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アンジュが制作で三階にあるアトリエに籠もると、未森は後片付けを始め、美季はギャラリーを眺めたり、ハーブガーデンを散策したりしていた。
庭園の奥に森へ続く細道があり、しばらく進むと開けた場所に出た。
目の前に八ヶ岳がぽっかりと顔を出しているが、さっきと比べると頂上付近に雲がかかっていた。
言われたとおりに写真を撮っておいて正解だったらしい。
どこからかカカコンカカカと啄木鳥の奏でる軽快な音楽が聞こえてくる。
――のどかだなあ。
両腕を突き上げ、思いっきり背を伸ばす。
何もしないことを楽しむのは、生まれて初めてかもしれない。
子供の頃から時間があればそれを埋めるために何かをしていなくては気が済まなかった。
というよりも、つねに何かをやらされていたのかもしれない。
二人の話を聞いてうらやましいとは思ったけど、自分はやはりそういうふうには思い切れないとため息が出てしまう。
三十が近づいてきて、まだ結婚どころか彼氏もいない――いたこともない――自分に焦っていたし、世の中から求められている課題をほとんどクリアできていないような気がしていた。
親に嘘をついてまで今日初めて一人で旅行に来たのは、そういう自分を縛る何かから逃げ出したかったからだが、不意に、こんなところにいる状況がやっぱり不安になる。
年齢だけは大人のはずなのに、中身はいつまでも指示されたり何かに依存していないと落ち着かない子供なのだ。
と、そんなことを考えていると、足元がぞわぞわっとした。
驚いて目を向けると、黒い猫が体を擦りつけていた。
「え、ちょ、どこから来たの?」
すらりとした体に長い尻尾を立てて、くりっとした黄色い目をまっすぐに美季に向け、見知らぬ人を恐れる様子もない。
美季はおずおずと手を差し伸べながらしゃがんだ。
背中を撫でてやるとうっとりとした表情でおとなしくしている。
――すべすべでつやつやでいい毛並みだなあ。
まるで子猫の頃から飼われていたみたいに懐いていてかわいい。
「どこに住んでるの?」
――ナーオ。
「名前はあるの?」
――ナーオ。
それが名前というわけではないだろうが、なんだか話が通じているような気がした。
「私ね、ずっと猫を飼いたかったの」
子供の頃からずっと猫を飼いたいと思っていたけど、親に反対されて願いがかなうことはなかった。
ペット可のアパートで一人暮らしをすればいいことは分かっているのに、実行する行動力も、裏付けとなる経済力もなかった。
そもそも親が許さないだろう。
家を出るのは結婚するとき以外ありえないのだ。
もちろん、いい歳した大人が親の言いなりでなければならないなんてことはないのは頭では分かっている。
だけど、子供の時から親の言いつけを守るいい子で育ってきた自分には、逆らうことができない。
分かっている。
自分のことは自分で決めていい。
そんなことは分かっている。
だけど、そんなことを考えただけで、寒くもないのに体が震え出すのだ。
さわさわと森がざわめく。
山から吹き下ろしてきた風が首筋を撫でていく。
美季は自分自身を抱きしめて体の震えを押さえ込んだ。
――ナーオ。
黒猫がしゃがんだ脚の間に入ってきたかと思うと、くるりと背を向けてちょこんと座り込む。
「私を温めてくれるの?」と、頭を撫でつつ美季は気がついた。「あなたの方が、私を風よけに使ってるのね。いいけど」
都合のいい関係だけど、ギブアンドテイクで悪くはない。
「そうしてていいからさ、私の話を聞いてくれる?」
ふるっと尻尾の先が手に絡む。
どうやら聞いてくれるらしい。
「私、べつに一人でも困らないんだよね。親は『いつまでもこんな生活続けてていいわけないぞ』なんて言うんだけどさ。話し相手がいなくても寂しくないし、今までもずっとそうだったし、困ったこともないのよね」
ふう、とため息をつくと、黒猫がふるっと体を震わせた。
両手で体を包んであげると、背中に尻尾をつけてあくびをする。
つられて美季もあくびをしてしまい、思わず笑ってしまった。
――なんか一人で笑っちゃって恥ずかしい。
あわてて周囲を見回してみても誰もいない。
「一人なのに恥ずかしがっても意味ないよね」
自虐的に肩をすくめて見せても、それを見ている者はいないし、猫ですらこちらを向いているわけではない。
「一人でいいのに、誰もそれを肯定してくれなかったんだよね」
美季は猫の背中に向かって話を続けた。
「猫ちゃんはさ、よけいな励ましとか、正論を振りかざさないでただ話を聞いてくれるじゃない。ていうか、私が一方的に愚痴を言ってるだけなんだけど、でも、すごく感謝してるんだよ」
――ナーオ。
チラッと振り向いて鳴き声を上げる。
「やっぱりちゃんと聞いてくれてるんだね」
涙が浮かんできて、鼻をすすりながら空を見上げる。
――うーん……。
猫しか話し相手がいないって、それが一番まずいか。
だけど、自分には、これぐらいの関係がちょうどいい。
強がりじゃなくて、踏み込んでこられるのが苦手だから仕方がないのだ。
深く関わることなく、何かの正解を押しつけようとしない相手と、当たり障りのない話をしているのが一番楽だ。
――やっぱり、猫飼おうかな。
と、思ったその時だった。
飽きてしまったのか、猫が尻尾の先を振りながら去っていく。
「もう行っちゃうの?」
呼び止めても振り返ってはくれない。
「じゃあね、バイバイ」
ぶっきらぼうというほどでもなく、どこか割り切った大人の関係にも近い不思議な出会いだった。
立ち上がった美季は、森の中へ入っていく黒猫の姿が紛れて消えるまで見送ると、ペンションへ引き返すことにした。
今すぐ何もかも変える必要はない。
できることから少しずつ変えていけばいい。
そのうちの一つが、またここへ戻ってくることだ。
自分の理想的な暮らしが実在しているこの場所へ。
三百六十五日のうち、一日でも二日でもいいから、不本意な毎日と差し替えていく。
それを積み重ねていけば、いつかは自分の居場所ができあがるんじゃないか。
美季はそんな未来を想像しながら清涼な森の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
胸が期待に膨らんだと思ったら、おなかがくるると鳴った。
あんなにおなかいっぱいおいしい物を食べたのに、歩いたらもう小腹が空いてきたらしい。
考えてみたら、こんなふうに食欲がわいたのも久しぶりなのかもしれない。
ストレスでやけ食いをする人もいるけど、自分はむしろ食欲をなくしてしまう方だ。
食事なんて、ふだんはただの燃料補給だと思って口に入れていただけだった。
今から夕飯が楽しみだなんて、思えば、そんな気分になったのも久しぶりだ。
それもこの森と澄んだ空気、そして聞き上手な黒猫のおかげだ。
自分自身を見つめ直すきっかけをつかめたような気がして美季は足取りも軽やかにペンションに戻ってきた。
――ああ、写真撮らなかったな。
でも、一つ一つの風景が鮮明に記憶に刻まれている。
べつにもったいなくないか。
何度でも来ればいいんだし。
そのときはまた会えるかな、さっきの黒猫に。