「お昼食べてく?」
おもむろに聞かれて、芯は鍵盤から顔を上げた。肌寒い日々が続くようになった、十一月初めの午後だった。
「あれ、もうそんな時間?」
「うん」
奏太は右腕を芯の前に出した。腕時計の針は、もうすぐ十三時を回ろうとしている。
芯が洋館につくのは、いつも十時半過ぎだ。そこから奏太のピアノを聴いたりお茶を出してもらったりして、自分のレッスンはだいたい、十一時頃から始まる。
今日もいつも通りに家を出てきたので、かれこれ二時間はピアノに向き合っていたことになる。休憩を挟みつつとはいえ、かなり没頭していたようだ。
『悲愴』の第二楽章は、もう両手で合わせる段階に入っていた。もちろん芯は、絶賛苦戦中である。片手ずつならなんとかできた黒鍵と白鍵の区別も、両手になると途端に、なにがなんだかわからなくなってしまう。
短いフレーズで区切って、片手ずつさらい直し、両手にする。弾けなかったらもう一度片手ずつに戻り、動きを確認したり奏太の見本を見たりしてからもう一度両手にする。
レッスンはとにかくその繰り返しで、正直なところ、かなり苦しい。けれども不思議と、芯はこの曲を投げ出したいとは思わなかった。あと一回、あと一フレーズ、と粘っていたら、いつの間にかこんなに時間が経ってしまっていた。
「ごめん、長居し過ぎた」
芯が謝ると、奏太は「構わないよ」と答えて首を横に振った。
「芯がいない時はどうせ、ピアノ弾くか勉強してるかだし」
そうなんだ、とつぶやいた芯は、ふと首を傾げて、まじまじと奏太の顔を見た。その視線を受けた奏太も、同じように首を傾げて芯を見返す。
「奏太って、一日何時間ピアノ弾いてるの?」
芯の口からこぼれ落ちたのは、とても素朴な疑問だった。いつ来てもピアノを弾いているせいで、奏太の普段の生活があまり想像できないことに、芯は気がついたのだった。
「何時間、か……朝はだいたい九時くらいから始めてて、芯が帰った後は、夕方くらいまではいつもやってるから……毎日四、五時間は弾いてるのかなあ。上手くいかない時は、勉強サボって夜も弾いたりするけど」
逆に全然集中できなくて、三時間しかやらない日もあるけどね。
飛び出してきた数字に頭がクラクラして、最後の方は、芯の耳にほとんど届いていなかった。
自分は二時間の映画を観るだけでも疲れるのに、四時間も五時間もピアノを練習できるなんて。奏太は一体、どれほどの集中力をもっているのか。
「やばい、俺、二時間で『頑張ったー』とか思って、めっちゃ恥ずかしい」
「いや? 芯は頑張ったでしょ。僕はピアノが本命だから、ピアノに時間をかけるのは当たり前だし。そもそも色んな曲を練習してると、四時間くらいあっという間に過ぎちゃうからね」
くすくすと笑って、奏太は扉の方へ向かった。ああそうだ、お昼をご馳走してくれるんだっけと思い出して、芯もその後に続く。
ピアノ部屋を出た先の玄関ホールを横切り、反対側の棟が客間になっているようだ。ピアノ部屋以外の場所に足を踏み入れたのは初めてだったが、壁に掛けられた絵や廊下に置かれた調度品にホコリが溜まっていることもなく、普段からまめに手入れをしている様子が伺えた。
「こんなに広いと、掃除大変じゃない?」
思わず尋ねると、奏太は「そうでもないよ」と言って笑った。ピアノの練習に疲れたら、気分転換がてらに、屋敷のどこか一ヶ所を掃除することにしているらしい。
偉いね、と答えつつ、芯は目の前にある細身の背から、目を離すことができなかった。抱きすくめたいと思いながらも、今じゃないかな、と葛藤する。
初めて唇に触れたあの日以来、二人は時々、キスをしている。告白をしたわけでも、されたわけでもなくて、それでもふとした瞬間に、芯は吸い込まれるように、奏太の小さな唇に口づけている。
自分と奏太は付き合っているのだろうかという疑問が、ここ最近ずっと、芯の頭を支配していた。ただキスを交わすだけの関係は、ひどく甘やかで胸が高鳴るけれど、少し物足りない感じがするのも事実だった。
好きだと伝えて、きちんと付き合えたら。
そうしたらもっと、多くの時間を共有できるようになるだろうか。なんだかんだ聞きそびれている連絡先を交換して、たまには一緒に、街の方へ買い物に行ったりできるだろうか。
妄想はどこまでも膨らむのに、芯はもう何回も、一歩踏み出すタイミングを逃していた。嫌われているはずがないのに、もし断られたら、という不安が、なぜかいつまでも拭えなかった。
客間につくと、奏太は部屋の奥から続くキッチンへと姿を消した。アンティークの応接セットに残された芯は、柔らかいソファの背に身を預け、しげしげと部屋全体を見回した。
洋書がしまわれたキャビネットや芯の背丈ほどはある大きな振子時計など、調度品のほとんどが、応接セットと同じアンティークだ。床にはワインレッドの絨毯が敷かれ、植物をあしらった壁紙が、部屋の印象を華やかに見せている。
部屋の北側にはピアノ部屋と同様大きな窓があり、芯の席からは、中庭の様子がよく見渡せた。一定の間隔で植えられた木々はしっかりと色づき、その鮮やかさで芯の目を楽しませた。
「お待たせ」
やがて戻ってきた奏太は、手に持ったトレーの上に、二人分のサンドイッチを乗せていた。トーストした食パンにハムやトマトを挟んだ簡素なものでも、昼食を抜いたりスナック菓子で済ませたりしがちな芯と比べれば、その差は歴然としていた。
「ちょっとしたものだけど、おいしいよ」
奏太は流れるように芯の向かいに腰掛けて、いただきますと手を合わせた。芯の目の前で、長い指がサンドイッチを丁寧につまみ上げる。小さな唇が開いて、赤い舌がちろりと覗く。
衝動に身を任せて、芯は身を乗り出した。テーブルに片手をついて首を伸ばし、サンドイッチを咀嚼する奏太の唇に、啄むように唇を重ねる。
「……急じゃない?」
顔を離すと、ぱっちりと見開かれた黒目が芯を見ていた。数回の瞬きの後、小さく呟いて、奏太は芯から視線を逸らす。黒髪から覗く赤い耳が可愛くて、芯は思わず、奏太の頬に手を伸ばす。
「奏太、こっち向いて」
「嫌だ」
「なんで」
「なんでも」
頬から首筋に掌を滑らせると、奏太はぴくりと身を震わせた。首筋まで赤くなったところで、奏太は芯の手首を掴み、無理矢理サンドイッチの上まで持っていった。
「はい、ふざけてないで、もう食べる。せっかく作ったんだから、ちゃんと食べてくれないと泣くよ」
母親みたいな口調がなんだか可笑しい。芯はつい、声を上げて笑ってしまった。じっとりとした目でむくれる奏太には、「泣いているところも見てみたい」などとは、とても言えそうにない。
齧りついたサンドイッチは、見た目通りに素朴な味がした。トーストされたパンのさっくり感と野菜の瑞々しさが、不揃いな食感で芯を楽しませる。
口をもごもご動かしながら、芯は改めて周囲を見回した。古いけど豪華な屋敷だよなと感心する。一般的に考えて、芯の家系もそこそこ裕福な方なのだが、この洋館には到底敵わない。
「どうしたの、そんなぐるぐる見回して」
少し調子を取り戻した奏太が、芯の視線に気づいて尋ねてくる。
「いやなんか、奏太ってやっぱり、同じ高校生って感じしないよなーって考えてた」
芯の答えに、奏太は「うん?」と首を傾げて、不思議そうな顔をした。
「そう?」
「うん。この家とか、すごいし。見た目も大人っぽいし」
「ああ……まあ見た目に関して言えば、僕はちょっとだけあっちの血が入ってるからね」
奏太は視線を斜め上にやって苦笑した。ああそうかと芯は思い出す。以前、この屋敷の説明をした時、奏太は『ドイツ人だった曽祖父の屋敷』と言っていた。
ウェーブがかった髪や不思議な光り方をする瞳は、わずかに混ざった異国の血の影響なのかもしれない。
「俺はそもそも、じいちゃんとも疎遠だからなあ」
そうぼやくと、奏太は芯に、「どういうおじいちゃんなの?」と問いを投げかけた。芯は首を捻りながら、祖父についての乏しい情報を開示する。
「父方は京都だし、父さん自身が仕事で忙しいから滅多に会わない。俺が今借りてるのは母方のじいちゃんの家なんだけど、ばあちゃんが死んでからめっきり会わなくなった」
母曰く、祖母が生きていた頃の祖父は、海外旅行など全く行かずにいつも家にいたらしい。記憶にはあまりないが、芯も幼稚園の頃などは、よく面倒を見てもらっていたそうだ。
「海外旅行、いいよな」
「奏太はだって、ドイツに住んでるじゃん」
「東南アジアの方とかは行ったことないし、そもそも旅行と生活じゃ、色々違うからね」
その発言自体が既に、芯からすれば浮世離れして感じられる。旅行と生活の違いがわかるのは、海外で学校に通い、生活した経験があってこそだ。
でもきっと、それを奏太に説明したところで、あまり納得は得られないのだろう。誰だって、自分以外の人の感覚は、本当の意味では理解できないものだ。
だから芯は、人の話を聞くのが、昔からわりと好きだった。芯にとって、奏太は特別で、輝いて見えて、それでも奏太以外の人にだって、それぞれの面白さや輝きがあるんじゃないかと思う。
そんな当たり前のことを久しぶりに思い出して、芯は少し驚いた。小さい頃の自分はちゃんと、それを知っていたのに、いつの間に忘れてしまったのだろうか。
大人になって、できることが増えて、世界は広がったような気がしていた。でも本当は、なにも知らなかった幼い頃の方が、色々なものが見えていたのではないか。
「いつの間にか紅葉したなあ」
窓の外を眺めながら、奏太が目を細める。芯もつられて、庭に植えられた木々を眺める。
金木犀が見納めなんだ、と言って、奏太が席を立ったので、芯も食べかけのサンドイッチを皿に置いて後を追った。奏太が窓を開けると、甘く華やかな香りが、冷たい風に乗って微かに漂ってきた。
鬱蒼とした木々の葉の奥に、だいぶ花の落ちた金木犀がちらりと見える。冬の気配を宿した灰色の空の下、ずいぶんと色あせてしまった可憐な花は、過ぎゆく季節を惜しむように風に吹かれている。
ふいに胸が締めつけられて、芯はわずかに眉根を寄せた。視線を隣に向け、ほとんど無意識のうちに「奏太」と呼びかけると、艶やかな黒い瞳がまっすぐに芯をとらえた。
――そっちこそ、いつまで日本にいるつもりなの。
ちらりと走った黄色い稲妻に目を奪われながら、芯は心の中で問いかける。聞けなかった言葉が、日々を過ごすごとに重みを増していく。
「元気になったら、ここには来なくなるんでしょ」と奏太は言った。それは、他でもない奏太自身が、元気になったらここからいなくなるということの裏返しではないだろうか。
吸い込まれるように唇を重ねても、奏太は照れくさそうに口元を隠して視線を逸らすだけだった。その様子が胸に引っかかって、芯は小さく下唇を噛む。
「そうだ、芯。僕明日からここにいないんだ」
突然の申告に、芯は自分の顔が強張るのを感じた。「いない」という単語の響きに驚いて、半開きの口のまま沈黙してしまう。
そんな芯を見た奏太は、困ったように微笑んだ。
「そんな顔しないで。レッスンで二日間、いないだけだから」
長い指先が伸びてくる。頬に滑らかな感触が触れて、視線と視線が絡み合う。
首を傾けて顔を近づけてきた奏太はしかし、途中で動きを止めてうつむいた。なにかを言おうと開きかけた唇は結局、なんの音も発さずに閉ざされる。
逃げるように体温が離れた。「食事に戻ろうか」と背を向ける奏太に、芯もまた、なんの言葉も発することができなかった。
おもむろに聞かれて、芯は鍵盤から顔を上げた。肌寒い日々が続くようになった、十一月初めの午後だった。
「あれ、もうそんな時間?」
「うん」
奏太は右腕を芯の前に出した。腕時計の針は、もうすぐ十三時を回ろうとしている。
芯が洋館につくのは、いつも十時半過ぎだ。そこから奏太のピアノを聴いたりお茶を出してもらったりして、自分のレッスンはだいたい、十一時頃から始まる。
今日もいつも通りに家を出てきたので、かれこれ二時間はピアノに向き合っていたことになる。休憩を挟みつつとはいえ、かなり没頭していたようだ。
『悲愴』の第二楽章は、もう両手で合わせる段階に入っていた。もちろん芯は、絶賛苦戦中である。片手ずつならなんとかできた黒鍵と白鍵の区別も、両手になると途端に、なにがなんだかわからなくなってしまう。
短いフレーズで区切って、片手ずつさらい直し、両手にする。弾けなかったらもう一度片手ずつに戻り、動きを確認したり奏太の見本を見たりしてからもう一度両手にする。
レッスンはとにかくその繰り返しで、正直なところ、かなり苦しい。けれども不思議と、芯はこの曲を投げ出したいとは思わなかった。あと一回、あと一フレーズ、と粘っていたら、いつの間にかこんなに時間が経ってしまっていた。
「ごめん、長居し過ぎた」
芯が謝ると、奏太は「構わないよ」と答えて首を横に振った。
「芯がいない時はどうせ、ピアノ弾くか勉強してるかだし」
そうなんだ、とつぶやいた芯は、ふと首を傾げて、まじまじと奏太の顔を見た。その視線を受けた奏太も、同じように首を傾げて芯を見返す。
「奏太って、一日何時間ピアノ弾いてるの?」
芯の口からこぼれ落ちたのは、とても素朴な疑問だった。いつ来てもピアノを弾いているせいで、奏太の普段の生活があまり想像できないことに、芯は気がついたのだった。
「何時間、か……朝はだいたい九時くらいから始めてて、芯が帰った後は、夕方くらいまではいつもやってるから……毎日四、五時間は弾いてるのかなあ。上手くいかない時は、勉強サボって夜も弾いたりするけど」
逆に全然集中できなくて、三時間しかやらない日もあるけどね。
飛び出してきた数字に頭がクラクラして、最後の方は、芯の耳にほとんど届いていなかった。
自分は二時間の映画を観るだけでも疲れるのに、四時間も五時間もピアノを練習できるなんて。奏太は一体、どれほどの集中力をもっているのか。
「やばい、俺、二時間で『頑張ったー』とか思って、めっちゃ恥ずかしい」
「いや? 芯は頑張ったでしょ。僕はピアノが本命だから、ピアノに時間をかけるのは当たり前だし。そもそも色んな曲を練習してると、四時間くらいあっという間に過ぎちゃうからね」
くすくすと笑って、奏太は扉の方へ向かった。ああそうだ、お昼をご馳走してくれるんだっけと思い出して、芯もその後に続く。
ピアノ部屋を出た先の玄関ホールを横切り、反対側の棟が客間になっているようだ。ピアノ部屋以外の場所に足を踏み入れたのは初めてだったが、壁に掛けられた絵や廊下に置かれた調度品にホコリが溜まっていることもなく、普段からまめに手入れをしている様子が伺えた。
「こんなに広いと、掃除大変じゃない?」
思わず尋ねると、奏太は「そうでもないよ」と言って笑った。ピアノの練習に疲れたら、気分転換がてらに、屋敷のどこか一ヶ所を掃除することにしているらしい。
偉いね、と答えつつ、芯は目の前にある細身の背から、目を離すことができなかった。抱きすくめたいと思いながらも、今じゃないかな、と葛藤する。
初めて唇に触れたあの日以来、二人は時々、キスをしている。告白をしたわけでも、されたわけでもなくて、それでもふとした瞬間に、芯は吸い込まれるように、奏太の小さな唇に口づけている。
自分と奏太は付き合っているのだろうかという疑問が、ここ最近ずっと、芯の頭を支配していた。ただキスを交わすだけの関係は、ひどく甘やかで胸が高鳴るけれど、少し物足りない感じがするのも事実だった。
好きだと伝えて、きちんと付き合えたら。
そうしたらもっと、多くの時間を共有できるようになるだろうか。なんだかんだ聞きそびれている連絡先を交換して、たまには一緒に、街の方へ買い物に行ったりできるだろうか。
妄想はどこまでも膨らむのに、芯はもう何回も、一歩踏み出すタイミングを逃していた。嫌われているはずがないのに、もし断られたら、という不安が、なぜかいつまでも拭えなかった。
客間につくと、奏太は部屋の奥から続くキッチンへと姿を消した。アンティークの応接セットに残された芯は、柔らかいソファの背に身を預け、しげしげと部屋全体を見回した。
洋書がしまわれたキャビネットや芯の背丈ほどはある大きな振子時計など、調度品のほとんどが、応接セットと同じアンティークだ。床にはワインレッドの絨毯が敷かれ、植物をあしらった壁紙が、部屋の印象を華やかに見せている。
部屋の北側にはピアノ部屋と同様大きな窓があり、芯の席からは、中庭の様子がよく見渡せた。一定の間隔で植えられた木々はしっかりと色づき、その鮮やかさで芯の目を楽しませた。
「お待たせ」
やがて戻ってきた奏太は、手に持ったトレーの上に、二人分のサンドイッチを乗せていた。トーストした食パンにハムやトマトを挟んだ簡素なものでも、昼食を抜いたりスナック菓子で済ませたりしがちな芯と比べれば、その差は歴然としていた。
「ちょっとしたものだけど、おいしいよ」
奏太は流れるように芯の向かいに腰掛けて、いただきますと手を合わせた。芯の目の前で、長い指がサンドイッチを丁寧につまみ上げる。小さな唇が開いて、赤い舌がちろりと覗く。
衝動に身を任せて、芯は身を乗り出した。テーブルに片手をついて首を伸ばし、サンドイッチを咀嚼する奏太の唇に、啄むように唇を重ねる。
「……急じゃない?」
顔を離すと、ぱっちりと見開かれた黒目が芯を見ていた。数回の瞬きの後、小さく呟いて、奏太は芯から視線を逸らす。黒髪から覗く赤い耳が可愛くて、芯は思わず、奏太の頬に手を伸ばす。
「奏太、こっち向いて」
「嫌だ」
「なんで」
「なんでも」
頬から首筋に掌を滑らせると、奏太はぴくりと身を震わせた。首筋まで赤くなったところで、奏太は芯の手首を掴み、無理矢理サンドイッチの上まで持っていった。
「はい、ふざけてないで、もう食べる。せっかく作ったんだから、ちゃんと食べてくれないと泣くよ」
母親みたいな口調がなんだか可笑しい。芯はつい、声を上げて笑ってしまった。じっとりとした目でむくれる奏太には、「泣いているところも見てみたい」などとは、とても言えそうにない。
齧りついたサンドイッチは、見た目通りに素朴な味がした。トーストされたパンのさっくり感と野菜の瑞々しさが、不揃いな食感で芯を楽しませる。
口をもごもご動かしながら、芯は改めて周囲を見回した。古いけど豪華な屋敷だよなと感心する。一般的に考えて、芯の家系もそこそこ裕福な方なのだが、この洋館には到底敵わない。
「どうしたの、そんなぐるぐる見回して」
少し調子を取り戻した奏太が、芯の視線に気づいて尋ねてくる。
「いやなんか、奏太ってやっぱり、同じ高校生って感じしないよなーって考えてた」
芯の答えに、奏太は「うん?」と首を傾げて、不思議そうな顔をした。
「そう?」
「うん。この家とか、すごいし。見た目も大人っぽいし」
「ああ……まあ見た目に関して言えば、僕はちょっとだけあっちの血が入ってるからね」
奏太は視線を斜め上にやって苦笑した。ああそうかと芯は思い出す。以前、この屋敷の説明をした時、奏太は『ドイツ人だった曽祖父の屋敷』と言っていた。
ウェーブがかった髪や不思議な光り方をする瞳は、わずかに混ざった異国の血の影響なのかもしれない。
「俺はそもそも、じいちゃんとも疎遠だからなあ」
そうぼやくと、奏太は芯に、「どういうおじいちゃんなの?」と問いを投げかけた。芯は首を捻りながら、祖父についての乏しい情報を開示する。
「父方は京都だし、父さん自身が仕事で忙しいから滅多に会わない。俺が今借りてるのは母方のじいちゃんの家なんだけど、ばあちゃんが死んでからめっきり会わなくなった」
母曰く、祖母が生きていた頃の祖父は、海外旅行など全く行かずにいつも家にいたらしい。記憶にはあまりないが、芯も幼稚園の頃などは、よく面倒を見てもらっていたそうだ。
「海外旅行、いいよな」
「奏太はだって、ドイツに住んでるじゃん」
「東南アジアの方とかは行ったことないし、そもそも旅行と生活じゃ、色々違うからね」
その発言自体が既に、芯からすれば浮世離れして感じられる。旅行と生活の違いがわかるのは、海外で学校に通い、生活した経験があってこそだ。
でもきっと、それを奏太に説明したところで、あまり納得は得られないのだろう。誰だって、自分以外の人の感覚は、本当の意味では理解できないものだ。
だから芯は、人の話を聞くのが、昔からわりと好きだった。芯にとって、奏太は特別で、輝いて見えて、それでも奏太以外の人にだって、それぞれの面白さや輝きがあるんじゃないかと思う。
そんな当たり前のことを久しぶりに思い出して、芯は少し驚いた。小さい頃の自分はちゃんと、それを知っていたのに、いつの間に忘れてしまったのだろうか。
大人になって、できることが増えて、世界は広がったような気がしていた。でも本当は、なにも知らなかった幼い頃の方が、色々なものが見えていたのではないか。
「いつの間にか紅葉したなあ」
窓の外を眺めながら、奏太が目を細める。芯もつられて、庭に植えられた木々を眺める。
金木犀が見納めなんだ、と言って、奏太が席を立ったので、芯も食べかけのサンドイッチを皿に置いて後を追った。奏太が窓を開けると、甘く華やかな香りが、冷たい風に乗って微かに漂ってきた。
鬱蒼とした木々の葉の奥に、だいぶ花の落ちた金木犀がちらりと見える。冬の気配を宿した灰色の空の下、ずいぶんと色あせてしまった可憐な花は、過ぎゆく季節を惜しむように風に吹かれている。
ふいに胸が締めつけられて、芯はわずかに眉根を寄せた。視線を隣に向け、ほとんど無意識のうちに「奏太」と呼びかけると、艶やかな黒い瞳がまっすぐに芯をとらえた。
――そっちこそ、いつまで日本にいるつもりなの。
ちらりと走った黄色い稲妻に目を奪われながら、芯は心の中で問いかける。聞けなかった言葉が、日々を過ごすごとに重みを増していく。
「元気になったら、ここには来なくなるんでしょ」と奏太は言った。それは、他でもない奏太自身が、元気になったらここからいなくなるということの裏返しではないだろうか。
吸い込まれるように唇を重ねても、奏太は照れくさそうに口元を隠して視線を逸らすだけだった。その様子が胸に引っかかって、芯は小さく下唇を噛む。
「そうだ、芯。僕明日からここにいないんだ」
突然の申告に、芯は自分の顔が強張るのを感じた。「いない」という単語の響きに驚いて、半開きの口のまま沈黙してしまう。
そんな芯を見た奏太は、困ったように微笑んだ。
「そんな顔しないで。レッスンで二日間、いないだけだから」
長い指先が伸びてくる。頬に滑らかな感触が触れて、視線と視線が絡み合う。
首を傾けて顔を近づけてきた奏太はしかし、途中で動きを止めてうつむいた。なにかを言おうと開きかけた唇は結局、なんの音も発さずに閉ざされる。
逃げるように体温が離れた。「食事に戻ろうか」と背を向ける奏太に、芯もまた、なんの言葉も発することができなかった。