煌の国に嫁いできた雪葉に対し、子那や紫苑をはじめ、煌のひとびとは好意的であった。赤い瞳を気味悪がるものなどひとりもおらず、片翼である雪葉を妃に迎え入れることが出来たことを心から喜んでくれた。おかげで雪葉もすぐに王城になじむことができ、赤い瞳への劣等感も消えていた。
 煌の国への愛着も湧いてくる。王妃という飾りではいけない。国のために自分ができることはないかと、雪葉は自分が無知であることを気にして勉強を始めることにした。
「まだ王妃になってたったの一月しか経っていないではありませんか、もう少しのんびりされてもいのではありませんか? 焦らなくでも大丈夫ですよ、どうせ生涯お妃でいなくてはならないのですから」
 雪葉の教育係となったのは、宮廷薬師の狼芭(ろうは)である。狼芭は鳳炎とは学生時代からの友人なのだそうだ。気まぐれで、飄々とした性格だが、知識については人一倍貪欲で、国一の博士と名高い。
「そういうわけにはいきませんよ」
「王妃様は真面目な方だなぁ。なんだかんだいって鳳炎様と似たもの夫婦ですね」
「それは嬉しいです」
「王妃様まで惚気ないでくださいよ、ただでなくともことあるごとに鳳炎様が惚気て面倒くさいのですから」
「鳳炎様がですか……」
 思わず顔が熱くなる。そんな雪葉を見て狼芭はため息をついた。
「はいはい、仲がよろしいことで。片翼というのはこんなにも惹かれ合うものなのでしょうかね。さて、今日は本国と各国との関係についてですが、王妃様はこの煌の国と隣国との関係についてなにかご存知でしょうか」
 雪葉は首を横に振りながら申し訳ない気持ちになる。浪洲にいた頃、雪葉は教育らしい教育を受けてはいなかった。麗花の使わなくなった書物を使って独学で文字を学びはしたが、読み書きもままならない。政治に関してはからきしである。
「すみません、わかりません」
「そんな顔をなさらないでください。知らなくて当然なのです、だから僕が教えることになっているのでしょう? ちなみに、五大竜というのは火龍、水龍、土龍、金龍、風龍の五つです。各々色の名前で呼ばれたりもしますね、例えば、火龍でしたら、赤龍とも呼ばれます。王妃様の出身はお隣の風龍ですね、色で表しますと碧龍になります」
 雪葉は狼芭の言葉に真剣に耳を傾ける。火龍の守護する煌の国は先王のときに隣国と小競り合いがあったが、今では友好な関係を築いているとのことだ。紫苑が仲を取り持ったらしい。
「そういえば、狼芭の顔立ちはどことなく颯の国のひとに似ていますね」
「おや、気づかれましたか。僕ももともとは王妃様と同じ颯の人間なんですよ」
「狼芭様は颯の国の王子でいらっしゃるんですよ、翡翠色の髪は王家の方に多いんですって」
 子那が湯呑みと茶菓子を机の上に置く。それを聞いた雪葉は驚いた。
「そうなんですか!」
「えぇ、まぁ……王子といっても七番目で、つまり王位継承権はかなり低いのです。とはいえ兄上……今の風龍王には子供がいないので下手に権力争いに巻き込まれないよう煌に留学してそのまま王城に居座ったんですよ。一番上の兄上とは親子ほどの年の差がありますから、兄が年老いる前に国を出てしまおうと思いまして。まぁ、薬師というのは名ばかりで、実質はなんでも屋といったところでしょうか、武官でも文官でもありませんから気楽でよいです」
「私、颯の国に住んでいたのに、風龍王様のことを全然知りませんでした。そもそも浪州は鄙でしたし、私は……」
 雪葉はまともな教育すら受けていないことが恥ずかしくなった。無知な自分は王妃として相応しくないだろう。だからこそ今足掻いているわけなのだが。
「王妃様は変な思想に染まっていなくてとてもよいです。これから僕が偏見のない正しい歴史と情勢を教えてさしあげますから、ご安心ください」
「頼りにしています狼芭!」
 狼芭は良い先生だった。雪葉がわからないところを丁寧に噛み砕いて教えてくれる。おかげで雪葉の理解も早かった。
「残りは宿題にして、また明日続きをよろしくお願いします」
「そんなに根を詰めなくても大丈夫ですよ、時間はたくさんありますから」
「できるだけたくさんの知識を身に着けたいのです。鳳炎様のお役に立てるかもしれませんから」
「そうおっしゃるならかまいませんが……」
「明日もよろしくお願いしますね狼芭」
「ええ、ぼちぼちやりましょう」
 狼芭はそう言うとふらりと雪葉の部屋を出て行った。
「狼芭様、鳳炎様とはまた違った気品がありますよね、我が国の王でいらっしゃる鳳炎様は火龍らしい強さと威厳を持っておられますが、狼芭様は風のご加護を受ける風龍の王家の方ですから、聡明でいながらどこか飄々としていらっしゃって、鳳炎様と全然性格が違うのに、おふたりは仲が良いんですよ」
「そうなんですね、鳳炎様は狼芭のことをとても信頼しているように感じました。そこにはきっと主従関係以上のものがあるのですね」
「ええ、大きな声では申せませんが、狼芭様は気まぐれで、鳳炎様のご依頼のすべてを受けられるわけではないようですよ。主従というよりは、友人という色の方が濃いのだと思います」
「それは、素敵なご関係です」
 鳳炎と狼芭は互いを信頼し合っているのだろう。そんな関係がとても羨ましく感じた。
「私も鳳炎様と良い夫婦になっていきたいと思います」
「それは大丈夫ですよ、なんといってもおふたりは互いが互いを必要としあう唯一無二の片翼同士でありませんか」
「そうですよね、ありがとう子那」
 子那の言葉に心が温かくなる。
 私と鳳炎様は片翼同士なのだ。鳳炎様のためならば、なんでもして差し上げたい。
「今日の夕日も綺麗ですよ王妃様、王妃様の瞳の色に似ています。そろそろ鳳炎様がいらっしゃるころではありませんか」
「ではいらっしゃるまで狼芭に習ったところを復習しておこうと思います」
 雪葉は子那がつけてくれた蝋燭の明かりで狼芭が置いていった書物に目を通し始めた。この大陸を守護する龍に関する書物である。鳳炎が加護を受けている火龍は再生を司る龍のようだ。傷つけるための炎ではなく、守り、作り直すための炎である。そして雪葉が暮らしていた隣国の颯の国を守護するのは風龍、変化と時の流れを司る龍。
「う……」
 突然ひどい頭痛に襲われる。脳裏に、炎が燃えている景色が映った。
 ここは……どこ? 見覚えがあるような気がするけれど、炎のせいでわからない。視界が黒い煙に包まれ、眩暈が起こるとともに頭痛が治まる。こめかみが少し疼くが、気になるほどではない。
「王妃様、王妃様、大丈夫ですか! 今侍医を呼んでまいります!」
「だ、大丈夫ですよ、もう治まりました」
「ですが念のために診ていただいた方がいいと思います」
「では、もう一度同じ痛みがあったときに呼んでください」
「でも……」
「本当にもう大丈夫ですから」
「わかりました、王妃様がそうおっしゃるなら」
 子那は納得できないようだったが雪葉の意見を尊重してくれた。頭痛よりもそれとともに見えた景色の方が気になる。燃えている場所はこの王城に似ているように見えた。だけど、思い出そうとすればするほど、頭の中にもやがかかったように不鮮明になっていく。いったい、あの景色はなんだろう。
 痛みとともに浮かぶ景色には、どこか見覚えがあるが思い出せない。痛みがすっかり治まるころ、仕事を終えた鳳炎が部屋にやってきた。
「本を本でいたのか、勤勉なことだな。狼芭がおまえのことを褒めていたぞ。飲み込みが早いと」
「そんな、狼芭の教え方が良いのですよ。鳳炎様、私の先生に狼芭を選んでくださってありがとうございました」
 嬉しそうな雪葉に、鳳炎は複雑な顔をする。鳳炎が寝具の上に腰かけたので、雪葉もその横に座った。
「どうかなさいましたか?」
「いや、狼芭が優秀な男であることは俺もよくわかっているのだが、おまえがそんなに褒めると複雑な気持ちになる」
 鳳炎はゆっくりと褥の上に雪葉の体を横たわらせるとその上に覆いかぶさってきた。精悍な鳳炎の顔がろうそくの明かりに照らされている。
「正直に言うとかなり妬ける」
「そんな、私は鳳炎様のことしか考えられないのに……」
 雪葉が答えると、鳳炎は耳元に顔を寄せてきた。さらりの流れる鳳炎の赤い髪が頬をなでる。
「そろそろ枕を共にしたい」
「え……」
 鳳炎の言葉に雪葉は顔を赤らめた。
「おまえの心の準備ができるまでと思っていたが、そろそろ俺の方は限界だ」
 翡翠色の瞳が熱を帯びている。雪葉は迷うことなく頷いた。
 鳳炎様が私を求めてくれるなら、私はそれに応えたい。
 不思議と恐れはなかった。
「はい」
 雪葉が頷くと、鳳炎は静かに口づけを落とした。ふたつの影はゆっくりとひとつに重なる。
 痛みは次第に心地よさに変わり、雪葉はその身を鳳炎に委ねた。

「俺の両親はお世辞にも仲が良いとは言えなかった」
 心地よい倦怠感でまどろんでいた雪葉の耳に、鳳炎の声が届く。
「そうなのですか?」
 雪葉は自分の両親のことを考えた。父と生みの母の仲は悪かった。それがほかでもない雪葉のせいであるのだから、思い出すだけで苦しい。
「俺は妃とは仲睦まじくありたいと思っていた。仲睦まじい夫婦でいたいからこそ、家柄ではなく、運命の相手を選びたかった。だから、紫苑に無理を言って片翼であるおまえを見つけてもらったのだ」
「鳳炎様……私を見つけ出してくださって本当にありがとうございました。私、今とても幸せです」
「俺もだ」
 再び口づけが落とされる。力強い鳳炎の腕に抱かれ、雪葉は深い眠りへ落ちていく。幸せな夜は瞬く間に過ぎていった。



 煌の国に嫁いで三か月の時が過ぎたころ、雪葉は食欲が失せ、月経も遅れて始めた。環境の変化に体が疲れてきているのではないかと雪葉の体を心配した子那が侍医を部屋に連れてきたのである。
「おめでとうございます」
 侍医は穏やかにほほ笑むと、雪葉にそう告げた。
「これからは定期的に診させてください。殿下には私のほうからお伝えしましょうか? いえ、やはり王妃様直々にお伝えしたほうがお喜びになるでしょうね、お願いできますか、王妃様」
「は、はい……」
 嬉しい気持ちと驚く気持ちが混ざり合って声が震えた。
 嬉しい、鳳炎様のお子を授かることが出来るなんて。鳳炎様は喜んでくれるかしら……。
 幸せな気持ちの波の後に、ふと、不安な気持ちもよぎる。なにかよくないことが起こるような気がする。
 いけない、素晴らしい命を得たときに不安なことを考えるなんてよくないわ。
 鳳炎と初めて枕を共にした日以来、頭痛は起こっていなかったが、突然得体の知れない不安とともにあの炎の景色を思い出す。
「王様、喜ばれますね! もう私ったら、王様は王妃様のことを溺愛されていらっしゃいますから、いつご懐妊なさっても良いのに、思いつきもしないなんて……! あぁ、お祝いのために忙しくなりますね! 嬉しいです! 本当におめでとうございます王妃様!」 
「ありがとう子那」
「絶対に美しいお子が生まれますよ、お会いするのが楽しみです」
 心から嬉しそうな子那の様子に、雪葉の心から不安の影が消えていく。
 大丈夫、悪いことは何も起こらないわ。鳳炎様がいらっしゃる限り、悪いことが起こるはずないではありませんか。
 雪葉は夜が来るのが待ち遠しかった。雪葉から鳳炎に伝える前に、他の誰にも話してほしくないと子那と侍医には話していたが、どうしたって頬が緩んでしまう。師範の狼芭には「なにか、良いことがありましたか」と意味深な笑みを浮かべられた。「まあ、大体想像がつきますが」というので焦ってしまう。
「想像がついてしまうのですか! それは困ります……」
「つきますが……大丈夫ですよ。僕は王妃様からは絶対に聞き出しませんし、僕自身はその想像の内容を誰にも言いません。万が一にでも鳳炎様が自分よりも僕の方が早く気がついていたなんて知ったらどんな気持ちになるか……くくっ。だから言えませんね、腹を立てた鳳炎様に国に帰れといわれたら嫌ですし」
「なんだか楽しそうですね狼芭」
「ええ、嬉しい話題ですからね。ああボロを出してしまう前に僕は退散しますよ。鳳炎様にどうぞよろしく」
 狼芭との勉強の時間はいつもよりも早く終わってしまった。雪葉も早く鳳炎に伝えたい。
 今夜は少し早くいらっしゃったらいいのに……なんて、鳳炎様はお忙しいのにわがままは言えないわ。
 思わずそんなことを考えていると、雪葉の思いが通じたのか、鳳炎はいつもよりも早い時間に訪れた。まだ日暮には遠い時間である。
「鳳炎様……!」
「雪葉、会いたかった」
「私もです」
 会うたびに鳳炎は雪葉を優しく抱きしめてくれる。そのぬくもりに包まれると、雪葉は改めて幸せを実感するのであった。
「鳳炎様、今日は鳳炎様にお伝えしたいことがあるのです」
「なんだ」
「あの、耳を寄せてくださいませんか」
 面と向かって言うのが急に恥ずかしくなった。鳳炎に少し屈んでもらうと、赤い髪に隠れた耳にそっとささやく。
「鳳炎様との間に御子を授かりました」
「……本当か?」
「はい、今日侍医に診ていただきました」
「でかしたぞ雪葉! よく身籠ってくれた! 俺たちの子だ、こんなに嬉しいことがあるか」
「喜んでいただけてよかった」
「喜ばないわけがあるか! だがしばらくはおまえを抱くことができなくなるな。抱きしめて眠るくらいは許してくれるだろうか」
「はい、もちろん」
 鳳炎が嬉しそうに笑うので、雪葉も自然と笑顔になる。
「祝宴を開かなければ、いや、おまえはそういうのはあまり好かないのだろうか」
「私は鳳炎様が喜んでくださったらそれだけでとても嬉しいのですが……でも、みんなにも伝わった方がいいことですよね」
「いやまて、もっと慎重になった方がいいかもしれない。良からぬことを考える輩がおまえに危害を加えなることも懸念しなければ」
「この国にそんなひとはいませんよ」
「いや、念には念を入れていた方がいい。紫苑と子那、一応狼芭にも知らせておいでやるか。おまえの実家には……」
 鳳炎の言葉を聞いた雪葉は瞳を伏せる。その表情を見た鳳炎は雪葉を優しく抱きしめた。
「おまえの実家にはみなに公表するときに伝えればいいだろう」
「あ、ありがとうございます。実は、私は家族のなかで撥ね物のような存在で……」
「すまない、おまえの赤い瞳を家族が忌避していたと知っていたのに配慮のないことを言った」
「いえ、謝らないでください。私がこの赤い瞳を恥じることはもうありません。今では誇らしいのです、鳳炎様の髪と同じ色のこの瞳が」
「初めから恥じる必要などないというのに。おまえの瞳は実に美しい」
 鳳炎に見つめられると頬が熱くなる。
「あぁ、このままおまえを抱いてしまいたい。だが腹の子に支障が在ってはいけないから耐えなければいけないな」
 鳳炎は苦しそうに顔をゆがめると、雪葉をもう一度優しく抱きしめる。
「こんなに嬉しい悩みは始めてだ」
「鳳炎様、こんなに幸せで良いのでしょうか。まるで一生分の幸せを使い果たしてしまったみたいです」
「幸せに際限などあるものか、これからもおまえの幸せは永遠に続く。それは俺にとっても同じことだ」
「はい」
 雪葉は目頭が熱くなるのを感じた。
 そうだよ、幸せというのはきっと限りがあるものではないのでしょう。私が鳳炎様のおかげで幸せであるように、私も鳳炎様を幸せにしていきたい。
 雪葉はそう誓った。
 暖かな時間の流れる窓の外では、暗い雲が流れてきていた。もうじき煌の国にも冬が訪れる。降雪を告げる羽根虫が、ちらちら、ちらちらと舞い始めていた。