瞼の裏に影が広がって夕焼けの残像が消えた。

頬に刺さった髪の毛先がこそばゆかった。

鼻腔をくすぐった清潔な百合の香りと、唇の端に落とされた柔らかでぬるい感触。

でもそれは、おれの心臓を止めきる前にすぐに離れていって、おれは瞼の裏に夕焼けをあっさりと取り戻した。

(とき)

もう何百回も何千回も聞いた声がおれを呼ぶ。

偽物の寝息を立てて、自分の心臓は自分の胸のところにあるんだってことを痛いくらいに実感しながら、おれは瞼を閉じたままでいる。

冬めいた風が教室の窓からやさしく吹いていた。晩秋の、燃えるような夕焼けがこの世の終わりみたいに綺麗な金曜日の放課後だった。

「秋」

無遠慮に肩を揺すられる。

まだ唇の端には熱が微かに残っている。嗅ぎ慣れた百合の余香に夕方の寂しい空気が混じり合う。

どうせお前は、おれの鼓動のうるささまでは知りたくない。だから、あと、五秒。あと四秒だけ待って。あと三秒で。二秒で。おれは何とかしなければならない、あと一秒で。

「秋、起きて」

再び肩を揺すられて、おれは今起きたという演出をするために、身体をびくっと跳ねさせ、喉の奥で寝起き風の声を漏らす。それから、目にぎゅっと力を入れてみせたあとに、ゆっくりと瞼を押し上げた。

窓越しに燃える空は、数分前に目を閉じた時よりも夜に近づいていた。

顔を窓の方に向けて机に突っ伏している状態のまま、眼球だけをぐんと動かして、自分の席の傍らに立つ声の主を見遣る。

「おはよ、秋。帰るよ」

贅沢にも夕焼けを背景にして。学ランをきっちりと着た美しい男が、何事もなかったかのようにおれを見下ろしている。

いつも通りの爽やかさに悔しくなったものの、“何事もなかった”のだから、おれはそいつを睨めない。上体を起こして、自分の机の隅に置いていた眼鏡をかける。

「おはよ。用事終わったのか?」
「うん、待たせてごめん」
「別に」
「秋、頬にあとついてる」

くすりと笑って、おれの頬に手を伸ばしてくるそいつに触れられる前に、おれは顔を背けて立ち上がる。

一度、大きく伸びをして、窓を閉めにいった。

夕焼けは燃えても燃えても、燃える。

「秋―」

空を飛ぶ鳥の群れをじっと眺めていたら、いつの間にかすぐ後ろに立っていたそいつは、おれの頭に顎をのせた。

にわかに鼓動は加速する。でも、おれはそれを完璧に隠すことができる、と思う。

誰に見られるか分からない教室で、平然とくっついてくるな。嫌味な高身長アピールか。おれはお前の顎置きじゃないんだぞ。何も。何も、知らないくせに。

「鬱陶しいって。やめろよ」

おれは、すぐにそいつの顎から逃げて、今度こそ、きつく睨む。だけど、そいつはおれのことなんて全く怖くないから、くすくす笑って、「はいはい」と返事をよこしただけだった。

完全に、舐められている。仕方がないって、もう諦めてはいるけれど。

机の横にかけていたリュックをかついで、先に教室を出ようとする。足音が続いてこないから振り返ると、そいつはおれに背中を向けて、夕焼けを見ていた。

なあ、お前は、何を考えてる。

さっき、何を考えてた。

冬真(とうま)

何度、口にしても擦り切れることがなくあかるい音になる名前。

呼んだら、そいつは悠然と振り返り、窓の外を指さして楽しそうに口角をあげた。

「秋。空、世紀末みたいだ」