華族を連行するわけにはいかないとして、その場で事情聴取が任意で行われる事になった。

「これだからお華族様は」

 ぶつぶつと中年の警部が呟いている。先程差し出した手帳には、高籏和喜(たかはたかずき)と書かれていた。隣にいる、焦ったようになんとか高籏を止めようとしている若い警部補は、篠木良悟(しのきりょうご)と名乗った。

「た、高籏さん。相手は、侯爵家の……」
「それがなんだっていうんだ! ジャックの目撃者だぞ!」

 吸血鬼の仕業とされる連続殺人事件の犯人の通称のジャックは、英国で発生した陰惨な事件に倣ったのだという。

「これまでに話したことが全てだ」

 言いきった澪は、腕を組むと顎を少し持ち上げた。一般の人間に対して、猫を被る必要性は感じない。昴は特別であるし、吸血鬼同士も話が違う。人間だっていちいち豚に愛想を振りまかないだろう……と、考えた澪は、飼育されている豚に笑顔を向ける人間を想像し、人間は振りまくこともあるかもしれないと思い直す。

「外見の絵を描きたい。署までご同行願いたい」
「断る。悪いが、時間が迫っているものでな」

 あとは帰るだけであるので、これは大嘘だ。だが、既に澪は億劫になっていたので、強く告げる。すると呻いた高籏が、諦めたように視線を下げた。その肩に、篠木が優しく手を置いている。

「ご協力、ありがとうございました」

 篠木の声に、ようやく澪は微笑を浮かべた。見る者を魅了する笑顔だ。
 すると篠木と、顔を上げた高籏が、見惚れたように澪をじっと見た。これは比較的よくある反応なので、澪は気にせず踵を返す。

 こうして皆が待つ馬車へと戻った。

「大丈夫だったか?」

 乗り込んですぐ、青ざめている昴に、心配そうに訊かれた。澪は苦笑する。明らかに大丈夫でないのは、昴の方だからだ。

「俺は平気だ。兄上は?」

 隣に座り震えている昴が膝の上に置いている手に、そっと澪が己の右手の掌をのせる。そしてきゅっと握るようにすると、少しだけ昴の震えが止まった。

「お、俺も大丈夫だ」
「無理はしないでくれ」
「澪こそ……」

 その内に、馬車が走り出した。車輪の音に耳を傾けながら、澪はずっと昴の手を握っていた。


 帰宅すると、執事の火野が出迎えた。無表情で出迎えた彼は、実家の用事でここ二日ほど泊まりがけでいなかった。別段不機嫌というわけではなく、火野はいつも無表情で寡黙だ。黒い髪を揺らして頭を上げた火野は、紫色の瞳を澪へと向ける。

「おかえりなさいませ」

 それから、ゆっくりと昴に視線を向け、珍しく表情を変えた。困ったように眉間に皺を寄せ、昴と澪を交互に見る。澪は火野に歩みよると、背伸びをして耳元で囁く。

「こちらは俺の兄上らしいんだ。暫くここに泊める」
「――え?」

 驚愕したように、火野が瞠目した。火野のこのような顔は、とても珍しい。有能な執事は常に冷静沈着だからだ。それは家令の緋波《ひなみ》の教育の通りだろう。緋波は現在、瑛の供として西欧にいる。二十七歳の火野は十五歳の頃から、次期家令として、緋波は教育を施してきた。なお緋波は外見年齢は三十代前半だが、実年齢は不明だ。

「一体どういうことでしょうか?」
「――絵山、先に兄上を部屋まで案内してくれ。久水は兄上にお茶の用意を」

 澪はそう指示を出してから、改めて火野を見た。

「書斎で話そう」
「ええ」

 頷いた火野が困惑を露わにしたまま歩きはじめたので、澪はその後に従った。
 先導されて入った己の書斎で、澪は執務机の前に座る。その斜め横に、火野が立つ。

「実はこの手紙が届いたんだ」

 澪は抽斗にしまっておいた白兎からの手紙を取り出すと、封筒ごと火野に渡した。受け取った火野は一礼してから便箋を取り出し、視線を文字に走らせてから、片眉だけを顰めた。

「これをたよりに貧民街へと行ったら、兄上がその通りにいたというわけだ。西園寺家の縁者とあらば、保護しなければならないだろう?」
「それはそうですね。大至急旦那様にご連絡を――」
「待て。まだ実際に異母兄なのか、確認が済んでいないんだ」
「旦那様には、昴様が生まれた心当たりがあるか否かも含めて、連絡して確認するべきです」
「少し調べてからにしたいから黙っていてくれ。お前は将来、俺専属の家令になるんだろう? 父上ばかりを立てるのか? 俺の力になってくれないのか?」
「……承知致しました。調査のお手伝いを致します」

 火野は無表情に戻ると、嘆息混じりにそう述べた。
 昔から火野は、澪がこのように押す言葉を連ねると、とても弱く押し流される。必死で澪を立てようとしてくれるのが、火野だ。

「頼んだぞ」

 こうして、無事に火野にも事態の説明を終えた。

「風原と津田は、休憩時間にどうせ絵山か久水か両方が、雑談で告げて既に知っているだろうが、火野からも念のため、改めてこの件について伝えてくれ」
「畏まりました」

 深々とお辞儀をした火野が、澪の書斎を出て行く。机に両肘をつき、手を組んで、その上に顎をのせた澪は、扉が閉まるのを、ただぼんやりと眺めていた。