鳳炎は謀反人の炙り出しを行うつもりだと話していた。鳳炎を裏切るものがこの王城内にいるとはにわかに信じられない。だが、雪葉は未来を見てきたのだ。
 最悪の結末から、みんなが生き残る道を選び取るために。
 颯との戦まであと半月と迫った日のこと、雪葉は雪がちらつく暗い空を見上げていた。雲に覆われた空には、星の輝ひとつ見つけられない。
 鳳炎は謀反人を見つけることに苦戦しているようである。次第に褥でも険しい顔をするようになっていた。
「私に何かできることはないかしら」
 煌の国を、鳳炎を守るために自分ができることはないかと懸命に探していたが、雪葉の目から見たところで怪しい人物などはわからなかった。
 ちらちら、ちらちらと闇に染まった暗い空から雪の結晶が落ちてくる。雪葉の気持ちとは裏腹に軽やかに降りてくる雪の華を見ていると、ふと視線の先に気になるものが映った。
 きっと、何も知らなければ気にもとめないだろうその姿に、雪葉は確かな違和感を覚える。 
 それは一羽の鳥だった。黒い鳥である、艶のある黒い翼はカラスのように見えた。王城で飼われている鳥の多くはハトである。主に手紙のやり取りに使われる白いハトは、明け方放たれ、日暮れまでに戻る。
 こんな時間にカラスを飛ばしているなんて、不思議だわ。あの部屋は確か……。
 雪葉はカラスが飛び立った部屋の主を思い浮かべ、眉をひそめる。
 これを、鳳炎様にお伝えするべきかしら。私の違和感だけで、あのひとを疑うようなことを言うなんて……。
 だが、この違和感を伝えずにいて後悔するほうが嫌だと雪葉は思い至る。勘違いであれば、それが一番良いのだ。たとえ間違っていたとしても伝えておいた方がいい、と。
 夜が更け、部屋に鳳炎が訪れた。寝具の上に腰掛けていた雪葉は、鳳炎が横に座るとそっとその胸にもたれかかる。
「どうした、心配事か?」
 雪葉の様子から察したのだろう、鳳炎が優しく問いかけてくる。
「鳳炎様、どうか、落胆されないでください。私の見間違いや勘違いかもしれません」
「どういうことだ、雪葉、ゆっくりでいいから教えてくれ。おまえは俺に何を伝えようとしている」
 鳳炎を目の前にすると、決心が鈍る。本当に、話してしまってもよいのだろうかと。鳳炎は雪葉が口を開くのを辛抱強く待ってくれた。
 規則正しい鳳炎の心臓の音を聞いていると心が落ち着いてきた。この音を、生涯一番そばで聞き続けたいと思う。
「鳳炎様、私……」
 雪葉は先ほど感じた違和感のことをすべて包み隠さず鳳炎に伝えた。
 城の一室から飛び立つ黒いカラスのことを。
 雪葉の話に注意深く耳を傾けていた鳳炎は、すべてを聞き終えると険しい顔をした。
「雪葉、よく教えてくれた」
「私の勘違いかもしれません」
「いや、恐らくカラスは颯の国と連絡を取り合うためのものだろう。可能性としては低くない」
 鳳炎の表情があまりに暗いものだったので、雪葉はその頬に触れる。
「見違いである可能性もあると思います」
 あのひとが謀反を起こすだなんて雪葉は信じられなかった。願うことなら違っていてほしい。
「そうだな、そうであったらいい。そうであったらいいが、調べるに越したことはない」
 鳳炎はそう答えると、雪葉を抱きしめた。
「今夜はおまえを抱きたい。体は辛くないか?」
「大丈夫です」
「負担がかからないように努める」
「はい」
 雪葉が答えると、鳳炎は、雪葉を優しく抱きしめた。
鳳炎に触れられると、不安が消えるような気がする。
 大丈夫、あの未来にはたどり着かない、きっと……。
 鳳炎の温かな胸に抱かれながら、雪葉は、強く願った。



 月のない夜が近づいていた。もうすぐあの日がやってくるというのに、未来を変える手立てが見つからないまま時だけが無情に過ぎていく。雪葉が心を痛めて日々を過ごしていると、鳳炎が部屋を訪れた。
「なかなか動かない」
「やはり、私の勘違いだったのかもしれません」
 かのひとが犯人でないなら嬉しいをだが、このままでは煌の滅亡を止めることができないかもしれない。
 雪葉がうつむくと鳳炎はその小さな顎に触れ、上を向かせる。
「大丈夫だ、すでに手は打ってある。あとはやつが動けばすべてが終わる。おまえはなにも心配するな」
「そう、ですよね」
 胸騒ぎがした。今夜、何かはが起こるような気がする。
「あ……!」
 ひどい頭痛がする。目の奥が裂けるように痛い。ぎゅっと目を閉じると瞼の裏に男の姿が浮かんだ。
 うずくまりそうになる鳳炎が抱き止める。
「大丈夫か、雪葉! どうした、痛みがあるのか!」
「……カラスが、カラスが、放たれるような気がします」
「あの部屋からか」
「はい」
「カラスを飛ばす前にやつを止める」
「一緒に行きます」
「駄目だ、大事な体に障ってはいけない」
「行きたいのです、この子が私に託した未来です、見届けたい」
「わかった。正直に言うと、おまえがそばにいてくれたほうが俺も心強い」
 鳳炎は雪葉が共に行くことを許した。雪葉の部屋を出ると、西の階段をひとつ下る。灯りの灯る廊下の突き当たりだ目的の部屋だった。
 鳳炎が扉を開けると、まさに籠の中のカラスの足に手紙を括り付けているところだった。
「そのカラスに括り付けた手紙を見せろ」
 鳳炎は闇に染まった黒い背中に声をかける。
「これはこれは鳳炎様、王妃様、お揃いでどうされましたか」
「おまえに会いに来た」
「それは光栄なことですね。ご要件をお伺いしましょうか? 時間があまりありませんから、手短にしていただけると助かります。このカラスを早く飛ばしてしまわないと」
「安心しろ、話は手短に済む。ただし、カラスを飛ばすことは許可できない。おまえがそのカラスを飛ばした瞬間、俺はそのカラスを炎で焼く」
 目の前の男は諦めたような表情で笑った。
「ここまでですか。浪洲の協力を得て颯の兵がもうすぐこちらに到着するというのに」
「それはない、すでに我が煌の兵を浪洲へ向かわせている」
「おや、気が付かれていましたか。それは残念です」
「紫苑、なぜおまえが……」
 紫苑、と、名を呼んだ鳳炎の声がわずかに震えているように聞こえた。雪葉は隣に立つ鳳炎の手を両手でぎゅっと握る。
 紫苑、そう、今にもカラスを飛ばそうとしている男は、他でもない紫苑だった。
「なぜ? そうお聞きになられますか。あなたは本当に、なにも知らないのですね」
 紫苑は嘲笑うような表情になると視線を雪葉に向けた。
「あぁ、王妃様、あなたのその瞳を見るたびに、私はこの国の滅亡を強く望んでいました。時間をかけて計画を練り、間違いなく遂行してきたはずなのに。上手くはいかないものですね、天は私ではなくおふたりの味方のようだ」
「なぜですか紫苑、あなたにとって、鳳炎様は大切な甥ではありませんか」
「そうですね、姉が産んだ可愛い甥であり、憎き先王の王子でもある。鳳炎様、あなたがもしも雪葉様を妃に迎えることがなかったら、私もあなたのことを可愛い甥のままにしておけたかもしれません。もしも、鳳炎様が片翼を見つけろと仰らなければ、もしも私が雪葉様を見つけなければ……もしも、雪葉様がこの世に存在していなかったら……。雪葉様、あなたが幼いころに浪州に煌の使節団が訪れたことを覚えていらっしゃいますか、私はそこで星のように輝くあなたの目を見たのです。あの日から、私は復讐に魂を売りました」
 隣で剣を抜く音がした。雪葉が横に立つ鳳炎を見ると、鳳炎は怒りに満ちた視線を紫苑に向けた。
「黙れ、紫苑」
「おやおやそんなに怒りを露わにされるとは。一国の王が感情に流されてはいけません。雪葉様がいらっしゃってからというもの、あなたはずいぶんと感情的になられたようだ、叔父としては心配してしまいます」
「己の企てを雪葉のせいにするな。おまえはもはや風龍王と結託して謀反を企てたただの犯罪者にすぎない」
「私は犯罪者ですか」
 紫苑は嘲るような表情になる。
「鳳炎様、あなたの母上の瞳の色を覚えていらっしゃいますか? あなたと同じ美しい翡翠色でございました。風龍王の髪の色をよく似た美しい翡翠色。あなたの母上は風龍王の片翼だったのですよ」
「惑わすようなことを言うな。母は先王の妃だった」
「そうです。あなたの父上が、私の姉が風龍王に嫁ぐのを阻止なさったから。ご自分の片翼を見つけられなかった先王様は風龍王が片翼を得ることを恐れたのです。片翼と龍王との間に産まれた子は特別に強い力をもつと言われておりますから」
 紫苑は置いてあった剣の柄に手をかける。
「それでも、先王様が姉のことを愛してくださっていたなら私も颯王も納得したと思います。ですが、先王様は姉のことを少しも愛しく思ってはくださらなかった。あなたを産んだあと、姉が失意の中、病に倒れたことはあなたもご存じでしょう」
 両親の仲が良いものではなかったと鳳炎から聞いていたが、そのようなことがあったとは思いもしなかった。
「旧知の仲であった風龍王様は姉を想い未だに未婚でいらっしゃる。姉が亡くなった時も、その死を悼んでくださいました。私は姉を死に追いやったあなたの父上を、そしてこの国を憎むようになりました。視察で颯の国を訪れたとき、鄙で運良く雪葉様を見つけたときには心が震えました。これは運命だと思いましたよ。私と風龍王様に復讐の機会が与えられたのだと」
「戯言を、雪葉は関係ないだろう!」
「ございます。雪葉様は私にとって復讐の道具でございました。先王の王子である龍様と、その愛しい片翼を無理矢理引き離し、風龍王と協力し姉を奪ったこの煌の国そのものを滅ぼすこと。それが、あと少しで実現するところだったのに。あの日、雪葉様の赤い瞳に私のカラスが見つかってしまったのが運の尽きだったのでしょう。本当に忌々しい瞳です」
「紫苑! 貴様!」
 鳳炎が紫苑の胸ぐらを掴もうとすると紫苑はひらりと後ろに飛びのく。
「あなたの手にかかるわけにはいきません。私の命は私のものですから」
 そう言って引き抜いた剣をこちらに向けると、紫苑は欄干に足をかける。城から飛び降りるつもりなのだ。その腕を、雪葉は必死に掴んだ。
「紫苑、私は知っています! あなたが、憎むのと同じくらいに、いいえ、それ以上に鳳炎様のことを愛しくおもっていたことを!」
「馬鹿なことを言わないでください。鳳炎様は憎き男の息子に過ぎません」
「だって、紫苑が鳳炎様を見る瞳はいつも優しかったではありませんか! あなたの瞳は可愛い甥を見る目でした! そこには欠片の偽りもなかったはずです」
「そんなことはありません」
 雪葉は紫苑と視線を交わす。その瞳はわずかに揺れ、視線を雪葉から外して俯いた。
 そこには間違いなく、迷いの色があった。
 やはり、紫苑は鳳炎さまのことを甥として愛している。
「鳳炎様、どうか紫苑を赦してください。紫苑は、鳳炎様にとっての唯一の肉親でしょう? あなたのことを大切に思うたったひとりの叔父なのです。どうかご慈悲を」
「雪葉……!」
 鳳炎は翡翠色の瞳を見開いた。雪葉の赤い瞳に促されるように試験を紫苑に向けると苦々しい顔をした。
「……命拾いしたな紫苑」
 鳳炎は雪葉と一緒に紫苑の腕を掴み、欄干から引きずりおろす。紫苑は全てを諦めたように項垂れていた。
「紫苑、俺はおまえを納得させるような王になる。雪葉のことで感情的になると言うのなら、おまえがきちんと見張っていろ。それが母への、おまえの姉への餞になるのではないか」
「鳳炎様……ありがとうございます!」
 鳳炎の決断に雪葉は顔をほころばせる。
「どうして、死なせてくださらないのか……この謀反人に役に立てと仰るのか……以前は先王のように無慈悲なところがありましたのに、あなたは甘い王になってしまわれた。雪葉様が、あなたを変えたのでしょうね」
 そう呟く紫苑の顔からは険が取れ、わずかな穏やさが感じられた。



 鳳炎と雪葉の尽力により、紫苑による謀反は未遂に終わった。颯の国との和解の使者には狼芭が派遣された。
「ものすごい貧乏くじを引かされた気分です。煌の国でのらりくらり、悠々自適に暮らすつもりだったというのに、僕は紫苑殿を恨みます」
 狼芭の働きにより和解は進み、颯の国は和解の印に肥沃な浪洲を煌の国の領土とすることを承諾した。その領主として、狼芭が任命されたので、狼芭の機嫌はすこぶる悪かった。
「ご存じかと思いますが、僕は面倒なことが嫌いなんです。王妃様のご実家のことですからあまり悪くは言いたくありませんけれど、ずいぶんと政府を欺いて私腹を肥やしていたようで、仕方がないので適切に没収してまいりました。それから、娘の麗花が紫苑殿と結託して颯国兵を煌の国に進軍させようとしていたこともありますし、この城で王妃様に接触された際に強い睡眠薬と堕胎薬を粉末にしたものを王妃様に摂取させようとしたこともあって、罪が山積しております。心を入れ替えていただかなくてはいけませんから、その辺りも考慮して今後の処分に移ろうと思います」
「堕胎薬だと……! あの娘は腹の子まで屠るつもりだったというのか。許しがたい!」
「はい、麗花さんが王妃様の部屋を訪れた際に香炉に見たことのない粉末が落ちていましたので集めて調べてみたのです。未遂に終わって良かったです。あのまま扉が閉じられたままだったら危なかったですね」
 雪葉は青い顔をした。
「すみません、私が無防備なばかりにこの子まで危険に……」
「雪葉、おまえはなにも気に病む必要はない」
「そうですよ、王妃様のせいではございません。むしろ王妃様のおかげで色々と不正がわかりましたのでお手柄です。そもそもご実家ではずいぶんと不適切な扱いを受けていらっしゃったようですから、少々懲らしめてやりましょう」
「徹底的にやれ」
「ほら、鳳炎様も賛同してくださると思いましたよ。この狼芭がきちんと処分いたしますからご安心ください」
  狼芭は暗い笑みを浮かべる。
「颯の国で赤い瞳は忌避されていたとの話ですが、それは浪洲だけでの話です。といいますか、王妃様のご実家だけでのことのようです。紫苑殿を擁護するわけではないのですが、彼が雪葉様を見つけたことは評価すべきだと思います。おかげで、片翼である王妃様をこの国に迎えることができたのですから」
 狼芭の言葉に、鳳炎は複雑そうな顔をしたが、雪葉と顔を見合わせ頬を緩めると「そうだな」と肯定した。
「風龍王はやけにあっさりと引き上げたな」
「それは僕の手腕と言ってほしいところですね。実際、兄は前王妃様が亡くなったことをひどく憂いでいました。ですが、怒りの矛先は鳳炎様や煌の国というよりは先王様そのものでしたので、先王様が孤独に病死なさったことで溜飲を下げておられました。今回の件はどうやら紫苑殿に唆されたようです。風龍王は浪洲で煌の国の民と颯の国の民が小競り合いをしていると聞いていたようですよ。鎮圧のために少々手を貸すくらいのものだったのでしょう。浪州で拘束した兵の数も想像したよりも少ないものでした。鳳凰様に恨みを抱いていたのは紫苑殿だけだと考えて良いです。あとは麗花さんですね」
「風龍王にその気がなくとも、紫苑の策とやらでなんの用意もなく攻め入ってこられていたらひとたまりもなかっただろう、この国が無事なのは雪葉のおかげだ」
「鳳炎様の講じた策が良かったのです。それに、狼芭も風龍王様との和解に尽力してくれて、本当にありがとうございました」
「王妃様に喜んでいただけたらなによりです。では、邪魔者はそろそろ退散いたしますので、あとはおふたりで仲睦まじくお過ごしください」
 狼芭はそういうとニヤリと笑みを浮かべ、そそくさと鳳炎の部屋を後にした。
「ようやくふたりきりになれた」
 狼芭の姿が見えなくなると、鳳炎は雪葉を抱きよせた。
「正直、雪葉というときに政の話はしたくなかったのだが、おまえもいろいろと知っておいた方がいいと思ってな」
「はい、全容がわかって安心……というのはおかしいかもしれませんが、すべてが無事に終わって安心いたしました」
「そうだな、おまえには心配をかけた。雪葉、この国を守るために力を尽くしてくれてありがとう、感謝する」
「それは、この子に言ってください。私を未来から連れてきたのはこの子なのです」
 雪葉は膨らみ始めた腹部にそっと触れる。
「そうだったな」
 雪葉の手に重ねるようにして、鳳炎も雪葉の腹部に触れた。
「生まれてくるのを楽しみにしている」
「私もです」
「この子に、平和な国を届けたい。俺はそのために俺は力を尽くしたい。いつもそばにいてくれるか?」
「もちろんです」
 窓から暖かな風が吹き込んでくる。長い冬の終わりが近づいているのだろう。木々が芽吹く春はすぐそこまで来ている。
 鳳炎を火龍王とした煌の国は肥沃な狼州の地を得たことで更なる繁栄を遂げることとなる。威厳ある王の隣にはいつも穏やかにほほ笑む赤い瞳の王妃が連れ添っていたと、人々は語り継いでいる。