母の運転で三十分、東京郊外の自宅から車に揺られると、目の前に小高い山が現れた。麓のバス停を通り過ぎ、山道を五分ほど登ったところに、祖父の家はあった。
 家の前の細道だけを残して、周囲は見渡す限り、背の高い木に囲まれていた。車を降りた芯の耳に、鳥の鳴き声が聞こえてくる。吸い込んだ空気は、ひんやりと冷たくて瑞々しい。
 こんなにのどかな風景を見たのは、中学生の時の林間学校以来かもしれない。
 芯は考える。幼い頃何度も連れてこられたというこの家は、こうして実物を見るまで、記憶の隅にひっそりと埋もれていた。海外旅行が多い家主の祖父とは、疎遠になってずいぶん久しい。
「ただいまあ……って、うわ、すごいホコリ。掃除しなきゃ」
 母は玄関に足を踏み入れるなりそうボヤいて、さっさと靴を脱いだ。たたきの先に伸びる廊下は薄暗く、どこかよそよそしい感じがした。
「芯、お母さん掃除機かけるから、自分で荷物下ろしてきて」
 廊下の奥に進みながら、母が指示を出す。芯がうなずいて踵を返すと、ぱちっという軽い音と共に、背後で照明がつく気配があった。
 お気に入りのゲームや漫画本を詰め込んだ段ボール箱を持ちに、芯は玄関前に横付けされた車へと向かう。家の敷地の左右は背の高い木に覆われ、表通りを挟んだ向かい側にも、薄暗い森が広がっている。
 緑に囲まれ、かといって麓の街からも遠過ぎないこの場所が、芯の新しい居場所である。
 芯が学校に行けなくなってから、一ヶ月が経とうとしていた。七月下旬から始まった夏休みを計算に入れると、芯はもう二ヶ月以上、学校に通っていないことになる。
 いわゆる、不登校というやつだ。
 学校の噂やニュースでたびたびその単語を聞きつつ、自分とは無縁だと思っていた存在に、芯はいつの間にかなっていた。
 車のトランクと二階の部屋を行き来して、芯は段ボール箱を三つほど運んだ。運び終わり、キッチンに向かうと、買い溜めした食品類を片付けていた母が振り返った。
「とりあえずざっと掃除機はかけたから。登ってくる時にバス停あったでしょ。しばらくは大丈夫だと思うけど、食べる物なくなったらちゃんと自分で買いに行くのよ」
「わかった」
「もう、本当にわかってるの?」
 不満そうな声色で、母が眉をひそめる。不満そう、というよりは、まず間違いなく不満なのだ。芯がここで過ごすことを、母はあまり快く思っていない。
「まさかこんなことになるなんて思わなかった。ゲームばっかりやってないで、ちゃんと体も動かすのよ」
 (まこと)さんも本当、好き勝手言うくせに、大事なことは全部私に押し付けるんだから――母の文句を聞き流しながら、芯はダイニングテーブルの椅子で、スマートフォンの画面をつける。
 九月半ば、不登校について芯より先に取り乱し始めたのは、母である。昔から世間体を気にし過ぎるきらいがある母にとって、病人でもなんでもない息子が家に居続けるという状況は、よほどストレスだったらしい。
 不登校が長引くにつれて、母はことあるごとに「サボってるだけなんじゃないの」と芯を責めるようになった。芯自身も、学校に行けない理由が明確にわかるわけではなかったので、母の言葉や態度に苛立ちつつ、戸惑うことしかできなかった。
 そんな二人の様子を見て、父は芯に、自宅外での療養を提案した。海外旅行で家を空けがちな母方の祖父宅で、しばらく一人で過ごしたらどうか、というものだ。
「夏休みの間に疲れがとれないと、学校に行けなくなることがあるらしいぞ。都会はビルばっかりで忙しないし、たまには自然豊かな場所でのんびりすればいい」
 平日の夕方、食卓で放たれた父の言葉に、母は嫌そうに眉根を寄せた。まだ高校生の芯に一人暮らしなんて、とでも言いたげな顔だった。
 なにかあったらどうするの、誰が様子を気にかけてフォローすると思ってるの。
 母の無言の圧を受けても、父は特に気にした様子もなく、飄々と焼き魚を口に運び続けた。気まずい膠着状態が訪れてしまい、芯は仕方なく、へらりと笑いながら口を開いた。
「じいちゃんの家、いいね。俺、久しぶりに行きたいかも」
 正直、それで学校に行けるようになるかどうかは、わからなかった。都会だろうが、田舎だろうが、自分の生活は大して変わらないだろう。
 でも、このまま家で母に嫌味を言われ続けていても、なにかが解決するとは思えなかった。いくら母の性格をわかっているとはいえ、弱っている時に詰め寄られれば、精神的に堪えるものがあるのも事実だった。
 その後母が祖父と連絡をとり、この家への滞在が決まったのが一週間前だ。初めは父の運転でここに来る予定だったが、急な出張で一昨日から家を空けており、結局は母と二人で来るハメになった。
 細かい母は道中も小言が多く、芯は既に疲れ気味だ。スマートフォンの画面を消して両方の肩を大きく回すと、ばきばきと嫌な音で肩甲骨が鳴いた。
「そうだ、先に言っておくけど、山の上の廃校舎には入っちゃ駄目だからね」
 コンロの前で行平鍋に湯を沸かしながら、母が唐突に話し始める。芯はその背中に「廃校舎?」と投げかけ、首を傾げた。
「なにそれ」
「私が通ってた小学校。とっくの昔に廃校になってるんだけど、長いこと建物が取り壊されてないの。あんたはどうせいつか見つけるだろうから、先に注意しておこうと思って」
 確かに芯の性格なら、そんな面白そうなものは二日もしないうちに見つけ出して、忍び込んでいたに違いない。さすが母親、芯のことをよくわかっている。
 一方で芯は、母はなにもわかっていないとも思った。行くなと言われた途端に猛烈に行きたくなるのが、男子高校生の(さが)である。
 明日の予定が決まったことを密かに喜びつつ、芯は澄ました顔でスマートフォンをつけ、ゲームに戻った。やがて野菜やおかずの作り置きを終えた母は、最後に洗濯機の使い方を念入りに指導して、家を出ていった。
 玄関で母の背を見送り、エンジン音が遠ざかるのをよくよく確認してから、芯は大きくため息をついた。両方の手足を思い切り広げて、廊下に寝転がる。
 背中にうっすらとかいた汗を、冷たい床がなだめてくれた。見慣れない天井を、小さな羽虫が一匹、横切っていった。
 ――サボってるだけなんじゃないの。
 そんな、母の言葉を、自然と思い出していた。つい、二度目のため息がもれる。一番そう思っているのはきっと、他でもない芯自身だ。
 いじめがあったわけではない。好奇心旺盛で行動力がある芯は、むしろクラスでは人気者だった。勉強は普通だが運動神経がよく、明るくハキハキ喋るので、教師陣との仲も悪くなかった。
 だから、そんな自分がなぜ不登校になってしまったのか、芯は自分でもよくわからなかった。
 学校に行けない時の気持ちは、実に不思議である。前日まではすごく元気で、明日学校に行ったら友人とどんな話をしようかと考えるのに、朝になると突然世界の色が失せ、頭が鉛のように重くなるのだ。
 このまま学校に行けなかったらどうしよう。
 最近は眠る前などに、そんな不安が、あぶくのように浮かび上がってくることもある。
 このままずっと学校に行けなかったら、高校を卒業できない。高校を卒業できなかったら大学に行けない。大学に行けなかったらきっと、あまりいい会社には就職できない。
 そもそも学校に行けないのに、働くことなんてできるのだろうか。このままいつか、普通の外出もできなくなって、引きこもりになってしまうのではないか。
 芯はふいに、背を預けている床に穴が空いて、どこまでも落ちていくような感覚に襲われた。一人で考えていると、思考は急速に、悪い方へと傾いていく。
 以前はもっと楽観的な性格だった芯も、原因不明の不登校が一ヶ月続けば、さすがに不安に苛まれる時間が増えた。芯はあえて大げさな仕草で、寝転がったまま深呼吸を数回繰り返した。
 動悸が収まったことを確認し、沈んだ気持ちを断ち切ろうと、わざと勢いよく立ち上がる。先ほど荷物を運び込んだ部屋を目指して、階段を上る。
 母が昔使っていたという、上りきって右手側の部屋が、ここに滞在する間の芯の自室である。
 小ぢんまりとした部屋の窓からは、ツタと雑草に覆われた裏庭と、その奥に続く雑木林が見渡せた。木々の間の闇が思いの外濃いことに気づき、芯は軽く身震いをしてカーテンを閉めた。