「離婚しました。母校の近くで一人暮らしを再開し楽しくやってます。遊びにきませんか?」
真由美から届いた年賀状に、そんな非常識なことが書いてあったので、新年早々、非常識に新居とやらに遊びに行ってやることにした。正月の松の内も終わっていない、1月5日のことである。
「離婚」という言葉を年賀状に書くとは……。
人によっては、相手のマナーに疑問を感じたり不快感を持つものだと思う。しかし、私はちょっとばかり痛快な気分になった。
――やってくれるな。さすがだな……!
見事な技でも食らわされたような気分になって、ちょっと笑みがこみあげてきたのだった。
年賀状を書く人は年々少なくなっているらしい。
しかし、平成元年生まれの私たちは、まだまだ年賀状という文化を大切にしている。小中学校時代に流行していた「手紙文化」の影響だろうか。年末が近づいてくると、マスキングテープでデコレーションしたり、イラストを描いたりした、凝った年賀状をついつい作りたくなってしまうものなのだ。
私自身、凝り性なタイプだから、ちょっと変わったペンやシールを駆使して、独創的な年賀状を作るようにしていた。小学生時代に戻って、友人と手紙交換をするような気分で、年賀状を書くのは楽しかったし、元旦に友人から届く年賀状を見ることをお正月の大事なイベントのように思っていた。
しかし、だ。
二十代後半になったあたりからだろうか。私は、年賀状というものが嫌いになり始めていた。同級生たちの年賀状のテイストが不穏なものに変わってきていたから。
「結婚しました」
「今年から家族が増えました」
「家を買いました」
「七五三です」
「小学校受験に挑戦しています」
「私立小学校に入学しました」
イラスト入りのかわいらしい年賀状の枚数が減って、「うまくやってる近況報告」+「素敵な家族写真」という構成の年賀状が増えてきた。
最初の頃は、「ドレス素敵だな!」「無事に出産できてよかったな」なんて、優しい気持ちで年賀状の写真を眺めることができていた。しかし、新居の話だの子どもの宮参りやら七五三、さらには受験だのといった話題の年賀状が毎年毎年届くようになってきて、少しずつ不快感が蓄積されていくようになってしまっていた。
――私たちは、こんなにもきちんとした人生を送ってますよ! あなたはどう?
既婚者となった同級生たちに、そんなことを言われているような気がした。
34歳にもなって、独身だから……独身者の僻みで、マイナスな受け取り方をしてしまっているのかもしれない。嫌なことを考えてしまう自分の心の狭さを反省することもあった。
ただ、近況報告の年賀状を送ってくる知人の中には、独身時代は年賀状を送ってきていなかったのに、既婚者になった途端に、写真入りの近況報告年賀状を送ってくるようになった者もいて、どうしても、悪意のようなものを読み取りたくもなってしまうのだ。
――それに独身時代は、みんな自分の写真なんかを年賀状に載せなかったじゃない?
もしも独身時代に自分のスナップ写真を年賀状にプリントする奴がいたら、「ナルシスト過ぎる!」と、笑いものになっていたはずだ。自分たちの写真をわざわざ年賀状に刷るという行為には、ナルシスティックな自己顕示欲が隠されているような気がした。
「見て! きちんと既婚者になったの! 豪華なドレスに注目して!」
「見て! ちゃんと子どももできたの! 宮参りの衣装素敵でしょ? 出産後もスタイルを維持している私にも注目!」
「見て! 早いもので七五三! 正絹の着物が素敵でしょ?」
「見て! 私立小学校に入学したの! 学校名と上品な制服姿に注目して!」
「見て! 家を建てたの! 変わったデザインでしょ? 分譲住宅じゃなくて注文住宅なんだから!」
今年も今年で、いかに自分たちファミリーが幸福にやっているか、持ち物がいかに良いものかを婉曲的にアピールする年賀状が大量に届いている中で、「離婚しました」ということを臆面もなく書いてのけた真由美の仕草が、一服の清涼剤となったといおうか……幸福アピールをしている奴らに肘鉄砲を食らわせてやっているかのようで、ちょっとスカッとしたのだ。
――相変わらず、変な奴……。
クスッと笑いながら、私はすぐにスマホでアプリを開いて、「年賀状見た。どういうことよ?」と、彼女にメッセージを送っていたのだった。
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思えば、真由美は出会ったときから「変な奴」だった。そして、私の心に清涼感をもたらしてくれる存在だった。
彼女とは、大学の入学式の席が隣同士だったことをきっかけに親しくなった。
私は、入学式の会場に到着したときから、同級生となる子たちの顔や持ち物をさりげなく盗み見て、「自分と同じ感じの子はいるか?」「フィーリングの合いそうな子はいるかな?」と観察していた。
同じ高校から進学してきた子も数人はいたが、学科が違ったりあまり親しくなかったりしていて、大学で新たな友人を作る必要があった。高校の先生から、「大学はグループワークなどが多いから、人付き合いはきちんとしとけ」と教えてもらっていたから、一人ぼっちにならないように、早いところ友人を作っておきたいと思った。
しかし、入学式の会場で、私は引け目のようなものを感じてしまっていた。髪の毛を染めてしっかりとメイクもしている子が目立っていたから。
馬鹿正直に校則を守ってきた私には、メイクをする習慣なんてなかった。
大学生なんだからきちんとメイクしないといけない! と思って、春休み中にメイクセットを購入したものの、使い方がさっぱりわからなかった。
練習してみたものの、どうやってもアイメイクがうまくできず……結局、軽くファンデーションを塗って、チークをはたいて、薄目のリップをつける……という、ほぼほぼスッピンの状態で入学式に参加するはめになってしまった。
――とりあえず、席が隣の子には話しかけておこう!
こそこそと受付を済ませて、座席に向かった。
入学式の席は、学科ごとに分かれていて、到着した人から順番に座っていくことになっていた。私は、案内された席に座りながら、既に席についていた真由美にニコッと会釈をした。そして、内心でガッツポーズをした。
――お、いいじゃないか。系統は違うけど、真面目そう。きっとうまいことやっていける!
大学に入学したばかりの頃、真由美はさっぱりしたとしたボーイッシュな恰好をしていた。髪はショートカットで、肌は健康的に日に焼けていて化粧っけもなかった。そんな彼女の姿を見て、私は「自分と同類」というふうに感じた。大学デビューをうまくできなかった仲間というふうに、失礼なことを思ったのだ。
――まずは、挨拶して……履修登録の話やサークルに入るかとか……そういう話をして……そうだ! ボーイッシュな感じだし、スポーツとかやってた? みたいに話を運んで、高校時代の思い出話なんかをしてもいい
当たり障りのない話をするための会話の流れを頭の中で組み立てた。そして、彼女に話しかけようとしたのだが……その目算は、彼女の一言でものの見事に破壊されることになった。
「なぁ、うちの大学、第一志望ではなかったやんね? 第一志望の大学ってどこやったん?」
関西弁丸出しで、なかなかセンシティブな話題を振ってきたのだった。
私は、あっけに取られてしまった。
まず、言葉遣いが凄い。
うちの大学は、関西にある大学だけれど、地元以外……たとえば、九州や四国から通ってきている子も多い。したがって、相手の出身地がわかるまでは、標準語と関西弁をミックスしたような……少し丁寧な話し方をするのがお作法というものだ。実際、会場のいたるところから「あ、そうなの!?」「うわー。すごいね」というような、標準語っぽい口調での会話が聞こえてきている
「ええええ! フツー、初対面でそんなこと訊かんやろ!? ひどない?」
反射的に、私も関西弁で熱っぽく返事をしてしまった。
当たり障りのない会話どころではなかった。
うちの大学は、地元ではそれなりに賢い公立大学として有名なのだ。
旧帝大よりかは偏差値が低いけれど、マーチや関関同立といった一流私大よりかは偏差値が高めの大学なのだった。しかし、偏差値は高いけれど、公立大なので一流私立大と比べると、特色や個性というものが存在していなかった。
そのせいだろうか。旧帝大の下位互換大学とみなされることが多く、わざわざ第一志望にするようなところではないと判断されがちだった。
――偏差値は高いけど、全体的に地味な大学。旧帝大の滑り止めにするにはちょうどいいけど、第一志望にはしないよねぇ……。正直、特徴ないもん。
関西圏の高校生からは、そんなふうに酷い評価をされてしまっている大学なのだ。
そして、当然のことながら、私も第一志望の大学は別のところだった。大阪の国立大学のほうに行きたかったのだ。公立大学に来る予定はなかった。
「や、だってさ、共通の話題がそれしか思いつかんかってんもん」
真由美は、私の反応を面白そうに見ながら、いささかふてぶてしい態度で言った。
私は怒るべきだったんだろうが、さばさばとしたその態度に、少し可笑しさのようなものを感じてしまった。
「いやいや。絶対に他にもあるやろ? もうちょい努力しようよ」
「そうかな? うちの大学の入学式の話題としては適切な気がしたんやけど」
二人でついつい笑ってしまった。私は、関西人だからか、おもろいものが好きなのだ。
初対面の人間に受験の失敗を指摘されるなんて……不幸すぎて、逆にネタとして面白い。そんなふうに思ってしまっていた。
加えて、不躾な彼女の態度を見ていると、不安を感じたり緊張したりしているのがバカバカしく感じられてきた。ここまででなくとも、もう少し肩の力を抜いてもいいのではないか……。そんな気持ちになっていた。
それに、悔しいことに「受験の失敗」というのは、意外にも話題としては適切だった。
私たちは受験勉強の愚痴で盛り上がったのだ。履修登録やらサークルの話では、ここまでは盛り上がることは不可能なレベルで。
私は、地元の中学校までは賢かったこと。地元でトップクラスの高校に進学したこと。高校にはホンマモンの天才がいて心が折れたこと。頑張っても学校でよい成績が取れず、心が折れたこと。とにかく天才に圧倒されたこと。一発逆転したかったけど無理だったこと……。
めでたい入学式で何という話をさせるんだ! と、思いつつもスラスラと愚痴は出たのだった。
「うんうん。わかるわ……おんなじやわ。自分の話を聞いてるみたいや」
真由美は、私の話にいちいち共感してくれた。彼女も彼女で、あと3点で京都の国立大学に合格だったらしく、現代文の解釈の問題でミスをしたことを何度も何度も夢に見るレベルで後悔していることを滔滔と面白おかしく語って見せたのだった。
「それめっちゃ悔しいな。あと、三点って……。浪人とか考えへんかったん?」
彼女の境遇に激しく同情しながら、私はそんなことを尋ねていた。すると、さっきまでスラスラと自分の苦労話をしていたのに、真由美はふと考え込むように黙ってしまった。どうしたのか、と思ったら、彼女はふと笑ってみせた。
「知っとる? うちの大学の成績上位層って女子ばっかりやねんて」
さっきまでは、割と大声で話していたのに、真由美は秘密の話をするかのように声をひそめた。急に話題が変わったようで不思議に思いつつも、私も声のボリュームを小さくした。
「それって、ここらへんの地方の女子は、男子より賢いってこと?」
「ちゃうって! うちの大学で上位に食い込める地頭あったらさ、もうちょい頑張ったら、それこそ東大にだって入学できるわけやん」
確かにそうだ。私だって、何度か受験のチャンスを与えられたら、大阪の国立大学に入学できるはずなのだ。来年の私ならば、今よりも数十点分は賢くなっているのだから。
私は、頷きながら、彼女に続きを促した。
「だからな、うちの大学の上位に入れるような男は、浪人する道を選ぶねん。でも、女子はさ、浪人とか許してもらいにくいやん。だから、浪人を諦めて、そのまま現役でうちの大学に進学するわけ。その結果、うちの大学のトップ層からゴッソリと男は抜けるから、成績上位は女子ばかりになるねん。うちの大学の卒業式、それぞれの学科のトップが卒業証書をもらうやろ? 毎年、壇上にあがるのは女子ばっかりやねん」
思わず私は目を見開いてしまった。
そうだ! 浪人生は圧倒的に男子が多い。なんかしらないけれど、女子は「現役で入学すべき」みたいな価値観が浸透しているし、私自身も「浪人」というものを現実的な問題として意識していなかった。
高校時代までは、それほど男女差別というものを感じてはいなかった。女子同士の面倒くさい繊細なやり取りなんかを見ていて、ちょっとダルさを感じることはあったけれど、女性だから将来の可能性が狭まるなんて……昭和の話だと思っていた。
「ズルい! そんなんよく考えたらおかしいわ。男女関係なく生涯で受験できるのは一回だけにしてほしいわ」
「でも、ええやん。うちの大学って、女子のほうが賢い子が多いからか、学園祭とかでも女子が権力握ってるみたいやし。サイコーやん」
ついつい大きな声をあげてしまった私を真由美はなだめるかのように、そんなことを言った。
そして、実際に大学生活は楽しかった。女性の意見が通りやすいから、学園祭にもイケメンのアイドルや人気芸能人を呼ぶことができた。確かに「サイコーや」と、何度かのんきに思ったのだった。
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真由美の部屋は、びっくりするくらいに物がなかった。
間取りは1K。玄関を開けたら小さいキッチン。キッチンの向かいにはバスルームに続く扉。キッチンを抜けた奥に八畳の居室がある。一人暮らしのよくある間取りの部屋だ。
ただ、八畳の居室には、真由美らしさを感じさせるものが何もなかった。
ベランダに続く大きな窓にはグレーのカーテン。窓側には、カーテンよりは明るいグレーの寝具が載ったベッド。空いたスペースにはグレーの円形ラグが敷いてあって、長方形の大きめのローテーブルと座椅子が2つテーブルに向かい合うように並べてある。ローテーブルの上には、マグカップが1つ乗っているだけ。
「えらくさっぱりしてるね」
家具といえば、ベッドとテーブルと座椅子しかない。ベッドの下が収納スペースになっているようで、そこに洋服類を入れているようだ。
シンプルでホテルライクな部屋とでも言ってもいいのかもしれない。しかし、カーテンと寝具がグレーのせいか、なんだかひどく寒々しい部屋という気がした。
「結婚するときに、整理したから。自分の荷物ってあんまないんよ。それこそ服が数着あるくらいやわ」
虚勢を張るでもなく、淡々と事実を述べるかのように真由美は言った。
そうか。そうだよな。結婚をするなら、新居に荷物をたくさんは持っていけないもんな。断捨離とかで、荷物をかなり整理していかないといけないもんな。
「まぁ、そこの座椅子にでも座って。お茶いれるから。コートは……ここにでもかけておいて」
真由美は、壁を示した。壁には、木製のウォールハンガーが5つ等間隔に並んでいた。必要最低限のものはそろっている部屋だ。
「ありがとう! ていうか、めっちゃ大人っぽいええ部屋やん。30過ぎて大人っぽいいうのも変やけど。かっこいいわ」
コートをかけつつ、明るい口調で私は言った。真由美は照れたように「ありがとう」というと、キッチンのほうに引っ込んでしまった。
真由美が視界から消えてから、私はもう一度、部屋を眺めて、ふぅ……とため息を漏らした。
――やっぱり。本がない。
真由美は大学時代から一人暮らしをしていたが、その部屋はびっくりするくらいに本であふれていたのだ。
3段のカラーボックスが壁に沿うように10個以上並んでいて、その中には、単行本だの美術館の図録だの、文庫本だのコミック本だの同人誌だの……ありとあらゆるジャンルの本が詰め込まれていた。
床の空いているスペースには、図書館から借りてきた本のタワーがいくつもいくつもできていた。
本は重たいから、いつか部屋の床が抜けてしまうのではないかと、遊びに行くたびに不安を感じたものだった。
――それらの本を全部きれいに処分してしまったのか……。
結婚する前に、真由美が蔵書の大多数を裁断して電子データ化した、と自慢していたのをふと思い出した。それから、きらきらとした年賀状を送ってくる友人たちのことを思った。
――彼女たちには、自分の部屋ってあるんだろうか。自分のモノって言えるものをどれくらい持ってるんやろか。
子ども部屋はあるのかもしれないが、きれいな新居で自分だけの居場所や時間を確保できているのか……そんなことが気になった。もしかしたら、彼女たちには、自分の年賀状が鬱陶しいものに映っていたかもしれない。自分の時間がたっぷりとあることをアピールするかのような……そんな年賀状だと思われてしまっていたかもしれない。
――いけない! いけない! 明るく振舞わないと!
真由美に同情しているかのような態度を取りたくなかったし、せっかく新居に招待してもらえたのだし、明るい態度で一日を過ごしたかった。
自分自身の気持ちを奮い立たせるように、明るい表情を作って、座椅子に座ろうとした……のだが、私は思わず大きな声をあげてしまった。
「ちょ、なにこれ!?」
私の声に驚いたのか、真由美がキッチンから顔を覗かせた。「なんや?」と、驚いたような表情を浮かべる真由美にかまわずに、私はテーブルの上のマグカップを指さした。
「これよ! このマグカップの中身やん!」
「ああ、それ10円」
「いや、10円なのは見たらわかるわ」
テーブルの上に置かれていた大きめのマグカップ。その中には、飲み物ではなく、上までびっしりと10円玉が詰まっていたのだ。マグカップを貯金箱代わりにしているのだとしても、10円玉だけなのは、どうにも変だ。
「それな磨いていってるねん」
お盆に紅茶とお菓子を載せて真由美がキッチンから戻ってきた。紅茶を受け取りながら、私は首を傾げた。
「なんで? おまじない?」
銭洗い神社というものがあると聞いたことがある。汚くなってしまったお金を神社内の清水で洗ってあげて、財布の中に入れておいたら、ご利益でお金持ちになれるとかいう……そんな話だったはずだ。
「ちゃうちゃう。半年前にちょっとした出会いがあってん」
私は思わず身構えてしまった。なんや。宗教やろか……。
もしも、真由美が変なカルト団体に入信しているのであれば、友として止めてやらないといけない。「銭洗い教」なんていうカルトが大阪にはあるのかもしれない。
半年前ということは……そのカルトが離婚の原因になったとかではないだろうか。
そんな私の警戒心を知ってか知らずか、彼女は得意げに話を続けた。
「七月のことやったわ。暑い日でな、ちょっとカフェで涼もうと思って、目についた店に入って、飲み物を頼んでん。税込で490円のアイスコーヒーやったわ」
その店で、カルトの幹部にでも出会ったのか? 紅茶を一口だけ飲んで、ドキドキしながら、彼女の話を聞いた。
「お釣りが510円やろ。そしたら、その10円玉がえらく汚かってん……。『なんや昭和20年代のギザ十とかやないやろか? 古い10円なら高くで売れるやん』と思って、製造年を見てみたんや。そしたらな……びっくりするで。なんと「平成元年」……私らとタメの10円玉やったんや」
「まぁ、平成になって三十年以上が過ぎてるからなぁ。汚くもなるわ」
自分の生年の10円玉が汚かったからとして、それがどうした? どうお金を洗うという話に繋がるのかがわからず、いい加減な相槌を打った。すると、真由美は、ふぅ……と、呆れたようにため息をもらした。話の意図をつかめない鈍いやつを相手にしているかのような態度である。
「とにかく私は嫌やってんよ。自分と同じ年の10円玉が汚いことに傷ついてん。『ああ、自分って10円玉がこんなにも汚くなるくらいの年月を生きてもたんやなぁ。小学生のころは、タメの10円玉はキレイやったのに』とかって思ったんやん。私と同じような思いを、同級生のみんなにはしてもらいたくないとも思ったな。やから、その汚い10円玉との出会い以来な、平成元年の10円玉を見つけるたびに、家に持って帰って、きれいに磨いてやって、リリースするようにしてるんや」
――嘘やろ……!?
彼女の話を聞いていて、私は唖然としてしまった。真由美の顔とマグカップいっぱいの10円玉を見比べたあとに、ザっとマグカップの中の10円玉を机の上にぶちまけた。
「ちょ、なにすんねん。雑に扱うなよ」
彼女の注意を無視して、私は机の上に広がる10円玉の製造年をチェックしていった。平成元年・平成元年・平成元年・平成2年・平成元年……ん……平成2年? 平成元年以外の10円玉も混ざってるぞ。
「ついでに平成2年生まれの10円玉も洗ってやってるよ。ほら、平成2年の早生まれの子たちは、うちらと同級生だったわけだから」
私の困惑を見抜いてか、先回りして真由美は説明した。謎の気遣い。謎の律儀さだ。
なぜか得意げにしている真由美の顔を見ていると、私は可笑しくて可笑しくて仕方がなくなっていた。
「アホちゃう? いちいち10円玉の製造年なんて誰も見てへんわ。徒労やわ。アホやわ。他にすることあるやろ?」
「いやいやわからんで。めっちゃきれいな10円玉やったら、いつのか気になるやろ?」
「ならんって! そもそもうちらの年代って基本的にキャッシュレスやん。クイックペイかペイペイやろ? いちいち小銭とか使わんわ」
「いや、使う子はおるって。特にな、自販機。自販機は現金やで」
「確かに……。自動販売機は、いまだに現金で買うことが多いかもしれん」
「そうやろ? で、なんかめっちゃきれいな10円玉が出てくるわけ。それが自分の生まれ年の10円玉やったとしてさ、なんか嬉しいやん? 私ってまだまだ若いって気分になるわ。エールを送られた気分になるわ」
バカバカしいと思いながらも、なんとなく私は納得させられそうになっていた。確かに、ちょっと嬉しいかもしれない。自分の生まれ年の汚い10円玉に出会うよりかは、ずっといい。
しかし、キャッシュレス化が進んでいるというのに、こんなにも10円玉を集めるのは大変だったのではないだろうか。銀行に行って「平成元年の10円玉ください」といったら、出してもらえたりするのだろうか。
ふと、10円玉の入手経路がきになったので、尋ねてみることにした。
「これ、一人で集めていってるん?」
「最初のほうは一人でやってたんやけど、会社とかでもネタにしてて、そしたら、面白がってみんなが協力してくれるようになってん。平成元年と二年の10円玉を見かけたら、きれいにしてくれてる子もおるみたい」
「なんや。もう! 真由美が銭洗い教の教祖様になってるんか。あほらしい」
「銭洗い教? なに、それ?」
「こっちの話!」
周囲の人まで巻き込んでるんかい! はた迷惑な話だと思いつつも、真由美が周囲の人とうまくやっているようで安心した。ちょっと空気が読めない部分もある彼女。なんでもズバズバと言ってしまう彼女は、大学時代に、女子グループで攻撃されて孤立してしまうこともあったから。
「ただ、ちょっと凹んだこともあってさ。新卒の子に、『平成元年!? ガンネン生まれなんすっか!? ガンネンってなんか凄ないですか? 骨董って感じの響きですやん』言われてな……その子、平成12年生まれとかやってさ……」
「早いなぁ。平成10年なんて、めっちゃ最近の気がするわ。でも、20年以上経ってるんやなぁ」
思わず、二人でため息をついてしまった。
私も、平成2桁生まれが新卒か……なんて、ショックを受けていた口だったから、真由美のショックはよくわかる。なんだか自分はいつまでも「若い」イメージでいたけれど、きちんとオバサマになっていっているのだ。
「そういえばさ、私らって何かあるごとに日本中からお祝いされてたよな?」
「お祝い?」
「ほら、覚えてへん? 私らの学年って、全員が平成生まれやん。学年みんなが「平成生まれ」なんは、私らの学年が初めてやろ。だから、テレビとかでめっちゃ話題になってたやん」
真由美に言われて思い出した。私たちが小中高に入学するごとに、「平成生まれが小学校に入学です」といったように、ニュースで大々的に取り上げられていたのだ。そして、昭和生まれのアナウンサーやコメンテーターに「うわぁ! 平成元年が生まれがもう高校にまできてもたんか」といったように、コメントをされていたものだったのだ。
「そうやったな。やたら言われてたよな。枕詞として「平成生まれが初の」みたいに言われてたなぁ」
「言われてた頃は、『いちいちなんやねん! ほっといてくれ!』なんて思ってたけど、言われへんくなったら、寂しいもんやな……」
「思えば、就職したときが最後やったんかな。平成生まれが入社式ですってニュースで流れたのが最後やな」
平成生まれが……。平成生まれが初の……。
いつまでもそんなふうに言われるものと思っていた。しかし、いつのまにか世の中は、平成生まれの若者だらけになっていて、平成生まれの希少価値が下がっていっていた。そして、私たちのことを「うわぁ! 平成生まれか!」と言ってくれる昭和の大人もいなくなっていた。
これからは令和元年生まれの子らが私たちの代わりに言われるようになるのだろう。順番が来ただけなのだけれど、なんだか少し切なさのようなものを感じてしまった。
「いやいや。入社式が最後ちゃうわ。「平成生まれが初の」といわれる最後は、これからやで」
私の悲しい気分を吹き飛ばすかのように、真由美が目を輝かせながら言った。
「ほら、66年後に私ら100歳になるやろ? そしたら、『平成生まれが100歳になりました! 今年は平成100年です』いうてもらえるわ」
「そんなんめっちゃ先やん! でも、ええなぁ。インタビューに答えたいわ。『平成は令和と同じくらいに平和で良い時代でした。楽しい文化もたくさん花開いた時代でした。平成に生まれてよかったです』とかって……」
平成生まれ初の100歳になる……。なんだか突拍子もないことのように感じられたが、とてもわくわくすることのようにも感じた。平成元年生まれの私たち。立派に100歳というゴールを迎えたいと思った。
「ところで、10円玉って、どうやって磨いてるん? 確か、酢できれいになるんちゃうっけ?」
ふと、洗い方が気になったので、私は尋ねた。
小学生のころに理科の実験図鑑か何かには、酢できれいになると書いてあった。銅の酸化した部分が酢のおかげで溶けて、キレイな部分だけが残る……。そんな実験が掲載されていたはずだ。ただ、やったことはないので、本当にキレイになるのかは疑問だった。
「やってみる? このマグカップに入ってるの、1月中にきれいにして街にリリースしていきたいと思ってるねん」
「やりたい! きれいにしてみたい」
なんだか小学生に戻ったみたいだ。いい年をした女が何をやろうとしているのか、という気分になったが、真由美が熱中していることに挑戦してみたくなった。私のウキウキとした気持ちが伝わったのか、「ちょっと待ってよ」と、なんだか楽しそうな様子で、真由美はキッチンへと向かった。
しばらくゴソゴソと何かを用意しているらしい音がして、真由美は大きな盥を2つ持ってきて、私の前に並べてみせた。
「こっちがな、クエン酸が入った水。で、こっちがただの水。まずな、クエン酸が入った水に10円玉をつけるねん。で、2分くらいたったら、ひきあげて、こっちのただの水の容器に移して、表面を指で優しくこすっていくねん」
説明しながら、真由美は10円玉を10枚ほどクエン酸入りの盥の中に沈めていった。私は真剣なまなざしで10円玉を見つめた。クエン酸に入れられた瞬間、少し汚れが浮かびあがったような気がした。真由美も一緒になって、10円玉を熱心に眺めている。
「よし! そろそろや」
真由美は手慣れた素振りで10円玉をすくいあげて、水が入った盥に移動させていく。「この人、ほんまにずっとこんなことやってるんやな」と、慣れた動作を妙に関心しながら私は眺めた。それから、彼女の真似をして、水の入った盥に手を突っ込んで、見よう見真似で、10円玉をこすってみる。
そんなにきれいにならないのではないかと思いきや、私の手の中で、10円玉からスルスルと汚れが落ちていった。「10円ってこんなにキレイだったか」と、少し感動してしまう。
「これ、意外と楽しいな。平成を生き抜いてきて溜まったケガレが落とされていくみたいや」
「そうやろ! なんか自分の疲れも癒されていくような気がするやろ」
ちょっと興奮気味に言うと、真由美も笑って答えてくれた。なんだかそんな些細なことが、すごくいいなと思えた。
「なぁ、なんで離婚してもたん? せっかく結婚できたのに」
ふと、気になっていたことを尋ねてみた。真由美が結婚したのは、4年前のことだ。「とりあえず既婚者になりたいと思っててん。そしたら、同じように既婚者になるたがってる男がいたから入籍しといたわ」と、あっけらかんと言ってのけて、私を驚かせたのだ。
「なんかなぁ。「損やなぁ」って気づいてしもたからやわ」
「損?」
真由美は、10円玉を磨く手を休めずに話す。離婚なんていう大切な話を、まるでどうでもいい話題であるかのように扱っている。
「私な、20代後半になってから少し後悔することが多かってな……。やっぱり、女性で未婚やと、ちょっと下に見られたりからかわれたりするやろ? 周囲に「結婚は?」とかって言われるたびに、「こんなことばら大学時代にテキトーな男をつかまえとけばよかった」って思ってたんよ」
「そうやな。なんか居心地が悪いときってあるわ」
同意を示しつつも真由美がそういう悩みを抱えていたことを意外に思った。恋愛といったことに興味がないと思っていたし、周囲の思惑なんて気にせずに我が道を突き進むタイプだと思っていた。
「そんなときにな、職場で「既婚者になりてー」いうてる男がいてさ、とりあえず結婚したいという目的が一致したから、結婚してみたんや」
「結婚した時もその話を聞いたけど、雑というか……大胆なことやったよね」
真由美は、照れたように笑った。さすがに、自分でもヤバかったと反省しているのかもしれない。
「まぁ、既婚者になったことで、いろんな利益はあった。節税にもなったし、会社の福利厚生なんかも受けられた。割と、正しい選択やったと思ったし、「お得や!」みたいに感じてたんよ」
「うん。私もちょっと羨ましかったわ」
「たださ、やっぱり他人同士が一緒におると、衝突することも多かった。お互いに不干渉でいようと決めてたけど、相手に期待することや期待されることが多くて……しんどいことが続いてな。「こんなことなら結婚せんかったらよかった」とかって後悔することが何回かあったな」
10円玉を触る真由美の手が止まった。何やらいろんなことを思い出しているようだった。夫との間にあった「しんどいこと」というのがどんなことだったのかはわからない。ただ、離婚した彼女がその「しんどい」ことから逃げられたのは確かなことだ。「よくぞ逃げてくれた」と称賛したいような気持ちになった。
「それで……去年の9月やったな。なんかな、あほらしくなってもてん。どうせ「未婚」でも「既婚」でも、後悔に苦しめられてしまうんやもん。それやったらさ、嫌いなもんと一緒にいながら既婚者として後悔を続けるよりも、好きなことをして好きなもんに囲まれて独身者として後悔してたほうが、得やん?」
「得ってなんやねん」
思わず私は突っ込みを入れてしまった。
でも、なんだか変に腑に落ちてしまった。真由美は、10円玉をこする動作を楽しそうに再開させていた。
「しゃーないやん。でな、一回、そんなふうに思ってもたら、無性に別れたくなって……なんとか相手を説得して、11月の末に別れたんや。で、新居もさっさと見つけて、ちょうどいいと思って、うきうきした気分で年賀状で報告したんや」
私はしげしげと真由美の顔を眺めてしまった。心の底から、彼女は離婚したことを喜んでいるようだ。私はなんだか晴れ晴れとした気分になった。
「それなら、私もそうさせてもらおかな。好きなものに囲まれて、たまに後悔する人生を選ぶことにする」
私が宣言すると、真由美は驚いたように顔をあげて私の顔を眺めた。それから、愉快そうに笑った。
私はいろんなことが中途半端だ。家庭というものを見せつけられると、嫉妬をしてしまう。でも、趣味や集めているものを犠牲にしてまで家族を持ちたくはない。
かといって、趣味にのみ生きられるほど強くもなく……。既婚になっても後悔するし、独身でもちょっとしたときに一人であることを寂しく感じて後悔したりもするのだろう。きっと独身でも既婚でも私は生きづらい。
「そうしたらええ。それで、二人で後悔しよう」
真由美と二人で笑いあった。生きづらくはあるのだろう。でも、私たちはきっと何とかなる。不思議な力強さのようなものを感じて、心が満たされていくような気持ちになった。