ちは痛いほどに分かる。
 それ故にお父様が、お母様以外の女性と……分家の人と結婚するだなんて、微塵も考えていなかった。

『あなたが綾小路若葉さんね? 初めまして、戸籍上ではあなたの母になる伊代(いよ)と申しますわ。よろしくお願いいたしますわね。』

 お義母様がお屋敷に来たのは、私が9つの時だった。
 小綺麗な着物に身を包み、品のある大人の女性。お母様とはまた違った綺麗な人に、ほうっと見惚れてしまっていた。
 そんなお義母様の背中にはふたつの影がゆらりと動いていて、お義母様をその影を私の目の前に差し出してきた。

『こちらはわたくしの娘たちですわ。ほら二人とも、若葉さんにご挨拶なさい。』

 お義母様の促しに、姿を見せた二人分の影はお父様と私に軽く会釈した。
 
古市(ふるいち)ハルですわ。』
『古市ハナですわ。』

 お義母様と非常に似て、綺麗で可愛らしくあり……気丈なお二人だと率直に思った。
 彼女たちは双子で私の一つ上だそう。通りで落ち着いていて美しい人のはずだ。
 丁寧な所作と語尾まで品のある彼女たちにぽけーっと呆けていると、不意に両方から手を握られた。

『ねぇ、若葉って呼んでもよろしいかしら? あたくしたち仲良くなりたいの! これからよろしくお願いいたしますわねっ!!』
『そうと決まればお母様、早速向こうで三人でお話してきてもよろしくて?』
『えぇ。わたくしも綾小路様とお話があるから、くれぐれも若葉さんに迷惑をかけないようにしてちょうだいね。』
『『分かってますわ!!』』

 お義母様の言葉に意気揚々と返事をして、私の腕を半ば強引に引っ張ったお義姉様たちは間違いなく優しかった。
 本当は少しだけ、お母様とではない“家族”に不安と恐れがあったけれど。

 ……――この人たちと家族になれるなら、素晴らしい事この上ないんじゃないかと考えていた。



「――……ば、若葉!」
「っ、はい! 何でしょうか、ハルお義姉様!」
「何でしょうか、じゃないわよ! あたくしのお部屋のお掃除、まだ終わってないでしょう!? それなのにぼーっと呆けていて……早くしてよね!」
「分かりました……! すぐ参ります!」

 客間のお掃除を、昔の思い出と共にしていた最中に、今度はハルお義姉様からそう頼まれた。
 断る理由なんてなくて、すぐに返事をするとお義姉様は面白くないかのようにそっぽを向いて、忌々しそうに私を見下ろしてからお庭のほうへと行ってしまわれた。
 お義母様と同じく、冷たく突き刺さるような瞳。……やっぱりどこまでも私は嫌われているみたい。

 どうしてか、という理由は分かりきっている。
 私には……――"異能"がないからだ。

 私の一族は"西の都"でも相当な権力を持っている一族で、綾小路家はその最高権力者。分家もたくさんあり、みんな異能持ちである。
 お義母様もお義姉様たちも、ちゃんと異能を持っている。お父様もお母様も、もちろん持っていた。
 私だけが……持っていない。優秀なお父様とお母様の娘でありながら、欠片すらも与えられなかった。

 だから嫌われていると知っていても、悲しくはない。私がお義母様たちの立場でも、同じように思ったはずだから。
 『綾小路の娘のくせに』……と。



 それからお茶菓子の準備、お義母様たちのお召し物の片しなどを早急に終わらせて自室に戻る。
 ふぅ……とりあえず一息つけるかな。
 一つ息を吐き出し、荒れてしまっている手を見てぎこちなく笑ってしまう。

 家事炊事をしているから仕方がないけれど、こんな手はお母様には見せられないな。

『若葉の手は綺麗ね。ふふ、手はちゃんと大事にするのよ。手がダメになってしまったら、何もできなくなってしまうからね。』

 ふとお母様の言葉を思い出し、懐かしくなって手を擦り合わせる。
 ……こうしていると、お母様が近くにいてくれるみたい。
 そう感じて心を温めていると、おもむろに襖の外から声がかかった。

「あの、若葉様……今、少しよろしいですか。」

 おずおずとした控えめな声に、すぐに「大丈夫だよ。」と返事をする。
 すると襖の外にいた人物はゆっくりと襖を開け、心配そうに瞳を揺らした。

(あい)ちゃん、どうしたの?」
「……いえ、少し若葉様とお話がしたくて。」

 そう言って無理に笑っているような笑顔を見せたのは、私専属の付き人である愛ちゃん。
 私と同い年の17歳で、幼い頃から一緒に過ごしてきた言わば姉妹みたいな関係だ。
 けれどここ最近は愛ちゃんも忙しそうでゆっくり話す事ができていなかったから、思わずどうしたんだろうと不思議に思ってしまった。

「どうしたの、愛ちゃん。」

 静かに問いかけて、返答を待つ。
 そうすると愛ちゃんは一瞬ばかり悩んだ素振りを見せたけれど、意を決したように口を開いた。

「わたし、若葉様が心配なんです。」
「え?」
「若葉様はお優しいからいつも笑っていますけど、今の奥様方が来られてからは心の底から笑っていないように見えます。それに奥様方から使用人のような扱いをされていて……奥様方が来られなければ、若葉様が苦しむ必要もないと思ってしまうんです。」
「……、愛ちゃん。」
「このままでは若葉様の身が持ちませんっ……! わたしはっ……旦那様にご相談して、一時的にでもいいので距離を取られたほうがいいのではないかと思っているんです!」

 ……愛ちゃんの言う事は、痛いほどに分かる。何も間違ってはないし、むしろ全てが愛ちゃんの言う通り。
 それでも……ごめんね、愛ちゃん。

「……そんな事、間違ってもお義母様たちの前で言わないようにね。」
「っ、分かってます……! でもわたしは若葉様の身を案じて――」
「愛ちゃん。」

 もうそれ以上は言わないでいいよ、そんな気持ちを込めて名前を呼ぶ。
 愛ちゃんはそれではっと我に返ったのか、後ろめたそうに視線を手元に下げた。
 愛ちゃんの優しさは、もう充分伝わってるから。

「私なら本当に大丈夫だよ。嫌な事ばかりじゃないし、お義母様たちの気持ちだって分かるもの。それに、私には私なりの気晴らし方法があるからっ。」
「……若葉様が、そう仰るなら……」

 まだ納得していなさそうな愛ちゃんに微笑みかけて、その両手を握る。
 愛ちゃんが私をこうして過度に心配してくるのは今に始まった事じゃないし、もう慣れっこでさえある。
 多分、私が少しおっちょこちょいだから心配してくれているんだろうけど……私はもう、幼くて無力な私じゃない。

 だから、心配なんてしないで。
 もう一度そう伝えるように、私は不安の影を未だ落とす愛ちゃんににへらっと笑ってみせた。



 ……――時刻は丑三つ時。どこからか鳥が鳴く声が聞こえてくる。
 それだけの夜の西の都に次に響いたのは、誰にも聞かれる事のない静かな静かな悲鳴だった。

「っ、あんたは誰から言われて俺を殺しに来たんだ……!! 言え!! さもなくば俺がお前をこ――ひぃっ!?!?」
「ごめんなさい、これも依頼なんです。ですけれど……あなたは相当恨まれているようですね、あなた宛ての依頼が五件もありました。これは相当な悪事を働いていないと不審に思ってしまいます。」

 短刀で目の前の“標的”を一度だけ牽制する。
 ここの辺りに人が来ないとはいえ、静かにしてほしいものだなぁ……とは流石に言えない。
 だけれど標的は一瞬怯んだだけで、再び威勢よくこう叫んだ。

「そんなの言われたって俺だって知らねーよ!! 俺は後ろ暗い事なんて何もしてねーし、恨みを買った覚えなんて……っ!」
「物的証拠は押さえています、言い逃れは不可能ですよ。」
「……ッ、クソッッ!!!」

 そんな醜い最期の言葉を聞き届けた私は、躊躇なく標的の脳を貫いた。
 ……やっぱり、何度やっても慣れないな。
 短刀で命を奪ってきているから、手にはその感触が嫌なくらい残っている。

 けれど気持ち悪いとは思わない。これが私の使命だから。

「終わったかい。」
「お父様……。」
「今は君の父ではないよ、呼ぶなら隊長と呼びなさい。」
「すみません、隊長。……少し、標的の片付けに手間取ってしまいました。」

 三日月に照らされて自身に付いた血液を雑に拭き取っている時、背後から隊長に声をかけられた。
 こういう時……語尾が上がりくすっと笑うのは隊長の癖であり、私のお父様の癖だ。

 私はたった今、人を葬った。理由は単純、私が【白虎隊】の暗殺部隊隊長補佐であるから。
 【白虎隊】というのは綾小路家を筆頭に、この西の都を守っているいわば自衛隊みたいなもの。
 その部隊の一つに暗殺部隊が存在し、私がそこに所属している……というだけの話。

 でもこの事実を知っているのは白虎隊自衛部隊、兼暗殺部隊隊長のお父様と数人だけ。
 私は表向きは“綾小路の娘”というだけで、目立つ事は早々ない。
 それに私自身も暗殺部隊に所属しているせいでその分多くの人から恨みを買っているだろうし、お義母様たちといった関係ない人を巻き込むわけにはいかない。
 だから暗殺部隊の存在すらも限られた人しか知らないし、私が所属しているなんて……以ての外だ。

「いやいや、気にしないでくれ。君は異能を持たないが、ここまで隠密に暗殺を働ける事を誇りなさい。」
「……はい。」
「標的の後始末はこちらに任せて、君はもう帰って休むといい。今日は三件も暗殺を働いて疲れただろう。」
「それじゃあ……お言葉に甘えて帰らせていただきます。」
「あぁ。」

 体調にそう促され、断る理由もない為頷いて横を通り過ぎた。
 血液がまだ手に残っているから、帰路は考えたほうがいいかも。

 なんてぼんやり考えつつ、先程の隊長の言葉に目を伏せた。
 異能を持たない、か……。
 本来暗殺部隊は異能持ちしか入隊できず、理由は異能を持たない人間では危険すぎるからというもの。
 けれど私は、実力だけで入隊してみせた。私は弱くないって証明する為に。

 弱くないって証明できれば、異能を持たなくても強気でいられる。私はそう考えて疑わなかっていなかった。
 ……そんなに私は強くないって、入隊してから気付いてしまったけど。



 そんな、昼の顔と夜の顔を変な塩梅で使い分けていたある日の事。
 日中はのほほんとしているお父様に突然呼び出されて、私はお義姉様たちから頼まれていた着物を仕舞い急いでお部屋に向かっていた。

「すみませんっ、遅れました!」
「そんなに急いで来なくても父さんは逃げたりしないのに、若葉は真面目だね。」

 若干走り気味でお父様のお部屋の襖を開け、すぐに謝罪の言葉を口にする。
 だけれどお父様はそれを気にする事なくにこにこしたまま、軽く目を細めた。

「別に怒っていないからそう謝らないで。ほら若葉、お茶を用意したから飲みながらでも話をしよう。」
「……わ、分かりました。」

 言われるがまま座布団の上に座り、ちらっとお父様を見る。
 うーん……話って何の話なんだろう。
 お父様がわざわざお部屋に呼ぶって事はそれ相応の話なんだろうと、粗方予想はつく。内容までは分からないけれど。
 でも、改まる必要がある話だろうから……私も、ちゃんと聞かなきゃ。

「それじゃあ早速だけど、話に入ろうか。若葉、君をここに呼んだ理由をね。」
「……はい。」

 ぎゅっと、膝の上で拳を握る。
 それと同時にお父様の口から伝えられたものは――。

「綾小路若葉。君には東の都に住む最上(もがみ)家の一人息子……最上(にしき)の暗殺を命ずる。」
「…………、え?」

 ……――正直、信じ難いものだった。