「そう言えば、また空手部に誘われたよ」

 食べ終わった弁当を重ねて片付けていると、玲の困ったような、迷っているような控えめな声が耳に届く。
 オレの心臓は玲の言葉にズクリと変な音を立てた。
 そして浮上していたはずの気持ちも一気に落ち、地面に転がりはじめる。

「…入ればいいだろ」

 大人気(おとなげ)ない子供っぽい反応と頭の隅っこで思いながらも、フンと顔を横へ背けた。

「でも、こーは入らないんでしょ」
「当たり前だ。オレはもう辞めてるんだから」

 そう幼少の頃に通っていた空手の道場をオレは辞めていた。
 理由は、目の前の男ーー玲だ。

 玲に「守る」と約束して、より一層、空手へ熱量は上がった。
 単純に「カッコいいから」という、なんとなくだったものが明確な意思をもって稽古に励めるようになった。すぐに結果は出た。オレは同世代の中でポコリと頭を一個分抜きに出ていた。
 でも、それは長くは続かなかった。

『僕も、空手やる』

 いつも物陰に隠れるようにしていた玲が、強い眼差しでまっすぐに言葉を発した。
 はじめてみる玲の強い意思を感じさせる姿に驚いたものの、玲も一緒なら楽しいなって思ったし、オレの強くてカッコいいところを見せることもできるし、いいことしかない、最高のアイディアだと思ったから「いいじゃん! やろう!」と返した。

 まさか、そこから描いていた未来から大きく(くる)い始めるなんて想像もしていなかった。

『やぁっ!』
『ぐっ‥』

 道場内の組み試合。見事に鳩尾(みぞおち)に入った(こぶし)にはサポーターがついているはずなのに油断し切っていたオレにはなかなかの衝撃が走った。

『やめ、そこまで』

 しかもその相手がーー…

『やった…! こーに1本入れれた…』

 守ると決めた存在の玲だったのだから。
 油断していたというのはあった。でも、それでも、まさか玲に1本取られるなんて。オレは呆然と、嬉しそうに笑う玲を眺めた。

『楽しいね、こー』

 たまたま、そう、たまたまだ。

『…そうだろ? 今度は負けないぞ』

 すぐに気を取り直した。
 油断してたから、それに本気を出したら玲が負けて泣いちゃうから負けてあげたんだ。

『うん。僕も負けない! 強くなるんだ』

 同じ男、強くなりたい気持ちは理解(わか)った。
 でも、自分より小さくて弱々しい玲がこれ以上、強くなれないだろう。


 守ると言いながら、オレは玲を軽んじていたのかもしれない。
 そんな風に思っていたからか…バチが当たった。

 玲の身体はニョキニョキとたけのこ並に伸びて大きくなり、同じくらいの背丈になったと思えば、目線は上に。
 武道の道で体格は不利有利は関係ない…なんてことはない。フィクションの漫画の世界だけ。攻撃範囲(リーチ)の差がどうして出てきてしまう。

 数年も経たずして、あっという間に玲に追い抜かれてしまった。

『優勝、辻村 玲』

 頭がいいわけでも、顔がいいわけでもない。
 子供ながらの運動がちょっとできるということが以外、平凡なオレのプライドはポキッと折れた。

 玲が悪いわけじゃない、けれど、惨めな気持ちになってしまったのだ。
 唯一の自信でもあったものがなくなった。
 その原因は玲で、大切な幼馴染で。これ以上、空手を続けたら、玲のことが嫌いになりそうで、そんな風になる自分も嫌で、オレは辞めることにした。

 空手にすごい思い入れがあるわけじゃなかったら、案外、すっぱり辞めることができた

『こー。なんで、辞めたの?』
『飽きたから』

 オレの返事に玲は眉を八の字にして困ったような悲しいような表情を浮かべた。

『こーがいないなら、僕も…』
『辞めるなよ』

 オレはひねくれている。自覚はある。

『え?』

 自分は逃げたくせに、玲に続けて欲しかった。幼い頃と変わってしまったけれど、カッコいいと思う気持ちもあったから。オレみたいな、くだらない理由で辞めてほしくなかった。

『強いんだから』
『でも…』
『空手やってる玲、かっこいいし』

 これも本心。負の感情がある反面、憧れ以上のまぶしさを玲に感じてしまっていた。その強い光は意識せずにはいられない。

『こーが…そういうなら…』


 かくして玲はオレとの言葉通り空手を続けている。
 高校の部活に誘われるぐらいに、空手界の中ではそれなりに有名人である。

「せっかくだし、この機会に復帰してみない?」
「無理無理。誘われてるのは玲。平凡な成績しか残せなかったオレはお呼びじゃないって」
「そうだけど…そうじゃないっていうか…」

 こうして誘うくせに玲の言葉は歯切れが悪い。
 高校生になったいま、薄々気づくことがあるのだろう。

「てか、お前は道場と部活の両立なんてハード過ぎだろ。遊ぶ時間減っても知らねぇぞ」
「それはイヤだ」

 オレの言葉に即答する玲。
 その反応にオレはニッと笑い返す。

「んじゃ、この話は終わりな」
「そうだね」

 まいった、とでも言うように両手を小さく上げた玲。 
 玲にモヤモヤすることはあるけれど、それで暗い空気になってしまうのはイヤだし。あと結局は、青春真っ盛りのオレ達は遊びたい盛りと言うことなのである。