重ねて行われた市町村合併により、多くの因習村が地図上から名前を消した。

 そして、かつては因習村の一族だった者たちも、都会へと出てきて一般的な家庭を築いた。

 世の中の大勢にとっては、何の問題もなかったが、それは勝手な言い分である。

 残された人ならざる存在の要望を叶えるため、現代では公的な機関が設置された。



『異類婚姻マッチングセンター』



 都道府県庁所在地ごとに開設され、たまにSNSのトレンドで、謎のキーワードとして浮上する。

 ただし、やはり無関係な人にとっては、与り知らぬものであった。



 大都市に住む山上サエもまた、親展と書かれた分厚い封筒が届くまで、無関係な一人だった。

 新手の詐欺かと疑いながら書類に目を通し、その荒唐無稽さに、逆にこれは詐欺ではないと確信する。



「私が蜘蛛の神様とマッチング? なんの冗談なの……」



 サエは蜘蛛が大の苦手だ。

 特に大きな蜘蛛を見たら、絶叫して卒倒する自信がある。



「……花嫁候補に選ばれた人は、ここに行かなくちゃいけないのね」



 しぶしぶ案内状に書かれた場所を確認すると、大きな繁華街の中にあった。

 これならバスを乗り継いで行けそうだ。



「平日昼間しか開いてないから、有給を申請しないといけないわ……上司に理由を聞かれたら、何て言えばいいの?」



 ◇◆◇◆



 休みをもらって当日、戸惑いつつもサエはなんとか、異類婚姻マッチングセンターへたどり着く。

 外観は四角四面な区役所そのもので、公的な機関というのは嘘ではないようだ。

 レンガ調のホールを通り過ぎると、奥にはカウンター席がいくつか並んでいた。

 サエが番号札のレシートを取れば、ただいまの待ち人数が3人へと変わる。



「6番の方、こちらへどうぞ」



 受付係に番号を呼ばれ、サエは窓口の前の椅子へ腰掛ける。

 担当者のネームプレートには、「鶴岡」と書かれていた。

 黒髪をぴっちりとシニヨンにまとめ、度の強い眼鏡をかけている同世代くらいの女性だ。

 ただ、これから何が始まるのか分からず、サエは心もとない。



「異類婚姻マッチングセンターについて、まずは簡単な説明をさせていただきます」



 外見通りのピシリとした喋り方で、鶴岡が先陣を切る。

 正直、サエにとっては助かった。

 事前にホームページも閲覧してみたが、理解の範疇を超えていたのだ。

 この世に神様やあやかしがいる前提で解説が進むので、まずはそこで躓き、頭の中が疑問符だらけになったのは、現代に生きる身として仕方ないだろう。



「こちらでは人外さまに相応しい花嫁さまを、遺伝子レベルで検索しておりまして――」



 じっくり聞く姿勢だったサエだが、つい手を挙げて鶴岡を遮ってしまう。



「あの……ジンガイさまって、何ですか?」



 鶴岡の動きがぴたりと止まった。

 続けて手元のタブレットを操作して、サエの個人情報を確認する。



「山上サエさま……24歳……祖父母はすでに他界……両親とは6年前から別居……現在のお住まいは……」



 うんうんと頷くと、鶴岡は顔を上げた。



「どうやら山上さまは、ご自身のご先祖さまについて、あまり詳しくないようですね。せっかくですから、合わせてお話しさせてもらいますね」

「はあ……」

 

 なんだか長くなりそうで、帰りに立ち寄るつもりだったカフェの、春季限定いちごパフェをサエは諦めた。



「山上さまのご先祖さまは、苗字の通り山の上に暮らし、土蜘蛛さまを山の主として祀っていたんです。土蜘蛛さまと言うのが、山上さまとマッチングした人外さまになります」

「土蜘蛛さま?」

「わたくしどもは、神様やあやかしをまとめて人外さまと呼んでいるのですが、土蜘蛛さまは蜘蛛の神様でいらっしゃいます」

 

 すんなりとは入ってこないが、ゆっくり咀嚼して飲み込んでいく。

 そんなサエの速度に合わせて、鶴岡は説明を続けた。



「土蜘蛛さまから花嫁を迎えたいとの要望があり、わたくしどもは山上家の血族の中から、最も土蜘蛛さまとマッチングするお嬢さまを探しました」



 お嬢さまと呼ばれたのは初めてで、サエはなんだか落ち着かない。

 

「その結果、もっとも血筋の濃いサエさまが選ばれたという訳です。時代が時代ならば、サエさまは城主の娘、身分はお姫さまなんですよ」

「うちは一般的な家庭で、父も私も普通の会社員ですけど?」

「市町村合併の折に、多くの地方城主が同じ憂き目にあっています。これは政策の弊害としか言えないのですが……」

 

 鶴岡はしんみりした顔をしているが、城主の娘という自覚がないサエには実感が湧かない。

 お姫さまと呼ばれるのも、蜘蛛の神様の花嫁に選ばれるのも、どこか現実的でないのだ。



「何かの間違いじゃないでしょうか? 実は私、蜘蛛が大の苦手で……」

「あら、そうなんですか?」



 眼鏡をくいっと持ち上げると、鶴岡は再びタブレットを操作する。

 何らかの情報をスワイプして呼び出し、項目を丁寧にチェックしていた。



「土蜘蛛さまは人型になれますが、それでも駄目でしょうか?」

「人型……人間の姿ってことですか?」

「ちなみに、こんな感じです」



 くるりとタブレットの画面をこちらに向ける。

 そこには、歌舞伎役者が振り回している獅子みたいな白い髪と、赤い瞳をしたイケメンの全身像が映っていた。

 若いのに粋な和服を着こなし、カメラへ視線を向け、一見モデルか俳優かと思わなくもない。

 ただし、サエがぐっと顔を寄せ、しげしげと間違い探しをすると、やはり人間とは異なる部分が見つかる。



「腕が6本ありますね。それに、赤い瞳の下に……」

「土蜘蛛さまは8個の目をお持ちです。人型のときはこうして、2個の目の下に、ほくろのように点在させているようですね」



 鶴岡の指摘に改めて、蜘蛛なんだなと腑に落ちる。

 ぞわりと立った鳥肌を、サエはそれとなく擦った。

 その仕種を見て、鶴岡が提案をしてきた。



「蜘蛛が苦手だと、土蜘蛛さまに伝えてみましょう。善処してくれるかもしれません」



 そして通話アプリを起動させる。

 軽快に履歴をタップしているが、一体どこにかけているのか。



「スピーカーにしますので、サエさまの声も入ります。ご遠慮なく発言してくださいね」

「これは誰と……?」



『なんだ?』



 サエの質問が終わる前に、相手へと繋がった。

 低すぎず、高すぎず、よく通る声には品格がある。

 もしかしなくても、これが土蜘蛛さまか、とサエは仰天した。

 神様を通話アプリで呼び出すなんて、一般人の常識にはない。



「異類婚姻マッチングセンターの鶴岡です。ただいま、土蜘蛛さまのご要望に最適なお嬢さまと、面談をしています」

『もう見つかったのか!?』



 がたっと音がした。

 サエも鶴岡も動いていないので、土蜘蛛側の音をマイクが拾ったのだろう。

 

「ところが少々、問題が発生しております。山上家のご息女サエさまを選出いたしましたが、ご本人さまは蜘蛛が苦手だそうです」

『サエ――良い名だ。私はまにゅあるに則って、常日頃から人型をとっているが、それでも駄目だろうか?』

 

 鶴岡がサエの顔を窺う。

 土蜘蛛の質問に対する回答を、待っているのだろう。



「マニュアルがあるんですか?」



 しかし、サエが気になったのは別のところだった。

 サエの疑問には、鶴岡が応じる。



「最近は人外さまと接触した経験がない人ばかりなので、人外さまに『花嫁に怖がられないためのマニュアル』が配布されているんです」

『それに従って、私も努力をしている』



 自負心に満ちた土蜘蛛の言葉が続いた。

 人外の側に配慮を求めるのは、ちょっと図々しくはないだろうか。

 しかし、その内容には興味が引かれる。

 

「ちなみに人型になる以外には、どんなことが記載されているんですか?」



 怖いと思っているのは自分だけじゃないんだ、という安心感がサエの発言を後押しした。



『人間のこみゅにけーしょん方法を身につける、とある。花嫁の許可なくやたらと触らないとか、美味しそうは誉め言葉じゃないとか、閉じ込めるのは愛の形ではないとか――』

 

 土蜘蛛が読み上げる内容に、サエの顔色が悪くなる。

 これは確かにマニュアルがないと、とんでもないことになりそうだ。



『他にも、花嫁のために人間らしい生活ができる空間を整える、とある。私は腕が6本あるから、箒掃きや雑巾がけが得意だ。だが煮炊きをしているときは、たまに腕がこんがらがる』

 

 6本の腕を駆使して、掃除や料理をしているのか。

 想像すると、なんだか可笑しい。

 ふた昔前の花嫁修業さながら、割烹着を身につけた土蜘蛛が、家事に奮闘する様子をサエは思い浮かべた。

 意識が内に向かったことで黙り込んでしまったサエに、反応の悪さを感じたのだろう。

 気落ちした土蜘蛛が、しょんぼりと尋ねる。



『……サエは、蜘蛛のどんなところが嫌なのだろうか?』



 ここは正直に打ち明けるのが誠実というものだろう。

 サエは土蜘蛛を傷つけるかもしれないと分かっていても、苦手意識を覚える箇所を挙げていった。

 

「足や目がたくさんあるところ……」

『腕は4本ほど、着物の下へ隠そう。目には上から、絆創膏でも貼ろうか』

「毛むくじゃらなところ……」

『よく知っているな。しかし、対策はばっちりだ。めんずえすて御用達という、最新の脱毛器具を使っている』

「音もなく急に現れるところ……」

『歩くときはなるべく、足音を立てるようにしよう』

「糸を張るところ……」

『無意識に張ってしまうかもしれないが、すぐに片付ける。私は、はたき掛けにも自信がある』

「天井や壁を這うところ……」

『人型でいるときは、天井や壁には張り付けない。どうか安心して欲しい』

 

 サエが列挙する嫌いポイントに、土蜘蛛がひとつひとつ改善案を述べていく。

 なにより必死なその様子に、サエは若干絆されつつあった。



「サエさま、どうでしょう? 土蜘蛛さまの努力で、折り合いがつきそうですか?」



 鶴岡に促されるが、あと一歩が踏み出せない。

 なにせ人外との結婚など、これまでの人生の予定にはなかったことだ。

 大事なことなので、勢いに任せたくないとサエは悩む。

 

「今ここで、結論を出すのは難しそうです。もう少し考えてもいいですか?」

「もちろんです。よければ、お見合いのセッティングもできますよ」



 まだ土蜘蛛とは、通話アプリを介して話しただけだ。

 実際に会ってみるのも、いい判断材料になりそうだった。

 お見合いに前向きなサエへ、鶴岡が注釈を入れる。

 

「ただ人外さまにはたいてい縄張りがありまして、基本的にはそこから離れられないんです」

「ということは、私の方から訪問したらいいんですね」



 土蜘蛛はどこに住んでいるのだろう。

 山上家が山の上で暮らしていたのなら、祀られていた土蜘蛛の住処も山に違いない。

 サエの考えを、鶴岡が肯定する。

 

「土蜘蛛さまのお住まいは、かなり山奥にありますので、お見合いの際にはわたくしが同行し、安全面には細心の注意を払います」

「鶴岡さんと一緒に、登山するってことですか?」



 サエは頭の中で手持ちの服を確認した。

 野外活動向けなのは、学生時代に着ていたジャージしかない。

 

「移動にはヘリコプターを使います。サエさまは、高所恐怖症だったりしますか?」

「い、いいえ。大丈夫です」



 思いもよらない交通手段に、サエは狼狽える。

 あの分厚い封筒を受け取ってからというもの、初めて体験することばかりだ。



『サエ、待っている。当日はへりぽーとまで迎えに行く』



 どうやらヘリポートは、土蜘蛛の縄張り内にあるらしい。

 日程まで決めると、鶴岡が通話アプリを閉じた。



「サエさま、本日はお疲れ様でした」

「こちらこそ、ありがとうございました」

「何かありましたら、いつでもお気軽にご連絡くださいね。ではまた、お見合いの日に――」



 ◇◆◇◆



 異類婚姻マッチングセンターを出ると、サエは真っすぐアパートへ帰った。

 その日は情報量の多さに頭がパンク状態で、ぼうっと過ごしてしまったが、次の日からは人外さまの花嫁というキーワードで検索し、実際に嫁いだ人のSNSなどを読みあさった。

 そこでサエは、とある事実を見つけてしまう。



「大昔には若い娘が生け贄として、人外さまに差し出されていたんだ」



 そうしないと神様は荒ぶる神に、あやかしは物の怪に変わったのだそうだ。



「それを宥めるのが、花嫁の役目だったのね。人身御供と言われれば、それまでだけど……」



 土蜘蛛との会話を回想する。

 サエとの距離を縮めようと、一言一句に気を遣っていた。

 その謙虚さは、神様らしからぬ振る舞いだった。



「不幸な花嫁ばかりでは、なかったんじゃないのかな」



 ネットで散見された体験談にも、そうした声が多かった。

 これまでに嫁いだ女性の意見を集めてマニュアルが作成され、異類婚姻マッチングセンターが仲介することで悲しい事故も減ったらしい。



「怖くない訳じゃない。だって腕は6本もあるし、目なんて8個もあるんだもの」



 それでも土蜘蛛を蜘蛛というだけで、否定するのは違う気がした。

 サエに寄り添おうとしていた土蜘蛛に対して、悪い心証は全くない。

 

「会ってみれば、また違った印象を受けるかもしれない」



 もっと土蜘蛛について知りたい。

 サエの中では、そんな気持ちが育っていた。

 お見合いに挑む前に、両親にも一連の話をしておこうと思う。

 もしかしたら山上家について、何か教えてもらえるかもしれない。



「そう言えば、土蜘蛛さまの住まいは山奥なのに、ネット環境が整っているのね。ぶつぶつ途切れずに、ちゃんとこちらと通話できていたわ」



 サエは知らなかったが、それぞれの人外のもとへは、地底に太い通信用ケーブルが敷設されている。

 そして、何かあればすぐに一報をくださいと、各種タブレットやスマホが奉納されていた。

 それもこれも、荒ぶる神や物の怪へ変異されては困る、政府の苦肉の策だった。



 ◇◆◇◆



「こちらのヘルメットを被って、シートベルトの装着をお願いします」



 いよいよヘリコプターに乗り込み、土蜘蛛のいる山へ向かう。

 今後の会話は、ヘルメットに内蔵されたヘッドセットによって行うと、鶴岡から説明を受けた。

 

「けっこうな速度が出ますから、気分が悪くなったら教えてください」

「鶴岡さんは慣れているんですね」



 手早く支度を整える姿が頼もしい。

 体に振動が伝わるほどの轟音に、おっかなびっくりのサエとは大違いだ。



「人外さまは交通の便が悪い場所にいらっしゃることが多いので、ヘリコプターはよく使うんです。わたくしは空を飛ぶのは平気なのですが、海が苦手でして……」



 胸あたりをさすっているところを見ると、鶴岡は船酔いする性質なのだろう。

 海方面の人外さまの案内役には、亀川という男性の担当者がいるのだそうだ。



 いよいよヘリコプターの飛行が始まった。

 ふわりと浮く瞬間だけは緊張したが、それほどの恐怖は感じない。

 足元に広がる景色を楽しんでいるうちに、所々、緑が多くなってきた。

 遠くに視線をやると、樹々に覆われた山へとそれが続いている。



「この辺り一帯の連山が、すべて土蜘蛛さまの縄張りになります」



 サエが見ていた真正面の山だけでなく、見渡す限りの山々が土蜘蛛の管轄らしい。

 

「広すぎませんか?」

「数日おきのパトロールが、大変だという話は聞きました。土蜘蛛さまは真面目なので……」

 

 鶴岡の言葉を解釈するなら、他の人外は頻繁に見回りをしないのだろう。

 なんとなく土蜘蛛の好感度が、サエの中で上がった。



 大木が生い茂る山には道などなく、想像していた通りの景色が続く。

 

「アンテナは見当たらないですけど、ネットが繋がるんですよね?」

「そこは頑張らせてもらいました。人外さまにコンタクトできなくては、ご要望の聞き取りも出来ませんから」

 

 大昔は、因習村に住む一族が、その役目を担っていた。

 花嫁として若い娘を捧げ、細やかにもてなし、神様が荒ぶるのを抑え、あやかしの怪異を防ぐ。

 その現代版が、異類婚姻マッチングセンターということだ。



「幸い、ほとんどの人外さまは、こちらの都合に理解を示してくれます。これも時代の流れだと納得されたり、新しい技術に興味を示されたり。長命なだけあって、基本的にはおおらかなんです」

「長命……土蜘蛛さまもですか?」

「あやかしだった土蜘蛛さまは、このたび300歳を迎えられて、めでたく神格化されました。それで、これから共に生きる花嫁を探しておられたのです」

「300歳!?」

「サエさまも嫁がれてしばらくしたら、神格化すると思います。その後は土蜘蛛さまと同じく、悠久のときを生きるでしょう」



 サエが想像できない世界だった。

 鶴岡からもたらされる情報に耳を傾けていると、ヘリコプターの速度が落ちてきた。

 どうやら目的地が近いらしい。

 ホバリングするヘリコプターの風圧で、木の葉が舞う。

 ゆっくり高度が下がっていくと、地表からこちらを見上げている土蜘蛛と目が合った。

 タブレットで見せてもらった着流しではなく、今日はきちんと羽織をまとっている。

 にこりと微笑まれたのが、機内のサエにも分かった。

 ドキドキする心臓を抑えて着陸を待つ。

 無事にヘリコプターが接地すると、風にあおられながらサエは降機した。



「ようこそ、サエ」



 出迎える土蜘蛛の4本の腕は、着物の中に隠されている。

 サエが思っていたよりも、土蜘蛛はうんと長身だった。

 見上げた顔には2枚の絆創膏が貼られ、6個の目も封じられていた。

 サエとの約束を守ろうという、真摯な姿勢を感じる。



「初めまして、山上サエです」



 緊張しながら、サエがお辞儀をする。

 こうしたお見合いの場に、どういった服装で行けばいいのか分からず、取りあえずスーツを着て来た。

 そんなサエの足元に土蜘蛛は視線を落とし、ヒールの高さを確認したようだ。

 

「屋敷までの道は整備してあるが、起伏がある。よかったら抱いて行こうか」

 

 サエを心配して両手を差し出した土蜘蛛に、鶴岡から指摘が入った。



「土蜘蛛さま、サエさまはまだ花嫁ではありません。身体への接触はお控えください」



 手を引くのも駄目か? と鶴岡へ質問している土蜘蛛に、サエはくすぐったい思いがした。

 そんなに気遣われるような暮らしは、今までにしたことがない。



 カランコロンと下駄を鳴らす土蜘蛛について行くと、古き良き日本家屋へと辿り着く。

 瑞々しい青さをたたえた庭園には、ときおり鹿威しの音が響いていた。

 苔むした枯山水と、澄んだ鳥のさえずりは、ここが現代であることを忘れさせる。



「美しいですね」



 わびさびの世界にサエが感嘆すると、土蜘蛛は嬉しそうにはにかんだ。

 きっと一生懸命、手入れしてくれたに違いない。

 

 広い和風の客間へと案内され、土蜘蛛が手ずからお茶を淹れる。

 勧められるままにお菓子もいただき、ひと心地ついたところで鶴岡が口火を切った。



「このたびは、土蜘蛛さまとサエさまのお見合いを、セッティングさせていただきましたが――」



 ぴっとサエは背筋を伸ばす。



「実際に会ってみての感想はどうでしょう? わたくしには、おふたりはとてもお似合いに思えます」



 そういう鶴岡の表情は柔らかい。

 異類婚姻マッチングセンターで対面したときは、できるバリキャリといった風情だったが、それは一変していた。



「私はすぐにでも、サエを迎え入れたい」



 土蜘蛛はその意見に、喜色満面で賛成する。

 サエは望まれて嬉しい反面、ネットで見てしまった事実がチラチラと頭を過る。



(私でなくとも、若い娘であれば、誰でもいいのかもしれない。鶴岡さんは遺伝子レベルで最適な花嫁候補を検索したと言っていたけど、ここで私が拒否したら、次にマッチングされる女性がいるのよね……)



 決して土蜘蛛が悪いわけではない。

 むしろ実物を見てしまったから、沸いた疑心なのだと思う。

 ルックスが良いだけでなく、優しくて誠実な土蜘蛛には、もっと多くの選択肢があるはずだ。

 サエでなくとも、花嫁になりたがる女性はいるだろう。



(土蜘蛛さまは選べる立場なのに、こんなにも私によくしてくれる。なんだか申し訳ないわ……)

 

 サエの中で、気持ちの落としどころが見つからない。

 ここまできて悶々としてしまう自分に、嫌気がさす。

 サエの迷いを敏感に感じ取った土蜘蛛が尋ねる。



「何か、心配事があるのだろうか」

「……私でいいんでしょうか?」



 思い切って、サエは胸中を口にした。



「私が蜘蛛を苦手なばかりに、ご迷惑をおかけしています」

「腕を仕舞うのも、目を隠すのも、思っていたより大丈夫だった」

「でも……蜘蛛が苦手ではない女性だったら、より自由に暮らせるのでしょう?」

「それはそうかもしれないが、それでも私はサエがいい」

「っ……!?」



 サエの顔が赤くなる。

 土蜘蛛のストレートな告白に、耐えられなかった。



「サエは人外である私に対して、分け隔てなく接してくれた」

「分け隔て、なく?」

「人間にも横の繋がりがあるように、人外にも横の繋がりがある。仲間内で、そろそろ神格化しそうだとか、ついに花嫁を迎えられるとか、情報の交換をするのだ」



 土蜘蛛は湯飲みを覗き込み、そこに映る自分の顔を見た。



「それでも馴れ合うことはない。我々は個であり、孤独なのだ。その虚を埋めてくれる人間の花嫁を、心から愛して大切にしたいと願っている。だが――叶うことは少ない」



 それはサエの予想と反していた。

 

「たいていの人外は、花嫁に忌み嫌われる。恐れられ、化け物と呼ばれる。それでも会ってもらえるなら、まだましなのだ。我々は無視され、居ないものとして扱われる内に――望まぬ姿へ変異してしまう」

 

 寂しくて、構って欲しくて、認めてもらいたくて。

 その存在を主張するように暴れ回り、泣き叫ぶ。

 共に悠久のときを歩んでくれる、たったひとりの花嫁を求めて。



「サエはそうじゃなかった。人外であるという理由で、私を拒まなかっただろう?」



 分厚い封筒を無視することもできた。

 面談の予約を入れなくてもよかった。

 わざわざ異類婚姻マッチングセンターへ足を運び、鶴岡を介して土蜘蛛と会話し、お見合いをするために人生初のヘリコプターへ乗ったサエ。

 

「私のためにそこまでしてくれる花嫁を、どうして愛さずにいられようか」



 土蜘蛛の赤い瞳が、うっとりとサエを見つめる。

 恋愛ごとに疎いサエにも、内包する熱量が伝わった。

 その想いの純粋さに、圧倒される。

 知らず、サエの心臓はドキドキと早鐘を打つ。

 隣に座っていた鶴岡も、サエの思い切りのよい行動力を称賛した。

 

「わたくしが通話アプリを繋いだ際、もう見つかったのか、と土蜘蛛さまが驚かれていたのは、そういう事情があるからなんです。こんなにもトントン拍子に進むのは、稀有なケースなんですよ」

「……100通目の打診を断られたと、号泣している仲間もいるのだ」

「ウミヘビの神様なんですが、致死性の高い毒持ちということもあって、難航しているのです」



 亀川が担当している案件です、と鶴岡が前置きをして説明してくれる。

 花嫁候補となった女性は、疑心暗鬼で異類婚姻マッチングセンターまでは来訪してくれるものの、そこから先が決まらないのだそうだ。

 サエも決して、不安がなかったわけではない。

 だからこそ、必死にネットで調べたのだ。

 

「人外さまの花嫁について検索してみたら、そこまで悪い感じではなかったので……もっと希望者は多いと思っていました」



 幸せな体験談には、多くのいいねがついていた。

 コメントにも、溺愛うらやましいとか、人外さまに憧れるとか、そういう感想が溢れていた。

 しかし、サエがそうであって欲しいと願っていたために、バイアスがかかったのかもしれない。



「サエさえ良ければ、私の花嫁になって欲しい。山での暮らしに、不自由はさせない。必要なものは、たぶれっとで注文すればすぐに届けられるのだ」



 もしかして先ほどのヘリポートへ、宅配便が届くのか。

 あまりのVIPな待遇に、サエはぎょっとする。

 日常生活がつつがなく送れるよう、週末ごとに物資が届く定期便もある、と鶴岡が言葉を続けた。



「もちろん物品だけに限りません。政府としましても、サエさまの新生活に、可能なかぎり寄り添いたいと思っています」

「以前は山上家から世話をしてくれる者が来ていたが、次第にその数が減っていき、今では全員が山を下りた。なにやら人の世で、大きな変遷があったようだから、人外の側にいるのが難しくなったようだ」



 それは多くの国を巻き込んだ戦争であったり、その後に続いた経済的な成長であったり。

 鶴岡いわく、人間との繋がりを失った神様やあやかしが、荒ぶる神や物の怪になってしまったのも、その時代に集中しているらしい。



「政府はあまりにも、人外さまを軽視しすぎました。多くのツケを支払ったことで、ようやくこれまでの恩恵に気づいたのです」



 人外が縄張りを適切に管理している間は、その土地に大きな天変地異は起こらない。

 しかし一転して、荒ぶる神や物の怪に変わってしまえば、人外自身が災害級の禍となるのだ。



「我ら人外とて、そうなりたい訳ではない。だから今の人の世の流れに逆らわず、身を任せたいと思っている」



 土蜘蛛のまなざしは柔らかく、人間への慈しみが感じられた。

 サエの中に蜘蛛への恐怖は変わらずにあるが、土蜘蛛への恐怖は完全になくなった。



「実際に私と顔合わせをして、サエはどう思っただろうか? ……想像を絶していただろうか?」

「そんなことはありません」



 咄嗟に返した言葉に、嘘はない。

 腕は2本しか出されていないし、6個の目は絆創膏の下だ。

 全身が毛むくじゃらでもないし、土蜘蛛は下駄を鳴らして歩いていた。

 そのどれもが、サエへの思いやりにあふれ、通話したときの印象と重なる。



(とても誠実で、いい人だわ。人という括りには、入っていないけど)

 

 サエは前向きに、土蜘蛛との異類婚姻について考える。



「土蜘蛛さまに嫁いだら、私はここで、何をしたらいいんですか?」

「側に居てくれるだけでいい」



 家事はすべて土蜘蛛が行うらしい。

 だからゆっくり過ごして欲しい、と言われるものの、それではサエが手持無沙汰になる。

 会社員として忙しく働いていたので、何もしない毎日というのが想像しにくい。

 サエの困惑を感じ取った土蜘蛛が、別の提案をしてきた。

 

「サエだけならば、私の縄張りから離れることも可能だ。映画を見たいとか、美容室に行きたいとか、そういう日もあるだろう?」

「私だけ……ですか」



 土蜘蛛は縄張りを留守にできない。

 荒ぶる神や物の怪に侵入されたら、早急に対処しなくてはならないからだ。

 サエはひとりでのお出かけに、魅力を感じられなかった。

 だから、おずおずと提案する。

 

「どちらかと言えば、私は土蜘蛛さまと一緒に、何かをしたいです」

「っ……!」



 サエの言葉に、今度は土蜘蛛が頬を赤らめた。

 一緒に、と言われて、歓びがあふれたのだろう。

 ふたりは恋人期間をすっ飛ばして、いきなり夫婦になるのだ。

 お互いを知るための時間が必要だろう。

 鶴岡も同意を示した。

 

「人間はデートをして仲を深めるのが一般的ですが、土蜘蛛さまとサエさまは、新婚旅行もままならないですからね。縄張りのパトロールを一緒にするとか、その道中で景勝地を巡るとか、そうした触れ合いがあってもいいでしょう」

 

 うんうんと頷く鶴岡に後押しされ、土蜘蛛は考え出す。

 景勝地……と呟いているから、どこがいいのか、頭の中で候補を挙げているのかもしれない。



「土蜘蛛さまの足手まといにはなりたくないので、出来る範囲でいいのですが……」

「縄張りの中には紅葉が美しい地もあれば、厳かな滝が見られる地もある。サエと一緒に、ひとつひとつを見て回れるのならば、それは私にとっても幸せなことだ。――なによりサエの願いを、私が叶えたい」

 

 ふわりと微笑む土蜘蛛が嬉しそうで、きゅうんっ……とサエは心臓が縮むのを感じた。

 

 ◇◆◇◆



 お見合いの後、サエは数か月の準備期間を経て、土蜘蛛へ嫁ぐことになった。

 予め話を聞いていた両親はともかく、寝耳に水だった兄は、突然の妹の結婚に驚きを隠せない。



「父さんも母さんも、どうしてそんなに落ち着いていられるんだ!?」

「なんでも土蜘蛛さまは、政府が太鼓判を押すほど、サエとの相性が良いと言うじゃないか」

「私たちはサエが幸せになってくれるなら、お相手はどなたでも構わないのよ」



 にこにこしている両親の姿に、サエは救われる。

 ちなみに父はかつて曾祖父から、土蜘蛛さまについての言い伝えを聞いた覚えがあるらしい。

 城ほどもある大きな巨躯を盾にして、襲い掛かる土砂崩れから人々を護ってくれたとき、「自分がまだ未熟なばかりに、地滑りを起こして申し訳ない」と謝っていたのだそうだ。

 そのエピソードは、真面目な土蜘蛛っぽいとサエは思った。



「サエは蜘蛛が嫌いだったろう!? 特に大きな蜘蛛を見たら、失神するくらいに――」

「お兄ちゃん、土蜘蛛さまは私のために、いろいろ配慮してくれるの。私はそんな土蜘蛛さまだから、嫁ぐと決めたんだよ」



 サエ……と、兄が情けない目でこちらを見ている。

 なんだかんだ、サエが遠くに行ってしまうのが兄は寂しいのだ。

 ヘリコプターの手配が必要なので、頻繁に会うのは難しいが、いつでもビデオ通話ができると慰める。

 そして実際に、土蜘蛛とサエの家族は、そうやって顔合わせをした。



「初めてお目にかかる」



 タブレットの向こうに、風雅な土蜘蛛の顔が現れた。

 白くて豊かな髪、真っ赤な瞳、先日と同じく羽織をまとった姿だった。

 その目元に貼られた絆創膏に、家族の視線が注がれる。

 蜘蛛嫌いのサエを怖がらせないため、6個の目を隠しているというのは本当だった。

 

「こちらが私の両親と兄です」



 サエの紹介に合わせて、それぞれが挨拶を交わす。

 半信半疑だったらしい兄にも、すぐに土蜘蛛の誠実さが伝わっていく。

 

「どうかサエを、よろしくお願いします。昔から本当に、蜘蛛が苦手なので……」



 最後には兄が深々と頭を下げていた。

 土蜘蛛を、妹を任せられる相手だと、結論付けたようだ。



「私の縄張りで暮らす蜘蛛たちには、大小に関わらず伝達してある。サエにその姿を、絶対に見せてはならないと」



 これまで、サエから蜘蛛を追い払う役を担っていた兄は、それを聞いてホッとした顔をしていた。



 ◇◆◇◆



 いつでもネットを介して繋がれるとは言え、旅立つ当日は涙の別れとなる。

 しっかり抱き合って、サエは家族との最後の時間を惜しんだ。

 

「土蜘蛛さまと、いつまでも仲睦まじくね」

 

 サエの好きなおかずのレシピを書いたノートを、母が手渡してくる。



「これは私からのはなむけよ。土蜘蛛さまと一緒に作ってみてね。サエは一人暮らし中、あまり自炊をしていなかったでしょう?」



 コンビニ弁当や冷凍食品ばかりだったので、耳が痛い。

 しかし、土蜘蛛も料理は苦手だと言っていた。

 このレシピノートが、これから二人で頑張る目標になってくれそうだった。

 

 鶴岡の同行のもと、サエは再び、ヘリコプターに乗り込む。

 本来ならば、花嫁衣装を身につけて向かうべきなのだろうが、プロペラが吹き上げる風に乱されるため無理だった。

 

「ご安心ください。わたくし、着付けの国家資格を持っております。サエさまの白無垢は、先に土蜘蛛さまの屋敷へ届けてありますから」



 デキる鶴岡によって、どうやら準備は万端のようだ。

 おそらくこれまでにも、多くの花嫁の着付けをしてきたのだろう。

 サエは鶴岡のサポートを心強く感じた。



 前回と同様、土蜘蛛がヘリポートまで迎えに来ていた。

 周囲の山の景色は、秋模様に変わっている。

 その中に佇む土蜘蛛の姿が紋付き袴だったので、サエはまたしても心臓を鷲掴みされた。

 もう花嫁になるからだろう、土蜘蛛がヘリコプターから下りてきたサエに、迷わず手を差し出してくる。



「待っていた、サエ」

「これから、よろしくお願いします」

「それはこちらの台詞だ」



 以前も通った屋敷への道を、今度は土蜘蛛と手を繋いで辿る。

 大きな和室を着替えの部屋として借り、鶴岡が見事な手際で、サエに着付けとヘアセットと化粧を施す。

 夕闇が帳を下ろす頃、土蜘蛛とサエの婚姻の儀は静かに執り行われた。

 その様子は、鶴岡の持参したカメラによって、山上家へとライブ配信される。

 

 夜を待たずして、鶴岡は屋敷を辞去した。

 そして土蜘蛛とサエの、ふたりきりの生活が始まったのだった。

 

 ◇◆◇◆

 

 新婚生活は予想していたよりも、穏やかだった。

 ひとえに、土蜘蛛のおかげだろう。

 サエのことを第一に考え、何事においてもサエを優先する。

 

「サエは朝食に、分厚いとーすとを好むと、母君が教えてくれた。珈琲には砂糖とみるくを、たっぷり入れたよ」

 

 働き者の土蜘蛛は、サエがまだ寝ている間に、サラダまで作ったようだ。

 ドレッシングも好みに合わせてあったので、これも母に聞いたに違いない。

 土蜘蛛がサエの家族と、連絡先を交換し合っていたのは、このためだったのか。

 あまりにも上げ膳据え膳すぎて、サエは慌てて布団から飛び起き、土蜘蛛の手伝いに向かう。

 

「土蜘蛛さま、これからは一緒に作りましょう」



 そうやって、料理から始まった共同作業は、日々の中で少しずつ増えて、同時にふたりの仲を深めていった。

 土蜘蛛のパトロールにも同行させてもらい、晴れた日には山の頂上の高原でピクニックもした。

 冬には一面の雪景色を、春には樹々の芽吹きを、夏には涼やかな渓流を、秋には色とりどりの紅葉を楽しんだ。



 あまりにも幸せで、サエは時の流れを忘れたが、それは神格化したせいだったのかもしれない。

 あっという間に人の世は移ろい、サエは両親や兄との本当の別れも経験した。

 自分の容姿がいつまでも変わらないのに、家族ばかりが年老いていくのを見たときに、覚悟はしていたつもりだった。

 それでもいざ、その場に立ち会うと、つらくて寂しくて――。

 サエは土蜘蛛の腕の中で、わんわんと泣き崩れた。



 同時に、なぜか異類婚姻マッチングセンターの鶴岡だけは、いつまでも変わらずサエの担当者だった。

 サエは後々になって、人と区別がつかなかった鶴岡も、人に紛れるタイプの人外だったのだと知る。



 ◇◆◇◆



 その日の夕餉どき、土蜘蛛の表情が、ピンと張りつめたものに変わった。

 100年ほど共に暮らしている中で、そんな土蜘蛛を見たのは初めてだ。

 

「サエ、どうやら何かが、私の縄張りに侵入したようだ」



 土蜘蛛は少し眉を下げる。



「人型では間に合わない。山に生きる者たちを助けるために、私はこれから土蜘蛛に戻る」



 だから――と、土蜘蛛は言葉を紡ぐ。

 

「いい子で目を閉じて、顔を両手で覆って、絶対に私が変身するところを見てはならないよ」



 優しく説くと、サエが従うのを待って、土蜘蛛は屋敷を出て行った。



 しかし、サエは約束を破る。

 土蜘蛛の気配が遠のいたのを合図に、薄っすらと目を開け、指の間から外にいる土蜘蛛を探した。

 そして煌々たる月明りの中、人型を解いたばかりの、そびえ立つ土蜘蛛を見つける。

 体高は高層ビルほどもあり、全身を覆う銀色の甲殻は光を反射し、頭頂にだけ白髪がなびいている。

 日頃は隠されている紅玉のような眼球は8個、つるりとした毛のない脚も8本揃っていた。

 ほう、とサエは溜め息をつく。



「怖くない。やっぱり、怖くないわ」



 土蜘蛛だから怖くない。

 いまだに普通の蜘蛛は怖いサエだが、土蜘蛛の姿には、まったく嫌悪感を覚えなかった。

 

「なんて立派なの。この姿で土蜘蛛さまは、多くの者を護ってきたのだわ」



 これがサエの旦那さまなのだ。

 辺り一帯の主として、山に生きとし生ける者を、懐にかばい防守してきた。

 時代は流れ、人々が移ろおうとも、土蜘蛛の在り方は変わらない。

 サエはますます、土蜘蛛への思慕を深めた。

 もう6本の腕を見ても、8個の目を見ても、恐ろしくはないだろう。

 音もなく土蜘蛛が山を越えていくのを見届けると、サエは立ち上がる。



「疲れて帰ってくる土蜘蛛さまのために、夜食を作って待っていましょう。すぐにお風呂にも入れるように、湯殿の準備もしておこうかしら」



 孤独な土蜘蛛を癒す花嫁に選ばれたことに、サエは感謝する。



「愛しい人と、永らくの生を歩めるのだもの。これ以上の幸せはないわ」

 

 物の怪になりかけていた外来種を糸で捕縛し、こんこんと人間との共存について説教をした土蜘蛛が、いざ人型で帰ろうとして絆創膏を持っていないのに気づき、目元を葉っぱで隠してコソコソ戻るのはそれから1時間後の話――。