家に帰った芯は、自室のベッドに寝転がったまま、スマートフォンで「榛奏太」と検索した。最初にヒットしたのは、とあるウェブ音楽雑誌の記事だ。
今年四月にミュンヘンで開かれたチャリティーコンサートを取材したものらしい。見出しをタップすると、太字のタイトルに続いて、奏太の略歴と一枚の画像が表示される。
――榛奏太、十六歳。三歳からピアノを始め、国内のジュニアコンクールで活躍。小学校卒業と同時に拠点を海外へ移し、現在はドイツのギムナジウムに通いながら、ベートーヴェンの巨匠・ダニエル=ヴォルフの元で日々研鑚を積んでいる。
掲載されていた画像は、石畳の広場でグランドピアノを演奏する奏太の写真だった。顔貌は先ほどまで会っていた男と同じなのに、異国の空の下で観客に囲まれる奏太は、全くの別人に思えた。
芯は続けて、動画再生アプリで奏太の名前を検索してみた。日本で活動していたという、ジュニアコンクール時代の演奏動画がいくつもヒットした。
芯はその中から、一番古いものを開く。まだ幼い、たどたどしい足取りの奏太が、大きなグランドピアノの前でお辞儀をする。動画の概要欄を見ると、奏太がまだ六歳の頃の映像らしい。
ピアノ椅子に座った奏太は、先ほどまでとは打って変わった堂々とした佇まいで、課題曲を弾き切った。芯は思わず、会場の観客と一緒になって、その場で小さく拍手をした。
七歳、八歳、と奏太の成長を追う形で、芯は順番に動画を再生した。奏太の演奏と振る舞いはステージを重ねるごとに洗練されていき、成績も順調に上がっている様子だった。
すごいな。
芯はスマートフォンの画面を消し、素直に感心する。自分が小学生だった頃を思い出してみても、友だちと馬鹿騒ぎしていた記憶しかない。
一方奏太は、こんなに幼い頃から大人の目に触れ、努力し、結果を出し続けてきたのだ。そこにあったであろう苦労を想像するだけで、自然と尊敬の念が強くなる。
それに比べて、自分は。
芯はぐるりと部屋を見回した。昨日の夜読み散らかした漫画本が、壁際の机に積み上がっている。持参した最新の携帯ゲーム機が、その隣で充電器につながれている。
もともと好奇心旺盛な芯は、他の人よりも楽しみに貪欲だ。電子版の漫画もたくさんダウンロードしてあるし、動画再生アプリでチャンネル登録しているアカウントもたくさんあった。SNSでも多くのインフルエンサーや友人をフォローしていて、いつでも新しくて面白い情報が手に入る仕組みができている。
なのになぜだろう。こんなにも空虚な気持ちになるのは。なにも悪いことをしていないのに、ふとした瞬間、妙な後ろめたさに襲われるのは。
漫画も、ゲームも、SNSも、面白い。でも奏太にとってのピアノのように、ずっと続けたいかと問われたら、素直にうなずけない自分がいた。
簡単に楽しめる遊びは、楽しめば楽しむほど、自分が少しずつ干上がっていくような感覚に襲われる。楽しいのに、心のどこかが苛立って、居ても立ってもいられないような気持ちになる時がある。
自分がひどく空っぽな存在に思えて、芯は大きくため息をついた。自信のなさからか、奏太にピアノを教わることが、なんだか少し怖く思えてくる。
本当に自分は、ピアノを弾けるようになるのだろうか。全然上達しなくて、馬鹿にされたりしたら嫌だな。
悶々と考えているうちに、芯はいつの間にか眠っていた。目を覚ましてスマートフォンの画面をつけると、母からの不在着信通知があった。
窓の外はもう暗い。部屋のカーテンを閉めてから、芯は母に折り返しをかけた。画面が通話中に切り替わり、三回ほどコールが続く。
「もしもし?」
母はいつも通りの声で電話に出た。「出れなくてごめん」と芯が謝ると、呆れ混じりのため息の後、今度は不機嫌そうな声色が続いた。
「昨日そっちに行ったばっかなのに、もう連絡つかなくて、びっくりしたんだから。なにしてたの?」
「寝てた」
「やっぱり。ちゃんと朝ごはんは食べたの?」
「うん。食パン食べた」
「じゃあ昼は?」
芯は口ごもる。洋館からこの家に戻ったきり、タイミングを逃して、昼食は抜いてしまっていた。
「食べてないんでしょ。そんなんで大丈夫?」
「いやまあ、夕飯はちゃんと食べるし、風呂も入るよ」
「違うわよ」
予想外の母の答えに、芯はその場で首を傾げる。なにが違うのか、彼女の意図がよく掴めない。
「なにが?」
「学校は大丈夫なのって聞きたいの。そんな過ごし方で、ちゃんと行けるようになるの?」
芯は顔をしかめて沈黙した。責め立て、急かすような母の口調に、胃のあたりがきゅっと締めつけられる。
それこそ、昨日ここに来たばかりで、まだわかるわけがないだろうと反論したかった。それでも言葉を飲み込んだのは、心のどこかで、母の言うことが正しいような気がしたからだ。
都会から自然豊かな場所に来ただけで、自分の生活はなにも変わっていない。それどころか今朝は、とっくの昔に使われなくなった小学校の校舎にすら、入ることができなかった。
このまま学校に行けなかったらどうしよう。
何度も脳内を渦巻いた不安が、ひと回り大きくなって肩にのしかかる。ずっしりと体が重くなって、ここから先へは、もう一歩も進めないような気がしてくる。
切羽詰まった芯の気持ちは、電話越しでも十分、母に伝わっているようだ。一秒ごとに質量を増す沈黙が、そのなによりの証拠だった。
芯の不安が母の不安を駆り立て、大きくなった母の不安がまた、芯の不安を増幅する。芯が不登校になってから長らく、そんな悪循環が、二人の間には出来上がってしまっている。
「とにかく今週末、そっちに行くから」
やがて母から発せられたのは、悪さばかりする子どもを諭すような、疲れと諦めに満ちた声色だった。
「やっぱり私、真さんに話して、あなたのこと連れ帰ることにする。こっちに戻ってきたら精神科に行くわよ」
「なにそれ、やめてよ」
「やめてよって言われても、私だって嫌よ。精神科なんて。でもこのまま学校に行けないんじゃ仕方ないでしょ」
「違う。勝手に決めないでって話」
「勝手じゃない。私はね、あなたが一番早く普通に学校に行ける方法を」
「友だちができそうなんだ」
こちらの話を聞かない母に辟易して、芯は思わず口を挟んだ。母が押し黙ったのを好機とみて、芯は思いつくがままに言葉を畳みかけた。
「じいちゃん家から少し登ったところに、すごく大きい洋館があるんだけど、知ってる? そこにめっちゃピアノの上手い同い年の男子がいて、今日ちょっと話した。ピアノ教えてもらう約束もした。だから俺帰らないよ。新しいこと始めたら、なんか変わるかもだし」
自分の発した言葉を、芯は完全に信じているわけではなかった。ピアノを教えてもらえることは嬉しいが、それと不登校の克服が結びつくかどうかは、正直怪しいところである。
それでも、奏太にピアノを教わらないままここを離れるのは、ひどくもったいないことのように思えた。
黒い瞳に走る稲妻や、湖の幻想。彼がピアノに向かっている時の、怖いくらいに真剣な横顔。
その演奏に、その表情に、久しぶりに心が動いた。どんなに怖くて不安でも、向き合わずに離れるのが躊躇われるほどに。
「芯はただでさえ三日坊主なのに、よりによってピアノなんて……その子も自分の時間があるだろうし、迷惑なんじゃないの?」
母の言葉に、少しだけ気持ちが揺らいだ。突然ピアノを教えてもらうことになるなんて、芯自身だって、自分の存在が迷惑にならないか心配である。
けれども、そんな芯を励ましたのは、絡めた指を離した時の奏太の視線だ。
どこか含みのあるまなざしに、自分にもなにかできることがあるのではないかと思った。あの素晴らしい演奏の役に立てるのなら、それはなんだか、とてもいいことのように思われた。
「いつでも来ていいって言われたんだ。とにかく、なにかあったら連絡するから、それまではしばらく放っておいてくんない」
芯はきっぱりと言い放って、強引に話をまとめた。母はまだ何か言いたげだったが、結局は渋々といった声色で曖昧な相づちを打ち、通話を切った。
今年四月にミュンヘンで開かれたチャリティーコンサートを取材したものらしい。見出しをタップすると、太字のタイトルに続いて、奏太の略歴と一枚の画像が表示される。
――榛奏太、十六歳。三歳からピアノを始め、国内のジュニアコンクールで活躍。小学校卒業と同時に拠点を海外へ移し、現在はドイツのギムナジウムに通いながら、ベートーヴェンの巨匠・ダニエル=ヴォルフの元で日々研鑚を積んでいる。
掲載されていた画像は、石畳の広場でグランドピアノを演奏する奏太の写真だった。顔貌は先ほどまで会っていた男と同じなのに、異国の空の下で観客に囲まれる奏太は、全くの別人に思えた。
芯は続けて、動画再生アプリで奏太の名前を検索してみた。日本で活動していたという、ジュニアコンクール時代の演奏動画がいくつもヒットした。
芯はその中から、一番古いものを開く。まだ幼い、たどたどしい足取りの奏太が、大きなグランドピアノの前でお辞儀をする。動画の概要欄を見ると、奏太がまだ六歳の頃の映像らしい。
ピアノ椅子に座った奏太は、先ほどまでとは打って変わった堂々とした佇まいで、課題曲を弾き切った。芯は思わず、会場の観客と一緒になって、その場で小さく拍手をした。
七歳、八歳、と奏太の成長を追う形で、芯は順番に動画を再生した。奏太の演奏と振る舞いはステージを重ねるごとに洗練されていき、成績も順調に上がっている様子だった。
すごいな。
芯はスマートフォンの画面を消し、素直に感心する。自分が小学生だった頃を思い出してみても、友だちと馬鹿騒ぎしていた記憶しかない。
一方奏太は、こんなに幼い頃から大人の目に触れ、努力し、結果を出し続けてきたのだ。そこにあったであろう苦労を想像するだけで、自然と尊敬の念が強くなる。
それに比べて、自分は。
芯はぐるりと部屋を見回した。昨日の夜読み散らかした漫画本が、壁際の机に積み上がっている。持参した最新の携帯ゲーム機が、その隣で充電器につながれている。
もともと好奇心旺盛な芯は、他の人よりも楽しみに貪欲だ。電子版の漫画もたくさんダウンロードしてあるし、動画再生アプリでチャンネル登録しているアカウントもたくさんあった。SNSでも多くのインフルエンサーや友人をフォローしていて、いつでも新しくて面白い情報が手に入る仕組みができている。
なのになぜだろう。こんなにも空虚な気持ちになるのは。なにも悪いことをしていないのに、ふとした瞬間、妙な後ろめたさに襲われるのは。
漫画も、ゲームも、SNSも、面白い。でも奏太にとってのピアノのように、ずっと続けたいかと問われたら、素直にうなずけない自分がいた。
簡単に楽しめる遊びは、楽しめば楽しむほど、自分が少しずつ干上がっていくような感覚に襲われる。楽しいのに、心のどこかが苛立って、居ても立ってもいられないような気持ちになる時がある。
自分がひどく空っぽな存在に思えて、芯は大きくため息をついた。自信のなさからか、奏太にピアノを教わることが、なんだか少し怖く思えてくる。
本当に自分は、ピアノを弾けるようになるのだろうか。全然上達しなくて、馬鹿にされたりしたら嫌だな。
悶々と考えているうちに、芯はいつの間にか眠っていた。目を覚ましてスマートフォンの画面をつけると、母からの不在着信通知があった。
窓の外はもう暗い。部屋のカーテンを閉めてから、芯は母に折り返しをかけた。画面が通話中に切り替わり、三回ほどコールが続く。
「もしもし?」
母はいつも通りの声で電話に出た。「出れなくてごめん」と芯が謝ると、呆れ混じりのため息の後、今度は不機嫌そうな声色が続いた。
「昨日そっちに行ったばっかなのに、もう連絡つかなくて、びっくりしたんだから。なにしてたの?」
「寝てた」
「やっぱり。ちゃんと朝ごはんは食べたの?」
「うん。食パン食べた」
「じゃあ昼は?」
芯は口ごもる。洋館からこの家に戻ったきり、タイミングを逃して、昼食は抜いてしまっていた。
「食べてないんでしょ。そんなんで大丈夫?」
「いやまあ、夕飯はちゃんと食べるし、風呂も入るよ」
「違うわよ」
予想外の母の答えに、芯はその場で首を傾げる。なにが違うのか、彼女の意図がよく掴めない。
「なにが?」
「学校は大丈夫なのって聞きたいの。そんな過ごし方で、ちゃんと行けるようになるの?」
芯は顔をしかめて沈黙した。責め立て、急かすような母の口調に、胃のあたりがきゅっと締めつけられる。
それこそ、昨日ここに来たばかりで、まだわかるわけがないだろうと反論したかった。それでも言葉を飲み込んだのは、心のどこかで、母の言うことが正しいような気がしたからだ。
都会から自然豊かな場所に来ただけで、自分の生活はなにも変わっていない。それどころか今朝は、とっくの昔に使われなくなった小学校の校舎にすら、入ることができなかった。
このまま学校に行けなかったらどうしよう。
何度も脳内を渦巻いた不安が、ひと回り大きくなって肩にのしかかる。ずっしりと体が重くなって、ここから先へは、もう一歩も進めないような気がしてくる。
切羽詰まった芯の気持ちは、電話越しでも十分、母に伝わっているようだ。一秒ごとに質量を増す沈黙が、そのなによりの証拠だった。
芯の不安が母の不安を駆り立て、大きくなった母の不安がまた、芯の不安を増幅する。芯が不登校になってから長らく、そんな悪循環が、二人の間には出来上がってしまっている。
「とにかく今週末、そっちに行くから」
やがて母から発せられたのは、悪さばかりする子どもを諭すような、疲れと諦めに満ちた声色だった。
「やっぱり私、真さんに話して、あなたのこと連れ帰ることにする。こっちに戻ってきたら精神科に行くわよ」
「なにそれ、やめてよ」
「やめてよって言われても、私だって嫌よ。精神科なんて。でもこのまま学校に行けないんじゃ仕方ないでしょ」
「違う。勝手に決めないでって話」
「勝手じゃない。私はね、あなたが一番早く普通に学校に行ける方法を」
「友だちができそうなんだ」
こちらの話を聞かない母に辟易して、芯は思わず口を挟んだ。母が押し黙ったのを好機とみて、芯は思いつくがままに言葉を畳みかけた。
「じいちゃん家から少し登ったところに、すごく大きい洋館があるんだけど、知ってる? そこにめっちゃピアノの上手い同い年の男子がいて、今日ちょっと話した。ピアノ教えてもらう約束もした。だから俺帰らないよ。新しいこと始めたら、なんか変わるかもだし」
自分の発した言葉を、芯は完全に信じているわけではなかった。ピアノを教えてもらえることは嬉しいが、それと不登校の克服が結びつくかどうかは、正直怪しいところである。
それでも、奏太にピアノを教わらないままここを離れるのは、ひどくもったいないことのように思えた。
黒い瞳に走る稲妻や、湖の幻想。彼がピアノに向かっている時の、怖いくらいに真剣な横顔。
その演奏に、その表情に、久しぶりに心が動いた。どんなに怖くて不安でも、向き合わずに離れるのが躊躇われるほどに。
「芯はただでさえ三日坊主なのに、よりによってピアノなんて……その子も自分の時間があるだろうし、迷惑なんじゃないの?」
母の言葉に、少しだけ気持ちが揺らいだ。突然ピアノを教えてもらうことになるなんて、芯自身だって、自分の存在が迷惑にならないか心配である。
けれども、そんな芯を励ましたのは、絡めた指を離した時の奏太の視線だ。
どこか含みのあるまなざしに、自分にもなにかできることがあるのではないかと思った。あの素晴らしい演奏の役に立てるのなら、それはなんだか、とてもいいことのように思われた。
「いつでも来ていいって言われたんだ。とにかく、なにかあったら連絡するから、それまではしばらく放っておいてくんない」
芯はきっぱりと言い放って、強引に話をまとめた。母はまだ何か言いたげだったが、結局は渋々といった声色で曖昧な相づちを打ち、通話を切った。