激しい風が吹き荒れ、あっという間に王城に火の手が回った。(きら)の国を守護するはずの炎が、風に操られて王城を焼いている。いったい何が起こっているというのか。
 雪葉(ゆきは)は侍女の子那(しな)とともに城から宮女たちを避難させると自分たちも脱出を試みる。
「王妃様!」
 雪葉の目の前に柱が倒れてくる。足がすくんで逃げられない。目を固くつぶると「雪葉!」と自分を呼ぶ声とともに落ちてくる柱が払われる。熱風をかき消すように力強い腕が伸びてきて、そのまま雪葉を抱きしめた。
「無事か雪葉!」
鳳炎(ホウエン)様!」
「早く逃げろ、ここはもう火が回っている。(はやて)の国の進軍が早すぎる。もしかしたら、誰か手引きしたものがいるのかもしれない。とにかくここは危険だ、紫苑が退路を築いているはずだから、急いで逃げろ」
「では、鳳炎様も一緒に……急ぎましょう!」
 雪葉が城の主である夫を見上げると鳳炎は首を横に振った。
「俺は殿を務める」
「いけません! 鳳炎様がいなくては、誰がこの国を守るのですか!」
 雪葉が必死に訴えると、鳳炎は優しい表情で雪葉を見つめ、その腹部にそっと手を当てる。
「大丈夫だ、俺には火龍の加護がある。それに、俺に万が一のことがあったとしても、おまえさえ生きていてくれたら、この国は必ず建て直る。必ず生きのびて丈夫な子を産んでほしい」
「嫌です! 鳳炎様も一緒に!」
「民は俺が守る。だから、国はおまえが守ってくれ。頼む雪葉」
「鳳炎様……」
「俺のような無骨な男のもとに嫁いできてくれてありがとう雪葉。愛している、どうか逃げ切ってくれ」
「嫌です鳳炎様!」
 しがみつく雪葉に、鳳炎は口づけを落とす。
「生きてくれ雪葉」
「鳳炎様……!」
「子那、雪葉を頼む」
「わかりました。急ぎましょう王妃様!」
 雪葉はぐっと唇を噛むと、大きな瞳に涙をためたまま鳳炎の顔を見た。
「綺麗な色だ。おまえのこの瞳が、俺はとても好きだ」
 嫁いできてから、鳳炎が何度も言ってくれた言葉だ。雪葉は懸命に口を引き結び、こぼれそうになる涙をこらえた。
「鳳炎様、どうかご無事で! ご武運を祈ります」
「おまえも」
 もう一度かたく抱き合ったあと、雪葉は鳳炎と別れて城の外を目指して逃げる。
「あ!」
 遠くで、剣が交わる音が聞こえた。鳳炎が交戦している。いくつもの足音が聞こえ、交わる剣の音が響き、歓声が上がった。
 突然、体の中に熱いものが流れ込んでくる。火龍の加護が、お腹の子に宿ったのだ。それは、夫である鳳炎が倒れた証拠である。
 火龍のご加護があるはずなのに、どうして鳳炎様が……!
「鳳炎様! 鳳炎様!」
「いけません、王妃様!」
「でも!」
「王妃様は生きのびなくてはいけません!」
 その時、柱が崩れて雪葉の上に天井が落ちてきた。
「王妃様!!!」
 熱い、痛い、まだ死ぬわけにはいかないのに……! 体が思うように動かない!!!

 おまえのその瞳が、この国を滅ぼす

 頭の中で声が響く。聞き覚えがあるはずなのに、誰の声なのか思い出せない。高らかな笑い声が炎の中に溶けていく。
 嫌だ、この国を滅ぼさせはしない。必死にもがいて、手をのばした。すると、何かにすっと引き上げられるような感覚がした。まるで翼が生えたかのようにそのまま体が持ち上がり、燃え盛る炎が視界いっぱいに広がる。
 炎が体を包んでいるというのに、不思議と熱さは感じなかった。
 心地よい炎に抱かれると、急に睡魔が襲ってくる。
 眠っている場合ではないのに、私は、逃げて煌の国を立て直さなければいけないのに……!
 頬を一筋の涙が流れ落ちる。必死に抵抗していたが、雪葉は遂に意識を失った。



 現世と幽世の狭間には、五色の龍が治める大陸があった。大陸は五つの国に別れ、各々の龍が加護を授けていたそうだ。龍の力の多くはその国の王に宿り、残りの一部はその伴侶となるものに宿った。龍の力の一部を持ったものを龍の片翼と呼ぶ。
 各国の王は自分の片翼を探そうとしたが、片翼がどこに生まれるのかを知るすべはなく、己の片翼を得られた王は数えるほどしかいないという。
 大陸の東に、五色の龍のひとつ、火龍の加護を受けた火龍王が治める煌という国がある。残忍な火龍王はひとびとに恐れられ、恐怖に支配されたこの国は他国との国交がほとんどない。
 煌の国境外れに、赤い瞳の少女がいた。呪われた赤い瞳の少女は長くその存在を隠されてきたという。少女が火龍王の片翼として、見つけ出されるまでは。

「雪葉、雪葉いつまで眠っているの、急がないと迎えの方々が到着するのよ!」
 遠い声が聞こえる。
「ああ、ようやく厄介払いができるわ。それにしても、お美しい麗花様ではなくて、まさか雪葉をお選びになるなんて驚いたわ。こんな不吉な瞳の娘がよいだなんて、今代の火龍王様は変わった方でいらっしゃること」
 次第に声が鮮明に聞こえる。聞き覚えのある声は、雪葉の家に仕えていた女の声だ。雪葉の瞳の色が不気味だといつも陰口をたたいていた。
 雪葉には美しい艶のある黒色の瞳をした妹の麗花がいた。
 血のように赤い雪葉の瞳は両親に似ず、父親は雪葉の母親の不貞を疑った。どんなに否定しても雪葉が父に自分の子供であると認められることはなく、生みの母は悲しみの中、雪葉の瞳を呪いながら病で亡くなった。
 後に妻の座についた女が産んだ子供が妹の麗花だ。自分とよく似た黒い瞳の麗花のことを父は溺愛した。
 噂に聞けば風龍王の治める颯の国において、赤い瞳は不吉の象徴であるそうだ。父親は決して雪葉を認知しようとはせず、家の中に閉じ込めてその存在をずっと隠してきた。
 幼いころから陰口を叩かれることには慣れていたはずなのに、今の雪葉には女の言葉がトゲのように刺さった。
 そうだわ、鳳炎様が、この瞳の色を綺麗だと言ってくれたから。
 そうだ、鳳炎様は! 煌の国は!
 勢いよく起き上がると、呆れた顔の女が立っている。
「雪葉、ようやく目が覚めたの? 本当にだらしのない子だこと。急ぎなさい、支度を整えないと、そんな身なりで嫁いだら、いくら野蛮な火龍王といえどもあんたを送り返してくるよ」
「支度、ですか…?」
「おや忘れていたのかい? 呆れたものだ。今日はおまえが煌の国の火龍王、鳳炎様に嫁ぐ日じゃないか。もう少ししっかりしなさいよ、恥ずかしいったらありゃしない」
「本当ですか! それは、どういう……あの、今日の暦はいつですか!」
「はあ? ついに頭までおかしくなってしまったのかい? つべこべ言わずに起きて支度を整えな。私たちも仕事が進まなくて困ってるんだよ、本当に愚図でのろまなんだから」
 わからない。さっきまで自分は滅びゆく煌から逃げようとしていたのだ。
 はっとして腹部に手を当てる。鳳炎様の子を身籠っていたはずだが、わずかにふっくらとし始めていたはずのお腹は何事もなかったかのようにぺたりとしている。
 雪葉はわけも分からず女に促されるまま身支度をさせられた。
 見覚えのある衣装だ。煌の国に嫁ぐために用意された質素な婚礼衣装。純白であるはずの白無垢は、どこか薄汚れているように見えた。
「いくら王様の妃とはいえ、火龍王といえば野蛮なことで有名ですからね、うちの大切な麗花様が選ばれなくて本当によかったですよ」
「もうあの呪われた瞳を見ることもないと思えば清々しますしね、あの不吉な娘が多額の結納金に変わったそうではありませんか、本当にありがたいことです」
 聞き覚えのある会話だ。雪葉が嫁ぐ日に聞いた言葉と同じである。
 夢を見ているのだろうか。それにしてはあまりに現実味のある夢だ。
 手の甲をつねると確かな痛みを感じた。夢ではない。ということは、これまで長い夢を見ていたというのか。あの炎の熱さや、鳳炎に抱きしめられた感覚までしっかりと覚えているというのに。時間が、戻ってしまったかのような不思議な感覚がした。
 すっかり身支度が整うと、雪葉は迎えの使者が用意してきた馬車に乗り込む。迎えに来たのは鳳炎が信頼する紫苑だった。紫苑は鳳炎の叔父にあたる。記憶に残る、以前迎えに来たひとと同じだ。
 退路を築いてくれていた紫苑はあの戦で生き延びることができたのだろうか。雪葉は込み上げてくる思いを必死で抑え込む。今の紫苑はまだ雪葉のことをよく知らない。親しく声をかけても怪訝に思われるだろう。
 いよいよ出発の時が来たが、驚くほどに見送りが少ない。火龍王から雪葉を妃に迎えたいと知らせが来たとき、継母は慌てて雪葉を自分の養女だと紹介した。支度金が欲しかったからだろう、身寄りのない雪葉を育ててやったと恩着せがましく話していた。
「雪葉、どうか元気で」
「火龍王様によくお仕えするのですよ」
 父と義理の母は形ばかりのあいさつを述べる。厄介払いができて清々したというのが本心なのがよくわかる。別れを惜しむわけではない。妹の麗花は袖で涙をぬぐう素振りを見せた。
「お姉様がいなくなると寂しくなります。道中お気をつけて」
 麗花が袖の下で笑みを浮かべているのが見える。雪葉のことを姉などとただの一度も呼んだことがないというのに、まるで仲のよかった姉妹であったかのように振る舞う麗花から視線を外す。雪葉が残忍な火龍王の妃になることが面白くてたまらないのだろう。
 麗花は昔から雪葉が不憫な目に遭うと、いつも愉快そうにしていた。
 そんな麗花さんとも、今日でお別れね。あぁ、以前は顔も知らない火龍王に嫁ぐことが不安でたまらなかったのに、今は少しも不安がない。それどころか待ち望んですらいる。当然だわ、夫となる鳳炎様のことを心からいとおしいと思っているから。こんな気持ちになるのは私が彼のことを知っているから。やっぱり、記憶の中に残る煌の国の陥落は夢ではない気がする。私はたしかに火龍王様を知っている。
 夢の全ては実際に起こったことで、私、もしかしたら過去に戻ってきたのではないかしら。そうだ、これは火龍の加護かもしれない。きっと、お腹に宿った子が私を助けてくれたのだ。もしも過去にもどってきたというなら、あの未来を変えなければ!
 あの子もきっとそれを望んでいる。
 雪葉は自分が体験した戦、いや、颯の国による一方的な襲撃について思い出していた。
 颯の王、風龍王は風の加護を受けている。その風のせいで城内への火の回りがとても早かったのだ。敵兵の潜入もありえないほどに早かった。考えられる理由はひとつ、鳳炎も言っていたではないか、誰かが手引きをした可能性があると。
 煌の国のなかに裏切者がいたのだ。戦が起こる前に、それが誰であったのかを突き止め、颯の国の襲撃を避けなければいけない。
「緊張しておられるのですか」
 馬車の外から紫苑が声をかけてくる。 
「はい、少し。ですが、不安はありません」
「それは安心いたしました。どうやら、颯の国での火龍王の評判はあまりよくないようですから」
 野蛮で、冷酷、あの鳳炎様にどうしてそんな噂が立っているのだろうと、雪葉は不思議に思った。記憶の中に残る鳳炎は雪葉を大切にしてくれた。
「大丈夫ですよ、噂というものはあまりあてになりませんから。王はあなたがいらっしゃるのを心待ちにしておりますよ」
 ああ、やはり聞き覚えのある会話だ。一度目のとき、不安でいっぱいだった私にも同じ言葉をかけてくれた。おかげで不安が少し和らいだのを覚えている。
 鳳炎様、早くお会いしたい……!
 煌の国に着くまでの時間が途方もなく長く感じる。雪葉が住んでいたのは火龍王の治める煌の国の東の国、颯の鄙で、煌との国境に最も近い場所だった。鄙ではあったが、肥沃な土地は農業に恵まれ、一帯を治めていた実家は裕福であった。
 西の隣国にあたる煌の国から、雪葉のもとに結婚の話がきたのが一月前のことである。
 父と継母にとって、赤い瞳を持つ前妻の子、雪葉は家の荷物にほかならず、冷酷で残忍と名高い隣国の王に雪葉を差し出すことを厭うわけがなかった。
「気味の悪い雪葉が王の妃になるとは、運の良いことだ。この土地といい、我が家はつくづくついている。まぁ、妃といってもあの火龍王の妃だがな。雪葉の瞳のことで風龍王からとがめられることがあるかもしれないが、すでに生みの親が申請を出していたのだと思ったとしらを切ればいい」
「そうですね、仮に何か要求されても、きっと火龍王様が対応してくださいますよ。もうあの王の妃なのですから、我が家とは無関係です。厄介払いができてちょうどよいではありませんか。あんな娘、いないに越したことはありません。そもそも、あなたの子かどうかも怪しいではありませんか」
「そうだな、あの子を見るたびに妻の不貞を思い出して気分が悪かったのだ、清々する」
 家の中での中心はいつも麗花であった。父のふたつ返事で雪葉の結婚が決まったことを覚えている。
 当時は不安が大きかった。
「あの山を越えると平地になりますが、王城はその向こうの岩壁をくり抜いて作っています」
 紫苑が煌の国の地形を説明してくれる。火龍王の王城はそびえ立つ岩壁が天然の要塞となり、難攻不落と言われていた。
 でも、城は落ちたわ。誰かの手引きによって颯の国に落とされた。
 雪葉は燃え盛る王城の様子を思い出して首を横に振った。もう二度と、鳳炎様を死なせたりはしない。

 そう、心に決めたというのに。

 馬車は平野を進み、国境を越えていく。その瞬間、頭に強い衝撃を受けた。
「うぅ……」
 頭が割れるように痛い。雪葉は頭を抱えて必死に痛みに耐えた。
「雪葉様、どうかされましたか」
 雪葉のうめき声を聞いて紫音が心配そうな声をかけてくる。
「突然頭が痛くなってしまって……」
「それはいけません、次の町で休憩を取らせましょう」
 紫音はそう言ってくれたが、国境を超えると痛みはころりと消えた。
「あの、痛みが引いたみたいです。休憩は必要なさそうです」
「そうですか? では先を急ぎますが、どうかご無理はなさらないでください。念のため王城に着きましたら侍医に診させましょう」
「ありがとうございます」
 あれ……。
 雪葉は違和感を覚えた。
 私、なにか大事なことを考えていなかったかしら。
 何か、とても大切な使命をもって煌の国へと向かっていたような気がするのに、頭の中はもやがかかったみたいに不鮮明で少しも思い出せない。
 同時に不安が襲ってくる。火龍王様は、いったいどんな方なのだろう(・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・)。噂に違わぬ冷酷非道な男であったなら、自分は上手くやっていけるのかと。
 雪葉の不安をよそに旅は順調に進み、馬車は王城へとたどり着いた。
「おや、鳳炎様、待ちきれずに出てきてしまわれたのですか? しょうがないおひとだ」
「そういうな、ようやく俺の片翼が嫁いできたというのに、大人しくしていられるか」
 低く響く声が、心地よく耳を撫でる。胸がドキドキと高鳴った。
 私、この声を知っているような気がする。どうしてだろう。
「さあ、王が王妃様のご到着をお待ちですよ」
 馬車の扉が開かれる。目の前に火龍王がいる。その存在を感じ取った瞬間、雪葉は心臓が強くつかまれたかのような衝撃を受けた。恐る恐る視線を上げると、燃えるように赤い髪が視界に飛び込んでくる。その赤い髪の下で、ふたつの翡翠色の瞳が優しく雪葉を見つめていた。
「心待ちにしていた、我が片翼。よく俺のもとに来てくれた」
「は、はい……」
「俺は火龍王、鳳炎。この煌の国を統べる王だ。おまえの夫となる男だ」
「ほう、 えん様……」
 噂のような残忍さは少しも感じられない優しい瞳だ。淡い翡翠色の瞳に見つめられ、雪葉は慌てて頭を下げた。
「颯の国の浪州から参りました、雪葉と申します」
「知っている。雪葉、俺の片翼。ずっとおまえを探していた」
「私を、ですか?」
「ずいぶんと苦労したぞ」
 鳳炎は深くうなずくと、優しい手つきで雪葉の頬に触れる。ごつごつと骨ばった大きな手が、雪葉の小さな頬を包む。
「美しい瞳だ」
「私の、瞳ですか……?」
 まさか、そんなはずはない。生まれてからこの方、この赤い瞳は不吉の象徴だった。
「そうだ、美しい緋色だ」
「そんなはずはありません……私の瞳は、不吉なのです」
 思わず視線を下げると、鳳炎の大きな手が今度は雪葉の顎に触れた。そのままくっと顔を上げさせられる。
「うつむくな、顔を上げろ。おまえの瞳は美しい。俺の髪の色と似ているだろう? おまえは、俺の髪を不吉だと思うのか?」
「鳳炎様の……」
 目の前に立つ美しい男の髪を見る。燃えるように赤い髪の色は、確かに雪葉の瞳の色に似ていた。夕焼けの空を思わせる燃えるような赤いその髪を、雪葉はとても美しいと思った。
「本当……鳳炎様の髪の色にそっくり、かもしれません」
「そうだろう、おまえの瞳は美しい赤色だ。俺の片翼である証。雪葉、俺はおまえをいつくしみ、心から愛すると誓おう。どうか、俺の妃になってくれ」
 私、このひとのことを知っているような気がする……。
 既視感を感じながら、雪葉は自分の胸が高鳴っていることに気がついた。初めて会ったひとだというのに、愛しさがあふれてくるのはどうしてだろう。
「はい……」
 答えると、翡翠の瞳が優しく細められた。
「よかった、煌の国はおまえを歓迎する」
 本当に、私なんかを望んでくれるひとが、国があるの?
 鳳炎の声から温かさを感じた雪葉は、一筋の涙を流した。
「おい、泣くな。俺に嫁ぐのがそんなに嫌だったのか……」
「すみません、違うのです。嬉しくて……」
 雪葉が答えると鳳炎はほっとしたような表情になる。
「鳳炎様、道中雪葉様は強い頭痛を訴えられていました。長旅での疲れもあると思います、今日は早くお休みになられた方が良いかろ」
「それは本当か! なにかあってはいけない、早く侍医を呼んでこい」
「あ、あの、もう大丈夫です。国境を超える辺りでひどい頭痛がしたのは本当ですが、今はなんともありません」
「それでも、なにか悪い病があってはいけない。一度診せた方がいい。紫苑の言うように長旅で疲れているだろう、今夜はよく休んでくれ」
「ありがとうございます」
 鳳炎はそういうと、雪葉の頬にそっと口づけを落とした。驚きのあまり雪葉は小さく震える。
「本当は唇にしたいところだが、今はこれで我慢する。さあ、行ってこい、俺もあとでおまえのもとを尋ねる」
 鳳炎は魅力的な笑みを浮かべると、侍医のもとへ向かうよう促した。思わず頬が熱くなる。
「まったく、あんな様子からは少しも想像できないかもしれませんが、もともとは硬派なお方なのですよ。どうか勘違いなさらないでください、片翼であられる雪葉様を前に少々浮かれておいでのようです」
 紫苑が呆れたような声でそう言ったが、表情は笑っている。まるで親が子供を見るような表情だ。
「あの、失礼ですが紫苑様は鳳炎様と親しい間柄なのでしょうか?」
「紫苑とお呼びください王妃様。えぇ、彼の母は私の姉でしたから私は鳳炎様の叔父になります。鳳炎様は先王の崩御で一国の王になられましたが私にとってはまだまだ可愛い甥っ子です」
「仲がよろしいのですね」
 微笑ましい気持ちで尋ねると、紫苑は照れたように耳の後ろをかいた。
「いつまでも子ども扱いするなと時折怒られます。では王妃様、侍医を呼びますから王妃様のお部屋に向かいましょう」
「はい」
 雪葉の自室は鳳炎のすぐ隣に位置していた。南向きの日当たりの良い部屋で、清潔感がある。手入れが行き届いているのだろう。部屋の中にはひとりの若い少女がいた。緊張した面持ちで部屋の中を掃除していた彼女は、雪葉の姿を見つけると深く頭を下げた。
「王妃様付きの侍女の子那です。若いですが気の利く働き者です」
「し、子那と申します」
 子那を見た瞬間。子那を抱きしめたくなった。なぜか、ずっと前から知っていたような、古い友人に再会した時のような懐かしさがある。
 おかしいわ、私に友達なんかいたことはないのに。
「雪葉です。よろしく子那」
「は、はい! 私、一生懸命王妃様にお仕えいたします!」
 雪葉と同い年くらいだろう、頬を赤く染めた子那のことを、雪葉はとても可愛らしいと思った。
「良いお部屋でしょう。必ず片翼を迎え入れるのだと仰って、一番良い部屋を空けていらっしゃったのです。他の国の王宮は平面で王妃様はひとつの社殿で生活なさることが多いのではないかと思いますが、この国では岸壁をくりぬいた城の形をしていますから、あまり広い部屋を作ることができません。少々手狭かもしれませんがご容赦ください」
「狭いだなんてとんでもないことです。広くて明るく、素敵なお部屋です。そうだ紫苑、あなたに尋ねたいことがあったのです。その、片翼というのはなんでしょうか」
「王妃様がご存じないのも無理はありません。片翼というのは、王の(つがい)のことでございます。王家に仕えるものや、都に住む民くらいは片翼の存在を知っているかもしれませんが、鄙まで知れていることはないでしょう。この大陸には五つの龍が在り、五つの国がございます。そのひとつであるこの煌国の王にも、当然対になる方がいらっしゃいます、それが雪葉様ですよ」
「王の妃というのは、その、必ず対になる方がなるものなのですか? それが私だなんて……」
 にわかには信じられない。雪葉の問いかけに、紫苑は悲しそうに瞳を伏せて首を横に振った。
「王の片翼はそうそう見つかるものではございません。自国にお生まれになるとは限りませんし、そもそも必ず現れるものではないようです。先王様も片翼を見つけることは叶わず、政治のことを考えて私の姉を妻に迎え入れました。雪葉様という片翼を運よく見つけ、妃に迎え入れることが出来た鳳炎様は実に幸運な方でございます。この国は安泰ですよ」
「それは私にとっても同じです。私は運命の方である鳳炎様に見つけていただけてとても幸運でした」
 そうでなければ、いまだあの場所で赤い瞳を気味悪がられたことだろう。雪葉の言葉に紫苑は面食らったような表情になる。それから優しく目じりを下げた。
「えぇ、本当におふたりが出会えたことは互いにとって幸運でしたね、子那、王妃様のために温かいお茶でも淹れて差し上げなさい」
「すみません私ったら! すぐに用意いたします」
 子那が慌てて部屋を出ていくと、侍医が雪葉の部屋を訪れた。初老の男は雪葉の診察を終え、「王妃様は健康そのものでございます。どこにも問題はございません」と診断した。
「もしもまたひどい頭痛が怒るようなことがあれば教えてください」
「わかりました、ありがとうございます」
 侍医はにっこりと穏やかな笑みを残して雪葉の部屋を出た。入れ替わりに鳳炎と子那が入ってくる、鳳炎手に赤い花束を持っていた。気を利かせたのか、子那は急いでお茶を淹れ終えると紫苑と一緒に部屋の外へ出ていく。
「部屋は気に入ったか? 手狭ですまない」
「とても広いです、それにとても素敵なお部屋で私にはもったいないくらいです。とても、とても気に入りました!」
「それはよかった、花瓶に生ける花を摘んできた。南の庭園に咲く芍薬の花だ」
「ありがとうございます。とってもきれい」
 鳳炎はそのうちの一輪を抜き取り、雪葉の髪にさす。
「よく似合う」
 翡翠色の優しい瞳に見つめられて頬が熱くなる。
 鳳炎様のことがたまらなく愛しいと感じるのは、私にとって運命の相手だからだろう。だけど、それだけではない。心の中からあふれ出るようなこの想いは、きっとそれだけではない。そんな気がする。なんだろう、何かしなければいけないのに、それを思い出せない。不思議と涙が浮かぶ。
「どうした」
 心配そうな顔した鳳炎の指がほろりと流れ落ちた涙のしずくをすくい上げる。
「あなたのことが、たまらなく愛おしいのです」
 そして、失いたくないと強く思う。おかしなことだと雪葉は思った。会ったばかりだというのに、どうしてそんな気持ちになるといいうのか。
「俺もだ、おまえのことが愛しくてたまらない。これはおまえが俺の片翼だからなのだろう。こんな気持ちになるのは初めてだ」
 互いに同じ気持ちだと思うと、自然と顔がほころぶ。涙はすっかり消えていた。
「私、鳳炎様のことを知りたいです。互いにたくさんのことを共有して、心の通じ合う夫婦になりたいと思います」
「では、可能な限りの時間をおまえと共に過ごそう」
「ありがとうございます」
「おまえが嫌でなかったら、抱きしめてもいいだろうか」
「もちろんです、嫌なはずはありません」
 翡翠色の瞳がすっと細められ、雪葉に愛おしそうな視線を向けてくる。うなずくと雪葉は鳳炎に抱きすくめられた。 
「雪葉」
「はい」
「俺のもとに来てくれてありがとう」
「鳳炎様も、私を見つけてくださってありがとうございます」
 温かな腕に抱かれた雪葉は、大きな幸せを感じた。