雨が降り始めてから今日で18日目。
 竜ノ川がこんな水位になっているのを見るのは初めてだ。
 比較的晴れている日が多いこの街で、こんなに長い間止まない雨も初めて。

 街の人々からは工事が良くないのではないか、竜神様がお怒りだとウワサになり始めた。あまりにも雨が続くため工事業者も一旦撤退。晴れたらまた来ると、彼らは別の街の仕事に向かっていった。
 

「……っ!」
 今日も祠の掃除をしにやってきた水緒は、祠の前に立つ銀髪の男性に駆け寄った。

「どうして傘もささずに!」
 水緒が急いで傘に男性を入れると、びしょ濡れの男性は長い銀髪をかきあげながら「ありがとう」と水緒に微笑む。
 その笑顔に水緒の頬は赤く染まった。

「傘はないのですか?」
 こんな大雨の日に。
 
「雨は嫌いじゃない」
「そういう問題では……」
 風邪をひきますよと水緒は男性に手拭いを差し出したが、なぜか男性は受け取らなかった。

「この祠を壊すとこの辺りは濁流に飲まれる」
「……どうして?」
「この祠が水を止めているから」
 祠がなくなった瞬間に水が溢れるだろうと男性は川を指差しながら水緒に説明する。
 この地域で洪水など一度もないのに、なぜか男性の説明が嘘だとは思えなかった。

「……この祠を守ってくれ」
 そっと水緒の頬に触れた男性の手はとても冷たい。

「会いたかった、ずっと待っていた」
「……え?」
 会いたかった? 私に?
 きっと深い意味はないのだろうが、言われ慣れてない水緒は急に恥ずかしくなる。

「やっとまた会えるようになったのに、祠が壊れたら……」
 銀髪の男性の切なそうな顔に思わず水緒は見惚れる。

 壊れたら……?
 その先を聞きたかったのに、大きな女性の声に驚いた水緒は聞きそびれてしまった。

「それでね、白い洋装で結婚式をしてみたいのよ」
「ウエディングドレスってやつだろ」
「そう! それよ!」
 相合傘で堤防を歩いてくる洋装の男女の声。
 大きな傘で顔は見えない。
 だがこの声は……。

「宗一郎様?」
「……水緒さん?」
 しまったという顔をする宗一郎。

 水緒は相合傘の中でピッタリとくっついた女性に視線を移動する。
 花柄の薄いひらひらとした綺麗な布の洋装をしている女性は、着物に袴姿の水緒を鼻で笑った。
「宗一郎、この地味な女、知り合い?」
「あ、あぁ。このあたりの地主さんの娘だよ」
「ふぅん」
 そうなんだと口の端を上げた女性から水緒は目を逸らした。
 地主の娘。許嫁ではなくて。
 宗一郎の説明にガッカリした水緒はキュッと口を横に閉じる。

 あれ? 着物の男性がいない?
 いつの間にいなくなったの?
 今までここにいたのに。

「……汚い祠。これのせいで工事が出来なくて、私との結婚が伸びているの?」
 こんなの壊せばいいと言う女性に水緒は目を見開いた。

「……結婚?」
 目が合った宗一郎は気まずそうに顔を背ける。

『あの男はダメだ』
 急に銀髪の男性の言葉を思い出した水緒は、なぜそう言われたのかようやく気づいた。
 
 ……騙されていたってこと?
 私もお父様も。
 父が書いた覚えがない念書。
 どうやって書かせたかはわからないが、この男が欲しかったのはここの土地だけ。

 この人は私と結婚するつもりなんて初めからなかったんだ。

「宗一郎様、どういうことか説明してもらえますか?」
「あとで屋敷に行くよ」
 その笑顔にはもう騙されない。
 水緒はグッと唇を噛んだ。

「私と結婚の約束をしておきながら、その女性とも約束しているんですか?」
「なんですって?」
 隣の洋装の女性も驚き、目を見開く。

「どういうことなの、宗一郎!」
「説明してください、宗一郎様」
 先ほどまでは敵同士のような関係だった女性二人が急に自分に歯向かう状況に、宗一郎はグッと傘を握る手に力を入れた。

「そもそも、お前が祠を壊させなかったのがいけないんだろ!」
 意味のわからない言いがかりに水緒は唖然とした。
「お前が工事の奴らを止めて、そのあとずっと雨で、工事の奴らが竜神が怒っているとか意味のわからねぇこと言い出して逃げちまったから、隣街の金持ちに頼みに行く羽目になったんだろ!」
 悪いのはお前じゃないかと八つ当たりをする宗一郎は、優しくしてくれていた姿とはまるで別人。

 でもこちらがきっと本当の姿。
 結婚前に気づいてよかった。
 とてもではないが、こんな人とは結婚できない。

「なんですって? 隣街のお金持ちってもしかして私のお父様のこと? じゃ、お金目当てで私に求婚を?」
「お前たち二人ともパッとしないただの田舎娘だろ! むしろなんで俺と釣り合うと思ったんだよ」
「騙すなんてひどいじゃないのよ!」
「……最低だわ」
 宗一郎の言葉に洋装の女性はバシバシと腕を叩き、水緒は呆れて溜息をついた。

「うるさい! 全部この祠が悪いんじゃねぇか!」
 くっそ! とヤケになった宗一郎が祠を川の方へ思いっきり押しつける。

「やめて!」
 水緒の手は間に合わず、古い祠の木は宗一郎の手でバキッと折れた。

 御神体だけは!
 水緒は手を伸ばし、竜の置物を掴む。
 でもその後のことは何も考えていなかった。

『この祠を壊すとこの辺りは濁流に飲まれる』

 今まで聞いたことがないゴオォと鳴る音と、地響き。
 だが、そんなことよりも、川に落ちそうな自分。
 水緒はギュッと御神体を握りしめた。

 竜神様ごめんなさい。
 祠を壊してごめんなさい。
 守れなくてごめんなさい。
 スローモーションのようにゆっくりと水緒は濁流の中へ。
 最後に見たのは宗一郎の引き攣った顔と、洋装の女性の驚いた顔だった。

 絶対に御神体は離さない。
 上も下もわからない濁流の中、水緒は御神体を抱えた。
 
 苦しい。
 息ができない。
 助けて!
 誰か助けて!
 
 激しい流れで身体が浮き沈みする。
 押さえつけられるような水に恐怖を感じながらも、水緒にはどうすることもできなかった。

「……水緒」
 御神体が光り、銀髪の着物の男性に変わる。

 ……竜神……様?
 あぁ、銀色の長い髪はまるで川のようで、透き通るような青い目は空を写した川の色。
 着物も違和感なく、この土地に馴染んでいたのはずっとこの街を守ってくださっていた方だから。

 濁流の中、抱きしめられた水緒はグイッと引っ張られるような感覚に思わず目を閉じた。
 急に入ってくる空気に思わず咽せる。
 ゆっくりと目を開けると、目の前は今にも濁流に飲まれそうな我が家。
 橋の向こう側の民家はメキメキと大きな音を立てて濁流に飲まれていく。
 震えながら腰を抜かしている洋装の女性の横に、なぜか宗一郎の姿はなかった。

「……っ!」
 このままでは家が流されてしまう。
 お父様や街のみんなは無事だろうか?
 流された民家に人はいなかっただろうか?

「なぜそんな顔をする?」
 辺りを見渡す水緒の泣きそうな顔を竜神は不思議そうに覗き込んだ。
 
「……みんなが、街も無く」
 いつもの穏やかな景色は一変し、茶色の濁流と凄まじい音が響く。

「祠がなくなったら、濁流に飲まれると教えたであろう?」
 確かに教わった。
 でも、教わったからといって、納得できるものでもない。
 
「……水緒の願いは?」
「え?」
「水緒の身と引き換えに願いを叶えよう」
 透き通った青い目に見つめられた水緒は、目を逸らすことも息をすることも忘れて立ち尽くした。

 身と引き換えに?
 生贄ということだろうか?
 まるでこの土地に竜ノ川ができた時のお話のようだ。

 神子が祈りを捧げ、この土地に豊かな川を作ってほしいと願った。
 竜神様は願いを叶え竜ノ川を作ってくれたが、その後、神子は竜神様のもとに召されたという伝説。
 ただのおとぎ話だと思っていたけれど。
 
 私の命でたくさんの人が助かるなら――。

「お願いします。もとの穏やかな川に」
「ではこの時を以て、水緒は私のモノだ」
 眩しい水色の光の中、着物の男性の姿だった竜神は御神体と同じ竜の姿に。
 大きく美しい竜が空に舞う光景に水緒は目を見開いた。

 濁流がいつもの綺麗な色に。
 枯れていたはずの堤防の桜の木は蘇り、薄ピンクの花をつけた。
 濁流で土を被ったはずの土手にはシロツメクサやレンゲが咲き、子供の頃の風景が目の前に広がる。

「……奇跡だ」
「竜神様が助けてくださった」
 空を見上げる者、手を合わせて拝む者、腰を抜かす者。
 対岸の街の人々の反応に水緒は安堵する。

「キレイ……」
 男性の髪と同じたてがみの、同じ青い目をしたこの地を守る竜神は、雨が止み、澄み渡った青空の中で美しく輝いていた。
「み、水緒……!」
「お父様! ご無事でよかった」
 駆け寄る父と抱き合った水緒は、父に別れの言葉を告げた。

 竜神様は願いを叶えてくれた。
 この身と引き換えに。

「そんな、なぜ水緒が犠牲に」
 今から竜神様に水緒を助けてくれるように頼むという父に水緒は首を横に振った。

「祠を守れなかったから」
「壊したのは宗一郎くんなのだろう? ……そういえば彼はどこへ?」
「そ、宗一郎は濁流に、」
 自分だけ逃げたのかと怒りを露わにする水緒の父に、腰を抜かしたままの洋装の女性が震えながら教えてくれた。

 水緒が御神体を抱えてすぐ、水に引き摺り込まれるように消えたと証言する女性。
 まるで水が意志を持っているようだったと聞いた水緒と父は顔を見合わせた。

「水緒、約束通りお前をもらうぞ」
 空の上から声が響く。
 
 あぁ、このまま食べられるのかな。
 でもみんなが助かったから後悔はない。
 不思議なくらい落ち着いたまま水緒は目を閉じた。

「竜神様、お願いです! 水緒を見逃してください」
 代わりに私の命を! と父が叫ぶ。

「ありがとう、お父様」
 必死な父の姿に、水緒は自分が愛されていたことを実感した。

「神との約束を反故することは許さぬ」
 着物の男性の姿になった竜神に、水緒はグイッと腰を引き寄せられる。

「水緒はもう私のモノ、私の妻だ」
「つ、つ、妻?」
 生贄として食べられるのだと思っていた水緒は、竜神の言葉に目を見開いた。

「妻……ですか?」
 川の底にでも引きずり込まれるのではないかと想像していた父も、「妻」の言葉に驚く。
 
「あぁ、清らかな心を持つ水緒でないと、私の妻は務まらぬ。幼い時から待ったのだ、ずっとこの時を」
 水緒の頬に手を添え、透き通るような青い目を細める竜神に、水緒は真っ赤な顔になった。

「幼い頃……?」
「毎日会いに来てくれたであろう?」
 祠の掃除をする祖母の横にいた着物の男性。

 ……今ならわかる。
 あの時、横に立っていたのは銀色の長い髪の竜神様だ。
 どうして忘れていたのだろう?

「ずっと一緒にいると、永遠に一緒だと幼い頃に約束したが覚えていないか?」
 祠が綺麗なら川も綺麗に。
 川が綺麗なら竜神の力も増え、水緒の前に姿を現すことができた。
 だが、いつの頃か水緒は来なくなり、祠も汚れてしまったと竜神は悲しそうに目を伏せた。
「だが、水緒のおかげで再び会えた」
 もう離さないと竜神は水緒に微笑む。

「婚礼衣装はいつ出来上がる? 最高の着物を準備すると言っていただろう?」
「最短でも、あと一年半はかかると」
「では二年ほどお前の屋敷に住もう。祠も無くなってしまった。桜が咲く季節に、嫁に行かせたかったのであろう?」
 異論はないなと言われた父は信じられないと目を見開いた。

「竜神様を我が家にお迎えできるなんて。二年と言わず、この先もずっと……!」
「お父様、それはさすがに……」
 古い我が家ではあまりにも失礼ではと止めようとした水緒の手を竜神はギュッと掴んだ。

「その方が寂しくないか?」
「え?」
「水緒が望むのなら、それでかまわないぞ」
 ただし一部改装すると竜神に言われた父は「お好きなだけ改装してください」と快諾。

「祝言は二年後だが、水緒は願いを叶えた瞬間から俺のモノだ」
「えぇっ?」
「片時も離れるな」
「水緒をよろしくお願いします」
「ちょ、ちょっとお父様」
 未婚の娘なのに、同じ部屋で過ごすことまで同意してしまった父に水緒は呆気にとられた。
 
 ……妻だと言っていた。
 私が竜神様の妻!
 今更ながらその重大さに心臓がバクバクする。

「水緒、愛している」
 もう離さないと言われた水緒は真っ赤な顔になりながら甘い口づけを受け取った――。

 下流で発見された宗一郎は詐欺師として逮捕された。

 水緒と隣町の洋装の女性だけでなく、もっと上流の街の女性も、下流の街の女性とも結婚の約束をしていたことが判明。

 街の再開発計画はもちろん白紙。
 川の蛇行を変える工事も中止、よみがえった桜並木は植え替えの必要もなく、もちろん水緒の家を宿泊所に建て替えるという計画もすべて中止となった。
 二年後、満開の桜並木を歩く新郎新婦は多くの街民に祝福された。
 
 新郎は竜神。
 美しい銀色の長髪に、川のような青い眼。
 それなのに着物に違和感がない姿はさすがこの地をずっと守ってくれた神。
 大洪水の時に街を救ってくださった竜ノ川の主の仮の姿だ。
 
 新婦は代々、祠を守ってきた地主一族の娘。
 幼い頃、祖母と祠の掃除をしていたことを年配者たちは知っている。
 着物がよく似合う、凛とした姿勢の美しい娘だ。

「竜神様、街を救ってくださってありがとうございます」
「水緒の側にいたかっただけだ」
 白無垢も良かったが、色打ち掛けもよく似合うと微笑む青い眼は優しい。

「……でも、我が家が神社になってしまったのはなぜなのでしょう?」
 水緒は川の横に立つ我が家を見ながら首を傾げた。

 普通の古い日本家屋だったはずなのに、家の前には鳥居ができている。
 鳥居を寄贈したのは、隣街の洋装の女性の父。
 娘が詐欺師と結婚しないですんだのは、竜神様のおかげだと寄贈されたそうだ。
 
 たった二年しか経っていないのに、家を守るかのように木が生い茂り、空気が澄む不思議な空間に。

「一部改装すると伝えたはずだが?」
「あれは改装、というのでしょうか?」
 たしかに雰囲気は変わっていない気もするが、日本家屋が神社に変わるなど誰が予測できただろうか。

 父は神主に。
 水緒の従兄弟が神主を継ぐことが決まっている。

 竜穴だと言われた祠があった場所には新しい祠と石碑が置かれ、この街を救った竜神と水緒の物語が刻まれた。
 
 二人は祝言のあと、人々の前に姿を見せることはなかった。
 だが、輝く川と美しい桜並木を毎年楽しむたびに、街の人々は竜神様と水緒が仲良く過ごしているおかげだと、神社に感謝を述べに訪れた。
 神社はいつの間にか「水緒神社」と呼ばれるように。
 
「……自分の名前の神社だなんて、なんだか恥ずかしい」
「水緒神社は竜ノ川のほとりから移してはならぬと神主に告げておこう」
 こうやって先祖代々伝わっていくのかと水緒はクスクス笑った。

「水緒、永遠に我とともに」
「はい。竜神様」
 いつまでも二人で――。

 そして今年も見事な桜が咲き乱れる。
 川と神社と桜と石碑。境内にはなぜか桃の木まで。
 遠くには山がそびえたち、空は綺麗な青空が広がる。
 この先もずっと二人の仲が良い限り――。

    END  

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