真緒:ちはやさん、就職が決まりました!
同人ゲーム制作友だちの真緒からちはやのスマホへ連絡が入ったのは、ちょうどちはやが脱稿したタイミングだった。ちはやは担当へシナリオデータを送り、チャットアプリを立ち上げる。
ちはや:マジ? おめでとう、真緒ち!
真緒:あざまーす!
ちはや:そっかー、真緒ちも社会人かぁ。まだ中学生のイメージあったわ。
真緒:何年前で止まってるんですか!
ちはやと真緒スマホを手に、互いの場所でクスクスと笑う。
真緒:でも私からしても、ちはやさんは大学出たばかりのイメージですね。
ちはや:それじゃ同い年になってまうやん。もうアラサーや、アラサー!
ネット上の知り合いとは、出会った頃のイメージで固定されてしまいがちである。
真緒:それでですね、就職先がちはやさんの住んでる場所から近いんですよ。
だから、春からは私もそっちで暮らすことになりまして。
ちはや:えー、そうなん? ご近所さんや。
真緒:そうなんです。で、これから家探しなんですけど、
治安とか環境のいい場所を教えていただければと。
環境ねぇ……、とちはやは首を捻る。
ちはや:アタシが住んでる辺りは、割とえぇ感じやで。
真緒:ですよね。
ネットで評判調べてて、ちはやさんいい場所に住んでるなぁって思いました。
ちはや:来る?
真緒:いいですね。本当にご近所さんになっちゃいますね。
ふとちはやは思いつき、にやっと笑って文字を打つ。
ちはや:いっそ、一緒に住む?
真緒:えっ?
『何を言ってるんですか。プロポーズですか?』
そんな真緒からの返信を予想してのジョークだった。しかし次に送られて来たメッセージに、ちはやは目を見開く。
真緒:いいんですか? 私としてはすっごく嬉しいですけど!
わぁい、春からちはやさんと一緒だ! やったぁ!
思ってもいなかった乗り気な返事に、ちはやは慌てて『冗談だよ』と打とうとする。だがそのタイミングで、このグループのもう一人のメンバーが入室してきた。
杏:なんか二人で楽しそうな話してる!
ちはや:わ、杏コ来た!
真緒:杏さん、今、お仕事中じゃないんですか?
杏:仕事中だけど、なんかピロンピロンと通知が来るから気になって。今、会社のトイレ。
ちはやと真緒は『大笑い』のスタンプを貼った。
杏:で、ちはやさんと真緒ちゃんが一緒に住むって話してましたよね?
えー、わたしも入れてほしい!
ちはや:いや、杏コの職場って実家の近くやん? アタシのとこからは通うん無理やろ。
杏:実はですね、この間から転職考えてるんですよ。
杏の言葉に、二人は驚く。
ちはや:この間、入社したばっかりやなかったっけ?
杏:もう三年目ですよ。
やはりネットの友人のイメージは、出会った頃で固定されがちである。
杏:でも転職先は具体的に決まってないんで、もしルームシェアするなら、
地元を離れてそっちで仕事探すのもいいかな、って。
真緒:わー、ちはやさんと杏さんと一緒なら、毎日楽しそう!
杏:ねー、絶対楽しいよね!
盛り上がる画面を前に、ちはやは今更ジョークだったと言い出せなくなる。
それに同人ゲーム制作を通じて二人と知り合ってから既に七年。幾度かオフ会で顔を合わせ、ネット越しとはいえ気心の知れた間柄となっている彼女らと過ごす日々は、とても魅力的に思えた。
ついでだが、ルームシェアをすれば一人当たりの家賃が安くなる。
ちはや:あ、そういや来年の三月までだわ。ウチのマンションの賃貸契約。
真緒:そうなんですね。
ちはや:更新すんのはやめて、二人と住めるシェアタイプの部屋探しとこっか?
その途端、画面に大喜びのスタンプが乱舞した。
杏:いいんですか? ちはやさんお仕事忙しいですよね?
ちはや:まー、時間の融通の利く仕事やし。それにこの辺に住むなら、
二人に地元から出て来てもらうより、アタシが探すのが現実的やん?
真緒:わー、助かります! それじゃ、お任せしますね。
ちはや:おけー。いいの見つけたら、二人にデータ共有する。
かくして、同人ゲーム制作者三人のルームシェアはなし崩しに決まったのだった。
「アタシらの同居生活のスタートに」
「「「かんぱーい!」」」
月日は経ち、翌三月。ちはや・杏・真緒のルームシェア生活は始まった。
「全部はテーブルに乗らないね」
デリバリーのピザ、取り皿とグラスを並べると、小さなローテーブルの上は埋め尽くされてしまう。杏はレジ袋に入ったままの総菜パックをちらりと横目で見た。
「食器棚やテーブルなんかはアタシが一人暮らしで使っとったやつやから、なにせ一人用でちっちゃいんよね。おいおい必要に合わせて買い足していくってことでえぇ?」
「いいですね、みんなで家具を選ぶのも楽しそう」
目を輝かせる杏に、ちはやは頭を掻く。
「アタシは普段から機能性とか合理性しか考えずに選ぶから、味気ないデザイン多いんよね」
「シンプルでいいと思いますよ」
「ほんでも、次買う時は杏コと真緒ちのセンスに任せるわ」
「ええっ、わたしたちでですか?」
杏と真緒が顔を見合わせた。
「あ、そう言えば真緒ちゃんはデザイナーになったんだよね」
「えっ、なりましたけど。と言うか、この春からですけど」
きょとんと目を丸くする真緒に、ちはやと杏はニッと笑う。
「じゃあ、選ぶ時は真緒ちゃんのセンスに任せよう」
「それがえぇな。真緒ちならきっとえぇ感じのもんを選んでくれるやろ」
「や、ちょっと二人とも! 変なプレッシャーかけないでくださいよ!」
杏が笑いながら、グラスのワインに口を付ける。
「さっきから思ってたけど、真緒ちゃんのルームウェア、すごく可愛いね」
「そうですか?」
真緒は嬉しそうに自分の胸元を見下ろす。
買ったばかりであろう淡いブルーのふわもこルームウェアは、まだ少女らしい面影を残す真緒によく似合っていた。艶やかなボブの髪を揺らしながら、真緒は杏に視線を向ける。
「お二人と同居するんだから気合入れなきゃと思って」
「わかるー」
「杏さんのも、上品でおしゃれですよね」
「ほんと? 嬉しい」
杏が身に纏っているのは、アイボリーのシルクパジャマ。襟元や袖口を飾る黒いリボンが、親しみやすさを醸し出している。こちらも下ろしたてといった風情だ。ゆるく巻いた栗色の髪が、肩先で揺れていた。
「うんうん、可愛いお嬢ちゃんたちを眺めながら飲む酒は、絶品や」
にまにまと笑いながら猪口を傾けるちはやは、着慣れたグレー一色のスウェットで、完全にリラックス状態だ。シンプルなものが好きというのは服でも同じらしい。
「オッサンみたいなこと言わないでくださいよ」
クスクスと笑う杏に、真緒がいたずらっぽい表情を浮かべる。
「そうだ、さっき買い物は、私のセンスに任せてくれるって言いましたよね? じゃあ、ちはやさんのパジャマも新しく買っていいですか?」
「は?」
「ちはやさんに似合う可愛いの、私、今度買ってきますね」
「いや、やめろ」
「真緒ちゃん、わたしも一緒に選ぶ!」
杏まで悪乗りを始める。
「ふわふわのフリルがついたのなんて、いいよね」
「はい、それにリボンも必須ですよね、杏さん!」
「そうそう、レースとか」
「おい、二人ともやめろ! マジでやめろ!」
ひとしきり笑った後、真緒がふと思いつく。
「今日のこれって、パジャマパーティーですよね」
「そう、なるかな」
「私、パジャマパーティーって初めてです!」
真緒の言葉に、ちはやと杏は頷く。
「言われてみれば、わたしもそうかも。ちはやさんは?」
「んー、パーティーは初めてやな。友だちと飲んで、帰るのめんどいから互いの家に泊まることはあったけど」
「じゃあ、パジャマパーティーって何をするんでしょう?」
三人はう~んと、首を捻る。
「まさか誰一人知らないなんて」
「ちゅーかアタシはともかく、杏コや真緒ちは知ってそうやのに、意外やわ」
「待っててくださいね」
真緒がスマホを操作し始める。
「検索してみたんですけど、パジャマ姿で恋バナやおしゃべりを楽しむ感じみたいですよ」
「恋バナ……」
杏が困ったように笑う。
「わたしはそう言うの、今のところ縁がないかな」
「アタシも特にないなぁ。ずっと部屋に引きこもって書いとるだけやし」
「ええっ、私もありませんよ!」
「なんでや! 真緒ちは大学生やったやろ。そういうの真っ盛りの時期やろ!」
「真っ盛りって何ですか! ないものはないですよ!」
アンチョビのピザを口に運びながら、ちはやは猪口の中の日本酒を流し込む。
「アンチョビ正解やな。めっちゃ日本酒に合う」
「ワインも相性いいですよ」
ワイングラスの似合う杏は食べ方も優雅だ。
「で、恋バナどうします?」
「まだ諦めとらんのかい、真緒ち。誰一人ネタ持っとらんのに……あ!」
「あ?」
ちはやの声に、杏と真緒は身を乗り出す。
「さすが、一番大人のちはやさん」
「トップバッターお任せします!」
「いや、ちゃうねん。恋バナやないけど、性癖を語ってもえぇ?」
ちはやの提案に杏と真緒が顔を見合わせる。返事を待たず、ちはやは続ける。
「やっぱ、ムキムキがっちりの筋肉質がえぇなぁ! 体の前後も分厚くて、身長2mくらいあるのが最高!」
「いや、ちはやさん」
「それ日頃からSNSでさんざん漏らしてる内容じゃないですか」
「えぇやん、こういうの語ってる時が一番楽しいねんから。恋バナみたいなもんやろ。あ、アンチョビのラストもらうで」
取りやすいように杏がトレイをさっと動かす。ちはやは礼を言い、最後のアンチョビピザを手に取った。
「あとなー、髪は短髪が好き。固くてツンツンしてるのとか」
「あ、でもちはやさん『アロマ幻想曲』のユーカリさん好きじゃないですか?」
杏は、ちはやがハマっているソーシャル乙女ゲームの推しの名を上げる。
「彼、ロングヘアですよね」
「長い髪、ひとまとめにしてるのはアリやねん。ポニテとか」
「あー、分かります!」
真緒がチューハイの缶をテーブルに置き、こくこくと頷く。
「ポニテ男子はいいですよね。私、いい感じに枯れたオジサマがポニテなの、好きです!」
「あぁ、真緒ちゃん好きそう」
ピザのなくなったトレイを片付け、杏は生春巻きのパックをテーブルへ取り出す。
「いいですよ、ポニテのオジサマは。大人の余裕ってかっこいいですよね」
真緒もにこにこと顔をほころばせながら、ソーセージとポテトの盛り合わせをテーブルに置いた。
「そういや真緒ちゃんって、基本的に年齢の高いキャラが好きだよね」
「枯れ専やな。若いのに」
「イケオジ好きと言ってください!」
「じゃあ、こういうのは好き?」
杏がスマホの画面を真緒に見せる。
そこには大人の落ち着きとセクシーさを前面に出した、アンニュイな表情の男性が描かれていた。
「誰ですか、これ」
「『アロマ幻想曲』の麝香さん」
「あぁ、杏さんとちはやさんがプレイしているソシャゲですね。うーん……」
真緒は視点を変えながら、スマホに映し出された画像を眺める。
「皺がないですね」
「いや、あるやん。目の下と口元に」
「むー。私基準だと、これはまだまだ若者です」
「審査厳しいて」
「ちはやさんだって、細マッチョタイプを『ムキムキだよ』って言われたら、違うって思うでしょ?」
「絶許」
三人はどっと笑う。杏はスマホを真緒から受け取り手元へ置く。
「残念。これを気に入ったら、真緒ちゃんも『アロファン』沼に引きずり込もうと思ったのに」
「あっ、気に入らないわけじゃないですよ? でも、ちょっと理想より若いかなぁ、って。あっ、そうだ!」
真緒もまたスマホを取り出す。そしてアルバムを開き一つの画像を見せた。
「これ、DreaMatchのゲームの画面なんですが、杏さん好きそうだなって思って撮っておきました」
「え、どれどれ?」
杏が真緒の手元を覗き込む。そして「ん゛ッ!」と叫んだと思うと、口元を抑えて床へ倒れた。
「杏コ!?」
「傷は浅いですよ!」
真緒のスマホには、中学生くらいの中性的な少年の画像があった。男性的なものがほぼ感じられない一方、しっかりと少年の面影はある。
「……被弾しました、直撃です」
頬を染めてふるふると震える杏を見て、真緒は満足そうに笑う。
「ふふ、絶対杏さんに刺さると思ったんですよ」
「これは間違いなく杏の好きなキャラのタイプやな。ムキムキな漢おる?」
「いますよ。ちはやさんにも見せようと思って、撮っておきました!」
真緒が綺麗な指先でスイスイと画面を切り替える。するとそこに、軍服の上からでも筋肉の陰影が分かるほどの浅黒マッチョが登場した。
「ん゛ッ!!」
杏と同様、ちはやも口を押えて床へと突っ伏す。
「やったぁ! ちはやさんにも刺さった! 二連撃です!」
キャッキャとはしゃぐ真緒に、杏とちはやはゾンビのようにずるりと這い寄った。
「真緒ちゃん、それDreaMatchのゲームって言ったよね?」
「タイトルは? 買うわ」
「はい、DreaMatchのゲームです。タイトルは『Path of Light3』」
「よっしゃ、ポチった」
「ちはやさん、早っ!」
杏はスマホ画面を見つめ、眉根にしわを寄せている。
「DreaMatch本体に、メモリーカード、防護フィルムにソフトを購入となると、結構するね」
「あぁ、杏さんはハード持ってないんですね」
「そう。しかも引っ越しと転職で、今この出費は厳しいなぁ」
「そんじゃ、セーブスロット別にして、アタシので交代でプレイしたらえぇやん」
「いいんですか?」
「あ、それなら」
真緒が杏の腕をポンポンと叩く。
「私はもうクリアしてますし、私のDreaMatchで遊んでも大丈夫ですよ」
「本当? いいの? 嬉しい!」
「それにしてもアレやな」
ちはやが苦笑する。
「アタシら三人もいて、誰一人王道イケメン狙いおらへんの笑うよな」
「え、美少年は王道イケメンですよ」
「イケオジだって王道イケメンです」
「そんなん言うたら、筋肉も王道イケメンやで?」
三人は声を上げて笑う。
「真緒ちゃん、さっきのゲームってジャンルは何?」
「RPGです」
「例のマッチョは仲間になんの? 恋愛要素は?」
「仲間にはなります、恋愛要素はなしです」
「攻略したかったぁああ!」
大袈裟に頭を抱え、もんどりうって倒れるちはや。
「ないんやもん! バキバキの筋肉とイチャコラする乙女ゲー! 恋愛要素のあるRPGだけが頼みの綱やのにぃ~!」
嘆くちはやの頭を、杏はそっと撫でる。しばらく髪を弄ぶように触れていたが、やがて何かを思いついたように杏は目を上げた。
「わたしたちで作ればいいんじゃないですか? クセ強キャラを攻略できる乙女ゲー」
「いいですね、それ!」
真緒も目を輝かす。
「私たち、せっかく自分でゲーム作れるんだし。メーカーが出さないこういうニッチなジャンルを作ってこその同人ゲームですもんね!」
「えぇやん! おもろそうやん!」
ちはやが勢いよく起き上がった。
「いつもはそれぞれ個人製作やけど、せっかく一緒に住むんやし、合作するのもえぇかも!」
「話し合いもしやすいですしね!」
うんうんと、頷きあう。
杏がメモ帳とペンをさっと取り出した。
「じゃあ早速、役割を決めません? シナリオは、本職シナリオライターのちはやさんにお願いしていいですか?」
「えぇよ。けど、少年とイケオジの推しポイントの監修はそれぞれ二人にお願いすんで」
「おけでーす。じゃあ私、BGMとかジングルやります!」
「真緒ちゃんは、作曲もいつも自分でやってるもんね」
杏が綺麗な文字で「シナリオ:ちはやさん BGM:真緒ちゃん」と書き止める。
「スクリプトはわたしに任せてもらってもいいです?」
「杏さんお願いします!」
「こっちも本職やしな! 頼りになるわ」
「スクリプトとプログラムは少し違いますけどね」
メモに「スクリプト:杏」の文字が加わった。
「なぁ、良かったらムキムキの立ち絵も、杏コに任せてえぇ?」
「えっ? いいですけど」
「やったぁ、アタシ、杏コの絵が好きなんよな」
「あっ、それなら私のイケオジも杏さんにお願いしたいです!」
真緒は目を輝かせながらおねだりポーズをする。
「い、いいけど。二人とも絵は描けるのに、わたしが描いちゃっていいの?」
「「お願いします!」」
頷くちはやと真緒を前に、杏は苦笑しながら「キャラグラフィック:杏」の文字を書き加えた。
背景画像と効果音はフリー素材を、ボイスはある程度形になってから募集をかけたり依頼をしようと話がまとまる。
そうこうしているうちに、日付が変わる時刻になってしまった。
「明日が休日で良かったね」
三人は手分けして片づけ、それぞれの私室に引き上げる。
玄関を入ってすぐの向かい合わせになっている二部屋にちはやと真緒。TVドラマを見ることの多い杏は、リビングに接している部屋が割り当てられた。
(今日はお弁当作る余裕なかったな)
真緒は出勤前に会社近くのコンビニに駆け込む。
ペットボトルの紅茶とサンドイッチを手に持ち、レジに向かおうとした時だった。
(あ、あれは!)
食品棚の上に、燦然と輝くクリアファイルを見つける。
『アロマ幻想曲』と言う文字が見えた。どうやら製菓メーカーとのコラボキャンペーン中のようだ。
(あれって、ちはやさんと杏さんがハマってるソシャゲのだよね?)
クリアファイルは五種類。キャラクター個別のものが四種類に、全員集合のが一種類だ。
(青いのは最後の一枚だ。人気なのかな。二人の推しってどれだろう?)
確かちはやはユーカリユーカリと日頃から騒いでいたが、この緑のクリアファイルがユーカリだろうか? ゲームをやっていない真緒には見分けがつかない。
真緒は急いでスマホを取り出す。
真緒:ちはやさん、杏さん。今、コンビニに
『アロマ幻想曲』コラボのクリアファイルあります。
送信してすぐに、杏からビックリ顔のスタンプが送られて来た。
杏:忘れてた! 昨日からやってるんだった!
真緒:欲しいのあります? 青いのはあと一枚なんですが。
杏:待って、キャンペーンサイト確認する。
落ち着かない気持ちで真緒は返信を待つ。始業時刻まであと十五分。急げば間に合うが、新入社員ゆえにのんびりも出来ない。
ややあって、杏から返事が届いた。
杏:クラリセージ君、お願い!
真緒:すみません、どれかわかりません。
杏:赤! 赤くて、ピンクの髪してるの!
真緒:おけでーす。
赤いクリアファイルを手に取り、レジに向かおうとして真緒は足を止める。
真緒:杏さん、ちはやさんから返事来ないんですけど。
ちはやさんの好きなユーカリって、緑のですか?
杏:あ、本当だ。まだ寝てるのかな。
自宅作業のフリーランスであるちはやは、真緒と杏が出勤する頃はまだ夢の中だ。
杏:ユーカリじゃないです。
他の推しもピックアップされてないようだし、今回は見送りでいいと思うよ。
真緒:あざまーす!
真緒はコラボのチョコをさっと選び取り、昼食と共にレジへ出す。
クリアファイルが折れないように丁寧にカバンに入れると、会社へ向かって小走りで急いだ。
「今日辺りが今年の見納めやろなぁ」
ちはや・杏・真緒の三人は桜のアーチの下を歩いていた。
「明日からは雨らしいですしね」
杏のレースアップシューズの下は、淡い桃色の花びらに埋め尽くされている。
「でも、一番きれいな時に見に来られた気がします!」
真緒の言葉に頷き、ちはやはスマホを出した。そして桜の木に近づくと、近づいたり遠ざかったり周囲を移動しながら撮影を始める。
「え? 人は撮らないんですか?」
「え? ゲーム作る時の資料に要るやん?」
ちはやの言葉に、杏は「ちはやさんらしい」と笑う。そして少し下がると、桜を撮影しているちはやを撮り始めた。
「ちょ、アタシのことは別に撮らんでえぇねん!」
「桜を撮影する人を描くときの資料です」
そんな二人から少し離れた場所より、パシャ、と音がする。振り返れば真緒が顔の前にかざしていたスマホを満足気に下ろしていた。
「真緒ちゃん、今撮った?」
「はい。お二人のじゃれている構図がとても良かったので」
そう言って真緒が二人に見せた画像は、確かに自然な動きやいい笑顔の上、桜の配置も完璧だった。
「アタシも二人を撮りたい。杏コはそこ立って。真緒ちはそこ!」
二人を桜の下に立たせると、ちはやは距離を取る。
「なんかえぇ感じのポーズ二人で取って」
「なんかいい感じって?」
困惑する杏。真緒は顔を伏せると両手のひらを高く上げ桜に向けた。
「じゃあ、桜に祈りを捧げるポーズにしましょう!」
「え、分かった。こう?」
「いや、イロモノに走らんでえぇねん。二人で樹を挟んで向かい合って。笑顔で桜見上げて。真緒ちは花を指差して」
指定されたポーズで撮影を終え、杏と真緒はちはやのスマホを覗き込む。
「めっちゃ演出くさいな」
「実際、完全に演出でしたしね」
「真緒ちの撮った写真みたいにはいかんなぁ」
残念そうに口を尖らせるちはやに、杏は微笑む。
「真緒ちゃんは、デザインのプロですから。でもわたし、ちはやさんのこの写真好きですよ。頑張ってコーデした全身が綺麗に映ってますし。後で送ってもらえます?」
「杏コの気配り大王!」
その時、強めの風が吹いた。淡紅色の花弁が舞い上がる。
「うわ、理想的な『桜吹雪』やな」
「えぇ、ゲームのエフェクトに使いたいくらいですねぇ」
ふとちはやと杏は、真緒がついて来ていないことに気付く。振り返れば、真緒は思案顔で何かをぶつぶつ呟いていた。やがてスマホを取り出すと、そこへ向かって話しかける。
「何やっとるんや? おーい、真緒……」
「あっ、シッです、ちはやさん」
真緒に近づこうとしたちはやの腕を、杏は掴む。
「えっ? 何なん、杏コ?」
「多分あれ、何か曲を思いついたんだと思います」
「曲?」
「前に真緒ちゃんが言っていたんです。急にメロディが頭に浮かんだ時は、忘れないうちにハミングでスマホに録音するって」
「あー、そう言えばそんな感じのこと言うとったな」
二人は、通路の端に寄って小声で録音をしている真緒を見守る。
「そうだ」
今度は杏がスマホを取り出し、地面にしゃがみ込んだ。
「何しとん?」
「今のうちにこのライトを撮影しておこうと思いまして」
杏は、桜のライトアップ用に設置された照明器具を、いろんな角度から撮っている。ひとしきり撮ると今度は伸びあがり、樹に取り付けられた提灯を撮影し始めた。
グラフィック担当やもんな、とちはやは思う。自分も絵を描いていた頃があったからわかるが、こういう資料は案外見つからないのだ。実際に現地に赴き、撮影しておくと後々役に立つ。
「あっ……」
ちはやが小さく声を漏らし、リュックの中から使い込んだメモ帳を引っ張り出す。桜の下に座り込み、ペンで何やら書き留め始めた。
「お待たせしてすみません」
真緒が二人の元へ戻って来たのは、間もなくのこと。
「いい曲は出来そう?」
「はい」
嬉しそうに微笑む真緒と共に、杏は足元へ目をやる。そこにはまだ座り込んだまま、真剣な顔つきでメモを取っているちはやの姿があった。
「ちはやさんも、何か思いついたってことですか?」
「そうみたい。あちらが一息ついたら、屋台の方に行って何か食べよう」
「ごめんごめん、すっかり夢中になってもて」
屋台広場へ向かいながら、ちはやは頭を掻く。
「桜並木見てたら、バーッとシチュエーションとセリフが浮かんできて、ちょっと忘れたくない感じやってん」
「大丈夫ですよ、真緒ちゃんが戻ってきたタイミングでしたし」
「それに、やり始めたの私でしたし」
広場へ近づくごとに、かぐわしい匂いが漂ってくる。
「わぁ、ソーセージに焼きそばに焼き鳥、クレープ! どれから行きます?」
細身にも拘らず美味しいものが大好きだという杏が目を輝かせる。
「アタシ、こういうところで食べるアレが好きやねん」
そう言ってちはやの指し示した先には、ケバブサンドの文字が見えた。
「ほんじゃ、それぞれ好きなん買って来て、ここのテーブルに集合な! 散!」
それだけ言い残し屋台に向かって走って行ったちはやに、杏と真緒は戸惑った笑いを浮かべる。
「行っちゃいましたね」
「好きなものと言われても、これだけ屋台があると目移りして。真緒ちゃんどうする?」
「私はハーブソーセージと削りいちごが気になってます」
「わたしはもう少しじっくり見たいかな。真緒ちゃんと一緒に行ってもいい?」
「おけでーす」
やや経って、三人はそれぞれ買ったものを手にテーブルに戻って来る。
「ちはやさん、それ何ですか?」
ケバブサンドに噛みつくちはやの手元には、別の肉料理が置いてある。
「ブラジルの国旗が飾ってある店で買って来た肉や」
「かかってる黄色のソースはマヨネーズ? それともマスタードですか?」
「店の人は、『黄色の辛いソース』って言うとった。マスタードやないらしい」
言いながら、ちはや肉の入ったプラスチックパックを二人の前にずいっと押し出す。
「みんなで食べよと思て」
「そんな得体の知れないものを」
若干引き気味な真緒の隣から、たおやかな手が箸を伸ばす。
「じゃあ、わたしいただきますね。……あ、美味しい!」
「黄色のソース、結局なんの味がするんですか?」
「何の味だろう。軽くピリッとはするけど……」
言いながら杏はスマホで検索する。
「ちはやさん、これでしょうか?」
出てきた画像をちはやに見せると、彼女は頷いた。
「それや! その瓶、屋台の中にあったわ」
「ペルーのソースみたいですね。アヒ・アマリージョって言うらしいです。黄色の唐辛子ですって」
「ペルーなんや、旗はブラジルやったのに。辛さは控えめやな、初めて食べる味やわ」
「真緒ちゃんも食べる?」
言いながら杏は箸で肉を一切れつまみ上げ、真緒の方へ持って行く。真緒は素直に口を開けて肉を受けると、「おいしい」と小さな声がした。
「こちらもお返しにどうぞ」
割り箸で器用に切り分けたハーブソーセージを、真緒が差し出してくる。
「うぉ、肉汁すっご!」
「気を付けて食べないと、汁が服についちゃいますね」
「わたしのは切り分けられないから、ガブッと直接いっちゃってください」
そう言いながら杏が差し出してきたのは、クレープだ。トッピングは見当たらず、シンプルなフォルムをしている。
「シュガーバターのクレープですって。これ前に評判を聞いて、一度食べたいと思ってたんですよ」
「へー、どれ……」
「いただきまーす!」
それぞれ一口ずつ齧り、目を輝かせる。
「バターの香りがいい! これすごく美味しいですね、杏さん!」
「本当に。クレープの生地と言うより、薄いスポンジケーキみたい。ふわふわ」
「シュガーバタークレープの新しい可能性を見た、って感じやな」
口をうごめかせていたちはやが、ふとなにやら思いつく。
「じゃじゃーん! 今から推し妄想プレゼンタイムです!」
「え?」
「何が始まるんです?」
「では、皆さまのお手元にある食べ物をご覧ください」
真緒はハーブソーセージ、杏はクレープに目を落とす。ちはやは割り箸をマイクに見立て、言葉を続ける。
「それを買って来て食べる、自分の推し属性の妄想ストーリーください。はい、杏コはクレープ買って来て食べる少年! 一緒に花見に来てます、どんな流れで食べますか?」
「えぇえ~っ!?」
ちはやの無茶ぶりに、杏は口をぽかんと開く。しかしさすがは同人ゲームを作って来た人間。きゅっと顔を引き締め、語り始めた。
「えっと、自分が年下ってことをちょっとコンプレックスに思ってる少年が、わたしの前では背伸びした行動をしようとするんですけど、実は甘いものが好きで、わたしも密かにそれを知っていて。私からクレープ食べようと誘ったら、内心喜びながらも少年はバターシュガーと言う一見シンプルなクレープを注文して、食べた瞬間に子どもっぽい幸せそうな顔をする。そう言うのが好きです」
「可愛い!」
「さすが、杏コ!」
真緒とちはやが拍手すると、杏はへにゃっと肩から力を抜く。
「こういうのでいいの?」
「うん。そういうの聞きたいねん。シナリオ書くときの参考に」
「参考にするなら、仕方ないですね」
「そう、仕方ない。っちゅーわけで、次は真緒ち! ハーブソーセージを食べるイケオジストーリー!」
「えぇ、やっぱり私もやるんですかぁ?」
困ったように笑いながら、真緒は口の中で「イケオジ、ソーセージ、イケオジ……」と呟く。やがて、「あ、はいっ!」と可愛らしく手を上げた。
「お父さんの部下として親しく家に出入りしてて、昔はよく遊んでくれていた人が、私が成長するごとに疎遠になってしまったんですけど、私にとってその人は初恋のまま変わらなくて。思い切って花見に誘ったらイケオジになったその人がちゃんと来てくれるんですけど、やっぱり今も私は子ども扱いされるわけで。ソーセージの脂がこぼれたと言っては口元を拭かれたり、イケオジがソーセージと一緒に美味しそうにビール飲んでるから、私も飲もうとしたら、さっと取り上げられて飲み干されてしまったり。子ども扱いはやめてください、って言ったら、『子どもなら疲れたら抱っこして連れて帰ってあげられるけど、今の君にそれをしたらお父さんに怒られちゃうからね。酔わせるわけにはいかないな』って、真意の読めない返しをされるの、もどかしいけど好きです!」
「「おぉ~っ!」」
ちはやと杏が拍手をする。
「一篇の物語になっとんなぁ」
「これだけで、シナリオ一本出来ますね」
「いいんですか、これで? ソーセージ要素薄かったですけど」
「えぇねん。大人扱いしながら最後まで手を出そうとせぇへんところに、イケのこだわりを感じた。」
ちはやは席を立とうとする。
「杏コ、真緒ち、そろそろまた桜眺めに行こか」
その服と腕を掴んで止める手が二つ。
「何や?」
「ちはやさん、まだですよね?」
「肉とマッチョで語ってくださいよ」
杏と真緒ににっこりとすごまれ、ちはやは座り直す。
「いや、これ、アタシがシナリオ書く際に、少年とイケオジの解像度上げるための遊びやからさ」
「こっちに無茶ぶりしておきながら」
「逃げたりしませんよね?」
どうやら離してもらえそうにない。ちはやも観念して語り始めた。
「戦場で軍神と呼ばれる長身でゴツムキのマッチョが、戦場から戻って来たもののまだ戦いの熱を体に帯びたままでな。興奮して血が滾って、目からも原始的なギラギラが抜けなくて。出された肉料理をまるで野獣がむさぼるように、食らいつき、咀嚼し、べろりと口の周りを舐め回す、そういうのヘキです」
「ファンタジーで来ましたか」
「シンプルだけど、ゴツムキマッチョへの思い入れが伝わってきました」
食べた後のごみを手に、三人は広場から桜並木へと向かう。
「あ、そうや。三人の合作やねんけど、毎年夏に開催しとるコンテストを目標にせぇへん?」
「コンテスト、ですか?」
ごみをゴミ箱に放り込み、真緒が振り返る。
「あっ、もしかしてあれですかね? ゲーム開発ツールのプラテオスクリプト主催の」
「杏コは知っとったか」
「割と大きなコンテストですから」
桜並木を歩き出した三人の頭上に、花弁が舞い散る。
「今からやと四ヶ月ちょい。三十分から一時間くらいでクリアできる短編やったら、いけそうな気ぃせぇへん?」
「そうですね。目標を定めた方が、だれませんし。私も賛成です」
「真緒ちゃん大丈夫? 仕事始めたばかりで大変じゃない?」
「大丈夫と思います、今から物語とキャラクターのイメージさえいただければ」
「物語は、こんな感じで行こうと思っとんねん」
ちはやの口から、ストーリーが語られる。野生動物の怪我を癒して自然に返す団体がいる。人間も実はそれと同じことを神様からされている。それが「神隠し」だと。
「いいですね!」
杏が微笑む。
「その保護してくれる神様に、筋肉とイケオジと少年がいるんですね?」
「うん。それから一応、一般受けがよさそうな正統派イケメンも入れとくけど」
「少年は正統派イケメンですよ?」
「イケオジも正統派イケメンです」
笑いながら三人は、花見の席を後にした。
ルームシェアを始めてから新たに購入したものの一番手はTVだった。
「わたしドラマが好きなので、買ってもいいですか?」
元々SNSで杏はさまざまなドラマの感想を発信していたので、それはちはやと真緒も納得のいくところだった。また、三人で割れば一人当たり三万ちょいで買えると言うので、特に揉めることもなかった。
購入して以降、杏が帰宅後にゆっくりとドラマを楽しむ様子が、たびたびリビングで見られた。
そしてとある日の朝。
「あの、今日は十九時から少しお騒がせすると思います」
珍しく杏と真緒の出勤前に起きて来たちはやを含め、三人で朝食を食べていた時、杏が胸の前で手を合わせ深々と頭を下げた。
「え? 何なん?」
「十九時から、『アロマ幻想曲』のミュージカルの配信がありまして。それをこの大画面で楽しませていただきたいと」
「全然いいですよ」
真緒がトーストを齧る。
「私、その頃は残業でまだ帰宅してないかもです」
「ちはやさんは、その時刻、家でお仕事ですよね?」
「そうやけど、部屋はリビングから少し離れとるし、大丈夫ちゃう?」
「わたし……っ」
普段控えめな杏が、ぐっと拳を固めて眉根にしわを寄せる。
「興奮して、奇声あげるかもしれません」
「おもろいやん」
「近所から苦情出ない程度に収めていただければ」
「それに……」
杏は両手で顔を覆う。
「感極まって。泣いているかもしれません」
「ええやん」
「SNSでもリアルタイムで発信されてますしね」
「それだけじゃなく……」
杏がそっと指の間から目をのぞかせる。
「うちわとペンライト振り回しているかもしれません」
「好きにしたらえぇやん」
「文句言う人、ここにはいませんし」
「良かった……」
杏はほっと息をつくと、急いで朝食を平らげ身支度を終えた。
「じゃあ、行ってきます!」
「え? いつもより早すぎません?」
「今日は残業するわけにはいかないので」
バタバタと慌ただしく、杏は出勤していく。
「気合入ってんなぁ」
「杏さんお好きですもんね、2.5次元舞台。あ、そう言えば」
「何?」
「ちはやさんも『アロマ幻想曲』お好きですよね? 杏さんと一緒に見ないんですか?」
「あー……」
ちはやは申し訳なさそうな顔つきになる。
「アタシ、どうも人物を声で判断しとるところがあるみたいでな」
「はぁ」
「どんなに見た目が似とっても、声が違うと、推しやって認識でけへんのよ」
「そんなことあります?」
「アタシに関してはそうやねん。せやから、2.5次元舞台にはそこまでハマらへんのよね」
ちはやの言葉に真緒は肩をすくめる。
「前から声フェチとは言われてましたけど、それはそれで厄介ですね」
十八時になった。自室のPC前でシナリオ作業をしていたちはやは、ぐっと背伸びをする。そしてデータを保存すると部屋を出てキッチンへと向かった。
杏や真緒と違い自宅仕事のちはやは、平日の夕飯づくりを担当していた。代わりに杏は朝食、真緒は全員分の弁当を担当している。休日の食事はその日の過ごし方によって様々に融通を利かせるようにしていた。
「何しょうかな~」
誰もいないキッチンで呟き、米を研ぎはじめる。杏と真緒に特に好き嫌いが無いのがありがたかった。
夕飯づくりも中盤に差し掛かった頃、鍵の開く音がして杏が帰って来た。
「おかえり~」
「ただいま! 良かった、間に合った!」
杏はいそいそと自室へ着替えに向かう。
「あの、あらかじめ言っておきますが、今日は本当にうるさいかもなので」
引き戸の向こうから衣擦れの音と共に、くぐもった声が聞こえて来た。
「えぇよ。残業なくて良かったな」
「はい、本当に!」
やがて時刻になったのか、TVには開演前の様子が大写しになる。注意の音声が流れた瞬間、杏は押し殺したような悲鳴を上げた。
歌と共にステージが証明に照らされる。キッチンカウンターから、ちはやはその様子をチラ見した。
似てはいるんよなぁ、とちはやは思う。舞台に立つ彼らは、ゲーム『アロマ幻想曲』から抜け出したような美しさだった。現実の男がここまで二次元に近づけるのかと、心の底から感心した。
杏は座ったままぴょこんぴょこんと飛び跳ねたり、「ん゛ッ!」と声を詰まらせたり、「あ~~~っ!」と掠れたような歓声を上げている。大声を上げてはちはやがうるさいだろうと、気遣っているようだった。
自分がここにいては、杏が心の底から楽しめないだろうと考え、調理を終えたちはやが自室へ引っ込もうとした時だった。
~~♪♪♪
聞こえて来た歌声に、ちはやは足を止める。そのままぐるんと180度進行方向を変え、TVに目をやった。そこにはちはやの推しのユーカリが大写しになっていた。
「ユーカリ!?」
「ユーカリですよ!」
ちはやの口をついて出た悲鳴に、杏が満面の笑みで応える。ちはやは飛び込むようにして、ソファの杏の隣に座った。
「え? え? なんで? ゲームと声同じやん? 声優さんが出とるんとちゃうよな?」
「違いますよ、ミュージカルの役者さんです。すごく歌が上手いでしょう?」
「上手いし、それに、声がそっくり!」
「この役者さんは、ゲームに声まで寄せてくれていますね」
ちはやは食い入るように画面を見つめる。
「筋肉の陰影すごい。厚みすごい。肩幅すごい! 何これすごい!」
「そうでしょう?」
杏は満足気に微笑み、うちわで口元を隠す。
「んぁっは!?」
ダァンと重い足音をたて、派手なアクションを決めたユーカリに、ちはやは身を乗り出す。
「今のん、何メートル飛んだ!? 人間の動きちゃうやん! すごっ!」
「本当ですよね! あっ、クラリセージのソロ来た! きゃ~っ!」
「ただいま~」
残業を終えて帰ってきた真緒が目にしたのは、リビングで仲良く2.5次元舞台を楽しむ二人の姿であった。悲鳴を上げたり、顔を覆って倒れたり、座ったまま飛び跳ねたりなかなかに忙しそうだ。
「ちはやさん、声が違うとハマれないって言ってたのに」
しかし考えてみれば、ちはやは元々『アロマ幻想曲』のユーザーだ。やはり、推しが立体になった姿は楽しいのだろう。
(私はプレイしてないから、よく分からないけど)
そんなことを思いながら、ソファの後ろから真緒が何気なく画面に目をやった時だった。
「ん゛ッ!!」
真緒は口を押えてその場に崩れ落ちた。
「真緒ちゃん?」
気配に気づき、杏が振り返る。
「どないしたんや、具合悪いんか?」
「違っ……、今……!」
真緒が口元を抑えたまま、ぶるぶると震える指先を画面に向ける。
「イケオジが……!」
真緒の指差した先では、一人の演者がアップになっていた。長台詞の見せ場のようだ。
「えっ、麝香さん?」
「前に真緒ちが、若者やからイケオジやないって言ったキャラやんな」
「皺……!」
真緒はついに顔全体を両手で覆ってしまう。
「口元の皺が、すごくいい感じで!!」
杏は画面に目を戻す。
確かに照明の加減で口元の皺がやや目立ってしまっていた。それに演者自身はアラフォーだ。
本来ならマイナスになりかねない要素が、逆に真緒のツボに入ったらしい。
「真緒ちゃんもこっちおいで、一緒に見よ」
杏がソファをぽんぽんと叩くと、真緒はそこにとすんと腰を下ろす。
三人はきゃあきゃあとはしゃぎながら、最後まで楽しんだ。
「すみません、杏さん」
興奮の冷めやらぬままの夕食の席で、真緒が頭を下げる。
「杏さんが楽しみにしてたステージ、横でうるさくしてたから、集中できませんでしたよね」
「ほんまや、せっかく楽しみにしてたやろに邪魔してもた。ごめんな」
謝る二人に、杏はパタパタと手を振る。
「そこは大丈夫。期間中は何度でも見られるようになってるから。見たくなったらまた一人で見るね。円盤だって買う予定。それに」
杏は幸せそうに目を細める。
「二人が一緒に楽しんでくれたの嬉しかった。何より御新規さんの新鮮な悲鳴は健康にいい」
ほくほくとした笑みの杏に、二人はほっとする。
「あ、真緒ちゃん! 麝香さんの役者さん気に入ってたよね?」
「は、はい。いい感じに熟成された雰囲気が」
「同じ人が出演してる、別のミュージカルの円盤持ってるよ! 今度見せようか?」
「えっ?」
ここから杏による、怒涛のプレゼンが始まるのであった。
「ゲームのことやけどな、アタシが一ヶ月でシナリオ上げて、そしたら次の一ヶ月で二人に絵と曲作ってもろて、ほんでその次の一ヶ月でスクリプト入力して、ラストの一ヶ月でテストプレイって感じにすれば、夏のコンテスト間に合うよな?」
休日のブランチ時、ちはやがざっくりと発表したスケージュールに、二人は頷いた。
「でも、ちはやさんは大丈夫ですか?」
杏が心配そうに首をかしげる。
「今、大型の執筆のお仕事入ってますよね? それと並行して書けます?」
「いけるやろ。もうちょいで終わりそうやし」
杏の作ってくれたクロワッサンサンドに齧りつきながら、ちはやは笑う。
「仕事しとんのは、みんな同じやん? アタシは家でやっとるだけで、会社行っとる二人と変わらんで。それに、今までやって同じように仕事やりつつ、個人製作で企画からリリースまでやって来たんやし。今回は分担しとる分、むしろ楽勝やわ」
「ですよね」
レモンティーを飲んだ真緒が頷く。
「ちはやさん、これまで期限を決めて破ったことないですし」
ちはや・杏・真緒はそれぞれ、仕事や学業の間を縫って同人ゲームを制作し、リリースをしてきた。三人とも、雑誌やゲーム情報サイトに紹介されたこともある。
同人ゲームは、企画が立てられても完成させられるのはたったの1%だと言われている。その1%を成し遂げた人間が互いに親しみを覚え親交を深めていったのは、自然の流れだった。
事情が変わったのは、それから一週間のこと。
杏と真緒の帰宅時刻がたまたま重なり、一緒に帰宅した時だった。
「ただい……」
その言葉を遮るように、玄関入ってすぐ左の部屋の扉が勢いよく開く。
「大変や!!」
ちはやは満面の笑みで、二人を出迎えた。
「どうかしたんですか?」
困惑する杏に、ちはやは喜びを抑えきれぬと言った風情でまくしたてる。
「来てん! 仕事! スカウト! 前から仕事したいと思てた会社から、お願いしたいて!」
「わぁ、良かったじゃないですか」
靴を脱ぎ、真緒は玄関を上がる。
「どんな仕事ですか?」
「そこは契約上言われへんけど。でも、めっちゃ仕事したかったとこ!」
大人げなく小躍りするちはやを、杏は微笑ましく見守る。
「良かったですね。これから忙しくなっちゃいます?」
「んー、まぁ、そう」
「じゃあ、その仕事が終わるまで同人の企画の方は一旦ストップしましょうか」
「それはアカン!」
ちはやが足を止める。
「コンテストは八月末が締め切りやもん。仕事と並行してやらな間に合えへん」
「でも……」
「大丈夫や! お仕事は主食、同人はおやつ! どっちもいける!」
そんなことがあってから三日後。
「嘘やん!?」
ちはやはPC前で頭を抱えた。
メールボックスに届いていたのは漫画原作の執筆依頼。
「これ、1年前にアタシが登録しといたところ……」
依頼主はそれなりの有名どころ、条件もかなり良かった。
「ゲームシナリオが二本に、漫画原作一本……」
受けるか断るか三十分ほど悩んだ末に、ちはやは承諾することにした。
「あぁああ~っ、やるって返事してもた!! もう引き返されへん!」
頭を抱えて床に突っ伏す。そして勢いよく顔を上げた。
「いや、いける! 前の依頼はもうすぐ上がるし!」
ちはやは髪をきつく縛り、ヘアバンドで前髪を上げる。そして、勢いよくキーボードを叩き始めた。
「あれ?」
仕事から帰宅した杏がリビングで目にしたのは、一人でスマホをいじる真緒の姿だった。
「ちはやさんは?」
「それが……」
真緒が一枚のメモを見せる。
『ご飯食べといて。アタシは部屋で食べる』
「夕飯はいつも通り作ってくれてるんですよ」
真緒は鍋に入ったスープと、ラップのかかった料理の皿を杏に示す。
「何か怒ってるのかと思って、トイレに出てきた時に声を掛けたんですが、単純に仕事が忙しいらしいです。新しい仕事がもう一件入ったらしくて。ゆっくり食べてる暇はないってことでした」
「そうなんだ……」
杏は気遣わし気にちはやの部屋へ目をやる。だが仕事に追われている最中に、声を掛けられたくないだろう。
「じゃあ、わたしたちだけで食べようか」
「ですね」
二人は、中華スープと棒棒鶏、ニラ玉炒めの夕食を取る。
「忙しいなら、こんな凝った夕飯作らなくていいのに」
「ですよね」
真緒が頷いてスープを飲んだ。
「あ、ちはやさん食べる時間も惜しいようで。さっき丼にご飯とスープぶち込んで、上に鶏肉とニラ玉乗せて部屋に持って行きましたよ」
「えぇ……」
そんな日々が続いた。
「おはよう、真緒ちゃん。……どう?」
「杏さん。それが……」
真緒の部屋とちはやの部屋は廊下を挟んで向かい合っている。
「私が寝る時、ちはやさんの部屋の電気が点いていたんですよ。それで、さっき起きた時に見たら、やっぱりドアのすき間から光が漏れてて」
「ちゃんと寝てるのかなぁ」
「電気点けたまま寝てるのならいいんですけど。起きてる気配がするんですよね」
「ちはやさんの部屋だけ不夜城になっちゃってる」
「セキュリティ的には心強いですけど、本人が心配ですよね」
二人はキッチンに入り、いつも通りに杏は朝食を、真緒は弁当を作る。
「帰宅した時に朝食のお皿が片付いているのを見ると、ほっとするよね。ちゃんと食事はとってるんだ、って」
「それが途絶えた時が怖いんですが」
「ちょっとやめてよ、真緒ちゃん」
二人は同時にちはやの部屋の閉じた扉に目をやり、ため息をつく。
「忙しいなら夕飯作らなくていいって、何度も言ったのに」
「昨日は豚汁にオクラの和え物、サバ味噌にきんぴらごぼうでしたね」
「料理をすることが、運動や気晴らしになっているのならいいんだけど……」
「帰ってきた時、ちはやさんの倒れた姿は見たくないですね」
「真緒ちゃん、怖いって」
さらに数日が経過した。
時たま、風呂やトイレに行くとき以外、ちはやは部屋から出てこない。
杏や真緒と目が合うと、力ない笑顔を浮かべ手を振って去っていく。
そしていくら杏と真緒が訴えても、夕飯作りを休もうとしなかった。
(かなり無理しているように見えるんだけど……)
そろそろ寝ようと、杏が照明のスイッチに手を伸ばした時だった。
スマホから着信音が聞こえて来た。
「? これはパソコンの方のアドレス?」
見れば送信者はちはやになっている。添付ファイルがあるようだった。
「『お待たせしました』? なんだろう」
杏はノートPCを立ち上げる。添付ファイルを開いた瞬間、思わず息を飲んだ。
「ちょ……!」
杏は部屋を飛び出す。ほぼ同時に自室から出て来た真緒と目が合った。
「見ました?」
「見た!」
二人はちはやの部屋の扉をノックする。
「ちはやさん! ちょっといいですか? 開けますよ!」
「んぁ? どうぞぉ……」
疲れ切った承認の声を受け、杏と真緒はドアを開ける。ベッドに力なくうつぶせに倒れていたちはやは、顔を上げると血走らせた目でへらりと笑った。
「あ? もう読んでくれたん? 感想言いに来た?」
「何やってるんですか!」
普段穏やかな杏が、語気を荒くした。
「さっき届いたデータ、『同人ゲーム・メインシナリオ』ってなんですか?」
「あー、コンテストに出す作品の根幹になるシナリオ書きあがってん。キャラ別ルートはもうちょい待ってな」
「そうじゃないでしょう? どうして、まともに食事の席に着けないほど忙しい人が、同人ゲームのシナリオ書いてるんですか!?」
とろんとした目つきをしていたちはやが、普段とは違う杏の様子にようやく気付く。
「せやって……」
ちはやは目を逸らし、ぼそぼそと答える。
「アタシが今月中に書き上げな、コンテストに間に合えへんやん」
「こんな自分を大切にしない人のシナリオなんて、わたし、ゲームにしませんからね!」
ちはやは、はっと息を飲む。
「杏コ……」
目を上げれば、そこには双眸に涙をため唇を噛む杏がいた。
「えっと……」
「コンテストは、今年にこだわらなくてもいいじゃないですか」
杏が声を震わせる。
「せやけど、この八月を逃したら、次は来年で……」
「来年でいいじゃないですか。わたしたちは来年も一緒なんですから。それより今無理をして、ちはやさんに何かあったら、二度と合作出来なくなっちゃいますよ。そっちの方が嫌です」
「杏コ……」
「ちはやさん」
真緒の声も厳しい。
「私たち、忙しいなら夕飯は作らないで、って言いましたよね? どうしてそれも無視するんですか?」
「せやって……、二人とも外で働いててしんどいやん? 疲れて家に帰った時に、あったかいご飯が出来てたら嬉しいやろなぁ、って思って……」
「嬉しいですよ、普段なら。でも今は、事情が違いますよね?」
「朝と昼は二人が作ってくれとるし、アタシだけサボったら悪いやん」
真緒がちはやの手を掴む。
「いいですか、禁止です! サボリじゃありません。今の仕事が一区切りつくまで、夕飯づくりは禁止です!」
「でも……」
「私と杏さんで、レトルトやレンチン食でも買っておきますから。それをしばらくは夕飯にしましょう。今は結構、美味しいのがあるんですよ。料理をする時間があるなら、その時間は睡眠を取ったり休んだりしてください! お願いですから!」
ちはやが目を閉じる。
「……アタシ、ご飯作らんでえぇん?」
つぅ……と涙が伝い、ベッドに染みた。
「休んでもえぇんや……」
「当たり前じゃないですか!」
杏は手を伸ばし、ちはやに布団をかけた。
「わたしたち、一緒に楽しく過ごしたくてこのルームシェアを始めたんですよ。ちはやさんに負担をかけるためではありません。このままだと、わたしたちの望んだ生活じゃなくなっちゃいます。せっかく一緒にいるんですから、こんな時は頼ってください」
「杏コ……」
真緒が照明のスイッチに手を掛ける。
「今日はもう休めますか? 同人ゲームのシナリオ書いていたくらいですから、休めますよね?」
「……うん」
「じゃあ」
真緒は容赦なく部屋の明かりを消す。
「今日は閉店です、おやすみなさい」
「……おやすみ」
暗闇の中ごそごそと布団を引き上げるちはやを見届け、二人は部屋を出て扉を閉める。間もなくいびきが聞こえて来た。
「……もう寝た。よっぽど限界だったんですね、ちはやさん」
「うん。明日は、夕飯に良さそうな冷食を買って帰ろうか、真緒ちゃん」
二人はちはやの眠りを妨げないよう、リビングへ移動する。
「今は冷食でも、ワンプレートで色々揃ってるのもありますよね。そんなのを試すのも楽しそうです」
「うん。わたしたちが夕飯を手作りすると、ちはやさんが気に病むかもしれないから、あえてのレンチンでしばらくは過ごそう」
「おけでーす。それから、この機会にお弁当屋さんやお総菜屋さんを開拓するのはどうですか?」
「それいい! あと、どこかで物産展やってたら、そこで買うのもちはやさんの気分転換になりそう」
「ちょっと楽しくなってきましたね」
三週間が過ぎた。
日曜の午後、音が漏れぬようヘッドホンを付けてドラマを楽しんでいた杏の背後に、ゆらりとちはやが現れた。
「び、びっくりした!」
気配に気づいた杏は心臓を押さえながら、片手でヘッドホンをはずした。
「どうしました? 何か必要なものがあれば買ってきますが」
ちはやはヘアバンドをはずし、ぐっと親指を立てて見せる。
「脱稿」
「え、だっこう……?」
音で受け止めると咄嗟に理解できなかった言葉が、一呼吸の後に頭の中で漢字に変わる。
「あ、脱稿! お仕事片付いたんですね、おめでとうございます」
杏が小さくぱちぱちと手を叩く。その音に誘われるように、真緒の部屋の扉が開いた。
「終わったんですか、ちはやさん」
「おん、チェック待ちやけど。リテイク来るまではひとまずは解放」
「お疲れ様です!」
真緒もぱちぱちと手を叩いた。
「つっかれたぁ~」
ちはやはソファにどっと倒れ込む。
「温泉行きたい」
「温泉ですか?」
杏と真緒が顔を見合わせる。
「今から日帰り温泉できるとこなんて、この辺にありましたっけ?」
「スーパー銭湯があんねん」
ちはやはスマホで検索し、地図を開いて見せる。
「ほら、ここ」
「あ、結構豪華な造り」
「駅と逆方向にこんなとこあったんですね」
「よっしゃ、行こか!」
ちはやは勢いよく部屋に戻るとリュックを掴み、玄関へ真っすぐ向かおうとする。
「駄目ですよ!」
杏が慌ててちはやを引き留める。
「徹夜明けの温泉は命にかかわりまず。今日は一旦寝てから、自宅のお風呂で我慢してください」
「えー……」
真緒は部屋に戻ると、何やら丸いものを持ち出してくる。
「ほら、とっておきのバスボム使いましょう。温泉は次の機会に」
「バスボムは嬉しいけど、せっかくやから非日常感を味わいたいんよなぁ」
「じゃあ、こんなのはどうです?」
真緒は脱衣所にアロマキャンドルを置く。そして浴室の明かりを消した。
「こうすると、間接照明みたいでおしゃれだと思いません?」
「さすが……」
「真緒ちゃん、センスいい」
「真緒ちゃん、今夜はデリバリーで何か頼んじゃおうか」
「いいですね、それ」
杏と真緒はスマホで検索しながら、あっちがいいこっちがいいと話し合う。
その時、二人の背後で浴室の扉の閉まる音がした。続けて水音が耳に届く。
「あれっ、ちはやさん、お風呂に入っちゃいました?」
「もう……、一度寝てからって言ったのに」
「今更出ろとも言いづらいですよねぇ」
二人はやれやれと肩をすくめ、再びスマホに目を落とす。数分の後、寿司をとることが決定した。
「杏さん、届くの45分後だそうです」
「ちょうどいいタイミングかも」
その時、ふと真緒が真顔になる。
「どうしたの、真緒ちゃん」
「あの、今気づいたんですけど」
真緒が肩ごしに浴室の方向を見る。
「お風呂、明かりを消したから暗いですよね? それに静かだし」
「アロマキャンドルで、リラックスした香りもさせてるよね」
「……睡眠不足のちはやさん、大丈夫でしょうか」
ごくりと杏が唾を飲んだ。
「大丈夫じゃないかも!」
「ですよね!」
二人は弾かれたように脱衣所に飛び込む。案の定、浴室からは寝息のようなものが聞こえてきた。
「ちはやさん、起きてください! ちはやさん!」
「すみません、開けていいですか? ちはやさん!」
強引に扉を破れば、目をひん剥いたちはやが慌てて湯船の中で体を縮める。
「えっちょ、何なん!? 急に二人して!」
「よかった、起きてた……」
杏が胸を押さえて、へなへなと頽れる。
「もうっ、びっくりさせないでくださいよ」
「びっくりしたんはこっちや!」
「だって寝息みたいなのが聞こえたから」
「鼻息でかいだけや! えぇから扉閉めぇ!」
真緒に言い返すちはやの声が、浴室に反響した。
――終――