緊張しながら執務室の扉をノックすると、すぐに入るようにと声がかかった。
扉を開けると、そこにはなだらかな曲線を描く壁が広がっていて、突き当たりに行くに従い直線になっている部屋があった。その正面に大きな執務机があり、左右の角に別の机がある。中央には黒い短髪をした精悍な顔立ちの男性がいて、右手に青波、左手に偲がいた。偲の机の隣に、真新しい小さな机がある。壁一面には書架があり、様々な書類が収められている。左の端には、応接席が見えた。
時生の姿を見ると、三名が立ち上がる。
そして最初に、ニッと笑って、中央にいる青年が口を開いた。
「ようこそ、高圓寺時生だな。俺は、この深珠区あやかし対策部隊の隊長をしている相樂達樹と言う。たっくんとかと呼んでくれてもなんら気にしない、気さくな隊長だ」
相樂の声に、偲が呆れた顔をし、青波が吹き出した。
「相樂さん、しまらないから、最初くらい真面目にして下さいよ」
「でもなぁ、青波。最初に怖い印象を与えたら、可哀想だろう。な? 時生くんもそう思うよな?」
快活な声音の相樂を見て、時生は曖昧に笑う。その前で、相樂が続ける。
「あやかし対策部隊の代表として、歓迎する。しばらくは、破魔の技倆の訓練と――あとは俺達に非常に欠けている異国語、特に英語の書類の対応をお願いしたいと考えている。席は取り急ぎ偲の隣だ。英語の書類は機密が多いから、こちらで仕事をしてもらう。その他のあやかし対策部隊の軍人としての仕事も後々担ってもらうから、それに関しては向こうの通常業務を行う部屋にも席を用意する」
精悍な顔立ちの相樂は、逞しい腕を組み、笑顔で語った。
「高圓寺時生です。宜しくお願いします」
色々挨拶を考えてはいたのだが、時生はそれしか述べることが出来なかった。
「よし、まずは荷物を偲の横の席に置くといい。今から、破魔の技倆の訓練を行える鍛錬場へと案内する」
「は、はい!」
言われた通りに、時生は筆記用具などを入れてある小さな鞄を机に置いた。この鞄もいつか偲に買ってもらったものだ。
「俺が行ってくるから、青波と偲は、議題に関する対応を続けておいてくれ」
指示を出した相樂が、時生へと歩みよってきた。隣に並ぶと、身長こそ偲や青波よりも低いのだが、圧倒的な存在感がある。黒く短い顎髭を撫でた相樂は、それからポンと時生の肩を叩くと歩きはじめた。時生は慌ててその後ろに従う。
隣室に戻ると、既に結櫻の姿は無かった。先程までは、己の相手を買って出てくれていたのだろうかと、時生は考える。
「こちらだ」
対策部隊の本部を出て、少し歩いた先に、扉があった。そこを相樂が開けると、階下へと続く細い階段があった。
「ここは地下の鍛錬場に直通できる階段なんだ。これからはここを使うといいぞ」
「はい!」
何度も頷き、時生は相樂に従う。
それから四度ほど踊り場を抜け、時生は地下に降りた。そこには白い床に五芒星が描かれている広い部屋があった。壁中にお札らしきものが貼り付けられている。
「めったなことでは、壊れないように出来ているから、全力を出して鍛錬に励んでもらって構わない。先に奥を案内する」
相樂に促されて鍛錬場の奥に行くと、片方には射撃訓練場、片方には案山子のようなものが三体立っている部屋があった。
「慣れてきたら、あやかし対策専用の――要するに討伐と威嚇専用の軍銃や軍刀を支給することになる。あの案山子は、軍刀の訓練用で自動人形だ。式神の力と機械の力で動く擬似的なあやかしだ。もう一つの的の方は、射撃の精度をあげるために使う。どちらにしろ、破魔の技倆を込めた武器で倒す訓練となる。そのためには、破魔の技倆を自在に使えるようにならなければならない。これから時生はその訓練をするというわけだ」
時生は説明を聞きながら、まだ実感がわかなくて、頷くことだけで必死だった。たとえば澪を守れるようになりたいと思ったのは本心だが、自分が具体的に武力を持つという想像がまだどうしても出来ない。
「さて、あちらに戻ろう。破魔の技倆の初歩は、瞑想なんだ。五芒星の中央に座ると良い。座り方は、正座でもあぐらでもなんでも構わない。自分が一番楽に出来る姿勢で、集中出来るようにすることが肝要だ」
相樂はそう言うと、広い部屋の床を進み、中央の床に埋め込まれている球体を見た。
時生もそちらを覗きこむ。
「これは、破魔の技倆を引き出す補助をする護石だ。この前に座り、目を閉じて、自分の中の破魔の技倆が護石に集まる表象を脳裏に描く。それが初歩だ。そのために呼吸法を覚えたり、体の中に力が廻る感覚を掴んだりする」
「やってみます」
「ああ。それから破魔の技倆には、見鬼の才や先見の才が付属するのが常だ。特に見鬼の才に関しては、破魔の技倆が顕現した段階で、発現する事が多いが、一応その訓練施設が、こちらにある」
相樂はそう言うと、射撃場とは逆側の奥の部屋へと視線を向けた。
「一度見てみるか?」
「は、はい」
今度はそちらへと向かい、固く閉じられた扉を相樂が開ける。中に入った瞬間、時生の背筋に怖気が走った。硝子戸があり、その向こうに座敷牢があった。赤い着物姿で、長髪の女……いいや、人間には到底見えない何者かがそこにいた。
「視えるか?」
「はい……」
時生の声が震える。
「あれは、本部が契約している、派遣で来てもらっているあやかしだ」
「派遣?」
「ああ。協力的なあやかし連中に、視る訓練のために、日当を払って、あそこに一日居てもらうんだ。見た目は様々だが、危険はない。細部までしっかり見えるように、訓練に協力してもらうようにな」
なんでもない事のように相樂が述べる。時生は冷や汗をダラダラとかいたままだったが、おずおずと頷いた。
「まぁ何事も少しずつだ。とりあえず、今日は瞑想を試すといい。昼になったら偲に顔を出させる。初日だからな、今日は午前で上がっていい。明日からも宜しく。なにか困ったことがあれば、偲にでもいいし、なにより俺に言うといい」
バシバシと時生の肩を叩き、明るい声で相樂が言った。
まだなんの実感も沸かない時生だったが、大きく頷く。
「頑張ります」
このようにして、時生のあやかし対策部隊での日々が幕を開けた。
「おかえりなさい!」
礼瀬家に帰宅すると、澪が偲に飛びついた。抱き留めた偲が柔らかな顔で笑う。
その隣で、漸く緊張が解けた心地になり、時生も大きく息を吐いた。なにより、澪に『おかえり』と言われたことが、この場にいていいのだと感じさせられて嬉しくてたまらない。
三人でそのまま洋間の食堂へと向かうと、既に静子の姿がそこにはあった。黒い台座にが椅子の上にあり、その上に優雅に巨大な鶴が立っている。まだその姿に慣れない時生であるが必死に笑みを取り繕い一礼した。
「おかえりなさい、偲さん、時生さん」
かろやかな静子の優しい声が響いてくる。こうして食事が始まった。
「時生、初日はどうだった?」
すると道中では敢えて聞かなかったのか、偲が穏やかな声で尋ねた。帰り道では、コートを買おうかなどと言う話をしながら帰ってきたものである。
「は、はい。皆さん、良い方そうで」
「ああ。少し癖がある者が多いが、悪い者達ではない。困ったらなんでも俺に言うといい」
偲はそう言いながら、カツレツを切り分けている。
時生はお味噌汁を飲みながら頷いた。
「時生、食事が終わったら、明日英訳して欲しい書類を先に渡しておく。ただ、時間外に働く必要はない。明日忙しなく渡すことがないようにというだけだ」
「わかりました」
優しい偲の言葉に頷きながら、時生は食事を終えた。
それからは澪が食べるのを時折手伝い、団欒の一時を過ごす。
こうして食後、軍服から和服に着替え、時生は偲の部屋へと向かった。するとまだ軍服姿で、万年筆を書類に走らせている偲がいた。
「ああ、悪いな」
偲は顔を上げると、執務机の上にあった分厚い茶封筒を時生に示す。歩みよって、時生はそれを受け取った。傍らには、辞書が置いてある。
「特にあやかし専門の対訳用語は、難解かもしれないが、時生ならばすぐに覚えられると思う。俺も一定の事は分かるから、困った場合は聞いてくれ」
「ありがとうございます」
辞書も受け取り、封筒を抱えて、時生は頑張ろうと決意し直す。
「数日の間は、慣れた方がいいというのもあるから、連日で通ってみるといい。落ち着いたら当初の話の通り、週に二日程度だ。明日からは馬車を呼ぶ。俺が先に行く日もあるとは思うが、時生はゆっくりと来てくれればいい」
穏やかな声を放った偲は万年筆を置くと、正面から時生を見て、唇の両端を持ち上げる。
「時生。なにも気を張ることはない。これからは、訓練もあるが、同僚として宜しく頼む」
偲のその言葉が嬉しくて、時生もまた満面の笑みを浮かべたのだった。
次の日、吐く息が白くなるその朝は、昨日の偲の宣言通り、礼瀬家の前には馬車が停まっていた。澪と手を繋いでいる小春に見送られて、時生は偲と共に馬車に乗り込む。車窓から行き交う人々を眺めれば、皆忙しなく歩いているように見えるが、どことなくその光景すら平穏を感じさせる。
膝の上に置いた鞄の中にある茶封筒と辞書について考えている内に、馬車は本部の前に停車した。本日も高東中尉に挨拶をしてから、時生は偲と共に執務室へと向かう。本日は相樂と青波の姿がない。
「それでは、始めるとするか」
偲の声に、時生はおずおずと封筒を差し出す。
「き、昨日少しやってみたんです」
「――やらなくていいと伝えただろうに」
時生の声を聞くと、偲が苦笑した。
「これからは、やはり先に渡すのは止めにしなければならないな。見せてくれ」
受け取った偲は、中から書類を取りだし、文字を視線で追いかけてから、はにかむように笑った。
「完璧だ。ありがとう」
「すごいなぁ、偲が笑ってる」
そこへ声がかかった。時生が視線を向けると、入り口の扉を音もなく開けた青波が目を丸くしていた。すると一気に偲の表情が冷ややかになる。
「青波……俺だって笑うこともある」
「それは知らなかった」
「嘘をつくな」
「確かにそこまで言うのは嘘だが。ふぅん」
青波は面白そうに笑った後、自分の席へと向かう。そして背後の棚から書類を取り出し執務机の上に置くと、疲れたように溜息をついた。
「これも面倒なんだよな、訳すの。時生くん……」
「青波、時生をいいように使うな」
「なんだよ? お前だけの補佐じゃないだろ」
二人のやりとりに、時生が声を上げる。
「僕にできる事があるなら……」
すると二人が沈黙してから、どちらともなく優しい顔で笑った。
「なるほど、時生くんは良い子なんだな。こりゃあ俺まで笑顔になる」
「そうだ。時生は善良でもあるし、人が良い」
「偲が過保護になるのもよく分かる」
こうしてそこからは、三人で異国語の書類と格闘した。時生から見ると、多くの記述は簡単だったが、そこに混じる専門用語は、やはり辞書が無ければ難しく感じた。吸血鬼とこの国で呼ばれる存在一つとっても、各国で様々な呼ばれ方がしている。その上、漠然と時生は吸血鬼としか考えていなかったが、ダンピールなども存在すると、時生は辞書を読みながら、同時に知識をつけていった。
そのような日々が数日続いた頃だった。
一区切りついた様子の偲が、時生を見た。
「二日後に、慰霊祭があるんだ。今日の午後からは、俺達はその準備にかかりきりになるから、その間時生は、通常任務を覚えるといい。あちらの対策室に待機している――ああ、今日明日は灰野が担当か。彼に、教えてくれるよう頼む。ついてきてくれ」
「はい!」
こうして時生は特別執務室を出た。偲は正面にある扉へと真っ直ぐに歩いて行く。扉には、本部対策室という看板が出ていた。偲が扉を開けると、中には机の列があり、壁際の一角に灰野が一人で座っていた。他の面々は出払っている様子だ。
「灰野」
偲が声をかけると、灰野が顔を上げた。
「今日明日と、時生に通常の任務について教えて欲しい。もう半年経つし、先輩として、お前にならばそれが可能だと俺は判断している。任せて構わないか?」
「……はい」
灰野は少し間を置いてから、感情の窺えない声で返答した。
偲はそちらに頷くと、時生を見る。そして優しく肩を叩いた。
「あまり無理せずな」
時生が小さく頷くと、笑みを深めてから、偲が部屋を出て行った。背後で閉まった扉の音を聞いていた時生は、それから改めて灰野を見る。
「は、はじめまして。高圓寺時生です。宜しくお願いします」
「……ああ。今、こちらの隣席の荷物を退ける。そこに座ってくれ」
灰野は平坦な声でそう述べると、自席の横の机の荷物を奥に押した。確かに時生の分の席は空いたが、単純に荷物が横に移動しただけなので、整理などはしていない。おずおずと時生が歩みよると、灰野が椅子を引いてくれた。灰色の回転椅子だ。
「……」
「……」
目元しか見えない灰野だが、特に笑っているわけでも怒っているわけでもない様子で、時生には無表情に見えた。長身だから威圧感がある。会話が無くなってしまったのだが、時生は余計な言葉を述べて相手の気を害する事が怖いため、なにか口を開くべきか思案せずにはいられなかった。
「……その」
「は、はい」
「……通常任務というのは……要は、なにかが発生した時に備えて、ここに座って待機していたり、事件が起こったら対策方法を考えることで……基本的には、それらもなく、なにもする事はない。そのため、席に着いて過去の出来事の書類を読むのが常だ。それだけだ……だから、俺が教えるようなことは特にない」
灰野は時折間を挟みつつ、淡々とそう述べた。そして正面に詰まれている書類の山から、一つの議事録を手に取ると、時生に手渡した。
「たとえばこれは、明後日行われる慰霊祭――最後に起きた、第一級指定あやかし災害の記録だ」
「第一級指定あやかし災害……?」
「ああ。害あるあやかしには……その……事件の規模や脅威の度合いによって、いくつかの指定がある。たとえば、そこに記されている【牛鬼】は、過去に大勢のあやかし対策部隊の軍人を殺害しているから……指名手配され懸賞金もかけられている。そういったあやかしは、指名手配書・深緋に分類される、最も危険な存在だ」
つらつらと語る灰野の声には、やはり感情は見えない。ただその声音はどこか冷ややかで、冷徹そうな印象を与える。威圧感のある気配と鋭い眼光に、時生は少しばかり怯えかけた。だが、親切に説明をしてくれているのは間違いないと感じ、必死で頷く。
「そういった勉学をして知見を深めたり、あとは破魔の技倆の訓練をしたりしている」
それを聞いて、時生は顔を上げた。
「どんな風に訓練をしたらいいのか、巧く掴めないんです……どんな風に訓練をしたらいいとかは、ありますか?」
するとチラリと灰野が瞳を動かし、時生を見る。それまで目が合わなかったので、時生は正直ドキリとした。射貫かれたような気分になったからである。どことなく、怖い。その理由はよく分からないのだが、直感としかいいようがない。
「……訓練室へ行って、あやかしを視ることから始めればいい。そして、まずは……慣れることだ。怯えていたら、なにもできない」
灰野の言葉を忘れないようにしようと思ってから、二日。
時生は、ビシリと糊のきいたワイシャツを着て、首元のネクタイを締めていた。
本日は偲が先に出たので、一人で軍本部へと向かう。
軍服はまだ慣れないが、これもまた新しい自分の居場所の一つだと、それが出来たのだとそう感じ始めていた。これまでの人生において、己が外部で働くという未来を考えたことがなかったので、やれる事があるのも嬉しい。
本日の慰霊祭は、帝都中央あやかし対策会館で行われると聞いていた。
馬車の御者には、既に偲が行き先を指示してくれていたので、時生は車窓から街並みを眺めながら、進むに任せた。
昨日までに学んだこととして、【牛鬼】という危険なあやかしに殺められた軍人や、その遺族のための慰霊祭なのだという。
馬車から降りた時生が視線を彷徨わせると、近くに結櫻の姿が見えた。茶色いコートを上に着ている結櫻は、時生に気づくと微笑して、手招きをした。本日も右手には指輪が輝いている。
「おはよう、時生くん」
「おはようございます」
「いやぁ、寒いね」
肩を竦めた結櫻は、それから会館に振り返った。
「さぁ、入ろうか」
「はい」
時生が頷いたのを確認してから、結櫻が歩き出す。時生はその横顔を見ながら、何気なく尋ねた。
「今日は、【牛鬼】というあやかしの被害者の慰霊祭なんですよね?」
「そうだよ。たとえば、僕の父や祖父のことだね」
「え?」
「結櫻の血筋は、もう僕しか残っていない。【牛鬼】にみんな殺されちゃってね」
結櫻の声は明るく、なんでもない世間話のような調子だったが、時生は顔を強ばらせた。
「ご、ごめんなさい……」
「どうして謝るの? あやかし対策部隊に所属していたら、殉職することなんて珍しくはないよ。気にしないで」
「……でも」
「うん?」
「……僕は、母が亡くなった時、とても悲しかったから、こんな風に聞いてよかったことだとは思いません。結櫻さんのことを何も知らないで、こんな風に聞いてしまったの……その……謝りたくて」
「ふぅん。優しいのはいいことだけど、それは時生くんの自己満足だ。謝って君の気が楽になるならそれはそれでいいのかもしれないけどね」
結櫻の口調はいつもの通り優しげなままだったが、厳しい一言に時生の胸が苦しくなった。するとそれを見ていた結櫻がクスクスと笑った。
「ごめんごめん、ちょっと虐めすぎちゃったね。本当に気にしていないだけだから」
結櫻はそういうと、時生の頭をポンポンと叩いて会館の中へと入っていった。
時生もその後を追うと、玄関を抜けてすぐの広間に、深珠駐屯地あやかし対策部隊の人々が集まっていた。
「連れてきたよ」
「ああ、悪いな。迎えに行ってもらって」
偲が結櫻にそう返したのを聞いて、待っていてくれたのだと時生は気づいた。
「僕が行くと言ったんだからいいんだよ」
結櫻が振り返り、にこやかに時生へと笑みを向けた。優しい人なのだなと、時生は考えた。
その後一同を相樂がまとめてから、改めて会館の庭へと移動することになった。
そこには縄がつけられた、巨大な黒い石があった。
墓石のようで、表面には多くの名が刻まれている。それを見ていると、偲がぽつりと言った。
「あそこには、殉職した者の名が追加されていく。今後、そのような事が無いように、必ず【牛鬼】は捕まえなければならないあやかしだ」
偲の説明に、その隣にいた青波が言う。
「あやかしというより、最早災害だな。意思と知能がある災害だ。厄介だよな」
それを時生が聞き終えた時、『静粛に』という声が響いてきた。
巨石の前に用意されている壇上に、一人の壮年の軍人が上がっていく。いくつもの勲章をつけている。そこから少し離れた位置に、司会らしき軍人が立っていた。
「これより礼瀬中将から、全軍人を代表し追悼の――」
そこに立つ白髪の軍人の名に、どうやら偲の父であるらしいと時生は考えた。
始まった挨拶は、とてももの悲しい出だしだった。
それが変化したのは、礼瀬中将の声に怒気のようなものが宿った時のことである。
「【牛鬼】の討伐は、我々全あやかし対策部隊の悲願である。今代においてこそ、古より連綿と人に害なす【牛鬼】を、必ずや討伐しなければならない。この墓標に誓い、先達の死を決して無駄にしないように」
時生は身震いした。会場中に緊張感が溢れている。
嘗て偲は、討伐はあまりないと話していた。だがこの【牛鬼】に限ってかもしれないが、ここにいる多くの者が闘志を抱いているのが、はっきりと伝わってきた。
――果たして自分が【牛鬼】と対峙した時、己には何か行動を起こすことが出来るのだろうか?
時生は自問自答してみたが、答えを出せなかった。それは自分に力が無いからではない。善悪の判別がまだつかないからだ。けれど結櫻の家族を害したというのならば、それは憎むべき相手だとは思う。たとえば澪が害されそうになったらと考えた場合でも、絶対的に対処したい。
だが先程青波が、『意思と知能がある災害』と述べた言葉が妙に気になっていた。
なんの思惑もなく、その【牛鬼】という存在は、行動しているのだろうかと、小さく首を傾げる。
まだまだ分からないことだらけだ。理解する事を含めて、できる事を一つずつやっていき、前に進みたいと時生は考える。
このようにして慰霊祭の時間は流れていった。
「んんん。灰野が帰ってこないな」
青波が渋い顔をしている。偲と山辺、黎千と結櫻は先に深珠区へと戻っている。
慰霊祭が終わり、広場に戻った面々は、それぞれ周囲を見渡していた。
「俺がさっき資料庫に届け物を頼んだっきりだな。慰霊祭の最中もいなかったしな」
青波はそう言って腕を組むと、怪訝そうに周囲を見てから、白い柱の時計を見上げた。
相樂がその横に立つ。
「探した方が良い。道に迷っているのかもしれん」
「ああ、そうだな。手分けして探すとしますか」
青波が頷き、一同もまた首を縦に振った。時生も道には詳しくないが、会館の中で迷子になるとも思えないので、捜索に加わる。高級そうな調度品が並んでいる、よく磨かれた三階の廊下を時生は進んでいった。そして角を曲がった時の事だった。
「っく」
壁に叩きつけられる音と、呻き声が聞こえた。
目を疑って、時生は立ち止まる。そこには殴り飛ばされた灰野がいて、壁に背中をしたたかに打ち付けたところだった。座り込んでいる灰野の顔の横で、誰かが黒い軍靴を壁に打ち付けている。膝を折り曲げている軍人が、二度三度と灰野の顔の脇の壁を踏むように蹴りつける。
「お前みたいなあやかし対策部隊の面汚しは、さっさと出て行け」
せせら笑うような誰かの声がし、屈んだその軍人が灰野の首元を左手で捻じり上げた。
そして右の拳を握り、振り上げている。
時生は思わず走って、その腕を引っ張った。
「何をしてるんですか!! 止めて下さい!!」
「――あ? なんだお前は」
するとぎろりと時生を睨んだ短髪の青年は、背後にいる仲間らしき集団を一瞥してから、改めて時生を見て、腕を振り払った。
「こんな奴を庇うのか?」
「なにがあったのかは知りませんが、こんなの止めてください!」
「知らない? だったら口出しするな。お前も殴られたいらしいな?」
男は姿勢を正すと、今度は時生に向かって、にたりと笑い拳を振り上げた。
「っ」
思わず時生は目を見開き立ちすくむ。殴られると思っただけで、過去に繰り返された暴力が脳裏を過り、体が動かなくなった。男の腕が振り下ろされる。それが妙に緩慢に時生には見えた。
「……止めろ、無関係だ」
「!」
するとそれまで黙って殴られていた灰野が、素早く時生と青年の間に割って入り、狼狽えている相手の手首をきつく握った。
「やろうっていうのか?」
「……」
「お前ら、こいつらはよっぽど殴られたいらしい。やっちまえ」
男の声に、周囲にいた軍人連中が二人を囲む。そしてそれぞれが殴りかかろうとした時だった。
「どういう状況だ? 何をやっている!?」
よく通る声が響いた。それが相樂のものだと気づき、反射的に振り返った時生は気が抜けて、涙ぐんだ。
「この人達が、灰野さんを殴ってたんです!」
「なんだと? 事実か? 灰野?」
歩みよってきた相樂に対し、灰野が俯いた。周囲にいた連中は、逆に勝ち誇ったように笑う。
「これはこれは相樂隊長。そんな奴を押しつけられた深珠駐屯地の可哀想な隊長様だ。当然俺達は何も悪くないとご存じですよね? 殴っても殴っても殴り足りない」
それを聞いた相樂は、無表情になり、逞しい腕を組んだ。
「事実確認をするが、貴殿は灰野大尉を殴ったのか?」
「ああ、それが?」
「――俺の部下に何をしてくれてんだよ!!」
直後、相樂が派手に正面の青年軍人の顔を拳で殴った。吹っ飛んだ青年は、呆気にとられたように床に転がると、頬を押さえた。
「おいおい、相樂さん、何してるんだよ!?」
そこへ青波の声がかかった。事態が飲み込めない時生は振り返る。
「灰野さんを殴ってた人を相樂隊長が殴ったんです」
時生が事情を説明すると、透き通るような目をした青波は、冷静な顔で頷いた。
そして、笑顔になる。
「なるほど。俺の隊の者に手を出すとは良い度胸だな、お前ら。全員無事で帰れると思うな!!」
こうして青波もまた、拳を振り上げる。すると我に返ったように、周囲にいた軍人達も臨戦態勢になり、その場で殴り合いの大乱闘が始まった。呆気にとられつつ時生は、自分を庇ってくれた灰野を見る。マスクが取れていて、端正な口の端から血が零れている。それを目視し、慌ててポケットからハンカチを取り出して差し出す。
その騒動はすぐに決着した。
灰野を取り囲んでいた人々は、相樂と青波により、その場に伸されたからである。
時生が呆然としていたその時、不意に声がかかった。
「なんの騒ぎだね?」
見るとそこには、先程壇上にいた礼瀬中将が立っていた。相樂と青波が姿勢を正す。
時生は灰野を支えつつ、そちらを見た。
「ご無沙汰致しております、礼瀬中将」
「相樂。挨拶は不要だ。なにがあったかと聞いているんだが……」
「私の部下が愚弄されたもので、いてもたってもいられず」
相樂の声に、礼瀬が周囲を見渡してから、最後に灰野を見た。そして頷いてから、這いつくばっている軍人達へと改めて顔を向ける。
「相樂、青波。遠目に見ていたが、血気盛んなところは、隊長と副隊長になったのだから、そろそろ抑えよ。そう何度も申しているだろう……私とて庇っても庇いきれん。暴力を、私はよしとはしないぞ」
それを聞いた、床にいる軍人達は、少しだけ希望がわいてきたような顔をした。
「そうですよ! こんなのは軍法違反だ!」
「何を言っておる? 先に手を出したのは、そちらなのだろう? まったく」
するとぎろりと礼瀬中将が睨んだ。その眼光に、その場にいた全員が、時生も含めて凍りついた。
「相樂。こういう輩は死んだ方がマシな目に遭わせよと、何度も教えただろうに」
そう言うと礼瀬中将は屈み、灰野を殴っていた軍人と視線を合わせてニコリと笑った。
その瞳だけは、非常に冷徹な色をしていた。
「綿貫、こいつらを連れて行け。各部隊の隊長には、よく再教育しておくように通達せよ」
綿貫と呼ばれた、先程の慰霊祭で司会をしていた青年が、大きく頷いた。
「あとはこちらで処理をする。相樂、問題を起こさず帰るように」
「はい」
相樂が礼瀬中将に敬礼した。それに頷いてから、礼瀬中将が歩いて行く。
青波はそれから灰野と時生に振り返った。
「まぁなんだ? 災難だったな。怪我は?」
「……ありません」
「僕は灰野さんが庇ってくれたので」
二人の言葉に頷いた青波は、それから階段へと視線を向ける。
「じゃ、とりあえず帰るとするか」
青波が歩き出し、相樂もそちらを追いかけるようにして隣に並んだ。時生も呼吸を落ち着け、その後ろに続く。するとゆっくりとした歩幅で隣に並んだ灰野がぽつりと言った。
「時生」
「?」
視線を向けた時生は、灰野と目が合う。
「……悪かったな、巻き込んで」
「ううん、僕は平気です」
「……助けてくれて、その……有難う」
ごく小さい声で、相変わらず感情の見えない平坦な声だったが、確かに感謝の気持ちが色濃く滲む灰野の言葉に、時生は微笑した。
自分は過去、殴られても誰も助けてはくれなかった。
だから自分は、殴られている人がいたら、助けたい。
それが親しい相手ならば、なおさらだ。
「ううん。僕の方こそ、庇ってくれてありがとうございます」
こうして二人も、相樂と青波の後に続いて階段を降り、そうして帝都中央あやかし対策会館を後にしたのだった。
なお時生の次の出勤は、三日後のことだった。
本部に入るなり、長椅子に座っていた結櫻が苦笑するように笑いかける。
「大変だったみたいだね」
その言葉に、会館での事件を思い出し、時生もまた困ったように笑った。家でも偲に心配された記憶が強い。
「今は丁度さっきね、みんな狼男が逃げ出しちゃったらしくて、捜索に出たから誰もいないんだ。僕と時生くんだけ。ちょっとお茶でも飲んで待っていよう」
結櫻はそう言うと、本日は洋風のカップを手に取り、ココアの粉と砂糖を入れていく。
「ありがとうございます」
お礼を言い、鞄を長椅子に置いた時生は、その横に座った。
結櫻が時生の前にカップを置き、自分の席に座り直す。
「相樂さんは熱血漢だからね。青波もやる時はやっちゃうたちなんだけど。驚いたでしょ?」
「はぁ……ただ灰野さんが無事というか……殴られてはいたけど、助かってよかったなって」
「そうだね。灰野も大変だからね」
結櫻は頷くと、カップを持ち上げた。指に輝く銀の指輪を、何気なく時生は見る。
「灰野はさ、あやかしの血を引いているから、どうしても差別されがちなんだよ」
「え?」
「あやかしと人間の間の子供ってこと。半妖なんていう言い方もするんだけどね」
それを聞いて、時生は驚いた。そして漠然と、鶴の先祖返りである静子と偲の子供である澪も、半妖なのだろうかと考える。
「どうしてもあやかしを対策――討伐もする部隊だから、血を引いていると言うだけで灰野を疎む奴も多くてね。でも灰野は良い子だから、相樂さんや青波が怒るのもよく分かるよ」
溜息をついた結櫻の瞳にも、静かな怒りが見えた。結束の固いこの部隊の人々が、時生にはなんとなく眩しく見えた。各々が信頼しあっているように思える。
「そうだ、時生くん。後でさ、ちょっと買い出しに付き合ってくれない?」
「はい、僕でよければ」
「その時に、見せたいものもあってさ」
「見せたいもの?」
「うん。僕がよくお参りする社なんだけど、御利益があるかもしれない。保証はしないけどね」
冗談めかして笑った結櫻に、時生は頷く。
「いつにしようか? そうだ、折角だから食事もしようか。歓迎会はあとでみんなでやるだろうけど年の瀬でまだバタバタしているから、僕が先にご馳走するよ」
「そんな、気を遣わないで下さい!」
「僕がしたいだけだから、気にしない気にしない。同僚と親睦を深めるのも仕事だよ?」
結櫻の言葉に、時生は気恥ずかしくなった。自分がきちんと働いている、この部隊の一員と認められている、そんな心境になる。
「はい……」
「じゃあ今度、時生くんがお休みで、空いている日。約束だよ?」
「はい!」
そんなやりとりをしながら口に含んだココアは、甘く優しい味がした。
この日は、捜索を終えた偲と共に、時生は早く帰宅した。
馬車を降りて見上げた空からは、ちらほらと白い雪が舞い降りてくる。初雪が降ったのは今朝のことで、まだ雪が収まる気配はない。雪といっても積もるほどではなかったので、馬車の往来に問題は無かった。
「時生ー!」
出迎えた澪が、真っ直ぐに時生へと飛びつく。両頬を持ち上げて、時生は抱き留めた。隣では偲がマフラーを外している。
「お父様より時生の方がよくなってしまったのか?」
「うん!」
「そ、そうか……」
偲が短く呻いた。するとその後顔を上げた澪が悪戯っぽく笑い、時生の腕を抜けて、続いて偲に抱きついた。
「お父様も大好きだぞ!」
「『も』……」
「うん!」
「子供は素直で参ってしまうな」
言葉とは裏腹に気を害した様子はなく、偲は澪の頭を撫でてから、しゃがんで愛息子を抱きしめた。澪が目を丸くして偲へと顔を向ける。
「お父様」
「なんだ?」
「寂しいぞ」
「ん?」
「お父様が時生を連れて行ってしまったから、おれは寂しいぞ!」
真っ直ぐなその言葉に、時生は嬉しくなる。
偲は苦笑すると、澪を抱き上げて優しい眼差しを向ける。
「お母様がいるけど、時生とお父様にももっといてほしいぞ!」
「そうだな、ここのところ立て込んでいたものな。そうだ、今度一緒に出かけるとしようか」
「うん! 約束だ!」
そんなやりとりをしながら家の中へと入り、時生は着替えに部屋へと戻った。
そして軍服を脱ぎ、普段着の和服に着替えながら、両腕を上げて体を伸ばす。
すっかり、帰ってきたという気になるようになったこの部屋が、愛おしい。
「もうすぐ年末かぁ」
昨年までであれば、凍える手で水仕事をする事が多かったのが冬だ。しかし今年は、手袋さえ与えられている。なんて恵まれているのだろうかと考えてしまう。
「だけど、手伝える事があったら手伝おう」
一人頷いて時生は、部屋を出る。
そして階下へと向かい、一度台所に顔を出すと、鴻大から渉が酒瓶を受け取っていた。
その姿を見ていると、鴻大が顔を上げた。
「おお、時生。なんだ、久しぶりだなぁ。最近また顔を見なかったが」
「ちょっと外で働き始めたんです」
笑顔を返した時生は、本日も何気なく鴻大の腰元の布を見た。そこにはやはり花のような模様がある。逆側には、今度は城のような模様が増えていた。様々な種類があるのだなと、漠然と考える。
「運ぶの、手伝います」
「ああ」
鴻大が頷く。渉も遠くから声をかける。
「頼んだ。今日の量、凄く多いんだよ!」
こうして時生は荷運びを手伝った。そうしていたら、少しして声が聞こえてきた。
「時生! 時生!」
振り返ると、小春に連れられて澪がやってきたところだった。澪はそれから鴻大に気づくと、駆け寄った。
「鴻大だ!」
「おお、澪様。今日も元気そうだな」
「うん!」
親しくなった様子に時生が目を丸くしていると、鴻大が屈んで澪の頬に触れた。それから、その手を澪の顎の下へと伸ばす。
「く、くすぐったいぞ!」
「澪様は、ここが弱点だって覚えたからな」
「なんだとー!」
二人のやりとりは微笑ましいのだが、何故なのか一瞬だけ違和感を抱いた時生は首を傾げる。なにか、冬の寒さとは異なる冷気のような――殺気のようななにかが、本当に一瞬だけ駆け抜けた気がしたからだ。しかし巧く表現できないでいる内にそれは消失した。
振り返って澪が時生に駆け寄り、小さな手で抱きつく。
「そうだ、探しに来たんだ。お父様がカルタをしてくれるというんだ。一緒にやろう!」
「うん」
笑顔で頷き、時生は澪の手を握る。そして鴻大に一礼し、その場を後にした。
カルタをした夜は楽しくて、穏やかだった。
翌日は休暇だったので、普段よりゆっくりと起きた時生は、部屋で欠伸をした。今日は偲も休暇日だが、昨日の今日で出かけるという話にはならず、本日は各々が礼瀬家で団欒の一時を過ごすこととなっている。
時生は食後、控えの和室で黒い卓の上に新聞を広げた。
軍への勤務を始めてから、時生は意識して新聞を読むようにしている。
本日の一面には、新鹿鳴館がついにお披露目されたと書かれていた。明治に造られた鹿鳴館は既に解体されていて、今回は新しく建設されていたものが、お披露目されたかたちだ。帝都の一角に建築された新鹿鳴館は、以前の西洋館とは異なり、まさに西洋風の城の姿形をしている。写真でその外観を眺めながら、時生は日本の城とはだいぶ異なるなと考えていた。
異国語に触れているとは言え、文化や実物を知っているわけではないから、海外由来の物事はまだまだ珍しい。
その後は自室に戻り、仕事でも使うあやかし関連の用語が記された辞書を読んで過ごした。
そして翌日からは、また軍本部へと顔を出す。
偲と共に室内に入ると、結櫻が笑顔で挨拶してくれた。そこへ黎千が歩みよってきた。
「礼瀬副隊長」
彼女は凛とした眼差しを偲に向けると、深々と溜息をつき、腰に両手を当てた。
「透明人間が、今度は無断で映画を鑑賞したという訴えが」
「そうか。それはなんとも立件が難しいな」
真面目な顔で偲が答えると、虚ろな目をして黎千が頷いた。綺麗な黒髪が揺れている。
「一応、透明人間をひっぱってきたので、隣の聴取室に顔を出して頂けると助かります」
「わかった、今行く」
偲はそう言うと細く息を吐いてから出て行った。
その場を見守っていた時生は、黎千を見て、珍しいなと考える。あまり大正のこの世では、女性が軍に所属するという印象が無いからだ。すると視線に気づいた様子で、黎千が振り返った。
「どうかした?」
「あ、いえ……女の方が珍しいなと、その……」
素直に考えた事を口にした時生を見ると、黎千が目を丸くした。それから小さく笑った。
「あやかし対策部隊では、女性の勤務も珍しくないのよ。特に私のような黎千の――四将の家の者だと、力を持って生まれたら、そもそも所属が生まれつき決定されているようなものだしね。私の弟も、今は士官学校に行っているから、じきにこちらに配属されるもの」
「そうなんですね」
「ええ。弟は時生くんと同じ歳だから、今後会うこともあるでしょう。宜しくね」
黎千はそう言って笑うと、本部対策室を見た。
「結櫻。私は灰野を連れて、巡回に行ってくるわ」
「はいはい。気をつけてね、黎千」
結櫻が頷いたのを確認してから、黎千は灰野を呼びに行った。そして出てきた灰野を連れて本部を出て行った。入れ違いに青波が入ってくる。
「結櫻、偲は?」
「今、透明人間の聴取を取ってるけど。どうしたの?」
「ほら、前に澪くんが襲われた事件。あれの死神の残滓の解析が終わったと、鑑識班から連絡が入ったんだ。今、俺が確認してきたんだけどな、それについて情報を共有したいと思ってな」
「ああ、それなら僕が聴取を代わることにして、呼んでくるよ。ちょっと待ってて」
立ち上がった結櫻が出ていく。すると青波が、じっと時生を見た。
「時生くんも当事者なんだから、気になるよな?」
「は、はい」
「じゃ、一緒に話をしよう。な?」
笑顔の青波に向かい、緊張した面持ちに変わった時生は、唾液を嚥下してから頷いた。
険しい表情の偲が慌てたように足早に戻ってきた後、青波が先に特別執務室の扉を開けた。時生は偲と共に中へと入る。そこには難しい顔をして指を組んで肘をついている相樂の姿があった。偲と時生が席につくと、それぞれの前に、青波が持参した封筒から取り出した書類を並べていった。
白い紙には、新聞でも目にする白黒の写真が載っている。
印刷技術が相応に進んでいる近年では、軍の書類には写真が用いられることも珍しくない。
「この写真。これが澪くんの持っていた、礼瀬家のお守り袋だ。その布が、襲ってきた死神の消失残滓を吸収していた」
「消失残滓?」
時生がぽつりと口にして首を傾げると、偲がそちらを見た。
「あやかしは、黒い靄となって存在がこの世から消える。その時に残る僅かな妖力の残滓だ。妖力というのは、あやかしが持つ人ならざる力の総称だ」
端的な説明に、時生が頷く。
「その中から、指定妖力が検知された。間違いなく【牛鬼】のものだった」
青波の声に、相樂が眉間に皺を寄せる。
「だとすると、今回も過去の第一級指定あやかし災害の時と同様に、多数のあやかしが、牛鬼の配下になっていたり、操られてその手先になっている可能性が高いな」
相樂の声に、偲が腕を組む。
「自発的に配下になっているあやかしは兎も角、操られている怪異への対処はどうする? 区別は出来ないままだ」
「偲。殲滅する以外の方策があるという提案か?」
いつもは快活な相樂の声が、低くなった。すると頭を振って、偲が答える。
「……ありません」
「操られている場合、浄化の力を使うしかない。破魔の技倆の範囲において、浄化は高圓寺家にのみ受け継がれていた技法だ。現在、使用可能な者は……」
続けた相樂が、ちらりと時生を見た。時生は、高圓寺の名に小さく息を呑む。
「……いないと考えるべきだ。今後時生にその才能が開花する事はあるかもしれないが、現時点では、そうではない」
相樂は冷静にそう続ける。すると青波が頷いた。
「現在の帝都のあやかし犯罪の中で、今回検出した【牛鬼】の妖力の痕跡と類似の力を纏っている存在に片っ端から張りつくのが、たどり着く近道だと俺は思います」
青波の提案に、ゆっくりと相樂が頷いた。
「そうだな。【牛鬼】の仲間になると、あやかしは特定の妖力を得るらしいというのは分かっていることだからな」
その後三人が、今後の打ち合わせをするのを、時生は見守っていた。
二班に分かれて、【牛鬼】に接触した可能性があるあやかしを調べてまわるとの事だった。途中から時生は、議事録をとる係をしていた。今回の報告は、帝都各地のあやかし対策部隊にも共有されるのだという。
それが終わり特別執務室を出ると、高い声がした。
「偲!」
時生が顔を向けると、そこには殭屍の凛の姿があった。
「凛、どうかしたのか?」
「偲に恩を売りに来たアルヨ」
「どういう意味だ?」
右側だけ半眼にした偲は、珈琲を淹れに向かいながら応対している。現在は結櫻の姿がない。まだ聴取室なのかもしれない。青波と相樂はまだ執務室で話をしている。
「灯台下暗しアルヨ!」
そういえば忘れ物を届けに来た日も、同じ事を聞いたなと、時生は思い出した。あの時も、凛は偲に伝えようとしていた。
「凛、それは何についてだ?」
「……忠告はしたアルヨ」
「ところで、凛。【牛鬼】に関係がありそうなあやかし事件に心当たりはないか? ここ最近発生した事件の中で」
単刀直入に偲が切り出したのを、時生は見守っていた。
「そんなのは簡単アルヨ。この前山手線が開通したアルネ?」
「ああ、それが?」
「おたくの軍が結界を各所に設置したあれアルヨ」
「――耳が早いな」
「あやかしはみんな噂してるアルヨ。帝都の結界がまた強化されたネ。その結界の要石をあの人面犬と透明人間が壊してまわっているアルヨ」
「なに?」
偲が動きを止めた。すると凛が、ひょいと偲の手からカップを奪い、勝手に飲み始める。
「早く青波の家に連絡した方がいいアルヨ。今ならまだ直せるネ。でもそんなことは些末アルヨ。私、灯台下暗し伝えたアルからネ!」
珈琲を飲み干した凛は、そういうとスッと宙に溶けるようにして消えていった。
偲はその消えた方向を、暫くの間思案するように見ていた。
時生が傍らに歩みより、新しい珈琲を用意しながら問う。
「大丈夫ですか?」
「ああ」
「難しい顔をしているけど、その……どうかしましたか?」
「――いや」
気を取り直したように首を振った偲に、新しく淹れた珈琲を時生は差し出した。