夏祭りの日、俺たちは人混みに逆らって歩いた。
会場の反対へ反対へと、くだらない話をしながらひたすら歩いた。
湿度が高い空気が肌の出ている部分にまとわりついたが、不快ではなかった。
むしろこの空気を覚えておくのにちょうど良いとさえ思えた。
いつも通り駿が話して俺がそれに突っ込む。
人混みとは正反対の周囲ではお互いの声がよく聞こえた。
駿に触れたかった。
触れると心臓が爆発しそうなほど脈を打つのに、どこか安心する。
でも、どこかで見ているかもしれない周りの目が気になったし、何より駿の目が気になった。
触れたらどう思われてしまうだろうか。
ここが欧米とかだったらな。
そしたらいきなり抱きしめたって、ただの挨拶なのにな。
なんて馬鹿なことを考える。
駿と付き合ってから初めて考えることが増えた気がする。
その変化が嬉しかった。
「何考えてるの?」
「え?」
駿にふいに聞かれて聞き返す。
「なんかニコニコしてる」
「ここが外国だったらなって」
「なんだそれ」
今度は駿が俺にツッコミを入れて苦笑する番だった。
「ここも誰かにとっちゃ外国だろ」
来たこともない公園に着いた。
ジャングルジム、ブランコ、シーソー、滑り台。
公園にあって欲しいものは全て揃っているが、
すでに午後6時を過ぎた時間帯のせいなのか、この酷暑のせいなのか誰一人遊んでいなかった。
車が4台くらいは停められそうな広さのグラウンドが併設されており、
どこからか駿が見つけて来たバドミントンのラケットとシャトルでラリーをした。
運動が得意な駿とは上手くできないかと思ったが、案外ラリーは続いた。
バドミントンだったからかもしれないし、駿だったからかもしれない。
後者なら惚気すぎで自分でも気持ちが悪いので口には出さないけど。
運動をした後の体を涼ませようと海へ歩く。
風は強いけれどそのぶん気持ちが良かった。
「公園で遊ぶなんて久々だったな」
「なんて?」
風の音に負けた駿の言葉をもう一度聞く。
「久々に遊んで楽しいねって」
「そうだね」
顔を見合わせて笑った。
防波堤を登り、海を見ながら腰掛ける。
駿は俺の太ももに頭を乗せて寝そべった。
沈みかけの夕日と、轟音を立てて漂う海、水平線。
目を閉じた駿の顔を見る。そのままで息を吸う口が開いた。
「俺らってゲイなのかな。それともバイ?」
俺の知らないところで駿は悩んできたのだ。
当たり前だ。俺だってそうだ。
でも波の音に任せれば、どんなことも簡単に乗り越えられる。
いつもならきっとできない会話を非日常に委ねてみる。
「和泉先生が言ってたやつ?」
「LGBT」
「わからない。でも俺たちは結構普通だと思う」
駿の目が薄く開いた。
斜陽が眩しくないように手で傘を作ってやる。
「15年前に出会って、幼なじみで、思春期に入って、
好きとか恋とか考え出したら、その相手は一番近くにいた。究極の普通」
これが普通に恋だと、
俺は俺だからわかる。
「大事にしたいと思ってるよ、この普通を」
駿は口角を上げてそう言うとまた目を閉じた。
「うん、俺も」
さっきより夕日が落ちて来たのを見た。
放っておいても、見ていなくても、勝手に普通に沈んでいく。
「晴にはいずれ言わなきゃなあ」
俺は駿の言葉にもう一度頷いた。
真っ暗な道を引き返していく。
初めて来た道でも、駿と歩けばどこか懐かしい。
だらだらと歩きながら時折ふと蹴ってしまう小石を転がす。
「今日は本当に良かったの、夏祭りじゃなくて」
「行きたかったの?」
「そうじゃなくて、なんで俺の気持ちわかってくれたのかと」
「俺とは好きの感覚が違うから」
「何言ってんの、俺は」
好きという気持ちには自信があった。だからムキになってこんな言い方になった。
「そうじゃないそうじゃない。わかってるよ、涼が俺をめちゃめちゃ好きなことは」
あまりにも直球なその言葉に顔が赤くなるのが自分でわかる。
「俺の好きは、これが俺の宝物でーすっていう好きなんだけど、
涼は宝箱にしまう好きでしょ」
駿は小さい頃から大事なものはいつも持ち歩いて俺たちに共有した。
でも俺は、自分の大切に集めたものを親に見せることすらなぜか恥ずかしかった。
「俺はまあ、涼は俺のものでーすって見せびらかさなくても平気だけど、
そんなことしたら涼は顔から火が出て爆発でもしそうだからさ」
「ちょっと俺のことわかりすぎかもな」
「へへ、俺たち平和に行こう」
駿は笑って俺の背中をポンと叩いた。
「例えば俺の好きはさ、相手をもっと深く知りたい好きなんだ」
駿が真っ暗な空を見上げて言う。
星でも見えるのかと思って同じように見上げた。
雲の中に隠れていく飛行機の光が一番よく見えた。
「俺を?もう十分知ってるだろ」
「好きな食べ物は?」
「当ててみて」
「ラーメン」
「あはは、当たり」
「じゃあ好きな芸能人」
「当てて」
「特になし」
「あははは、正解」
駿と話をしながら、その声も目に映る景色も全てが大切で覚えていたいと思うのに、ほとんどが過去へと流れていく。
反対に見たくもないものが目に入ったりする。
道端に花束が捧げられている。
ここで人が死んだ。
でもその死を悼む人がいる。
その証が置かれていた。
マンションのエントランスでの別れ際、駿に向き合って言う。
「駿、俺、東京の大学に行くことにした」
「そっか」
「やってみたい仕事が見つかった」
企業の採用情報を調べていたら、そのためには都内の大学に通っておいた方が有利なようだ。
「応援するよ」
「とか言って、明日には変わってる夢かもしれない。俺って浅いからな」
「浅いなんて思ったことねえよ」
そう言ってくれる駿のもっと深いところまで知りたい。
俺の知らない駿がまだまだいる気がする。
夏休みが終わり、秋が来た。
風はすでに冷たく、カッターシャツ一枚では肌寒いくらいの季節だ。
志望校を決めた俺は塾に通い始めた。
駿は野球の推薦で地元の大学に行くと決めた。
あの夏祭りの日以来デートらしいことは全くできていない。
それでも駿が塾の外で時々俺の帰りを待っていてくれる日には駄弁りながら家路についた。
この関係は駿の頑張りで成り立っているように思えて申し訳なかった。
ずっと返す方法を探していた。
駿の18歳の誕生日が迫っていた。
「駿、免許取る?」
休み時間に英単語帳を開いて頭の中で覚えようと唱える。
それなのに教室の奥で駿がクラスメイトと話す声がどうしても気になる。
「うーん、取ろうかな」
「じゃあとったら乗せてよ」
「ああ、いいね。お前は取らないの」
こんなに近くにいるのに、遠く感じた。
一歩一歩踏みしめて歩くと、どろっとした沼に足が引き摺り込まれて振り解けない。
そのうちに駿はものすごいスピードで俺の隣からいなくなる。
階段を登って行く駿は俺に手を差し伸べるのに、どうしても後一ミリが届かない。
その差は紛れもなく、甲斐性のない俺のせいだ。
かぶりを振って単語帳に集中し直す。
「うわ、びっくりした。涼どうしたの。塾は?」
その日の放課後、俺は駿の部屋に来ていた。
気がついたら足が向かっていて、駿の母親とヘラヘラ言葉を交わして部屋に入れてもらえていた。
「今日は授業ないし、自習室行くくらいならここで勉強しようかと」
駿の勉強机を借りて数学の問題集を解いていた。
その手を止めて学校から帰ってきた駿に応える。
「ああそう。母さんが入れてくれた?」
「うん。少し出るけどまた帰ってくるって」
「そっか。飯も食ってくの」
「うん」
ただ不安な気持ちを駿にぶつけているだけだ。
「駿、今日泊まっていこうかな」
学校にいても家にいても塾にいても、どうしようもなく不安に襲われる。
不安でここに逃げ込んだ。
駿の瞳に吸い込まれ、そこに安住してしまいたい。
「どうしたの、なんか変じゃない?」
「別に。卒業したら遠距離になるし、今のうちに一緒にいたほうがいいだろ」
「遠距離って、そんな遠くないよ。俺会いに行くし」
そうじゃない。
そういうことじゃないのが伝わらない。
忘れるのは、離れるのは避けられないことなんだ。
それはもう夕日が沈むような勝手さで。
「涼、手握って」
椅子に座っている俺のそばに駿はしゃがみ込んで手を取る。
俺の不安な気持ちを一瞬で察したみたいに。
こんな言葉足らずを、小さな隙間を拾い集めて一粒一粒汲み取るように。
「涼の隣は俺の居場所だ。小さい頃からずっと。
俺が何をやっても涼は笑ってくれて、
涼を笑わせることが俺の楽しみだったし、
辛い時は黙ってそばにいてくれて、俺が話し出すのを待ってくれた。
受け入れてくれた。
お前を好きだと気づいてからはどうやって返そうかいつも考えた」
「俺の方がもらってばかりだと」
ぐっと鼻の奥が痛くなって涙腺が緩むのがわかった。
また俺は俺の感情を閉じ込めて隠していた。
今度は自覚もないままに、気づかないうちにだ。
「そんなわけないよ。俺が離れないから、涼はただ受け入れて。大丈夫だから」
将来のことを考えると苦しくてたまらなくなる。
俺が地元に戻るかも、駿が東京に来るかもわからない。
いつかは親にもこの関係を言わなきゃいけない。
今が終わらないでほしい。
「考えすぎだよ」
「考えるだろ」
「俺めちゃくちゃ嬉しいんだ。涼の想像する未来に俺が当たり前にいることが。
もっと俺に教えて。涼は何に苦しんでるのか。
何が好きで、何が嫌いか。
俺たちもう十年以上一緒にいるから、わかったつもりになってたけど
なのに全然わかってないかもしれないけど
できるだけわかりたいし知りたいんだ」
「なんで」
「好きだから」
「恥ずかしいこと言うな」
「おい」
涙を引っ込めて言った。
照れ隠しなのは駿にも当然バレている。
自分はこういう性格なのだとやっとわかった。
我慢して、勝手に疲れる。
上手く付き合っていかないといつのまにか心はボロボロのズタズタだ。
でもそれは悪いことばかりでもない。
隣にそんな俺を知りたいと言ってくれる人がいるから。
「わかってるよ。ありがとう」
俺を暗闇から連れ出してくれるのはいつだって駿だった。
今はその手に手が届く。