暑さ厳しい、八月中旬。

「ただいま~」

東京都三鷹(とうきょうとみたか)市にあるマンションの玄関に、森本旭(もりもとあさひ)の少しハスキーな声が響く。

「おかえり~。お疲れ様」

いつものように自室から顔を覗かせた土井舞美(どいまいみ)が、笑顔で彼女を出迎えた。


「舞美もお疲れ。モチ(まる)は?」
「たぶんカーテンの裏かな」


ふたりでリビングに行くと、バルコニーに続く大きな一枚窓にかけられたカーテンの隅っこがふっくらとしている。
そのフォルムを見た旭が、猫目がちな目尻を下げて頬を緩めながら窓に近づいた。


「モチ~、ただいま。ああ、可愛い~」


華やいだような笑顔とは裏腹に、彼女の声は小さい。
まだこの家に慣れていない預かり猫のモチ丸が驚かないように……という配慮だ。


「いいよいいよ、好きなところで寛いでて」


カーテンがモチ丸の動きに合わせてもぞもぞと揺れると、旭が窓から距離を取る。
舞美はその光景を横目にしつつ、キッチンに立った。


「先に食べるならご飯温めるけど、シャワーにする?」
「あー、うん。今座ったら食べたあと寝落ちするから、先にシャワー浴びたい」
「了解。私はもう浴びたから入っておいでよ。三十分後に食べられるようにしておくね」
「ありがとう! 舞美は女神だ~」
「大袈裟」
「帰ってきてご飯があるってだけで幸せなんだよ」


旭はそう言い置き、自室に入って着替えを手にしてからバスルームに向かった。


(仕事は……今日はもういいか。先に飲もうかな)
舞美は缶ビールを開け、リビングのソファに腰掛ける。
テレビを点けてニュースを流しつつ、スマホを片手に呑み始めた。
至福の一口目を喉の奥に流し込み、カーテンの方に視線を遣る。
モチ丸はさきほどよりも落ち着いたのか、お気に入りのポジションで体を横たえているようだった。


「ちょっとずつ慣れてきてくれてるけど、私たちがいてももっとリラックスできるといいね」


舞美の声は聞こえているだろうが、カーテンが動く気配はない。
ただ、それはモチ丸が怖がっていないという合図でもあるため、舞美はホッとしながら微笑を零した。


モチ丸は、保護施設から預かっている猫である。
一昔前で言うところの雑種――今でいうミックスで、背中にある茶色のトラ模様がトレードマークだ。
この家に来て、まだ三週間。
初日はなかなか水を飲まず、食事も摂らなかった。
トイレもする素振りがなく随分と心配したが、翌日の夜には水も食事も口にし、トイレも済ませてくれた。


ケージから出るようになったのは、一週間ほど前のこと。
最初は些細な物音にも過敏に反応し、舞美や旭がリビングに来るだけでケージの隅で身を小さくしていたが、三日前からカーテン裏が定位置になりつつある。
モチ丸なりに落ち着ける場所が見つかったのだろう。


少しずつではあるが、『この家に馴染んでいってくれていることが嬉しい』と舞美と旭は話していた。
飲食とトイレのとき以外はだいたいカーテンの裏にいてあまり顔は見せてくれないが、ケージの外で過ごすことの方が多くなったため、一か月後にはもう少し慣れてくれているはずだと思っている。


舞美はそんなことを考えながらキッチンに行き、夕食を温め直し始めた。
毎週金曜日の夜は、お互いに予定がなければふたりで飲むことが多い。
ぶり大根が入った鍋を火にかけ、先にローテーブルに食器やカトラリーを用意しておく。
再びキッチンに立つと、冷しゃぶサラダに手作りの梅ダレを回しかけ、アボカドディップとクラッカーをプレートに盛りつける。
最後に、スモークサーモンのカルパッチョに飾り切りしたレモンを置いた。


「上がった~」
「いいタイミングだよ。ご飯の準備できた~」
「やったね」


メイクを落とした旭は、前髪をヘアピンで留めている。
いつもは綺麗にセットされているオレンジブラウンのショートカットの髪も、今は無造作な感じだ。
コンタクトも外してメガネをかけている彼女は、すっかりオフモードだ。


先にシャワーを浴びていた舞美も、すでにルームウェアを着ている。
お気に入りのブランドのキャミソールとショートパンツは、柔らかなパイル地で着心地がいい。
鎖骨に届くダークブラウンの髪は緩く結び、もちろんすっぴんだ。
眼精疲労気味の二重瞼は少し重いが、メイクを落としているだけで顔全体の重苦しい感覚がないのがいい。


Tシャツにショートパンツ姿の旭が、冷蔵庫を開けて「ビールでいい?」と訊く。


「うん。先に一本飲んじゃったけど」
「あっ、ずるいぞ」
「いいじゃん。〆切より三日早く原稿が上がったんだもーん」
「いいなぁ。こっちはお盆前で地獄だっていうのに」


ここ数日、旭の帰宅時間はどんどん遅くなっている。
今日はとうとう二十二時を過ぎていたため、もうすぐ二十三時を迎えようとしていた。


「まあいいじゃん。来週半ばからはお盆休みだし」
「お盆明けはまた地獄だけどね」
「それは考えない」


苦笑した顔を突き合わせ、ローテーブルに料理を運ぶ。
ぶり大根のいい香りが部屋中に漂い、「お腹空いたぁ」というふたりの声が重なってお互いに小さく噴き出した。


「早く食べよう」と言う旭に頷き、ローテーブルの前に座ってソファに背中を預ける。
彼女の定位置はバルコニー側、舞美はキッチン側だ。


「じゃあ、一週間お疲れ様ってことで」


旭の音頭でお互いのビール缶をぶつけ、「かんぱーい!」と明るい声が響く。
彼女がグビグビとビールを飲むのを横目に、一口で缶を置いた舞美が取り皿にぶり大根を盛って箸で小さくした大根を口に放り込んだ。


「あっ、いい感じに染みてる」
「それは楽しみだ。いただきまーす」


ワクワクした様子の旭も、ぶり大根の大根を口に運ぶ。

「うんまー! なにこれ、最高!」

そう言うや否や、彼女はぶりも頬張った。

「ぶりが旬じゃないのは残念だけど、染み染みでおいしい~! 大根の甘辛さもいいけど、ぶりの旨みもたまらない……」

感激したように感想を口にする旭に、舞美が「大袈裟だなぁ」と呆れたように笑う。


「いやいや、本心だから。私、料理は嫌いだけど、食にはあまり妥協したくないから、まずいものはまずいって言うし」
「あ~……確かに」


舞美は、以前作った牡蛎の佃煮のことを思い出す。
あのとき、彼女に『ご飯には合うけど、お酒には違う』と言われた。
ただ、それが旭のよさでもあるというか、よくも悪くもはっきり言ってくれる彼女に料理を出すのはある意味で気楽だった。


元カレは、好き嫌いが多いくせに変なプライドがあったのか、料理に関してはその場で本音を言わなかった。
そのわりには、忘れた頃に『あれはまずかった』などと言うのだ。
さらにタチが悪いことに、共通の知人や元カレの友人の前でそういった話をするから、その場が気まずい空気になってしまう。
しかも、あとでふたりきりになると、『舞美が落ち込んだ顔をするからあいつらが気を使ってただろ』なんてのたまう始末。


だったら、ふたりきりのときに言え! むしろ、時間が経ってからじゃなくその場で言え! と、何度思ったことか。
舞美なりに毎回優しく自分の気持ちを伝えてきたが、結局最後まで変わらなかった。


「あっ、いや……舞美の料理はおいしいよ。私の好みの問題っていうか」
「わかってるよ。好みとかそれぞれの家庭の味ってあるし、そこは気にしてない。むしろ、旭は基本的にはなんでも食べてくれるからラク。作ったものを無言で残されると、ダメージが大きいんだよね」


誰の話とは言わなくても、旭は察したようだ。


「まあ、それはね。言いにくくてもその場で言ってくれた方が、あとで他人の前でグチグチ言われるよりも何倍もいいよね」
「そうそう。って、あいつの話はいいんだけど」
「いいじゃん。元カレの愚痴を肴に飲むのも、女子同士の飲み会って感じだし。なんなら私も話す? 最低男のネタなら結構あるよ」
「聞き飽きたからいいよ」
「なんだと? そんなこと言うなら、商社マンの浮気現場目撃事件を語るよ」
「それは一番聞いてるから、本当にもういらない」


舞美が顔の前で手をひらひらと振れば、彼女が「私の鉄板ネタなのに~」なんて冗談で返してくる。
同時にぷっと噴き出し、どちらともなく持った缶をぶつけた。


「旭の男運のなさに」
「舞美のストーカー化した元カレに」
「乾杯」と声が揃い、二度目の乾杯をした。


お酒を程々に楽しみつつ、料理を摘まんでいく。
こうして飲む日は、お互いに食べたいものを並べるのが定番だ。
お気に入りのお店でテイクアウトすることもあれば、デパ地下でデリを買ってくることもあるが、今日のように舞美が作るときもある。
今夜は、ぶり大根を食べたいと言う旭のリクエストを聞く形になった。


「私、最近やばいと思ってることがあるんだけどさ」
「うん?」


唐突に神妙な顔をした彼女に、舞美が首を傾げる。


「舞美とのルームシェアが快適すぎて、このまま一生この生活でもいい気がしてくるのよ。怖くない?」
「あ、うん。それはめちゃくちゃ怖い」
「でしょ? シングルライフだと寂しいときもあるけど、ルームシェアしてると基本的に家に人がいるから寂しくないのよ。しかも、お互いにそこまで干渉し合わない関係が心地よすぎて……。同棲だと、こうはいかないっていうかさぁ……」


旭の言葉に、しみじみと頷いてしまう。
彼女もこれまでに同棲経験があるようだが、舞美も元カレと一年ほど同棲していた。
しかし、その間はお互いの行動が間近で見れるために喧嘩もそれなりにあり、生活習慣の擦り合わせをするのも大変だった。


「その点、舞美とはいい距離感っていうか……。一緒にいてしんどくないし、別々に行動しても気兼ねしないし、ラクすぎるんだよね。舞美ってよく気がつくし、料理も上手いしさぁ。お互いの得意分野と苦手分野が違うから、役割分担もしやすいし」
「確かにそうだよね。私は料理が好きだけど掃除は嫌いだし、旭は真逆だから掃除を率先してくれて助かってる」
「だよね。私もなんだよ。まさか男と住むより気楽だと思わなかったわ。もちろん、舞美が相手じゃなければこうはいかなかっただろうけど、だからこそこのままずっといたいような気持ちになってるのよ~」
「それはダメでしょ。一緒に住むのは二年間だけって約束だし」
「だよね……。わかってるんだけどさぁ」


旭の言葉は嬉しい。
しかし、同級生のふたりは、今年三十三歳になる。
それゆえに、結婚適齢期真っ只中のふたりにとっては、彼女の感覚はある意味で恐怖や焦りを感じるものでもあった。


舞美と旭は、昨年の春からルームシェアをしている。
その三か月ほど前、高校時代の同窓会に参加するために地元の埼玉県に帰ったときに再会するまで、ふたりは個人的に会うような仲ではなかった。


ところが、お互いの家が偶然にも近いことを知り、どちらともなく『今度ご飯でも食べようよ』なんて話したのを機に、ふたりだけで飲みに行くことになった。
舞美はその場限りの社交辞令として受け取っていたが、旭は後日きちんと連絡をくれ、彼女の方から誘ってくれたのだ。
これが運命だったのかもしれない。


ちょうどその頃、舞美は元カレと同棲していた家に彼がしつこく尋ねてくることに悩まされていた。
別れを切り出したのは舞美だったが、元カレも納得して出ていったはずだ。
しかし、別れて一か月もすると、マンションの下で待ち伏せされるようになった。
もともと、舞美が住んでいた家で同棲していたということもあって、家は知られている。
逃げようにも簡単には引っ越せないし、実家に帰るわけにもいかない。


一方の旭は、仕事で出会った取引先の男性に言い寄られており、運が悪いことに偶然にもお互いの自宅が近所だったことから家がばれてしまった。
最寄駅が同じで、よく行くコンビニも知られ、できるだけ会わないようにしても向こうに待ち伏せされることもあった。


ふたりして引っ越しを考えていたのだが、思うような物件が見つからない。
女性の一人暮らしというのは、立地や家賃など一般的な条件に加え、防犯面もしっかりと対策をしなくてはいけないもの。
オートロック、二階以上、治安がよくて街灯や人通りが多い。
なんて希望を挙げだしたら、選べる物件はあっという間に減ってしまう。


舞美が見つけたこの部屋はとてもよかったが、2LDKとひとりで住むには広すぎる上、当然ながら家賃は予算オーバー。
それを旭になにげなく話したところ、彼女が『ルームシェアしない?』と言い出したのだ。


正直、舞美はありえないと思った。
高校時代には、一度も遊んだことがなかった相手だ。
三年生の一年間だけクラスメイトだったが、舞美の記憶が正しければそれまで話した記憶もなく、他の接点もなかった。
卒業後は昨年一月の同窓会で再会するまで、お互いになにをしているのかも知らなかった程度の仲である。
一緒に住めるような関係性だなんて、到底言えない。


そもそも、親友レベルの付き合いならまだしも、ルームシェアをするのならよほどお互いに信頼できて気が合わなければ難しいだろう。
想い合っていたはずの元カレと上手くいかなかったものが、再会してまだ数回しか会っていない友人と上手くいくとは思えない。
なにより、お酒の席での冗談だと受け取った。
ところが、旭は本気だと言わんばかりに話を続けた。


『舞美とは学生時代は別に仲良くなかったし、高三まで接点もなかったけどさ。大人になってこうして会うようになって、ウマが合うなって感じたのよ。私も女同士で住むって今までなら考えもしなかったけど、舞美とならできる気がするんだよね』


ウマが合う、という言葉には共感できた。
たとえば、食やお酒の好み。
お互いに勧めたものを相手が気に入ることが多く、舞美は彼女のおかげで日本酒のおいしさを知った。
逆に、旭は舞美の勧めで食べたものを気に入ることが何度もあった。


好きな映画や音楽、観ているドラマが被ったり、猫が好きだったり。
なにより、周囲の友人たちはとっくに結婚しているのに、お互いに独身で恋人もおらず……それどころか、男性に困らせられているという状況まで似ていた。


『もしルームシェアをしてみて無理だと思ったら、すぐにやめてもいい。そのときに違約金が発生するなら私が持つから、一度やってみない?』


大手菓子メーカーの企画部にいるだけあって、彼女の誘いはプレゼン並みに魅力的に思えたのもある。
しかし、一番の決定打は、このときに元カレから電話がかかってきたことだった。
もちろん出なかったが、家を知られている以上、帰宅したらまた待ち伏せされているんじゃないか……とうんざりした気持ちになった。
正直、いつか逆上されるんじゃないか、と悩んでいたのもある。
その結果、この日は初めて旭の家に泊めてもらうことになり、翌日ふたりで不動産屋に駆け込んだのだ――。





「私から提案したけど、正直ここまで快適な生活は想像してなかったなぁ」

しみじみと零した旭に、舞美が大きく頷いて共感する。

「それは私も同じだよ。上手くいかないって思ってたけど、あのときは元カレから逃げたかったし、この部屋に住みたいっていうのもあったし……。旭が違約金を払ってくれるっていうから、それならとりあえず住むかって気持ちだった」
「わかる。私も三か月くらい試してダメだったら、ルームシェアを解消しようって言うつもりだったから」


彼女と同じように、舞美も合わなければ三か月くらいで同居をやめればいいと思っていた。
一度引っ越せば、元カレとは距離を取れる。
連絡先をブロックし、三か月の間に新しい物件を探しておけば、次の引っ越し先もどうにか見つかっただろう。


だから、旭の提案に乗っかってルームシェアを繋ぎにすればいいか……というくらいの気持ちだったのだ。
彼女には悪いが、上手くいくとは考えていなかったから。
それが一転、あまりの快適さに今ではルームシェアをしてよかったと思っている。


まず、なによりも誰かと一緒に住んでいるというだけで安心感がある。
舞美は元カレから、旭は仕事で出会った知人から逃れられたし、もし家がばれたとしても一人暮らしじゃないというだけで心強さがある。
これは、体調が悪いときにも言えることだ。
熱が出て動きたくないときや本格的に動けそうにないとき、スポーツドリンクやゼリーを買ってきてくれるだけでもありがたい。
同じ屋根の下に頼れる人がいれば、体調を崩したときに感じる心細さも和らぐ。


リビングやバスルームなどは共有スペースになるが、それを踏まえても広い家に半分の家賃で住めるというのも嬉しい。
二部屋の洋室はどちらも八帖あり、充分なスペースがある。
バスルームも、以前まで住んでいた部屋よりもずっと広い。


八階建ての四階、立地的にも最寄りの三鷹駅から徒歩七分ととても便利だし、周囲に必要なお店もある程度揃っている。
食費や光熱費は完全に折半だが、料理は趣味だからという理由で舞美が請け負い、共有スペースの掃除は旭がしてくれている。
自室の掃除や洗濯は、それぞれに好きなタイミングで行う。
ゴミ出しの日には、舞美がゴミを纏め、彼女が出勤のついでに出しておいてくれる。


舞美はフリーライターという職業柄、取材のとき以外は家で仕事をすることが多いため、光熱費を少し多く出すことを提案したところ、旭が『掃除より料理の方が大変だからそこはいいよ』と笑顔で言ってくれた。
他には、彼女は荷物の受け取りに困らなくなったと喜んでいる。
平日であっても、舞美が家にいれば代わりに受け取っておくからだ。


しかも、一人暮らしのときには敬遠していた猫も迎えられた。
といっても、これは旭としっかりと相談し合い、本当に飼うのではなく預かりボランティアという形を取っている。


ルームシェアは二年間だけの約束のため、一緒に飼うことは難しい。
かと言って、どちらかが飼ってももうひとりも情が移って離れたくなくなってしまうだろう。
二匹飼って一匹ずつ引き取ることも考えたが、猫同士の仲がよくなったらかわいそうだ。
そこで、舞美が仕事で知った預かりボランティアを提案したところ、彼女も賛成してくれた。
そして、ルームシェアを始めて約半年後が経った昨年の十月下旬に、初めて猫を預かることになった。


実は、モチ丸は二匹目の子だ。
最初に預かりボランティアをした桃吉(ももきち)は、半年ほど前に飼い主が見つかった。
別れるときは寂しかったし、この家に馴染んで甘えてくれるようになった桃吉がいなくなった喪失感は大きかったが、新しい家でリラックスしている写真や動画が送られてきた日にはふたりでビールを飲みながら泣いた。
そうして、どちらからともなく『また預かりボランティアをしよう』と言い、モチ丸がやってきたのだ。


こんな感じで日々くらいしているが、今のところお互いに相手への不満はない。
恐らく、ウマが合うというのはもちろん、ふたりの生活習慣が似ていることも大きな要因だろう。
夜にきちんとお風呂に入るとか、電気はこまめに消すとか、洗い物はその日のうちに終わらせておくとか。
こういう小さな習慣が合うだけで、とても暮らしやすいということを知った。


「桃吉も可愛かったけど、モチ丸も可愛いし、こうして舞美の料理を食べながら飲むお酒はおいしいし、私はもう充分満たされてるよ……」
「それは私も同じだけどさ、一応お互いに結婚願望はあるわけだし」
「そうなんだよねぇ。結婚願望が完全になくなればいいけど、まだそこまでは割り切れないのよ。むしろ、最近は出産報告ラッシュでまた焦ってるし」


数日前、舞美も高校時代の友人から第一子が生まれたというメッセージをもらった。
旭はあまり仲良くなかった子だが、名前くらいは知っているだろうと思って話したところ、二年生のときに委員会が同じだったらしい。


ふたりして、祝福する気持ちと一緒に、ほんのりと複雑な感情を抱いた。
あのときは、彼女がいなければもっと不安や寂しさ、焦りに襲われていたかもしれない。
それでも、『友達の幸せを願えない奴は幸せにはなれない!』と自分たちに言い聞かせるような綺麗事と強がりを言い合って、ふたりでお酒を飲んだ。


三十三歳と言えば、学生時代の友人たちはほとんど結婚しているし、中にはすでに三人以上の子どもを出産した子もいる。
結婚ラッシュが落ち着いたと思ったら、続いてやってきたのは出産ラッシュだ。
トークアプリには毎月のように出産報告が届き、仕事関係でも同じような知らせを聞く。
旭の職場は四十代でも独身の女性が数人いるらしいが、それでも彼女も舞美と似たような感情を抱いているようだった。


女性というのは、どうしてこんなにも面倒くさくて生きづらいのか。
学生時代には学年のヒエラルキーに悩まされ、社会人になったら急に結婚が話題に上がるようになる。
アラサーが近づけば、結婚ラッシュが始まる。
それとともに、周囲からのプレッシャーまでついてくる。
いつからか、まだ結婚もしてないのに『早く結婚して子どもを産んだ方がいいよ』なんてお節介な言葉までもらうようになった。


かといって、順調に結婚と出産を経た友人たちも、義実家との関係や育児に悩んだり子どものために仕事を調整して職場で肩身の狭い思いをしたりと、手放しで幸せそうには見えない。
だいたい、若いうちに授かり婚をすれば冷たい目を向けたり、産休や育休を取る者にはいい顔をしなかったりする人もいる。
そのくせ、結婚や出産を急かすなんておかしな話だ。


そもそも、こちらの人生に責任を取るわけでもないのに、周囲は本当に無責任に勝手なことばかり言ってくれる。
男性にも男性なりの苦労はあるだろうが、この女性特有の生きづらさは女性同士でしか共感し合えないものだろう。


「あー、もう……。自分の人生を楽しく生きてるだけで、なんでこんなに肩身の狭い思いをしなきゃいけないのよ」
「令和だっていうのに、結婚してないってだけで口うるさく言われることもあるし、この歳で独身だと生きにくいよね。私は家でひとりで仕事をすることも多いからまだいいけど、旭は上司とか同僚の女性にも結構言われるって言ってたもんね」
「そうなんだよ! 会社でも実家に帰っても、みんなお節介ばっかり。親はまだわかるよ? 心配かけてるのも申し訳ないと思ってる。でも、会社でしか付き合いのない同僚と上司、正月くらいしか会わない親戚までこぞってうるさいのなんのって……」


ため息をついた旭は、会社でよく結婚や出産について言われるらしい。
同じ部署にお節介な上司と同僚の女性がいるようで、彼女はそのふたりに辟易している。


「また婚活でもしてみる?」
「あ~……私、向いてないんだよね」
「それは私も同じだけど……」


渋い顔をした旭に、舞美も共感しつつ「でも出会いもないよね」と続けた。
彼女は職業柄、それなりに男性とも出会うようだが、『仕事関係の相手は嫌』と言うのが口癖だ。
あのときの男性のせいで、どうにもトラウマになっているらしい。
舞美も、取材相手として独身男性と会うことも少なからずあるが、そこまで深くは関わることもないため、恋愛には発展しない。


そんな状況を嘆いて、実はふたりで婚活をしてみたことがある。
といっても、街コンとパーティーに二回ずつ参加しただけだったが、お互いに玉砕した。
正式には、マッチングはしたものの、二度目に繋がらなかったのだ。


「なんかこう……せっかくカップルが成立しても、気を使って食事するより早く帰って舞美と飲みたいって思っちゃって」
「左に同じだけど、私たちこんなこと言ってるとやばいよね……」
「それは言わないで!」


眉を下げて絶望感を浮かべる旭が、二本目の缶ビールを取りに行く。
その間にスマホで婚活パーティーを検索した舞美は、彼女が戻って来るや否や「お盆もやってるみたいだよ」と告げてみた。


「やめてよ~。せっかくの貴重な長期休暇を婚活に使いたくない」
「でも、普段の土日も嫌だって言うでしょ?」
「それはそう。でも、嫌なものは嫌だし……」
「じゃあ、彼氏はいらないの?」
「……今は」
「私たち、今年三十三だよ。旭は今月、私は再来月が誕生日だし」
「それも言わないで!」


耳を塞ぐような真似をした旭が、現実から逃げるようにビールを一気飲みする。
舞美自身も、自分の言葉が耳に痛かった。


「だってさ、今が楽しいじゃん!」
「それはまあそうだけど」


相槌を打つ舞美に、彼女がグッと身を乗り出すように体を近づけてくる。


「彼氏がいないと寂しいし、将来に不安もあるよ。でも、こうやって一緒に住んでると愚痴を聞いたり相談に乗ってくれたりするし……女同士だと共感し合えることも、男が相手だと聞いてほしいだけのときにアドバイスくれたりするじゃない?」
「うん、まあ……」
「そういうのはいらないの! 今の私はただ話を聞いて共感したり寄り添ってほしかったりするだけなの! ってなるわけ。でも、相手にしてみれば良かれと思って言ってくれてるわけだから、無下にもできないというか……」
「そうだねぇ」


舞美にも、似たような経験は多々ある。
相手の思いやりだったとしても、今はアドバイスをするよりもただ話を聞いて寄り添ってほしかった……と思ったことは一度や二度じゃない。
その点、旭と話していると、話を聞いてほしいときには耳を傾けてくれ、本当に悩んでいてアドバイスしてほしいときにはそういったものをくれる。
この絶妙な感じは、今までの恋人との関係性では得られなかった。
もちろん、偶然だったり相性の問題だったりするのかもしれないが、それでも事実なのだ。


「でしょ?」
「うん。私は、こういう宅飲みってあんまり好きじゃなかったけど、旭と住むようになって宅飲みのよさを知ったんだよね」
「あ~、前に言ってたね」


舞美は苦笑しながら首を縦に振り、空になったビール缶を意味もなく指でつつく。


「元カレは宅飲みが好きだったけど、買い出しも準備も片付けも私がしなきゃいけなかったから面倒くさくて。家で飲めるのってラクだけど、仕事が忙しいとそれどころじゃないし、そうじゃなくても片付けがしんどいときもあるじゃない?」
「それはそうだね」
「でも、飲んだらシたいって言われて……そのままベッドに行くのはいいけど、夜中とか翌朝に散らかったままのテーブルを見て疲れるんだよ。元カレが二日酔いで八つ当たりしてきたら、もっと最悪だったなぁ」
「うわ……。いや、でもそれはやっぱりあいつが最悪だっただけじゃない?」
「それも否定はしないけどね」
「まあ、私も前はあんまり宅飲みしなかったけどさ。ひとりだと気楽だけど、味気ないし、私は誰かと話しながら飲むのが好きだから」


旭は、『お酒は好きだけどひとりで飲むのは好きじゃない』と再会した当初からよく言っていた。
だから、ルームシェアをする前には週に二回は外で飲み、特に話し相手をしてくれるバーや個人経営の居酒屋の常連だったようだ。


「かといって、相手が彼氏だと醜態は曝したくないし、一応可愛いって思われたいから付き合ったばかりだとメイクも落とさないようにしてたのよ。だから、リラックスできないっていうか、宅飲みのメリットを感じ切れてなかったな」


旭が残っていた冷しゃぶサラダを綺麗に食べ切り、ふう……と満足げに息を吐いた。


「その点、今はこのリラックスモードでも気兼ねしないし、飲んだあとはここで寝れちゃうし」
「ふたりでリビングで朝まで寝てたこともあったね」
「あったあった。最近は気をつけるようになったけど、最初の頃はだいたい寝落ちしてたよね」
「いい歳して、がっつり二日酔いになったりしてさ」
「今は上手く飲めるようになったよね。二日酔いしない程度にお酒を楽しんで、ちゃんとふたりで片付けてから自分の部屋で寝てるし」
「成長したねぇ」
「っていうか、飲みすぎたあとの回復力がね……。年々、お酒が抜けるまでに時間がかかるようになってきてる気がするから、昔ほど飲めなくなったし」


その言葉が合図だったように、ふたりして三本目には手を出さずに水にした。
週末ということもあってか、他愛のない話がダラダラと続いていく。
けれど、舞美はいい加減に眠くなってきて、グラスに残っていた水を飲み干した。


「そろそろ寝ようか」
「そうだね。私もさすがに眠くなってきた。私、明日は買い物とネイルに行ってくるけど、舞美はなにするの?」
「仕事する予定だよ。私もお盆は休みたいし、前倒しで原稿書いておこうと思って」
「じゃあさ、晩ご飯は買ってくるから作らなくていいよ。お酒は程々にして、ゆっくりおいしいものを食べようよ」
「うん、いいね」
「食べたいもの、明日までに考えておいてね」
「了解」


ふたりの会話を聞いているのかいないのか、モチ丸はカーテンの隅っこで身を隠したままだ。
片付けを済ませて仲良く歯を磨いたあと、舞美と旭はリビングにモチ丸を残してそれぞれの自室で眠りに就いた――。