「重すぎなんで、それ」
がこん、と落ちてきた水を自販機から取り出そうとしたら、大神による恒例の台詞が聞こえた。首を少し伸ばしてみる。自販機裏にはやはり大神がいた。そして一つ年上の先輩の女の子。
おそらくこの次に待ち構えているのは「誰とも付き合う気ないんですよ」だろう。案の定、そっくりそのままの言葉が聞こえてくるものだから、定型文にも程がある。
ペットボトルの水のキャップを開けようとしたが、これがなかなか開かない。おかしいな、と思っているところで、それはひょいっと手元からなくなった。
「姫は握力もない、と」
「いや、変な覚え方しなくていいから」
きゅっと、独特な音を出しながらキャップは回った。今回はただ滑っただけで、そこそこ握力はあるほうだと主張したい。男にしては平均よりもちょい下かもしれないが。
「大事なことだろうよ。姫と、ほら、あそこにいる大神の特徴を覚えることは」
「ちなみにその特徴って?」
「姫こと小鳩真尋は、身長一六七センチ(自称)と男らしからぬ綺麗な顔立ちで特殊な層からによる絶大な支持を受けている」
「……(自称)はいらねえ」
「しょうがねえだろ。このまま大神の特徴に入るけど、まだ姫ターンが必要なら続けようか」
「いや、いいっす。大神ターンで」
「大神 大惺、身長一八二センチ、校内一のイケメンと称される王子的存在。去年のミスコンは辞退してなかったら一位に輝くほどの顔と人気。とりあえず女子からの人気がえげつない。金髪なことも相まってゴールドウルフなんて呼ばれ方をされたりされなかったり」
「聞いたことないから捏造したな。あと俺のターンより断然長くね」
「されたりされなかったりだからな。あと大神の情報はこれでも足りないぐらいだ」
「いろいろ雑か」
「姫は細かいのう」
「……あのさ、ずっと言いたかったんだけど、姫ってやめてくれない?」
「え、今? なんで? やっぱり校内で浸透してる”まひめ”のほうがよかったりすんの」
「いや、それも許可した覚えないんだよ」
男の俺が、友人である白井から「姫」と呼ばれるようになったのは高校を入学してすぐだった。
ほとんどの女子が大神という男に夢中になっている中、似たような眼差しを白井は俺に送っていた。
『その顔で、ほかの女子のことを可愛いって思ったりする?』
それが白井との初めての会話だった。思い返しても、やはり第一声に交わすものではなかっただろう。その顔で、というのが引っかかって質問したら「お前以上に可愛い人間っているのか」と真顔で聞かれた。それは知らん。「思ったりするよ」と返してからは、なぜか友達になった。
大事なことだから先に言っておくけど、白井は俺に恋愛感情を持っているわけではない。ただただ俺の顔が目の保養だと豪語するだけの変人だ。そしてこの男から「姫」と呼ばれることに由来してからか、周囲に本名である小鳩真尋をもじって「まひめ」と呼ばれるようになった。
「そもそもよく分からない人とお試しで付き合うっていう価値観が合わないんで」
おっと、大神への告白はまだ続いていた。今のところ告ってる女の子の声はハッキリと聞こえてこない。けれど、鼻をすする音はしている。勇者よ、ご愁傷だ。
「おー、今日初めての長文だなー大神サン」
白井が「どんだけ更新するんかな」と大して興味がなさそうに呟く。
「大神ってそんな喋らない印象だっけ」
「そうだろうよ。毒づくときだけ言葉数増えるって評判だし」
たしかに普段はあまり大神の声を聞くことはない。同じクラスで空間を共に過ごすことはあるけど、大神は普段からつまらなさそうにしている。俺とは違い、派手なグループ、通称一軍さまにいる大神は、ただ存在しているだけでもよく目立つ。ほかのメンバーは騒がしい人間が多いのに、ただ黙っていても許されるのは大神ぐらいだろう。
「大神って前世なにしたんだろ」
水を口に含めば、白井が「それは」と口を開く。
「人類ざっと一億は救ってねえとあれにはなれねえだろ」
「だよな」
ふっと、視界の端で柔らかそうな金色の髪が見えた。ギラギラとしていない、きれいな金。と、同時にシルバーのフープピアスが左耳で輝く。大神が退散するらしい。女の子は置き去りだ。大神が目の前を横切っていくとき、俺は低めだからか、こいつを少し見上げる形になるのが癪。
断トツの人気を誇りながら、本人は彼女を作る気配が全くない。だからこそと、我こそはとアタックする女子が続出。結果、大神は毎日のように告白されては、素っ気ない返事で一刀両断してしまう。
「なんで俺は大神じゃないんだろ」
生まれてこのかた、異性から告白イベントを受けたことがない。
はあ、とため息がこぼれると白井が「おいおい」とげんなりした顔を見せた。
「姫がそんなヤンキー座りすんなよ。俺の理想が壊れるだろうが」
すると前を通っていたクラスメイトたちが同調するようにこう言っていた。
「ほんとだ、姫がヤンキーになろうとしてる」
「姫は可愛いままでいてくれよ」
そして俺は、この共学で姫扱いをされる始末。
望んでそのポジションを獲得しにいったわけではない。ただ、あまりにも女子が大神にいってしまうものから、男の俺にオアシスを求めている人間が白井以外にも増えだしている。そして、姫と呼ばれることを最近では受け入れている自分がいるから厄介だ。意味合いそのものではなく、音として認識しているような感覚。事情を知らない人間がこの光景を見ればおそらくぎょっとするだろう。
「なあ、まひめ〜」
クラスメイトの八雲が背後から思いっきり抱きしめてくる。
「なっ、ぐるじい……力加減バグっでる」
「振られた俺を慰めてくれよお」
この短時間で、告白されている人間と振られた人間がいるのか。あまりにも世界が狭い。そして天と地の差がある。
「三年の柚月さん、オオカミに取られた」
「え、三年のって……」
たしか、絶賛大神に告白していた女の人のスリッパも三年を表す青だった。もう姿がなくなっているけど。
「もしかして、大神に告ってたって相手って……?」
「ばっか、傷口を広げてくるんじゃねえよ!」
つまるところ、俺と同じように告白現場を見かけたらしい。そして間接的に振られたというわけだ。
「でも、八雲はまだ告ったわけじゃないんだべ?」
「ない。でも好きな人の好きな人が大神だったら最初から戦には挑まねえよ」
「……うーん」
そういうものだろうか。
正直、片思いすら経験していない俺にとって、それは未知の世界だ。
それでも大神と勝負することがあったら、八雲のように諦めてしまう気持ちはほんの少し分かってしまうような気がする。それぐらい、この高校での大神は絶対的な存在だった。
「なんであいつなんだよ。顔がいいだけじゃねえか」
「十分だろうとも」
「まひめも大神派なのか!?」
「いや、なんていうか、顔がいいっていうのは本能的にも選びたくなるところはあるだろうし」
「じゃあ顔がいい基準を俺にしてくれよ~なんで大神なんだよ~」
今日の構ってぶりはひどい。しかしこれが八雲だから憎めないところもある。
たしかに大神はモテすぎてしまうのだ。これでもかというほど、女の子たちを根こそぎ奪ってしまうくせに、自分のテリトリーには入れない。
高校に入学して二年。これまでに告白された回数は数え切れないが、そのうちひとつもオッケーを出したことはない。それはある意味で偉業とも呼べる。俺だったら、とりあえず「いいよ」と答えてしまいそうだ。
そもそも大神にはすでに彼女がいるんじゃないかという問題が浮上することもある。
だから誰からの告白も受け入れない。
それなら納得がいく。それか、恋愛に興味がないとかトラウマがあるとか。
いずれにせよ、その理由は仲がいい一軍さまのメンバーにも明かされていないらしい。時折、一軍さまたちが「なぜ大神は彼女を作らないのか」というテーマで話し合っているのを聞く。
誰も真相を知らない。
ついさっき、横切っていった大神の姿を思い出す。
……なんというか、いい匂いがした。
大神と俺に接点はない。スクールカーストでも大神は常にトップで、俺は中間かその下をうようよと漂っているような気がする。
去年と今年、同じクラスであるということ。
それだけが俺と大神の関係性を表現する上で最も適したものだったのが、半年前から新たに一つの要素が加わった。
それは、同じバスを利用するということだった。
どうやら大神とは、学区が違うだけで家が近かったということが判明。もともと、俺の家は指定された学区の中でも端で、大通りを挟んだ向こう側は別の学区だった。その別の学区に大神が住んでいたというわけだ。
チャリなら五分もかからないような場所にあって、でもお互いバス通学だったから、俺が最初で大神がその次のバス停から乗ってくる。
入学してすぐはそんなことなかった。
ある日を境に、大神が同じバスを利用するようになったという流れ。
同じクラスでは席が近くなったということはなかったけど、バスでは席が前後になる。俺がまず一番後ろの右角を陣取り、その次に乗ってくる大神が俺の前に座る。
いつの日か、大神が寝過ごして、いつも降りる駅でも寝てたのを起こしたことはあったけど。
だからってそれで仲良くなったかと聞かれれば答えはノーだし、大神も覚えてないと思う。
だけど、大神が前の席に座るようになって、自然と大神を見る時間が増えた。
学校ではありえない近さだったし、まじまじと大神を見ても許されるような時間だった。
ピアスとか、なんで怒られないんだろう。校則ではダメだった気がするけど大神だから許されてんだろうか。
髪を染めているのに、柔らかそうな髪。かき上げられた前髪とか、ちょっとセットされてる感じとか、なんだか「おしゃれな人間」そのものを物語っていた。
大神が近くにいると、ふわっと香る匂いとかもよかった。
なんか全部がモテてんなって思わせるような要素ばかりで。
男の俺がきゅんとすることもあった。きも、とすぐに自分を戒めた。
大神はバスでスマホを触らないから、窓の外を眺めていたり、寝たりがほとんどだった。
そうしてバス停に着くとさっさと降りていく。
友達だったら「じゃあな」ぐらいはあるんだろうけど、そういう関係ではないから、いつも降りていく背中と、横顔を見送るだけ。目が合うことなんて一度もない。
俺と大神は、卒業するまで関わりはないんだろうなって、そう思ってた──。
「王様ゲームしまーす!」
教室の掃き掃除をしていたら、リア充をこれでもかと凝縮した遊びが始まった。切り出したのは一軍さま所属の山田だった。ムードメーカー的な存在で底抜けに明るい。悪い人ではないんだろうけど、ノリがついていけない。
そして間が悪いことに、ここは一軍さまでほとんど構成された掃除の班だった。そこに俺がひょこっと混じってしまっているのだから、居心地が悪くてしょうがない。神々の戯れから距離を置いて、さっさと掃除を終わらせてしまおうと動き出した。
「ちょっとちょっと、小鳩も参加だって」
「え……俺も?」
「当たり前じゃん、ここにいるんだし。仲良くやろーぜ」
コミュ力おばけだ。今まであまり話したことがないという相手に、これでもかとぐんと距離を縮めてくる。仲良く、なんてできるわけないのに。
「めんど」
窓の近くでたそがれていた大神が興味なさそうな一言を投下。
「んなこと言うなよ。いつもやってんじゃん?」
「えー、大神はやってないよ」
そう言ったのは一軍さまきっての派手女子、花森さんだ。
「掃除よりも楽しいことしようぜ」
山田が、教室の隅に置いてあった正方形の箱を持ってくる。くじ引きをするとき、何かと重宝されるそれを、今回はしっかりと活用するらしい。事前に用意した紙を入れては、がしゃがしゃと振って、それから一枚取り出す。そのまま大神の手に渡った。
「はい、大神は取ったんで、みんなも引いて」
強制にも程がある。大神なんて、ぽいっと近くの机に投げてしまった。こんなことをしても仲がいいってすごいな。
「ほれ、小鳩も引けって」
悪魔の采配からは逃れられなかった。せめて俺は無関係でいられる位置にしてほしい。ありがちな王様ゲームなら、一回も王様の対象に入らない数字であってほしい。
祈りながら箱から一枚引いた。数字の一だ。これは、果たしてどうなのだろうか。いいとは思えないが。
「はい、じゃあ三番と五番でハグ!」
王様は山田だった。そしてとんでもない内容をにこやかに指示した。
ハグって、俺が知ってるハグ?
抱きしめたり、そういうことをするようなやつ?
いやいや、怖い。怖すぎる。もし俺が誰かとペアにでもなったら、まず「無理」と言われてしまいそうだ。
「え、わたしたちじゃん」
しかし今回のペアはどうやら女子同士だったらしい。花森さんと、もう一人一軍さまに所属する女の子、吉岡さん。仲がいいふたりが当たり、躊躇いを見せることなく「いえーい」と抱き合った。少しだけ盛り上がり、序章にはふさわしいものだった。
次の王様は一軍さま所属の秀才、及川だった。頭がいいうえにプレイボーイで、こちらもモテるにモテる。二回続けて男だったことに花森さんたちからブーイングの声が上がった。
「しょうがねえよ、選ばれてんだから」
及川は嬉しそうに顔を綻ばせ、そして「どうしっよかなあ」と悪魔のように指示の内容を考え出した。どうか、一の数字以外で。もし当たったとしても内容は軽いもので。お願い、お願いだから。
「じゃあ、一番と六番でディープキスお願いしまーす」
……終わった、と思った。
ディープって。キスって。
いや、もしかすると俺は一番ではなかったかもしれない。
期待を込めて掌にある紙をそっと開く。そこには堂々たる一の数字が刻まれていた。
……やっぱり終わった。こればかりはもう、時間が戻るしかどうしようもない。
「おーい、手挙げろって」
山田がゲームを進行させようと促した。
どうする、逃げるか? それともしらばっくれるか?
だけど名乗り出なかったら、一人一人が申告していくパターンになるんじゃないのか。そうしたら、誤魔化しが効かない。そこで場が白けることも恐ろしい。
おそるおそる手を挙げれば、わっと歓声が広がった。
「小鳩くんじゃん」
「姫のご登場でーす」
そのノリだけはやめてくれよ。相手は誰なんだ。まだ出てきてない。
俺となんて向こうも気分落ちてんだろうな。この場を切り抜けられる方法ってないのかよ。
いや、どう考えてもないな。ありえない。
「って、六番俺か!」
とか思っていたら、山田が自分の紙を見ておどろいていた。
「今度は男同士かよ~」
いよいよ逃げられなくなった。
そもそもこのゲームには拒否権なんてものはない。選ばれたら、王様の指示通りに動かなければいけない。
かといって、空気読めない発言とかすれば、今後の高校生活が危険すぎる。
一軍さまに目をつけられて、それがゆくゆくイジメにでも発展すれば。
そんなことになるぐらいなら、ここは大人しく従っておいたほうがいい。
それに、山田が「無理だって!」と言ってくれる可能性だってあるはずだ。男の俺とキスをするなんて指示は、そう簡単に受け入れられるものでもないだろう。
「ま、小鳩とならできそうだわ」
受け入れるんかい。
なんでだよ、山田なら「できるか!」って言っても許されるんだよ。そして俺は救われるはずだ。
「あー、だんだん小鳩が女子に見えてきた。姫だもんな」
「いや、あの……あはは」
苦笑いをしていたら山田の手が俺の肩にのっかった。
だめだ、諦めるしかないやつだ。
周囲の好奇的な目がぐさぐさと身体に突き刺さるみたいで。
一瞬で絶望した俺はそれから勢いよく──後ろに引き寄せられた。
「え」
そう思っていたら、唇になにかが当たった。
山田じゃない。
「ちょ、大神!」
あまりにも近距離で大神の綺麗な瞳と目が合った。その吸引力に何かが持っていかれそうで、俺はしばらく身動きひとつ出来ないでいる。大神が離れていくのを、ただスローモーションのように眺めていた。
キャーという悲鳴で我に返った。俺は今、大神とキスをしたのかとようやく理解したころには、周囲が賑やか過ぎた。
「おおおお、大神!? なんで小鳩とキスしちゃうわけ!?」
興奮している山田に、大神はずいっと手元の紙を見せた。
「俺、六番なんだけど」
「……いや、どこからどう見ても九じゃねえか!」
山田のツッコミで、この一連の流れが全て笑いに消化されていく。俺が大神とキスをしたということは思ったよりも騒がれることなく、むしろ大神ひとりの言動に注目が集まっていた。
大神が持っていた紙には、俺が見ても九番としか思えない数字が書かれている。
「なんだ、まちがえた」
大して悪びれた様子もなく大神は教室は通学バックを肩にかけた。
「大神どこ行くん」
「帰る」
盛り上がった空気ごと、ごそっと置いて行くみたいに出て行ってしまう背中。
そうしたらみんなも同じように「もうやめるか」なんて言ってお開きになり、俺はひとり残された。
唇に触れる。まだ覚えている。大神の熱を。大神の唇を。
……いや、だからきもいって。
それでも忘れられないものになったことはたしかで、大神の何もかもが忘れられなくなりそうで、そうした雑念を振り払うように教室を出た。
いつものバス停に行くと、校舎のフェンスにもたれる大神がいた。
今会うとか気まずすぎる。
一瞬、回れ右をしてしまおうか悩んだがやめた。
じゃりっというアスファルトに落ちていた砂利が靴底と重なり、その音で大神がこっちを見た。
目が合う。ああ、やばい。なんか喋らないと。
「あ、あの、大神。さっきはその……ありがと」
「なんで」
淡泊な返事だった。でも無視をされないよりはマシか。
「なんでって……、山田とのキスを回避してもらったなと」
「俺とキスすることになってんじゃん」
「それは、その……大神は俺とキスしたことを、今後のネタにはしないかなと思ってるし」
もし、あのまま山田とディープキスをすることになっていたら。あの場は白けなくとも、明日からの高校生活は半永久的にからかわれながら過ごすことになっていたはずだ。
それはそれで終わっていた。
その点、まだ大神はネタのように扱わないでいてくれそうだ。それを見ていた一軍さまには、ああだこうだと言われるかもしれないけれど。
「男とキスすることに抵抗はないのかよ」
珍しい。大神から話を振ってくれる。告白を断る時だけ言葉数が増えるというあのゴールドウルフが。
「……考えたことなかった。あ、だからと言って、大神とキスしたことが嫌だったってわけじゃないよ」
「……」
と思ったら、返事がなかった。
俺の返しが大神の気に障ったのかもしれない。
「あ! その、大神は俺とキスすることになって最悪だっただろうけど」
「……別に。俺から仕掛けてるし」
「そ、そっか。それは良かった」
そうして、沈黙がやってくる。
バスが来るまで残り一四分。このまま大神とただ待っているだけというのはあまりにも酷だ。大神だって俺とは一緒にいたくないだろうし。意味もなく時刻表を見ていたら「ふっ」と大神が小さく笑った。
「え、なんで笑ってる……?」
「いや、怒んないんだと思って」
俺が大神に?
「それは、ない。大神がしてくれなかったら……ディープだったから」
まだフレンチで終わったからいいほうだ。
山田のことだから、ノリですっごいのをしてきていたかも。
そういうの抵抗なさそうだし、俺とだったら出来るなんて口にしていたぐらいだし。
「……ない」
夏の余韻が残る風とともに、大神がなにかを呟いた。
「ん?」
聞き返したけど、答えはない。気のせい?
「ま、小鳩の人生で数あるうちのひとつだと思って」
返答きた。安心だ、大神が話してくれると。だからか、口を滑らしてしまった。
「いやあ、俺ファーストキスだったから」
「……」
「……?」
「…………は?」
なににそこまで衝撃を受けているのだろうか。
「ガチで?」
「うん。あ、でもカウントしないほうがよかったらそうするし」
「なんでそっちが配慮してくんだよ」
「いや、だって大神のほうがあれじゃん。俺のファーストキス相手とか思われるのはイヤだろうし」
もちろん言いふらしたりもしないけど。
「……どう考えても俺が謝らないといけないやつじゃないんすか」
あれ、こういう一面の大神は新鮮だ。
いつも、つまらなそうにどこかを見ているその目が、ほんの少しだけ左右に動いていて。困ってるのか、それとも罪悪感みたいなものを持ってくれているのか。どちらにしても、普段の大神とはイメージがかけ離れている。
「大神が謝る必要ないよ。このままだとキスを経験することなく人生終わるかもって思ったとこあったし。ちょうどよかったっていうか、いや、言い方悪いか……ごめん、言いたいことは別にあって」
気持ちが焦ってしまう。正しい感情を伝えられないもどかしさ。
「……なんで、キスを経験せずに人生終わるとか思ってんの」
ぐちゃぐちゃしたものを、大神は苛立って受け取ったりしない。そこに安心した。
「あー……ほら、俺って男として見られることないから」
女の子から話しかけられることはある。だけど恋愛対象ではないんだろうなってことは言葉の端々から感じ取っていた。
「正直、今まで誰かを好きになったことがなかったし、……うん、このまま終わるのかなとか」
「で、俺にファーストキスを奪われたわけだ」
「その節はありがとうございました」
「だからなんでお礼言われてんの、俺」
はは、と大神が笑った。笑顔を見るのは初めてだった。
「……大神って笑うんだ」
「笑うだろ、人間だし」
そうだろうけど、なんとなく笑わないように出来ていると思っていた。そういうところが神秘的で、女の子からの人気も絶大だったような気がする。
きっと今のを見たら、その人気が飛躍してしまいそうだ。
「大神って普通に喋ってくれるんだな」
「なにそれ」
「いや、あんま山田たちとも話してるイメージないっていうか。告白されたときだけ言葉数増えるって評判だから」
「んな評判あるのかよ」
「あ、気に障ったらごめん」
「いいよ、そんなことは気にならない」
寛大だ。話せば話すほど、気取ったりしないところが好印象だ。もっと、お高く止まっているようなところがあると思っていた、すまん大神。
夕日に照らされて、金色の髪がやけに綺麗に輝いていた。
「……あれだけ告白されると慣れたりする?」
ぽろっと出たその質問に、大神は空を見上げた。
「またか、とかは思う」
「でもちゃんと対応はするよな」
断ることで有名だけど、ちゃんと呼び出されたら無碍にしないことを知っている。
今日の、自販機裏で裏で告白されていたのも、あそこまで呼び出されていたから出向いたのかもなって思う。それからちゃんとした言葉で断るのは、なんだか誠意があるように感じた。
実際、どういう人から告白されたのかとか、そういう情報を自分の口で発信することない。
「だからモテるんだろうなあ」
「おだてられてもなにもあげないけど」
「ただただ大神が羨ましいって話」
「そう?」
見上げていた顔が、俺に戻ってくる。
「小鳩だっていいもん持ってると思うけど」
それがやけに真剣な口調だったから、照れくさくなって大袈裟に「ないない」と手を振った。
「こんな顔だし、身長も高いわけじゃないし、別にかっこいいわけでもないっていうか」
「綺麗じゃん」
「……え」
時間が、止まったような気がした。
お世辞だとすぐに理解しようとしたのに、大神はただ真っ直ぐ俺を見つめていた。
「小鳩の顔は綺麗なほうだから、別にかっこよくなる必要もないんじゃね」
からかわれてるわけでは……ないよな?
姫だと言われるようなニュアンスでも、女扱いされるわけでもない。
大神から向けられたのは、正真正銘そう思ってると伝わってくるものだった。
「……そ、そうかな?」
頬が熱くなる。なんだこれ、なんだよ、これ。
男に言われて嬉しいようなもんでもないだろ。それなのに、身体の全部が大神に持っていかれるような気がしてしまう。
意識しないようにしていたのに、大神に吸い込まれてしまいそうになる。
さっきのキスのときからだ。大神の瞳が、俺の心を掴んでいった。
だめだ、やめろ。
「俺はいいと思うけど。小鳩が今挙げたとこ」
「あ、あはは……またまた」
笑って誤魔化せ。大神からの言葉も、俺の気持ちも。
「なあ」
がん、と音がする。
大神の顔が近い。壁ドンだ。後ろはフェンス。
「本気で言ってんの」
「……大神?」
「またキスでもしようか」
「え、えええ……なんで?」
「俺は、キスの相手がだれでもいいわけじゃない」
こんな顔をする彼を、俺は知らない。
見たこともない大神がそこにいて、男の俺にありえない言葉を持ち掛けて。
「小鳩だからキスした」
なにも言えなかった。
あまりにも大神の顔が整いすぎていたから。あまりにも大神の言葉が暴力的だったから。あまりにも大神の熱が俺の肌へと侵食していったから。
頼む、頼むからこれ以上、俺の心を持っていくなよ。
がこん、と落ちてきた水を自販機から取り出そうとしたら、大神による恒例の台詞が聞こえた。首を少し伸ばしてみる。自販機裏にはやはり大神がいた。そして一つ年上の先輩の女の子。
おそらくこの次に待ち構えているのは「誰とも付き合う気ないんですよ」だろう。案の定、そっくりそのままの言葉が聞こえてくるものだから、定型文にも程がある。
ペットボトルの水のキャップを開けようとしたが、これがなかなか開かない。おかしいな、と思っているところで、それはひょいっと手元からなくなった。
「姫は握力もない、と」
「いや、変な覚え方しなくていいから」
きゅっと、独特な音を出しながらキャップは回った。今回はただ滑っただけで、そこそこ握力はあるほうだと主張したい。男にしては平均よりもちょい下かもしれないが。
「大事なことだろうよ。姫と、ほら、あそこにいる大神の特徴を覚えることは」
「ちなみにその特徴って?」
「姫こと小鳩真尋は、身長一六七センチ(自称)と男らしからぬ綺麗な顔立ちで特殊な層からによる絶大な支持を受けている」
「……(自称)はいらねえ」
「しょうがねえだろ。このまま大神の特徴に入るけど、まだ姫ターンが必要なら続けようか」
「いや、いいっす。大神ターンで」
「大神 大惺、身長一八二センチ、校内一のイケメンと称される王子的存在。去年のミスコンは辞退してなかったら一位に輝くほどの顔と人気。とりあえず女子からの人気がえげつない。金髪なことも相まってゴールドウルフなんて呼ばれ方をされたりされなかったり」
「聞いたことないから捏造したな。あと俺のターンより断然長くね」
「されたりされなかったりだからな。あと大神の情報はこれでも足りないぐらいだ」
「いろいろ雑か」
「姫は細かいのう」
「……あのさ、ずっと言いたかったんだけど、姫ってやめてくれない?」
「え、今? なんで? やっぱり校内で浸透してる”まひめ”のほうがよかったりすんの」
「いや、それも許可した覚えないんだよ」
男の俺が、友人である白井から「姫」と呼ばれるようになったのは高校を入学してすぐだった。
ほとんどの女子が大神という男に夢中になっている中、似たような眼差しを白井は俺に送っていた。
『その顔で、ほかの女子のことを可愛いって思ったりする?』
それが白井との初めての会話だった。思い返しても、やはり第一声に交わすものではなかっただろう。その顔で、というのが引っかかって質問したら「お前以上に可愛い人間っているのか」と真顔で聞かれた。それは知らん。「思ったりするよ」と返してからは、なぜか友達になった。
大事なことだから先に言っておくけど、白井は俺に恋愛感情を持っているわけではない。ただただ俺の顔が目の保養だと豪語するだけの変人だ。そしてこの男から「姫」と呼ばれることに由来してからか、周囲に本名である小鳩真尋をもじって「まひめ」と呼ばれるようになった。
「そもそもよく分からない人とお試しで付き合うっていう価値観が合わないんで」
おっと、大神への告白はまだ続いていた。今のところ告ってる女の子の声はハッキリと聞こえてこない。けれど、鼻をすする音はしている。勇者よ、ご愁傷だ。
「おー、今日初めての長文だなー大神サン」
白井が「どんだけ更新するんかな」と大して興味がなさそうに呟く。
「大神ってそんな喋らない印象だっけ」
「そうだろうよ。毒づくときだけ言葉数増えるって評判だし」
たしかに普段はあまり大神の声を聞くことはない。同じクラスで空間を共に過ごすことはあるけど、大神は普段からつまらなさそうにしている。俺とは違い、派手なグループ、通称一軍さまにいる大神は、ただ存在しているだけでもよく目立つ。ほかのメンバーは騒がしい人間が多いのに、ただ黙っていても許されるのは大神ぐらいだろう。
「大神って前世なにしたんだろ」
水を口に含めば、白井が「それは」と口を開く。
「人類ざっと一億は救ってねえとあれにはなれねえだろ」
「だよな」
ふっと、視界の端で柔らかそうな金色の髪が見えた。ギラギラとしていない、きれいな金。と、同時にシルバーのフープピアスが左耳で輝く。大神が退散するらしい。女の子は置き去りだ。大神が目の前を横切っていくとき、俺は低めだからか、こいつを少し見上げる形になるのが癪。
断トツの人気を誇りながら、本人は彼女を作る気配が全くない。だからこそと、我こそはとアタックする女子が続出。結果、大神は毎日のように告白されては、素っ気ない返事で一刀両断してしまう。
「なんで俺は大神じゃないんだろ」
生まれてこのかた、異性から告白イベントを受けたことがない。
はあ、とため息がこぼれると白井が「おいおい」とげんなりした顔を見せた。
「姫がそんなヤンキー座りすんなよ。俺の理想が壊れるだろうが」
すると前を通っていたクラスメイトたちが同調するようにこう言っていた。
「ほんとだ、姫がヤンキーになろうとしてる」
「姫は可愛いままでいてくれよ」
そして俺は、この共学で姫扱いをされる始末。
望んでそのポジションを獲得しにいったわけではない。ただ、あまりにも女子が大神にいってしまうものから、男の俺にオアシスを求めている人間が白井以外にも増えだしている。そして、姫と呼ばれることを最近では受け入れている自分がいるから厄介だ。意味合いそのものではなく、音として認識しているような感覚。事情を知らない人間がこの光景を見ればおそらくぎょっとするだろう。
「なあ、まひめ〜」
クラスメイトの八雲が背後から思いっきり抱きしめてくる。
「なっ、ぐるじい……力加減バグっでる」
「振られた俺を慰めてくれよお」
この短時間で、告白されている人間と振られた人間がいるのか。あまりにも世界が狭い。そして天と地の差がある。
「三年の柚月さん、オオカミに取られた」
「え、三年のって……」
たしか、絶賛大神に告白していた女の人のスリッパも三年を表す青だった。もう姿がなくなっているけど。
「もしかして、大神に告ってたって相手って……?」
「ばっか、傷口を広げてくるんじゃねえよ!」
つまるところ、俺と同じように告白現場を見かけたらしい。そして間接的に振られたというわけだ。
「でも、八雲はまだ告ったわけじゃないんだべ?」
「ない。でも好きな人の好きな人が大神だったら最初から戦には挑まねえよ」
「……うーん」
そういうものだろうか。
正直、片思いすら経験していない俺にとって、それは未知の世界だ。
それでも大神と勝負することがあったら、八雲のように諦めてしまう気持ちはほんの少し分かってしまうような気がする。それぐらい、この高校での大神は絶対的な存在だった。
「なんであいつなんだよ。顔がいいだけじゃねえか」
「十分だろうとも」
「まひめも大神派なのか!?」
「いや、なんていうか、顔がいいっていうのは本能的にも選びたくなるところはあるだろうし」
「じゃあ顔がいい基準を俺にしてくれよ~なんで大神なんだよ~」
今日の構ってぶりはひどい。しかしこれが八雲だから憎めないところもある。
たしかに大神はモテすぎてしまうのだ。これでもかというほど、女の子たちを根こそぎ奪ってしまうくせに、自分のテリトリーには入れない。
高校に入学して二年。これまでに告白された回数は数え切れないが、そのうちひとつもオッケーを出したことはない。それはある意味で偉業とも呼べる。俺だったら、とりあえず「いいよ」と答えてしまいそうだ。
そもそも大神にはすでに彼女がいるんじゃないかという問題が浮上することもある。
だから誰からの告白も受け入れない。
それなら納得がいく。それか、恋愛に興味がないとかトラウマがあるとか。
いずれにせよ、その理由は仲がいい一軍さまのメンバーにも明かされていないらしい。時折、一軍さまたちが「なぜ大神は彼女を作らないのか」というテーマで話し合っているのを聞く。
誰も真相を知らない。
ついさっき、横切っていった大神の姿を思い出す。
……なんというか、いい匂いがした。
大神と俺に接点はない。スクールカーストでも大神は常にトップで、俺は中間かその下をうようよと漂っているような気がする。
去年と今年、同じクラスであるということ。
それだけが俺と大神の関係性を表現する上で最も適したものだったのが、半年前から新たに一つの要素が加わった。
それは、同じバスを利用するということだった。
どうやら大神とは、学区が違うだけで家が近かったということが判明。もともと、俺の家は指定された学区の中でも端で、大通りを挟んだ向こう側は別の学区だった。その別の学区に大神が住んでいたというわけだ。
チャリなら五分もかからないような場所にあって、でもお互いバス通学だったから、俺が最初で大神がその次のバス停から乗ってくる。
入学してすぐはそんなことなかった。
ある日を境に、大神が同じバスを利用するようになったという流れ。
同じクラスでは席が近くなったということはなかったけど、バスでは席が前後になる。俺がまず一番後ろの右角を陣取り、その次に乗ってくる大神が俺の前に座る。
いつの日か、大神が寝過ごして、いつも降りる駅でも寝てたのを起こしたことはあったけど。
だからってそれで仲良くなったかと聞かれれば答えはノーだし、大神も覚えてないと思う。
だけど、大神が前の席に座るようになって、自然と大神を見る時間が増えた。
学校ではありえない近さだったし、まじまじと大神を見ても許されるような時間だった。
ピアスとか、なんで怒られないんだろう。校則ではダメだった気がするけど大神だから許されてんだろうか。
髪を染めているのに、柔らかそうな髪。かき上げられた前髪とか、ちょっとセットされてる感じとか、なんだか「おしゃれな人間」そのものを物語っていた。
大神が近くにいると、ふわっと香る匂いとかもよかった。
なんか全部がモテてんなって思わせるような要素ばかりで。
男の俺がきゅんとすることもあった。きも、とすぐに自分を戒めた。
大神はバスでスマホを触らないから、窓の外を眺めていたり、寝たりがほとんどだった。
そうしてバス停に着くとさっさと降りていく。
友達だったら「じゃあな」ぐらいはあるんだろうけど、そういう関係ではないから、いつも降りていく背中と、横顔を見送るだけ。目が合うことなんて一度もない。
俺と大神は、卒業するまで関わりはないんだろうなって、そう思ってた──。
「王様ゲームしまーす!」
教室の掃き掃除をしていたら、リア充をこれでもかと凝縮した遊びが始まった。切り出したのは一軍さま所属の山田だった。ムードメーカー的な存在で底抜けに明るい。悪い人ではないんだろうけど、ノリがついていけない。
そして間が悪いことに、ここは一軍さまでほとんど構成された掃除の班だった。そこに俺がひょこっと混じってしまっているのだから、居心地が悪くてしょうがない。神々の戯れから距離を置いて、さっさと掃除を終わらせてしまおうと動き出した。
「ちょっとちょっと、小鳩も参加だって」
「え……俺も?」
「当たり前じゃん、ここにいるんだし。仲良くやろーぜ」
コミュ力おばけだ。今まであまり話したことがないという相手に、これでもかとぐんと距離を縮めてくる。仲良く、なんてできるわけないのに。
「めんど」
窓の近くでたそがれていた大神が興味なさそうな一言を投下。
「んなこと言うなよ。いつもやってんじゃん?」
「えー、大神はやってないよ」
そう言ったのは一軍さまきっての派手女子、花森さんだ。
「掃除よりも楽しいことしようぜ」
山田が、教室の隅に置いてあった正方形の箱を持ってくる。くじ引きをするとき、何かと重宝されるそれを、今回はしっかりと活用するらしい。事前に用意した紙を入れては、がしゃがしゃと振って、それから一枚取り出す。そのまま大神の手に渡った。
「はい、大神は取ったんで、みんなも引いて」
強制にも程がある。大神なんて、ぽいっと近くの机に投げてしまった。こんなことをしても仲がいいってすごいな。
「ほれ、小鳩も引けって」
悪魔の采配からは逃れられなかった。せめて俺は無関係でいられる位置にしてほしい。ありがちな王様ゲームなら、一回も王様の対象に入らない数字であってほしい。
祈りながら箱から一枚引いた。数字の一だ。これは、果たしてどうなのだろうか。いいとは思えないが。
「はい、じゃあ三番と五番でハグ!」
王様は山田だった。そしてとんでもない内容をにこやかに指示した。
ハグって、俺が知ってるハグ?
抱きしめたり、そういうことをするようなやつ?
いやいや、怖い。怖すぎる。もし俺が誰かとペアにでもなったら、まず「無理」と言われてしまいそうだ。
「え、わたしたちじゃん」
しかし今回のペアはどうやら女子同士だったらしい。花森さんと、もう一人一軍さまに所属する女の子、吉岡さん。仲がいいふたりが当たり、躊躇いを見せることなく「いえーい」と抱き合った。少しだけ盛り上がり、序章にはふさわしいものだった。
次の王様は一軍さま所属の秀才、及川だった。頭がいいうえにプレイボーイで、こちらもモテるにモテる。二回続けて男だったことに花森さんたちからブーイングの声が上がった。
「しょうがねえよ、選ばれてんだから」
及川は嬉しそうに顔を綻ばせ、そして「どうしっよかなあ」と悪魔のように指示の内容を考え出した。どうか、一の数字以外で。もし当たったとしても内容は軽いもので。お願い、お願いだから。
「じゃあ、一番と六番でディープキスお願いしまーす」
……終わった、と思った。
ディープって。キスって。
いや、もしかすると俺は一番ではなかったかもしれない。
期待を込めて掌にある紙をそっと開く。そこには堂々たる一の数字が刻まれていた。
……やっぱり終わった。こればかりはもう、時間が戻るしかどうしようもない。
「おーい、手挙げろって」
山田がゲームを進行させようと促した。
どうする、逃げるか? それともしらばっくれるか?
だけど名乗り出なかったら、一人一人が申告していくパターンになるんじゃないのか。そうしたら、誤魔化しが効かない。そこで場が白けることも恐ろしい。
おそるおそる手を挙げれば、わっと歓声が広がった。
「小鳩くんじゃん」
「姫のご登場でーす」
そのノリだけはやめてくれよ。相手は誰なんだ。まだ出てきてない。
俺となんて向こうも気分落ちてんだろうな。この場を切り抜けられる方法ってないのかよ。
いや、どう考えてもないな。ありえない。
「って、六番俺か!」
とか思っていたら、山田が自分の紙を見ておどろいていた。
「今度は男同士かよ~」
いよいよ逃げられなくなった。
そもそもこのゲームには拒否権なんてものはない。選ばれたら、王様の指示通りに動かなければいけない。
かといって、空気読めない発言とかすれば、今後の高校生活が危険すぎる。
一軍さまに目をつけられて、それがゆくゆくイジメにでも発展すれば。
そんなことになるぐらいなら、ここは大人しく従っておいたほうがいい。
それに、山田が「無理だって!」と言ってくれる可能性だってあるはずだ。男の俺とキスをするなんて指示は、そう簡単に受け入れられるものでもないだろう。
「ま、小鳩とならできそうだわ」
受け入れるんかい。
なんでだよ、山田なら「できるか!」って言っても許されるんだよ。そして俺は救われるはずだ。
「あー、だんだん小鳩が女子に見えてきた。姫だもんな」
「いや、あの……あはは」
苦笑いをしていたら山田の手が俺の肩にのっかった。
だめだ、諦めるしかないやつだ。
周囲の好奇的な目がぐさぐさと身体に突き刺さるみたいで。
一瞬で絶望した俺はそれから勢いよく──後ろに引き寄せられた。
「え」
そう思っていたら、唇になにかが当たった。
山田じゃない。
「ちょ、大神!」
あまりにも近距離で大神の綺麗な瞳と目が合った。その吸引力に何かが持っていかれそうで、俺はしばらく身動きひとつ出来ないでいる。大神が離れていくのを、ただスローモーションのように眺めていた。
キャーという悲鳴で我に返った。俺は今、大神とキスをしたのかとようやく理解したころには、周囲が賑やか過ぎた。
「おおおお、大神!? なんで小鳩とキスしちゃうわけ!?」
興奮している山田に、大神はずいっと手元の紙を見せた。
「俺、六番なんだけど」
「……いや、どこからどう見ても九じゃねえか!」
山田のツッコミで、この一連の流れが全て笑いに消化されていく。俺が大神とキスをしたということは思ったよりも騒がれることなく、むしろ大神ひとりの言動に注目が集まっていた。
大神が持っていた紙には、俺が見ても九番としか思えない数字が書かれている。
「なんだ、まちがえた」
大して悪びれた様子もなく大神は教室は通学バックを肩にかけた。
「大神どこ行くん」
「帰る」
盛り上がった空気ごと、ごそっと置いて行くみたいに出て行ってしまう背中。
そうしたらみんなも同じように「もうやめるか」なんて言ってお開きになり、俺はひとり残された。
唇に触れる。まだ覚えている。大神の熱を。大神の唇を。
……いや、だからきもいって。
それでも忘れられないものになったことはたしかで、大神の何もかもが忘れられなくなりそうで、そうした雑念を振り払うように教室を出た。
いつものバス停に行くと、校舎のフェンスにもたれる大神がいた。
今会うとか気まずすぎる。
一瞬、回れ右をしてしまおうか悩んだがやめた。
じゃりっというアスファルトに落ちていた砂利が靴底と重なり、その音で大神がこっちを見た。
目が合う。ああ、やばい。なんか喋らないと。
「あ、あの、大神。さっきはその……ありがと」
「なんで」
淡泊な返事だった。でも無視をされないよりはマシか。
「なんでって……、山田とのキスを回避してもらったなと」
「俺とキスすることになってんじゃん」
「それは、その……大神は俺とキスしたことを、今後のネタにはしないかなと思ってるし」
もし、あのまま山田とディープキスをすることになっていたら。あの場は白けなくとも、明日からの高校生活は半永久的にからかわれながら過ごすことになっていたはずだ。
それはそれで終わっていた。
その点、まだ大神はネタのように扱わないでいてくれそうだ。それを見ていた一軍さまには、ああだこうだと言われるかもしれないけれど。
「男とキスすることに抵抗はないのかよ」
珍しい。大神から話を振ってくれる。告白を断る時だけ言葉数が増えるというあのゴールドウルフが。
「……考えたことなかった。あ、だからと言って、大神とキスしたことが嫌だったってわけじゃないよ」
「……」
と思ったら、返事がなかった。
俺の返しが大神の気に障ったのかもしれない。
「あ! その、大神は俺とキスすることになって最悪だっただろうけど」
「……別に。俺から仕掛けてるし」
「そ、そっか。それは良かった」
そうして、沈黙がやってくる。
バスが来るまで残り一四分。このまま大神とただ待っているだけというのはあまりにも酷だ。大神だって俺とは一緒にいたくないだろうし。意味もなく時刻表を見ていたら「ふっ」と大神が小さく笑った。
「え、なんで笑ってる……?」
「いや、怒んないんだと思って」
俺が大神に?
「それは、ない。大神がしてくれなかったら……ディープだったから」
まだフレンチで終わったからいいほうだ。
山田のことだから、ノリですっごいのをしてきていたかも。
そういうの抵抗なさそうだし、俺とだったら出来るなんて口にしていたぐらいだし。
「……ない」
夏の余韻が残る風とともに、大神がなにかを呟いた。
「ん?」
聞き返したけど、答えはない。気のせい?
「ま、小鳩の人生で数あるうちのひとつだと思って」
返答きた。安心だ、大神が話してくれると。だからか、口を滑らしてしまった。
「いやあ、俺ファーストキスだったから」
「……」
「……?」
「…………は?」
なににそこまで衝撃を受けているのだろうか。
「ガチで?」
「うん。あ、でもカウントしないほうがよかったらそうするし」
「なんでそっちが配慮してくんだよ」
「いや、だって大神のほうがあれじゃん。俺のファーストキス相手とか思われるのはイヤだろうし」
もちろん言いふらしたりもしないけど。
「……どう考えても俺が謝らないといけないやつじゃないんすか」
あれ、こういう一面の大神は新鮮だ。
いつも、つまらなそうにどこかを見ているその目が、ほんの少しだけ左右に動いていて。困ってるのか、それとも罪悪感みたいなものを持ってくれているのか。どちらにしても、普段の大神とはイメージがかけ離れている。
「大神が謝る必要ないよ。このままだとキスを経験することなく人生終わるかもって思ったとこあったし。ちょうどよかったっていうか、いや、言い方悪いか……ごめん、言いたいことは別にあって」
気持ちが焦ってしまう。正しい感情を伝えられないもどかしさ。
「……なんで、キスを経験せずに人生終わるとか思ってんの」
ぐちゃぐちゃしたものを、大神は苛立って受け取ったりしない。そこに安心した。
「あー……ほら、俺って男として見られることないから」
女の子から話しかけられることはある。だけど恋愛対象ではないんだろうなってことは言葉の端々から感じ取っていた。
「正直、今まで誰かを好きになったことがなかったし、……うん、このまま終わるのかなとか」
「で、俺にファーストキスを奪われたわけだ」
「その節はありがとうございました」
「だからなんでお礼言われてんの、俺」
はは、と大神が笑った。笑顔を見るのは初めてだった。
「……大神って笑うんだ」
「笑うだろ、人間だし」
そうだろうけど、なんとなく笑わないように出来ていると思っていた。そういうところが神秘的で、女の子からの人気も絶大だったような気がする。
きっと今のを見たら、その人気が飛躍してしまいそうだ。
「大神って普通に喋ってくれるんだな」
「なにそれ」
「いや、あんま山田たちとも話してるイメージないっていうか。告白されたときだけ言葉数増えるって評判だから」
「んな評判あるのかよ」
「あ、気に障ったらごめん」
「いいよ、そんなことは気にならない」
寛大だ。話せば話すほど、気取ったりしないところが好印象だ。もっと、お高く止まっているようなところがあると思っていた、すまん大神。
夕日に照らされて、金色の髪がやけに綺麗に輝いていた。
「……あれだけ告白されると慣れたりする?」
ぽろっと出たその質問に、大神は空を見上げた。
「またか、とかは思う」
「でもちゃんと対応はするよな」
断ることで有名だけど、ちゃんと呼び出されたら無碍にしないことを知っている。
今日の、自販機裏で裏で告白されていたのも、あそこまで呼び出されていたから出向いたのかもなって思う。それからちゃんとした言葉で断るのは、なんだか誠意があるように感じた。
実際、どういう人から告白されたのかとか、そういう情報を自分の口で発信することない。
「だからモテるんだろうなあ」
「おだてられてもなにもあげないけど」
「ただただ大神が羨ましいって話」
「そう?」
見上げていた顔が、俺に戻ってくる。
「小鳩だっていいもん持ってると思うけど」
それがやけに真剣な口調だったから、照れくさくなって大袈裟に「ないない」と手を振った。
「こんな顔だし、身長も高いわけじゃないし、別にかっこいいわけでもないっていうか」
「綺麗じゃん」
「……え」
時間が、止まったような気がした。
お世辞だとすぐに理解しようとしたのに、大神はただ真っ直ぐ俺を見つめていた。
「小鳩の顔は綺麗なほうだから、別にかっこよくなる必要もないんじゃね」
からかわれてるわけでは……ないよな?
姫だと言われるようなニュアンスでも、女扱いされるわけでもない。
大神から向けられたのは、正真正銘そう思ってると伝わってくるものだった。
「……そ、そうかな?」
頬が熱くなる。なんだこれ、なんだよ、これ。
男に言われて嬉しいようなもんでもないだろ。それなのに、身体の全部が大神に持っていかれるような気がしてしまう。
意識しないようにしていたのに、大神に吸い込まれてしまいそうになる。
さっきのキスのときからだ。大神の瞳が、俺の心を掴んでいった。
だめだ、やめろ。
「俺はいいと思うけど。小鳩が今挙げたとこ」
「あ、あはは……またまた」
笑って誤魔化せ。大神からの言葉も、俺の気持ちも。
「なあ」
がん、と音がする。
大神の顔が近い。壁ドンだ。後ろはフェンス。
「本気で言ってんの」
「……大神?」
「またキスでもしようか」
「え、えええ……なんで?」
「俺は、キスの相手がだれでもいいわけじゃない」
こんな顔をする彼を、俺は知らない。
見たこともない大神がそこにいて、男の俺にありえない言葉を持ち掛けて。
「小鳩だからキスした」
なにも言えなかった。
あまりにも大神の顔が整いすぎていたから。あまりにも大神の言葉が暴力的だったから。あまりにも大神の熱が俺の肌へと侵食していったから。
頼む、頼むからこれ以上、俺の心を持っていくなよ。