大正四十五年、冬。
十五歳の時生は、高圓寺家の裏庭に立たされていた。足下の桶には氷が張っている。屋根には数多のつららが見える。本日は霙が、強い風のせいで斜め方向から襲いかかってくる。薄手のシャツと着物で、もう二時間ほどこの場にいる。高圓寺家の本妻である松子の許しがあるまでは、屋内に入ることを許されない。
妾であった母の葵がはやり病で亡くなってから、時生への陰湿な苛めは、日増しに酷くなっていく。父の隆治は気まぐれに葵を閨に呼んだだけであるから、時生には欠片も興味が無いらしい。家を継ぐと決まっている、時生と同じ歳の松子の子、裕介のことにも興味はあまりないようだが。
だが裕介には、見鬼の力がある。見鬼の力とは、あやかしを視認する力のことで、高圓寺の血を引く者には、その才能が出やすい。同じくらい、先見の力という、未来を予知する能力の持ち主が生まれることもある。しかし時生には、そのどちらもない。本当にあやかしが存在するのかすら、時生は知らなかった。
かじかんだ手が、ずっと震えている。既に指先の感覚は無い。冷たいを通り越して、肌が痛かった。
「ああ、ここにいたのか、役立たず」
その時、裏口の扉が開いた。顔を向ければ、裕介がひょいと顔を出したところだった。
「宿題をやっておけ」
「……っ」
「早く来い」
「で、でも……奥様に、お許しを頂かないと、あとで……」
「ああ、きっと散々ぶたれるだろうが、それは俺の知ったことじゃない。さっさと来い」
裕介はそう言うと、強引に時生の腕を引いた。脚がもつれて、時生は転倒する。すると見おろした裕介が冷徹な顔をし、思いっきり時生の胴を蹴りつけた。二度、三度。痛みに涙を堪える。
「早く立て」
しゃがんだ裕介に髪を引っ張られ、無理に顔を上に向かせられる。
両手を地について、なんとか時生は体勢を立て直した。
そして歩きはじめた裕介の後に従う。裕介の部屋に招き入れられた時生は、そこに並ぶ高等学校の宿題を見た。中学第四学年の後、高等学校に入学した裕介は、特に異国語の授業が苦手な様子だ。頻繁に時生へと宿題を押しつける。そのため、学校へ通うことを許されず、日中使用人と同じように働いている時生だが、特に異国語、いいや押しつけられた宿題分の、数学や古典、歴史や社会情勢、教養、文学、それらに詳しくなった。
「……」
渡された万年筆を手に、時生はさらさらと異国語を綴っていく。
時生にとっては、実に簡単な問題だった。
「できました」
「そうか、出て行け。母上にたくさん殴ってもらうんだな」
せせらわらうようにそう述べて、裕介は時生を追い出した。
部屋から出ると、女中の栄が待ち構えていた。
「奥様がお呼びだよ」
――ああ、殴られるのか。
そう覚悟した時生の瞳は、暗さを増した。
俯きながら廊下を歩き、松子の部屋の前に立った時生は、瞳に悲しい色を浮かべたまま、扉をノックした。すると『早く入るように、愚鈍なのね』と声がかかる。
扉をゆっくりと開いて中を覗くように見てから、時生は室内に入った。
「時生さん。誰が家の中へ入ってよいと言ったのですか?」
「その……」
「言い訳は結構。言いつけを守れなかった罰を与えます。貴方の母代わりとして、躾をするのは当然のことですから」
松子はそう言って立ち上がると、時生の前に立ち、平手で時生の頬を打った。
二度、三度。
痛む頬が、次第に腫れ上がっていく。衝撃に歯を食いしばり、震えそうになるのを、拳を握ってなんとか堪える。ひとしきり時生を殴ってから、松子は満足した様子で言う。
「さぁ、早く仕事に戻りなさい。貴方は使用人以下の身分なのですから。ああ、汚らわしい。貴方が高圓寺の血を引いていると思うと嘆かわしくて……いいえ、どうでしょうねぇ。時生さんには、なんの力もないのだから。旦那様の子と嘘偽りをあの女が述べたのかもしれないわ」
そこからは散々時生の母への呪詛を吐き、そして松子は時生を部屋から追い出した。
時生は痛む頬に手を添えながら、厨房へと向かう。
本日は、料理の担当だ。
炊事、洗濯、掃除、なにもかもが、時生の仕事だ。使用人達にも蔑まれながら、それらを手伝い、時に押しつけられている。気づけば時生は、家事が万能になっていた。
そんな日々が、次の春も、夏も、秋も、そして再び廻ってきた冬も、次の四季もと続いていき、大正五十年となった。
初秋、時生は二十歳の誕生日を迎えた。
誰も己の生まれた日など記憶していないだろうと思っていたら、勝ち誇ったように松子が時生の正面に立った。
「貴方もついに成人ですね。さぁ、出て行きなさい。もう面倒を見てやる義理などないわ。旦那様もご承知の上です。貴方の顔を二度と見なくていいと思うとせいせいします」
そうして、時生は突き飛ばされた。地面に尻餅をつく。すると見に来たらしい裕介が、何度も靴で時生の体を蹴りつけた。痛みに体を折り曲げて、必死で頭を庇っていると、丁度馬車が停まる音がした。涙が滲む瞳でそちらを見ると、父が降りてきたところだった。
「ああ、今日出て行くのだったな」
まるで虫螻を目にしたような眼差しで、父は時生にそう述べた。
そのまま邸宅の中へと入っていく。松子はそれに従った。
残った裕介は、ニヤニヤと笑いながら、最後に一際強く時生を蹴りつけ、家の中へと入っていった。こうして、時生は家を失ったのである。具体的には、屋根がある眠る場所、残飯しか渡されていなかったとはいえ、食事もまた無くなってしまった。
体の痛みを堪えて立ち上がり、とぼとぼと時生は歩きはじめる。
家の外に出たことは、ほとんどない。
だから道もわからないまま、適当に進み、角を曲がった。この日はその繰り返しで夜になり、秋夜の寒さに身を震わせ、両腕で体を抱きながらゴミ箱の隣に蹲って、時生は眠った。
それから、三日。
路上で眠り、食事は一度も食べていない。服は汚れ、ボロボロだ。喉がカラカラに渇いている。たまりかねて朝露がついた草を舐めたのは、一時間前だ。空腹感は既に無い。お腹が空きすぎて、感覚が麻痺してしまったらしい。そんな生活をしていたのだから当然なのか、風邪を患ったようで、目眩がし体が熱っぽい。
それでもふらふらと歩いていた時生は、ついにぐらりと倒れそうになった。
そうに、というのは、誰かに抱き留められたため、そうはならなかったということだ。
ずっと下を向いて歩いていた時生は、驚いて顔を上げる。
すると帝国の軍人が立っていた。軍服を着ているから、一目で分かる。鴉の濡れ羽色の髪と目をしている。
「大丈夫か?」
「あ……はい……」
声をかけてきた軍人は、片腕で時生を支えながら、もう一方の手で時生の額に触れた。そして目を眇める。
「酷い熱じゃないか」
「……」
「俺の家はすぐそこだ。休んでいくといい」
その言葉を、確かに三半規管は受け止めたはずなのだが、声が遠くに聞こえるようになり、時生は理解できなかった。気づくとそのまま、意識を取り落としていた。
時生は体にじっとりと汗をかいている気がした。何度か目を開けようと努力したのだが、瞼がピクピクと動くだけで、酷く重く感じ目が開けられない。全身が熱い。それからまた、意識が遠のいた。
次に気づいた時は、随分と楽になっていて、先程よりは軽々と目を開けることが叶った。すると真上には、見た事のない天井が広がっていた。薄茶色の天井だ。高圓寺家に、このような部屋があった覚えはない。どの部屋も掃除で入った事があるが、記憶にはない。
「ここは……」
口を開くと、掠れた声が出た。
「気がついたか」
不意に、顔を覗き込まれる。鴉の濡れ羽色の、長めの前髪をしている青年で、若干つり目だが大きく形の良い双眼が、現在時生に向けられている。薄い唇をしていて、思案するような面持ちだ。その顔と軍服を見て時生はハッとし、思い出した。
「あ、僕……」
起き上がろうとすると、額にのっていた濡れた布が落下した。
また起き上がろうとはしたのだが、力が入らず失敗し、すぐに布団に沈んでしまう。
「酷い熱だったんだ。半日も目を覚まさなかった。もう夜だ」
「僕……その……ご迷惑を……」
「迷惑ということはない。困った時はお互い様と言うだろう」
温かい言葉を、平坦な声音で軍人が述べる。
「無理せず、もう少し休め」
その声を聞いて、無表情気味で感情の窺えない声をしているけれど、この人は優しいと、直感的に時生は思った。
「貴方は……?」
「ん? 俺か? 俺は礼瀬偲と言う。帝国陸軍あやかし対策部隊の副隊長をしている」
「礼瀬さ……」
名前を脳裏に刻んだ直後、再び時生は意識を手放した。
――次に目を開けると、体がずっと楽になっていて、上半身を起こすことが出来た。異国から伝わった照明の光が、先程までより少し暗くなっていた。代わりに、畳の上にある雪洞に、灯りが宿っている。
「具合はどうだ?」
そんな言葉をかけられて、声の方角を見ると、軍服から寝間着の羽織に着替えている青年の姿があった。
「もう、平気です」
「そうか。食べられそうなら、お粥がある。先程、手伝いに来ている小春が作っていったんだ」
「そ、そんな……あの、僕……本当にすみません。これ以上、ご迷惑をおかけするわけには……」
と、時生が述べた瞬間、ぐぅと大きく腹が鳴った。空腹を知らせる調べに、腹部に両手を当てて、時生は真っ赤になる。何日も食べていなかったから、お粥の味を想像するだけで、口の中に唾液が満ちた。
「食べればいい。持ってくる」
すると初めて相好を崩し、彼は時生が寝ている部屋を出て行った。見送った時生は、きょろきょろと周囲を見渡す。現在いる畳の部屋は、とても広い。布団も、高圓寺家では布の上に寝ていたので、自分には過ぎた品のように感じる。困惑しながら待っていると、彼が戻ってきた。手には茶色く長い盆を持っていて、その上に小さな土鍋がある。
「ほら」
そうして時生のすぐそばの畳の上に、お粥が置かれた。
あまりにもの良い香りに、思わずレンゲを手に取る。土鍋から掬ったお粥には、卵が入っていた。高圓寺家ではいつも、水のように薄い、いいやほとんど水のお粥を週に三度は出されていたから、これが同じお粥という料理だとは信じられない。
「美味しい……」
何度もレンゲで卵粥を口に運ぶうち、気づくと時生の目は潤み、下睫毛の上に水滴がのり、それが筋を作って頬を流れ、ぽたりぽたりと顎から下へと落ち始める。時生は鼻を啜りながら、ボロボロと泣いてしまった。お粥の衝撃が、それだけ強かった。人間扱いされたのが久しぶりで、それがとても嬉しい反面、これまでの苦しさや辛さが一気に身を苛み、涙が止めどなく溢れてくる。感情がごちゃごちゃになった。
時生が顔を上げると、隣で何も言わずに座っていた青年が、腕を組んだ。
その沈黙が、優しかった。次第に、時生の涙が乾いていく。それはお粥を食べ終えるのと同じ頃の事で、お腹が満ちたら、涙も止まった。
「落ち着いたか?」
「……はい」
「それは幸いだな。もう遅い。家人も心配しているだろう。家まで送ろう」
それを聞いて、時生は首を振った。生まれつき色素が薄く茶色い髪が左右に揺れる。瞳の色も、同色だ。亡くなった母も、同じ色彩をしていた。
「家は無いんです……」
「家が無い?」
「成人したから出て行けと言われて……」
「お前、名はなんという?」
「高圓寺時生といいます」
時生が名乗ると、青年が驚いたように息を呑んだ。
「高圓寺? 四将に数えられるあの高圓寺家か? 確か現在のご当主は、隆治氏だったか?」
四将という語を、時生は初めて聞いた。だが、父の名は間違いない。
「そうだと思います」
「ならば、なんらかの才を持っているのか?」
「……僕は、見鬼の力も、先見の力もありません……」
腕を組んだ青年が、考え込むように瞳を揺らしてから、改めて時生を見て、小さく頷いた。
「そうか」
「……そうです、僕にはなんの力もありません」
改めてそう述べてから、時生は立ち上がろうとした。
「……出て行きます、ありがとうございました」
すると横に座っていた彼が首を振り、時生を制した。
「いいや、もう少し休むといい。なんなら、暫く居てくれていいぞ。次の家が決まり、仕事も決まるまで」
放たれた声に、時生は驚いて目を丸くする。
「そのようにお世話になるわけには……」
「仕事といえば、実は俺は、妻が出て行ってしまってな。子供を片親で育てているのだが、子守りをしてくれる者を探しているんだ。家事を手伝ってくれる者はいるのだが、専任で子守りをしてくれる者が見つからなくてな」
「え……?」
「よかったら、やってくれないか?」
「いいんですか……?」
「ああ」
時生が問うと、それまでの無表情が嘘のように、口元を綻ばせて彼が笑った。とても優しい笑顔だった。
時生は心が温かくなった気がした。
――助けてくれたのだと、正確に理解していた。
きっと子守りの仕事は、無くてもいいものなのだ。自分に屋根の下にとどまる口実をくれたのだと分かっている。恩を感じずにはいられない。
「僕、僕にできる事なら、全力で頑張ります。礼瀬さん」
時生がそう述べると、ゆっくりと頷いて彼が笑った。
「俺の子も礼瀬だ。礼瀬澪。紛らわしいから、俺の事は偲でいい」
「偲さん……」
「俺も時生と呼んで構わないか?」
「は、はい!」
「澪のことは、明日にでも改めて紹介することにしよう。今日は、まだ体が本調子ではないようだから、休むといい」
そういって、偲が布団を視線で示す。
大人しく、時生は布団に入った。
気づけば泥のような眠りについていた時生は、翌朝瞼の向こうに光を感じて目を覚ました。すると内障子が開く音が響き終わったところで、寝ぼけ眼で上半身を起こした時生がそちらを見ると、おかっぱ頭の少女が着物をたすき掛けにし、時生へと顔を向けた。目が合うと、彼女は自慢げに笑った。
「おはようございます。偲様がお連れになったのでしょう? 聞いてますよ」
「は、はい、え、えっと……」
一気に覚醒した時生は、居ずまいを正して、思わず正座する。
膝の上でギュッと拳を握っていると、彼女が興味津々という瞳を、時生に向けた。
「私は、真奈美。貴方は、時生さんというのでしょう?」
「はい、ぼくは高圓寺時生といいます」
「澪お坊ちゃまのお世話係だとか?」
「えっ、あ……その、子守りをする者を探していると……そう仰られて」
小声で述べる。
「そうなのよ!」
すると真奈美が身を乗り出し、膝に両手をつくと、大きく何度も頷いた。
「澪お坊ちゃまは、可愛くて良い子なんだけれど、ちょっと大変なの。私と小春さん、そこに渉を加えても手に負えないのよ!」
嘆かわしいというように、大きく嘆息した彼女は、それから姿勢を正して、窓のガラスを開けた。
「それにこのお屋敷はとても広いでしょう? 面倒を見てくれる人を、ずーっと探してたの! ありがとう! 大歓迎!」
「は、はい……よかった……」
ただの優しさから、子守りを頼んでくれたのかと思っていたのだが、実際に役に立つことが出来そうだと判断し、時生は心が軽くなった。精一杯頑張ろうと思いながら、掛け布団をたたむ。
「私は、主に洗濯と掃除を担当してるの。あとで紹介するけど、小春さんは一番長くここに勤めてるおばあちゃん、ね。偲様が子供の頃からいるらしいの。それで渉は、書生なんだけれど、主に力仕事をしてくれる……まぁ、あれよ。クソガキよ!」
明るい声で真奈美は続けてから、戸口の方を見る。
「朝ご飯は、この邸宅では毎朝六時と決まっているの。あと十分で六時だから、起こしに来たの。さぁ、行きましょう! お出かけになる前に、澪お坊ちゃまの事を、時生さんにご紹介したいそうだから」
それを聞いて、慌てて時生は立ち上がった。一緒に部屋から出る。
「お部屋の場所は覚えておいてね。この客間が時生さんのお部屋になったから」
明るい声で道順を説明しつつ、真奈美が急な階段を降りていく。手すりに触れながら時生は後に続き、一階に降りた。長い廊下で、右手には軒先と庭が広がっている。本当に広大な様子で、遠目に見える池には橋が見える。
早足の真奈美に従い、自然と時生も急いで歩いた。
そうして到着した食事の場は、意外にも洋間だった。奥に台所がある様子だ。
「ああ、おはよう」
すると椅子に座っていた偲が顔を上げた。既にビシリと軍服を着込んでいる。丸いテーブルで、偲の隣の小さな椅子には、一人の男の子が座っていた。空いている椅子がもう一脚だ。
「どうぞ、かけてくれ」
偲がそう述べたので、おろおろと時生は偲と真奈美を交互に見る。
「普通主と一緒には食べないの。でも時生さんは特別よ」
真奈美は小声でそう言ってから、偲に笑顔を向けた。
「それでは失礼致します」
「ああ。ありがとう、真奈美」
偲の声を聞き、にこやかな表情のままで真奈美は立ち去った。それを見送ってから、椅子に視線を落とし、おずおずと時生は腰掛ける。すると視線を浴びるように感じ、チラリと見れば、男の子が目をまん丸にして、じっと時生を見ていた。
「紹介する。息子の澪だ」
「は、はじめまして。時生です……」
「時生!」
「こら、澪。年上の方に、そういう口調でいいのだったか?」
「うん! 真奈美は真奈美って呼ぶように言う!」
「……そうか。それもそうだな」
偲が言い負かされていた。時生はその光景が微笑ましく思えて、思わず小さく笑ってしまった。それを見た偲が驚いた顔をしてから、柔らかく微笑む。
「やっと笑ったな。ずっと辛そうにしていたものだから、心配していたんだ」
「あ……」
照れくさくなった。時生は感謝の気持ちもあり、何か伝えようと言葉を探す。
「澪。今日から、時生は澪のお世話をしてくれる。つまり、先生のようなものだ。先生には、そのような口調でいいと思うのか?」
「うん! おれの先生はお父様だけど、俺はお父様にこういう口調だ!」
偲がこみかみに指を添えて解している。
自信たっぷりの様子で笑顔の澪は、それから時生を見た。
「おれの世話をせいいっぱい頑張るように! よろしくたのんだぞ!」
時生は吹き出すのを堪えて、二度大きく頷いた。このように明るい気持ちになったのは、随分と久しぶりな気がした。
「宜しくお願いします」
「うん。おれは今、四歳だ! 今年五歳になるんだぞ!」
「僕は二十歳です」
「ふぅん。お父様は、もっと年寄りだ! お父様は、二十七歳だ!」
それを聞くと、偲が肩を落とした。
「時生。年寄りという語彙を、澪から削除してくれないか?」
「え?」
「実際俺は、君よりも年寄りであり、君に言われるなら別にいい。だが実子が、俺のことを頻繁に年寄り呼ばわりするのは、あまり快くないんだ」
「わ、わかりました……」
「これも妻が、少しな」
すると偲が、どこか遠くを見るような目をした。出て行ったと聞いた記憶が、おぼろげにある時生は、思わず固唾を呑んで見守る。
「まぁ、時生にもいつか話そう。それよりも、食事としよう。時生には、澪の食事も見て欲しい。時間を合わせさせて悪いが、ここで共に食べて欲しい」
「はい」
時生は頷いてから、用意されていた洋食を一瞥した。輝くようなスクランブルエッグと赤いケチャップ。添えられているレタスとキュウリ。味噌汁と白米の碗。見ただけで、お腹が鳴りそうになった。このようにまともな朝食など、一体いつ以来だろうか。記憶に無い。いいやそもそも、まともな朝食を運んだり、作ったりする手伝いはしたことがあるが、自分が食べたことはあっただろうかと、時生はぼんやりした。
こうして食事が始まる。手を合わせて『いただきます』と述べてから、皆で箸やスプーンを手に取った。一口食べて、美味しすぎて時生は涙ぐんだ。口の中で蕩けていくような卵の味が絶品だった。本人としては、パクパクと高速で大量に食べた。だが、皿の三分の一程度を食べたところで、満腹になる。味噌汁もご飯もほとんど残っている。
「口に合わないか?」
箸を持ったまま動作を止めた時生に、偲が問いかけた。
「い、いえ! すごく美味しいです。でも……その……お腹がいっぱいになってしまって……ごめんなさい……」
「ああ、病み上がりだしな。ただ、痩せているところを見ると、食が元々細いのか? 勿論残して構わないが、少しずつ食べる量を増やせるとよいな」
「ありがとうございます」
気を害した風でも、怒るでもなく、淡々と偲が述べた。それにほっとしていると、澪が笑う気配がした。
「いっぱい食べないと、大きくなれないんだぞ! おれを見習うように!」
その声を聞いていたら、時生の肩から力が抜けた。
こうして、食事の時は、進んでいった。
「それでは俺はもう行く。時生、澪のことを宜しく頼む」
食後、そのように告げると、優しい微笑で澪の柔らかそうな髪を撫でてから、偲が洋間を出て行った。立ち上がり、大きく何度も頷いて時生が見送る。澪も丁度食事を食べ終えた。
そこへ真奈美が食器類を片付けに来る。真奈美に伴い、一人の老齢の女性が入ってきた。
「時生さん、こちらが小春さんよ」
真奈美がそう言いながら、女性へと視線を向ける。白髪を後ろでお団子にまとめている小春は、目尻の皺をさらに深くして笑顔を浮かべ、時生の前に立った。
「宜しくお願いしますね。時生さんだったかねぇ?」
「は、はい! 宜しくお願いします」
「澪坊っちゃんのお部屋に案内するからついておいで」
小春の声に、おずおずと時生が頷く。するとひょいと澪が椅子から飛び降りた。
「行くぞ!」
「これ! 坊っちゃん。椅子からは静かに降りねばダメですぞ」
語調を強めた小春だったが、澪は何処吹く風で、顔を背けるだけだ。
「時生、行くぞ!」
澪はそう言うと、時生の腕の袖を掴み、歩きはじめた。溜息を零してから、小春が並んで、一緒に進む。目を丸くしつつも、時生も後に従った。
よく磨き上げられた木の床の上を進んでいき、自分にあてがわれた部屋があるのと同じ二階へと、階段を進んで向かう。ただ先程時生が降りてきたのとは別の階段で、こちらは緩やかな段差であり、急ではない。だから澪にも上がるのが、そう困難ではなさそうだった。
階段のを登り切り、奥の角部屋へと着くと、小春が扉を開ける。
そこもまた洋間であり、白いレースのカーテン越しに、柔らかな秋の日射しが降り注いでくる。洋風の寝具があり、その上には、クマのぬいぐるみがあった。ぬいぐるみは首から銀の飾りを提げている。
「時生さんや。ここで澪坊っちゃんの相手をお願いしますよ」
道中も和やかに声をかけてくれた小春が、穏やかに語る。
コクコクと頷いた時生の腕を、澪が引っ張る。
「おれがいっぱい楽しい遊びを教えてやるからな!」
「坊っちゃん。時生さんにご迷惑をおかけしないように」
「迷惑じゃないよな? おれと遊びたいだろ?」
澪が唇を尖らせて、小首を傾げた。時生は両頬を持ち上げて、唇で弧を描く。明るく温かな気持ちが胸に溢れてくる。だから小さく頷いた。
「そこの机の上に、偲坊っちゃ……旦那様が学ばせたいと置いている勉学の本があるのですよ。何分私達には難解で。こればかりは、澪坊っちゃんの方が分かるほどでしてね。時生さんや。分かるようなら、澪坊っちゃんに教えてあげて下され」
小春の声に、窓際の学習机を見ると、子供向けの異国語の本や、あやかし辞典などが置いてあった。あやかしに関しては、時生は見鬼の才が無いから見えないし、多くの人間がそうではあるが、『存在する』というのは庶民の間にも広がっている知識なので、こうして書物が流通している。ただ半信半疑であったり、信じない者も多いのが実情だ。
「では。また後で様子を見によこしますからの。あまり気を張らず、時生さんもゆったりと相手をするとよいですよ」
笑顔でそう述べると、小春が部屋を出て行った。それを見送っていると、澪が再び時生の服の袖を引く。
「そこのソファに座れ!」
長椅子を指さした澪を見て、時生は小さく頷く。
ベッドの脇、学習机の手前に、テーブルと横長の椅子が二つある。柔らかそうな素材で出来ており、これも異国から入ってきた品で、ソファというのだということは、時生にも知識としてあった。裕介の部屋に類似の品があったからだ。
「なにをして遊ぶ?」
「澪様……お勉強をしませんか?」
「いやだ! おれはもういっぱい知ってるもん」
頬を膨らませた澪の声が愛らしくて、時生はくすりと笑った。
「じゃあ、僕に教えて下さい」
「え?」
「澪様が知っていることを」
「おれが知っていること?」
「ええ。たくさんご存じなら、僕に、代わりに色々教えてほしいなって」
時生の提案に目を丸くしてから、澪がパチパチと瞬きをした。
それから誇らしそうに唇の両端を持ち上げると、大きく頷いた。
「いいぞ!」
時生は微笑を返す。
実はこれには、きちんと二つ意図がある。
まず、学校を出ていないから、時生本人は己には学が無いと考えている。だからそんな自分が、本当に勉強を見ることが出来るのかも分からず、澪の知識の程度を知ることで、教えることが可能か否かを判断するのが、一つ目の意図だ。
二つ目は知識の程度から、何が欠けていて、何が秀でているのかを知ることで、己が教えられる場合、何を教えていくか検討する材料としたかったからである。
「では、いくつか質問してもいいですか?」
「もちろんだ!」
時生の正面のソファに座り、大きく時生が頷く。
こうして質疑応答が始まった。
時生は、まず歴史や現代社会の質問をすると決めた。
「今年の暦は?」
「大正だ。大正五十年!」
「干支は?」
「うっ……うさぎだ! 来年は、たつだ!」
「よく分かりますね」
にこやかに時生は頷く。すると澪が嬉しそうに頬を持ち上げた。
「開国したのは、いつですか?」
「うっ……ええと……ええと……わ、わかんない……」
「なるほど。では、江戸時代は、何年まででしたか?」
「へ? 江戸……? なんだそれは?」
「ちょっと難しかったですね」
この言葉に、時生がむっとした顔をする。
「すぐに覚えてやる!」
「その意気です。じゃあ、次の質問です。お父様のことです」
「なんだ?」
「お父様のお仕事は?」
時生は制服から、陸軍の軍人だという解答を念頭においていた。
「知ってるぞ! お父様のことにおれは詳しいんだぞ! お父様は、帝国陸軍あやかし対策部隊の副隊長なんだ!」
「えっ」
それを耳にして、時生は驚いた。
あやかし対策部隊というのは、聞いた事が無かったからだ。元々軍の知識に関しては欠落しているに等しいが、公的な機関に、一般的にはいるかいないか分からない、あやかしの部隊があるとは知らなかった。たとえば裕介の通う学校の授業にも、あやかし関連の課題は無かった。全ての宿題を押しつけられていたから間違いない。だがこの家に来た時も、夢うつつに偲本人からもそう聞いた事があったように思い出す。
「? 間違っているわけがないぞ!」
「そ、そう。お父様のことは、澪様は僕よりずっと詳しいと分かって驚いて」
「ふん。それはそうだ。僕は家族だからな! 次は?」
澪の声に、気を取り直して、時生は続ける。
「あやかしを見る力をなんと呼びますか?」
「見鬼の才だ!」
これに関しては、高圓寺家で少しだけ学んだ知識なので、時生にも分かることはある。
「正解です。では、未来を見る力は?」
「知ってるぞ! 先見の力だ!」
「これも正解です」
「当然だ。おれは両方持ってるからなっ」
満足げに笑った澪の声に、時生は驚いた。
「そうなの?」
「うん。だって、おれは礼瀬家の跡取りだぞ! 普通は持ってる。お父様も持ってる! だからお父様はおれの先生なんだ」
それを聞いて時生は目を丸くした。
「持っている家が、高圓寺家の他にもあるんだ……」
ぽつりと時生が呟いたのを、澪が聞きとめた。
「そんなことも知らないのか? 四将といって、この帝都には、特別な力を持って生まれる家が四つあるんだぞ。おれの礼瀬家と、相樂家と黎千家と、高圓寺家というんだってお父様が前に言ってたもん」
「……そうなんだ」
「うん! でも一番は、見鬼でも先見でもなくって、この四つの家には、〝破魔の伎倆〟を持つ者が生まれるから、すごいんだぞ! お父様もおれも、勿論持ってるんだからな! いつかはおれも、お父様のように、みんなをこの力で守るんだもん。時生のことも守ってやる」
初めて聞く言葉に、時生は頷いてから首を捻る。
高圓寺家でも、破魔の技倆という語は耳にしたことが無かったからだ。
「破魔の技倆は、どんな力なの?」
「ううんと、な。あやかしには、良いあやかしと悪いあやかしがいるんだ。良いところと悪いところが両方あるあやかしもいるんだって。絶対にどちらかというわけではないんだって、お父様はいつも言ってる」
「うん」
それは人間だって同じであるから、時生は納得する。
「破魔の技倆は、その中の悪いあやかしを退治したり、悪いことをしたあやかしに注意するときに使うんだって」
「そうなんだ」
「うん! それ以外は、『ヒミツだ』ってお父様は言うんだ! だからヒミツなんだ」
そのような力も世の中にはあるのかと、時生は素直に驚きながら頷いた。
「次は?」
「ええと――」
こうして異国語であったり、算学であったりと、その後も時生は質問を続けた。
実際澪は様々なことを知っているが、時生から見れば、教えられることはたくさんありそうだった。勿論時生より優れた知識を持つ面も多かったが、これならば自分でも役に立つことが出来そうだと考える。
謎々のように、そうして問答を重ねていると、すぐに昼食時になった。
扉がノックもなく開いたのはその時である。
「昼飯ですよー!」
入ってきたのは、十五・六歳くらいの少年だった。
「渉!」
するとそちらを見て、澪が笑顔になった。
「おっ、坊っちゃんは今日も元気だな! ええと、そちらが時生さん?」
「あ、はい!」
「俺は渉と申します。ここの書生なんだ。宜しくお願いしまーす!」
「高圓寺時生です、宜しくお願いします」
そんなやりとりをしてから、朝に食事をとった洋間へと向かった。
本日の昼食はカツレツで、また時生は残してしまったが、非常に美味だったし満腹になり、泣きそうなほどに幸せだと感じた。
食後、時生は、小春にそっと肩を叩かれた。
「時生さんや」
「はい!」
「午後は、澪様のお昼寝の時間でのう。私が見ておるから、時生さんは少し休んでな」
「えっ、で、でも、僕はお世話を――」
「そんな、つきっきりでは疲れてしまうだろうに。いいんだよ。ゆったり、ゆったり」
目尻の皺を深くして、小春が優しい声を放つ。このような対応を受けたことはなく、常に働かされるか罰を受けていた時生は、胸をギュッと掴まれたような、切ない気持ちになった。
見れば真奈美も渉も頷いている。礼瀬家の人々はなんて温かいのだろうかと、涙腺が緩みそうになった。
「……はい」
「うんうん」
頷いてから、小春が澪を見た。
「ほれ、澪坊っちゃん。行きますぞ」
「はーい。絵本、読んでくれるだろ?」
「そうしましょうかね」
こうして澪と手を繋ぎ、小春が出て行った。見送っていると、真奈美がお皿を下げ始めたので、慌てて時生はそちらを見る。
「手伝いましょうか?」
「あら? いいのよ。これは私の仕事なんだから。その分、きちんとお給金を頂いていますからね。あ、勿論お休み時間も貰っているのよ?」
楽しげに笑った真奈美の声に、おずおずと時生は頷く。
すると渉が、時生を見た。
「今から八百屋兼万屋の鴻大さんが食料を持ってきてくれるから、台所に運ぶのを手伝ってくれないか?」
「こらぁ! 渉!」
「なんだよ? 俺一人じゃ重いんだよ、アレ。大体、俺は書生なんだぞ? 荷運びをするの、おかしいだろ!」
真奈美と渉のやりとりに、慌てて時生は声を挟む。
「やらせて下さい。ぼ、僕、僕でよければ!」
すると二人が顔を見合わせた。そしてどちらともなく笑顔になった。
「優しいのね、時生さんは」
「それでこその男だよな? うんうん。行くぞー!」
こうして渉と共に、時生は勝手口へと向かった。台所脇の小さな戸の前に立って少し死すると、大きなノックの音が響いてきた。
「お、来たみたいだな。はーい!」
渉が声をかけると、扉を開く。そこには、長身で大柄の、二十代後半くらいの青年が立っていた。腰から下にかけて紺色の布を巻いていて、そこには白字で、『鴻大屋』と書かれている。白く小さな波線のような記号が、その横に描かれている。黒い短髪をしており、目の形は少々つり目の大きな瞳をしている。渉を見て笑ってから、鴻大は時生をまじまじと見た。
「ん? 新顔だな。こちらは?」
「今日から入った、時生さんだ」
「そうか。宜しくお願いします。俺は、鴻大晃と言って、この礼瀬様のお宅に、食料や酒を卸してる八百屋兼万屋だ」
精悍な顔立ちの鴻大は、そう言ってから楽しそうに笑い、背後に振り返る。
「よし、じゃあ、運んできます。渉くんは、荷下ろしを手伝ってくれ」
「分かってるよ。じゃ、俺はここまで運ぶから、時生さんは、そこの棚とか台とかに上げていってくれ。細かい分類は真奈美がやるから、適当でいいからな!」
「はい!」
こうして時生は、野菜や酒を、勝手口の前から、そばの台所の棚などへ運ぶ手伝いをした。細い体で力が元々あまりないのだが、必死で運んでいく。すぐに玉のような汗が浮かんできたが、お世話になっているお返しを少しでもしたいという想いから、必死に頑張った。それに高圓寺家でも、重い荷物を運ばせられることは何度もあった。時に取り落とせば、折檻を受けることも珍しくはなかったので、細心の注意を払って運んだ。
三十分ほどして、全てを運び終えると、鴻大が帰っていった。
それを見送ってから、渉が時生の運んだ品々を見る。
「適当でいいって言ったのに、完璧に分類してる……! 時生さん、すごいな!」
「そ、そうかな? そんな事はないと思うけど……」
そこへ真奈美がやってきた。
「あら! 整理整頓までしてくれたの? 本当に助かる。渉にはこんな気の回し方は出来ないものね。時生さん、ありがとう!」
「うん。俺には無理」
「貴方はもうちょっと気を遣いなさいよ」
二人にそのように賞賛されて、時生は困惑しつつも、役に立ったようだと嬉しくなった。ホッとしながら小さく笑うと、二人が時生を見る。
「丁度お茶の時間だし、一緒に休みましょうか。お饅頭があるのよ」
「お、いいな、真奈美! ほら、行きましょう、時生さん!」
「は、はい!」
このように、三人で使用人が主に休憩で使う和室へと向かい、畳の上に座って、緑茶の入る湯飲みを前にしながら、饅頭を味わったのだった。
その後澪が昼寝から起きてから、時生は再び澪の部屋で相手をする事になった。
「澪様は、干支は全部分かる?」
「分かるぞ! 今年はうさぎの『う』だから、ええと、子・丑・寅・卯・辰……えっと……」
指折り数えてから、悔しそうに澪が頬を膨らませた。
「教えろ!」
「明日からお勉強しましょうか?」
「今、教えろ!」
「――いいですよ。ええと、辰の次は巳です。それから午・未・申・酉・戌・亥と続きます」
「な、なるほど。わ、わかってたんだ、本当は!」
「ふぅん」
澪の可愛らしい嘘を、追求することなく時生はニコニコしながら聞いていた。
するとばつが悪そうな顔をして、じっと澪が時生を見た。
「う、嘘をついた……ごめんなさい」
「そうなんですね」
「うん。だけど、教わったから、もう言えるようになったぞ! 子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥だ!」
誇らしげに笑った澪を見て、つい時生はその髪を撫でてしまった。すると澪が目を丸くする。そしてふっくらとした両頬を持ち上げて、嬉しそうに頷く。
「おれ、すごいだろ?」
「うん。澪様は、とってもすごいですよ」
「――かたいぞ!」
「え?」
「時生はおれの先生なんだから、もっと堂々と喋ればいいのに。どうして敬語なんだ?」
「えっ……僕は先生と言うより、澪様の子守り……お世話を頼まれているだけなので」
「今、子守りと言いかけたな? おれは子供じゃないから、そんなのいらない。お世話はして欲しいけど小春がいる! 真奈美もいる! 渉もいる! 時生はやらなくていいだろ!」
澪の声に、それでは己がここにいる理由が無くなってしまうと思い、澪にそういった意図が無いのは分かったが、時生の胸がズキリと痛んだ。しかしこのようにあどけない子供をダシにして居座ろうとしている自分自身が一番許せなくて、そちらの方に苦しくなる。
「どうしてそんなに悲しそうな顔するの……? おれ、いじめたか?」
「う、ううん。なんでもないです」
「そっか? うん。お腹痛いのか?」
「平気です」
時生は必死で作り笑いをしたが、澪は心配そうな顔のままだ。どこかしょんぼりして見える。
「おれ、時生にはずっと先生でいてほしいから、病気にはなるなよ?」
「っ、先生……」
「うん。おれの先生は、お父様と時生だ。お父様からは書道と剣道とあとあやかしの事を習ってるんだぞ。おれ、お父様には負けるけど、強いんだからな。それで時生には、その机の上の本のことを教わるんだ。そうだろ? 教えてくれるって朝言ってた」
「……本当に、僕が先生でもよいのでしょうか?」
「うん。おれはいいぞ! お父様が連れてきたんだから、お父様もいいって言う!」
断言してから、澪がひょいとソファから飛び降りて、テーブルの横をまわり、時生のそばに来てから、隣に座った。そして時生の腕を、己の両腕で抱く。
「あのな、時生は、おれの先生だから、あ、朝は教わらなくていいって言ったけど、あれも嘘だ。全部嘘だ」
澪は少々気性が荒いようにこれまで感じていた時生だったが、必死にそう言う澪を見て、気を遣ってくれているのだとありありと分かり、胸がギュッと締め付けられたようになる。
「だからっ、おれが言いたかったのは……時生は敬語じゃなくていいってお話で……っ」
すると澪が泣きそうな顔で、時生を見上げた。すぐに瞳が潤みはじめる。
ハッとして息を呑み、慌てて時生は澪を横から抱き寄せた。
「ありがとう、澪様」
「うん……うん……っ」
涙声で頷いた澪は、ギュッと時生に抱きついている。額を時生の胸にぐっと押しつけて、俯いて泣いている。その温もりに、時生は優しさを感じた。しっかりしなければ――自己憐憫に浸っている場合ではないと、そう決意しなおす。
「わかりまし……わかったよ。明日からと言わず、今日からビシビシ行くからね」
笑顔を取り戻して時生が言うと、顔を上げた澪はこれでもかと目を見開き、まん丸にしていた。そして二度ほど瞬きをする。どうやら涙は乾いてしまった様子だ。
「なにからやりたい? 希望はある?」
「う、うん……で、でも、もうすぐお父様が帰ってくる! あ、明日でいいぞ! 時生はもう休め!」
「僕の雇い主は偲様だから、澪様のご命令は聞けないよ」
「なんだとー!?」
澪が唇を尖らせる。
扉が開く音がして、クスクスと笑う声がしたのは、その時の事だった。
「扉の外まで聞こえていたぞ。随分と親しくなったようだな」
そこには偲が立っていた。帰ってきたばかりのようで、軍服を纏ったままである。
「どうぞ、ビシビシと躾けてやってくれ」
「は、はい……えっと……その……」
慌てて時生は居住まいを正す。その横から絨毯の上に飛び降りて、澪は駆けていき、偲に飛びつく。それを両腕で迎え、そのまま抱き上げた偲は、微笑しながら首を傾げた。
「その、なんだ? なにか問題か?」
「――いえ。僕、明日からも頑張らせて頂きます」
「俺に対しても敬語でなくとも構わないのだが」
「えっ、どこから聞いていらしたんですか……? そんなわけには参りません……」
「さて、どこからだろうな。今、真奈美が配膳をしてくれている。まずは、夕食としよう」
こうして偲は澪を抱き上げたままで踵を返した。おずおずと立ち上がり、時生も後に従う。三人で朝食を共にした洋間へと向かうと、偲の先程の言葉通り、真奈美が料理を並べていた。
「さぁ、座ろうか」
偲の言葉に、時生は頷いた。
いただきます、と、手を合わせてすぐ、偲が澪を見る。
「今日は何を学んだんだ?」
「えっと、干支を復習した! ほかは俺が教えてやったんだ!」
「そうなのか?」
すると偲が時生に水を向けた。事実なので、微笑して時生は頷く。
「そうです」
「そうか。知識のほどは、分かってもらえたか?」
時生の意図を正確に汲み取ってくれた偲の声に、時生は胸がほんのりと温かくなった気がした。
「はい。算学が少し苦手みたいですね」
「うっ」
澪が呻いてから、顔を背けてフォークをくわえた。
「澪様、危ないからくわえちゃダメだよ」
「ん」
時生の声に、素直に澪が口から離す。それを見守っていた偲が、喉で笑った。
「その調子で頼んだぞ。なにせ俺の言うことしか、これまで聞かなかったものでな。これから澪のことは時生に任せるとしよう」
苦笑した偲の声に、驚いて時生は小さく息を呑む。
「そうなんですか? こんなに気を遣うお子さんなのに……」
「俺もそう思うのだが、何分気難しくてな。それにこの子が優しい子だというと、親馬鹿だと他の者は俺を笑う。時生だけだ、分かってくれたのは」
偲の苦笑交じりの嘆くような声に、時生は曖昧に笑い返す。
「おれはもう大人だ!」
そこへ澪が声を挟む。そちらを見れば、切ってあるエビフライを、フォークで一つ刺していた。唇を尖らせている澪は、本当に愛らしい。
「澪は時生に何を教えたんだ?」
「んんっと、四将のお家の名前が一個目だ。あと一個、お父様があやかし対策部隊の副隊長だって話もしたぞ!」
「そうだったのか。それは説明の手間が省けてなによりだ」
ゆっくりと二度頷いた偲は、優雅にナイフとフォークでエビフライを切り分けながら、続いて時生へと視線を向ける。
「俺は、澪の言う通り、改めて言うがあやかし対策部隊の副隊長をしている」
「はい」
時生が真剣な顔で頷く。
「そのため、なにかとあやかしに狙われる場合もある。勿論この邸宅には結界を構築しているから、めったなことでは害は無い。だが中には、見鬼の才など不要でも目視可能なほどに強い力を持つあやかしが、狙ってくる場合もある。だから時生も、それだけは忘れずに、気を引き締めておいて欲しい」
静かに告げる偲の声に、時生は大きく頷く。
「分かりました」
「よかった。伝えておかなければと思っていたところだったものだからな。また、それとは逆に友好的であったり中立的なあやかしもまた、この世には存在する。そういった連中は、気まぐれに遊びに来る場合もある。その……なんだか俺は、一方で恐れられ、一方で懐かれるたちだと言われていてな。敵にはこれでもかというほど、自分で言うのもなんだが憎まれるのだが、懐いてくるあやかしも多くてな。たまに困ってしまうほどだ」
語るにつれ、偲の目に浮かぶ感情が、どこか呆れたような色に変わっていった。
どんなあやかしを思い浮かべているのだろうかと、時生は首を捻る。
見鬼の才も先見の才も持たない無能として罵られて育ったが、別段それらが欲しいだとか、在ればよかったと思った事もない。だが今は、偲や澪と同じものを視られたならば、きっと楽しかっただろうなと考えてしまう。しかし、無い物ねだりをしても、意味はない。軽く頭を振ってから、時生は改めて偲を見据える。
「どんなあやかしがいるんですか?」
時生が尋ねると、銀器を置いて、偲がワイングラスに手を伸ばす。
「最近は、異国から来たあやかしが多い。たとえば今日などは、英国から来た吸血鬼というあやかしと一悶着あった」
「吸血鬼……? ですか? それは、どんなあやかしなんです?」
「人の生き血を吸うんだ。日本の牙で肩口に噛みつく。元々は我々と同じ人間で、別の吸血鬼に噛まれて死んだ後、同じように吸血鬼となって、人間を襲うようになるあやかしだ」
「そ、それって……死人が歩いてまわって、生きてる人間の血を吸うということですか? それも、吸われたら、こっちまで吸血鬼に……?」
時生は思わず身震いした。すると偲が、頷いてからワインを一口飲み込む。
「そうだ。だが入国時に空港のあやかし対応窓口で、きちんと旅券に記された、『無闇に人間の血を吸わないこと』『輸血パックの所持』『ペットの狼男の居場所は常に把握しておくこと』といった基礎的な事は確認済みであるから、害はそれほどないんだ」
偲は当然のように語るが、時生は空港自体を名前しか知らない上、そこにあやかし対策窓口があるというのも初めて知った。
「だが、血の代わりにワインを飲んでいたその吸血鬼は、うっかり満月の夜に狼男を放し飼いにしていたものだから……人の姿で首輪を引きちぎった狼男が、それから犬の姿になって脱走してしまったと言うんだ。満月以外の場合は、ただの犬だからな、狼男は。これがもう捜索が非常に骨の折れる作業だった。今日やっと部隊の者が見つけて、その吸血鬼に連絡をした。まぁ、このような出来事が多い」
そう言って微苦笑すると、偲がまたワインを飲んだ。
「先程は脅してしまったが、あくまでも『対策』をする部隊であって、『討伐』をする部隊ではないんだ。無論討伐をする事もあるが、あまり多くはない。巷で言われるような、派手な大捕物や、破魔の技倆を用いて討伐するような場面は、日常的にはほとんどない」
「そうなんですね」
「拍子抜けしたか?」
「いえ、そんなことはないです。ペット探しも、大切なお仕事だと思いますし、飼い……狼男が帰ってきたら、吸血鬼さんも喜んだんじゃ?」
「ああ、とても喜んでいたよ。だが、少し疲れてしまった」
そう言って両頬を持ち上げた偲は、言葉とは裏腹に少しも疲れが見えず、とても明るい表情だ。喜びの方が強いのだろうかと、時生は見守る。すると偲が話を変えた。
「時生、朝よりは少し多く食べられそうか?」
「えっ、あ、はい!」
「そうか。澪の先生になり世話をすることも仕事だが、体調管理も大切な仕事だと心得るように。まずは少し、太れ」
「……はい」
誰かにこのように体を気遣われたのは、母が没してからは、ここに来るまで本当に一度も無かった。だからこういった些細な一言が、とても嬉しくてたまらない。
――なんとか、やっていけそうだ。
内心で時生は、そう考えていた。
偲に恩返しもしたいし、与えて貰った仕事もまっとうしたい。
「僕、頑張ります。これから、宜しくお願いします!」
ぺこりと時生が頭を下げると、偲と澪が顔を見合わせてから、そろって時生へと視線を向けた。
「こちらこそ。宜しく頼む」
「うん、おれもよろしく頼むぞ!」
こうして、時生の新しい生活が、幕を開けたのだった。