高校3年、初夏。

6時間目はLHRで、担任の和泉先生が教壇に立っている。
教室の意識は既に放課後に向いていて、空気が緩んでいるのがわかる。

「LGBT、皆さん聞いたことはありますよね。
レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの頭文字を取った言葉です」

和泉先生がやたら綺麗な声で問いかける。
見た目も50代には見えない若々しさで
それでいて自身をおばちゃんと呼ぶ自虐ネタも持ち合わせるので
生徒からは人気がある。
そしてやたらと換気をしたがる。

俺もいい先生だなと思う。
けど、それと今とは別だ。

「男性は女性を好きになる。女性は男性を好きになる。
皆さんが読んできた漫画や見てきたドラマはそういう内容が多いし、
それが普通だと思っている人もたくさんいると思います。
だけど、異性を好きになる人もいれば、同性を好きになる人もいます」

正直に言うと、眠い。
頭をぼーっとさせながら、俺はこう考えていた。

好きなんてわからない。

「こういうことかなってピンと来る人もいれば、
なんのことだか全くわからない人もいるでしょう」

なんだか心を見透かされた気分だ。
眠気覚ましという名の仲間探し。
周囲を見回せば幼なじみの姿が目に入る。
坊主の方もポニーテールの方も右手で同じように頬杖をついている。
目線は見えないが、きっと先生より奥の時計に向いているに違いない。
自分も似たような格好をしていることに気がつく。
きっと同じような人生を生きてきたからで、その事実が笑える。
いつか2人も誰かを好きになって、結婚したりして、別々の道を行くことになるだろう。
うまく想像できなくてやめた。

「でも知っておくことが大事です。
知っているだけで、人はきっと少し優しくなれるんです」

先生のつんと綺麗な声は俺を逃してはくれない。
現実に一気に引き戻された。
LHRが終わり帰ろうかと思っていたところ、手元にふと影ができた。
顔をあげたらその正体がわかった。

(りょう)ちゃん、あのさ」

(はる)だった。
晴とは3歳の頃に出会って以来の幼なじみで、
幼稚園、小学校、中学校ときてついには高校まで一緒の腐れ縁だ。
そんな腐った縁はもう一つあるのだけれど、今は一旦置いておく。
制服のスカートをくしゃりと握って、なんだかそわそわした彼女が囁く。
震えているのに決意がこもった声だった。

「私ね。駿(しゅん)に告白しようかと思ってるんだ」

驚いた。
驚いたのにそれを知られるのは恥ずかしかった。
小さい頃からなんでも共有してきたせいだろう。
なんでもわかっていることが当たり前の関係で、
知らないことがあることに驚いて、
でもそれを知られたくなくて、
でも友人としてここは驚いておきたい。

驚いてないふりがあった上の驚いたふりだ。
バカみたいだ。

「晴ちゃんって駿のこと好きだったんだ」

「うん。それでね、今日の帰り、よかったら2人にしてくれる?」

俺のそんなバカなムーブを、緊張し切った彼女は完全にスルーした。

「わかった。先に帰るよ。頑張って」

動いているのは俺の口なのに、俺のじゃないみたいに動いた。
自分で何を言っているのかはわからないけれど、とにかく応援しなければと思っていたみたいだ。

「持つべきものは涼ちゃんだね、ありがと」

晴はいつものポニーテールを翻してはにかんだ。

晴は駿が好きらしい。
俺は好きがわからない。
隣の席のやつと話しながら帰り支度をしている駿を見る。
大きな口を開けて笑っている。
駿が晴の告白を断るとは思えなかった。
だったら明日にはもう、2人は恋人同士なのか。
息を深く吸い込んだら、時間が止まったみたいだった。
翌朝、いつも待ち合わせるマンションのエントランスにはむすっとした坊主頭の駿がいた。
めちゃくちゃ拗ねてる。
理由は知らないがそれは確かにわかった。

俺、晴、駿は3歳の頃に建ったこのマンションにやってきた。
駿は4階、俺と晴は5階の隣同士に住んでいる。
遊び場所はすぐそばの公園で、3人で仲良くなるのは必然だった。

高校生になって、駿は野球部で小学生の頃からやっている野球を続け、晴は野球部のマネージャーになった。
昔に比べれば一緒にいる時間は減ったけれど、今みたいなテスト前の部活動休止期間は登下校を共にする。
誰が言い出したわけでもなく、出発地も目的地も同じなんだから自然とそうなっていた。

「あれ、晴ちゃんは?」

「ライン」

「え、ああ」

口を尖らせた駿がひと単語だけ言う。
なんなんだ、ラインを見ろってことか。

『ごめん、寝坊。先行ってー』

10分前に晴から連絡が来ていた。
昨日の告白はどうなったのか。
気になっていたけれど2人を前にどんな顔をしたらいいのかわからなかったので助かったのもまた事実だ。

「行くか」

俺が声をかけると駿は黙ったままついてくる。
マンションから一歩外に出るとピッカピカに輝くお天道様がアスファルトを照りつけ、眩しい。

「あちー。夏始まってるよな」

「んー」

駿はまだ生返事だ。年々背が伸びる駿を見上げ、顔色を伺った。
既に日焼けしているように見える顔や首に汗が滲んでいる。
やっぱり夏、始まってるよな。

「何、怒ってるの?眠い?」

「なんで昨日先に帰ったの?」

思いがけない駿の言葉に、自分の瞼がぴくっと動いたのがわかった。

「え。先帰ったから怒ってんの」

「何」

駿はだからなんだとでもいいたげにそっぽを向いてしまう。
なんだその可愛さは!
思わず口元が緩んだ。
もう十何年も一緒にいて、たった一日一緒にいなかっただけでこんなに拗ねるとは思わなかった。
なんなら一緒にいることに飽きてもらっても驚かない。

「もういい。先行く」

「待てって」

俺がニヤニヤ笑ったことに気がついた駿を、俺は笑顔のまま追いかけた。
昼休み、晴に駿との状況を尋ねた。

「やっぱり駿って鈍感だよね。そこがいいんだけど。
今日はまた3人で帰ろう」

晴は呆れたように笑って肩をすくめた。

駿は晴が告白していることにすら気づかなかったらしい。
確かにその反応は最も駿らしいなと思った。
俺はドンマイと晴に笑いかけるしかなかった。



放課後、3人で帰路を共にしながらも、駿は朝のまま機嫌を損ねていた。

夏の始まり、午後5時を過ぎても日は高く、周りに誰もいない俺たちの家への道のりではより太陽が熱く感じられた。

「駿、なんか怒ってない?」

駿の後ろを歩きながら、晴がこっそり耳打ちをしてくる。

「俺が昨日勝手に帰ったとか言って拗ねてる」

「私のせいじゃん、ごめんね。先帰るから仲直りして」

晴は申し訳なさそうに眉を顰め、小走りで前を歩く駿の元へ行って肩を叩く。

「駿、私スーパー寄ってくからまたねー」

そう言ってそそくさと駆けて行った。
取り残された俺は、ふてぶてしく歩く駿の隣に並んだ。

「駿、まだ怒ってんの?」

「怒ってる。シェイク飲み行こ」
「ごめん、いじけて。なんか用事あったんでしょ」

わざわざ駅前の店までやってきて、対面で席についた途端駿は謝った。
俺は駿のこういうところが好きだった。
男らしい潔さと真面目さ。

「あはは」

「何笑ってんの。今度からはちゃんと言って帰ってよ」

もう家も近かったのに、遠回りしてここまで来た。
駿の機嫌を直すために。

急に態度が一転した駿の気持ちが手に取るようにわかって、思わず笑ってしまった。

「うん。わかった。美味しい?シェイク」

「うん。ありがとう」



「豊臣秀吉?」

「ブー。お前テスト大丈夫か」

日も落ちてきて薄暗くなった。
問題集を見ながらのろのろと家まで歩く。
バカにして、バカにされて、バカみたいに笑いながら歩く時間が何より楽しい。

「やばいよ、一個でも補習になったら部活できないのに。教えて」

「教えてつっても社会は暗記ゲーだろ」

「だとしても!今年は晴を甲子園に連れて行ってやんねーとな」

駿が気合を入れるようにその坊主頭を撫でながら言った。
俺はその仕草を眺めながら思った。

晴ちゃん、全然チャンスあるじゃないか。よかった。

「涼、今年も新聞部で記事にしてくれるだろ」

「うん。当たり前。活躍してね」

もうマンションはすぐそこだ。
俺は駿に笑いかけて問題集を閉じた。
テスト前、本当にギリギリになってから駿は俺の部屋にやってくる。
そのギリギリ加減は中学から今に至るまで徐々に増している。
今回は3日前になってようやく現れた。

「なあ、興味なかったら無視していただいていいんだけどさ」

「無視するわ」

テスト直前の自覚がないのか、こいつは。
いつにも増してやる気が出ない様子の駿をあしらい机に向かう。

小さなローテーブルに2人分の問題集とノートを広げている。
筆箱なんかは床でいい。

「晴ってさ、俺のこと好きなんかな」

「え」

これはさすがに手を止めた。
足が思わず動いて側にあった筆箱を倒してしまった。
飛び出たペン類を片付けながら、駿の話を聞く。

「なんか、そんな気がしてきた」

「なんで。なんかあった?」

晴の気持ちを知りながら、こんなことを駿に聞くのは間違っているだろうか。

「うーん。あったような、なかったような
この前涼がいなかった日告られたような…」

鈍感な駿でも、告白の雰囲気みたいなものは感じ取っていたらしい。
俺は何も勘付かれないようにしらを切る。
俺から晴の気持ちを伝えるわけにはいかない。

視線は問題集に落としたまま、そっけなく答えた。

「そう」

「気にならない?」

「気にしてほしい?」

「俺だったら気にするけど」

「じゃあ俺も気になる」

「なんだそれ。もういい」

机に突っ伏した頭をそっぽ向けて、俺の目には駿の坊主頭しか映らない。