葉加瀬(はかせ)、やったな。今月もお前が断トツのトップだよ」


クライアントからの電話を切った私に、部長が声をかけてきた。


「本当ですか!?」

「ああ。この調子だと、同期の中で一番に課長職に昇格する日もそう遠くはなさそうだな」


部長の言葉に、私は思わず頬が緩む。


私――葉加瀬律子(りつこ)は大手総合商社の営業部で働く29歳。


新卒で入社して今年で7年目。


9割が男性のこの男社会では、今でも女性は軽視されたり舐められることも少なくはない。

けれど、逆にそれが私の闘争心を燃やし、男性には負けじと地道に努力した結果、今では営業部のトップにまで上り詰めた。


「先輩!さすがっすね!」

「ありがとう。でも、どうしても締切までにねじ込みたい案件がまだ残ってるから、それをなんとかしないことには安心できないかな」

「…マジでストイックすね」

「だからみんな、締切終わったら飲みに付き合って」

「「もちろんっす!」」


ありがたいことに、私は後輩から慕われているようだ。

私のような営業マンになりたいと言ってくれる後輩も多くて、同期やきっと同い年の中でも順風満帆な社会人生活を送っているほうだと思う。


もちろんトラブったりしたら大変なときもあるけど、なにより今の仕事が私に合っていて毎日が楽しい。


――ただ。


クライアントとのアポまで会社でデスクワークをしていると、そばに置いていたスマホが震えた。

見ると、母からのメッセージだった。


【さっき聞いたんだけど、ミナちゃんところも来年結婚するらしいわよ。律子は最近どうなの?】


私はため息をつき、返信することなくスマホの画面を伏せた。


仕事が大好きで、自分でも順調すぎるくらいの日々を送っているけど、…プライベートに関してはさっぱりだった。


学生の頃、周りの女の子は好きな人や彼氏について一喜一憂していたけど、私はそういう人たちとはジャンルが違った。

だれかに合わせてまでワイワイやるというよりも、1人で趣味やら勉強やらに没頭するほうが楽しかった。


だから、私にはほとんど友達がいなかった。

偏屈な性格ということもあるけど、見た目もオシャレとは程遠いお下げにメガネ。


あだ名は、なんのひねりもない『優等生』と呼ばれることもあれば、『サボ()』とも呼ばれた。

『サボ子』とは、ツンケンした私の言動がサボテンみたいということから、そのあだ名がつけられた。


そんなかわいげもないトゲトゲした私と違って、高校の同級生の中にはまるであのことわざをかたちにしたような人がいた。


『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』


立っても座っても歩いていても、自然と人々の目を惹きつけるような女の子。

それが、高校3年間すべて同じクラスだった小花(おばな)ゆめ。


立ち居振る舞いは柔らかく女の子っぽくて、おまけにだれに対しても愛想がよくて、彼女の悪口なんて聞いたことがない。

ゆるふわの茶髪のロングヘアは毎日違うアレンジをしてきて、オシャレで女子力が高い。


女にとってはなりたい憧れの存在で、男にとっては理想の彼女像だった。


そんな花のような小花さんのことを、私はことわざから取って『ユリさん』と呼んでいた。


ただ、本人に向かってそう呼んでいるわけではない。

私が心の中で1人で勝手にそう呼んでいるだけ。


人気者のユリさんは、私とは真逆の人間だった。

そんなユリさんに、実は私も密かに憧れを抱いてはいた。


みんなから慕われて、花に吸い寄せられる蝶のようにイケメンが寄ってきて。

私には絶対に経験できないようなキラキラと明るい世界にいる人――。


憧れてはいるけど、私とは無縁の人だからこそ苦手だった。

自分でも変なことを言っているのはわかってはいるけど。


3年間クラスが同じだったけれど、真逆な私たちが関わることはほとんどなく、話したとしてもクラスメイトとしての事務的な会話くらいだった。

ユリさんにとっては、きっとこんな私はクラスメイトAやBという位置づけどころか、Eくらいにしか思っていなかったことだろう。


母からのメッセージで、ユリさんならとっくにイケメンと結婚して、専業主婦生活なんかを謳歌してるんだろうな。

なんていう勝手な妄想をしてしまっていた。


実際のところ、ユリさんが今、どこで、なにをしているかは知らない。

でも、もう29歳だから、結婚くらいはとっくにしているような気はする。


きっと仕事に生きる私とは、これまた真逆の生活をしているのだろう。


こんなふうなメッセージが母から届くことはしばしばある。

母なりに、浮いた話が一切ない私のことを心配してくれているのだろう。


ただ、私にとってはそれが煩わしかった。


私だって、結婚に興味がないわけではない。

いい人がいたら、してみたいなとも考えてる。


そんな私に、1年ほど前に転機が訪れた。


アプリで出会った人と付き合ったや、友達がそれで結婚したという後輩の話を耳にした私は、なんとなくマッチングアプリに登録した。

初めてのマッチングアプリでよくわからなかったし、たいして期待もしていなかった。


しかし、私はそこで初めてマッチングした人とお付き合いすることになったのだ。


名前は、陽太(ようた)

大手広告代理店に勤務する27歳だ。


これまで数人と付き合ったことはあるが、みんな年上の理系っぽい人たちばかり。

それに比べて陽太は私の2つ下だが、私が経験したことのないような甘え上手の弟キャラだった。


それが私の母性本能をくすぐり、さらに猫好きの私にとっては陽太も猫のように思えてきて余計にかわいい。

おまけにイケメン。


前世で徳を積んだのだろうかと思うくらい、私史上最高の彼氏と今お付き合いしている。


今までは長く付き合っても半年くらいだった。

しかし、陽太とはこれといったケンカもなく順調に続いている。


この歳にもなれば、1年程度付き合って結婚というパターンも珍しくないし、もしかしたら私も…なんて考えは頭の片隅にはあった。


これで母にいい報告ができると思っていた矢先、3つ下の私の妹が結婚。

しかも、授かり婚というやつだ。


もうすぐ孫が生まれるとなり、母は今私のことなどそっちのけで、妹ばかりに世話を焼いている。


だから、結婚はまだか等の話はされなくなった。


もし聞かれたら陽太のことを話そうと思っていたけど、聞かれないのならそれはそれで助かる。

またおいおい話そう。


そう思っていた私だったが、ある日、とんでもないものを目撃してしまう。


その日、私は珍しく定時に退勤した。


「あれ?先輩、今からアポっすか?」

「ううん、今日はもう上がり。このあと予定があって」

「そうなんすね。お疲れさまでした!」

「お疲れさま」


オフィスを出たところですれ違った後輩と軽く立ち話をし、私は足早に会社を出た。


実は今日は、前々から陽太と食事の約束をしていた。

18時に時計広場に集合。


時計広場は、いつも陽太との待ち合わせに使う場所。

マッチングアプリで出会い、初めて陽太と会うとなったときの初めての待ち合わせがここだったから。


これまで陽太とは何度もデートをしたことはあるが、私にとっては今日は特別な日だと思っている。

なぜなら、陽太と付き合ってちょうど1年になる記念日だから。


いつもなら、会うとなっても急に決まることが多かったが、今回は1ヶ月ほど前から言われていた。

陽太がお店も予約しておくと言っていたから、どんなところか楽しみだった。


『律子ちゃん、結婚してください』


ふと、頭の中でそんな妄想をしてしまった。


でも、特別な日に食事となると、その可能性もあるんじゃないかと思わざるを得なかった。


私スーツだけど…、大丈夫かな。

ドレスコードが必要なお店とかじゃないよね。


陽太が現れるまでドギマギしながら待っていた。


しかし、約束の時間から10分たっても、20分たっても陽太は現れなかった。


…おかしいな。


私は陽太に電話をかけたみることに。

少し前から陽太は仕事が忙しいらしく、あまり連絡を取れていなかった。


だからこそ、今日の約束をとても楽しみにしていた。


久々の陽太への電話に、コール音が鳴っている間やけに心臓がドキドキしていた。


〈もしもし、律子ちゃん?〉


陽太が電話に出た。


「あっ、陽太。今、どこに――」

〈こんな時間に律子ちゃんから電話なんて珍しいね。まだ仕事じゃないの?〉


陽太の問いかけに、私は一瞬言葉に詰まった。


「…えっと。早く仕事終わらせて、今…待ち合わせの時計広場にいるんだけど」


私がそう言うと、まるで電話が切れてしまったかのように陽太からの返事がなくなった。


それで悟った。

陽太は今日の約束を完全に忘れていたということを。


〈ごめん、律子ちゃん…!オレ、そんな約束してたっけ…?〉

「う…うん、だいぶ前に」


少しだけ――いや、かなりショックだった。

もしかしたらプロポーズされるかもと思っていたが、まったくの私の妄想だったと気づかされて。


「私ならまだ待ってられるけど、今から陽太これそう?」

〈…ごめん!今から、クライアントと打ち合わせで…〉

「そっか。それなら仕方ないね」


悟られないように声のトーンには気をつけたが、内心ものすごく落ち込んでいた。


そのとき、陽太の声の向こう側から救急車のサイレンの音が聞こえた。

と同時に、私の目の前の通りを救急車が走っていく。


「もしかして陽太、今時計広場にいたりするの?」

〈…あ、いやっ……。……うん、まあ、クライアントとの待ち合わせ場所に使ってて〉


このどこかに陽太がいる。

しかし時計広場は広く、私たちのような待ち合わせに利用する人たちで溢れかっている。


いくら陽太もいると言っても、この人混みの中から見つけ出すのは非常に困難。

それにまだ仕事中みたいだし、顔を合わせたらきっと迷惑だろう。


〈…ごめん、律子ちゃん。相手の人きたから、電話切るね…!〉

「うん、わかった。私のほうこそ、大変なときに電話しちゃってごめんね。仕事がんばって」


そう言って、私は陽太との電話を切った。


約束を忘れられていたからといって、陽太を責めるつもりは一切なかった。

私も仕事が長引いて約束に間に合わなかったことは何度かある。


だから、お互いさま。


そう思い、家に帰ろうとした――そのとき。


私の目の前を通り過ぎた女性からフルーティーな香りが漂ってきた。

私好みの匂いで、どこか懐かしさも感じた。


思わず振り返ると、男性と腕を組みながら歩く茶髪のロングヘアをゆるく巻いた女性の後ろ姿があった。

フェミニンな女性らしいワンピースを着ている雰囲気からしても、香水の香りとお似合いだった。


あの男女のように、デートの待ち合わせをするカップルがここにはたくさんいる。

だから、あの2人もその中のうちの1組。


そう思っていたら、隣を歩くフェミニンワンピースの女性に顔を向けた男性の横顔を見て、私は息をするのも忘れて驚いた。


なんと、女性に腕を組まれてにやけた表情を見せながら歩く男性は――。

今日私が会う予定だったはずの陽太だったのだ。


今からクライアントに会うと言っていた陽太が、……なんで?

もしかして、あの隣の女性がクライアント?


いやいや。

腕なんか組んで、どう考えたってそんなわけがない。


私としたことが一瞬動揺したが、すぐに悟った。

そうか、私は浮気されたのだと。


意外と冷静に今の状況を分析することができた。


なぜなら、そもそも陽太みたいなモテるような人種が、私みたいな地味な女1人と付き合うはずもないのだから。

こんな私だから、浮気されるのにも納得がいく。


それにしても陽太、脇が甘いにもほどがある。

浮気相手とのデート日を、完全に忘れていた私との約束と同じ日の同じ場所で待ち合わせるだなんて。


浮気現場を目撃して、私は一瞬にして陽太への気持ちが冷めた。

このまま無視して、自然消滅させればいいだけのことだが、…それだけではなんだか癪。


せめて、文句のひとつくらい直接言っておかないと気が済まない。


「ちょっと陽太」


私は陽太たちのあとを追いかけて、後ろから声かけた。

すぐに振り返ったのは女性のほうだったけど、私はその女性には脇目も振らずに一直線に陽太を睨みつけていた。


私の声だとわかって、陽太がおそるおそる振り返る。

浮気現場を見られて、明らかにばつの悪そうな顔をしている。


「陽太くん、知り合い?」


フェミニン女性からの問いに対しても、黙ってうつむいたままの陽太。


「ひとつ言わせてもらうけど、べつに私は陽太に他に彼女がいたっていいんだよ?ただ、どうして私との関係を続けたまま、そういう中途半端なことができるのか私にはわからないって話で」


ただただキレ散らかすヒステリック女とは思われたくない。

でも他で付き合うなら、まずは私との関係にけじめをつけるべきだ。


「そんなふうに曖昧に物事を進めていると、いつか仕事でも同じ失敗をすることになるよ。陽太って、ちょっとうまくいったらすぐ調子に乗っちゃうところがあるから、そういうところは気をつけないと――」

「…あの、もうそのへんでいいですか?」


陽太が面倒くさそうにつぶやいて、私の話を遮った。


「さっきから説教じみたことを言ってますけど、勝手にオレのことを知ったような口ぶりで話さないでもらえますか?」


そう言って、陽太は私を鼻で笑う。


「…待ってよ。知ったような口ぶりって、私たち――」


反論しようとした私だったが、陽太は私ではなく隣にいた彼女に視線を向ける。


「ごめんね、びっくりさせちゃったよね。この人、前にマッチングして一度だけ会った人なんだけど、そこからしつこく付きまとわれてて」


それを聞いて、私は言葉を失った。


“一度だけ会った人”…?

“しつこく付きまとわれてて”…?


…なにそれ。

『律子ちゃんが好きです。付き合ってください』って言ってきたのは、陽太のほうじゃない。


陽太は私に謝罪するわけでも言い訳するわけでもなく、私とは赤の他人のフリを突き通そうとしていた。

敬語で話しかけてきたからおかしいなとは思ったけど。


「そうなの?付き合ってるわけじゃないの?」

「違う違う!オレ、そんなことしないよ。だから、この人の言うことは無視してくれていいから」


驚いたことに、すべて陽太のペースに持っていかれた。

まるで、本当に私が陽太の付きまといのような展開になっている。


…でも、これ以上私がなにか言ったところで事態がひっくり返るわけでもない。


このフェミニン彼女、よく見たら陽太が本当に好きそうなタイプだ。

ふんわりとしたロングヘアのかわいらしい年下っぽい女性。


それに比べて、私はいかにもバリバリ仕事してますよオーラのスーツを着た地味な女。


見るからに陽太とは釣り合わなさそうだし、『私が本当の彼女』と言ってだれが信じるだろうか。

…いや、この場のだれに信じてもらいたいというのだろうか。


せめて最後に――。


「てめぇ、ふざけんな。嘘ばっかついてんじゃねーぞ!」


と言って、陽太の頰に思いきりビンタを食らわせたかった。


…でも、もうどうでもよくなってきた。


「早く行こ…!じゃないと、ずっと付けてくるから」


陽太は彼女の手を引く。

そんな彼女は、私のことをじっと見つめていた。


私のことを憐れんでいる…?

それとも、変なオバサンとでも思って蔑んでいる…?


どちらにしても、こんな屈辱的な思いは初めてだった。

私は唇を噛みしめ、その場でうつむくことしかできなかった。


――そのとき。


「てめぇ、ふざけんな。嘘ばっかついてんじゃねーぞ!」


突如として、そんな声が聞こえて私ははっとして顔を上げた。

無意識に、私が心の声を漏らしてしまったのでは。


そう思ったが、同時にパァァン!という爽快感あふれる音まで鳴り響いた。


見ると、さっきのフェミニン女性が陽太の左頬に思いきりビンタを食らわせていたのだった。

あまりにも衝撃的な場面に、私を含め、周りにいた人々は足を止めて凝視する。


まさかとは思ったけど――。

とてもきれいとは言い難いさっきの言葉を発したのは、…あのゆるふわ彼女!?


さらにフェミニン女性は左頬を赤く腫らした陽太の胸ぐらをつかみ、私の前に投げ飛ばす。


「土下座して彼女に謝れ!それで許されるわけじゃないけど、今のあんたにはそれくらいしかできないんだからっ」


ギャップがありすぎるフェミニン女性に、周りはぽかんとしている。

陽太もこんな一面があるとは知らなかったのか、ただただ驚くばかりだったけど、彼女の気迫に圧倒され私に向かって情けなく土下座をした。


「…う、嘘ついて、…すみませんでした」


大勢の人の前で公開処刑された陽太は、それだけ言ってそそくさと立ち上がると、逃げるようにして走っていった。


「女バカにするのも大概にしろ!この、〇〇〇〇野郎!」


フェミニン女性は、そのかわいらしい顔からでは想像できないほどの暴言を最後に陽太の背中に浴びせた。


公共の場で、その発言…。

完全に、“ピーーー”が入るレベル。


…驚いた。

でも、それ以上に胸の中がスカッとした。


私が言いたかったことを、彼女が言ってくれた。

しかも、強烈なビンタまでお見舞いして。


だけど、…この人って陽太の新しい彼女じゃないの?

普通は、私なんかよりも陽太を優先するんじゃないの?


そう思っていると、フェミニン女性が私の方を振り返った。


「…こめん!わたし、やりすぎちゃったかな!?」


まるで彼女は怯える小動物のようで。

同じ女の私から見ても、とってもかわいらしかった。


だから、あんな言動をした人だとは未だに理解しがたい。


ただ私とは真逆の人種で、勝手に第一印象から苦手意識を持っていた。


「で、でも…、どうして私なんかの味方に?」


こんな会ったばかりの地味なサボテン女、庇ったところでなんの意味もないというのに。


――すると。


「当たり前じゃん。葉加瀬さんが嘘つくわけないんだから」


そう言って、フェミニン女性はにこりと笑った。

しかし、私はドキッとする。


「えっ…と、私…名前言いましたっけ…?」


おそるおそる尋ねるわたしを見て、彼女はクスッと笑った。


「葉加瀬律子ちゃんだよね?あれっ、気づいてない?わたしだよ!」


と言って、自分を指さすフェミニン女性だけれど、わたしは難しい顔をして首をひねる。


…知らない。

こんな年下の女の子。


そう思ったけれど、私の頭の中でなにかが駆け巡った。

思い起こされるのは、高校生のときの記憶。


「もしかして…」

「思い出してくれた?わたし、小花ゆめ!」


そうだ。

このゆるふわな髪と女性らしい振る舞いで気づくべきだった。


彼女は、高校のとき一番モテていた女の子。

私とは真逆の存在。


そして、私が最も苦手な人――。
マッチングアプリで知り合った彼氏の陽太の浮気現場を目撃してしまった私。

新しい彼女の目の前で、屈辱的な振られ方をされた私だったけど、まるで私の言葉を代弁するかのように陽太を圧倒しビンタを食らわせたのは、まさかの陽太の新しい彼女だった。


しかもそれは同じ高校の同級生、小花ゆめで――。



「ほんと陽太く――じゃなくて、あのカス!ありえないね」


私の隣で、正面にある鏡に向かって言葉を吐き捨てるのは、さっき偶然再会したばかりの小花さん。

私の中では、『ユリさん』と呼んでいる。


ここは美容院。


どうしてこんなところにきているかというと、急遽あのあとユリさんが私を連れてやってきた。

今から予約なしで2人同時に入れるところ。


1軒目、2軒目と断られた。

だけど、3軒目に訪れた美容院で、2人を1人で担当するから片方が待つことになってもいいなら、という条件付きで入らせてもらうことができた。


私たちはカットクロスをつけられた状態で、隣同士の席に座っていた。


「…で、どうして美容院?」


もともと、もうすぐ美容院の予約を取るつもりだったからべつにいいんだけど、あの流れで美容院にくる意味がわからない。

すると、ユリさんはにんまりと笑った。


「そんなの決まってるじゃん。今から髪を切ってもらうんだよ」


ますますわけがわからなかった。

するとそこへ、担当する美容師さんがやってきた。


「こんばんは〜。急遽、お友達と髪を切りにこられたんですか?」

「そうなんです!よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします。それで、どんな感じがいいとかありますか?」

「はい。ここまでバッサリと切っちゃってください」


そう言って、ユリさんは顎のラインのところに、ハサミを模した自分の手で髪を挟んだ。

それを見た私はぎょっとして目を丸くする。


「…えっ!?そんなところまで!?」


さすがの美容師さんも私と同じように驚いている。


ユリさんの髪は、ロングヘアなのに痛みもなく美しい。

今のままですごく似合っているというのに、そこまで切ってしまったら一気に印象が変わってしまうけど…。


「30センチは切ることになりますが…、いいんですか?」

「はい!そうしたくてきましたから」


ユリさんの言葉に迷いはなかった。


「じゃ…じゃあ、切らせてもらいますが、初めにご自身でハサミ入れてみますか?」

「いいんですかっ?」


ユリさんは美容師さんからハサミを受け取る。

すると、ためらいもなく顎の横にハサミを入れて一気に切ってしまった。


ゆるく巻かれていた髪がはらはらとクロスを滑っていく。


…本当に切った。

しかも、あんな思いきり。


今切った髪だって、陽太とのデートのためにスタイリングしてきたはずなのに。


「は〜、スッキリした!あとは適当にやっちゃってください」


そう言って、ユリさんは美容師さんにハサミを返した。


美容師さんの手により、ユリさんの長かった髪はどんどん短く整えられていき――。

あっという間に、ゆるふわのショートボブになっていた。


印象はガラリと変わったけど、顔がもともといいからショートになっても似合っている。


「次は、お姉さんの番ですね」


さっきまでユリさんの髪を切っていた美容師さんが鏡越しに私に視線を送る。


「準備してくるので、もう少しだけお待ちください」


美容師さんはユリさんのクロスを外すと、私たちに軽く頭を下げてお店の奥へと入っていった。


「葉加瀬さん、この髪どうかな?」


隣の席のユリさんが私のほうに顔を向ける。


「う、うん。似合ってると思うよ。…でも、どうしていきなり切ったりなんかしたの?」

「え?だって、昔から失恋したら髪を切るって定番じゃない?」

「失恋って、あれは陽太が振られたというか…」

「いいのいいの、どっちでも。そもそもわたし、ロングあんまり好きじゃないし。なんとなく伸ばしてたけど、いい機会だから切ることにしたの」


そう言って笑ってみせるユリさんの表情はとても清々しく見えた。


「だからさ、葉加瀬さんも切ってみたら?」


ユリさんは促すように私の顔を覗き込む。


私も肩甲骨くらいまである黒髪のロングヘア。


でも、普段は邪魔で後ろで髪をひとつにまとめている。

だから、たまに髪を下ろしたら周りからびっくりされる。


私が髪を伸ばしている理由はとくにないが、強いて言うならロングヘア好きの男性が多いから。

いざとなったときに、ショートよりもロングのほうが女性らしさを感じてもらえるからと思って。


現に、陽太はロングヘアが好きだった。

だから、伸ばしていてよかったとはそのとき思ったけど――。


『この人、前にマッチングして一度だけ会った人なんだけど、そこからしつこく付きまとわれてて』


また思い出したら腹が立ってきた。

なんであんなやつが喜ぶようにと、ロングヘアのケアも邪魔くさいのにきれいに保てるようにがんばっていたのだろう。


今思うと、バカバカしい以外のなにものでもない。


「お待たせしました〜。で、次のお姉さんはどうしましょうか?」

「ここまで切ってください」


そう言って、私は戻ってきた美容師さんに無表情のまま顎のラインに指を添えた。


「えっ!?お姉さんもバッサリと!?」

「はい。お願いします」



――30分後。


私の無駄に長かったストレートヘアは、顎のラインでブラントカットでまっすぐに切り揃えてもらった。

いわゆる『切りっぱなしボブ』。


美容師さんの提案で、前髪は流してクールさを出して。

私の印象もガラリと変わったけれど、自分好みの髪型に思わず感激してしまった。


「葉加瀬さん、いい!とっても似合ってる!」

「そ…、そう?」


ユリさんが大絶賛してくれて、私はあからさまに照れてしまった。


同じ長さまで切ってもらったショートヘアだけど、エアリー感漂うユリさんのかわいい髪型と、かっこよさを意識した私の髪型のテイストはまるで違う。

ただ、お互いの個性に合っていて、なんとなくで伸ばしていたロングヘアには未練もなにもなかった。


陽太のための髪型じゃない。

これが、私だ。


不思議なことに、陽太への想いは切った髪とともになくなってしまった。


『は〜、スッキリした!』


さっきのユリさんの言葉通り。

身も心もスッキリとした。



「予約もなしに、突然押しかけてしまってすみませんでした」

「いいえ、こちらこそお待たせしてしまってすみませんでした。ですが、お2人ともとっても素敵ですよ」

「「ありがとうございます」」


私たちは担当してくれた美容師さんにお礼を言うとお店を出た。


すっかり夜の装いとなった街の通りをユリさんと歩く。


「なんだか、ごめんね。高校卒業してもう10年以上たつのに、会っていきなりノリで美容院なんて連れてきちゃって」

「さすがに突然すぎて驚いたけど、きてよかった。ありがとう」


そういえば、まだ偶然の再会についてなにも話していなかった。

『え!上京してたの!?』とか、『久しぶり!こっちでなにしてるの?』とか。


でも、私たちはもともとそんなふうに話す仲ではない。


そもそも私は、陽太といっしょにいるユリさんには一切気づいていなかった。

なんだったら、4つくらい年下かと思っていた。


今思ったら、ユリさんから漂っていたフルーティーな香水の香り――。

あれは、ユリさんが高校生時代にもつけていたものだったから、なんだか懐かしさを感じたんだ。


それにしても、もし気づいたところで学生時代ほぼ話したこともない元クラスメイトなんて、気づかないフリをしてその場をやり過ごそうとしたことだろう。

再会のきっかけはあんなかたちだったけど、ユリさんは私に気づいてくれて、しかも声までかけてくれた。


「そういうところは、学生のときから全然変わってないね」


ユリさんを見て、私は思わず笑みがこぼれた。


「え?そうかな?でも、葉加瀬さんも全然変わってないからすぐにわかったよ」

「…私?」

「うん。高校のときも風紀委員で1人だけ大人っぽくてかっこよかったし、その印象が今も変わってなくて、自立しててバリキャリって感じで」


高校のときの風紀委員――。

校則を無視して髪を染めている人や、ピアスをつけている人たちを目に入れば注意していた。


それが風紀委員としての職務だと思っていた私だったけど、周りはそんな私をウザがっていた。


それなのに、当時の私のことを“かっこいい”と思ってくれていた人がいたなんて。


「今は、一応こういうところで働いてるけど…」


そう言って、私はおずおずと名刺を差し出した。


「えっ、すごーい!大手中の大手だよね!?」


自慢するつもりで渡したわけではないけど、そう思われてしまっただろうか。

とも一瞬思ったが、ユリさんは私の名刺を見て素直に驚いてくれただけだった。


「わたしは、なんとなーく入った会社でなんとなーく続けてるだけだから、バリバリ働く葉加瀬さん、ほんとすごい!」


社内では、『女のくせに』と未だに言われることがある。

だから、男性社員と同じ功績だったとしても低く見られたり。


だけど、ユリさんは私のことを純粋に『すごい』と言ってくれた。

会社や私の業務内容のことまでは知らないだろうけど、ただそれだけで私の自己肯定感を支えてくれたような気がした。


「そういえば、どうして私のことを信じてくれたの?」


私の問いにユリさんが振り返る。


「だって、陽太の言うとおり…私が陽太の付きまといの可能性だってあったわけだし」


自身なさげに話す私。

それを見て、クスッとユリさんが笑った。


「そんなの、今日会ったばかりのよく知りもしない男の言葉よりも、学生時代の知り合いの言葉を信じるに決まってるじゃん」


驚いたことに、ユリさんは今日初めて陽太に会ったんだそう。

きっかけは、私と同じマッチングアプリで。


親に結婚しろしろと言われて、なんとなく登録したのだそう。

マッチングアプリへの入りは、私の理由と同じだ。


「葉加瀬さんはいつでもまっすぐて、絶対に嘘はつかないって知ってるから」

「知ってるって言ったって…、私たちそんなに関わりなかったよね?」

「うん。でもわたし、そんな葉加瀬さんにずっと憧れてたから」

「…私のことを!?」


地味で『優等生』と揶揄され、風紀委員でウザがられ――。

そんな私に憧れを…?


「葉加瀬さんって、わたしとは真逆でクールでかっこよかったから。だから、葉加瀬さんをバカにされてつい頭にきちゃったんだよね」


そうだったとしても、ユリさんのかわいらしい見た目からあんな暴言が飛び出してくるとは思わなかったけど。

それに、こんなふうに2人だけで話ができるとも思わなかった。


だけど、所詮は上京した街で高校の卒業以来にたまたま会ったただの元クラスメイトという仲。

いろいろと話聞きたいから、これからご飯に行こ!という雰囲気になることもなく駅へと着いた。


「それじゃあ、私はここで」

「うん。気をつけてね」

「あれ?ユリさんは電車じゃないの?」


わたしが尋ねると、ユリさんはキョトンとして首を傾げた。


「“ユリさん”?」


…しまった!


私の心の中だけで呼んでいた呼び中が無意識に――。


「ご、ごめんなさい…。私、勝手に小花さんのことを“ユリさん”って呼んでて。遠くから見ててもユリの花みたいにきれいだと思ってたから、それで…」


勝手にあだ名を付けていたなんて知って、きっと変だと思われた。

ただでさえ、学生の頃から地味で変なやつと思われていたはずなのに。


――ところが。


「そんなふうに思ってくれてたんだ!うれしい」


そう言って、ユリさんはふわりと笑った。


「じゃあ、次会ったときはぜひど名前で呼んでよ」

「え、名前?」

「うん、“ゆめ”で!わたしも“りっちゃん”って呼ばせてね」


私の手を握って微笑むユリさん。


そして、「わたしはこっちだから」と言って、手を振ってバスターミナルへと歩いていった。


次に会ったときは、――“ゆめちゃん”。


だけど、きっとそう呼ぶことはない。

べつに連絡先を交換したわけでもなく、今度じっくり話そうよと言って約束を取りつけたわけでもない。


たくさんの人々が行き交うこの大都会で、またユリさんと再会できる確率なんてほぼゼロに等しいだろう。

だから、ユリさんとはこれが最初で最後。


ただ、ユリさんのおかげで最悪になるところだった今日が、最高の1日となったのは確かだった。
あれから1ヶ月が過ぎた。

鏡を見てショートヘアの自分を見ると、ふとユリさんのことを思い出すときもあるが、だからといって会いたいとかそういうのではなかった。


陽太に散々な振られ方をした私だったけど、忙しいくらいに仕事が詰まっていて落ち込んでいる暇すらない。

というか、陽太のことなんてもうどうでよくて、ユリさん以上に忘れかかっていた。


そして、休日の今日。

私は、あるところにきていた。


最近、休日でもアポが入って仕事になったり、ようやく休めたとしてもなにかしら予定が入っていて、“ココ”にくるのは久々だ。


「いらっしゃいませ〜」


柔らかく微笑む店員さんに軽くお辞儀し、指定の場所で靴を脱ぎ、アルコール消毒のスプレーを手のひらにかけて、私はそっとドアノブを握った。


ドアを開けた先にいたのは、自由気ままにのんびりと過ごす猫、猫、猫!

ここは、保護猫カフェ。


猫好きの私は、癒しを求めて数年前からここに通っていた。

猫と戯れているとき、仕事中では見せない顔をしているから、私が保護猫カフェに通い詰めているというのは職場の人には絶対に知られるわけにはいかない。


ちなみに私の推しは、黄色っぽい色をした茶トラの『きなこ』。

2歳のオスの猫だ。


店員さんいわく、きなこはあまりお客さんに懐かずいつもキャットウォークの上のほうで寝ているんだそう。

それが、私がくると自ら歩み寄ってきてくれるのだ。


そんな私だけに見せてくれる素顔がかわいくて、それにたぶんきなこは猫の中でもイケメンの分類に入ると思う。

目力があって、凛々しくて。


母がああ言ってくるからとりあえずマッチングアプリに登録して陽太と出会って付き合ったけど、よくよく考えればやっぱり私に彼氏なんて必要なかった。

だって、きなこが私の彼氏なんだから。


しかし、なぜか今日はきなこがいなかった。


「あの…、すみません。今日ってきなこは?」

「きなこでしたら、本日はお休みさせてもらっているんです」

「…お休み!?もしかして、どこか体調が悪いとかっ…」

「そうじゃないので安心してください。実は、里親希望者さんところへトライアルとしてお泊りに行っているんです」

「里親…」


店員さんの言葉に私は絶望した。

おそらく、陽太に振られたときよりも。


保護猫カフェは、里親としてお気に入りの猫を迎え入れることもできる。


現に、あの猫ちゃん最近見かけないなと思って店員さんに聞いてみたら、新しいお家に迎え入れられたという話は何度か耳にした。


だから、いつかはきなこもそういうときがあるのも覚悟していた。

でも、きなこは他のお客さんには懐いていないようだし、いい意味でずっとここにいてくれると思っていたのに――。


私も何度もきなこを引き取りたいと思ったことがあった。

でも、今の仕事だと出張が多いし、トラブルがあったら急遽その日に飛行機に乗って取引先まで行くことだってある。


そんな状況では、とてもペットなんて飼えない。

だから、こうしてきなこに会いにここにきていたのに。


もうすぐ…きなこがいなくなる。


他の猫たちも十分かわいいのだけれど、きなこのことを考えたら今日は楽しくは遊べなかった。

さっききたところだけど、もう帰ることにした。


靴箱から靴を出し、しゃがんではいていると――。


「ありがとうございました〜」

「こちらこそ、ありがとうございました」


受付のほうから、女性と店員さんのそんな会話が聞こえてきた。


「いかがでしたか?」

「とってもお利口でした。ね〜、きなこ」


…“きなこ”!?


私の耳がすぐに反応した。

急いで靴をはいて角から顔を出すと、受付にケージに入ったきなこがいた。


どうやら、ちょうどトライアルから戻ってきたみたいだ。


「じゃあね、きなこ」


商品棚でちょうど里親さんの姿は見えなかったが、里親さんが帰っていったのを見て私はきなこに近づいた。


「きなこ〜、久しぶり」

「ニャ〜」


ケージ越しだけど、きなこは私を見て返事をしてくれた。


「あの…、さっきこられてた方がきなこの新しい――」

「はい、里親さんですね」


…そっか。

やっぱりそうなんだね。


きなこ、キミもお嫁に行っちゃうんだね。

オスだけど。


「もう、きなこが引き取られるのは決定なんですか…?」

「そうですね。次回が最終トライアルになるので、そこで問題がなければほぼ決定だと思います」


本当に、きなこがいなくなるんだ。


…寂しい。

それに、大好きなきなこが私だけのきなこじゃなくなってしまうのが…悲しい。


でも…仕方ない。

顔は見てないけど、声からだとやさしそうな女性だったし。


その人といっしょなら、きなこも幸せに暮らせるはず――。


「すみません!さっきここにスマホを忘れていませんでしたか…!?」


するとそのとき、受付そばの入口のドアが勢いよく開いた。

慌てて入ってきたのは、ゆるふわボブの小柄な女性。


「「あっ」」


そして、私たちは目が合った瞬間同時に声を漏らした。


「りっちゃん!」


なんとそれは、ユリさんだったから。

まさか、こんなところで再会するなんて。


「お客さま。もしかして、そこの角にあるスマホのことでしょうか?」

「え?あっ、ほんとだ!こんなところに〜。ありがとうございます」


どうやらユリさんは受付の台の角にスマホを置き忘れていて、それに気づいて戻ってきたようだった。


「まさか、りっちゃんとこんなところで会えるなんて!久しぶりだね、よくここくるの?」

「うん…、まあ」


陽太という彼氏がいたことも周りには言っていなくて、私が大の猫好きで保護猫カフェに通い詰めているというのも私だけの秘密だったのに――。

またしても、ユリさんに知られてしまった。


「りっちゃん、このあと時間ある?この前は全然話せなかったけど、せっかくだしいっしょにお茶しない?」


私がユリさんと…お茶?

そんなめちゃくちゃ仲がいいわけでもないのに、正直なにを話したらいいのかわからない。


「もし予定があるなら構わないんだけどね」


そう言って、ユリさんは私からケージの中にいるきなこに視線を向けた。


「またね〜、きなこ。次のお泊りも楽しみにしてるよ」

「…“お泊り”!?」


とっさに食いついてしまった。

まさかとは思ったけど、きなこの里親って――。


「ユリさん…、もしかしてきなこを?」

「りっちゃん、“ユリさん”じゃないよ」


クスッと笑うユリさんを見て、わたしははっとした。


「あっ…、ごめん。ゆめさん」

「“さん”はいらないよ〜。うん、きなこをうちで引き取ろうと思って、今いろいろと準備してるんだ」


それを聞いてしまったら、この場を何事もなかったかのように帰るなんてことできなかった。


そうして、私はゆめちゃんといっしょに近くのカフェへ。


「店員さんから、わたしの他にもう1人きなこが懐いてる人がいるとは聞いてたけど、りっちゃんのことだったんだ」


私もまさかこんなかたちでまたゆめちゃんと会って、再び同じ男(猫)を取り合う運命にあったとは思いもしなかった。


…いや、取り合うというか。

きなこはもうすぐゆめちゃんの家族になるのか。


「きなこって、周りのお客さんから無愛想って言われてるとこ見たことあるんだけど、みんなわかってないんだよね。あれがきなこのいいところなのに」

「わ…わかる!」

「もちろん人懐っこい猫も好きだけど、きなこみたいに好き嫌いがはっきり別れてるほうがわたしは好きだな」

「わかる!わかる!」


ゆめちゃんとカフェにきたとしても、なにを話したらいいのかわからないなんて言っていたけど――。

きなこの話となると話題が尽きなかった。


「なんだか、わたしがりっちゃんからきなこを奪っちゃうみたいでごめんね」

「ううん、そんなことない…!私は急遽出張が入ったりするから、そもそもきなこは飼えなかったし」


きなこが引き取られると知ってショックだったけど、それが知っている人でよかった。

もしかしたら、またきなこに会えるかもしれないし。


でも私、そもそもゆめちゃんの連絡先知らないや。


「きなこに会いたいから、お家遊び行かせて。だから、連絡先交換しよう」

なんて言ったら、さすがに失礼だよね。


思わず出かかった言葉をコーヒーとともに流し込む。


――すると。


「りっちゃん、よかったら連絡先教えて。いつでもきなこに会いにきてよ」


なんと、まさかのゆめちゃんがそう提案してくれた。

私には断る理由などなく、その場でゆめちゃんと連絡先を交換した。


「でも…。ごめん、りっちゃん」


お互いのスマホにお互いの連絡先が登録されてすぐ、なぜかゆめちゃんが私に謝ってきた。


「いつでもきなこに会いにきてよって言ったんだけど、実は…実家に帰らなきゃいけないかもなんだよね」

「…えっ、実家?」


実家となると、私たちの地元。

とても、いつでも会いに行ける距離ではない。


聞くと、上京してから最近まで、ゆめちゃんは大学の友達と2人でルームシェアをしていたらしい。

しかし、その友達が近々結婚することになり、先々週に部屋を出ていったのだと。


今月分の家賃は置いていったそうだが、来月からはこれまで2人で折半していた家賃をゆめちゃん1人が負担することに。

出ていった友達分の部屋も無駄に余っていることだし、1人でそこに住み続けるにはデメリットのほうが大きかった。


そんな話をぽろっと田舎の両親に話したところ、じゃあこっちに帰ってきたらいいじゃないという話になって。


「でも、仕事は?辞めて大丈夫なの?」

「わたしWebデザイナーだから、パソコンさえあればどこでも仕事はできるんだよね。だから、田舎に帰るからっていっても辞める必要もなくて」


だから、普段はずっと家で仕事をしているらしく、1人も寂しいからきなこを受け入れようと思ったんだそう。


「だからさ、もし可能であればなんだけど…」


そう言って、なぜか猫なで声で向かい座るゆめちゃんが私の顔を覗き込んでくる。

それを見て、なんとなく察した。


「もしよかったら、わたしといっしょにルームシェアしない?」


思っていたことが的中した。

この流れからすると、そう提案されるのも当たり前か。


「むっ…無理無理!私、だれかといっしょに住めるような人間じゃないし…!」

「わたしだって、どちらかと言うとそうだよ」

「それに、部屋の更新だって――」

「もしかして、もう最近しちゃったとか?」


ゆめちゃんにそう言われてふと考えてみたけど――。


「…違う。更新月は再来月だった」

「えっ、ちょうどいいじゃん!」

「それに、たしか…次回更新から家賃が値上がりするとも書いてあった」


ゆめちゃんの話を聞くと、各々の寝室は今の私の寝室と同じ大きさだけど、リビングは今よりも広い。

なのに、2人で折半したら家賃は今よりも安くなる。


しかも、会社までの通勤時間も今よりも短くなる。


となると、私のほうこそ今のマンションに住み続ける意味がなくなる――?


「りっちゃん、来週の土曜日空いてる?」

「…うん、その日は休みだから。アポとかが入らなければだけど」

「だったらさ、お試しでうちに泊まりにおいでよ!」

「…え!?」

「その日、きなこの最終トライアルの日なの。だから、りっちゃんもトライアルしにおいでよ。お試しで3人で暮らしてみない?」


いつの間にか、話の流れでそんな展開になってしまったものだから――。

次の土曜日、私は1泊分の荷物を持ってゆめちゃんの住むマンションにきていた。


「…お邪魔します。本日はお世話になります」

「どうぞー!ちょっと散らかってるけど、入って入って〜」


ゆめちゃんに招き入れられ、私は緊張した面持ちで部屋の中へと入った。


フェミニンゆめちゃんのことだから、家具はオフホワイトやベビーピンクで統一されて、生活感を感じさせないような収納で――。

と勝手に思い込んでいたから、リビングに案内されて驚いた。


小物が乱雑に並べられた棚、窓のフレームにハンガーでかけられたコート。

出し忘れたのだろうか、キッチンの隅に置かれたパンパンに空きペットボトルが詰め込まれたゴミ袋。


『ちょっと散らかってるけど』とは言っていたけど、…たしかに散らかっている。

お世辞にも、きれいとは言い難い。


だけど、不思議となんだか落ち着いた。

私も収納や片付けは苦手なほうだから、少し散らかってるくらいのほうが安心する。


それに、女子力高そうなゆめちゃんだからこそ、私と真逆な生活感を勝手にイメージしてたけど、共通点を見つけたような気がして。


すると、私の足元を温かいなにかがまとわりついてきた。


「ニャ〜」


下を見ると、きなこがわたしの足にすり寄ってきていた。


「きなこ〜!」


私はさっそくきなこを抱き寄せて頰をすりすりする。


は〜、幸せ。


「りっちゃん、夜ご飯はピザを頼んだけどいいよね?」

「うん、ありがとう」


こうして、その夜はゆめちゃん家でパーティーをした。


家で飲むといっても、いつもは1人。

だから、だれかと家飲みするのはこれが初めてだった。


しかも、どちらも酒好きでグビグビ飲み干していく。


途中、近くのスーパーまで急遽買い出しにいって、私はゆめちゃん家のキッチンを借りて、酒のつまみを追加で作った。


揚げ焼きにしてカリカリにした鶏皮せんべい。

アボカドとマヨと卵がたっぷりのポテサラ。

ヤンニョムソースでじっくり焼いた豚バラチャーシュー。

ミートソースとチーズを大量にかけて焼いたスライストマト。


「お待たせ〜、葉加瀬居酒屋の開店だよ〜」

「すごーい!これ、全部りっちゃんが作ったの?」

「まあねー」


ほろ酔い気分の私はいつになく上機嫌。


私は料理が嫌い。

毎日の献立を考えるのは面倒だから、ほとんど外食で済ませている。


だけど、酒のつまみなら作れる。

いつもは自分で作って自分で食べるだけだけど、こうして喜んでもらえるとうれしい。


「葉加瀬居酒屋、サイコー!毎晩でも通いたくなっちゃう」

「じゃあ、ここの空きテナントに入っちゃおうかな?」

「きてきて〜!大家はいつでもウェルカムだよ〜」


普段は静かに飲むのだけれど、今日は饒舌だ。

楽しすぎて、次から次へとお酒が進む。


こんなにバカ騒ぎをしたのはいつぶりだろうか。

…もしかしたら、初めてかもしれない。


きなこもいて、気の合う友達と毎日を楽しく暮らして。

ここに住んでみるのも――アリなのかもしれない。



「…ん〜………」


気持ちよく眠っていたはずが、ぐわんぐわんという頭痛の波によって起こされた。


「どこ…、ここ……」


顔を上げると知らない部屋だった。

…いや、ここはゆめちゃんの部屋だ。


私は、ビールやチューハイの空き缶が転がるテーブルの上に突っ伏して寝ていたようだった。

テレビ横に置かれているデジタル時計には【6:57】と表示されていた。


私…昨日そのまま酔い潰れて、朝までここで寝てしまったのか。

今気づいたけど、肩にはふわふわのブランケットがかけられていた。


「頭…イッタ」


小言をつぶやきながら頭痛のする頭を押さえていると、リビングのドアが開く音がした。

目を向けると、ルームウェア姿のゆめちゃんだった。


「ごめん、起こした?」

「…ううん、ちょうど今起きたところ」


ゆめちゃんは私のそばに水の入ったグラスを置いてくれた。


「ありがと…」


その水を飲み干して、またテーブルに突っ伏す。


久々のひどい二日酔いで、起き上がる気力すらわかない。

今日が休みで本当によかった。


それに、私以外に部屋にだれかいるってこうもありがたいものなんだ。

本来なら、こんな体調ならキッチンにコップ1杯の水を飲みにいくことすら困難だというのに。


「ゆめちゃんはいつから起きてたの?…二日酔いは?」

「わたしは意外と平気で、ちょうどさっき起きたところだよ」

「…そっか」


テーブルから動けない私のところへきなこがやってきてくれた。

そんなきなこの頭を力なく撫でる。


「りっちゃんは休みの日、いつも何時に起きてるの?」

「7時だよ。だから、今日と変わりない時間かな。休日はその時間にアラームが鳴るようにセットしてて――」


と言いかけた瞬間、私の額から冷や汗が流れ落ちた。

これは、二日酔いによる体調不良の汗ではない。


私は、とんでもないことを思い出してしまったのだ。


瞬時にさっきのデジタル時計に目をやると、時刻は【6:59】に変わっていて、その隣の秒数が【58】を記していた。


それを見て、気持ち悪くて立てないはずだったのに、なにかに取り憑かれたかのように私は突然と立ち上がる。

びっくりしてきなこが逃げていくくらい。


きなこ、ごめん…!

でも、あと2秒で私はスマホを探し出さなければならない。


なぜなら――。


〈おい、もう朝だぞ。いつまで寝てるつもりだ?それとも、またオレに襲ってほしくて寝たフリしてるのか?〉


リビングにイケボが響き渡る。


〈おい、もう朝だぞ。いつまで寝てるつもりだ?それとも、またオレに襲ってほしくて寝たフリしてるのか?〉


しかも2回も。


これは、私がハマっている乙女ゲームのキャラの声。

超ハードイベントを課金してなんとかクリアして手に入れた推しキャラのボイスをこうして休日のアラームに設定していたのだった。


ようやくスマホを見つけた私は、ビーチフラッグの選手かのように目一杯手を伸ばしてスマホを握った。


〈おい、もう朝だぞ。いつまで寝てるつも――〉

…ピッ!!


な、なんとか消せた…。


しかし、時すでに遅し。


嫌な視線を感じておそるおそる振り返ると――。

口をあんぐりと開けて、私のことを呆然として見つめるゆめちゃんが立っていた。


…知られてしまった。

私の最後の秘密。


こんなTL要素満載の乙女ゲームが好きだなんて、言えば絶対に引かれることは確実だから、一番だれにも知られたくなかったのに。


昨日の夜がすごく楽しくて、ゆめちゃんときなことここで暮らしてみるのもアリだなと思い始めてたけど…。

今ので…完全にドン引きされた。
「あの…、えっと。今のは……」


なにか言い訳を考えたけれど、なにも浮かんでこない。


…終わった。


なんだか魂が抜けたみたいになってしまって、スマホを握る手に力が入らなくなった。

しかし、だらんと下ろそうとした私の手をスマホごとゆめちゃんが握りしめた。


「いっ…今のって、もしかして武蔵(ムサシ)のボイス!?!?」


ゆめちゃんは目を見開け、鼻息を荒くする。

そんなゆめちゃんに、引かれるはずだった私が逆にちょっと引いてしまうくらい。


「『恋鳴(こいな)く』の武蔵だよね!?…しかも、寝起きささやきバージョン!?あれってレアボイスじゃなかったっけ!?」


おっとりとしているはずのゆめちゃんが大興奮して私に迫ってくる。


ゆめちゃんの言う『恋鳴く』とは、私のハマっている『恋姫(こいひめ)は甘い夜に鳴く』というタイトルの乙女ゲームの略称。

戦国時代にタイムスリップした主人公が、そこでイケメン武将や剣豪たちと恋に落ちるというストーリーだ。


私はその中のキャラ、宮本(みやもと)武蔵が一番の推し。

赤髪をひとつにくくったビジュアルが最高すぎる。


武蔵とのシークレットイベントやボイスを手に入れるために、これまでいくら課金したことか…。


でもけっこう過激な甘いシーンが多くて、このアプリゲームをしていることは決して堂々と口に出して言えることではない。

そもそも『恋鳴く』を知っている人のほうが少ないだろう。


『恋鳴く』という乙女ゲームを認知しているだけでも希少なのに、アラーム音だけで武蔵と言い当て、しかもそれが寝起きささやきバージョンのレアボイスと判別できるなんて。

もしかして、ゆめちゃんって――。


「わたしも『恋鳴く』のヘビーユーザーだよ!」

「…ゆめちゃんが!?」


驚いた。

現実の男性とは縁のない私がどっぷりとハマるのはよくあるパターンだけど、リアルで恋愛経験が豊富そうなゆめちゃんが…『恋鳴く』を?


「ちなみにわたしの推しは、小次郎(コジロウ)!武蔵もいいんだけどね〜、わたしは青髪の小次郎派かな!」


ゆめちゃんの言う『小次郎』とは、『佐々木(ささき)小次郎』のこと。

クールな感じの武蔵とは逆で、青髪のかわいい顔したビジュアルだ。


〈姫、起きてよ。じゃないと、ボクにキスされたって文句は言えないよ?〉


ゆめちゃんがスマホから小次郎ボイスを流してくれたけど、甘い声が特徴的。


「『恋鳴く』ユーザーに出会ったのなんて初めてだよ!しかも、それがりっちゃんだなんて!」

「…私もびっくりしてる。でも…うれしい」


大好きな乙女ゲームを語り合える仲間がいたなんて。

居場所を見つけたような気がした。



そうして、2週間後。


「お邪魔します」

「『お邪魔します』じゃないよ。ここはもうりっちゃんの家でもあるんだから」

「そっか、そうだよね。じゃあ、ただいま」

「おかえり、りっちゃん」


住んでいたマンションの退去の手続きと引っ越しの準備を整えて、私はゆめちゃんの部屋でルームシェアをすることになった。

もちろん、きなこもいっしょ。


女2人と猫1匹。

自由気ままな生活がスタートする。


* * *


ゆめちゃんとの共同生活で驚いたこと。

それは、実は私よりもズボラ女子だったといこと。


服は脱ぎっぱなしだったり、ひと口分だけ残っているペットボトルや空き缶が置いてあったり。

洗い物や洗濯など、生きていく上で最低限のことはやっているけど、あとはテキトー。


料理に関しては、邪魔くさくて毎食冷食やインスタントで済ませてまうため、そもそも料理はやらないらしい。

トライアルでお泊りした日、つまみにできるものはないかと冷蔵庫を覗いたけど、まったく食材がないとは思っていた。


女子高いゆめちゃんなら、彼氏に手作りご飯とはお弁当とか作っていそうだけど、これまでの人生に置いてそんなことは一切やったことがないのだとか。

…意外すぎる。


私ですら料理はやるほうではないけど、酒のつまみなら作れるというのに。


ただ、ゆめちゃんはインスタントやレトルト食品のアレンジに長けていた。


どこにでも売っているような袋麺をそのままラーメンとして食べるのではなく、生クリームと卵を使ってカルボナーラにしたり。

中途半端に余った冷凍チャーハンの上にソースとチーズを乗せてアツアツドリアにしたり。

カップスープの粉末にホットケーキミックスと牛乳を加えて、朝食用のパンを作ったり。


毎食インスタントだからこそ、飽きがこない料理法を知っていた。


基本は外食やデリバリーで、たまに私が酒のつまみを作ったり、ゆめちゃんがアレンジレシピを披露する。


お互いが嫌いな料理の分担をするわけでもないし、部屋はちょっと散らかってても許容範囲内。

そんな生活スタイルが意外にも2人とも合っていた。


休日は、夜遅くまでお酒を飲みながら『恋鳴く』を語り合う。


「このイベントがどうしても発生しないんだよね〜。課金しないとダメかな」

「りっちゃん、なんでも課金したらいいってものじゃないよ。地道にコツコツしてたら、意外イベント発生条件をクリアしてたりするんだから」

「え〜、それにかける時間が無駄なような。それなら時は金なりじゃない?」

「さっすか、バリキャリで稼いでる人は言うこと違うわ〜」

「なにそれ〜、バカにしてる?」

「まさかっ〜。褒めてるだよ」


そんなバカ騒ぎする私たちをきなこはキャットウォークの上から冷ややかに見つめているのだった。


プライベートでは、初となる『恋鳴く』のイベントにゆめちゃんと参加した。

私1人じゃ絶対に参加しなかっただろうけど、ゆめちゃんといっしょなら行くことができた。


ゆめちゃんは、サボ子と呼ばれるツンケンした私とは真逆の人物――。

そう思っていたけれど、こんなにも共通点があるとわかってとってもうれしかった。


それに私の人生、今が一番キラキラしてる。



そんな休日のある日――。


ゆめちゃんは今日はネイルとマツエクに出かけていて、昼過ぎまで帰ってこない予定。

だから、部屋で1人で私がゴロゴロしているとインターホンが鳴った。


今ちょうどインターホンが故障していて、呼び出し音は聞こえるけど、モニターにはなにも映らなくなってしまっている。

だから、直接ドアを開けてたしかめるしかないのだ。


そういえば、一昨日の夜遅くにネットショッピングを利用した。

それが届いたのかもしれない。


「は〜い」


私は上機嫌で玄関のドアを開けた。

すると、そこに立っていた人たちを見て私は目が点になった。


少し白髪の混じる小柄な年配の男性と女性。

2人は私のことを見てひどく驚いている。


「あ、あの…」

「…どちらさまですか?」


私が尋ねるよりも早く女性が不審そうな目で私を見てきた。

訪ねてこられた人に『どちらさまですか?』と問われても、この部屋の住人なんですけど…。


「私は、ここに住んでる者ですが…」

「この部屋に?」


女性は目を丸くして驚いている。

すると、隣にいた年配の男性が女性の腕を肘で小突く。


「…部屋、間違えたんじゃないのか?」

「そんなことないですよ!これまて何度かきたことがあるんですから」

「だったら、知らない人が出てくるはずないだろう」

「そうとは言ったって、ゆめからは引っ越したもなにも聞かされていないですし…」


…“ゆめ”?


「もしかして、小花ゆめちゃんのご両親ですか?」

「え…ええ、そうですけど」

「でしたら、ゆめさんの部屋はここです」


訪ねてきたのがゆめちゃんのご両親だとわかって、私はドアを全開にした。


「ありがとう。それにしても…あなたは?」

「申し遅れました、私は葉加瀬律子と申します。ゆめさんとは高校時代の同級生で、今はこの部屋でルームシェアしていっしょに暮らしています」

「…ルームシェア?」


首を傾げるゆめちゃんのお母さん。

ゆめちゃん、ご両親に私といっしょに暮らしていることは話してなかったのかな。


「どうぞお上がりください。ゆめさん、もう少ししたら帰ってこられると思いますので」


そうして、私はゆめちゃんのご両親を部屋の中へと招き入れた。


「ニャ〜」


玄関に行った私が戻ってきたと思って歩み寄ってきたきなこだけど、すぐにその後ろに知らない人たちがいるとわかって部屋の隅に逃げてしまった。


「ごめんなさいね。突然押しかけるようなかたちになってしまって」

「いえ、お気遣いなさらないでください。今お茶淹れますので、どうぞこちらにおかけください」


ゆめちゃんのご両親をダイニングテーブルへ案内する。

たまたま昨日気まぐれでリビングの掃除をしておいてよかった〜…。


キッチンに行き、ケトルでお湯を沸かしている間にゆめちゃんに連絡しようとスマホを手に取った。


すると、突然スマホの着信音が鳴り響く。

ゆめちゃんからの着信だった。


「ちょ…ちょっと失礼します」


ご両親に断りを入れ、私は廊下へと出る。


「もしもしゆめちゃん?今、ちょうどご両親がきてて――」

〈…そうみたいだね。お母さんかメッセージ入ってたんだけど、今気づいた〉


どうやら、両親からのメッセージは通知オフにしているらしく気づくのに遅れたとのこと。


「今からお茶出すところなんだけど、ゆめちゃんそろそろ帰ってくる頃だよね?だったら、しばらくいてもらおうかと――」

〈ううん、2人がいるなら帰らない〉

「…え?」

〈りっちゃん悪いんだけど、適当な用事つけて2人を帰らせておいてくれない?〉

「で、でも…」

〈ごめん!お願いね…!〉

「あっ、ゆめちゃん待っ――」


まだ話の途中だというのに、ゆめちゃんは一方的に電話を切った。

これは、本当にご両親が帰るまでは帰ってこなさそうだ。


「すみません、今ちょうどゆめさんからの電話だったんですが…」


ゆめちゃんを訪ねて、わざわざやってきてくれたご両親に嘘をつくのは心苦しいけど――。


「ゆめさん、用事が長引いてるようで、帰るのが遅くなるみたいなんです」

「…あら、そうなの。何時頃に帰ってきそうなのかしら?」

「はっきりとした時間までは聞いていないのでわからないですが、もしかしたら夕食もいらないかもと…」


そんなことはなにも言われていないけど、そう言っておかないと『それなら帰るしかないわね』という雰囲気にならなさそうだったから。

…ごめんなさい。


「そんなに帰りが遅いなら、ここにずっとお邪魔するわけにもいかないな」

「そうね…」


私の適当な嘘で、思っていた通りの展開になった。


「せめてお茶だけでも…!せっかくきてくださったんですから」


それが私のせめてもの償いだ。

すでに沸いていたケトルのお湯をお茶っ葉の入っている急須に注ぐ。


ご両親にお茶を出して、私もその向かいに座る。


「律子さん…でしたっけ?ありがとうございます」

「いえ、これくらいしかお構いできなくてすみません」

「今日は主人とお芝居を観にこっちまできたんだけど、せっかくだからゆめの顔を見に行こうかって話になって」

「そうだったんですね」


ゆめちゃんのことを気遣うやさしそうなご両親。

でもたしかゆめちゃんは両親からのメッセージは通知オフにしていると言っていた。


そんなに仲が悪そうな感じでもないけど…。


「そういえば、まだ律子さんに謝っていなかったわね。初対面であんな失礼な言い方をしてしまってごめんなさいね」

「と、とんでもないです!ルームシェアのことをお聞きでなかったら、突然知らない女が出てきたらそりゃ驚かれますよね」

「そうなのよ。ゆめからは、結婚を前提にお付き合いしている方と同棲することになったと聞いてたから」

「…結婚を前提で?」


私とゆめちゃんがルームシェアを始めてもうすぐ半年。

だけど、今の女2人生活が楽しすぎて、わたしたちは彼氏を作る気なんて更々なかった。


ゆみちゃんのご両親から話を聞くには、ルームシェア相手が出ていったとなって、本来なら実家に帰る予定になっていたんだそう。


それは前にゆめちゃんから聞いていた。

きなこをちょうど引き取る頃だったから。


しかも、田舎に帰ったらお見合いをすることにもなっていたのだとか。


だけど、結婚を前提に付き合っている人と同棲するこもになったから実家には帰らないと連絡があったんだそう。


その話を聞いて、私は悟った。

ゆみちゃん、実家に帰りたくないがためにご両親に嘘をついているのだと。


「律子さんは、ここで暮らしてどれくらいになるのかしら?」

「えっと、半年ほど…ですかね」

「そう。あの子からなにか、お相手のこととか聞いてない?あれからまったく音沙汰なくて」

「ど、どうでしょう?あまりそういう話はしないので…」

「…そう」


ゆみちゃんのお母さんは寂しそうに視線を落とす。


…いっしょだ、私の母と。

ゆめちゃんのお母さんも早くゆめちゃんに結婚してほしいんだ。


でも、当のゆめちゃんはそんなことはどうでもよくて。

おそらく、会えば結婚の話になるからなるべく会いたくないし、だからメッセージも通知オフにしているのだろう。


「律子さん」

「は、はいっ」

「こんなことお願いするのは大変不躾なのだけれど、この部屋…出ていってもらえないかしら?」


……えっ…。


「こら、急になにを言い出すんだっ。失礼じゃないか」

「失礼なのは承知の上よ…!でもきっとあの子、律子さんに甘えてるんでしょう?お相手の方と将来を見越しての同棲ならまだしも…」


正直、ゆめちゃんのお母さんが言いたいことは痛いくらいにわかった。

そして、その思いもひしひしと伝わってくる。


30手前のいい歳した女が友達同士でワイワイ気楽なルームシェアなんかより、決まった相手と結婚に向けての同棲を娘にはしてもらいたいのだ。


「そうですよね。いつまでも学生気分のままじゃいられませんよね」


そう言って、私はご両親に笑顔を見せた。


そのあと、お茶を飲み干したゆめちゃんの両親は帰っていった。

私はゆめちゃんが帰ってくるまでの間、これまでのことやこれからのことについて考えていた。


私の場合は、妹の出産予定日も近づいてきて、今の母は私そっちのけで妹ばかりを優先している。

これで孫が生まれたら、さらに私はいい意味で放置されることだろう。


しかし、ゆめちゃんは違う。

一人っ子らしいし、ゆめちゃんの花嫁姿とか孫の顔とか、きっとご両親は今か今かと待ち望んでいることだろう。


ゆめちゃんはそれが嫌で彼氏がいると嘘をついているみたいだけど。


ゆめちゃんとの暮らしは楽しい。

きなこも交えてのんびりまったりして、時には推し活に燃えたり、晩酌でバカ騒ぎして。


でも、本当にこのままでいいのだろうか。

私とのルームシェアが、ゆめちゃんの将来の可能性を潰しているのではないだろうか。



「ただいま〜」


その日の夕食の時間くらいにゆめちゃんが帰ってきた。

ネイルとマツエクを終わらせて、まだ家にいるかもしれない両親を避けるために無駄に映画を観て時間を潰していたらしい。


いつものようにゆめちゃんとテレビを見ながら夕食を食べる。

交代でお風呂に入って、お互いに寝る前の準備が整ったら恒例の“アレ”だ。


「りっちゃんは今日なに飲む〜?」


冷蔵庫を開けて、中からクラフトビールを取り出すゆめちゃん。

“アレ”とは、いつもの晩酌。


「ごめん。今日は私、軽めのやつでいいや」

「そういえば、明日から出張だっけ?」

「うん。朝早いから」


私はアルコール度数3%の缶チューハイを手に取った。


「「カンパイ」」


ゆめちゃんとの乾杯も、もう何度目だろうか。

もしかしたら、これが今日で最後の乾杯かもしれない。


私はそう思いながら、チューハイをひと口飲んだ。


――というのも。


「ゆめちゃん。私、この部屋出ていこうと思うの」


ゆめちゃんのご両親の話を聞いて、私は答えを出した。

私がよくても、ゆめちゃんにも私と同じ暮らしを押し付けてはダメだと。


「…えっ、出ていく?…冗談だよね?」


もちろんゆめちゃんは口をぽかんと開けて私のことを見てくる。


「残念だけど、冗談じゃないよ」

「…どうして!?きなこと3人で楽しくやってきたじゃない。どこか不満なところでもあった…!?あるなら言ってよ…!」


そんなの…ないよ。

毎日が満足で満たされてたんだから。


「もしかして…、うちの親になにか言われた!?そうでしょ!?」

「違うよ。少し前から考えてたことだから」


…うそ。

本当は今日思い立ったばかり。


そのあとのゆめちゃんとの話は平行線をたどる一方で――。


「ごめん。もう私寝るね」


明日の出張を言い訳に、私が逃げるようにしてその場を去った。

結局、最後の乾杯のお酒はひと口しか飲めなかった。



次の日。

私は、まだゆめちゃんもきなこも眠っている朝の5時に部屋を出た。


今回の出張先は、珍しく久々の海外。

アメリカのニューヨークだ。


10日分の荷物を詰めた大きなキャリーバッグを持って、私は空港へと向かった。


出張の間、ゆめちゃんとは一切連絡を取らなかった。

毎日、なんだかんだと連絡を取り合っていたから、ルームシェアしてからは初めてのこと。


初めの2日間は、もっとちゃんとゆめちゃんと話し合ったほうがよかったのではと、あのとき一方的に話を終わらせた自分に後悔した。


そして4日目ともなると、一度ゆめちゃんに連絡してみようかなとスマホを持つけど、やっぱりなんて連絡したらいいのかわからなくての繰り返しで結局連絡できず。

それに時差もあるから、寝ている時間に連絡してもな…という変な理由をつけていた。


そして、6日目。

ようやく決心がついてゆめちゃんに連絡しようと思った矢先、――スマホが水没した。


しかも、自分用と社用の2台とも。

典型的なトイレに落としてしまうパターン。


同行していた同僚のおかげで、社用スマホが使えなくなって不便だけれど社内間の連絡のやり取りはできた。

しかし、自分用のスマホはどうにもならない。


私はゆめちゃんとの一切の連絡手段を失くし、残りの出張期間を過ごしていた。


ニューヨーク出張最後の夜。

夕食に、ホテルで日本から持ってきていたカップラーメンを食べていた。


おいしいのだけれど、…なにかが物足りない。

普通すぎるというか、なんというか。


こういうとき、ゆめちゃんなら驚きのアレンジを加えてくれるはず。

これまで何度も食べてきたカップ麺やインスタント食品を、まるで初めて食べる料理かのように魔法をかけてくれる。


ゆめちゃんなら――。


そのとき、私の頰をなにかが伝った。

慌てて鏡を見ると、私の瞳には大粒の涙が溜まっていた。


――私、泣いてる。

ゆめちゃんとの暮らしを思い出して…泣いてる。


『私、この部屋出ていこうと思うの』


なにバカなことを言ってしまったのだろう。

ゆめちゃんときなことの暮らしをずっと続けたいと一番に思っているのは、私なのに。


* * *


「やっと帰ってきましたね!オレ、初の海外出張で疲れました〜」


帰国して、ぐーんと腕を伸ばす後輩。


「もう昼過ぎっすけど、先輩そのへんでメシ食ってから帰りませんか?」


後輩は前方のほうに見えるレストラン街を指さす。

しかし、私は首を横に振る。


「ごめん。今すぐ帰らないといけないんだよね」


私は後輩に謝ると、急いで空港を出てタクシーを捕まえた。


私には帰るべき場所がある。

そう気づかされたから。



「…ただいま!」


ドアを開け、玄関にキャリーバッグを放置し、蹴飛ばすように靴を脱ぎ捨てると私はリビングへ向かった。


一番に目についたのは、突然の私の帰宅に目を丸くして驚くきなこの姿。

そして、そのすぐそばのソファから、きなこ同様にまん丸にした目を私に向ける――ゆめちゃん。


「りっちゃん…。帰って…きたの?」


ゆめちゃんは声を漏らす。


あんなふうにケンカ別れのように出ていったくせに、どの面下げて帰ってきたのだと言いたいのだろう。

自分でもそう思う。


「…ごめんなさい、ゆめちゃん!私、この部屋を出ていくとか言ってたけど…。やっぱりあの言葉…、撤回してもいいかな」


私は頭を下げる。


できることなら、もう一度ここでゆめちゃんとの暮らしたい。

だけど、ゆめちゃんの返事次第では…覚悟もできている。


唇を噛みしめながら、ゆめちゃんからの返事を待っていた。


すると――。


「そんなの、いいに決まってるじゃん…!」


そんな言葉が聞こえて、はっとして顔を上げた私をゆめちゃんが抱きしめた。


「もう…、りっちゃん帰ってこないかと思った」

「そ、それはさすがに帰ってくるよ」

「だって、まったく連絡取れないし…!完全に拒否られてると思ったから」


それを聞いて、「あっ」と声が漏れた。


「ごめん。実は、出張中にスマホが水没して…御臨終なんだよね」


そのせいでゆめちゃんに連絡できなかったけど、ゆめちゃんも私に連絡をくれようとしていたんだ。


そのあと、改めて2人で話し合った。


「うちの両親から聞いたよ。りっちゃんに部屋を出ていくように言ったんだよね」

「あ…、それは……」


ゆめちゃんはすべてご両親から聞いていた。

それも踏まえて、ずっと親子間で曖昧にしていた結婚や今後についてもすべて腹を割って話したんだそう。


「結婚は、わたしがしたいと思ったときに、そこにちょうどパートナーが現れたら真剣に考えるってちゃんと伝えたよ。だから、今は自分が好きなことを貫きたいって」

「それで、…納得してもらえたの?」

「渋々っかな?でも、ずっと逃げてたことに真正面から向き合えたと思ってる」


そう言って、ゆめちゃんは笑った。

その表情は今まで見てきた中で一番清々しい。


「私、…お節介だったよね。ゆめちゃんは私みたいなおひとり様と違って、もっとキラキラした将来があるじゃないかと思って、ゆめちゃんから離れるようなことして」

「ほんとそれだよ。しかも言っておくけど、わたし今が一番キラキラしてると思うんだけど?」


たしかに言われてみれば、好きなことしかしていない今のゆめちゃん、とってもキラキラしてる。


「そんなわたしを最高にキラキラさせてくれてるのは、気が合って同じ趣味のりっちゃんがいてくれるからこそ」

「…ゆめちゃん」

「だから、これからもいっしょにいようよ。ねっ、りっちゃん」


ゆめちゃんがニッと白い歯を見せて笑う。

その顔を見たら、私も自然と同じように歯を見せてうなずいていた。


「おかえり、りっちゃん」

「ただいま、ゆめちゃん」


グゥ~…


そのとき、情けない音が響き渡る。

私のお腹の音だ。


「もしかして、りっちゃんお昼まだなの?」

「…うん。ゆめちゃんのアレンジ料理が無性に食べたくなって、一目散に帰ってきた」

「ええっ、あんな料理が?」

「そんな料理がいいんだよ。だからさ、…今から作ってくれたりする?」


それを聞いて、驚きながらもクスッと笑うゆめちゃん。


「喜んで」


目に涙を浮かべながら微笑み合う私たちを、きなこは静かにキャットウォークから見下ろしていた。



ツンケンとした言動がまるでサボテンのような私、葉加瀬律子。

つい目を惹かれる美しいユリのようなモテ女子、小花ゆめ。


真逆の私たちが絶対に交わることなどないと思っていた高校時代。

しかし、ひょんなことからアラサーで再会し、すべてをさらけ出し気心許せるシェアメイトに。


今日も、部屋にはほろ酔い気分の私たちの笑い声が響く。



Fin.

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