早崎刀真(はやざきとうま)はずっと一人を思い続けていた。
 きっかけはもう思い出せない。一目惚れだったような気もするし、お菓子を分けてもらったとかそういう感謝の気持ちから発展したものだったような気もする。ともかく、あの子の顔を思い浮かべるだけで心が弾み、会えるとなると飛び上がって喜んだ。遊びが終わりに近づくと、もっと一緒に遊びたいと駄々をこねた。
 最初はよく遊ぶ幼馴染だった。あの子に抱く気持ちがただの友情でないことに気がついたのは、あの子が泣いて家に来た時だった。
 約束をしたのだ。自分だけはどんな時でも絶対にあの子の味方でいると。頬を伝う涙がいつまでも止まらないのを見て、刀真は胸が痛くて、苦しくて、つられて泣きそうになった。でも、あの子の方がつらいのだと震えるあの子を強く抱きしめた。あの子の涙を見たくない。その一心だった。

『ぼくは幸ちゃんの味方だよ。大丈夫、ぼくは幸ちゃんのこと大好きだからね』
 
 言葉にすれば、自分の心にしっくりときた。あの子のことが好きだから、こんなにも大事にしたい、守りたいって思えるんだと自分の気持ちに気がついた。ようやく認知された淡い恋心はどんどん際限なく、容赦なく、刀真の心に広がって、高校生になる頃には苦しくて苦しくて抑え込むのが大変だった。
 好き、愛している。それは他人からよく与えられる言葉だったが、刀真が本当に欲しいあの子からは一度も与えられなかった。
 そしてそんな矢先、あの子と同じクラスになるという幸運に恵まれた。この機会を逃さず告白するしかないと思い立ったが、そういえばしばらく話していないな、どうやって話しかけようなどと躊躇するうち、あっという間に数か月が過ぎていた。

 思い人の名は真壁幸人(まかべゆきひと)
 いつも自分の席で本を読んでいる、大人しい寡黙な幼馴染。授業で当てられた時以外に喋っているのをほとんど聞いたことがない。幸人から誰かに話しかけることはないし、誰も幸人に話しかけなかった。故にクラスでの存在感は希薄で、クラスメイトの印象にも全く残らなかった。
 だから、少しだけ気を抜いてしまっていた。悠長に構えていた。クラスの男子から幸人の話を聞くまでは。


「真壁幸人って、美人だよな」

 昼食後の喧騒のなか、クラスメイトの一人が何気なくそう呟いたのを刀真はたまたま耳にした。幸人、という思い人が話題に上ったことに少なからず動揺しながらも、つい聞き耳を立てた。話しているのは野球部の長谷部(はせべ)で、その近くにいるのが野球部の中田(なかた)と陸上部の池谷(いけたに)。中学校も同じだったことからいつもつるんでいる仲良し三人組だ。そんな長谷部の一言に、いち早く反応したのは中田だった。

「はぁ? アイツ男じゃん。男に美人ってなんだよ、意味わかんねぇ」

 なぁ、そうだろうと、中田は池谷に視線で同意を促す。池谷は弁当箱の卵焼きをつまんでから「え、あ、うーん」と判断しかねるというニュアンスの反応を見せた。

「真壁って全然しゃべらないからイマイチどんな奴か分かんねぇけど、色白いし、睫毛長いし、細いから女子みたいに見えるってのはあるかな。えーと、ああ、そうそう、深窓の令嬢ってやつ?」

 池谷が深窓の令嬢というイメージを上げるが、深窓の意味の分からない二人はほとんど同時に首を傾げた。

「なんだ、シンソウの令嬢って」
「……伝わらんか。まぁ箱入り娘、儚い上流階級のお嬢様みたいな感じだよ」
「……まぁ、それなら分からなくもないかな」
「うん。なんか人馴れしてない生き物、ってんならそうかもな」

 こうして三人の中で真壁幸人イコール深窓の令嬢という構図が出来上がったところで、長谷部が「……でさ、ワンチャン告白したら、真壁と付き合うとか……できると思う?」と低い声でぼそりと呟くと、残りの二人は「はあっ……?!」と急に大きな声を上げた。ガタン、と椅子が大きく動く音がして、クラス中の全員が一斉に二人の方を見つめる。しばらく重苦しく気まずい雰囲気が流れたあと、ようやく雰囲気が緩み各々が止めていた動きを何事もなかったかのように再開した。

「……ったく、何言ってんだよ。驚かすなよ」
「よく考えろ、細かろうが美人だろうが相手は男だぞ」

 長谷部の唐突な爆弾発言に、二人はありえないと顔を見合わせ、口を揃えて小声の早口で告げる。

「そもそもさ、真壁のこと好きになるイベントあった? 真壁、人のこと嫌いそうだから絶対関わりとかないだろ」
「よくぞ聞いてくれました」

 長谷部は食べ終えた菓子パンの袋を丁寧に折りたたんでから、得意げに言った。他の二人は呆れながらも長谷部の話に耳を傾けている。なんだかんだ言いながら興味はあるらしい。

「俺が教科書忘れた時に貸してくれたんだよ。しかもな……僕は見ないのでどうぞ、って喋ったんだよ」
「ええ……それだけ?」
「なんだよ、その小学生みたいなエピソードは」
「いいか、あの真壁がわざわざ俺に話しかけてくれたんだぜ? これはもう俺のこと嫌いじゃないなって思ってさ。むしろ好きなんじゃないかって」
「や、なんでそうなんだよ」
「妄想力逞しすぎるだろ」
「いーや、絶対真壁は俺のこと好きだね。恥ずかしくて口に出さないけど、心の中では俺のことを思ってるはずなんだよ。シンソウの令嬢だからな、真壁は」
「はいはい、妄想するのは自由だからな」

 三人はああだこうだと楽しそうに盛り上がる。いつの間にか声は潜められていなかったが、当の幸人はすでに昼食を終えて教室から図書室に居場所を移していたので気に留める者はいなかった。刀真はそれを聞きながら、一刻の猶予もないと内心焦る。このままでは幸人は誰かに取られてしまう。自分も長谷部も、告白したところで成功率は低いだろうが、幸人が何かの拍子で長谷部からの告白を了承する可能性はゼロじゃない。
 幼い頃から幸人を見てきた刀真にとっては長谷部はぽっと出の新人なのだが、恋に落ちるのにそばにいた時間の長さはさほど関係ない。幸人が彼を見て、告白の時に一目ぼれする可能性だってあるのだ。

 俺の方が幸ちゃんのことをよく知っているし、幸ちゃんはちゃんと俺と話をしてくれる。

 そう自分に言い聞かせても激しい嫉妬が身を焦がす。焦りと取られたくないという独占欲が湧き上がってくる。その日は自分のそばで誰が何を話していたのかほとんど記憶に残らなかったし、昼食は全く味がしなかった。ただ、あの三人の会話だけが鮮明にいつまでも耳に残っていた。


「…………よし」

 刀真はついに彼以外が教室からいなくなったタイミングを見計らって告白することにした。幼少期から始まった片思いはすでに十年と少しになろうとしており、幸人に対する好意は吹き荒れる嵐のように成長を遂げていた。こうして刀真は本を読んでいる幸人に声をかけたのだ。
 サラサラとした長めの黒髪に、ページを捲る細く儚い指先。教室で窓際で本を読んでいる時に風が吹いてカーテンが揺れた時には、まさに文学小説の挿し絵のように美しかった。

 そうしてやっとの思いで告白したのに、幸人は逃げに逃げた。幼馴染としての情はあるから、嫌いだと幸人は言えないだろうと思っていたが、釣り合わないだのなんだのと散々理由をつけて言い訳を探していた。
 それでも最後は刀真を好きになる理由を探したいと肯定的な思いを正直に話してくれて、付き合うことも考えたいとまで言ってくれた。その過程でどういうわけか分厚い本が手元にあるわけだが、これは乗り越えるべき試練だと刀真は自分を奮い立たせた。
 正直、読書特に物語の類は途中で読むのがめんどくさくて飽きてしまう。物語の大まかな筋からおおよその結末が読めるし、そこには驚きも発見もない。しかし、幸人が勧めてきたからには彼が読んだことのある物語なのだろうし、共通の話題作りだと思えば苦にはならない。
 すべては愛する人の為に。早崎刀真は尽くす男だった。


「刀麻、そろそろご飯食べよっかって……、うわっ! 何、その鈍器!!」

 リビングで珍しく読書をしている息子に声をかけた母親は刀真の読んでいる本の分厚さに思わず声を上げた。机の上には鉛筆とルーズリーフが広げられており、家系図のようなものや年表のようなものが所狭しと殴り書きされている。

「これ、歴史関係の本?」
「いや、物語。ファンタジーもの。借りてきた」
「……ファンタジーを、読んでるの……? 早めの読書感想文、とかじゃなくて?」
「うん」

 本から目線を離そうともせずに答えた刀真の答えに、母親は目を丸くした。
 幼い時から興味があれば関連書籍を読み漁ることあったが、あくまでそれは仕組みについての本だったり、図鑑だったりといったもので、刀真はお話の世界にはほとんど興味を持ったことはなかった。
 それがどうだ。軽く凶器になりそうなページ数のファンタジー小説を食い入るようにして読み込んでいる。何かを確認するようにじっくりと目を通し、慎重にページをめくる。まるで貴重な古文書を解読している考古学者のような眼差しには並々ならぬ熱意が宿っていた。

「……刀麻がお話を読むなんて珍しいわね、明日雨でも降るんじゃないの」
「そうかもね」

 会話もおざなりに、ただひたすら黙々と本を読み続ける息子。思わずその本の内容が気になって覗き込むと文字の濁流に目が流されていく。正直、これを全部読めと言われたら苦痛だなと思いながら、母親は刀真が本を読む理由が気になって仕方がなかった。

「面白い?」
「うん」
「字、多くない?」
「少し慣れたよ」

 刀真は本から一切目を離さない。そして時々鉛筆を走らせる。無我夢中、一心不乱。そんな息子の様子が珍しくて母親はしばしその様子を見守る。
 刀真は母親の自分が言うのもなんだが、大抵の事は持ち前の要領の良さとセンスでやってしまえる子だ。だから、刀真が本気になっている、苦労している、といった場面に遭遇するのは非常に珍しい。何が彼を駆り立てているのか。しばらく考えてみたが、これといって思い当たる節はなかった。

「ただいま……って、何、その鈍器!」

 リビングの扉が開き、刀真の三個上の姉、瑠理香(るりか)が刀真の姿を視界に映すなり大声を上げる。そして、目を丸くしたまま近くに佇む母親と顔を合わせた。

「……テスト、勉強じゃないよね。分厚すぎるし」
「借りてきた本だって。ファンタジー」
「ファンタジー? 刀真が?」

 瑠理香も同じような反応で、母親は「そうなの、そうなのよ」と、やっと理解者を得たと言わんばかりに何度も頷く。

「明日、雨?」
「快晴よ、天気予報が当たれば、ね」
「いや、絶対雨だわ」

 わいわいと騒ぐ母娘の会話すら刀真は気に留めていないようだった。深く集中しているらしい。何が彼をそうさせるのかは非常に興味深いが、今は邪魔しないでおこうと母娘の意見が一致する。
 二人は刀真にからむのをやめ、夕食をとることにした。もう少ししたら、ご飯を食べるようにもう一度声をかけよう。懸命に本を読む刀真を微笑ましく見守りながら、二人はそっと食卓についた。