その日は朝からまとまった雨が降り続き、早々に部活中止の連絡が回ってきた。

 幸生はザーザーと雨が降りしきる中、窓に叩きつける水滴を呆然と眺めていた。
 昼休みの鉄郎との会話を思い出す。

 幸生は、鉄郎にもう部活に来る気はないのか尋ねてみたのだ。
 鉄郎は少し困ったような、言葉を選んでいるように見えた。
「だって、おまえとはもう組めないだろ?」
「そんな事ないよ! 今回はたまたま……!」
「太雅とのあんないいダブルス見せられて、俺はもうおまえと組む自信ないって。きっと、俺と組んでも違和感しかないだろうし、正直、俺と組んで勝てなかったら嫌だしさ」
 鉄郎の言葉は、至極当然と言えた。自分が同じ立場なら同じ事を思うだろう。それでもどこかで、自分とのダブルスがいい、自分ともう一度ダブルスが組みたい、そう言ってくれるのではないかと思っていた。

 鉄郎は苦笑いをし、明らかに傷付いた表情を浮かべていた。
 鉄郎の言葉は、事実上ペアの解消という事だろう。それは唯一の繋がりであったテニスですらもう鉄郎の側にいる事ができないという事だ。そして鉄郎を傷付けてしまった事に、酷い自己嫌悪に陥った。
 勝ち負けだけがテニスじゃない、そんな綺麗事も浮かんだが、自分たちはお遊びでテニスをしているわけではない。テニス強豪校であれば尚更だ。勝利を大前提に自分たちは練習に励んでいるのだ。

 そして追い討ちをかけるように、
「美羽ちゃんと、正式に付き合う事になった」
 そう言われた。
 目の前が真っ暗になった。

 モウ、鉄郎ノ隣ニハ、イラレナイ。

 叶うはずかないと分かっていながら、ずっとどこかで鉄郎が自分を好きになってくれる可能性かあるかもしれない、そんな思いがないと言えば嘘になる。男同士だとしても、どこかで想っていれば、いつかこの想いが通じる日が来るかもしれない。

 そんな灯火のような、小さな希望はあっさりと静かに消えた。

 悲しさよりも虚しさ。この五年間の想いは、やはり男というだけで報われる事はないのだと、確信した瞬間だった。
 ただ、隣にいるだけで友達として鉄郎が自分を好いていてくれるのなら、それでいいと、鉄郎が幸せならそれでいいと、いつも思っていたはずだ。現に今、鉄郎は美羽といて幸せそうだと思う。なのに、自分はただただ傷付いている。
 気付かれない想いなら、諦める事はしなくてもいいと思っていた。
 だが、鉄郎を想う自分が酷く惨めで、好きでいる事自体が辛くなってきていて、鉄郎を想い続ける事への辛さが今この瞬間に勝ってしまった。
 (さすがに、鉄郎への想いを断ち切る努力が必要なのかもしれない……)

 放課後になり、昇降口に行くと傘立てにあるはずの自分の傘を探したが見当たらず、おそらく盗まれたのだと思った。
 一つ息を吐くと雨が降りしきる中、幸生は外に出た。
 びしょ濡れになろうがもうどうでも良かった。トボトボと雨に打たれながら校門に向かって歩いていたが、ふと顔を上げると見慣れた鉄郎の背中が見えた。
 (鉄郎……)
 隣には美羽の姿。二人は手を繋ぎ嬉しそうに笑みを浮かべている。
 (幸せそうだな、鉄郎……)
 そう思った途端、涙が止めどなく溢れた。

 鉄郎を好きになったこの五年間は、鉄郎の隣は自分の場所だった。だが、そこはもう自分の居場所ではない。
 美羽のいる位置に自分がいて、自分が鉄郎を幸せにする事が幸せの形だった。今になってやっと、現実を目の当たりにした。

 《鉄郎が幸せならそれでいい》などという思いは所詮 、綺麗事だったのだ。

 雨で涙が誤魔化せると思うと、幸生はその時だけ感情に身を任せた。鉄郎と美羽の姿をこれ以上目に入れるのが苦痛に感じ、目を伏せ自分の足元をじっと見つめた。

 不意に雨が止まった。
 視線を上げ上を見ると、黒色の大ぶりな傘が目に入った。後ろを振り返ると、その傘を差し出している太雅が立っていた。
「ほら」
 太雅はその傘をグイッと幸生に押し付けてくると、無理矢理傘の柄を掴まされた。
「いらない……」
 差し出された傘を手で弾いた。
 傘が水溜りの中に放り出されたが、太雅がすぐそれを拾い再び傘の縁を握らされ、太雅自身も頼りない折り畳みの傘を差した。

「太雅……鉄郎の隣、返してよ……」

 掻き消されそうな声でそう言うと、もう一度、
「ねえ、太雅! 返してよ!」
 幸生は大粒の涙を流し、太雅の肩を力なく何度も叩きなながら、
「返して……返してよ……」
そう同じ言葉を繰り返した。

 八つ当たりで理不尽な事を言っている自覚はあった。だが、太雅が自分とのダブルスに誘わなければ、せめてダブルスのペアとして隣にいられたかもしれない。そう思うと、言わずにはいられなかった。
 太雅は何も言わず、幸生の好きにさせた。幸生の気が済むまでそうさせると次の瞬間、太雅に手を握られ、そのまま大股で歩き始めた。引っ張れるように幸生は太雅の後ろを歩く。
 冷たい手だったが、握られた太雅の掌が酷く優しく感じ無性に悲しくなって、今度は声を出して泣いた。

 太雅に手を引かれしばらく歩くと、一軒の家の前で足を止めた。表札には『御子柴』書いてあり、太雅の自宅なのだと予想できた。
 玄関に入ると、少し待ってろ、そう言って太雅は一度奥に消え、バスタオルを持ってくると幸生に渡した。
「足拭いて、シャワー浴びろよ」
 太雅に言われるがまま脱衣所に押し込まれた。大人しく幸生はシャワーを浴びると、すっかり冷えた体が息を吹き返すように温かくなり、自然とホッと息を吐いていた。
 シャワーを終え、浴室を出ると新品の下着とジャージがいつの間にか置かれていた。それをありがたく身に付け脱衣所を出ると、目の前に大きなトラ猫が廊下に寝そべっていた。
 トラ猫は幸生を見ると、ニャオーンと一声鳴き体を起こすとトコトコと歩き出し、振り向いた。それはまるで着いて来いと言っているようで、幸生はトラ猫の後を追った。
 階段を上がり、扉が二つ見えた。奥の部屋の扉が開いており、トラ猫は躊躇う事なくその部屋に入っていく。手前の部屋の扉を見ると『礼央』と書いてあった。トラ猫の入って行った部屋の扉には『太雅』の文字。
 
ノックをすると扉が開き、上半身裸の太雅が現れた。
「シャワーありがとう……」
「おお。俺も浴びてくるから、部屋で好きにしてろよ」
「うん……」
 太雅が部屋を出ていくのを見送ると、幸生は部屋を見渡した。ベッドとテーブルとソファ。小振りながらにもテレビも置かれていた。テニス雑誌や漫画が少し放置されてはいたが、わりと綺麗にしていると思った。
 先程の猫がソファで毛繕いをしていた。幸生はトラ猫の横に腰を下ろし、トラ猫に触れてみるとグルグルと喉を鳴らし気持ち良さそうに目を細めている。しばらく幸生はトラ猫を撫でる作業に没頭してしまった。

 部屋のドアが開き、首にタオルをかけた太雅が入ってきた。
「猫大丈夫か?」
 そう言って幸生の隣に腰を下ろした。
「うん、大丈夫。この子かわいいね、懐っこくて」
 幸生の顔から自然と笑みが溢れた。
 幸生は猫を撫でる手を止める事なく、
「ごめんね、太雅。八つ当たりだった……ごめん」
 そう言った。
「うん」
「俺、ずっと鉄郎が好きなんだ」
「うん、知ってる」
 タオルで頭を拭きながら、気にも止める様子もなく言った。
「気持ち悪いよね。男なのに」
「別にいいんじゃねえ? 好きになっちまったものは」
 その言葉に幸生の目から涙が溢れ、膝を抱えると幸生は暫く泣いた。鉄郎に対する気持ちを否定されなかった事が嬉しかった。
「鉄郎の幸せが自分の幸せで、友達として隣にいられればそれだけで良かったはずなのに……」
 グスッと鼻をすすると、
「ダブルスペア解消されたよ……俺、鉄郎の事傷付けた……」
「ペアの件は諦めろ。おまえと鉄郎じゃもう、レベルが違う」
「簡単に言わないでよ! 鉄郎とはずっとペア組んできて、そこが唯一、俺の居場所だった!」
「だったら、テニス辞めろ」
 感情的な幸生とは反対に太雅は冷静だった。
「……っ!」
 太雅の言葉に幸生は言葉を詰まらせた。そこで、あっさりと辞めてやる、と言えなかった。
 妙に落ち着いている太雅を前に、幸生は冷静さを取り戻し始めると、今度は感情的になった自分が恥ずかしいように思えてきた。

「ずっと鉄郎の幸せを願っていたはずなのに、自分で背中押したくせに、どこかで美羽に振られればいいって考えたり……俺とダブルス組めないない事に傷付いているのに、それが嬉しく思ったり……ホント今の自分が嫌だ。もう頭がグチャグチャだし……もう、辛い……鉄郎を好きでいるのが苦しいよ……好きでいる事、やめられたらいいのに……」
 でも、それができない。簡単にそんな事ができるなら、とうの昔にやっていた。できないから、ずっと側にいた。

「知ってる」
「え?」
「おまえが鉄郎の隣にいる事を辛く感じてた事」
 太雅はいつもの感情のない顔を幸生に向けている。
「いつも幸生は笑っていたつもりだろうけど、心の底から笑っているように見えなかった。前はもっと綺麗に笑ってた」
 太雅の言葉は幸生とって衝撃だった。
 鉄郎に嫌われないように、自分の隣が居心地いいようにいつも笑顔を絶やさず鉄郎の心地いい空間を作っていたつもりだった。
「はは……俺、上手く笑えていなかったんだ……」
 思わず幸生は自分の髪の毛を両手でくしゃりと掴んだ。
「俺は幸生をずっと見てきたからわかる」
 その時、太雅の目に力が篭ったのを感じた。その目を囚われたように、幸生は太雅から目を逸らす事が出来なかった。

「俺、おまえが好きなんだ」