「じゃあ授業を始めます。教科書の三十ページを開いて。昨日の続きからね。えっと……今日は十日だから出席番号十番。一段落目を読んでください」

 朗々とした教師の声を聞きながら、幸人はぼんやりと時計を眺めていた。今日は始まったばかりで、時計の針はゆっくりとしか進まない。今日は約束の一週間後だ。刀真は読んできてくれただろうか、それとも。幸人はそわそわとして落ち着かないのに、刀真は普段と変わりなく穏やかにクラスメイトと話していて、自分ばかりが緊張しているように感じてしまう。黒板にチョークが当たる規則的な音を聞きながら、思考は自然と最近の愛読書の内容をなぞる。

 それは数日前に書店で見つけた恋愛小説だった。普段なら目に留まることもない、恋愛小説を集めたコーナー。ポップもハートやピンク色の文字が踊っていて、甘いスイーツを集めたようなその場所に幸人はふと立ち止まって、しばし陳列されているタイトルを目で追う。そして、気になったものをパラパラとめくり始めた。
 溺愛、初恋、純愛、運命の恋。作品の傾向は大体似通ったもので、主人公であるヒロインがヒーローに愛されることを大前提に妨害が入りつつも、様々な苦難を乗り越えてやがて二人は結ばれるというものだ。そうしてハッピーエンドを迎えた物語は『二人は末永く幸せに暮らしました』で締められる。今まで手にしたことのないジャンルの本だったが、意外なことに読後感が良く、読み終えると心が温かく満たされる。
 しばらくそこにとどまり表紙を眺めては手に取り、ふと気がつくと随分と時間が経っていたようだった。慌ててスマートフォンを見ると、母親からどこにいるのかと幸人の居場所を尋ねる連絡が何件も入っていた。すぐに店外に出て、電話をかける。数回のコールののち、不機嫌さを隠そうともしない声が電話口に出た。

「今どこにいるの」
「本屋にいる」
「見たけどいなかったわよ」

 それはそうだろう。いつも本を探しているジャンルの奥にある恋愛小説のコーナーにいたのだから。だが、それを幸人はうまく説明できない。恋愛ものを読んでいたなんて、母親がどう思うか。幸人の母親はそういったジャンルの物語を嫌悪するだろうことは、なんとなく分かっていたから言い出せなかった。

「どうせフラフラしてたんでしょ。どこかに行くなら連絡しなさいよ」
「はい」
「本当に自分勝手な子。わざわざ迎えに来てやってるんだからこれ以上手間を取らせないで」
「ごめんなさい」

 幸人は素直に謝罪を口にした。このまま母親の機嫌を損ねたまま翌朝を迎えると、朝から暴言を吐かれる。素直に謝って、自分に否があることを認める。幸人が謝るだけで世界は丸く収まるのだ。けして、手間を取らせるなと言うなら迎えに来なくていい、などと口にしてはいけない。彼女は母親の役目を全うすることに全身全霊をかけているのだから。

「さっさと塾の前に来なさい。待機ぐらいできるでしょう」
「はい」

 幸人が返事を返す前に、電話は切れた。幸人は長く息を吐いて、塾の方向に歩き出す。ここから塾まで歩いて十分もかからない。でも、先に行って待っていないと帰りの車の雰囲気は地獄になる。

「…………」

 数歩歩きだして、幸人は書店の方を振り返る。そして、ほんの少し悩んで書店に戻った。迷わずに先ほどまで見ていた恋愛小説のコーナーに辿り着き、並べられた本のなかの一冊を取り、レジに急ぐ。
 一番面白くて、先が気になった小説だ。そして、購入の決め手になったのはタイトルにある『幼馴染』の文字。地味でさえない主人公がハイスペックな幼馴染に溺愛される内容はまるで自分と刀真の関係性のようで、思わず手に取ってしまった。この本を読み進めていけば、人を好きになる過程も好きになった理由も知ることができ、人を好きになることの参考になるかもしれない。そう思うと諦められなかった。

 そうして実際読み進めていけば、よく似た場面がいくつもあった。告白のシーンでも主人公が戸惑いを隠せずにいたり、素直になれなくて好きという気持ちをうまく言葉にできない葛藤などはまるで自分のことのように感じられた。細やかな心理描写に共感し、ヒーローの心理描写では刀真はこう思っていたのだろうかと思いを馳せることができた。幸人にとって、この本はフィクションとはいえ、まさに恋愛のいろはを教えてくれるバイブルであり、折に触れては読み返すようになった。

 幸人はまず自分の気持ちを素直に伝えることを心がけようと考えた。主人公もヒーローへの気持ちに気がつき、自分の愛情を素直に伝えようと奮闘していた。そうして、ようやくお互いの気持ちが通じ合ったとき、二人の距離が近づく。そうして二人は。

「…………べ、おい真壁っ」
「……ッ!?」

 後ろの席から肩を叩かれて、幸人は肩を大きく跳ねさせた。空想の世界から一気に現実に引き戻され、幸人は混乱したまま周囲を見た。何故かクラスの視線が自分に集まっている。いくつもの目が幸人の状況をつぶさに観察しており、些細な変化も見逃さないと言わんばかりに幸人をじっと見つめていた。

「珍しいわね、真壁さんが居眠りなんて」

 笑いを含ませた教師の声に、自分が居眠りをしていたことに気がついた。途端に恥ずかしくて顔から火が出そうになる。確かに頭がまだぼんやりとしている。思い出そうとしても授業が始まってから今までの記憶がない。指摘されたように寝てしまっていたのだろう。幸人は自分の迂闊さを恥じた。

「さて、目は覚めたかしら。では真壁さん、教科書の三段落目を現代語訳して」
「……はい」

 教師の声に皆は視線を動かして、幸人を観察するのを止めて教科書に向き直る。三段落目。まだ起きたての頭はうまく働かず、言われている段落を探しきれない。沈黙の時間が積もってきて、それがさらに焦りを生んだ。これじゃ僕はできない子だ。どうしようもない子だ。母さんに迷惑をかけるだけの。きゅうっと喉が絞まり、混乱が加速する。苦しい、苦しいと軋む頭に、「ここだって、ここ」という小さな声が届いた。
 後ろの席に座る長谷部が、小声で話しながら自分の教科書片手に指で教科書の三段落目を指し示している。それでようやく幸人は教師の問いかけに答えることができた。