――私は帰宅してから学習机に向かい、頭の中で絡まっている糸を整理した。
ラブレターを入れ間違えたのは自分のミスだと思っていたのに、みすずが入れ替えてたなんて未だに信じられない。
その時点で私と梶くんは両想いだった。
それなのに、藍の手元に渡ったせいで期間限定恋人に。
もし、梶くんとうまくいっていたら、藍のことをよく知らないまま夏休みが開けて「あぁ。転校したんだ」って知る程度だっただろう。
それだけじゃない。
今日までの思い出が梶くんで埋め尽くされていたかもしれなかったというのに……。
でも、一つ驚いたのは、小学生の頃に赤白帽子をあげた子が藍の妹だったこと。
それから4年間、私のことを思い続けてくれたなんて。
高校で会えた時はどんな気持ちだったんだろう……。
藍からもらったオルゴールを手に取ってゼンマイを回した。
すると、いつもと変わらないメロディが体を包み込んでいき、無意識のうちに藍の顔が思い浮かぶ。
いつもストレートに気持ちを伝え続けてきたのは、転校するまで時間がなかったから?
最後は別れる運命だったのに、短い時間ですら私と付き合いたかったの?
『気がないなら放っておいてくれない? もうこれ以上変な期待をしたくないから』
あんなに好きだと言っていたのに、どうして簡単に切り捨てられるの?
ひまりちゃんがいるから?
引っ越しちゃうから?
昨日の返事で藍のことが好きだと言っていたら、一体どうするつもりだったの?
藍の考えてることが全然わかんないよ……。
「忘れた方がいいのにどうして涙が出てくるのかな……。全然、わかんないや……」
一体誰に相談すればいいんだろう。
信用していたみすずもひまりちゃんも味方じゃなかったし。
……そうだ、気分転換しよう。
なにか別のことをしていれば辛いことが上書きされるかもしれない。
私は手荷物をまとめてから外へ出た。
向かった先は映画館。
なぜこの場所を選んだのかというと、映画に集中していれば辛い気持ちが少しは緩和されると思っていたから。
しかし、スクリーンの光を浴びて映画に集中していたはずが、頭の中は昨日からの出来事がどっと蘇ってくる。
泣ける映画じゃないのに一人で肩を震わす。
『お互い好きなのに、別れなきゃいけないなんて残酷だよな』
以前、映画を見て泣いていた彼が言っていた言葉を思い出す。
あれは、どーゆー意味で言ったのだろう。
私たちがうまくいった時のことを想像していたのかな。
……ううん、ダメダメ。
藍のことは思い出さないようにしないと……。
――それからウィンドウショッピングをしてから暗い時間にマンションへ戻ると、エントランス前にいる中学生くらいの女の子に声をかけられた。
「あの……。美坂あやかさんですか?」
「あ、はい……。失礼ですが、どちらさまですか?」
「あぁ、良かったぁ。ご無沙汰してます。……私のことを覚えてますか?」
彼女は肩までの黒髪ストレートヘアでどこか見覚えのある顔をしている。
でも、残念ながらそれがいつかは思い出せない。
「いいえ、ごめんなさい……」
「そうですよね。昔のことだから覚えてないですよね。実は石垣藍の妹の稟と言います」
「ってことは……。小学生の頃に私が赤白帽子をあげた……」
「当時はありがとうございました。あやかさんのお陰で最後まで運動会を楽しめました」
彼女は当時と比べるとぐっと大人びていたから、すぐに気づかなかった。
「それはよかった」
「もっと丁寧にお礼をしたいところですが、今日はあやかさんに大事な話を伝えに来ました」
「……大事な話? 私に?」
藍の妹が私になんの用だと思って首をかしげる。
「はい。あやかさんのところへ会いに来たのは、兄のことを知ってもらう為です」
「その話ならもういい……」
「兄は、私に赤白帽子をくれたあやかさんに一目惚れをしました。そして4年後のいま、気持ちを伝えるために日本留学したんです」
昼間みすずから7月下旬に引っ越しをするとは聞いていたけど、新情報に思わず気が引き止められる。
「日本留学……? 一体なんのこと?」
「私と兄は小学生の頃からオーストラリアの全寮制の学校に通っています。そこは、富裕層の中でも貴族と呼ばれている一部の人間が通う場所。その中で、小学校から高校の間に好きな時期を選んで4ヶ月間の日本留学をしなければなりません。寮のルールとして外出は勿論、外部とのコンタクトが禁止されています。だから、兄は寮のことを”牢獄”と呼んでいて。でも、日本留学では側近なしで自由に過ごせる機会ということもあって、進学の切り替えである高校入学時を選びました。もちろんあやかさんに会うために」
「うそ…………。藍は留学生だったの?」
驚く私に、彼女はうんと頷く。
「兄は事前準備のために、2年前から特別講師を雇ってコミュニケーション能力を身につけました。喋りが苦手だった昔からは考えられないくらい別人になったと思います」
「信じられない……。私と会うためにどうしてそこまで」
「赤白帽子の一件で、あやかさんの勇敢な姿勢を見て衝撃を受けたそうです。この人と恋が出来たら素敵なんだろうなって。話を聞いてる私ですら羨ましく感じていました」
「……」
「留学してから友達の協力もあってあやかさんと付き合えることになったと嬉しそうに報告してきました。……でも、昨日連絡があって別れたと。留学期間も終わったし、兄には婚約者がいるから区切りをつけてきたんだと思いました」
「藍は最初から別れることが前提で私と付き合ってたんだよね。人の気持ちを散々かきまわしておいて、時期が来たら勝手に離れていくなんて自分勝手すぎるよ……」
藍は私の気持ちなんて考えてない。
付き合い始めてから3週間で沢山の思い出を植え付けてきたくせに、最初から別れることを視野に入れていたなんて……。
「後悔したまま別の人と結婚するのは嫌だって。せめて気持ちが伝えられたらなと言っていました。だから、思い残しのないように頑張っていたんだと思います」
「……」
「兄は今晩22時の便で日本を発ちます。留学期間を終えたのでオーストラリアに戻らなければなりません」
「そんな……」
「それだけじゃない。大学卒業後に婚約者と結婚します」
「もしかして、ひまりちゃんと……」
「そうです。あやかさんは、ひまりさんのことをご存知だったんですね」
私は表情を落としたままコクンとうなずく。
「あやかさん、本当にこのままでいいんですか? 今日を逃したら兄に一生会えなくなります」
「……」
「兄の運命を変えるのはあやかさんしかいません。もし兄のことをなんとも思ってないなら私の言葉は無視してください。でも、少しでも気があるなら気持ちを伝えてあげてくれませんか?」
――後悔か。
しない自信……、いまの自分にはあるのかな。
藍はいつも自分勝手だった。
私が他の人に宛てたラブレターを間違えて受け取ったことも知らずにバカみたいに喜んで。
オルゴールが好きだと言ったら、UFOキャッチャーでゲットするまでお金を注ぎ込んで。
ラブレターは別の人に渡すはずのものだと伝えたら、私が好きだから別れないと言ってて。
私がアイドルを推してると言って気がない素振りをみせたら、自分の推しはあやかだからと言って全身私のグッズで固めてきた。
それだけじゃない。
すぐにお弁当の唐揚げを取り上げるし、バスケでシュートを入れただけで見てたかどうか確認してくるし、私がピンチを迎えたら助けに来てくれるし、私が梶くんから呼び出された時は引き離しに来ちゃうし。
……。
…………。
振り返れば、この3週間は心に刻まれるような思い出ばかり。
それが仕組まれたものであったとしても、日々の記憶に彩りを与えていた。
「飛行機の出発時刻まであまり時間がありません。いますぐ決断を」
「……っ」
「あやかさんっ!! 本当に後悔しませんか? 兄ともう二度と会えなくなってしまいますよ」
「……」
今日まで答えが出なかったのに、いま決断しなきゃいけないと言われても……。
藍の元へ行くべきか、それとも諦めるべきか。
この選択一つで私も彼も運命が変わってしまう。
だから、もっと慎重に考えたかったのに……。
「…………そうですか、わかりました。少し余計なことをしてしまいましたね……。私、そろそろ戻ります」
無反応を貫いていたせいか、彼女は諦めをつけたように背中を向けて歩き出した。
……だが、次の瞬間。
私は自分でも驚くべき行動に。
「待って」
「えっ」
「……私、藍にまだなにも伝えてないの」
気付いたときには彼女の洋服の裾をつまんで引き止めていた。
心の中は答えを彷徨っていたけど、体が先に反応してしまうなんて。
「あやかさん……」
「後悔してないかどうかと聞かれたら、多分してる。だって、藍はいっぱい大切にしてくれたのに、私は『ありがとう』すら伝えてないから。藍のいいところを少しずつ見るようになっていくうちに隣にいるのが当たり前のようになっていた。その安心感から関係は崩れないんじゃないかと過信していたんだと思う」
「……」
「でも、昨日今日と豹変した姿を見て辛かった。それまで甘えていた自分にバチが当たったのかもしれない。冷たくされた時は苦しかった。もう二度と会えないと思ったら悲しくなる。まだまともに話し合えていないのに、お別れなんて出来ないよ……」
藍という人は、私に何度も何度も恋の矢を打ち続けた。
思うように飛ばなかったり、的に届かなかったり、外れてしまったとしても、自分を信じてまっすぐに打ち続けた。
それなのに、私という的は霞んで見えないまま。
矢が飛んでくるのを待つだけだった。
「あやかさん……。それが”恋”というものなんじゃないですか」
「恋……?」
「兄も”会いたい”というところから始まりました。会えてからは、会えば会う分だけ好きが積み重なっていったって。最初は小さな感情だったとしても、会いたいが積み重なっていけば好きに生まれ変わるんだと思います」
「会いたいが積み重なって……好きに?」
「はい。兄のことをなんとも思ってないならそんな風には思わないはず。いまあやかさんの心に少しでも変化があるのなら、会いに行ってやってくれませんか?」
正直なところ、昨日藍に別れを告げられてからそれ以外のことが考えられなくなっている。
ひまりちゃんが藍の婚約者ということや、みすずがラブレターを差し替えた件など、度重なるカミングアウトに驚かされた。
でも、いまそれ以上に辛いのは、これから彼が一生私の名前を呼んでくれなくなってしまうこと。
――時刻は19時58分。
場所は成田空港。
あれから私は稟ちゃんの側近が運転する高級車に乗せてもらい送り届けてもらった。
目的は、自分の気持ちを大切にするため。
車中でみすずに電話して昼間の件を謝った。
ラブレターを入れ替えた件については許せないけど、藍と縁を繋いでくれたのは彼女だから。
あの時ラブレターを入れ替えなければ、藍の想いを知ることがなかったよ。
オーストラリア行きの便の出発時刻まで残り2時間。
藍にも何度か電話をかけたけど、電源が切られていて繋がらない。
しかし、チェックインカウンター付近にいれば会えると思ってそこを目指した。
ところが、あと一歩というところで見覚えのある顔が私に近づいてくる。
「ひまりちゃん……。どうしてここに……」
「藍がオーストラリアに帰るから見送りに来たの。あやかちゃんはどうしてここに?」
「……」
本来なら藍と二人きりで話す予定が、思わぬ障害が行く手をはばむ。
「もしかして、藍に会いに来たの?」
「藍に伝えなきゃいけないことがあるから……」
「その伝えなきゃいけないことってなぁに?」
「えっ」
「婚約者の私が傍にいても言えること? それとも言えないこと?」
「そ、それは……」
「いまさらなにを言っても藍はオーストラリアに帰らなければならないの。二人の夢物語はもうとっくに終わったんだよ」
彼女はきっぱりとそう言いきると、俯いている私の肩をポンポンと叩いてすれ違っていった。
――きっと、これが現実。
稟ちゃんに気持ちを後押しされてここへ来たけど、そんな簡単に思い通りにいくわけがない。
そもそも最初から思い通りにはいかなかった。
梶くん宛てのラブレターは入れ替えられちゃったし、
それが原因で藍と付き合うことになっちゃうし、
ラブレターは藍宛てのものじゃないと伝えても別れてくれないし、
の割には別れる前提で私と付き合ってたし、
時期が来たら日本からいなくなっちゃうし、
ひまりちゃんとの結婚が決まってるくせに短い時間の中で片想い相手の私と恋愛をしに来たなんて……。
バカヤロウ…………。
楽しい思い出だけ置いて勝手にオーストラリアに戻らないでよ。
少しは残された者の身にもなってよ。
絶対に藍の思い通りになんてさせないんだから。
「ひまりちゃん、待って……」
「えっ……」
私は胸に拳をあてたまま話を続けた。
「以前、藍のことが好きかどうか気持ちを聞いてきたことがあったでしょ」
「そうだけど」
「正直、あの時は友達程度しか思ってなかった。だから、どう答えたらいいかわからなかったの」
「そう思ってたよ。だから、好きじゃないなら別れ……」
「だけどね、途中で気付いたの。私は藍のことを異性として見ていなかったんだって」
私はそう言い被せると、体の向きを変えて彼女の目を見つめた。
「見る目を変えてからは、考え方が変わっていった。藍は強気な態度を見せることが多かったけど、弱い面も兼ね合わせていて。でも、あの笑顔を隣で毎日見ていた分、心が平和でありつづけた。そんな日々がもう二度と戻ってこないと思ったら、藍に伝えなきゃいけないことができた。もしこの感情が正解なら、ひまりちゃんに言いたいことがあるの」
「な、なに。言いたいことって……」
「ひまりちゃんが藍のことをどれくらい想ってるかわからないけど、私も負けないくらい好き!」
「……あやかちゃん」
「いまさらこんな気持ちになるなんて遅いよね……。たしかに私は一般家庭の子だし、ずば抜けた才能がある訳でもないし、取り柄もない。そんな人間がこれから日本を代表する四大財閥の御曹司に気持ちを伝えようとしてるなんて筋違いかもしれないけど、藍を大切にしたい気持ちは誰にも負けない。たとえ相手がひまりちゃんだとしても譲りたくないの……」
体中の血液が顔に集結してしまったかのように頬を赤く染め、瞳には大量の雫が待機している。
私がいましてることは間違いだ。
藍とひまりちゃんは私と出会うから結婚が決まっていたのに、私の感情一つでぶち壊そうとしているのだから。
友達の幸せを願わないなんて最低だよね。
でも、それくらい藍のことが好きなんだよ。
すると、ひまりちゃんは私のおでこをツンっと一突きする。
それと共に、瞳からポロッと熱いものが滴った。
赤面したままの顔で見上げると、彼女は腕を組んだままムスッと口を尖らせている。
「……っ、はああぁ〜〜〜あぁ〜〜……っ。よぉ〜〜〜ぉぉやく口を割ったか」
「へ……へっっ?!?!」
「私があやかちゃんの気持ちに気づいてないとでも思った? ほんっとに想像以上に鈍感な人ね」
「ひっ……ひまりちゃん……?」
「口を開けば藍の話をしてるってことは、常に気にしてる証拠でしょ。本当にどうでもいい人なら話題すらあげないよ」
「うっっっ……」
たしかに最初は藍の幼なじみだからひまりちゃんには遠慮がちに話してたけど、気づけばオープンに話してたっけ。
しかも、自分よりもひまりちゃんの方が私の気持ちに気づいていたなんて……。
すると、ひまりちゃんは先ほどとは別人のような穏やかな表情に。
「実はね、日本へ来てから藍が笑ってるところを初めて見たの。あやかちゃんと笑い合ってるところがすごく幸せそうで羨ましかった。私を見る時の目つきとは対照的で、なんか悔しくなって自分も意地を張ってたんだと思う」
「……」
「でもね、私自身もあやかちゃんのことを尊敬してる。転校してから最初に話しかけてくれたのはあやかちゃんだったし、積極的に仲良くしてくれたから一度も嫌いにはなれなかった。お互いの赤白帽子の話が繋がった時は、もう自分が出る幕じゃないなって思ってたの。それにね、実はストーカーばりに二人のことを観察してたんだ。そしたら、何もかもが映画のワンシーンのようで素敵に思えてね」
「ひまりちゃん……」
「誰を選ぶかは藍が決めることなのに、私は自分の弱さを盾にしていた。心の悲鳴に気づかないまま……。でも、さっきあやかちゃんの気持ちを聞いたらそれは間違いだって。もっと自分を大切にしなきゃって思ったの」
「うん……」
「藍はね、これが一生に一度きりの恋なんだって。はっきりと言いきってたよ。だったら、私が幼なじみとしてやることは一つ」
「えっ」
ひまりちゃんはそう言いながらカバンからスマホを出して誰かに電話をかけはじめた。
「あー、もしもし。パパ? 実はね、いま話したいことがあるの。うん……重要な話。あのね。私、婚約破棄することにしたの」
「えっ……」
「……んー、どうしてかって? そりゃあ好きな人と結婚したくなったから。自分だけを愛してくれるような素敵な人とね。……えっ、なんでいきなりそう思ったかって? 友達の素敵な恋愛を見ていたら羨ましいなって。私も人から憧れられるような恋をしたくなったの。結婚って一生に一度きりのことだからね。なにも縛られたくないんだ」
「ひまりちゃん……」
「そんなに怒らないでよ。……いま空港にいてもうすぐで藍が出国するから見送らないと。詳しいことはまたあとで連絡するから。……うん、うん。……ん、私からも後で藍のお父様に連絡しておくから……。うん、うん……。じゃあ、また後でね」
彼女は電話を終えると、再びスマホをカバンの中へ。
私は彼女がどんな気持ちで父親に電話をかけたのかわかっている分、心苦しい。
「帰ったら家族会議になっちゃった。パパがあんなに怒るなんて初めてかも」
「ひまりちゃん、どうして……」
「私、もうフラれてるからこれからなにをしても一緒だし、自分を見てくれない人を一生懸命想い続けても意味がないってわかってるから」
「ごめん、ひまりちゃん、ごめんね……」
「ううん。謝らないで。こっちこそ嫌なことを言ってごめんね。……ほら、泣かないで」
彼女はカバンからハンカチを出して私の頬を拭く。
「だって、だってっ…………」
「これは私のけじめだからあやかちゃんが悩む問題じゃないよ。私は私で精一杯やってダメだったんだから仕方ないの! ……ほら、こんなことしてないで、早く藍のところへ行って気持ち伝えてきなよ」
「……っ、…………いいの?」
「もちろん。頑張ってきて。応援してる! ほら、頑張れ頑張れ!」
私は背中を二回トントンと叩かれたあと、「ありがとう」と伝えてひまりちゃんの元から離れた。
彼女はあぁいう風に言ってたけど、きっと辛い決断だったはず。
でも、私自身も彼女の想いを大切にしなければならない。
だから、たとえどんな結果が待ち受けていても前を向こう。
ひまりちゃんと別れたあと、チェックインカウンターに向かった。
少し待つと、10メートルほど先から藍がスーツケースを引きながら一人で歩いてくる。
数時間前に顔を見たばかりなのに鼻頭がカーっと熱くなっていく。
ようやく会えた喜びと、これからの不安が心の中で入り混じりながら……。
「藍っっ!!」
私は拳をぎゅっと握ってお腹の底から思いっきり声を出した。
すると、彼は私に驚いた目を向ける。
「お前……。どうしてここに?」
「稟ちゃんに聞いたの。藍が今夜日本を発つって」
「えっ!! ちょっ……、待って。どうして稟がお前のところに?」
「私のことが心配で会いに来てくれたの」
「……でも、お前が来てくれてもなにも変わらないよ。俺には俺の人生があるから……」
彼はそっけない口調で私の横を通り過ぎてチェックインカウンターへ向かう。
でも、私はここで終われない。
すれ違いざまに彼の腕を掴んで言った。
「別れたいだなんて本望じゃないくせに」
「えっ」
「日本四大財閥の御曹司ってなによ。大学を卒業したらひまりちゃんと結婚するってなんなのよ……。そんなの知らないし、オーストラリアに帰るなんて聞いてない!!」
「どうしてお前がそれを……」
「全部聞いたの。小学生の頃、私に一目惚れしたのにどうして言ってくれなかったの?」
高校に進学してからすぐに赤白帽子の話をしてくれれば、私たちの関係は少し違っていたのかもしれない。
少なくともいまの距離感じゃなかったはず。
「言わなかったのは、俺を一人の男として見てもらいたかったから」
「……なによ、それ。かっこつけないでよ。みすずに恋の相談をするくらいなら直接私と向き合ってよ。時間がないのに1から恋愛したいなんて無謀過ぎる」
「結果を出せなかったのは残念だったけど、伝えたいことは伝えきったし、恋人だったひとときは一生忘れられないほど幸せな思い出になったから後悔してないよ」
「バカ……。意地を張っちゃって。そんなに遠回りするくらいなら最初から好きだと言ってよ。3週間程度の恋愛じゃ、こっちが物足りないんだよ!」
私は気持ちを叩きつけた後、彼の腕を引いてお互いの唇を重ね合わせた。
各国の人々が散らばる国際空港で恥じらいもなくキスをしたけど、私には彼以外見えない。
3秒間繋がっている唇は、ほんのりと恋の味がした。
返事を渋ってた数時間前の自分がバカみたいに思えるくらい。
ゆっくり唇を離すと、魂がスコンと抜けたような目が向けられていた。
「ちょっ……!! あやかが俺にキスを…………」
彼は顔を真っ赤にさせながら口元をおさえる。
その様子を見てこっちまで恥ずかしくなった。
「私の気持ちなんてまるで無視。ラブレターを入れ間違えたと言っても一歩も引いてくれない。こっちが恥ずかしくなるくらい独占欲が強いから最初は迷惑だなって思っていたけど……。振り返れば毎日が素敵な思い出だった。それがどうしてかと考えてたら、一つの答えが見つかったの」
「……その、答えとは」
私は気合を入れ直すようにつばをごくんと喉へ押し込む。
そして、目線は彼の瞳へ。
「私は藍が好き……。手を繋ぐだけじゃ物足りないし、もっともっといっぱい恋愛したい。別れるなんて嫌。これからもずっと私だけを見ててよ……」
「あやか……」
「オルゴールを聞くだけで藍のことを思い出す。ラムネを食べるだけで甘酸っぱいほど恋しくなる。繋いだ時の手のぬくもりを思い出すだけで愛おしく思う。これって立派な恋だよね。なのに、急にお別れとか無理だから……」
走馬灯のように湧き出てくる思い出。
たった3週間の期間限定恋人だったけど、いまはそれ以上の想いがハートの埋め尽くしている。
少しでも早くこれが恋だと気づいていたら、もっと器用になれたのかな。
感情的になっていたせいか、瞳から熱いものが滴っていき手で顔を覆った。
すると、彼は私の手を引いて胸の中へ包み込む。
「我慢っ……限界……」
「藍……」
「好きだ。4年前から、ずっとあやかのことが……」
「んっ……」
「お前に会えたらなんて言おうかって。いつか俺の気持ちが伝わったらって。お前が俺を好きになってくれたらって。限られた時間の中で願うことばかりが増えていたけど、現実は厳しくて思うようにいかなかった……」
「……うん」
「俺には幼ない頃から婚約者がいるし、留学期間は4ヶ月で時間がない。それに加えて将来をガチガチに固められた御曹司。そんな自分に恋なんて贅沢だと思っていたけど、これが一生に一度きりだと思ったらどうしても諦められなかった……」
「んっ……」
「終わりが見えてても見ないふりをしていた。最後の瞬間まで幸せでいたかったから。ずるいよな、汚いよな……。お前が断るのを前提で別れを告げたんだから」
「ううん。そんなことない。私が藍でもきっと同じことをしていたはず」
藍の言う通り、これが一生に一度きりの恋なら私も同じ。
いま震えるくらい幸せを感じているから手放したくない。
彼は私の肩に手を置いて体を離すと、大きな手のひらで私の髪を撫でた。
「でも、このまま日本に残りたいけど、帰らなければならないんだ。いまは向こうでの生活が拠点だから」
「そ、だよね……」
「ごめん……。もう一つ残念なことを言うと、しばらく日本には戻れない。よほどの事情がない限り外出許可は下りないから。稟もいまは特別な用事があって日本に来ているし」
「向こうでは大変な生活を送っているんだね。明日から藍に会えないなんて寂しいよ……」
結局は思い通りにならない。
彼には彼の生活があるのだから。
もし、彼が御曹司じゃなかったら、こんなに苦労をしなくても済んだのかもしれないのにね……。
でも、代わりになる人なんていない。
「いっぱい連絡する。だから、会えない時期を頑張って乗り越えよう」
「うん。連絡待ってる」
「次に日本に来る時までには自分の問題を解決してくる。両親とひまりにはちゃんと俺の気持ちを伝えるから、そしたらもう一度俺と……」
「私との婚約なら、もう解消方向だけど?」
彼がしゃべっている最中、ひまりちゃんが背後から言葉を被せてきた。
私たちは同時に彼女の方へ目を向ける。
「ひっ、ひまり……。いつからそこに」
「ん〜〜っ。二人がチューしてるところから、かな?」
「!!!!」
「ひまりちゃんっっ!!」
「あはははっ! 大事な話をしてる最中にぶち壊してごめんね。でも、私決めたんだ。藍とあやかちゃんの恋を応援するってね。その代わり、私は世界一最高な男と結婚する。だから、藍は両親、あやかちゃんは世間に認められるような素敵な人になってね」
彼女はそう言うと、私と藍の肩に手を添えた。
肩の荷が下りたのか、少しホッとした彼の顔。
それを見た途端、胸の奥につっかえていたものがスッと楽になった。
――私たちが結ばれることは不可能だと思っていた。
彼は四大財閥の御曹司だし、婚約者もいる。
それ以前に住む世界が違う人だから。
でも、恋をしてしまった。
それは御曹司じゃなくて一般人として……。
この想いは、もう止められない。
――それから1時間後。
私とひまりちゃんは空港の屋上で彼が搭乗している飛行機を見送った。
大きく手を振ってみたけど、夜だから飛行機の中から見えるはずがない。
暗闇に吸い込まれていく飛行機を見るだけで鼻の奥がツンと痛くなる。
「あーあ、行っちゃったねぇ……。藍のこと本気で好きだったのになぁ」
「ひまりちゃん、ごめんなさい……」
「あはは、いいのいいの! 私なりに精一杯想いを伝えても届かない相手なんて縁がなかっただけ。これからは、もっといい相手と出会って結婚するよ」
ひまりちゃんは強い。
好きな人と結ばれなくて辛い想いをしているのに友達の恋の応援するなんて。
自分が彼女の立場だったら同じようにできるのかな。
「いつオーストラリアに帰るの?」
「私は10月末。留学は4ヶ月間って決まってるからね」
「よかったぁ!! ひまりちゃんも一緒にオーストラリアへ帰っちゃったら寂しくて無理」
「こらーーっっ! あやかちゃんのそーゆーところが好き!」
「じゃあ、残り3ヶ月で日本のJK生活を楽しもうよ」
「おぉっ! それいいねぇ〜。期待してるよ!」
恋のライバルがひまりちゃんで良かった。
そして、引き続き友達でいてくれることに感謝してる。
きっとこれが他の人だったら、藍との縁は途切れていただろう。
これからは彼女の強さに見習って自分も頑張っていかないとね。
――それから私たちは連絡を取りながらそれぞれの生活を続けた。
夏休み明け、空っぽになった彼の座席。
付き合う前までは気に留めなかったけど、いまは何度も見返してしまう。
1か月前までは当たり前のようにそこから微笑みかけてくれたから。
いまではあの頃が夢だったのではと思うくらい空虚感に襲われている。
寂しくなった時はラムネを口の中に放り込む。
そうすれば、彼がラムネをくれた日のことを思い出せるから。
最後はクラスメイトへの挨拶がなかったせいか、夏休み明けは噂話が絶えなかったけど、カレンダーの日付が進む度に風化していった。
「寂しい時は素直に寂しいって言っていいんだよ! 藍はいなくても私がいるんだからね」
心強い言葉をかけ続けてくれたひまりちゃんは肌寒くなった頃にオーストラリアへ。
婚約破棄の際は、お披露目の直後だっただけに大変な想いをしたらしい。
でも、最後まで後悔してないと言い張ってた。
そんな強さが羨ましい。
きっと、いまはオーストラリアで藍と一緒に私の話題で盛り上がってるのかもしれない。
たとえ住む世界が違ったとしても、彼女はこれからもずっと親友だ。
みすずは夏休み中に坂巻くんとうまくいって毎日のろけ話ばかり。
羨ましすぎて、藍と付き合ってる頃にもっとしっかり見ていればよかったなぁ〜、なんて後悔したりして。
そんな私はいま、いつか藍の恋人として色んな人に認めてもらえるように勉強を頑張っている。
朝から晩まで机に向かう日々。
その隙間に彼からもらったオルゴールで心を癒やす。
メロディを聞いてるだけで彼が傍にいてくれるような気持ちになるから頑張れるのかもしれない。
その甲斐あって、見事に第一志望の大学に合格。
嬉しくて藍にメッセージを送った。
”おめでとう”って返事が返ってきたけど……。
私たちの時計はあの日に止まったまま。
まだ一度も会えていない。
送られてくる画像を見るたびに恋しさが募っていくばかり。
――そして、高校の卒業式を迎えた。
藍との思い出は最初の4ヶ月間……ううん、実際は3週間だけ。
だったそれだけでも、感情が大きく動かされた時期でもあった。
卒業証書を手に友達との別れ。
散々泣き腫らした後にみすずと二人で最後の門をくぐった。
すると、その先には……。
「あやか、卒業おめでとう」
高校の制服姿で登場した藍があじさいの花束を抱えながら私を待っていた。
会えない間にずいぶん大人びている。
私は彼の姿が視界に入った途端、ブワッと涙腺が緩んで手荷物を床にドサッと落とした。
「藍……、どうして…………」
「去年の12月にオーストラリアの学校を卒業したんだけど、色々あって帰国がこの時期になった。会いに来るのが遅くなってごめん」
「……っ、ううん!! 藍のこと、ずっとずっと待ってた。会いたかったよ……」
「俺も……。日本の大学へ通うことになったから、これからは毎日会いに来るよ。あやかのことが世界一好きな男としてね」
彼の方へ駆け寄って首の後ろに手を回すと、彼は私を抱きしめた。
久しぶりの彼の香りに鼓動が大きく波打っている。
自分でも実感するくらいこれが恋だと証明できる。
――御曹司と一般人の恋。
無縁から始まった私たちは数々の問題を乗り越えて、今日から恋愛二幕目を迎える。
これが一生に一度きりの恋ならば……。
これから二人の間にどんな障害が立ちはだかったとしても、きっと乗り越えて行けるだろう。
【完】