翌朝十時に目を覚ました芯は、一階のキッチンで食パンを一枚食べた後、くたびれたスニーカーを履いて玄関扉を押し開けた。
歩けば少し汗ばむくらいの、ちょうどいい気温だ。家の前の細道を下って県道に出ると、左手にあるガードレールの向こうには、麓の街並みがよく見渡せた。
母に行くなと釘を刺された小学校を目指して、坂を登る。明るい陽光に照らされた道路には、ぱっきりと濃い木々の影ができている。
相変わらず澄み切った空気は、久しぶりに芯の心を愉快にした。人がいないのをいいことに、流行りの歌やゲームのBGMを口ずさんでいると、存外早く頂上についた。
まず最初に芯の目をひいたのは、校舎の高いところに掲げられた大きな時計だ。針は止まり、文字盤にはヒビが入っていたが、現代の学校でもよく見かけるオーソドックスなデザインである。
所々緑色の苔に覆われ、ツタが絡まった校舎の外観は、それでも構造的には、芯の知っている学校像と大差なかった。
こういうのって昔から変わらないんだな、と感心しながら、芯は一歩踏み出す。しかし体は、その場に留まったままである。
芯は驚いて、思わず後ろを振り返った。誰かに服を掴まれ、引き止められているのかと思ったのだ。
けれども後ろには誰もおらず、自分が登ってきた坂道が続いているだけだった。
もう一度、「歩け」と命令する。足は動かない。歩け、歩け――右足は駄目だと悟り、今度は左足に命令を下す。歩け。進め。進むんだ。
自分の体が思い通りにならない恐怖に、手足がにわかに冷たくなった。嫌な汗が背中ににじむ。込み上げる吐き気とめまいに耐えながら、芯は考えるよりも先に踵を返し、駆け出した。
校舎に近づこうとした時には動かなかった両足が、転がるような速度で地面を蹴っている。そのことに気がついた芯はますます気分が悪くなり、ついにその場にしゃがみ込んだ。
いったい自分は、どうしてしまったのか。
通っている高校だけではなくて、あんな古ぼけた小学校にさえ、自分は近づくことができないのか。
答えの出ない問いと、得も言われぬ情けなさが、抱えた膝の上でぐるぐる回る。喉が詰まって、息が苦しい。視界が真っ暗になっていく。
今にも途切れそうだった意識はしかし、予期せぬ轟音によって、無理矢理現実へと引き上げられた。
目の前を、稲妻が駆け抜けた気がした。ひどくにごった、命の危険すら感じる暴力的な響きに、芯は思わず顔を上げていた。
音は道の先、祖父宅にもう少し近づいた辺りから聞こえてくる。続いたメロディーによくよく耳を澄ませば、それはピアノの音色だった。
再び轟音――楽器が壊れてしまうのではと、心配になるほどの音圧。ピアノからこんな音が出るなんて、という驚きが、芯の体を立ち上がらせた。
気持ち悪さと動悸はそのままに、芯は再び、一歩踏み出す。その音には、芯をひきつけるなにかがあった。
どこで、誰が、どんな風に演奏しているのだろう。
この曲は、なんという名前なのだろう。
坂を下るにつれて音が近くなり、曲の全貌が聴き取れるようになる。ずいぶんと激しい曲だ。大きく差のついた強弱が、聴く者の緊張感をより一層駆り立てる。
音に誘われるがまま、芯は小道に入った。辿りついたのは、大きな洋館の前だった。鉄製の門の先には雑草だらけの庭が広がっていて、そのずっと奥、正面玄関から右側へ伸びる棟の一室から、演奏は聞こえてきていた。
古びた門扉に、芯は恐る恐る触れてみる。鍵はかかっておらず、案外軽い音を立てて、屋敷は芯を受け入れた。
少しだけ。もう少しだけ近くで、この演奏を聴くだけだから。
ぼんやりと頭に浮かんだ「不法侵入」の四文字を追い払うように、芯は首を左右に振った。音が聞こえてくる方角的に、運が良ければ部屋の中を覗けそうだった。
草を踏み分け、部屋の手前まで辿りつく。カーテンは開いていた。窓の際に身を寄せて、そっと中を覗き込むと、黒いグランドピアノに向かう背中が見えた。
細身の男だ。真っ白いシャツに黒いスラックスを合わせて、足元の革靴も黒。視線を上へ戻せば、白く長い首の先に、襟足の短い黒髪頭が乗っかっていた。外国人のように艶のある、ウェーブがかった毛質が珍しい。
どこか浮世離れした後ろ姿に見惚れたまま、芯は気づけば、その場に座り込んでいた。半開きの窓から流れ出てくる旋律は、先ほどまでとは似ても似つかない、静かに語りかけるような音質に変化していた。
ゆったりとしたメロディーにつられて、芯の頭には、一艘の小舟が想起される。夜の湖に浮かぶ無人の舟は、大きな満月の光の下で、さざなみに身を任せて静かに漂っている。
冷たく澄んだ響きに、先ほどまでの不快な動悸は、自然と収まっていった。体のほてりが冷めた芯は、曲の創り出すイメージにもっと浸っていたくて、無意識のうちに目をつむっていた。
不法侵入も不登校も忘れて、小舟にふわりと乗り込む。仰向けに寝転がって、満点の星と月を眺める。
ずっとこうしていられたらいいのに。
気がつけば本気で、芯はそう願っていた。そこには美しい景色だけがあった。怖いものはなにもなくて、自分はただ、波に揺られて息をする。
曲に聴き惚れている間に、時間はどんどん溶けていく。人間が何分、何秒という単位で区切る前の、連綿と続く時の流れが、つるりとした表面で芯の頬を撫でる。
「ウチになにか用?」
突然声が降ってきて、芯は慌てて顔を上げた。黒髪に白シャツ、スラックス姿の細身の男が、身を屈めてこちらを覗き込んでいた。
「あっ、」
さーっと血の気が引いて、嫌な汗がこめかみを伝う。にわかに現実に引き戻された芯の脳内を、不法侵入の四文字が、これ見よがしに回り始める。
「途中からずっと、そこにいたよね? 悪いことする様子もないから放っておいたけど、さすがに寝るのはどうかと思う」
虫もすごいし、と顔をしかめ、男は眼前の羽虫を白い掌で払った。芯の目の前で、長く揃った指先が、残像を伴いながら蝶のように宙を舞った。
「ごめんなさい。通りを歩いてたらピアノが聴こえて、どんな人が弾いてるんだろうって、どうしても気になって」
立ち上がって頭を下げた芯を、男はじっと見つめた。鼻筋の通った小綺麗な顔立ちは大人っぽいが、目元や口元には、まだ幼さが感じられた。
まだ学生――もしかしたら同い年かもしれない。そう思っても、感情の読めない目は瞳がわずかに黄色みがかっていて、芯は極度の緊張状態を強いられた。
「どうだった?」
「え?」
顎に指をあてて何やら考え込んでいた男が、唐突に口を開く。芯が問い返すと、男はもう一度、はっきりとした口調で、芯の目をまっすぐ見てこう言った。
「僕のピアノ。どんな感じだった?」
「どんな感じって」
唐突な質問に、芯は困って眉根を寄せた。意識的にクラシック音楽を聞いたのなんて、中学三年生の音楽の授業以来だ。
「普通に、綺麗だと思ったけど」
「もっと具体的に言えたりする? テンポが速いとか、強弱が極端すぎるとか」
そんなの、わかるわけがないだろう。
つい心の中で文句が出たが、不法侵入者という自分の立場上、ただ「わかりません」と匙を投げるのもためらわれた。仕方がないので、芯は正直に、自分の感じたことを伝えることにした。
「最初の大きな音は、近くに雷でも落ちたかと思ったんだ。怖かったけど、ピアノの音ってわかったらめっちゃ格好いいって思った。その後の静かなところは逆に、怖いくらい静かで……えっと、夜の湖みたいな」
「湖?」
想像以上に訝しげな視線を向けられ、胃がきりりと痛む。芯は口角をぎこちなく引き上げて、誤魔化すような笑みをつくった。
「とにかく、俺にはそう聴こえたんだ。誰もいない夜の湖を、舟で漂ってるみたいな、そんな気持ちになった。ごめんなさい、俺素人だから、これ以上は上手く言えないです」
掌にはじっとりと汗をかいていた。この男の前にいると、蛇に睨まれたカエルのように動けなくなってしまう。
どうやら通報する気はないようだし、なんとか開放してもらえないだろうか。
芯はこっそりと、門の方を盗み見た。しかしその瞬間、男は芯の腕を力強く掴み、半開きの窓へと引っ張っていった。
「来て」
「えっ、ええ?」
男は芯の腕を引いたまま、部屋の中に入ろうとする。慌てて靴を脱ぎかけた芯を制止し、土足のままグランドピアノの脇に立たせると、「ちょっと聴いてて」と軽い調子で指示を出した。
「湖は温かい? 冷たい?」
指を慣らすような動きで、男が鍵盤に触れる。彼がたった一度、何気なく力をかけただけで、背筋が震えるほど甘い音が鳴った。
「ねえ、」
「えっ? ――あ、つっ、冷たい、かな?」
芯ははっと我に返り、しどろもどろに答えた。響きの余韻が微弱な電流となって四肢に残っていて、頭も体も上手く働かない。
「魚はいる?」
「いない、と思う……生き物が棲めないくらい、すごく冷たくて澄み切ってる」
「Okey、こんな感じかな?」
流れるように始まった演奏に、芯は言葉を失った。先ほどと同じ曲なのに、湧き上がるイメージの鮮明さが段違いだ。
ピンクがかった、紫とも濃紺とも言える不思議な色の宙が、頭上に広がる。湖を囲む木々に目を凝らせば、一枚一枚の葉の模様まで、くっきりと見えた気がした。
「すごいっ!」
気がつけば芯は、演奏を終えた男の右手を両方の掌で握り込んで、きらきらと目を輝かせていた。
「すごい、さっきと全然演奏が違う。どうやったの? これはなんていう曲? 君はなんていう名前?」
突然握られた手を見下ろして、男は若干、引き気味の表情を見せた。それでも芯の勢いに気圧されて、「榛奏太」と自分の名をつぶやく。
「これはピアノソナタ第八番『悲愴』、第二楽章Op.13――ベートーヴェンの曲だよ。より静かな感じが出るように、主旋律以外の音をさっきよりも小さく弾いてみた。内声の音色を少し固くして、バスの音量にもより気を遣って、」
「すっげ、なに言ってるか全然わかんねえっ!」
その言葉にほんの一瞬、奏太は傷ついたような顔をした。しかし芯が続けて、「面白いっ」と叫ぶと、奏太は今度はぽかんと口を開け、驚きの表情をつくってみせた。
「オーパスってなんだ? ベートーヴェンってあの怖い顔したおじさん? そんなに色々考えながら指動かせるわけ? ……ピアノって面白いんだな。練習すれば、俺も弾けるようになる?」
芯の心臓は、久しぶりに高鳴っていた。知らないこと、わからないこと、できないこと――ありったけの未知が、この男の中に詰まっている。
息がかかりそうな距離まで奏太に詰め寄って、芯は目の前の、不思議な色の瞳を覗き込んだ。
黒ベースの色彩は、ぱっと見はなんの変哲もない日本人のものだ。でもふとした時の光の加減で、ちらりと黄色く反射する瞬間がある。
まるで宇宙の秘密が、気づいてくれと誘ってるみたいだ。その瞳を見てさえいれば、曇天を駆ける稲妻にさえ、手が届くような気がした。
「君、面白いね」
ぱっちりと目を合わせること数秒、訪れた沈黙を破ったのは、奏太の吹き出し笑いだった。芯はようやく我に返って、意外なほど軽やかに笑う奏太の顔を見つめた。
「教えてあげるよ、ピアノ。その代わり、頼んだ時だけでいいから、僕の演奏も聴いていって。それで、今日みたいに感想をくれると嬉しい」
えっ、と驚く芯の小指に、奏太の小指が絡まってくる。細長い指先は、芯が口を挟む間もなく、あっという間に幼い儀式を開始した。
ゆーびきりげんまん、うーそついたら針千本のーます。
ゆびきった。
指を離す時、奏太は刷毛で引いたような視線を芯の顔に走らせた。さりげないそのまなざしは、どこかすがるような、切実な色を帯びているようにも見えた。
「いつでも来ていいから」
「えっ、ええ?」
いつでも来ていいってどういう意味だ。もし本当に、ピアノを教えてもらえるのだとして、自分の感想なんかが、その対価として見合うのだろうか。
何事もなかったかのようにピアノに向き直り、演奏を再開しようとする奏太を、芯は慌てて引き止めた。
「待って。本当に俺、ピアノ教えてもらえるの。っていうかそれって、ちゃんとお金払わなきゃじゃ……」
芯の焦りをよそに、奏太は飄々とした態度を崩さない。
「音楽は受け取ってもらってナンボだから。演奏は、相手に届いて初めて完成する。だから独りよがりじゃいけない。そのために、君の力を借りたい」
黒い瞳を、稲妻の黄色が駆ける。「でも俺、素人だし」と芯が念を押すと、奏太は思いの外強い口調で、それを否定した。
「関係ないよ。本当にいい演奏は、どんな人間が聴いたって心惹かれるはずなんだ。僕はそういう音楽をやりたい」
熱っぽい視線に覗き込まれて、芯は少しドキッとした。こんなに何かに一途な人間を見たのは初めてで、好奇心の他に、純粋に応援したいという気持ちがわき上がってくる。
「そこまで言うなら」と引き受けると、奏太は白く揃った歯を見せてにっこりと笑った。最初の不愛想な雰囲気はどこへやら、ぐっと幼い印象になって、顔の小ささや手足の華奢さが急に目立つ。
呆然と動けずにいる芯の前で、奏太は今度こそ、さっさとピアノに戻っていった。長く優雅な指先が突然、全身の体重をかけて、あの暴力的な和音を奏でる。
どおん、と腹の底に振動が襲ってきて、芯は肩を震わせた。これから自分のピアノの先生になるらしい人物は、どこまでも真剣な表情で、白黒の鍵盤を見つめていた。
歩けば少し汗ばむくらいの、ちょうどいい気温だ。家の前の細道を下って県道に出ると、左手にあるガードレールの向こうには、麓の街並みがよく見渡せた。
母に行くなと釘を刺された小学校を目指して、坂を登る。明るい陽光に照らされた道路には、ぱっきりと濃い木々の影ができている。
相変わらず澄み切った空気は、久しぶりに芯の心を愉快にした。人がいないのをいいことに、流行りの歌やゲームのBGMを口ずさんでいると、存外早く頂上についた。
まず最初に芯の目をひいたのは、校舎の高いところに掲げられた大きな時計だ。針は止まり、文字盤にはヒビが入っていたが、現代の学校でもよく見かけるオーソドックスなデザインである。
所々緑色の苔に覆われ、ツタが絡まった校舎の外観は、それでも構造的には、芯の知っている学校像と大差なかった。
こういうのって昔から変わらないんだな、と感心しながら、芯は一歩踏み出す。しかし体は、その場に留まったままである。
芯は驚いて、思わず後ろを振り返った。誰かに服を掴まれ、引き止められているのかと思ったのだ。
けれども後ろには誰もおらず、自分が登ってきた坂道が続いているだけだった。
もう一度、「歩け」と命令する。足は動かない。歩け、歩け――右足は駄目だと悟り、今度は左足に命令を下す。歩け。進め。進むんだ。
自分の体が思い通りにならない恐怖に、手足がにわかに冷たくなった。嫌な汗が背中ににじむ。込み上げる吐き気とめまいに耐えながら、芯は考えるよりも先に踵を返し、駆け出した。
校舎に近づこうとした時には動かなかった両足が、転がるような速度で地面を蹴っている。そのことに気がついた芯はますます気分が悪くなり、ついにその場にしゃがみ込んだ。
いったい自分は、どうしてしまったのか。
通っている高校だけではなくて、あんな古ぼけた小学校にさえ、自分は近づくことができないのか。
答えの出ない問いと、得も言われぬ情けなさが、抱えた膝の上でぐるぐる回る。喉が詰まって、息が苦しい。視界が真っ暗になっていく。
今にも途切れそうだった意識はしかし、予期せぬ轟音によって、無理矢理現実へと引き上げられた。
目の前を、稲妻が駆け抜けた気がした。ひどくにごった、命の危険すら感じる暴力的な響きに、芯は思わず顔を上げていた。
音は道の先、祖父宅にもう少し近づいた辺りから聞こえてくる。続いたメロディーによくよく耳を澄ませば、それはピアノの音色だった。
再び轟音――楽器が壊れてしまうのではと、心配になるほどの音圧。ピアノからこんな音が出るなんて、という驚きが、芯の体を立ち上がらせた。
気持ち悪さと動悸はそのままに、芯は再び、一歩踏み出す。その音には、芯をひきつけるなにかがあった。
どこで、誰が、どんな風に演奏しているのだろう。
この曲は、なんという名前なのだろう。
坂を下るにつれて音が近くなり、曲の全貌が聴き取れるようになる。ずいぶんと激しい曲だ。大きく差のついた強弱が、聴く者の緊張感をより一層駆り立てる。
音に誘われるがまま、芯は小道に入った。辿りついたのは、大きな洋館の前だった。鉄製の門の先には雑草だらけの庭が広がっていて、そのずっと奥、正面玄関から右側へ伸びる棟の一室から、演奏は聞こえてきていた。
古びた門扉に、芯は恐る恐る触れてみる。鍵はかかっておらず、案外軽い音を立てて、屋敷は芯を受け入れた。
少しだけ。もう少しだけ近くで、この演奏を聴くだけだから。
ぼんやりと頭に浮かんだ「不法侵入」の四文字を追い払うように、芯は首を左右に振った。音が聞こえてくる方角的に、運が良ければ部屋の中を覗けそうだった。
草を踏み分け、部屋の手前まで辿りつく。カーテンは開いていた。窓の際に身を寄せて、そっと中を覗き込むと、黒いグランドピアノに向かう背中が見えた。
細身の男だ。真っ白いシャツに黒いスラックスを合わせて、足元の革靴も黒。視線を上へ戻せば、白く長い首の先に、襟足の短い黒髪頭が乗っかっていた。外国人のように艶のある、ウェーブがかった毛質が珍しい。
どこか浮世離れした後ろ姿に見惚れたまま、芯は気づけば、その場に座り込んでいた。半開きの窓から流れ出てくる旋律は、先ほどまでとは似ても似つかない、静かに語りかけるような音質に変化していた。
ゆったりとしたメロディーにつられて、芯の頭には、一艘の小舟が想起される。夜の湖に浮かぶ無人の舟は、大きな満月の光の下で、さざなみに身を任せて静かに漂っている。
冷たく澄んだ響きに、先ほどまでの不快な動悸は、自然と収まっていった。体のほてりが冷めた芯は、曲の創り出すイメージにもっと浸っていたくて、無意識のうちに目をつむっていた。
不法侵入も不登校も忘れて、小舟にふわりと乗り込む。仰向けに寝転がって、満点の星と月を眺める。
ずっとこうしていられたらいいのに。
気がつけば本気で、芯はそう願っていた。そこには美しい景色だけがあった。怖いものはなにもなくて、自分はただ、波に揺られて息をする。
曲に聴き惚れている間に、時間はどんどん溶けていく。人間が何分、何秒という単位で区切る前の、連綿と続く時の流れが、つるりとした表面で芯の頬を撫でる。
「ウチになにか用?」
突然声が降ってきて、芯は慌てて顔を上げた。黒髪に白シャツ、スラックス姿の細身の男が、身を屈めてこちらを覗き込んでいた。
「あっ、」
さーっと血の気が引いて、嫌な汗がこめかみを伝う。にわかに現実に引き戻された芯の脳内を、不法侵入の四文字が、これ見よがしに回り始める。
「途中からずっと、そこにいたよね? 悪いことする様子もないから放っておいたけど、さすがに寝るのはどうかと思う」
虫もすごいし、と顔をしかめ、男は眼前の羽虫を白い掌で払った。芯の目の前で、長く揃った指先が、残像を伴いながら蝶のように宙を舞った。
「ごめんなさい。通りを歩いてたらピアノが聴こえて、どんな人が弾いてるんだろうって、どうしても気になって」
立ち上がって頭を下げた芯を、男はじっと見つめた。鼻筋の通った小綺麗な顔立ちは大人っぽいが、目元や口元には、まだ幼さが感じられた。
まだ学生――もしかしたら同い年かもしれない。そう思っても、感情の読めない目は瞳がわずかに黄色みがかっていて、芯は極度の緊張状態を強いられた。
「どうだった?」
「え?」
顎に指をあてて何やら考え込んでいた男が、唐突に口を開く。芯が問い返すと、男はもう一度、はっきりとした口調で、芯の目をまっすぐ見てこう言った。
「僕のピアノ。どんな感じだった?」
「どんな感じって」
唐突な質問に、芯は困って眉根を寄せた。意識的にクラシック音楽を聞いたのなんて、中学三年生の音楽の授業以来だ。
「普通に、綺麗だと思ったけど」
「もっと具体的に言えたりする? テンポが速いとか、強弱が極端すぎるとか」
そんなの、わかるわけがないだろう。
つい心の中で文句が出たが、不法侵入者という自分の立場上、ただ「わかりません」と匙を投げるのもためらわれた。仕方がないので、芯は正直に、自分の感じたことを伝えることにした。
「最初の大きな音は、近くに雷でも落ちたかと思ったんだ。怖かったけど、ピアノの音ってわかったらめっちゃ格好いいって思った。その後の静かなところは逆に、怖いくらい静かで……えっと、夜の湖みたいな」
「湖?」
想像以上に訝しげな視線を向けられ、胃がきりりと痛む。芯は口角をぎこちなく引き上げて、誤魔化すような笑みをつくった。
「とにかく、俺にはそう聴こえたんだ。誰もいない夜の湖を、舟で漂ってるみたいな、そんな気持ちになった。ごめんなさい、俺素人だから、これ以上は上手く言えないです」
掌にはじっとりと汗をかいていた。この男の前にいると、蛇に睨まれたカエルのように動けなくなってしまう。
どうやら通報する気はないようだし、なんとか開放してもらえないだろうか。
芯はこっそりと、門の方を盗み見た。しかしその瞬間、男は芯の腕を力強く掴み、半開きの窓へと引っ張っていった。
「来て」
「えっ、ええ?」
男は芯の腕を引いたまま、部屋の中に入ろうとする。慌てて靴を脱ぎかけた芯を制止し、土足のままグランドピアノの脇に立たせると、「ちょっと聴いてて」と軽い調子で指示を出した。
「湖は温かい? 冷たい?」
指を慣らすような動きで、男が鍵盤に触れる。彼がたった一度、何気なく力をかけただけで、背筋が震えるほど甘い音が鳴った。
「ねえ、」
「えっ? ――あ、つっ、冷たい、かな?」
芯ははっと我に返り、しどろもどろに答えた。響きの余韻が微弱な電流となって四肢に残っていて、頭も体も上手く働かない。
「魚はいる?」
「いない、と思う……生き物が棲めないくらい、すごく冷たくて澄み切ってる」
「Okey、こんな感じかな?」
流れるように始まった演奏に、芯は言葉を失った。先ほどと同じ曲なのに、湧き上がるイメージの鮮明さが段違いだ。
ピンクがかった、紫とも濃紺とも言える不思議な色の宙が、頭上に広がる。湖を囲む木々に目を凝らせば、一枚一枚の葉の模様まで、くっきりと見えた気がした。
「すごいっ!」
気がつけば芯は、演奏を終えた男の右手を両方の掌で握り込んで、きらきらと目を輝かせていた。
「すごい、さっきと全然演奏が違う。どうやったの? これはなんていう曲? 君はなんていう名前?」
突然握られた手を見下ろして、男は若干、引き気味の表情を見せた。それでも芯の勢いに気圧されて、「榛奏太」と自分の名をつぶやく。
「これはピアノソナタ第八番『悲愴』、第二楽章Op.13――ベートーヴェンの曲だよ。より静かな感じが出るように、主旋律以外の音をさっきよりも小さく弾いてみた。内声の音色を少し固くして、バスの音量にもより気を遣って、」
「すっげ、なに言ってるか全然わかんねえっ!」
その言葉にほんの一瞬、奏太は傷ついたような顔をした。しかし芯が続けて、「面白いっ」と叫ぶと、奏太は今度はぽかんと口を開け、驚きの表情をつくってみせた。
「オーパスってなんだ? ベートーヴェンってあの怖い顔したおじさん? そんなに色々考えながら指動かせるわけ? ……ピアノって面白いんだな。練習すれば、俺も弾けるようになる?」
芯の心臓は、久しぶりに高鳴っていた。知らないこと、わからないこと、できないこと――ありったけの未知が、この男の中に詰まっている。
息がかかりそうな距離まで奏太に詰め寄って、芯は目の前の、不思議な色の瞳を覗き込んだ。
黒ベースの色彩は、ぱっと見はなんの変哲もない日本人のものだ。でもふとした時の光の加減で、ちらりと黄色く反射する瞬間がある。
まるで宇宙の秘密が、気づいてくれと誘ってるみたいだ。その瞳を見てさえいれば、曇天を駆ける稲妻にさえ、手が届くような気がした。
「君、面白いね」
ぱっちりと目を合わせること数秒、訪れた沈黙を破ったのは、奏太の吹き出し笑いだった。芯はようやく我に返って、意外なほど軽やかに笑う奏太の顔を見つめた。
「教えてあげるよ、ピアノ。その代わり、頼んだ時だけでいいから、僕の演奏も聴いていって。それで、今日みたいに感想をくれると嬉しい」
えっ、と驚く芯の小指に、奏太の小指が絡まってくる。細長い指先は、芯が口を挟む間もなく、あっという間に幼い儀式を開始した。
ゆーびきりげんまん、うーそついたら針千本のーます。
ゆびきった。
指を離す時、奏太は刷毛で引いたような視線を芯の顔に走らせた。さりげないそのまなざしは、どこかすがるような、切実な色を帯びているようにも見えた。
「いつでも来ていいから」
「えっ、ええ?」
いつでも来ていいってどういう意味だ。もし本当に、ピアノを教えてもらえるのだとして、自分の感想なんかが、その対価として見合うのだろうか。
何事もなかったかのようにピアノに向き直り、演奏を再開しようとする奏太を、芯は慌てて引き止めた。
「待って。本当に俺、ピアノ教えてもらえるの。っていうかそれって、ちゃんとお金払わなきゃじゃ……」
芯の焦りをよそに、奏太は飄々とした態度を崩さない。
「音楽は受け取ってもらってナンボだから。演奏は、相手に届いて初めて完成する。だから独りよがりじゃいけない。そのために、君の力を借りたい」
黒い瞳を、稲妻の黄色が駆ける。「でも俺、素人だし」と芯が念を押すと、奏太は思いの外強い口調で、それを否定した。
「関係ないよ。本当にいい演奏は、どんな人間が聴いたって心惹かれるはずなんだ。僕はそういう音楽をやりたい」
熱っぽい視線に覗き込まれて、芯は少しドキッとした。こんなに何かに一途な人間を見たのは初めてで、好奇心の他に、純粋に応援したいという気持ちがわき上がってくる。
「そこまで言うなら」と引き受けると、奏太は白く揃った歯を見せてにっこりと笑った。最初の不愛想な雰囲気はどこへやら、ぐっと幼い印象になって、顔の小ささや手足の華奢さが急に目立つ。
呆然と動けずにいる芯の前で、奏太は今度こそ、さっさとピアノに戻っていった。長く優雅な指先が突然、全身の体重をかけて、あの暴力的な和音を奏でる。
どおん、と腹の底に振動が襲ってきて、芯は肩を震わせた。これから自分のピアノの先生になるらしい人物は、どこまでも真剣な表情で、白黒の鍵盤を見つめていた。