ルートヴィッヒのおもかげ

 翌日、芯が洋館を訪れると、奏太は昨日と同じ『ピアノソナタ第八番』を弾いていた。背筋の伸びた細身の後ろ姿からは、奏太自身の熱意や緊張感がはっきりと伝わってくる。
 隠れる必要はないのに、芯はつい、昨日と同じように壁際でしゃがみ込んでしまった。気迫に満ちたこの演奏を邪魔するなんて、自分には到底、できる気がしない。
 目を閉じて、まぶたの裏に世界を描く。今演奏されている不安定な曲調は、昨日想像した穏やかな湖とは正反対だ。灰色の空が低い音でうなり、鋭い稲光が駆けていく。嵐の予感が、人々を怯えさせる。
 どうして一曲の中で、こんなにも雰囲気が違うのだろうか。
 芯は疑問に思い、より注意深く音を拾った。重々しい和音を重ねたピアノソナタ第八番はしかし、思いの外そっけない曲調に変化したかと思うと、突然流れを止めてしまった。
 唐突に訪れた静寂に、芯は驚いて目を開けた。戸惑っている間にピアノ部屋の窓が大きく開いて、黒い前髪がちらりと覗く。
「おはよう、芯」
 白いシャツの眩しさに目を細める。「おはよう」と返すと、奏太は手招きをして、窓から部屋に入るよう芯を促した。
「ここからでいいの?」
「いいよ。玄関まで回る時間がもったいないだろ」
 そこをもったいなく思う発想は、芯にはなかった。マナーにうるさい母が聞いたら卒倒しそうだ。
 靴のまま室内に入るのは、さすがにまだ躊躇われた。鼓動を速める緊張がレッスンへのものなのか、慣れない方法で人様の家にお邪魔することへのものなのか、だんだんと判別がつかなくなっていく。
 部屋に入った芯に、奏太は壁際から背もたれつきのピアノ椅子を持ってきて、グランドピアノのすぐ脇に座らせた。
「お茶持ってくるから待ってて」
 そう言い残して扉へ向かった奏太に、「いや別に、お構いなく」と声をかける。
「あんまり気遣ってもらっても、なんか申し訳ないし」
「別にいいよ。僕も休憩したいから」
 軽くあしらって、奏太は部屋を出ていった。一人残された芯は若干の居心地の悪さを感じながらも、浅く息をつき、ぼんやりと辺りを見回した。
 部屋はほんのりと薄暗い。それがよけいに、大きな窓から差し込む秋晴れの日光を際立たせている。グランドピアノとサイドテーブル、二脚のピアノ椅子以外にはなにもない、シンプルな空間だ。
 でも不思議と、殺風景な印象は抱かなかった。物の少なさは、演奏への真摯さの現れのようだ。そっけなさの中に温かみがあり、どこか穏やかな空気が、部屋全体を包み込んでいる。
 戻ってきた奏太は、トレーに乗せたグラスの他に、カラフルな表紙の冊子を持っていた。芯が興味を持つと、サイドテーブルに飲み物を置いてからピアノの前に座り、身を寄せるようにして中身を見せてくれた。
「僕が昔使ってた、子ども用の楽譜。楽譜の読み方からやろうと思うんだけど、どう思う?」
 目次のすぐ後ろのページに、動物のイラスト入りで音符の解説がある。図が大きく、説明も平仮名が多くて読みやすいが、内容はかなり専門的だ。
 ドやレといった音名だけでなく、四分音符、八分音符といったリズム的な部分まで言及されているのを見て、芯は途端に不安になった。奏太から楽譜を受け取ってページをめくる。後半になるにつれ音符が増えていって、理解できる気が全くしない。
「ごめん、ちょっと……楽譜は難しいかも」
 芯は正直に奏太に伝えた。これを一からやっていたら、挫けてレッスンを続けられなくなる自信がある。一曲も弾けないまま年が明けてしまう。
 呆れられるかと思いきや、奏太は「やっぱり?」と苦笑いで応えた。楽譜に苦手意識をもって挫折する初心者は、ピアノ界隈では多いらしい。
「じゃあ代わりに、好きな曲を覚えて弾く方法にしようか」
 芯はなにか、弾いてみたい曲はある?
 おもむろにそう言って、奏太はサイドテーブルに手を伸ばす。左右の手で一つずつグラスを持ち上げ、慎重な手つきのまま、片方を芯に差し出してくる。
 受け取ったグラスの中で、麦茶らしき液体が揺れていた。その澄んだ煌めきを見つめながら、芯は弾いてみたい曲について、あれこれと思考を巡らせた。
 まず思い浮かんだのは、いつもやっているスマホゲームのテーマ曲だ。動画再生アプリで演奏動画を見たことがあって、格好いいと密かに思っていた。
 もしくは、最近流行っているドラマの主題歌でもいいかもしれない。芯自身はその曲を好きでも嫌いでもないが、学校で弾いたらウケそう、という下心がわいた。
 麦茶に口をつけながら、どっちにしようかな、と悩む。ゲームの曲は捨てがたいけれど、不登校という自分の現状を考えれば、友人に自慢できる特技ができた方がいいのかもしれない。
 主題歌の方にしよう。
 そう決めて、芯は顔を上げて奏太を見た。しかし、奏太の黒い瞳が稲妻の色に光るのを目にした瞬間、言おうとしていた曲名が喉の奥に引っ込んだ。
 そんなんじゃ駄目だ。そんなんじゃなにも、変わらないだろう。
 昨日鼓膜を震わせた、奏太のピアノを思い出す。激しさに心を奪われ、美しさにため息をついた。真剣な横顔を見て、自分もこんな風に、なにかを大切にしてみたいと思った。
 いつもと同じでは、ましてや人目を気にした選択では、きっと自分は変われない。新しいことに挑戦しなければ、新しい未来は見えてこない。
「俺、奏太と同じ曲が弾きたい。ベートーヴェンのやつ弾いてみたい」
 芯の返答に、奏太は目を丸くして驚いた。芯がクラシックを選ぶとは、露ほどにも思っていなかったようだ。
「難しいけど……大丈夫?」
「わかってる。でも弾いてみたいんだ。奏太の演奏を聴いて、すごくいい曲だと思ったから」
 芯は奏太の顔をまっすぐに見つめた。奏太はしばらく、「うーん」と思案気に首を傾げていたが、やがて斜め下に視線を逸らし、長い指で口元を覆いながらつぶやいた。
「そこまで言うなら、まあ。第二楽章ならいけるかも」
「第二楽章?」
「うん。芯が湖に(たと)えた曲」
 いまいちピンときていない芯に向かって、奏太は『ピアノソナタ第八番』について解説した。
 ベートーヴェンのピアノソナタ第八番は、曲調の異なる三つの楽章から構成される。
 『悲愴』という通り名を体現する、重々しい第一楽章。ベートーヴェンの楽曲の中で指折りの美しさと評される第二楽章。駆け上がる旋律が焦燥感を駆り立てる第三楽章。
 芯が最初に聴いた轟音は、第一楽章の冒頭らしい。その後に聴いた柔らかく穏やかな部分が第二楽章、その後にもう一曲、これまた雰囲気の違う第三楽章が続く。
 途中で曲調が変わったのではなく、一つひとつの楽章が、それぞれ完成された個性豊かな一曲だったのだ。
「もちろん本当は三つでセットだから、通して聴くことでしか味わえない魅力がある。でもどの楽章も、単体で演奏しても十分に素晴らしい曲たちなんだ。第二楽章ならテンポも速くないし、アレンジ次第で弾けるかも」
 そうと決まれば、と意気込んで、奏太は譜面台に乗っていた楽譜に手を伸ばした。数枚めくって見せてくれたページには、びっしりと黒い音符が並び、奏太のものらしき書き込みもいくつか見受けられた。
「この一番上の音がメロディーになるんだ。ちょっと聴いてて」
 奏太はそう言って、恥ずかしがるでも気取るでもない調子で、第二楽章の旋律を歌った。よく澄んだ、落ち着いた響きは、普段から音楽が身近にある人間の歌声だった。
 奏太は最初の一フレーズを歌い終わると、今度は芯にも、自分の真似をして歌うよう指示を出した。
「え、俺も歌うの?」
「うん。音楽の基本は歌だからね」
 あれこれ文句を垂れる間もなく、奏太は「せーの」と声をかけて、先ほどと同じフレーズを歌い始めた。芯は慌てて、小さな声でつぶやくように奏太の歌をなぞる。
 二人だけの部屋はひどく静かで、重なった歌声が鮮明に聴こえた。奏太の朗々とした響きに比べて、芯の歌声は、掠れ、震えて、とても美しいとは言えないものだ。
 それでも芯は、胸に温かな熱が灯るのを感じていた。部屋に差し込む日差しが、やけに(まばゆ)く輝いて見える。声を出しているせいか、体温も実際に上がったように感じられる。
 奏太の長い指先が、拍に合わせてゆらゆらと揺れていた。それを見ているうちに、だんだんと恥ずかしい気持ちも薄れ、芯は夢中になって旋律を追う。
 息を吐き出した分だけ、新鮮な空気が肺を満たし、酸素が全身にいきわたっていった。自分の本当の声を、久しぶりに聴いた気がした。
 同じフレーズを何回か繰り返した後、奏太はおもむろに立ち上がった。譜面台の近くに身を寄せ、先ほどまで自分が座っていたピアノ椅子を示しながら、「どうぞ」と少しおどけた調子で言う。
 促されるがまま、芯はまだ温もりの残る座面に腰掛けた。ふっくらとした感触に、背筋が伸びる思いがする。緊張感から、胃のあたりが押しつぶされたような痛みを訴える。
「真ん中のドってわかる?」
 尋ねられて、芯は慌てて目の前の鍵盤に視線を落とした。モノクロの鍵盤は見ているだけで気が遠くなりそうだったが、小学生の頃にやった鍵盤ハーモニカの記憶を頼りに、それらしい白鍵を探す。
「これ?」
「すごい。よくわかったね」
 奏太は嬉しそうに答えて、にっこりと優しく微笑んだ。芯の頬は思いがけず熱くなる。「そんな、大したことじゃないから」と謙遜して、奏太の綺麗な顔から目を逸らす。
「ピアノソナタ第八番の第二楽章は、その音から始まるんだ。わからなくなったらウサギで見つけるといいよ」
「ウサギ?」
「うん」
 大真面目な顔で、奏太は右手でピースサインを作った。人差し指と中指の第二関節をぴょこぴょこと折り曲げて、「ウサギ」ともう一度言う。
「この耳のところを、真ん中の二本の黒鍵にあてる。そうすると、親指の場所が真ん中のドになるから」
 ぐっと身を寄せて、奏太は鍵盤にウサギのピースサインを置いた。人差し指と中指を中央の黒鍵にあてがい、折りたたんでいた親指を開く。確かに、その親指のある場所が、芯がさっき言い当てた真ん中の「ド」になっている。
 ウサギ。ウサギかあ。
 ふふ、と笑うと、奏太は不思議そうな目で芯を見た。「どうかした?」と尋ねられたので、芯は正直に口を開く。
「いやなんか、可愛いなあと思って。ウサギ。ウサギね、覚えたから大丈夫」
「ああごめん、子どもっぽかったね」
 奏太は照れくさそうに頬をかいた。「僕は昔、こうやって教わったんだ」とつけ加え、芯に鍵盤をよく見ているよう指示を出す。
「最初の三音はこんな感じ。真似できそう?」
 そう言って、奏太はメロディを歌いながら、白、黒、黒の順番で鍵盤を押した。
「白いのだけじゃないんだ」
「うん。黒鍵も使うから、頑張って覚えて」
 芯は神妙な顔でうなずき、奏太の見本通りに鍵盤を押す。
 音が鳴った。正真正銘、ピアノの音だ。今まではただ聴くだけだった温かみのある音色が、今確かに、自分の指先からこぼれている。
 それが無性に嬉しくて、芯は傍らに立つ奏太を振り仰いだ。黒い瞳とぱっちり目が合う。「すごい、鳴った!」と、はしゃいだ気持ちに任せて歓声を上げる。
 奏太はしばらく、ぽかんと口を半開きにして、まばたきを繰り返していた。やがてその目が、きゅっと細くなる。小さく息をもらして、なぜか少し、照れくさそうな笑みを浮かべる。
「そりゃ鳴るよ。ピアノだからね。でも、気に入ってくれたみたいでよかった」
 うんうんと頷き返しながら、芯は覚えた三音を繰り返し弾いた。始まりの音は、なんだか特別な感じがする。その響きを楽しみながら、芯はこの先のメロディーに思いを馳せる。
 芯が飽きてきた頃合いを見計らって、奏太は三音の続きを教えてくれた。新しい部分を教える時、奏太は指先を動かしながら、必ずドレミを口ずさんだ。
 小さな唇からこぼれる音色が心地いい。滑らかな鍵盤の感触と穏やかな秋の陽光を感じながら、芯は夢中になってピアノを弾いた。
 そんな芯を、奏太は終始、温かい眼差しで見守っていた。
 洋館の鉄門を押すと、だいぶ耳に慣れたピアノソナタ第八番が、初めて聴いた時と変わらぬ音圧で芯の心を震わせた。芯は足音を忍ばせて、向かって右手側、ピアノ部屋のある方へ歩く。
 すっかり定位置になった壁際に座り込んで目を閉じると、いつものベートーヴェンの世界が、まぶたの裏で翼を広げ、芯を楽しませた。
 芯が洋館を訪れる時、奏太は大抵、ベートーヴェンのピアノソナタ第八番を弾いている。ルーティンがあるようで、これは午前中の練習が終わりに近づいている時の曲だ。
 最も研ぎ澄まされた、切れる寸前の集中力をもって、奏太の『悲愴』は奏でられる。芯はこの二週間、洋館を訪れるたびに奏太の演奏を聴いているが、何度聴いても全く飽きる気がしない。
 強い日差しも、植物のざわめきも、もれ聞こえる音の連打に絡め取られ、一つになって芯の脳裏を駆け巡った。曲の調子に合わせて、数多の色が網膜を彩る。まぶたの裏の真っ暗なスクリーンを、幾人ものダンサーが跳ねて回って踊り出す。
 ピアノソナタ第八番は、三楽章全て演奏すると約十八分だ。「何個音符があるの?」と尋ねたら、「さすがにそこまで数えられない」と奏太は答えた。
 それらが全て彼の頭に入っていることを、芯はもう知っている。
「芯」
 演奏が終わると、開いていた窓から奏太が顔を出した。困ったように笑いながら、ひらひらと右手を振ってみせる。
「勝手に入ってきていいって、いつも言ってるのに」
 ここが好きなんだ、と答える芯に、奏太はいつも通り、ため息をつきながら肩をすくめた。その後ろ姿を見るまでが、最近の芯のお気に入りの時間だ。
 芯は窓から部屋に入り、ピアノの前に座って、奏太がキッチンからお茶を持って戻ってくるのを待った。どんなに通い詰めても、奏太は芯に、よく冷えた麦茶を出してくれる。
 奏太からは、部屋に一人の時でも、自由にピアノを弾いていいと言われていた。でも、自分の不慣れな演奏を、屋敷のどこかで奏太が聴いていると思うと、緊張して演奏する気になれなかった。
 廊下の方で足音がして、入り口の扉が開く。麦茶の入ったグラスを二つ、銀色のトレーに乗せて、奏太がこちらに歩いてくる。
「相変わらず暑くて嫌になるな」
 十月も半ばになり、だいぶ涼しくなったとはいえ、今日のように天気のいい日はまだ暑い。奏太はグランドピアノ横のサイドテーブルにトレーを置いて、襟元をぱたぱたと動かした。
「来月になったら急に涼しくなるよ。秋ってそんなもんだろ」
 トレーからグラスを持ち上げながら、芯は答える。
 昔はもっと季節がはっきりしていたらしい。しかし芯の物心がついた頃からだろうか、日本の四季は年々、失われつつある。
 夏はより暑く長く、冬はより、寒く厳しく。過ごしやすい気温が続くのは稀で、春と秋は既に絶滅危惧種だ。
 地球温暖化の影響は年を重ねるごとに深刻さを増している。過ごしづらくなったと嘆く人も多いが、それでも芯は、変わりつつある日本の天候を、一概に嫌いだとも思っていなかった。
 厳しい気候が続けば続くだけ、時折訪れる花見日和や秋晴れが、より一層心地よく感じられた。激しさが束の間の穏やかさを引きたてる様は、奏太の演奏するベートーヴェンにどこか似ていた。
 なんとなく嬉しくなって、芯は小さく笑いながら顔を上げた。さっそく伝えようと口を開くが、奏太の横顔を見て思い留まる。
 グランドピアノ横のサイドテーブルにトレーを置いて、奏太は手に持ったグラスをじっと見つめていた。緩いウェーブの黒髪が影をつくっていて、どこか憂いを帯びた雰囲気が漂ってくる。
「奏太?」
 芯が声をかけると、奏太は我に返ってこちらに顔を向けた。そこに浮かんだ不安げな表情に、芯は思わずたじろいでしまう。
「ごめん。グラスもらうよ」
 どうしたの、と声をかける前に、奏太は自分の麦茶を飲み干し、芯に向かって手を伸ばす。戸惑いながらも、その長い指に、芯は飲みかけのグラスを預けた。
 奏太はそれを、ゆっくりとした動作でサイドテーブルに置いた。ピアノは水濡れ厳禁だから、グラスを扱う彼の動作も自然、几帳面なほど慎重になる。
 奏太はそのまま、芯にピアノを弾くよう促した。芯はおずおずと右手の中指を真ん中の「ド」に乗せて、昨日までの記憶を引っ張り出しながら鍵盤を押す。
 『悲愴』の第二楽章が、たどたどしい響きであたりの空気を震わせた。芯の頭の中では、奏太と一緒に歌って覚えた音名が再生されており、それに合わせて指を動かしている状態だ。
 レッスンを始めて二週間が経ち、右手のメロディーはだいぶ弾けるようになってきた。初めに決めた通り楽譜はなくて、自らの記憶だけを頼りに演奏を進めている。
 シ――レ――ド――ミ――ラ――シ――……。
 鍵盤を覗き込むようにピアノに身を預けて、奏太もゆったりと歌い出す。控えめだが柔らかい発声には、奏太の音楽への慈しみが感じられる。
 芯は鍵盤に集中しているフリをしながら、こっそり視線を上げて奏太の顔を見た。伏せられたまぶたや薄く笑った唇に少し見惚れてから、慌てて我に返って、意識をピアノに引き戻す。
 どこか掴みどころがなく、初対面時は怖いとすら感じた奏太だが、一緒にいると驚くほど優しい顔を見せる瞬間がある。それはだいたい、彼がピアノのそばにいる時で、芯はいつの間にか、そんな奏太を盗み見るのが癖になっていた。
 奏太がピアノを大事にしている様子を見ると、芯はなぜか、ひどく安心した。不安定な胸のうちがすっと凪いで、いつもよりも深く息を吸えるような気がするのだ。
「あ、そこはナチュラルね」
 間違えて違う音を弾くと、すかさず奏太が声をかけてきた。芯は続きを弾くのをやめて、隣に立つ奏太を見上げる。
「ナチュラルってなんだっけ」
「シロ」
「あ、そっか」
 間違えたフレーズを、芯は頭から弾き直す。黒鍵と白鍵の区別は、奏太がこの曲を「難しいよ」と言った最大の理由である。
 ベートーヴェンのピアノソナタ第八番第二楽章は、シ・ミ・ラ・レの四音にフラットがつく。つまり、この四音については、白い鍵盤ではなく黒い鍵盤を弾かなければならない。
 ただし、例外アリ。「ナチュラル」がついた場合は、黒鍵ではなく白鍵を弾かなければならない。
 このややこしいルールに、初心者の芯は正直、大混乱である。咄嗟に判断できないので、トライ&エラーを繰り返しながら、指の動きと映像で覚えるしかない。
 間違えてしまった焦りによって、芯はなかなか、フレーズを正しく弾き直すことができなかった。見兼ねた奏太が手を伸ばしてきて、ゆっくりと手本を見せてくれる。
 ワイシャツの腕がすぐ横に迫り、芯は反射的に、少しだけ身を反らせた。「シロ、シロ、クロ」とリズムに合わせて解説する声が近くで響いて、鼓動が少し、速くなる。
 ずっと人と関わっていなかったせいなのか、芯は最近、奏太と距離が近づくとドキドキするようになってしまった。まあ基本的に、他人と近づけば緊張するのは当たり前だと言い聞かせつつも、さすがに気まずいなと思わなくもない。
 頬が熱い気がして、つい視線を下げたら、スラックスに覆われた細い腰が目に入ってよけいに後悔した。奏太の長い手足や細い腰は、男目線でもひどく艶めかしい瞬間がある。
「芯、大丈夫?」
 不審そうに声をかけられて、芯は慌てて顔を上げた。上げた先でばっちり目が合ってしまい、もう一度心臓が跳ねたのを誤魔化しながら、「ごめん、疲れちゃって」と苦笑いをつくる。
「じゃあちょっと休憩にしよう」
 奏太はそう宣言すると、脇に置いてあった背もたれつきのピアノ椅子に腰を下ろした。ぐっと一度伸びをしてから、芯に飲みかけの麦茶を渡してくれる。
「芯はずっとここにいるの?」
 ふいに尋ねられ、芯はグラスを受け取りながら、曖昧に答えた。
「ああ、うん……どうなんだろうね」
「どうなんだろうねって?」
「いやあの、なんていうか。もう気づいてるかもしれないけど、俺今学校行けてなくて」
 改めて口にすると、現状がぐっと深刻さを増した気がした。事実の重さに押しつぶされないよう、芯は精一杯の作り笑いを浮かべた。
「でもいじめがあったとか、そういうんじゃないんだ。変だよね。自分でもわかってるんだけど、学校に行こうとするとどうしても、体が重くなって」
 芯は久しぶりに、学校に行けない朝の暗い気持ちを思い出す。起きようと思っても起きられないこと。起きられないとわかっているのに、起きようと努力しなければならないこと。
 最近はずっと、ほぼ毎日この洋館に通い詰めていたので、あの絶望感をすっかり忘れていた。この洋館にはそれくらい、どこか浮世離れした雰囲気があった。
 荒れ放題の庭は一周回って秘密基地みたいだし、室内は土足、黒く艶めくピアノが羽を広げ、家主の奏太はいつも、白シャツに黒いスラックスを合わせている。
「そんなに珍しいことでもないんじゃない」
 馬鹿にするでも、同情するでもない声が返ってきて、芯はなんだか拍子抜けする。傾けていたグラスの角度を元に戻し、奏太の顔を改めて見つめる。
「生きてれば誰だって、自分がどうしたいのかとか、どうするべきなのかとか、わからなくなっちゃう時があるもんでしょ」
 寂しそうに笑った奏太は、膝の上で伸ばした自らの指先をぼんやりと眺めていた。儚げに震えるまぶたは芯に、奏太もまた、この山奥の洋館でなにか考えることがあるのだろうと感じさせた。
「奏太はどうしてここにいるの?」
 勇気を出して、努めて静かに尋ねてみる。今までは自分のことばかり気にしていたが、よく考えれば、奏太とここで出会ったことも、なかなかに不思議な縁である。
 それこそ、同い年のはずなのに、学校はいいのだろうか。なぜ日本にいるのか。いつも熱心に練習している曲たちは、一体どこで披露するつもりなのか。
 じっと見つめると、奏太は視線を上げて芯を見返した。闇色の瞳に、稲妻がちらりと走る。
「僕もまあ、夏休みの延長線ってところ。本当はドイツのギムナジウムに籍があるんだけど、昔からお世話になってる日本の先生に習いたくて、一時的に帰国してる」
「ここは奏太の実家ってこと?」
「いや? 実家は静岡。ここはドイツ人だった曽祖父の屋敷」
 山奥だけどこっちの方が東京に近いから、とまとめて、奏太は笑った。一線を引くようなその笑みに、芯はもどかしさを覚える。
 奏太が落ち込んでいると、なぜか自分まで胸が痛んだ。少しでも自信を持ってほしくて、芯は思わず口を開いた。
「奏太って恰好いいよね」
「ええ? なに、急に」
「だって、同い年なのにさ、ドイツとか帰国とか一人暮らしとか」
 芯の言葉に、奏太は今度は、照れくさそうに頬をかいてはにかんだ。そんなことないよ、と答える声には年相応の感情がにじんでいて、芯はこっそり胸を撫で下ろす。
「芯は今、どこに住んでるの?」
「ここより少し下にある、じいちゃんの家。海外旅行が多い人だから一人暮らし状態だけど、俺の場合は奏太とは違って、ただ逃げてきたようなもんだから」
 学校からも、母の小言からも逃げて、芯はここに来た。挙げ句の果て、学校に行けない自分からも逃げて、芯は今この洋館にいる。
 奏太の経歴やピアノへの真摯さを、素直にうらやましいと思う。そんな風に一つのことに向き合える人間だったら、自分は今悩んではいないんじゃないかと考える。
「空っぽなんだ、結局。なにやっても続かないし、行きたい大学も将来就きたい職業も決まらないし」
 いつからだろう。体がこんなに重くなったのは。頭の中が時々、こんなにも霞がかって、足元すらおぼつかない感覚に陥るようになったのは。
 そう自問しながら、芯はぼんやりと、四月に進路希望調査票を配られた時のことを思い出していた。第一希望から第三希望までの三つの空欄を前に、突然大きな不安感が迫ってきて、足元が揺らぐような感覚に襲われた。
「芯は最初、僕のピアノを湖に喩えたよね」
 背を丸め、項垂れて黙り込んでいた芯に、奏太は唐突に言った。「あれはどうして?」と尋ねる顔は、いつもピアノに向かっている時と同じ、一途で真剣な表情だ。
「どうしてもなにも……感じたままを言っただけだよ。奏太の演奏を聴いて、俺には湖が見えたんだ。だからそう言っただけ」
 戸惑いながら答える。奏太に「すごいね」と返されて、芯は本気で首を傾げた。すごいのはむしろ、あんな世界をピアノの音だけで創り出す、奏太の方ではないだろうか。
「僕にはあんまり、そういうのはわからないから」
 少し困ったように笑いながら、奏太は言葉を続ける。
「僕はね、音楽を聴けば全部の構成音がわかるし、その曲の調とか拍子、リズムまで、簡単な楽譜におこせるくらいには把握できる。でも芯が言った、景色とか、温度とか、そういうのはよくわからない。ドはドだし、レはレだし、音の響きや曲の構成を美しいと思っても、それが視覚や触覚的な心地よさには結びつかないんだ」
 奏太の言葉を、芯は意外に思う。それはつまり、奏太はなにか音楽を聴いても、どこか別の場所の景色が思い浮かんだり、暖かさや寒さのイメージをもったりはしない、ということだろうか。
 芯は困って、視線をさまよわせた。音楽を聴いた時に想像が広がり、出来上がった世界に感覚を刺激されるのは、当たり前のことだと思っていた。
「それって、奏太は音楽やってて、楽しいの?」
 どう答えるのが正解か迷った末、芯はつい、頭に浮かんだ疑問をそのまま口に出してしまった。言い切ってから、失礼だったかもしれないと気づき、慌てて口元を押さえる。
 なぜこんなことを聞いてしまったのか――奏太が音楽を楽しんでいるのは、普段の様子を見ていればすぐにわかることなのに。
 申し訳なさから、少し上目遣いに、芯は奏太の顔を覗き込む。しかし奏太は、特に気分を害した様子もなく、「楽しいよ」と言って薄く笑った。
「景色や温度と結びつかなくても、綺麗な音を聴けば心が震える。和声の進行とか、主題の繰り返しとか、いいものに出会うとすごく嬉しいし、ベートーヴェンのソナタの再現部なんか、カッコよくてゾクゾクする」
 和声。主題。再現部。
 芯の知らない用語を並べて音楽を語る姿に、奏太はやっぱり、別世界の人間なのだなと実感する。それでも、その頬が珍しく紅潮していることに気がついて、芯は無性に嬉しくなった。
 同じ音を聴いているのに、全く違う捉え方をする人がいる。全く違う捉え方をしているのに、最後には、同じ曲を同じだけ「美しい」と感じる。
 複雑で不思議で、驚くほどに面白い。
 初めて奏太の瞳を覗き込んだ時の、胸の高鳴りが蘇る。やはり、宇宙の秘密はここにあった。目の前のこの男の、暗闇を駆ける稲妻の中に。
「芯は自分のこと、『空っぽだ』って言ったけど、そんなことないと思うよ。芯は僕にないものを、ちゃんともってるんだから」
 ふいを突かれて、芯は押し黙った。眩しいものを見るような目で、奏太が自分を見ている。そのまなざしに、言葉に込められた想いに、じんわりと体温が上がるのを感じる。
 暗く淀んでいた心に優しい色彩が加わって、軋んでいたはずの体中の関節の動きが、少しずつ滑らかになっていくような感じがした。気を抜いたら泣いてしまいそうで、芯は奏太と目を合わせないまま、小さな声で礼を言った。
 「どういたしまして」と、なんでもないような調子で奏太が応じる。やがて訪れたくすぐったい沈黙に、芯も奏太もぎこちなくうつむいた。
「でもあんまり、芯を励ますのはやめようかな」
 やがて奏太は、小さな声でぽつりとつぶやいた。なんで? と顔を上げた芯に、照れくさそうな、少しいたずらっぽい笑顔が向けられる。
「だって寂しいじゃん。芯は元気になったら、ここには来なくなるんでしょ」
 稲妻の瞳はやはり、なぜか眩しそうに細められていた。ピアノのそばにいる時の優しい表情が、惜しみなく自分に向けられていることに気がついて、芯は小さく息をのむ。
「君が来なくなったら、僕は寂しいよ」
 その肌の白さに、瞳の美しさに、視界を奪われて離せなくなる。ここではいつも、聴覚ばかり敏感になるけれど、今この瞬間だけは、全身が視神経になって世界を見つめていた。
 そっちこそ、いつまで日本にいるつもりなの。
 喉まで迫り上がった問いを、芯はすんでのところで飲み込んだ。それを聞いたら最後、この美しい魔法は解けて、もう二度と彼に会えなくなってしまうような気がした。
「俺だってできればずっと、ここにいたいよ。母さん過保護で、うるさいし」
 胸を締めつける寂しさを紛らわせようと、芯はわざと冗談混じりに言葉を返した。にじみ出た愚痴っぽい響きに、奏太は肩をすくめて苦笑する。
「へえ。なにか言われた?」
「どうして学校に行けないんだって。そんな簡単に理由がわかるんだったら、俺だってこんな、焦んないし」
 焦んないしと言って初めて、ああ自分は焦っていたのかと自覚する。友だちは多いつもりでいたけれど、こうやって素直に弱いところを見せられる相手は、奏太が初めてかもしれない。
「嫌なんだったら、嫌って言えばいい。そこで親に忖度する義務なんて、僕たち子どもには一ミリもないんだから」
 自分を子どもだと言い切ってしまえる奏太は、芯から見れば十分に大人だった。そんな簡単に割り切れたら苦労しないんだよと、つい文句を言ってやりたくなる。
「……奏太、もし、もしだよ。ピアノが弾けなくなったら、奏太はどうするの?」
 少し意地悪なことを聞いて、たまには奏太の焦っているところを見てみたい。そんな出来心からの質問だった。だから芯は、返ってきた単語の強さや声色の揺るぎなさに、ただ驚くことしかできなかった。
「そんなのはもう、とっくに決まってるよ」

 ピアノが弾けなくなったら、僕は死ぬんだ。
 芯が奏太から「ピアノを聴いてほしい」と頼まれたのは、三日後のことだった。昼前に芯が洋館を訪れると、奏太はピアノソナタ第八番ではない、別の曲を練習していた。
 線の細い、優雅に宙を漂うような曲調を聞いて、なんとなくベートーヴェンの作品ではないように感じた。それでも芯はいつも通り、外の壁際に座り込んで、演奏が終わるのを待った。
 演奏中の部屋に押し入るのは、いくら本人に許可を出されてもためらわれる。奏太が一人でピアノを弾く時、その周りには、触れがたい緊張感が漂っている。
 もちろん、芯が同じ部屋にいても、奏太は一切気を散らすことなく素晴らしい演奏をする。それでも、そういう時の演奏と、彼が本当に「ひとり」でいる時の演奏とでは、やはりなにかが違うのだ。
「芯」
 程なくして、窓から奏太が顔を出す。芯は内心驚いた。奏太が演奏を途中で切り上げて声をかけてくるのは、芯がこの洋館を訪れるようになってから初めての出来事だった。
「どうしたの?」
 慌ただしく立ち上がると、奏太は芯に、室内に入るよう手招きで合図した。若干戸惑いつつ、普段通りの要領で窓枠をくぐると、奏太は芯の目をじっと覗き込んで口を開いた。
「ピアノ、聴いてほしくて。『バラード第一番』っていう、今度レッスンで弾く曲なんだけど」
 その声は珍しく強張っていて、表情もどこか硬い感じがした。口早に告げられた注釈を聞いて、彼が緊張しているのだと芯は気づく。
「もちろん、俺でよければ」
 こうやって改めて頼まれると、自分が演奏するわけでもないのに足が震えた。そんな芯の元に、奏太はわざわざ背もたれつきのピアノ椅子を持ってきて、客席だと思って座るように促した。
 腰を下ろして目の前のグランドピアノを眺める。それだけで、簡素な部屋は小さなコンサートホールに様変わりした。秋の穏やかな陽光に、よく磨かれたグランドピアノの屋根が光っている。
 芯の準備が整ったのを見て、奏太は視界の左側から颯爽と歩いてきた。つま先を揃え、優雅にお辞儀をする姿は、紛れもなく本物のピアニストだ。
 椅子の位置を調整する音が、静まりかえった部屋に響く。芯はその音を聞きながら、白いシャツにスラックスという奏太の出立ちが、いつでも舞台に出られる格好だということに気づく。
 芯の座っている位置からは、奏太の白い横顔がよく見えた。一切手を抜く気のない、怖いくらいに真剣な表情だ。すっかり気圧された芯は、奏太はいったい、どこまで音楽に身を捧げているのだろうかと考える。
 張り詰めた空気の中、長い指先が鍵盤に触れる。
 沈黙を鮮やかに切り裂いて、最初の一音が奏でられた。テナーとバスのユニゾンが、どこまでも深い響きで空気の色を変えた。
 シンプルかつ圧倒的な音色の美しさが、芯の心を掴んで離さない。震える弦まで見えるようだ。
 曲の途中、芯からすれば神業のように見える技術的な難所も、奏太は難なく弾きこなしてみせた。最後の和音が途切れたタイミングで、芯は奏太に、盛大な拍手を送った。
「すごい、こんなに難しい曲が弾けるなんて。全然間違えないんだ。楽譜も見てないのに」
 ただ思ったことを、いつも通り素直に伝える。芯はすっかり、奏太の複雑な指の動きや、数多の構成音をコントロールしきる集中力に魅せられていた。
 それはもちろん、心からの称賛のつもりだった。しかしお辞儀をしてこちらに歩いてきた奏太は、やけに険しい顔をして芯を見返した。
「……それだけ?」
「え?」
「感想、それだけ?」
 鋭い視線に体が強張る。射すくめられ、最初に会った時のように動けなくなってしまう。
 芯が怯えていることに気がついた奏太は、はっと我に返って気まずそうに謝った。ピアノの前の椅子に戻って楽譜を開きながら、「やっぱり駄目か」と小さくつぶやく。
「え、なにが? どこが駄目だったの? 俺変なこと言った?」
 芯としては、聞き捨てならない言葉だった。奏太の演奏は文句なしに素晴らしい。自分なんかの感想で奏太が落ち込んでしまっては、空から槍が降るくらいの一大事だ。
「いや、芯は悪くないよ。怖がらせてごめん」
「それは別に……それより、なんで」
 奏太はしばらく、なにかを言い渋っていた。答えるよう促しても、「言わせることじゃないから」の一点張りで取り合ってくれない。
 それでも諦めずに、芯は奏太を見つめた。この前「空っぽじゃない」と励ましてもらったことが、まだ芯の胸に残っていた。
 傷つけたのなら謝りたいし、もし奏太が悩んでいるのなら、できる限り彼の力になりたい。そうやって自分も、奏太の役に立ちたいのだ。
 芯の必死の視線に根負けしたのか、やがて奏太は、苦々しく笑いながら説明を始めた。
「演奏を聴いた人の感想でさ、最初に出てくる言葉が、『難しい曲だね』とか『間違えてなかったね』じゃ駄目だよなって思うんだ」
 それって、この曲のよさよりも、僕っていう演奏者の方が印象に残ったってことだろ。
 口元は笑っている。眉も困ったように下がっている。でもその瞳の奥では、理想通りの演奏ができない悔しさや歯痒さ、それでもよりよい演奏を目指すのだという強い意志が、いくつもの閃光を放ちながら蠢いていた。
 芯は、自分の背筋が大きく震えるのを感じた。奏太は今まで、どれほどの熱意で音楽と向き合ってきたのだろう。これからの人生を、どれだけピアノに捧げるつもりなのだろう。
 ――ピアノが弾けなくなったら、僕は死ぬんだ。
 迷いなく放たれた言葉の重みが突然、二倍にも三倍にも膨れ上がる。信じていなかったわけではない。それでも、なにかを大切にし続けた経験のない芯には、奏太の覚悟など最初から、理解できるはずがなかったのだ。
「『バラード第一番』はショパンの曲。確かに難しい曲だよ。でもそれ以上に叙情的で、聴く人に訴えるものがある曲のはずなんだ。技術的なことばっかりできたって、それは本当のピアニストとは言えない。人の心を動かせなくちゃ意味がない」
 より高みを目指して、奏太はもがいていた。まだ未完成の、剥き出しの自分を抱えて。
 胸が締めつけられて、芯は息が苦しくなる。「ピアノが弾けなくなったら死ぬ」とまで言っていた奏太にとって、自分の演奏を「意味がない」と感じる瞬間というのは、どれほどの痛みを伴うだろうか。
 技術的にすばらしい演奏に意味がないとは、芯は思わない。だけどきっと、そんな慰めは、奏太には通用しないのだろう。
「奏太」
 奏太がゆっくりとこちらを見る。ひりついた表情に見え隠れする不安に気づき、芯は唇を引き結んだ。
 芯は素人だ。技術的なアドバイスなんてできるわけがないし、それっぽい言葉で誤魔化すこともしたくない。
 だとしたらもう、演奏を聴かせる相手として奏太が選んだ自分を信じて、まっすぐにぶつかることしかできない。
「楽しもう!」
「は?」
 突然明るい声を出した芯を、奏太は怪訝そうに見た。
「俺はやっぱり素人だから、難しいことはよくわからない。でもなんだって、楽しくないよりは楽しい方がいいはずだろ。ピアノが楽しいってこと、俺に教えてくれたのは奏太だ。奏太のピアノをもっといっぱい聴いていたい。ピアノを弾く奏太をもっと見ていたい」
 全部が本当の気持ちだった。奏太の演奏を聴いて、ピアノに興味を持った。自分で弾くのは難しいけれど、諦めないで練習している。ピアノを弾く奏太を見ていると、不思議と心が安らかになる。
 奏太って、クラシックじゃなくても弾けるの?
 芯が尋ねると、奏太は戸惑いながらもうなずいた。
「まあ、知ってる曲なら。あんまり詳しくないけど」
「じゃあさ、これは?」
 芯は視線を斜め上にやって、コンビニエンスストアの入店音を口ずさんだ。「それはまあ、有名なやつじゃん」と拍子抜けしたように言って、奏太はメロディーを右手で追った。
 芯は今度は、SNSで流行っている歌を歌ってみる。あまりピンときていない様子の奏太だったが、芯の歌から音を探り当てて、なんとか弾いてみせた。
 夕方五時の放送が、メッセージアプリの着信音が、奏太の長い指から軽やかに紡ぎ出される。ピアノの音色で聞く日常の音たちは、なんだか澄まして、余所行きの格好をしているみたいだ。
 CMでよく聞く曲を頼んだら、クラシックだけ異様にスムーズなのがおかしかった。電気屋やスーパーマーケットのテーマソングは、奏太の伴奏に合わせて芯が歌った。
 最寄駅の発着メロディを聞いて、無性に旅行に行きたくなる。聞き慣れた音の羅列が、芯をたまらなく愉快にさせる。芯が笑えば笑った分だけ、それにつられるようにして、奏太の頬の強張りも解けていく。
 そのうち奏太は、自動車のクラクションやトラックがバックする時の警告音、レジの音など、曲とも呼べない生活音すら、ピアノで再現してみせた。奏太には普段から、これらの音が全て、ドレミで聞こえているようだった。
「絶対音感ってやつ?」
 芯が尋ねると、奏太は「うん」と自然な調子でうなずいた。
「踏切の音とか、鳥の鳴き声、あとは赤ちゃんの泣き声なんかも、結構音程で聞こえたりする」
「すごい。それって鬱陶しかったりしないの?」
 もし自分だったら、と想像してみる。ドレミで考えると実感しづらいが、まあつまり、周囲から聞こえる音全部が、言葉に聞こえることと同じではないだろうか。
 外にいる間中、どこに行っても他人の話し声が聞こえる状態なんて、想像しただけで大変そうだ。気疲れも多いだろうなと、芯は少し心配になる。
「そうでもないよ。具合悪いときとか、疲れてる時はさすがに、勘弁してくれって感じだけどね。僕の場合は物心ついた時からこうだったし、周りにいつも友だちがいるみたいで、小さい頃はむしろ楽しかったなあ」
 懐かしむような表情で、奏太は鍵盤を見つめた。そのまま、愛おしそうな手つきで鍵盤を撫でる。穏やかな沈黙に、奏太の優しい声が響く。
「だから僕は、ピアノが好きなのかもしれない」
 その言葉には、揺るぎない愛情がこもっていた。その笑顔から目が離せなくなったまま、むしろしっかりと見つめ返して、芯は口を開く。
「奏太、俺今、すごく楽しい。色々弾いてくれてありがとう」
 俺、奏太のピアノ好きだよ。
 だから大丈夫だよ。
 恥ずかしかったけれど、誤魔化さないで伝えてみる。ピアノに真剣な奏太は格好いい。でも同時に、どこか追い詰められているような、苦しそうな空気をまとっていたのが気になった。
 演奏者が苦しそうだと、聴いている方もなんだか、苦しくなってしまう。今日は奏太の緊張が伝播して、芯も体が強張っていた。そういう何気ない、小さなことの積み重ねが、曲を聴く芯の感性にも影響を与えたのかもしれない。
 芯の言葉を聞いたっきり、奏太はすっかりうつむいてしまった。芯は「どうしたの」と声をかけ、恐る恐る近づいて顔を覗き込む。
 その表情を見て、芯は目を見開いた。奏太の瞳は涙で潤み、滑らかな頬は、耳の方まで赤く染まっていた。
「え、えっ? ごめん、俺また変なこと言った?」
 芯は戸惑って、つい意味もなく辺りを見回してしまう。普段大人っぽい奏太に泣かれると、ひどく調子が狂った。なんと声をかけていいかわからないし、わからないのに、赤くなった目元や小さな唇が妙に可愛く見えて、本当に困る。
「別に、そういうわけじゃない」
「でも」
「いい。本当に、――けだから」
 顔を逸らしながら、奏太がなにやらつぶやく。聞こえなかったので問い返すと、「嬉しかっただけだから」と、今度は大きな声で返された。
「僕のピアノを好きって言ってもらえて嬉しかった。君の演奏は面白くないとか、ドイツにいた時、レッスンで少し、色々言われて。曲の表情とかイメージとか、僕はよくわからないから、よけい不安で」
 奏太の口から、ぽろぽろと想いがこぼれていく。
 今までは技術的な向上を目指してひたすらやってきたけれど、今年の夏頃から、それだけでは超えられない壁を感じ始めたこと。突破口を求めて日本に来たはいいものの、いくら練習してもなにも変われていないような気がして、どうしても焦ってしまうこと。
 その言葉の端々には、得体の知れないものと向き合うことの怖さや、それでもやるしかない苦しみがにじんでいた。
「僕はピアノが好きだ。だから一番頑張りたいのに、最近は時々、すごく虚しくなる時があるんだ。好きなはずなのに、僕は本当にピアノが好きなのかなって考えたり、一生懸命やってる自分が馬鹿らしく思えたり」
 強く握られた拳が、スラックスの膝の上で震えていた。その様子を見て、芯は気づく。
 奏太も自分と同じように、ここに逃げてきたのだ。足を止めればすぐさま置いていかれるような、忙しない世界を離れて。そんな世界から、小さな自分を守るために。
 初めて奏太の音を耳にした時。
 あの、雷のような和音が心を震わせたのは、そこに込められた奏太の気持ちが、自分と同じ色をしていたからなのかもしれない。
 あの時、自分はきっと、呼ばれていた。助けてくれと願うのと同じだけの強さで、助けてほしいと求められていた。
 人生が変わる予感に身を任せて、ただ夢中になって坂を走った。そうして出逢った。黒い瞳に稲妻を宿した、俺の運命。
「奏太、ベートーヴェン弾いてよ」
 無性に聴きたくなって、芯は奏太に、悲愴の第二楽章をリクエストした。第一楽章も第三楽章も好きだけれど、自分でも練習している分、やはり第二楽章は特別だ。
「今は絶対に上手く弾けないから、嫌なんだけど」
 まだ目元の赤い奏太が、弱々しく抵抗する。そんな彼に、芯はにっこりと笑いかけて、「下手でもいいじゃん」と説得を試みる。
「上手く弾けなくたって、それこそ間違えたって、大丈夫だよ。ここには俺と奏太しかいないんだから」
 ね? と念を押すと、奏太はもごもご文句を言いながらも、観念して鍵盤に指を乗せた。その仕草だけで、何度も見た奏太の演奏姿が、自然と芯の脳内に浮かび上がった。
 ウェーブがかった黒髪。滑らかな白い頬。小さい唇。長い首。清潔なワイシャツ。華奢な腰。黒いスラックスに覆われた長い足。つま先を覆う革靴の艶。
 あれ、と芯は首を傾げる。いつの間に自分は、こんなにも奏太のことを見ていたのだろう。いつの間に自分は、こんなに彼に惹かれていたのだろう。
 芽生えた想いは初めてではなくて、でもきっと、今まで抱いたどんな感情とも違う色をしていた。暗闇を駆ける鮮烈な稲光を、自分はこれからも、飽きることなく求め続けるだろうという予感があった。
 長い指先が、すっかり耳に馴染んだ旋律を奏で始める。湖の世界は、いつもの何百倍も優しく、温かく感じられた。音色に聴き入って閉じていた目を開くと、奏太はまぶたを閉じたまま、幸せそうな表情でピアノを弾いていた。
 悲愴の第二楽章が好きだ――それを弾いている時の、奏太が好きだ。
 ベートーヴェンはもっと、気難しくて恐ろしい人だと思っていた。でもこの曲を聴いたら、奏太の演奏を聴いたら、そんな風には思わなくなった。
 空に向かう光の階段。もしくは、窓辺から差し込む月明かり。神様が降りてくる感じがする。この人が弾くと、よけいに。
 芯はそっと身を屈めた。譜面台の横に片手をついたまま、奏太の小さな唇に口づける。
 柔らかい感触の直後、音が止まって、時が止まった。まぶたのシャッターが開いた先で、黒く艶めく瞳の中を、ひときわ明るい稲妻が駆け抜けた。
「ごめん」
 咄嗟に謝って、芯は奏太から顔を背ける。心臓がばくばくとうるさくて、体中がかっと熱くなって、今にもめまいで倒れそうだった。
「別にいい。……嫌だったら、嫌って言う」
 少しの間の後、ひどく照れくさそうな返事があった。長い静寂に包まれた部屋で、窓際のレースのカーテンだけが、秋風に吹かれてはためいていた。
「お昼食べてく?」
 おもむろに聞かれて、芯は鍵盤から顔を上げた。肌寒い日々が続くようになった、十一月初めの午後だった。
「あれ、もうそんな時間?」
「うん」
 奏太は右腕を芯の前に出した。腕時計の針は、もうすぐ十三時を回ろうとしている。
 芯が洋館につくのは、いつも十時半過ぎだ。そこから奏太のピアノを聴いたりお茶を出してもらったりして、自分のレッスンはだいたい、十一時頃から始まる。
 今日もいつも通りに家を出てきたので、かれこれ二時間はピアノに向き合っていたことになる。休憩を挟みつつとはいえ、かなり没頭していたようだ。
 『悲愴』の第二楽章は、もう両手で合わせる段階に入っていた。もちろん芯は、絶賛苦戦中である。片手ずつならなんとかできた黒鍵と白鍵の区別も、両手になると途端に、なにがなんだかわからなくなってしまう。
 短いフレーズで区切って、片手ずつさらい直し、両手にする。弾けなかったらもう一度片手ずつに戻り、動きを確認したり奏太の見本を見たりしてからもう一度両手にする。
 レッスンはとにかくその繰り返しで、正直なところ、かなり苦しい。けれども不思議と、芯はこの曲を投げ出したいとは思わなかった。あと一回、あと一フレーズ、と粘っていたら、いつの間にかこんなに時間が経ってしまっていた。
「ごめん、長居し過ぎた」
 芯が謝ると、奏太は「構わないよ」と答えて首を横に振った。
「芯がいない時はどうせ、ピアノ弾くか勉強してるかだし」
 そうなんだ、とつぶやいた芯は、ふと首を傾げて、まじまじと奏太の顔を見た。その視線を受けた奏太も、同じように首を傾げて芯を見返す。
「奏太って、一日何時間ピアノ弾いてるの?」
 芯の口からこぼれ落ちたのは、とても素朴な疑問だった。いつ来てもピアノを弾いているせいで、奏太の普段の生活があまり想像できないことに、芯は気がついたのだった。
「何時間、か……朝はだいたい九時くらいから始めてて、芯が帰った後は、夕方くらいまではいつもやってるから……毎日四、五時間は弾いてるのかなあ。上手くいかない時は、勉強サボって夜も弾いたりするけど」
 逆に全然集中できなくて、三時間しかやらない日もあるけどね。
 飛び出してきた数字に頭がクラクラして、最後の方は、芯の耳にほとんど届いていなかった。
 自分は二時間の映画を観るだけでも疲れるのに、四時間も五時間もピアノを練習できるなんて。奏太は一体、どれほどの集中力をもっているのか。
「やばい、俺、二時間で『頑張ったー』とか思って、めっちゃ恥ずかしい」
「いや? 芯は頑張ったでしょ。僕はピアノが本命だから、ピアノに時間をかけるのは当たり前だし。そもそも色んな曲を練習してると、四時間くらいあっという間に過ぎちゃうからね」
 くすくすと笑って、奏太は扉の方へ向かった。ああそうだ、お昼をご馳走してくれるんだっけと思い出して、芯もその後に続く。
 ピアノ部屋を出た先の玄関ホールを横切り、反対側の棟が客間になっているようだ。ピアノ部屋以外の場所に足を踏み入れたのは初めてだったが、壁に掛けられた絵や廊下に置かれた調度品にホコリが溜まっていることもなく、普段からまめに手入れをしている様子が伺えた。
「こんなに広いと、掃除大変じゃない?」
 思わず尋ねると、奏太は「そうでもないよ」と言って笑った。ピアノの練習に疲れたら、気分転換がてらに、屋敷のどこか一ヶ所を掃除することにしているらしい。
 偉いね、と答えつつ、芯は目の前にある細身の背から、目を離すことができなかった。抱きすくめたいと思いながらも、今じゃないかな、と葛藤する。
 初めて唇に触れたあの日以来、二人は時々、キスをしている。告白をしたわけでも、されたわけでもなくて、それでもふとした瞬間に、芯は吸い込まれるように、奏太の小さな唇に口づけている。
 自分と奏太は付き合っているのだろうかという疑問が、ここ最近ずっと、芯の頭を支配していた。ただキスを交わすだけの関係は、ひどく甘やかで胸が高鳴るけれど、少し物足りない感じがするのも事実だった。
 好きだと伝えて、きちんと付き合えたら。
 そうしたらもっと、多くの時間を共有できるようになるだろうか。なんだかんだ聞きそびれている連絡先を交換して、たまには一緒に、街の方へ買い物に行ったりできるだろうか。
 妄想はどこまでも膨らむのに、芯はもう何回も、一歩踏み出すタイミングを逃していた。嫌われているはずがないのに、もし断られたら、という不安が、なぜかいつまでも拭えなかった。
 客間につくと、奏太は部屋の奥から続くキッチンへと姿を消した。アンティークの応接セットに残された芯は、柔らかいソファの背に身を預け、しげしげと部屋全体を見回した。
 洋書がしまわれたキャビネットや芯の背丈ほどはある大きな振子時計など、調度品のほとんどが、応接セットと同じアンティークだ。床にはワインレッドの絨毯が敷かれ、植物をあしらった壁紙が、部屋の印象を華やかに見せている。
 部屋の北側にはピアノ部屋と同様大きな窓があり、芯の席からは、中庭の様子がよく見渡せた。一定の間隔で植えられた木々はしっかりと色づき、その鮮やかさで芯の目を楽しませた。
「お待たせ」
 やがて戻ってきた奏太は、手に持ったトレーの上に、二人分のサンドイッチを乗せていた。トーストした食パンにハムやトマトを挟んだ簡素なものでも、昼食を抜いたりスナック菓子で済ませたりしがちな芯と比べれば、その差は歴然としていた。
「ちょっとしたものだけど、おいしいよ」
 奏太は流れるように芯の向かいに腰掛けて、いただきますと手を合わせた。芯の目の前で、長い指がサンドイッチを丁寧につまみ上げる。小さな唇が開いて、赤い舌がちろりと覗く。
 衝動に身を任せて、芯は身を乗り出した。テーブルに片手をついて首を伸ばし、サンドイッチを咀嚼する奏太の唇に、啄むように唇を重ねる。
「……急じゃない?」
 顔を離すと、ぱっちりと見開かれた黒目が芯を見ていた。数回の瞬きの後、小さく呟いて、奏太は芯から視線を逸らす。黒髪から覗く赤い耳が可愛くて、芯は思わず、奏太の頬に手を伸ばす。
「奏太、こっち向いて」
「嫌だ」
「なんで」
「なんでも」
 頬から首筋に掌を滑らせると、奏太はぴくりと身を震わせた。首筋まで赤くなったところで、奏太は芯の手首を掴み、無理矢理サンドイッチの上まで持っていった。
「はい、ふざけてないで、もう食べる。せっかく作ったんだから、ちゃんと食べてくれないと泣くよ」
 母親みたいな口調がなんだか可笑しい。芯はつい、声を上げて笑ってしまった。じっとりとした目でむくれる奏太には、「泣いているところも見てみたい」などとは、とても言えそうにない。
 齧りついたサンドイッチは、見た目通りに素朴な味がした。トーストされたパンのさっくり感と野菜の瑞々しさが、不揃いな食感で芯を楽しませる。
 口をもごもご動かしながら、芯は改めて周囲を見回した。古いけど豪華な屋敷だよなと感心する。一般的に考えて、芯の家系もそこそこ裕福な方なのだが、この洋館には到底敵わない。
「どうしたの、そんなぐるぐる見回して」
 少し調子を取り戻した奏太が、芯の視線に気づいて尋ねてくる。
「いやなんか、奏太ってやっぱり、同じ高校生って感じしないよなーって考えてた」
 芯の答えに、奏太は「うん?」と首を傾げて、不思議そうな顔をした。
「そう?」
「うん。この家とか、すごいし。見た目も大人っぽいし」
「ああ……まあ見た目に関して言えば、僕はちょっとだけあっちの血が入ってるからね」
 奏太は視線を斜め上にやって苦笑した。ああそうかと芯は思い出す。以前、この屋敷の説明をした時、奏太は『ドイツ人だった曽祖父の屋敷』と言っていた。
 ウェーブがかった髪や不思議な光り方をする瞳は、わずかに混ざった異国の血の影響なのかもしれない。
「俺はそもそも、じいちゃんとも疎遠だからなあ」
 そうぼやくと、奏太は芯に、「どういうおじいちゃんなの?」と問いを投げかけた。芯は首を捻りながら、祖父についての乏しい情報を開示する。
「父方は京都だし、父さん自身が仕事で忙しいから滅多に会わない。俺が今借りてるのは母方のじいちゃんの家なんだけど、ばあちゃんが死んでからめっきり会わなくなった」
 母曰く、祖母が生きていた頃の祖父は、海外旅行など全く行かずにいつも家にいたらしい。記憶にはあまりないが、芯も幼稚園の頃などは、よく面倒を見てもらっていたそうだ。
「海外旅行、いいよな」
「奏太はだって、ドイツに住んでるじゃん」
「東南アジアの方とかは行ったことないし、そもそも旅行と生活じゃ、色々違うからね」
 その発言自体が既に、芯からすれば浮世離れして感じられる。旅行と生活の違いがわかるのは、海外で学校に通い、生活した経験があってこそだ。
 でもきっと、それを奏太に説明したところで、あまり納得は得られないのだろう。誰だって、自分以外の人の感覚は、本当の意味では理解できないものだ。
 だから芯は、人の話を聞くのが、昔からわりと好きだった。芯にとって、奏太は特別で、輝いて見えて、それでも奏太以外の人にだって、それぞれの面白さや輝きがあるんじゃないかと思う。
 そんな当たり前のことを久しぶりに思い出して、芯は少し驚いた。小さい頃の自分はちゃんと、それを知っていたのに、いつの間に忘れてしまったのだろうか。
 大人になって、できることが増えて、世界は広がったような気がしていた。でも本当は、なにも知らなかった幼い頃の方が、色々なものが見えていたのではないか。
「いつの間にか紅葉したなあ」
 窓の外を眺めながら、奏太が目を細める。芯もつられて、庭に植えられた木々を眺める。
 金木犀が見納めなんだ、と言って、奏太が席を立ったので、芯も食べかけのサンドイッチを皿に置いて後を追った。奏太が窓を開けると、甘く華やかな香りが、冷たい風に乗って微かに漂ってきた。
 鬱蒼とした木々の葉の奥に、だいぶ花の落ちた金木犀がちらりと見える。冬の気配を宿した灰色の空の下、ずいぶんと色あせてしまった可憐な花は、過ぎゆく季節を惜しむように風に吹かれている。
 ふいに胸が締めつけられて、芯はわずかに眉根を寄せた。視線を隣に向け、ほとんど無意識のうちに「奏太」と呼びかけると、艶やかな黒い瞳がまっすぐに芯をとらえた。
 ――そっちこそ、いつまで日本にいるつもりなの。
 ちらりと走った黄色い稲妻に目を奪われながら、芯は心の中で問いかける。聞けなかった言葉が、日々を過ごすごとに重みを増していく。
 「元気になったら、ここには来なくなるんでしょ」と奏太は言った。それは、他でもない奏太自身が、元気になったらここからいなくなるということの裏返しではないだろうか。
 吸い込まれるように唇を重ねても、奏太は照れくさそうに口元を隠して視線を逸らすだけだった。その様子が胸に引っかかって、芯は小さく下唇を噛む。
「そうだ、芯。僕明日からここにいないんだ」
 突然の申告に、芯は自分の顔が強張るのを感じた。「いない」という単語の響きに驚いて、半開きの口のまま沈黙してしまう。
 そんな芯を見た奏太は、困ったように微笑んだ。
「そんな顔しないで。レッスンで二日間、いないだけだから」
 長い指先が伸びてくる。頬に滑らかな感触が触れて、視線と視線が絡み合う。
 首を傾けて顔を近づけてきた奏太はしかし、途中で動きを止めてうつむいた。なにかを言おうと開きかけた唇は結局、なんの音も発さずに閉ざされる。
 逃げるように体温が離れた。「食事に戻ろうか」と背を向ける奏太に、芯もまた、なんの言葉も発することができなかった。
 次の日の昼、芯は麓のバス停から市内循環バスに乗って、駅前まで食品の買い出しに来ていた。
 平日昼間のスーパーマーケットは人もまばらで、店内放送ばかりが大きく響いている。芯は買い物カゴを右肘に引っ掛けて、カップラーメンとレトルト食品のコーナーをうろうろと歩き回る。
 カラフルなパッケージとスナック菓子で、カゴはすぐにいっぱいになった――奏太のように、簡単でもいいから自炊しようという気持ちは、芯にはあまりないのである。
 幸い、持ち帰るのが困難な飲料については、母からの仕送りで賄えていた。それがわざわざ宅配便で届くのは、買い出しを理由に頻繁に様子を見に来ようとする彼女が鬱陶しかったからだ。
 カゴの一番上に六枚切りの食パンを乗せて、芯はレジへと向かう。会計を終えて外に出ると、ポケットのスマートフォンが震えた。
 画面には母の名前が表示されていた。話すのが億劫で無視するも、立て続けにもう一度、着信音が鳴ったので、芯は観念して通話ボタンを押した。
「もしもし」
「ああもう、やっと出た」
 電話口から、いつもの母の、不安そうな声が聞こえてくる。その声色にあてられて、意味もなく暗い気持ちになりそうな自分に気づき、芯はさっそくため息をつきたくなった。
 母はどうしていつも、こんなにも不安そうで、不満そうなのだろう。
 昔から思っていたことだ。母はいつも、芯のことを心配している。正確には、芯が「普通」から外れて、世間から「おかしい」と見なされることを、極端に恐れている。
 それって結局、自分が可愛いだけなんじゃないのか。俺の気持ちなんてどうでもよくて、なんとか学校に行かせようとするのも、息子が将来、ひきこもりになったら恥ずかしいからで。
 ありのままの自分を愛してほしいとは、芯は思わない。愛せないなら放っておいてほしい。母と自分は、全く別の人間なのだから。
「どう、ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
「掃除と洗濯は」
「困ってはない」
「よかった。食べるものはまだ残ってる?」
「今買いに来てる」
「野菜も買った?」
 痛いところを突かれて、芯は内心動揺した。しかしここで不審がられると後々面倒なことになるので、精一杯何気ない風を装って言葉を返す。
「うん。ちゃんと買ったよ」
 母はすっかり騙されて、「よかった」と息をついた。
 その後訪れた一瞬の沈黙に、なにか言いたげな雰囲気を察して、芯はさっさと電話を切ろうと試みた。ところが、上手い切り上げ方を思いつく前に、母が再び口を開く。
「ねえ芯、母さんやっぱり一度、あなたのところに行くわよ」
 嫌な予感が的中してしまい、芯は反射的に眉根を寄せた。
「それはいい」
「でも」
「いいって、ほんとに」
 以前、精神科がなんだという話をされたことを思い出して、芯は必死に断った。勝手な母のことだ。様子を見に来るフリをして、そのまま芯を家に帰らせる可能性も十分にある。
 不登校の具体的な原因が判明したわけではない。それでも、今の自分の状態が、ただ病院に通ってなんとかなるものではないことくらい、芯はよくわかっていた。
 自分が祖父宅で過ごすことを、母がこんなにも不安がる理由について、芯は咄嗟に仮説を立てた――それはきっと、芯が漫画やゲームばかりに夢中になって、だらしない生活を送っていると思い込んでいるからではないか。
「この前話したピアノのやつ、ちゃんと続いてるんだ」
 自らの推測に基づいて、芯は母の説得を試みる。伝えるべきは、とにかく自分が今、打ち込んで頑張っているものがあるという事実だ。
 ピアノに挑戦して、久しぶりに心から楽しいと思えたこと。難しい練習もちゃんとこなして、少しずつ弾けるようになっていること。
 未来のことなんてわからない。でもあと少し、ここで過ごすことができたら。奏太にピアノを教わって、ベートーヴェンを完成させることができたら、なにかが変わるんじゃないかと、最近は思っているのだ。
「せっかく弾けるようになってきたんだ。だからとにかく、今やってる曲が最後まで弾けるようになるまでは、あの家にいたい」
 二度目の沈黙が、母との間に流れる。ざらついた機械音の奥の気配を、芯は緊張気味に探った。ピアノや奏太を特別に思う自分の気持ちが、少しでも母に伝わればいいと願いながら。
「あなたの気持ちはわかった」
 母の言葉に、芯は一瞬、表情を明るくした。やっと理解してもらえるかもしれないという期待が、じわじわと胸の内に広がっていく。
「でも、その曲が弾けたら、芯は本当に学校に行けるようになるの?」
 今度は重いもので頭を殴られたような心地がして、芯は思わず、バス乗り場へ向かう横断歩道の手前で立ち尽くした。体が急激に冷えて、周りの雑踏が、あっという間に意識から遠ざかっていく。
 それはまだ、わからないけど。
 答えた芯に、「それじゃ意味ないじゃない」と、母は容赦なく叩きつける。
「ピアノが弾けるようになったって、学校に行けなきゃ意味ないじゃない。起き上がれない理由を見つけて、ちゃんと対策を立てないと。ねえ芯、あなた、自分の状況わかってる? もう二ヶ月以上も学校に行けてないの。ピアノなんかにかまけてる時間なんて、本当は少しもないんだからね」
 理由。対策。二ヶ月以上。
 ピアノなんか。
 頭の中で、母の発言が何度も何度も繰り返された。言葉が通り過ぎるたびに、芯が洋館で過ごした一ヶ月が、その煌めきや弾力が、急速に失われていく。
「……意味とか理由って、そんなに大事?」
「え? なに?」
 小さくつぶやいた芯は、母に促されて、もう一度同じセリフを吐き捨てた。
「意味とか理由って、そんなに大事?」
 胸の奥がかっと熱くなる。ああ俺、怒ってるんだなとにわかに気づく。芯は怒っていた。母を通り越して、社会に、世界に、芯はどうしようもない怒りを感じていた。
「俺って、意味のあることしかしちゃいけないの? 理由がなきゃ、学校休んじゃいけないわけ?」
 意味も理由も、芯にとっては呪いのように感じられた。誰にとっても価値のあるものや、誰に言っても、納得してもらえるようなもの。それらを求めた先にあるのは、扱いやすく加工された、量産品の現実ではないのか。
 ただ楽しいと思うこと。ただ美しいと思うこと。ただ好きだと思うこと。
 言葉を知り、物事を知るうちに、いつの間にかできなくなっていた。気持ちから言葉がわき上がるのではなく、言葉に合わせて気持ちを探していた。
 それが大人になるということなら、未来は地獄だと芯は思う。没頭も興奮も失われた灰色の憂鬱が怖い。そんな地獄で、これから何十年と生きていかなければならない事実が、怖くて怖くてたまらない。
 母にこんなことを言っても仕方がない。そんなことは百も承知だった。それでも次から次へと、行き場のない主張がわき上がってくる。
 母に当たり散らしたい気持ちをぐっと堪えて、芯は唇を引き結んだ。最低限苛立ちが凪ぐのを待ってから、「ごめん、もう切る」と断りを入れる。
「あ、ちょっと」
「切るよ」
「待って、大事な話」
 母に叫ばれて、芯は通話停止ボタンに伸ばしかけていた手を止めた。母は安堵のにじんだ声で、「お父さんが、そっちに帰ることになったの」と続けた。
「あと二週間くらいで帰る、って連絡があったから。だから芯も、あと二週間でこっちに戻ってきなさい」
 話なら、戻ってきてからちゃんと、聞いてあげるから。いいカウンセラーさんも見つけたの。不登校が治るように、お母さんも一緒に頑張るから。
 そう言い残して、母は通話を切った。通話終了の電子音が、しばらく芯の鼓膜を震わせた。
 芯は崩れるようにその場にしゃがみ込む。スマートフォンの電源を切って、目の前を横切っていく人々の足元を見つめる。
 世界にたった、独りだけのような気がした。家を出てからは、久しく味わっていなかった気持ちだ。
 境遇がどんなに違っても、奏太といる間は、この手の孤独感を抱かずにいられた。見た目が違っても、心の深いところの形がおんなじだという安心感があった。
 丸めた肩に、水滴が落ちる。顔を上げると、灰色の空がにわかに光り、遅れてごろごろと、遠くの方で雷が鳴った。
「奏太」
 つぶやいて、愛しさが増す。今どこで、なにをしているのだろう。
 会えない時間が、ずいぶんと長く感じられた。早く会って、キスをして、ベートーヴェンを弾いてもらいたいと思った。
 二日後、芯が洋館を訪れると、奏太はベートーヴェンのピアノソナタ第八番を弾いていた。少し早歩きでここまでやって来た芯は、乱れた息のままその場に立ち尽くした。
 奏太のピアノが変わったような気がしたのだ。どこか几帳面な印象だった演奏にいい意味でのゆとりが生まれ、曲への想いや愛情が素直に伝わってくる音が鳴っている。
 最近、閉まっていることの方が多い窓からは、白いワイシャツの背中がちゃんと見えた。それでも芯は、あれは本当に奏太なのだろうかと疑ってしまう。
「来てたんだ。ごめん、気がつかなくて」
 奏太に声をかけられて初めて、芯は演奏が終わっていたことに気がついた。慌てて駆け寄り、奏太が開けてくれた窓から、室内に足を踏み入れる。
「お邪魔します」
 発した声がいつもより硬いことに、自分で気づく。たった二日来なかっただけなのに、がらんと広いピアノ部屋は、芯の目にひどくよそよそしく映った。
「飲み物持ってくるから、少し弾いて思い出してて。寒いからあったかいのにしよう。紅茶は飲める?」
 部屋の入り口で振り返った奏太に、芯は咄嗟にうなずいた。よかった、と笑って、奏太は小走りで部屋を出ていった。
 後ろ手で窓を閉め、芯はゆっくりとピアノに近づく。二日ぶりに腰を下ろしたピアノ椅子の座面は、クッション性が高すぎて落ち着かない。
 恐々と鍵盤に触れ、練習を始めた芯は、動きのぎこちなさに愕然とした。指が動きにくいだけではなく、できていたはずのところや、覚えていたはずのところが、なぜか上手く弾けなくて止まってしまう。
 どうして、と考え出したら、さっと血の気が引いて、よけいに練習どころではなくなった。体が一気に冷たくなって、混乱と焦りが、急速に芯の胸を蝕んでいく。
「大丈夫?」
 ティーカップを持って戻ってきた奏太が、ピアノの前で呆然とする芯に、声をかける。芯は奏太の方を振り返って、「全然弾けないんだ」と訴えた。
「今まで弾けてたところまで弾けなくなってる。どうしよう、奏太がせっかく教えてくれたのに」
 労力を積み重ねて身につけたことができなくなるのは、芯の心にかなり堪えた。進路希望調査票をもらった時と同じ、足場をごっそり奪われたような不安感が、芯の動悸をさらに激しくする。
 労力だけの問題ではない。芯にはもう、時間がないのだ。既にさらったところから復習していたら、第二楽章を教わり切らないうちに、あっという間に二週間が過ぎてしまう。
「それなら大丈夫。ちゃんと、何回か弾くうちに思い出せるから」
 奏太はしかし、芯をなだめるように柔らかく言って、紅茶を差し出した。芯はゆっくりと顔を上げ、カップを受け取る。焦っていた気持ちが、陶器ごしの温かさで少しだけ和らぐ。
 奏太いわく、久しぶりにピアノを弾く時は、先ほどの芯のように上手く弾けないことも多いらしい。ピアノ演奏は繊細なコントロールを必要とするので、少しの感覚のズレが大きな違和感となって、演奏者の意識を乱すのだ。
 十分ほどかけて紅茶を飲んでから、芯は練習を再開した。忘れてしまったところは奏太に手伝ってもらいながら思い出し、新しいところはやはり、十分集中しては休憩してを繰り返して、少しずつ少しずつ曲を進めていく。
 レッスンの間、奏太は終始、機嫌がよさそうだった。いつその顔を盗み見ても、口元には薄い笑みが浮かんでいて、そこから紡ぎ出される言葉たちにも、肩の荷が下りたような穏やかさがあった。
「なにかいいことあった?」
 一区切りついたタイミングで声をかけると、鍵盤から顔を上げた奏太が、「なんで?」と問うてくる。芯は正直に「嬉しそうだから」と答え、黒い瞳を見返した。
「俺がここに来た時のベートーヴェンも、いつもとなんか違ったから」
 芯の言葉に、奏太はぱっと目を見開いた。その表面を一瞬、稲妻の黄色が走り、小さな唇が、心から嬉しそうにほどける。
「レッスンでこの前のショパン弾いたら、変わったねって言われた。音に余裕が出て、聴かせる演奏ができるようになってきたって。ずっと悩んでたことだから、できるようになってきたことが嬉しくて」
 なんの含みもひねりもない、純粋な喜びが、滑らかな頬を彩っていた。それに気づいた途端、芯の胸は、ぎゅっと掴まれたように苦しくなる。奏太が喜んでいて嬉しいはずなのに、心の奥の方で、暗く冷たい感情が渦巻いている。
「よかったね」
 それでも芯は、平静を装って相づちを打った。そして、返ってきた言葉の意外さに、ぱちくりと目をしばたたいた。
「うん。芯のおかげ」
「俺の?」
「そう。芯のこと考えながら弾いたんだ」
「え、」
 心臓が跳ねる。じっと顔を見つめると、奏太は照れくさそうに視線を逸らした。
「僕自身はやっぱり、曲のイメージとかはよくわからないから、芯だったらどう感じるかなって想像してみた。芯にどう感じてもらえたら嬉しいかなって、考えながら弾いてみたんだ」
 芯がなにか答えるよりも先に、奏太は扉に向かって踵を返した。「お昼にしようか」とつぶやいて歩き始めたので、芯は戸惑いながらも立ち上がり、奏太の細い背を追った。
 素人の自分が本当に奏太の役に立てたかどうかなど、芯にはわからなかった。奏太の長年の努力が実を結んだタイミングで、たまたま自分がそばにいただけなのではないだろうか。
 それでも、奏太が今、なにか大きな壁を乗り越え、成長したのだということだけは、痛いほどよく伝わってきた。胸の奥の暗く冷たい感情が大きくなったことに気がついて、芯は客間の入口で立ち止まった。
 ぼんやりと目の前の光景を見つめる。自分を置いてキッチンへ進む背中と一緒に、色々なものが遠ざかっていくような心地になる。
 奏太もピアノも、学校も将来も、秋が去るのと同じように、思い出だけ残して消えていく――ひとり取り残された枯れ枝の庭は、きっととても寒い。
 ウェーブがかった黒髪がキッチンへと消える直前、芯は勢いよく足を踏み出して、近づいた細い背を強く抱きしめていた。鼻先を肩に埋めて縋りつくと、奏太が息をのむのがわかった。
「芯――」
 小さな頭を無理矢理引き寄せて、自分の名を呼ぶ唇を強引に奪う。無理な体制を強要したせいで、奏太の顔が苦しげに歪んだ。芯は一度唇を離し、奏太の華奢な体を腕の中で回して、今度は正面から口づける。
 柔く軽い感触ではすぐに物足りなくなって、緩く開いた隙間から舌を差し込んだ。初めて味わう他人の口内はひどく温かく、それが心地よくて、なのに心ばかりがずっと寒くて、輪郭を包む両手につい力がこもる。
 右手を滑らせて背をなぞり、細い腰を抱く。奏太は思いの外大きな動きで肩を震わせた。目の前の肢体を手放したくなくて、芯は奏太を客間まで引き戻し、二人がけのソファに押し倒した。
「奏太」
 荒い呼吸のまま呼びかけると、熱に浮かされて潤んだ瞳が、戸惑ったような表情で芯を見上げていた。第一ボタンの空いたワイシャツの胸が、自分と同じ速さで上下していた。
「芯」
 衝動の名残を多分に残したまま、小さな唇が震える。こめかみにはうっすらと汗がにじんでいて、襟元からは長い首が無防備に伸び、白くて滑らかな肌をさらしている。
 このまま奪って、閉じ込めて、自分のものにしてしまいたかった。でもそれがどこまでも身勝手な欲望だということを、芯はちゃんと知っていた。
 自分の傷が癒えないからといって、羽ばたく相手を引き止めるのは違う。一人取り残されるのが怖くても、奏太と奏太の夢だけは、きちんと手放して送り出さなければならない。
「好き」
 絞り出した声が震える。「好きだ」ともう一度言って、奏太の顔を見返した瞬間、目の縁から涙がこぼれた。
「本当はずっと一緒にいたい。ドイツにだって帰らないでほしい。上なんて目指さないで、今の奏太の演奏でいいから、俺のためだけにピアノを弾いてほしい」
 眼下の白い頬が、いくつもの水滴で濡れていく。長い長い沈黙の間、艶やかな黒い瞳は、ひと時も逸らされることなく芯を見つめていた。
「僕は、ピアノが一番なんだ」
 やがて話し始めた奏太は、寂しそうな顔で笑っていた。
「ずっとそれだけを考えて生きてきた。上手くいく時も、上手くいかない時もあるけど、僕の人生の中心はピアノだ。だからそれ以外のことには構っていられない。誰かを一番にすることなんてできない」
 その言葉に、予感は確信へと変わる――本当は気づいていた。キスをするのはいつも自分からで、奏太はただ、拒まずにそれを受け入れるだけだった。
 逃れようのない事実を突きつけられて、気持ちが急いた。「二番目でいいから」と訴えると、間髪入れずに言葉が返ってくる。
「僕が駄目なんだ。芯を好きになったら、日本に残りたくなっちゃうだろ。好きな人に会わなくても平気なほど、僕は器用な人間じゃない」
 芯の頬に、ワイシャツの腕がするりと伸びてくる。長い指に目尻を撫でられ、恐る恐る視線をやると、奏太は困ったように眉尻を下げて微笑っていた。
「ごめんね、芯」
 まぶたを伏せて上半身を起こした奏太は、音もなくひっそりとソファを抜け出した。乱れたワイシャツを整えて、今度こそキッチンへと消えていく。
 冷蔵庫を開ける音が聞こえ、中身を漁る気配があった。芯はよろめきながら立ち上がり、キッチンと客間の境から、奏太に声をかけた。
「俺、あと二週間で東京の家に帰るんだ」
 カッティングボードを準備していた奏太の手が、ほんの一瞬、動きを止める。すぐに再開して、脇に置いてあったトマトを、規則正しい動きで輪切りにしていく。
「わかった。ピアノの方はもう一息ってところまできてるから、心配しないで大丈夫。気を抜かないで頑張ろう」
 淡々と返されて、ただうなずくことしかできなかった。うなずいた直後、またもや涙がこぼれそうになって、芯は考えるよりも先に洋館を飛び出していた。
 まぶたの内側がほの明るくなり、芯はゆっくりと目を開けた。ぼんやりと見えた自室は荒れ放題に荒れている。
 起きて、掃除をしなければ。
 わかっていても起き上がる気にはならず、芯は枕を引き寄せて、もう一度目をつむる。部屋の明るさ的に、もう昼過ぎだ。
 いつもだったら、サンドイッチを食べようと奏太に誘われるくらいの時間だろうか。しかし今日は、空腹は感じても、なにかを食べる気持ちにはならない。
 洋館を飛び出してから今日までの四日間、胃のあたりで、強く握られたような痛みが続いている。その間ずっと、芯は奏太に会っていない。
 会いたい気持ちはあるのに、体が動かないのだ。自分の体が思い通りに動かない様子は、まるで学校に行けない日の朝のようだった。
 自分が突然来なくなって、奏太はどう思っているだろうか。
 フラれたくらいでピアノを諦める、根性なしだと思われただろうか。
 ごめんね、と謝られた時の、困ったような笑顔が、脳裏に焼きついて離れない。ピアノのことも奏太のこともまだ好きなのに、あの表情を思い出すと、一歩踏み出すのがたまらなく怖くなる。
 迷い、悩んでばかりの自分とは全く違う、強い意志の宿った瞳だった。奏太は奏太なりに、色々なことを考え、乗り越えて、ああ言ったのだろうと芯は思った。
 だったらもう、会わない方がいいのではないか――奏太が決めた未来の邪魔をしないために。自分が寂しさで押しつぶされないために。
 俺は三日坊主だから大丈夫、と、芯は自分に言い聞かせた。ピアノを弾きたいと思う気持ちも、奏太の柔らかい唇を恋しく思う気持ちも、ただ一時の衝動にすぎないはずだ、と。
 この苦しさも、時が経てば、きっと綺麗さっぱり割り切ることができる。今までずっと、色々なものに興味をもっては、すぐに飽きて忘れてきたように。
 母が迎えに来る日が、今となっては待ち遠しかった。ここにいる限り、自分は奏太に会いたくなってしまうから。
 ままならない現実から目を逸らそうと、芯は強制的に、自らの思考を停止させた。どうせ自分には、予定などないのだ。寝れるだけ寝てやろうと、意味もなく開き直ってみる。
 夕方、玄関の外から物音が聞こえてきて、芯は目を覚ました。じっと耳を澄ませると、一人分の足音に続いて、扉の開く音がした。
 母かもしれない、と思い至り、芯は飛び起きた。荒れ放題の自室と同じく、一階もなかなかに酷い有様なのだ。母に見られたら、何時間お説教されるかわかったものではない。
 芯は自室を出て階段を下り、気配を追ってキッチンへと向かった。短い廊下を進むと、ビニール袋同士が擦れる音が、部屋の中から聞こえてくる。
 雷が落ちるのを覚悟して覗いた芯はしかし、そこにいた人物を見て目を丸くした。
「じいちゃん……?」
 半信半疑の芯の呼びかけに、赤いチェックのシャツを着た、少し丸まった背中が振り返る。祖父は芯の姿を認めると、目元のシワを深くして懐かしそうに笑った。
「よう、芯。大きくなったなあ」
 想像以上に親しげな声が返ってきて、芯は内心戸惑った。目を泳がせつつ、とにかくなにか反応しなければと思い、「ああ」とか「まあ」とか曖昧に返事をしてうなずいてみる。
 祖父と最後にまともに話したのは、小学校低学年の頃だっただろうか。
 七歳の時に祖母が亡くなってから、祖父とはめっきり疎遠になった。今も、「この家の鍵を持っている老人」という条件で脳内を検索して、目の前のこの人間を祖父だと思っただけである。
 名乗る間もなく「芯」と呼ばれたことで、彼が本当に自分の祖父だということを、今ようやく信じたくらいだ。それほどまでに、芯の幼い頃の記憶は朧げだった。
「じいちゃんはあと一週間くらいは帰ってこないって、母さんから聞いたんだけど」
 母の言葉を思い出して、芯はおずおずと尋ねる。聞いた話の通りにいけば、自分は祖父と入れ替えで東京の家に帰る予定だったはずだ。
「明日から一週間は、関西の友だちに会ってくるからなあ。宿代わりに、今日だけここに戻ってきたんだ。俺のことは構わなくていいぞ、芯」
 そんなことを言われても、いくら身内とはいえ、これだけ交流がなければ他人も同然だ。しかも自分は、居候としてこの家に住まわせてもらっている立場なわけで。
 困ったそばから、シワだらけの手が冷凍食品やカップラーメンのゴミを片づけていることに気がついて、芯は慌てて祖父の元へ寄った。
「ごめん、散らかして」
「ん? いい、いい。男なんてこんなもんだ」
「でも」
「じゃあ、風呂沸かしてきてくれや。飛行機乗ったら、体が痛くて敵わん」
 そう言う祖父の手は、手伝う隙もないほどテキパキと動いている。仕方がないので、芯はキッチンを出て風呂場へ向かった。
 普段はシャワーで済ませているのもあって、この家の浴槽をまじまじと覗き込むのは初めてだった。ホコリや水垢で汚れていて、とてもじゃないが、そのまま使える状態ではない。
 掃除をしてからお湯を溜めることに決めた芯は、シャワーで全体をざっと濡らし、浴槽内の手すりに吊るしてあった洗剤とスポンジを手に取った。
 スプレーで泡を吹きかけて、端から順に擦っていく。小さな浴槽とはいえ、頑固な汚れを取ろうと力を込めれば、少し汗をかくくらいには体力を使った。
 不登校の判明から約二ヶ月半、こんなに集中して体を動かしたのは久しぶりだった。単純作業に没頭することで、寝過ぎでぼんやりとしていた意識がはっきりしてくる。
 最後に泡を流すと、浴槽は見違えるほど綺麗になっていた。栓をして給湯器のボタンを押し、ささやかな達成感を覚えながらキッチンに戻ると、祖父は調理台でニンジンを切っていた。
「風呂、やってきたけど」
「おお、ありがとさん。夕飯、芯も食べるだろ」
 恐る恐る覗き込むと、流しに溜まっていた箸やグラスは全て洗われ、水切りカゴに並べられていた。軽く磨いたのか、ステンレスのシンクも、部屋の灯りを反射して光っている。
「ごめん、じいちゃん。なんか他にやることある?」
 ぐうたらの後始末をさせた上、夕食まで作らせてしまったとなれば、さすがにいたたまれない気持ちになった。自分一人ならいくらでもだらしなくするが、高校生にもなって身の回りのことを人にやらせるのは、ずいぶんと憚られた。
「大丈夫だから座っとき。そんな大したもんは作っとらん」
 芯の訴えも虚しく、祖父はやはり、手出しのしようがないほどの手際のよさで、冷蔵庫から出した豚肉をフライパンに入れた。芯は諦めて、言われた通りキッチンの椅子に座り、料理の完成を待った。
 五分ほどで完成したのは、シンプルな肉野菜炒めだった。祖父が肉野菜炒めを皿に盛っている間、芯は二人分の茶碗に白米をよそって、箸と飲み物を準備した。
 母の作る料理よりはだいぶ簡素な夕食だが、久しぶりにレトルト以外の食材の匂いをかいで、芯の腹はにわかに空腹を訴えた。今度こそ、「食べたい」という明確な欲求を伴う、正真正銘の空腹感だ。
 祖父と向かい合わせで座り、同時に手を合わせて「いただきます」と唱える。手に取った箸は、自然と中央の大皿に伸びた。豚肉とキャベツを同時に口に含んで、芯は思わず「おいしい」とつぶやく。
 味がしっかりとついていて、胡椒の効き加減も絶妙だ。白米をかき込む芯を見て、祖父は嬉しそうに前歯を見せた。
「よかったよかった。芯は昔っから、これが好きだからなあ」
 祖父の言葉に驚いて、芯は茶碗から顔を上げる。「俺、前にもこれ食べたことあるの?」と尋ねると、祖父はもちろんとうなずいた。
「お前が小学校に上がる前までは、 奈美恵(なみえ)はよくうちに来てたからな。ばあさんがいない時なんかは、俺が昼飯作ってやったんだぞ」
 そんなこともあったのか、と芯は驚く。祖父といえば疎遠、というイメージが強すぎて、自分はどうやら、予想以上に色々なことを忘れているらしい。
「俺ってどんな子どもだった?」
 好奇心から問いかけると、祖父は懐かしそうな表情で口を開く。
「芯は珍しい物があるとすぐに飛びついて、そのくせすぐに飽きてグズってたぞ」
 ベビーベッドの上のモビール。新しいブランケット。見たことのない遊具。初めてやる遊び。初めて出会う人。
 幼い芯はなんにでも興味を持つ子どもで、いつも目をきらきらと輝かせて動き回っていたそうだ。子どもらしい代わりに落ち着きもなく、興味の対象がころころ変わるので、母は当時から、芯の将来を案じていたらしい。
「こんなに飽きっぽくて大丈夫かしら、ってな。そんなこと今から心配したって仕方ねえだろって俺は言ってやったけど、あいつも昔っから、心配性だからなあ」
 三つ子の魂百までってやつだ、とつけ加えて、祖父は豪快に笑った。「どうだい、奈美恵は元気かい?」と尋ねられて、「元気だよ」と答える。「相変わらず細かいか?」と聞かれて、芯は思わず沈黙する。
「はは、お前、いい子に育ったなあ」
 芯は妙にくすぐったい気持ちになった。幼稚園児に向けられるような微笑みで見つめられるのは、ごく一般的な男子高校生としては、気恥ずかしいことこの上ない。
「そんなことない。母さんが心配した通りだ。俺、これから先やっていける自信とか、全然ないし」
 照れ隠しついでに吐いた弱音は、予想以上に深刻な雰囲気をまとっていた。不登校になってから二ヶ月半、じめじめグルグル考えた結果を目の当たりにして、胃の辺りが再び痛み始める。
 すっかりうつむいてしまった芯を前に、「ずいぶん弱気だな」と祖父は苦笑した。
「学校、行けてないって聞いたぞ。いじめか?」
 この家を借りる話をした際に、祖父は母から、芯に関するだいたいの事情を聞いているはずだ。それでも尋ねてくるのは、芯の言葉を引き出して、相談にのろうとしてくれているからだろうか。
「違うよ。そうだったら楽だなって思ってるくらい」
 祖父が意外そうに片眉を上げる。それに促されて、芯は箸を動かす手を止めた。視線を落として、テーブル中央の肉野菜炒めを見つめながら、ぽつぽつと言葉を落とす。
「なんで学校に行けないか、自分でもずっとわからないんだ。だけど母さんは、学校に行けない理由とか、どうやったら行けるようになるのかとか、すごい聞いてくるから。わかりやすい理由があれば、色々問い詰められなくて楽だなって……こんなこと、思っちゃいけないのもわかってるけど」
 芯がそう打ち明けても、祖父は怒らなかった。
「まあ芯は、昔から自由だからな。ただでさえ人間なんて、自分のことなんか全然、わかっちゃいないんだから」
 そう答えたきり、祖父はまた自分の食事に戻っていった。静かに米や肉を咀嚼する祖父に合わせて、芯も黙々と自分の食事を続けた。
 塩胡椒の味や野菜の歯ごたえに集中していると、ここ数日の悶々とした気持ちが、少し落ち着いていく。ちゃんとご飯を食べるって大事なんだと感心してから、奏太はなにをしているだろうかと考えた。
 奏太はもう、夕食は食べただろうか。それともまだ、粘ってピアノを弾いているのだろうか。
 ギムナジウムの勉強って、日本の高校とどう違うのだろう。あの洋館の風呂はやっぱり、浴槽はなくてシャワーだけなのだろうか。
 せっかく好きになったのに、そんなささいなことすらわからない。ずっと、自分のことばっかりだったな、と気づけば、芯の胸はきりりと痛む。
 ピアノが上達したことを、奏太は「芯のおかげ」と言った。けれど、そんなのはやっぱり違うと、芯は思う。
 自分は本当に、ただ好きなように振舞っただけだ。奏太の演奏をすごいと思ったからそう伝えた。ピアノや奏太を好きだと思ったから、足繫くあの洋館に通ったし、励ましたり協力したりしたいと思った。
 むしろすごいのは――そんな芯を受け入れ、ピアノまで教えてくれたのは、他でもない奏太だ。
 なのに自分は、まだ感謝の気持ちすら伝えていない。勝手に告白して、勝手に傷ついて、せっかく教えてもらったピアノさえ、中途半端なまま放り出して逃げ出した。
 母のことを言えないくらい、自分は奏太に対して身勝手だった。そう気づいたとたん、喉の奥がぐっと詰まって、体温が急激に下がっていく。
 俺はなんて駄目な人間なんだろう。
 落ち着いて冷静になった頭でしみじみと考えてしまい、芯は大きくため息をついた。そんな芯の様子を見て、祖父は興味深々といった視線をよこす。
「なんだ、恋煩いか」
「えっ? ち、違うよ」
 咄嗟に否定した芯に、祖父はにやにやと笑いかける。「男同士だろ。遠慮するなよ」と嬉しそうに言って、グラスに注いであった水を一気に飲み干した。
「いいか、芯。人生も恋愛も、楽しんだもん勝ちなんだ。生きてく上で一番やっちゃいけないことって、芯は知ってるか?」
 突然問われ、芯は首を横に振った。そんな芯を見て、祖父はくつくつと愉快そうに笑うと、確信に満ちた口調で言い切った。
「できない理由を考えることだ」
 少し白みがかった黒目が、芯の姿をじっと見つめていた。その目にはもしかしたら、芯には見えない色々なものが、鮮明に映っているのかもしれない。
 学校に行けない理由を考えるんじゃなくて、学校に行きたくなる理由を作ること。
 アプローチできない理由を考えるんじゃなくて、好きだと思った気持ちを大事にすること。
「そうやって生きていかないと、人生はできないことだらけになっちまう。そんなのお前、耐えられないだろ」
 出口のない暗闇に、ひと筋の光が差す。思わず顔を上げると、目が合った祖父は少しはにかんで、「まあ全部、ばあさんの受け売りだけどな」と付け加えた。
「死に際に言ってたんだ。もっとああしたかった、こうしたかったって。だから俺は、ばあさんができなかった分まで、今自由にさせてもらってる」
 全然かまってやれなくて悪いな。応援してるから、まあせいぜい頑張れや。
 祖父はそう言って、自分の食器を流しに置くと、風呂に入ると宣言してキッチンを出ていった。すれ違いざまに二度、頭をぽんぽんと撫でられて、芯は小さな頃の記憶を思い出した。
 ――バスに揺られていた。隣には祖父が座っていた。つり革や手すりの煌めきに目を奪われ、振動に体を揺らし、乗り降りする人々の服装や仕草を楽しんだ。
 バス停を告げるアナウンスが、芯の耳を心地よく撫でる。思えば昔は、今よりもっと、世界には音があふれていた。低い走行音や後ろの席から聞こえる異国の言葉だけで、わくわくと胸が躍る時代があった。
 道行く大人の真似をしては、なんにでもなれたような気がしていた。夢は無限に広がっていて、世界は芯を愛していた。
 きっと世界は、あの頃も今も変わらない。先に裏切ったのは芯の方だ。意味や理由にとらわれて、そうしなければならないと思い込んで。
 芯は唇を引き結んで、食べかけの夕食を見つめた。しばらくそうしてから、もう一度箸を持ち、米と肉と野菜を順番に口に運んでしっかりと噛む。
 程よい塩味が味蕾を刺激し、胡椒の香りが、すっきりと鼻腔を通り過ぎた。その感覚と一緒に、頭の中に立ち込めていた霧が、少しずつ晴れていくような心地になる。
 芯は残りの肉野菜炒めと白米を食べきってから、きちんと皿洗いをして風呂に入った。その日の夜は久しぶりに、夢も見ずにぐっすりと眠ることができた。
 翌朝早く、次に帰ってくるのは一週間後だと言い残して、祖父は関西へと旅立っていった。いきいきとした笑顔を見送ってから、芯は自室の窓を開け放ち、部屋の掃除を始めた。
 冷たい風が吹き込んで、体が震える。それでもかまわずに、芯は机の上に積みっぱなしの漫画本やゲームを段ボール箱に戻し、食べ散らかしたお菓子のゴミを捨て、掃除機をかけた。
 部屋を綺麗にした後は、いつも通りに食パンを食べて、芯は家を出た。吹きつける風の冷たさに、出掛けに羽織ったジャンパーの襟元を引き寄せる。
 目指すのはもちろん、奏太の過ごす洋館だ。
 学校に行けない理由を考えるんじゃなくて、学校に行きたくなる理由を作ること。アプローチできない理由を考えるんじゃなくて、好きだと思った気持ちを大事にすること。
 昨日聞いた祖父の言葉が、丸まった芯の背中を押した。奏太と自分を比べては、すっかり落ち込み、萎縮していた心が、少しだけ弾力を取り戻して芯の体を動かした。
 学校のことも、奏太のことも、なにが正解かなんてわからない。相変わらず不登校の原因は不明だし、そんな自分が奏太の近くにいたいと思うのは、ずいぶんと迷惑な願いなのかもしれない。
 でも少なくとも、芯が奏太を好きな気持ちは、紛れもなく本当だった。
 初めて彼の音を聴いた時の稲妻が、今も芯の体を震わせている。そのためだけに、どんなことでもできるような気持ちになる。
 急にレッスンに行かなくなったことを謝りたい。ベートーヴェンの第二楽章を最後まで弾けるようになりたい。そうしてちゃんと、お礼を言って、もう一度好きだと伝えたい。
 身勝手な芯に、奏太は愛想をつかして、取り合ってくれないかもしれない。それでも芯は、奏太に会いに行く。心の底から、彼に会いたいと思うからだ。
 はやる気持ちのまま歩いたら、普段の半分ほどの時間で洋館についた。家を出た時間も早かったので、いつもより一時間は早い計算になる。
 壊れた鉄門扉の前まで来ても、ピアノの音は聞こえなかった。一瞬芽生えた不安を無理矢理抑え込み、芯は荒れた庭をまっすぐ進んで、インターフォンのボタンを押した。
 初めて聞くドアチャイムの音が、芯の鼓膜を震わせる。しばらく経っても反応がないので、芯はもう一度ボタンを押した。
 じっとその場に立ち尽くして、耳をそばだてて中の様子を伺う。やはり、なにも聞こえない。沈黙に鼓動が急いて、芯の頭に、嫌な想像が浮かんでくる。
 もしかして奏太は、自分のことなどすっかり割り切って、もうドイツへ帰ってしまったのではないか。自分が奏太に会うことは、もう二度と叶わないのではないか。
 その可能性を、考えなかったわけではない。でも芯は、心のどこかで、奏太は自分が来るのを待っていてくれると思っていた。
 一向に聞こえてこない物音に、それすらも身勝手な妄想だったのだと痛感する。祖父と話して上向いていた気持ちが、反動でどこまでも落ちていく。
 そんな自分にも落胆した。自分はいったい、どこまで甘いのか。たったひと晩で変われた気になって、なにもかも、ここから巻き返せるような夢を見て。
 不甲斐なさに胸を押しつぶされそうだ。身勝手で甘ったれの自分に、思わず大きなため息が漏れる。
 それでも、もう一度奏太に会いにきたことを後悔しないで済んだのは、それが自分だとようやく認めることができたからかもしれない。
 移り気で、身勝手で、都合のいい妄想ばかりで。理想の姿とは程遠い、そんな自分が嫌いだ。でもきっと、自分はこれからも、そうやって生きていくしかないのだ。
 芯の脳裏に、ピアノと向き合う奏太の、真剣な瞳が蘇る。奏太は自分の弱点をわかっていたけれど、文句を言わずに、毎日ピアノを練習していた。
 自分もそう生きたいと芯は思う。ただ、自分の気持ちに正直に。剥き出しの自分を抱えて、もがきながらでも、一歩ずつ前に進んでいけるように。
 にじんだ涙をぐっとこらえて、芯は洋館に背を向けた。見渡せば、庭の雑草はいつの間にか枯れ果て、紅葉は北風に舞い、目に映る景色の全てが秋の終わりを告げていた。
 ――来月になったら急に涼しくなるよ。日本の秋ってそんなもんだろ。
 出会って間もない頃、芯がそう言った時、奏太は手元のグラスをじっと見つめていた。その横顔をふいに思い出して、芯は一人苦笑した。
 あの時奏太は、なにを思っていたのだろうか。それを確かめる術も、今はもうない。
 いっそすがすがしいような気持ちになって、芯は右足を大きく一歩踏み出した。
 ちゃんと後悔して、この恋は終わりにしよう。東京の家に帰って、母の薦めるカウンセラーとやらに会って、学校に戻れるように頑張ろう。
 ひときわ大きく風が吹く。芯は慌てて身をすくめた。ジャンパーの襟元に顔をうずめた瞬間、衣擦れの音に混ざって、「芯」と名前を呼ばれた気がした。
 芯は驚いて、足を止める。幻聴だと思って、自分はどこまで都合のいい人間なのかと苦笑した。振り返る勇気はなかった。これ以上落胆したら、いくらなんでも泣いてしまうと思ったから。
「芯!」
 もう一度、先ほどよりもはっきりと、声が聞こえる。芯は目を見開いて、今度こそ勢いよく後ろを振り返った。
 パジャマの上にコートを羽織っただけの奏太が、裸足にスリッパをつっかけて、視界の先に立っていた。あの稲妻の瞳が、芯を見ている――見たこともないような、必死な色を浮かべて。
 名前を呼び返すよりも先に、駆けだしていた。せっかくこらえていた涙が、安堵と喜びに種類を変えて、流れたそばから風に攫われる。
 なにか言うよりも先に、腕が勝手に、細い体を抱きしめていた。奏太は相変わらず、抱き返してはこなくて、それでも震える声で、「芯」ともう一度名前を呼んだ。
「急に来なくなるから、予定を早めて東京に帰ったんだと思った。だからもう、僕もドイツに帰ろうとしたんだけど」
 そこで奏太は、視線を下げて言葉を切った。少しの沈黙の後、長い指をこちらに伸ばしながら顔を上げ、おずおずといった調子で芯の髪を梳き始める。
「なんだかすごく、ここを離れ難くて。調子が狂って、午前中の練習もまともにできないし、そもそもベートーヴェン、最後まで教えきれてないし」
 僕だって本当は、秋の短さが寂しかった。もうずっと、君のいない季節が来るのが怖かったんだ。
 ピアノ部屋でグラスを見つめていた時と同じ、揺れる瞳が、今度は正面から芯を見ていた。一人で考えていた時にはわからなかった奏太の気持ちが、今は手に取るようにはっきりと伝わってくる。
「うん。ごめん」
 芯の謝罪に、奏太は意外そうな表情をつくった。その顔をしっかりと見つめ返して、芯は畳みかけるように口を開く。
「せっかく教えてもらったのに、勝手に投げ出してごめん。奏太はピアノが一番だって知ってたのに、無理言ってごめん。勝手に嫌われたと思って……自分ばっかり好きだと思って、奏太の気持ち疑って、本当にごめん」
 嫌だったら、嫌って言う。
 初めて唇を重ねた時、そうやって奏太は言っていたのに。それが、奏太なりの、精一杯の答えだったのに。
 芯の肩口に、奏太は甘える猫のように額をすり寄せた。その頬を両手で包み込んで引き上げ、芯はもう一度、艶やかな黒い瞳と目を合わせる。
 そっと口づけて、その柔らかな熱に、胸が安らぐのを感じた。こうやって身を預けられる居場所を、自分はずっと探していたのかもしれないと思った。
「寒いから中に入ろう。ピアノも芯を待ってる」
 赤い頬のまま目線を逸らして、奏太が言う。「ピアノも」という小さな言い回しにすら、気づいた瞬間に体温が上がる。
 ピアノにも、奏太にも、待っていてもらえたことが嬉しい。前を歩く細い背を、思わずもう一度抱きしめたくなるほどに。
 そのまま洋館に入れてもらった芯は、客間で奏太の身支度が終わるのを待った。無防備なパジャマ姿が惜しくて「そのままでいいのに」と声をかけたが、奏太は恥ずかしがって聞き入れてくれなかった。
 ソファに座り、この前出されたのと同じティーカップで紅茶を飲む。寒々とした庭を見ながら、自分が今ここにいることを不思議に思う。
 奏太のパジャマ姿も、この景色も、あのまま拗ねて諦めていたら、一生見ることはなかったものだ。
 一歩踏み出すまではわからなかった――踏み出した先に、こんな未来があったなんて。
「ごめん、待たせた」
 紅茶を半分ほど飲み終わった頃、いつも通りのワイシャツとスラックスに着替えた奏太が、客間の入口から顔を覗かせた。
 その表情に、先ほどまでの揺らぎは微塵もない。さすがだなと感心しつつ、少し残念な気持ちにもなった芯である。動揺する奏太は、普段の大人びた雰囲気とのギャップもあって、とても可愛らしかった。
 しげしげと奏太を見つめていると、「なんか芯、変なこと考えてない?」と勘づかれてしまった。そんなことないよと白を切って、紅茶を飲み干して立ち上がる。
 芯は奏太と連れ立って廊下を歩き、ピアノ部屋に向かった。そして、自分の練習を始める前に、奏太にベートーヴェンを弾いてほしいと頼んだ。
「ええ、今から? 急だな」
「どうしても聴きたいんだ。ずっと聴いてなかったから、寂しくて」
 芯の言葉に、奏太はうっすら頬を染めてうつむいた。「それじゃあまあ、仕方ないけど」などともごもご言いながら、いつかのように背もたれつきのピアノ椅子を引っ張ってくる。
 奏太が準備してくれた客席に座って、芯はピアノソナタ第八番に聴き入った。
 『悲愴』という通り名を体現する、重々しい第一楽章。ベートーヴェンの楽曲の中で指折りの美しさと評される第二楽章。駆け上がる旋律が焦燥感を駆り立てる第三楽章。
 それは、奏太が芯のためだけに創り出してくれた、約十八分の夢の世界だった。芯は目を閉じて、最初にここで奏太のピアノを聴いた時のことを思い出していた。
 鼓膜を震わせた音色の美しさと、わき上がるイメージの鮮明さに驚いた。どうしようもなく胸が高鳴って、考えるよりも先に、身を乗り出して感想を伝えていた。
 今も奏太の演奏の美しさは健在だ。出会った時から、少しだけ色を変えて。より鮮やかに、豊かになった音色で、芯の心を彩ってくれる。
 第三楽章を弾き終えてお辞儀をした奏太に、芯は目一杯の拍手を送った。一生分の拍手を送りたいと思うくらい、聴く人の心を動かす、いい演奏だった。
「すごい。俺もいつか、そんな風にピアノを弾いてみたい」
 ピアノについて全くの素人ではなくなった芯は、それがどれほど困難な願いか、もうよくわかっていた。ピアノは一朝一夕でどうにかなるものではない。自分はきっと、一生かかっても、奏太のような演奏はできない。
 もちろん奏太も、それはよくわかっていたはずだ。それでも奏太は、芯の目をまっすぐ見て、「芯ならできるよ」と微笑んだ。
 そう言ってもらえたことが嬉しくて、芯はにっこりと笑い返した。同時に、張りつめていた気持ちが一気にほどけて、安堵の涙が少しだけ目元を濡らした。
 その後から練習を再開した第二楽章は、四日さぼった分を取り返すのに、二日分のレッスンを費やした。そこから新しい部分を覚えるのに三日かかり、通し練習をしながら大まかな曲想をつけるのに、更に二日の時間を要した。
 刻一刻と過ぎていく時間が名残惜しくもあったけれど、レッスンをしている間は、別れへの寂しさを感じる余裕など毛ほどもなかった。新しいことを覚え、できるまで練習するだけで、毎日頭も体もへとへとだった。
 そうやって日々を重ね、芯がようやっと奏太から及第点をもらえる演奏ができたのは、母が迎えに来る日の前日だ。練習後、客間でサンドイッチをご馳走してもらった芯は、意を決して奏太に声をかけた。
「ついてきてほしいところがあるんだ」
 突然の誘いに、奏太は最初、戸惑っていた。しかし、じっと自分を見つめる芯の表情から並々ならぬ緊張を感じ取ったのか、結局は行き先も聞かずにうなずいてくれた。
 戸締まりだけ済ませて、二人は五分もしないうちに洋館を後にした。屋敷のわき道から県道に出て、寒空の下のアスファルトを、落ち葉を踏みながら登っていく。
 吹きつける風に、冬のにおいを感じた。ここを離れた冬。奏太がいない冬。自分はなにをしているだろう。自分はどうやって、生きていけばいいんだろう。
「俺さ、多分、生きて、色々なものが積み上がっていくことが、ずっと怖かったんだ」
 芯のつぶやきに、奏太はただ「うん」と答えた。前を歩く芯からは、その顔は見えない。それでも、振り返らずとも、すぐ後ろから聞こえる温かい足音が、芯の言葉をしっかりと受け止めた。
「でも、奏太にピアノを教わって、できることが増えるのは嬉しかった。ピアノに真剣な奏太を格好いいと思ったし、自分もそんな風に、なにかにまっすぐ向き合えたらって思ったんだ」
 未来に怯え、身動きが取れなくなっていた芯に、世界の彩りを思い出させてくれたのは奏太だ。奏太とピアノを弾いている間は、容赦なく押し寄せてくる未来など忘れて、今この時だけを考えていられるような気持ちになった。
 本当はずっと、このまま、二人だけの洋館で生きていたい。でもきっと、世界はそれを許さない。時は流れ、季節は移ろい、芯たちは大人になっていく。
 そしてなにより、他でもない奏太自身が、新しい未来に向かって羽ばたこうとしているのだ。本気でそばにいたいと思うのなら、芯だけがここで足踏みしているわけにはいかない。怖くても苦しくても、きちんと前に進まなければならない。
 緩やかなカーブを登りきると、道の先に大きな建物が姿を現す。高いところに掲げられた、教育施設特有のアナログ時計を見て、芯は音をたてて唾を飲み込んだ。
 二か月半前にここを訪れた時には、足がすくんでこれ以上近づくことができなかった。それがなぜか、今ならわかる。
 学校は、意味や理由を求められる場所だ。第一希望から第三希望までの三つの空欄に、長い長い人生を当てはめなければいけない場所。生きていく術を身につけるために、「皆と同じ」を学ぶ場所。
 芯にとって、学校はいつの間にか、息苦しい灰色の未来の象徴になってしまっていた。
 心のままに生きられないことが怖い。一つのことを続けなければならないことが怖い。そうやって定まっていくことが怖い。可能性を引き剝がされ、つまらない大人になっていく自分が怖い。
「芯」
 青ざめた顔で立ち尽くす芯の顔を、奏太が覗き込んだ。心配そうな表情のまま廃校舎を指差し、「芯の行きたい場所ってここ?」と首を傾げる。
「うん。そう」
「大丈夫? 冷汗すごいけど」
「駄目かも」
 芯はつい、弱気になってうつむいた。奏太と一緒なら、この校舎にも入ることができるかもしれないと思っていたが、やはりまだ自分には難しいのかもしれない。
 不確かでわずかな期待だったとはいえ、芯の心を、じわじわと落胆が支配する。この廃校舎に入れないということは恐らく、東京に戻っても、学校には行けないということだ。
 不登校になったと気づいたばかりだった、九月の一ヶ月間を思い出す。気晴らしもできず、ただ時間だけが過ぎていく日々がまたやってくるのかと思うと、胃の辺りが締めつけられたように痛くなる。
 今にもしゃがみ込みそうな芯の隣で、奏太はじっと、なにかを考えていた。黒髪から覗く顔は、ピアノを弾いている時と同じくらい真剣な表情だ。
「芯」
 数十秒後、考えがまとまったのか、奏太はようやく口を開いた。
「発表会をしよう」
 わざとらしくおどけた口調と、耳慣れない単語の響きに、芯は思わず視線を上げた。ぽかんと口を開けたまま拍子抜けする芯に、奏太はしたり顔で言葉を続けた。
「あれは多分、小学校だよね? 音楽室に行って、もしピアノがあったら、そこで発表会をしよう。せっかく第二楽章を弾けるようになったのに、僕が聴くだけじゃもったいない」
 え、と戸惑う芯の腕を、奏太は強引に引っ張った。頑なに動かなかった右足が、傾いた体を支えるために、一歩踏み出す。バランスを取るために、二歩、三歩、と足取りが続く。
「発表会って言ったって、奏太以外に誰が聴くんだよ」
 足が動いても、動悸は激しいままだ。弱々しく抵抗を試みる芯を振り返って、奏太は心の底から楽しそうな、晴れやかな表情で笑ってみせた。
「ベートーヴェン先生だよ」
 黒い瞳に、稲妻が駆ける。網膜を焼いたその閃光に見惚れているうちに、芯はいつの間にか、廃校舎の敷地に足を踏み入れていた。
 ロータリーを進み、昇降口に入って、土足のまま廊下に上がる。リノリウムの床はホコリと砂にまみれて、靴底越しにも、ざらざらとした質感が伝わってきた。
 下駄箱を含め、校舎内はどこもかしこもひと回り小さく、それが芯の動悸を少し落ち着かせた。しかし、芯がなんとか話せるようになっても、奏太は握った手を離さないでいてくれた。
 音楽室を探して、校舎全体を歩き回る。廊下から各教室を覗き、所々に残された小さな椅子や緑色の黒板を眺めていると、自然と自分の小学校時代が思い出された。
 ロッカーの上の壁には、『将来の夢』と題した絵が飾られていた。クラスメイトの『将来の夢』を見ながら、世の中にはこんなにも、多種多様な夢があるのかと驚いたものだ。
「奏太の小さい頃の夢ってなんだった?」
 学校という空間の圧にもだいぶ慣れ、ようやく少し余裕が出て、芯は問いかける。「ピアニスト」と即答した奏太を見て、芯は思わず吹き出した。
「ブレないなあ。しかもちゃんと、叶ってるし」
「そんなことないよ。まだまだ全然、できるようにならなきゃいけないことがいっぱいある」
 まっすぐ前を見つめる瞳に、芯は思わず目を細めた。ああやっぱり、好きだなあと、妙に納得する。心臓がぎゅっと苦しくなって、つないだ手に力がこもる。
 音楽室は、図工室や理科室が並ぶ三階の、一番奥にあった。ホコリっぽい部屋の中央には、奏太の読み通り、古ぼけたグランドピアノが鎮座していた。
 奏太は音楽室の入口でやっと芯の手を離すと、カーペット敷きの床を駆け抜けて、慎重にグランドピアノの屋根を開けた。そのまま鍵盤側に回り込み、流れるように音階を奏でる。
「うん。だいぶ狂ってるけど、ちゃんと鳴るね」
 奏太は満足気にうなずいて、ふいに斜め上に視線を向けた。そのまま芯に向けて手招きをし、「あれがお客さんだよ」と嬉しそうに言う。
 芯は足早に奏太に近づき、顔を上げて苦笑した。入口側の壁の上方には、しかめっ面のベートーヴェンを筆頭に、音楽家たちの懐かしい肖像画がずらりと並んでいた。
 じゃあ僕は、ここで座って見てるから。
 部屋の隅からパイプ椅子を引っ張ってきて、奏太は芯の顔と手元が一番よく見える位置に座った。
「お辞儀して、演奏して、またお辞儀ね。僕がいつもやってるみたいに。それじゃあ、どうぞ」
 いきなり言われて戸惑いながらも、芯は奏太に指示された通りに、ピアノの前でお辞儀をして椅子に腰かけた。目の前に広がる白黒の鍵盤が、なんだかいつもより大きく見える。
 ボロボロの校舎に、古ぼけたピアノ。煌びやかなステージとはかけ離れたシチュエーションなのに、芯は今、人生で一番の緊張を感じていた。
 奏太が毎日何時間も練習をする気持ちが、今ならわかるような気がした。複雑で繊細な動きを人前で完璧にこなすには、相当な鍛錬と、努力に対する自負が欠かせない。
 やっぱり奏太はすごい。
 そう思いながら、芯は意を決して、最初のポジションに手を置いた。奏太がいつもそうするように軽く息を吸い、そっと静かに、丁寧な動きで鍵盤を押し込む。
 少し軋んだ、それでいて温かな音色につられて、目の前に湖が広がった。芯は指を動かしながら、驚きに目を瞠った。
 音はまだ荒い。強弱も稚拙だ。それでも一拍目を弾いたあの一瞬、第二楽章の湖に、芯は意識を引き込まれた。
 奏太は見てくれていただろうか。芯の描いた世界を、一緒に感じてくれていただろうか。
 芯はつい、視線を動かして、客席の様子を探った。そして、パイプ椅子から立ち上がって歩いてくる奏太を見て、ひどく混乱した。
「……ごめん、やっぱり連弾で」
 芯の右側に立った奏太が、小さくささやく。少し身をかがめて、高い音域で第二楽章を演奏し始める。
 きらきらと輝く音色は、鍵盤の上を跳ね回って踊る子どものようだ。「芯が楽しそうだから、僕も弾きたくなっちゃった」という言い訳が、その音から聞こえてきた気がした。
 人の発表会に乱入するなんて、奏太も大概、勝手じゃないか。
 そんな文句が思い浮かぶ頃には、演奏への緊張はすっかり解けて、芯は知らぬ間に笑っていた。ユニゾンのメロディと、余白を彩る飾り音符。隣あった腕が触れるたび、胸の内に温かな喜びが咲く。
「なに笑ってんの」
 芯につられて笑いながら、奏太がついに、普通の声で喋り出した。「別に?」と肩をすくめて返したら、左手の音を盛大に間違えた。
 こんな好き勝手な演奏を聴いたら、ベートーヴェンはきっと、怒るだろう――それでいいのかもしれない。
 怒られたら謝って、間違えたら訂正して。
 そうやって少しずつ大人になった未来で、また彼と出会いたいと思う。逃げた先ではなく、選んだ居場所として。季節が巡っても、揺るぎなく共に在れるように。
「またいつか、会いにいってもいい?」
 全て弾き終わった時、芯の頬は涙に濡れていた。演奏の楽しさと別れへの寂しさ、そこに未来への不安が入り混じって、どんな顔をすればいいのか、芯自身にもわからない。
 そんな芯を見て、奏太は小さく笑った。困ったような、それでいてどこか嬉しそうな表情で目を細めて、芯の後頭部に手を伸ばす。
「うん。待ってる」
 やがて離れた唇が、祈るようにつぶやく。その音色を、去り際の稲妻を、芯は今でもはっきりと覚えている。