ルートヴィッヒのおもかげ

 バスに、揺られている。隣の席には祖父が座っていて、窓から差し込む午後の日差しは眩しくて、時田芯(ときだしん)はうきうきと弾んだ気持ちであたりを見回した。
 幼い芯の目に、世界はずいぶんと輝いて見えた。つり革や手すりの煌めきに目を奪われ、道の凹凸をそのまま伝える振動に体を揺らし、乗り降りする人の顔を見ては、にっこりと笑いながら手を振った。
 あれはなに? あの人は誰?
 芯は初めて見る物や人を端から指差しては、祖父の説明に耳を傾けた。後ろの席からは、在日中国人らしき女性二人組の、賑やかなお喋りが聞こえてくる。その楽し気な響きに気を取られているうちに、バスは緩やかに減速し、運転席のマイクが入る。
「ヒノキバシー、ヒノキバシー」
 ひのきばしー、ひのきばしー。
 芯は車内に流れたアナウンスを真似して口ずさむ。それだけでバスの運転手になったような気がしてくる。おれがうんてんしゅだ、と宣言してハンドルを握る真似をすると、目が合った祖父は優しく微笑んだ。
 その顔が嬉しくて、芯も満面の笑みを返す。直後、窓の外で工事をする作業員を見かけて、芯の職業は運転手から工事現場のおじさんに早変わりする。
 どどどどど、と効果音をつけてドリルの真似をしたら、さすがに「迷惑になるからやめなさい」とたしなめられた。でも芯は諦めなかった。なりたいと思ったものには、自分はなんにでもなれるのだ。
 道端には様々な職業があふれていた――花屋、ケーキ屋、警察官。颯爽と歩くサラリーマンや、私服姿だけれど真剣な表情で電話をしながら歩く人。
 家で観るテレビの中には、もっと色々な大人がいる。憧れのサッカー選手や華やかなアイドル。お笑い芸人にニュースキャスター、歌舞伎役者やピアニスト。
 芯のちっぽけな脳みその中で、夢は無限に広がっていった。芯は世界を愛していたし、世界の方もまた、芯の味方だった。
 昔から、好きなものがたくさんあった。だから、高校二年生に進級していよいよ「その紙」をもらった時、芯は自分の足元がごっそりと失われたような心地になった。三つの空欄が芯に突きつけたのは、これから先も続いていく人生の、その圧倒的な長さだった。
 これから先、何年、何十年と、自分は同じことを続けて生きていかなければならないのか。
 そう気づいたら、さあっと血の気が引いて、どこまでも落ちていくような不安感に襲われた。この先、今までの自分の生き方が通用しないかもしれないと思うことは、少しずつ芯の心を侵食した。

 芯が自分の変化に気がついたのは、九月二日の月曜日、夏休み明け最初の登校日だ。目覚ましを止めてベッドから起き上がろうとすると、思うように上半身が動かなかった。
 何度も頭を持ち上げようと試みるが、体全体がぼんやりと重だるく、どうしても動くことができない。熱中症を疑い、芯は母を呼んで水をもらった。母と相談して、その日は一日、学校を休むことになった。
 学校に行かないと決まると、途端に体が軽くなったような気がした。首をひねりつつ、「大したことなかったな」と内心苦笑し、芯は一日伸びた夏休みをちゃっかり満喫した。
 その時、芯は本当に、翌日の火曜日には何事もなく学校に行けると思っていた。体育があることを夜に思い出し、体操着を持っていかなければと考えながら眠りについた。
 ところが翌朝、芯はベッドから起き上がることができなかった。昨日と同じで、どうしても上半身が持ち上がらないのだ。
 芯は戸惑いながらも母を呼んだ。部屋に入ってきた母は訝しげに眉をひそめ、「仮病じゃないのよね」と小さく口にした。
 芯は少し苛立ちながら、「そんなわけないじゃん」と答えた。明日には行けると思う、とも。

 しかしその後、芯が学校に行けることはなかった。
 母の運転で三十分、東京郊外の自宅から車に揺られると、目の前に小高い山が現れた。麓のバス停を通り過ぎ、山道を五分ほど登ったところに、祖父の家はあった。
 家の前の細道だけを残して、周囲は見渡す限り、背の高い木に囲まれていた。車を降りた芯の耳に、鳥の鳴き声が聞こえてくる。吸い込んだ空気は、ひんやりと冷たくて瑞々しい。
 こんなにのどかな風景を見たのは、中学生の時の林間学校以来かもしれない。
 芯は考える。幼い頃何度も連れてこられたというこの家は、こうして実物を見るまで、記憶の隅にひっそりと埋もれていた。海外旅行が多い家主の祖父とは、疎遠になってずいぶん久しい。
「ただいまあ……って、うわ、すごいホコリ。掃除しなきゃ」
 母は玄関に足を踏み入れるなりそうボヤいて、さっさと靴を脱いだ。たたきの先に伸びる廊下は薄暗く、どこかよそよそしい感じがした。
「芯、お母さん掃除機かけるから、自分で荷物下ろしてきて」
 廊下の奥に進みながら、母が指示を出す。芯がうなずいて踵を返すと、ぱちっという軽い音と共に、背後で照明がつく気配があった。
 お気に入りのゲームや漫画本を詰め込んだ段ボール箱を持ちに、芯は玄関前に横付けされた車へと向かう。家の敷地の左右は背の高い木に覆われ、表通りを挟んだ向かい側にも、薄暗い森が広がっている。
 緑に囲まれ、かといって麓の街からも遠過ぎないこの場所が、芯の新しい居場所である。
 芯が学校に行けなくなってから、一ヶ月が経とうとしていた。七月下旬から始まった夏休みを計算に入れると、芯はもう二ヶ月以上、学校に通っていないことになる。
 いわゆる、不登校というやつだ。
 学校の噂やニュースでたびたびその単語を聞きつつ、自分とは無縁だと思っていた存在に、芯はいつの間にかなっていた。
 車のトランクと二階の部屋を行き来して、芯は段ボール箱を三つほど運んだ。運び終わり、キッチンに向かうと、買い溜めした食品類を片付けていた母が振り返った。
「とりあえずざっと掃除機はかけたから。登ってくる時にバス停あったでしょ。しばらくは大丈夫だと思うけど、食べる物なくなったらちゃんと自分で買いに行くのよ」
「わかった」
「もう、本当にわかってるの?」
 不満そうな声色で、母が眉をひそめる。不満そう、というよりは、まず間違いなく不満なのだ。芯がここで過ごすことを、母はあまり快く思っていない。
「まさかこんなことになるなんて思わなかった。ゲームばっかりやってないで、ちゃんと体も動かすのよ」
 (まこと)さんも本当、好き勝手言うくせに、大事なことは全部私に押し付けるんだから――母の文句を聞き流しながら、芯はダイニングテーブルの椅子で、スマートフォンの画面をつける。
 九月半ば、不登校について芯より先に取り乱し始めたのは、母である。昔から世間体を気にし過ぎるきらいがある母にとって、病人でもなんでもない息子が家に居続けるという状況は、よほどストレスだったらしい。
 不登校が長引くにつれて、母はことあるごとに「サボってるだけなんじゃないの」と芯を責めるようになった。芯自身も、学校に行けない理由が明確にわかるわけではなかったので、母の言葉や態度に苛立ちつつ、戸惑うことしかできなかった。
 そんな二人の様子を見て、父は芯に、自宅外での療養を提案した。海外旅行で家を空けがちな母方の祖父宅で、しばらく一人で過ごしたらどうか、というものだ。
「夏休みの間に疲れがとれないと、学校に行けなくなることがあるらしいぞ。都会はビルばっかりで忙しないし、たまには自然豊かな場所でのんびりすればいい」
 平日の夕方、食卓で放たれた父の言葉に、母は嫌そうに眉根を寄せた。まだ高校生の芯に一人暮らしなんて、とでも言いたげな顔だった。
 なにかあったらどうするの、誰が様子を気にかけてフォローすると思ってるの。
 母の無言の圧を受けても、父は特に気にした様子もなく、飄々と焼き魚を口に運び続けた。気まずい膠着状態が訪れてしまい、芯は仕方なく、へらりと笑いながら口を開いた。
「じいちゃんの家、いいね。俺、久しぶりに行きたいかも」
 正直、それで学校に行けるようになるかどうかは、わからなかった。都会だろうが、田舎だろうが、自分の生活は大して変わらないだろう。
 でも、このまま家で母に嫌味を言われ続けていても、なにかが解決するとは思えなかった。いくら母の性格をわかっているとはいえ、弱っている時に詰め寄られれば、精神的に堪えるものがあるのも事実だった。
 その後母が祖父と連絡をとり、この家への滞在が決まったのが一週間前だ。初めは父の運転でここに来る予定だったが、急な出張で一昨日から家を空けており、結局は母と二人で来るハメになった。
 細かい母は道中も小言が多く、芯は既に疲れ気味だ。スマートフォンの画面を消して両方の肩を大きく回すと、ばきばきと嫌な音で肩甲骨が鳴いた。
「そうだ、先に言っておくけど、山の上の廃校舎には入っちゃ駄目だからね」
 コンロの前で行平鍋に湯を沸かしながら、母が唐突に話し始める。芯はその背中に「廃校舎?」と投げかけ、首を傾げた。
「なにそれ」
「私が通ってた小学校。とっくの昔に廃校になってるんだけど、長いこと建物が取り壊されてないの。あんたはどうせいつか見つけるだろうから、先に注意しておこうと思って」
 確かに芯の性格なら、そんな面白そうなものは二日もしないうちに見つけ出して、忍び込んでいたに違いない。さすが母親、芯のことをよくわかっている。
 一方で芯は、母はなにもわかっていないとも思った。行くなと言われた途端に猛烈に行きたくなるのが、男子高校生の(さが)である。
 明日の予定が決まったことを密かに喜びつつ、芯は澄ました顔でスマートフォンをつけ、ゲームに戻った。やがて野菜やおかずの作り置きを終えた母は、最後に洗濯機の使い方を念入りに指導して、家を出ていった。
 玄関で母の背を見送り、エンジン音が遠ざかるのをよくよく確認してから、芯は大きくため息をついた。両方の手足を思い切り広げて、廊下に寝転がる。
 背中にうっすらとかいた汗を、冷たい床がなだめてくれた。見慣れない天井を、小さな羽虫が一匹、横切っていった。
 ――サボってるだけなんじゃないの。
 そんな、母の言葉を、自然と思い出していた。つい、二度目のため息がもれる。一番そう思っているのはきっと、他でもない芯自身だ。
 いじめがあったわけではない。好奇心旺盛で行動力がある芯は、むしろクラスでは人気者だった。勉強は普通だが運動神経がよく、明るくハキハキ喋るので、教師陣との仲も悪くなかった。
 だから、そんな自分がなぜ不登校になってしまったのか、芯は自分でもよくわからなかった。
 学校に行けない時の気持ちは、実に不思議である。前日まではすごく元気で、明日学校に行ったら友人とどんな話をしようかと考えるのに、朝になると突然世界の色が失せ、頭が鉛のように重くなるのだ。
 このまま学校に行けなかったらどうしよう。
 最近は眠る前などに、そんな不安が、あぶくのように浮かび上がってくることもある。
 このままずっと学校に行けなかったら、高校を卒業できない。高校を卒業できなかったら大学に行けない。大学に行けなかったらきっと、あまりいい会社には就職できない。
 そもそも学校に行けないのに、働くことなんてできるのだろうか。このままいつか、普通の外出もできなくなって、引きこもりになってしまうのではないか。
 芯はふいに、背を預けている床に穴が空いて、どこまでも落ちていくような感覚に襲われた。一人で考えていると、思考は急速に、悪い方へと傾いていく。
 以前はもっと楽観的な性格だった芯も、原因不明の不登校が一ヶ月続けば、さすがに不安に苛まれる時間が増えた。芯はあえて大げさな仕草で、寝転がったまま深呼吸を数回繰り返した。
 動悸が収まったことを確認し、沈んだ気持ちを断ち切ろうと、わざと勢いよく立ち上がる。先ほど荷物を運び込んだ部屋を目指して、階段を上る。
 母が昔使っていたという、上りきって右手側の部屋が、ここに滞在する間の芯の自室である。
 小ぢんまりとした部屋の窓からは、ツタと雑草に覆われた裏庭と、その奥に続く雑木林が見渡せた。木々の間の闇が思いの外濃いことに気づき、芯は軽く身震いをしてカーテンを閉めた。
 翌朝十時に目を覚ました芯は、一階のキッチンで食パンを一枚食べた後、くたびれたスニーカーを履いて玄関扉を押し開けた。
 歩けば少し汗ばむくらいの、ちょうどいい気温だ。家の前の細道を下って県道に出ると、左手にあるガードレールの向こうには、麓の街並みがよく見渡せた。
 母に行くなと釘を刺された小学校を目指して、坂を登る。明るい陽光に照らされた道路には、ぱっきりと濃い木々の影ができている。
 相変わらず澄み切った空気は、久しぶりに芯の心を愉快にした。人がいないのをいいことに、流行りの歌やゲームのBGMを口ずさんでいると、存外早く頂上についた。
 まず最初に芯の目をひいたのは、校舎の高いところに掲げられた大きな時計だ。針は止まり、文字盤にはヒビが入っていたが、現代の学校でもよく見かけるオーソドックスなデザインである。
 所々緑色の苔に覆われ、ツタが絡まった校舎の外観は、それでも構造的には、芯の知っている学校像と大差なかった。
 こういうのって昔から変わらないんだな、と感心しながら、芯は一歩踏み出す。しかし体は、その場に留まったままである。
 芯は驚いて、思わず後ろを振り返った。誰かに服を掴まれ、引き止められているのかと思ったのだ。
 けれども後ろには誰もおらず、自分が登ってきた坂道が続いているだけだった。
 もう一度、「歩け」と命令する。足は動かない。歩け、歩け――右足は駄目だと悟り、今度は左足に命令を下す。歩け。進め。進むんだ。
 自分の体が思い通りにならない恐怖に、手足がにわかに冷たくなった。嫌な汗が背中ににじむ。込み上げる吐き気とめまいに耐えながら、芯は考えるよりも先に踵を返し、駆け出した。
 校舎に近づこうとした時には動かなかった両足が、転がるような速度で地面を蹴っている。そのことに気がついた芯はますます気分が悪くなり、ついにその場にしゃがみ込んだ。
 いったい自分は、どうしてしまったのか。
 通っている高校だけではなくて、あんな古ぼけた小学校にさえ、自分は近づくことができないのか。
 答えの出ない問いと、得も言われぬ情けなさが、抱えた膝の上でぐるぐる回る。喉が詰まって、息が苦しい。視界が真っ暗になっていく。
 今にも途切れそうだった意識はしかし、予期せぬ轟音によって、無理矢理現実へと引き上げられた。
 目の前を、稲妻が駆け抜けた気がした。ひどくにごった、命の危険すら感じる暴力的な響きに、芯は思わず顔を上げていた。
 音は道の先、祖父宅にもう少し近づいた辺りから聞こえてくる。続いたメロディーによくよく耳を澄ませば、それはピアノの音色だった。
 再び轟音――楽器が壊れてしまうのではと、心配になるほどの音圧。ピアノからこんな音が出るなんて、という驚きが、芯の体を立ち上がらせた。
 気持ち悪さと動悸はそのままに、芯は再び、一歩踏み出す。その音には、芯をひきつけるなにかがあった。
 どこで、誰が、どんな風に演奏しているのだろう。
 この曲は、なんという名前なのだろう。
 坂を下るにつれて音が近くなり、曲の全貌が聴き取れるようになる。ずいぶんと激しい曲だ。大きく差のついた強弱が、聴く者の緊張感をより一層駆り立てる。
 音に誘われるがまま、芯は小道に入った。辿りついたのは、大きな洋館の前だった。鉄製の門の先には雑草だらけの庭が広がっていて、そのずっと奥、正面玄関から右側へ伸びる棟の一室から、演奏は聞こえてきていた。
 古びた門扉に、芯は恐る恐る触れてみる。鍵はかかっておらず、案外軽い音を立てて、屋敷は芯を受け入れた。
 少しだけ。もう少しだけ近くで、この演奏を聴くだけだから。
 ぼんやりと頭に浮かんだ「不法侵入」の四文字を追い払うように、芯は首を左右に振った。音が聞こえてくる方角的に、運が良ければ部屋の中を覗けそうだった。
 草を踏み分け、部屋の手前まで辿りつく。カーテンは開いていた。窓の際に身を寄せて、そっと中を覗き込むと、黒いグランドピアノに向かう背中が見えた。
 細身の男だ。真っ白いシャツに黒いスラックスを合わせて、足元の革靴も黒。視線を上へ戻せば、白く長い首の先に、襟足の短い黒髪頭が乗っかっていた。外国人のように艶のある、ウェーブがかった毛質が珍しい。
 どこか浮世離れした後ろ姿に見惚れたまま、芯は気づけば、その場に座り込んでいた。半開きの窓から流れ出てくる旋律は、先ほどまでとは似ても似つかない、静かに語りかけるような音質に変化していた。
 ゆったりとしたメロディーにつられて、芯の頭には、一艘の小舟が想起される。夜の湖に浮かぶ無人の舟は、大きな満月の光の下で、さざなみに身を任せて静かに漂っている。
 冷たく澄んだ響きに、先ほどまでの不快な動悸は、自然と収まっていった。体のほてりが冷めた芯は、曲の創り出すイメージにもっと浸っていたくて、無意識のうちに目をつむっていた。
 不法侵入も不登校も忘れて、小舟にふわりと乗り込む。仰向けに寝転がって、満点の星と月を眺める。
 ずっとこうしていられたらいいのに。
 気がつけば本気で、芯はそう願っていた。そこには美しい景色だけがあった。怖いものはなにもなくて、自分はただ、波に揺られて息をする。
 曲に聴き惚れている間に、時間はどんどん溶けていく。人間が何分、何秒という単位で区切る前の、連綿と続く時の流れが、つるりとした表面で芯の頬を撫でる。
「ウチになにか用?」
 突然声が降ってきて、芯は慌てて顔を上げた。黒髪に白シャツ、スラックス姿の細身の男が、身を屈めてこちらを覗き込んでいた。
「あっ、」
 さーっと血の気が引いて、嫌な汗がこめかみを伝う。にわかに現実に引き戻された芯の脳内を、不法侵入の四文字が、これ見よがしに回り始める。
「途中からずっと、そこにいたよね? 悪いことする様子もないから放っておいたけど、さすがに寝るのはどうかと思う」
 虫もすごいし、と顔をしかめ、男は眼前の羽虫を白い掌で払った。芯の目の前で、長く揃った指先が、残像を伴いながら蝶のように宙を舞った。
「ごめんなさい。通りを歩いてたらピアノが聴こえて、どんな人が弾いてるんだろうって、どうしても気になって」
 立ち上がって頭を下げた芯を、男はじっと見つめた。鼻筋の通った小綺麗な顔立ちは大人っぽいが、目元や口元には、まだ幼さが感じられた。
 まだ学生――もしかしたら同い年かもしれない。そう思っても、感情の読めない目は瞳がわずかに黄色みがかっていて、芯は極度の緊張状態を強いられた。
「どうだった?」
「え?」
 顎に指をあてて何やら考え込んでいた男が、唐突に口を開く。芯が問い返すと、男はもう一度、はっきりとした口調で、芯の目をまっすぐ見てこう言った。
「僕のピアノ。どんな感じだった?」
「どんな感じって」
 唐突な質問に、芯は困って眉根を寄せた。意識的にクラシック音楽を聞いたのなんて、中学三年生の音楽の授業以来だ。
「普通に、綺麗だと思ったけど」
「もっと具体的に言えたりする? テンポが速いとか、強弱が極端すぎるとか」
 そんなの、わかるわけがないだろう。
 つい心の中で文句が出たが、不法侵入者という自分の立場上、ただ「わかりません」と匙を投げるのもためらわれた。仕方がないので、芯は正直に、自分の感じたことを伝えることにした。
「最初の大きな音は、近くに雷でも落ちたかと思ったんだ。怖かったけど、ピアノの音ってわかったらめっちゃ格好いいって思った。その後の静かなところは逆に、怖いくらい静かで……えっと、夜の湖みたいな」
「湖?」
 想像以上に訝しげな視線を向けられ、胃がきりりと痛む。芯は口角をぎこちなく引き上げて、誤魔化すような笑みをつくった。
「とにかく、俺にはそう聴こえたんだ。誰もいない夜の湖を、舟で漂ってるみたいな、そんな気持ちになった。ごめんなさい、俺素人だから、これ以上は上手く言えないです」
 掌にはじっとりと汗をかいていた。この男の前にいると、蛇に睨まれたカエルのように動けなくなってしまう。
 どうやら通報する気はないようだし、なんとか開放してもらえないだろうか。
 芯はこっそりと、門の方を盗み見た。しかしその瞬間、男は芯の腕を力強く掴み、半開きの窓へと引っ張っていった。
「来て」
「えっ、ええ?」
 男は芯の腕を引いたまま、部屋の中に入ろうとする。慌てて靴を脱ぎかけた芯を制止し、土足のままグランドピアノの脇に立たせると、「ちょっと聴いてて」と軽い調子で指示を出した。
「湖は温かい? 冷たい?」
 指を慣らすような動きで、男が鍵盤に触れる。彼がたった一度、何気なく力をかけただけで、背筋が震えるほど甘い音が鳴った。
「ねえ、」
「えっ? ――あ、つっ、冷たい、かな?」
 芯ははっと我に返り、しどろもどろに答えた。響きの余韻が微弱な電流となって四肢に残っていて、頭も体も上手く働かない。
「魚はいる?」
「いない、と思う……生き物が棲めないくらい、すごく冷たくて澄み切ってる」
「Okey、こんな感じかな?」
 流れるように始まった演奏に、芯は言葉を失った。先ほどと同じ曲なのに、湧き上がるイメージの鮮明さが段違いだ。
 ピンクがかった、紫とも濃紺とも言える不思議な色の(そら)が、頭上に広がる。湖を囲む木々に目を凝らせば、一枚一枚の葉の模様まで、くっきりと見えた気がした。
「すごいっ!」
 気がつけば芯は、演奏を終えた男の右手を両方の掌で握り込んで、きらきらと目を輝かせていた。
「すごい、さっきと全然演奏が違う。どうやったの? これはなんていう曲? 君はなんていう名前?」
 突然握られた手を見下ろして、男は若干、引き気味の表情を見せた。それでも芯の勢いに気圧されて、「榛奏太(はしばみそうた)」と自分の名をつぶやく。
「これはピアノソナタ第八番『悲愴』、第二楽章Op.(オーパス)13――ベートーヴェンの曲だよ。より静かな感じが出るように、主旋律以外の音をさっきよりも小さく弾いてみた。内声の音色を少し固くして、バスの音量にもより気を遣って、」
「すっげ、なに言ってるか全然わかんねえっ!」
 その言葉にほんの一瞬、奏太は傷ついたような顔をした。しかし芯が続けて、「面白いっ」と叫ぶと、奏太は今度はぽかんと口を開け、驚きの表情をつくってみせた。
「オーパスってなんだ? ベートーヴェンってあの怖い顔したおじさん? そんなに色々考えながら指動かせるわけ? ……ピアノって面白いんだな。練習すれば、俺も弾けるようになる?」
 芯の心臓は、久しぶりに高鳴っていた。知らないこと、わからないこと、できないこと――ありったけの未知が、この男の中に詰まっている。
 息がかかりそうな距離まで奏太に詰め寄って、芯は目の前の、不思議な色の瞳を覗き込んだ。
 黒ベースの色彩は、ぱっと見はなんの変哲もない日本人のものだ。でもふとした時の光の加減で、ちらりと黄色く反射する瞬間がある。
 まるで宇宙の秘密が、気づいてくれと誘ってるみたいだ。その瞳を見てさえいれば、曇天を駆ける稲妻にさえ、手が届くような気がした。
「君、面白いね」
 ぱっちりと目を合わせること数秒、訪れた沈黙を破ったのは、奏太の吹き出し笑いだった。芯はようやく我に返って、意外なほど軽やかに笑う奏太の顔を見つめた。
「教えてあげるよ、ピアノ。その代わり、頼んだ時だけでいいから、僕の演奏も聴いていって。それで、今日みたいに感想をくれると嬉しい」
 えっ、と驚く芯の小指に、奏太の小指が絡まってくる。細長い指先は、芯が口を挟む間もなく、あっという間に幼い儀式を開始した。
 ゆーびきりげんまん、うーそついたら針千本のーます。
 ゆびきった。
 指を離す時、奏太は刷毛で引いたような視線を芯の顔に走らせた。さりげないそのまなざしは、どこかすがるような、切実な色を帯びているようにも見えた。
「いつでも来ていいから」
「えっ、ええ?」
 いつでも来ていいってどういう意味だ。もし本当に、ピアノを教えてもらえるのだとして、自分の感想なんかが、その対価として見合うのだろうか。
 何事もなかったかのようにピアノに向き直り、演奏を再開しようとする奏太を、芯は慌てて引き止めた。
「待って。本当に俺、ピアノ教えてもらえるの。っていうかそれって、ちゃんとお金払わなきゃじゃ……」
 芯の焦りをよそに、奏太は飄々とした態度を崩さない。
「音楽は受け取ってもらってナンボだから。演奏は、相手に届いて初めて完成する。だから独りよがりじゃいけない。そのために、君の力を借りたい」
 黒い瞳を、稲妻の黄色が駆ける。「でも俺、素人だし」と芯が念を押すと、奏太は思いの外強い口調で、それを否定した。
「関係ないよ。本当にいい演奏は、どんな人間が聴いたって心惹かれるはずなんだ。僕はそういう音楽をやりたい」
 熱っぽい視線に覗き込まれて、芯は少しドキッとした。こんなに何かに一途な人間を見たのは初めてで、好奇心の他に、純粋に応援したいという気持ちがわき上がってくる。
 「そこまで言うなら」と引き受けると、奏太は白く揃った歯を見せてにっこりと笑った。最初の不愛想な雰囲気はどこへやら、ぐっと幼い印象になって、顔の小ささや手足の華奢さが急に目立つ。
 呆然と動けずにいる芯の前で、奏太は今度こそ、さっさとピアノに戻っていった。長く優雅な指先が突然、全身の体重をかけて、あの暴力的な和音を奏でる。
 どおん、と腹の底に振動が襲ってきて、芯は肩を震わせた。これから自分のピアノの先生になるらしい人物は、どこまでも真剣な表情で、白黒の鍵盤を見つめていた。
 家に帰った芯は、自室のベッドに寝転がったまま、スマートフォンで「榛奏太」と検索した。最初にヒットしたのは、とあるウェブ音楽雑誌の記事だ。
 今年四月にミュンヘンで開かれたチャリティーコンサートを取材したものらしい。見出しをタップすると、太字のタイトルに続いて、奏太の略歴と一枚の画像が表示される。
 ――榛奏太、十六歳。三歳からピアノを始め、国内のジュニアコンクールで活躍。小学校卒業と同時に拠点を海外へ移し、現在はドイツのギムナジウムに通いながら、ベートーヴェンの巨匠・ダニエル=ヴォルフの元で日々研鑚を積んでいる。
 掲載されていた画像は、石畳の広場でグランドピアノを演奏する奏太の写真だった。顔貌(かおかたち)は先ほどまで会っていた男と同じなのに、異国の空の下で観客に囲まれる奏太は、全くの別人に思えた。
 芯は続けて、動画再生アプリで奏太の名前を検索してみた。日本で活動していたという、ジュニアコンクール時代の演奏動画がいくつもヒットした。
 芯はその中から、一番古いものを開く。まだ幼い、たどたどしい足取りの奏太が、大きなグランドピアノの前でお辞儀をする。動画の概要欄を見ると、奏太がまだ六歳の頃の映像らしい。
 ピアノ椅子に座った奏太は、先ほどまでとは打って変わった堂々とした佇まいで、課題曲を弾き切った。芯は思わず、会場の観客と一緒になって、その場で小さく拍手をした。
 七歳、八歳、と奏太の成長を追う形で、芯は順番に動画を再生した。奏太の演奏と振る舞いはステージを重ねるごとに洗練されていき、成績も順調に上がっている様子だった。
 すごいな。
 芯はスマートフォンの画面を消し、素直に感心する。自分が小学生だった頃を思い出してみても、友だちと馬鹿騒ぎしていた記憶しかない。
 一方奏太は、こんなに幼い頃から大人の目に触れ、努力し、結果を出し続けてきたのだ。そこにあったであろう苦労を想像するだけで、自然と尊敬の念が強くなる。
 それに比べて、自分は。
 芯はぐるりと部屋を見回した。昨日の夜読み散らかした漫画本が、壁際の机に積み上がっている。持参した最新の携帯ゲーム機が、その隣で充電器につながれている。
 もともと好奇心旺盛な芯は、他の人よりも楽しみに貪欲だ。電子版の漫画もたくさんダウンロードしてあるし、動画再生アプリでチャンネル登録しているアカウントもたくさんあった。SNSでも多くのインフルエンサーや友人をフォローしていて、いつでも新しくて面白い情報が手に入る仕組みができている。
 なのになぜだろう。こんなにも空虚な気持ちになるのは。なにも悪いことをしていないのに、ふとした瞬間、妙な後ろめたさに襲われるのは。
 漫画も、ゲームも、SNSも、面白い。でも奏太にとってのピアノのように、ずっと続けたいかと問われたら、素直にうなずけない自分がいた。
 簡単に楽しめる遊びは、楽しめば楽しむほど、自分が少しずつ干上がっていくような感覚に襲われる。楽しいのに、心のどこかが苛立って、居ても立ってもいられないような気持ちになる時がある。
 自分がひどく空っぽな存在に思えて、芯は大きくため息をついた。自信のなさからか、奏太にピアノを教わることが、なんだか少し怖く思えてくる。
 本当に自分は、ピアノを弾けるようになるのだろうか。全然上達しなくて、馬鹿にされたりしたら嫌だな。
 悶々と考えているうちに、芯はいつの間にか眠っていた。目を覚ましてスマートフォンの画面をつけると、母からの不在着信通知があった。
 窓の外はもう暗い。部屋のカーテンを閉めてから、芯は母に折り返しをかけた。画面が通話中に切り替わり、三回ほどコールが続く。
「もしもし?」
 母はいつも通りの声で電話に出た。「出れなくてごめん」と芯が謝ると、呆れ混じりのため息の後、今度は不機嫌そうな声色が続いた。
「昨日そっちに行ったばっかなのに、もう連絡つかなくて、びっくりしたんだから。なにしてたの?」
「寝てた」
「やっぱり。ちゃんと朝ごはんは食べたの?」
「うん。食パン食べた」
「じゃあ昼は?」
 芯は口ごもる。洋館からこの家に戻ったきり、タイミングを逃して、昼食は抜いてしまっていた。
「食べてないんでしょ。そんなんで大丈夫?」
「いやまあ、夕飯はちゃんと食べるし、風呂も入るよ」
「違うわよ」
 予想外の母の答えに、芯はその場で首を傾げる。なにが違うのか、彼女の意図がよく掴めない。
「なにが?」
「学校は大丈夫なのって聞きたいの。そんな過ごし方で、ちゃんと行けるようになるの?」
 芯は顔をしかめて沈黙した。責め立て、急かすような母の口調に、胃のあたりがきゅっと締めつけられる。
 それこそ、昨日ここに来たばかりで、まだわかるわけがないだろうと反論したかった。それでも言葉を飲み込んだのは、心のどこかで、母の言うことが正しいような気がしたからだ。
 都会から自然豊かな場所に来ただけで、自分の生活はなにも変わっていない。それどころか今朝は、とっくの昔に使われなくなった小学校の校舎にすら、入ることができなかった。
 このまま学校に行けなかったらどうしよう。
 何度も脳内を渦巻いた不安が、ひと回り大きくなって肩にのしかかる。ずっしりと体が重くなって、ここから先へは、もう一歩も進めないような気がしてくる。
 切羽詰まった芯の気持ちは、電話越しでも十分、母に伝わっているようだ。一秒ごとに質量を増す沈黙が、そのなによりの証拠だった。
 芯の不安が母の不安を駆り立て、大きくなった母の不安がまた、芯の不安を増幅する。芯が不登校になってから長らく、そんな悪循環が、二人の間には出来上がってしまっている。
「とにかく今週末、そっちに行くから」
 やがて母から発せられたのは、悪さばかりする子どもを諭すような、疲れと諦めに満ちた声色だった。
「やっぱり私、真さんに話して、あなたのこと連れ帰ることにする。こっちに戻ってきたら精神科に行くわよ」
「なにそれ、やめてよ」
「やめてよって言われても、私だって嫌よ。精神科なんて。でもこのまま学校に行けないんじゃ仕方ないでしょ」
「違う。勝手に決めないでって話」
「勝手じゃない。私はね、あなたが一番早く普通に学校に行ける方法を」
「友だちができそうなんだ」
 こちらの話を聞かない母に辟易して、芯は思わず口を挟んだ。母が押し黙ったのを好機とみて、芯は思いつくがままに言葉を畳みかけた。
「じいちゃん家から少し登ったところに、すごく大きい洋館があるんだけど、知ってる? そこにめっちゃピアノの上手い同い年の男子がいて、今日ちょっと話した。ピアノ教えてもらう約束もした。だから俺帰らないよ。新しいこと始めたら、なんか変わるかもだし」
 自分の発した言葉を、芯は完全に信じているわけではなかった。ピアノを教えてもらえることは嬉しいが、それと不登校の克服が結びつくかどうかは、正直怪しいところである。
 それでも、奏太にピアノを教わらないままここを離れるのは、ひどくもったいないことのように思えた。
 黒い瞳に走る稲妻や、湖の幻想。彼がピアノに向かっている時の、怖いくらいに真剣な横顔。
 その演奏に、その表情に、久しぶりに心が動いた。どんなに怖くて不安でも、向き合わずに離れるのが躊躇われるほどに。
「芯はただでさえ三日坊主なのに、よりによってピアノなんて……その子も自分の時間があるだろうし、迷惑なんじゃないの?」
 母の言葉に、少しだけ気持ちが揺らいだ。突然ピアノを教えてもらうことになるなんて、芯自身だって、自分の存在が迷惑にならないか心配である。
 けれども、そんな芯を励ましたのは、絡めた指を離した時の奏太の視線だ。
 どこか含みのあるまなざしに、自分にもなにかできることがあるのではないかと思った。あの素晴らしい演奏の役に立てるのなら、それはなんだか、とてもいいことのように思われた。
「いつでも来ていいって言われたんだ。とにかく、なにかあったら連絡するから、それまではしばらく放っておいてくんない」
 芯はきっぱりと言い放って、強引に話をまとめた。母はまだ何か言いたげだったが、結局は渋々といった声色で曖昧な相づちを打ち、通話を切った。
 翌日、芯が洋館を訪れると、奏太は昨日と同じ『ピアノソナタ第八番』を弾いていた。背筋の伸びた細身の後ろ姿からは、奏太自身の熱意や緊張感がはっきりと伝わってくる。
 隠れる必要はないのに、芯はつい、昨日と同じように壁際でしゃがみ込んでしまった。気迫に満ちたこの演奏を邪魔するなんて、自分には到底、できる気がしない。
 目を閉じて、まぶたの裏に世界を描く。今演奏されている不安定な曲調は、昨日想像した穏やかな湖とは正反対だ。灰色の空が低い音でうなり、鋭い稲光が駆けていく。嵐の予感が、人々を怯えさせる。
 どうして一曲の中で、こんなにも雰囲気が違うのだろうか。
 芯は疑問に思い、より注意深く音を拾った。重々しい和音を重ねたピアノソナタ第八番はしかし、思いの外そっけない曲調に変化したかと思うと、突然流れを止めてしまった。
 唐突に訪れた静寂に、芯は驚いて目を開けた。戸惑っている間にピアノ部屋の窓が大きく開いて、黒い前髪がちらりと覗く。
「おはよう、芯」
 白いシャツの眩しさに目を細める。「おはよう」と返すと、奏太は手招きをして、窓から部屋に入るよう芯を促した。
「ここからでいいの?」
「いいよ。玄関まで回る時間がもったいないだろ」
 そこをもったいなく思う発想は、芯にはなかった。マナーにうるさい母が聞いたら卒倒しそうだ。
 靴のまま室内に入るのは、さすがにまだ躊躇われた。鼓動を速める緊張がレッスンへのものなのか、慣れない方法で人様の家にお邪魔することへのものなのか、だんだんと判別がつかなくなっていく。
 部屋に入った芯に、奏太は壁際から背もたれつきのピアノ椅子を持ってきて、グランドピアノのすぐ脇に座らせた。
「お茶持ってくるから待ってて」
 そう言い残して扉へ向かった奏太に、「いや別に、お構いなく」と声をかける。
「あんまり気遣ってもらっても、なんか申し訳ないし」
「別にいいよ。僕も休憩したいから」
 軽くあしらって、奏太は部屋を出ていった。一人残された芯は若干の居心地の悪さを感じながらも、浅く息をつき、ぼんやりと辺りを見回した。
 部屋はほんのりと薄暗い。それがよけいに、大きな窓から差し込む秋晴れの日光を際立たせている。グランドピアノとサイドテーブル、二脚のピアノ椅子以外にはなにもない、シンプルな空間だ。
 でも不思議と、殺風景な印象は抱かなかった。物の少なさは、演奏への真摯さの現れのようだ。そっけなさの中に温かみがあり、どこか穏やかな空気が、部屋全体を包み込んでいる。
 戻ってきた奏太は、トレーに乗せたグラスの他に、カラフルな表紙の冊子を持っていた。芯が興味を持つと、サイドテーブルに飲み物を置いてからピアノの前に座り、身を寄せるようにして中身を見せてくれた。
「僕が昔使ってた、子ども用の楽譜。楽譜の読み方からやろうと思うんだけど、どう思う?」
 目次のすぐ後ろのページに、動物のイラスト入りで音符の解説がある。図が大きく、説明も平仮名が多くて読みやすいが、内容はかなり専門的だ。
 ドやレといった音名だけでなく、四分音符、八分音符といったリズム的な部分まで言及されているのを見て、芯は途端に不安になった。奏太から楽譜を受け取ってページをめくる。後半になるにつれ音符が増えていって、理解できる気が全くしない。
「ごめん、ちょっと……楽譜は難しいかも」
 芯は正直に奏太に伝えた。これを一からやっていたら、挫けてレッスンを続けられなくなる自信がある。一曲も弾けないまま年が明けてしまう。
 呆れられるかと思いきや、奏太は「やっぱり?」と苦笑いで応えた。楽譜に苦手意識をもって挫折する初心者は、ピアノ界隈では多いらしい。
「じゃあ代わりに、好きな曲を覚えて弾く方法にしようか」
 芯はなにか、弾いてみたい曲はある?
 おもむろにそう言って、奏太はサイドテーブルに手を伸ばす。左右の手で一つずつグラスを持ち上げ、慎重な手つきのまま、片方を芯に差し出してくる。
 受け取ったグラスの中で、麦茶らしき液体が揺れていた。その澄んだ煌めきを見つめながら、芯は弾いてみたい曲について、あれこれと思考を巡らせた。
 まず思い浮かんだのは、いつもやっているスマホゲームのテーマ曲だ。動画再生アプリで演奏動画を見たことがあって、格好いいと密かに思っていた。
 もしくは、最近流行っているドラマの主題歌でもいいかもしれない。芯自身はその曲を好きでも嫌いでもないが、学校で弾いたらウケそう、という下心がわいた。
 麦茶に口をつけながら、どっちにしようかな、と悩む。ゲームの曲は捨てがたいけれど、不登校という自分の現状を考えれば、友人に自慢できる特技ができた方がいいのかもしれない。
 主題歌の方にしよう。
 そう決めて、芯は顔を上げて奏太を見た。しかし、奏太の黒い瞳が稲妻の色に光るのを目にした瞬間、言おうとしていた曲名が喉の奥に引っ込んだ。
 そんなんじゃ駄目だ。そんなんじゃなにも、変わらないだろう。
 昨日鼓膜を震わせた、奏太のピアノを思い出す。激しさに心を奪われ、美しさにため息をついた。真剣な横顔を見て、自分もこんな風に、なにかを大切にしてみたいと思った。
 いつもと同じでは、ましてや人目を気にした選択では、きっと自分は変われない。新しいことに挑戦しなければ、新しい未来は見えてこない。
「俺、奏太と同じ曲が弾きたい。ベートーヴェンのやつ弾いてみたい」
 芯の返答に、奏太は目を丸くして驚いた。芯がクラシックを選ぶとは、露ほどにも思っていなかったようだ。
「難しいけど……大丈夫?」
「わかってる。でも弾いてみたいんだ。奏太の演奏を聴いて、すごくいい曲だと思ったから」
 芯は奏太の顔をまっすぐに見つめた。奏太はしばらく、「うーん」と思案気に首を傾げていたが、やがて斜め下に視線を逸らし、長い指で口元を覆いながらつぶやいた。
「そこまで言うなら、まあ。第二楽章ならいけるかも」
「第二楽章?」
「うん。芯が湖に(たと)えた曲」
 いまいちピンときていない芯に向かって、奏太は『ピアノソナタ第八番』について解説した。
 ベートーヴェンのピアノソナタ第八番は、曲調の異なる三つの楽章から構成される。
 『悲愴』という通り名を体現する、重々しい第一楽章。ベートーヴェンの楽曲の中で指折りの美しさと評される第二楽章。駆け上がる旋律が焦燥感を駆り立てる第三楽章。
 芯が最初に聴いた轟音は、第一楽章の冒頭らしい。その後に聴いた柔らかく穏やかな部分が第二楽章、その後にもう一曲、これまた雰囲気の違う第三楽章が続く。
 途中で曲調が変わったのではなく、一つひとつの楽章が、それぞれ完成された個性豊かな一曲だったのだ。
「もちろん本当は三つでセットだから、通して聴くことでしか味わえない魅力がある。でもどの楽章も、単体で演奏しても十分に素晴らしい曲たちなんだ。第二楽章ならテンポも速くないし、アレンジ次第で弾けるかも」
 そうと決まれば、と意気込んで、奏太は譜面台に乗っていた楽譜に手を伸ばした。数枚めくって見せてくれたページには、びっしりと黒い音符が並び、奏太のものらしき書き込みもいくつか見受けられた。
「この一番上の音がメロディーになるんだ。ちょっと聴いてて」
 奏太はそう言って、恥ずかしがるでも気取るでもない調子で、第二楽章の旋律を歌った。よく澄んだ、落ち着いた響きは、普段から音楽が身近にある人間の歌声だった。
 奏太は最初の一フレーズを歌い終わると、今度は芯にも、自分の真似をして歌うよう指示を出した。
「え、俺も歌うの?」
「うん。音楽の基本は歌だからね」
 あれこれ文句を垂れる間もなく、奏太は「せーの」と声をかけて、先ほどと同じフレーズを歌い始めた。芯は慌てて、小さな声でつぶやくように奏太の歌をなぞる。
 二人だけの部屋はひどく静かで、重なった歌声が鮮明に聴こえた。奏太の朗々とした響きに比べて、芯の歌声は、掠れ、震えて、とても美しいとは言えないものだ。
 それでも芯は、胸に温かな熱が灯るのを感じていた。部屋に差し込む日差しが、やけに(まばゆ)く輝いて見える。声を出しているせいか、体温も実際に上がったように感じられる。
 奏太の長い指先が、拍に合わせてゆらゆらと揺れていた。それを見ているうちに、だんだんと恥ずかしい気持ちも薄れ、芯は夢中になって旋律を追う。
 息を吐き出した分だけ、新鮮な空気が肺を満たし、酸素が全身にいきわたっていった。自分の本当の声を、久しぶりに聴いた気がした。
 同じフレーズを何回か繰り返した後、奏太はおもむろに立ち上がった。譜面台の近くに身を寄せ、先ほどまで自分が座っていたピアノ椅子を示しながら、「どうぞ」と少しおどけた調子で言う。
 促されるがまま、芯はまだ温もりの残る座面に腰掛けた。ふっくらとした感触に、背筋が伸びる思いがする。緊張感から、胃のあたりが押しつぶされたような痛みを訴える。
「真ん中のドってわかる?」
 尋ねられて、芯は慌てて目の前の鍵盤に視線を落とした。モノクロの鍵盤は見ているだけで気が遠くなりそうだったが、小学生の頃にやった鍵盤ハーモニカの記憶を頼りに、それらしい白鍵を探す。
「これ?」
「すごい。よくわかったね」
 奏太は嬉しそうに答えて、にっこりと優しく微笑んだ。芯の頬は思いがけず熱くなる。「そんな、大したことじゃないから」と謙遜して、奏太の綺麗な顔から目を逸らす。
「ピアノソナタ第八番の第二楽章は、その音から始まるんだ。わからなくなったらウサギで見つけるといいよ」
「ウサギ?」
「うん」
 大真面目な顔で、奏太は右手でピースサインを作った。人差し指と中指の第二関節をぴょこぴょこと折り曲げて、「ウサギ」ともう一度言う。
「この耳のところを、真ん中の二本の黒鍵にあてる。そうすると、親指の場所が真ん中のドになるから」
 ぐっと身を寄せて、奏太は鍵盤にウサギのピースサインを置いた。人差し指と中指を中央の黒鍵にあてがい、折りたたんでいた親指を開く。確かに、その親指のある場所が、芯がさっき言い当てた真ん中の「ド」になっている。
 ウサギ。ウサギかあ。
 ふふ、と笑うと、奏太は不思議そうな目で芯を見た。「どうかした?」と尋ねられたので、芯は正直に口を開く。
「いやなんか、可愛いなあと思って。ウサギ。ウサギね、覚えたから大丈夫」
「ああごめん、子どもっぽかったね」
 奏太は照れくさそうに頬をかいた。「僕は昔、こうやって教わったんだ」とつけ加え、芯に鍵盤をよく見ているよう指示を出す。
「最初の三音はこんな感じ。真似できそう?」
 そう言って、奏太はメロディを歌いながら、白、黒、黒の順番で鍵盤を押した。
「白いのだけじゃないんだ」
「うん。黒鍵も使うから、頑張って覚えて」
 芯は神妙な顔でうなずき、奏太の見本通りに鍵盤を押す。
 音が鳴った。正真正銘、ピアノの音だ。今まではただ聴くだけだった温かみのある音色が、今確かに、自分の指先からこぼれている。
 それが無性に嬉しくて、芯は傍らに立つ奏太を振り仰いだ。黒い瞳とぱっちり目が合う。「すごい、鳴った!」と、はしゃいだ気持ちに任せて歓声を上げる。
 奏太はしばらく、ぽかんと口を半開きにして、まばたきを繰り返していた。やがてその目が、きゅっと細くなる。小さく息をもらして、なぜか少し、照れくさそうな笑みを浮かべる。
「そりゃ鳴るよ。ピアノだからね。でも、気に入ってくれたみたいでよかった」
 うんうんと頷き返しながら、芯は覚えた三音を繰り返し弾いた。始まりの音は、なんだか特別な感じがする。その響きを楽しみながら、芯はこの先のメロディーに思いを馳せる。
 芯が飽きてきた頃合いを見計らって、奏太は三音の続きを教えてくれた。新しい部分を教える時、奏太は指先を動かしながら、必ずドレミを口ずさんだ。
 小さな唇からこぼれる音色が心地いい。滑らかな鍵盤の感触と穏やかな秋の陽光を感じながら、芯は夢中になってピアノを弾いた。
 そんな芯を、奏太は終始、温かい眼差しで見守っていた。
 洋館の鉄門を押すと、だいぶ耳に慣れたピアノソナタ第八番が、初めて聴いた時と変わらぬ音圧で芯の心を震わせた。芯は足音を忍ばせて、向かって右手側、ピアノ部屋のある方へ歩く。
 すっかり定位置になった壁際に座り込んで目を閉じると、いつものベートーヴェンの世界が、まぶたの裏で翼を広げ、芯を楽しませた。
 芯が洋館を訪れる時、奏太は大抵、ベートーヴェンのピアノソナタ第八番を弾いている。ルーティンがあるようで、これは午前中の練習が終わりに近づいている時の曲だ。
 最も研ぎ澄まされた、切れる寸前の集中力をもって、奏太の『悲愴』は奏でられる。芯はこの二週間、洋館を訪れるたびに奏太の演奏を聴いているが、何度聴いても全く飽きる気がしない。
 強い日差しも、植物のざわめきも、もれ聞こえる音の連打に絡め取られ、一つになって芯の脳裏を駆け巡った。曲の調子に合わせて、数多の色が網膜を彩る。まぶたの裏の真っ暗なスクリーンを、幾人ものダンサーが跳ねて回って踊り出す。
 ピアノソナタ第八番は、三楽章全て演奏すると約十八分だ。「何個音符があるの?」と尋ねたら、「さすがにそこまで数えられない」と奏太は答えた。
 それらが全て彼の頭に入っていることを、芯はもう知っている。
「芯」
 演奏が終わると、開いていた窓から奏太が顔を出した。困ったように笑いながら、ひらひらと右手を振ってみせる。
「勝手に入ってきていいって、いつも言ってるのに」
 ここが好きなんだ、と答える芯に、奏太はいつも通り、ため息をつきながら肩をすくめた。その後ろ姿を見るまでが、最近の芯のお気に入りの時間だ。
 芯は窓から部屋に入り、ピアノの前に座って、奏太がキッチンからお茶を持って戻ってくるのを待った。どんなに通い詰めても、奏太は芯に、よく冷えた麦茶を出してくれる。
 奏太からは、部屋に一人の時でも、自由にピアノを弾いていいと言われていた。でも、自分の不慣れな演奏を、屋敷のどこかで奏太が聴いていると思うと、緊張して演奏する気になれなかった。
 廊下の方で足音がして、入り口の扉が開く。麦茶の入ったグラスを二つ、銀色のトレーに乗せて、奏太がこちらに歩いてくる。
「相変わらず暑くて嫌になるな」
 十月も半ばになり、だいぶ涼しくなったとはいえ、今日のように天気のいい日はまだ暑い。奏太はグランドピアノ横のサイドテーブルにトレーを置いて、襟元をぱたぱたと動かした。
「来月になったら急に涼しくなるよ。秋ってそんなもんだろ」
 トレーからグラスを持ち上げながら、芯は答える。
 昔はもっと季節がはっきりしていたらしい。しかし芯の物心がついた頃からだろうか、日本の四季は年々、失われつつある。
 夏はより暑く長く、冬はより、寒く厳しく。過ごしやすい気温が続くのは稀で、春と秋は既に絶滅危惧種だ。
 地球温暖化の影響は年を重ねるごとに深刻さを増している。過ごしづらくなったと嘆く人も多いが、それでも芯は、変わりつつある日本の天候を、一概に嫌いだとも思っていなかった。
 厳しい気候が続けば続くだけ、時折訪れる花見日和や秋晴れが、より一層心地よく感じられた。激しさが束の間の穏やかさを引きたてる様は、奏太の演奏するベートーヴェンにどこか似ていた。
 なんとなく嬉しくなって、芯は小さく笑いながら顔を上げた。さっそく伝えようと口を開くが、奏太の横顔を見て思い留まる。
 グランドピアノ横のサイドテーブルにトレーを置いて、奏太は手に持ったグラスをじっと見つめていた。緩いウェーブの黒髪が影をつくっていて、どこか憂いを帯びた雰囲気が漂ってくる。
「奏太?」
 芯が声をかけると、奏太は我に返ってこちらに顔を向けた。そこに浮かんだ不安げな表情に、芯は思わずたじろいでしまう。
「ごめん。グラスもらうよ」
 どうしたの、と声をかける前に、奏太は自分の麦茶を飲み干し、芯に向かって手を伸ばす。戸惑いながらも、その長い指に、芯は飲みかけのグラスを預けた。
 奏太はそれを、ゆっくりとした動作でサイドテーブルに置いた。ピアノは水濡れ厳禁だから、グラスを扱う彼の動作も自然、几帳面なほど慎重になる。
 奏太はそのまま、芯にピアノを弾くよう促した。芯はおずおずと右手の中指を真ん中の「ド」に乗せて、昨日までの記憶を引っ張り出しながら鍵盤を押す。
 『悲愴』の第二楽章が、たどたどしい響きであたりの空気を震わせた。芯の頭の中では、奏太と一緒に歌って覚えた音名が再生されており、それに合わせて指を動かしている状態だ。
 レッスンを始めて二週間が経ち、右手のメロディーはだいぶ弾けるようになってきた。初めに決めた通り楽譜はなくて、自らの記憶だけを頼りに演奏を進めている。
 シ――レ――ド――ミ――ラ――シ――……。
 鍵盤を覗き込むようにピアノに身を預けて、奏太もゆったりと歌い出す。控えめだが柔らかい発声には、奏太の音楽への慈しみが感じられる。
 芯は鍵盤に集中しているフリをしながら、こっそり視線を上げて奏太の顔を見た。伏せられたまぶたや薄く笑った唇に少し見惚れてから、慌てて我に返って、意識をピアノに引き戻す。
 どこか掴みどころがなく、初対面時は怖いとすら感じた奏太だが、一緒にいると驚くほど優しい顔を見せる瞬間がある。それはだいたい、彼がピアノのそばにいる時で、芯はいつの間にか、そんな奏太を盗み見るのが癖になっていた。
 奏太がピアノを大事にしている様子を見ると、芯はなぜか、ひどく安心した。不安定な胸のうちがすっと凪いで、いつもよりも深く息を吸えるような気がするのだ。
「あ、そこはナチュラルね」
 間違えて違う音を弾くと、すかさず奏太が声をかけてきた。芯は続きを弾くのをやめて、隣に立つ奏太を見上げる。
「ナチュラルってなんだっけ」
「シロ」
「あ、そっか」
 間違えたフレーズを、芯は頭から弾き直す。黒鍵と白鍵の区別は、奏太がこの曲を「難しいよ」と言った最大の理由である。
 ベートーヴェンのピアノソナタ第八番第二楽章は、シ・ミ・ラ・レの四音にフラットがつく。つまり、この四音については、白い鍵盤ではなく黒い鍵盤を弾かなければならない。
 ただし、例外アリ。「ナチュラル」がついた場合は、黒鍵ではなく白鍵を弾かなければならない。
 このややこしいルールに、初心者の芯は正直、大混乱である。咄嗟に判断できないので、トライ&エラーを繰り返しながら、指の動きと映像で覚えるしかない。
 間違えてしまった焦りによって、芯はなかなか、フレーズを正しく弾き直すことができなかった。見兼ねた奏太が手を伸ばしてきて、ゆっくりと手本を見せてくれる。
 ワイシャツの腕がすぐ横に迫り、芯は反射的に、少しだけ身を反らせた。「シロ、シロ、クロ」とリズムに合わせて解説する声が近くで響いて、鼓動が少し、速くなる。
 ずっと人と関わっていなかったせいなのか、芯は最近、奏太と距離が近づくとドキドキするようになってしまった。まあ基本的に、他人と近づけば緊張するのは当たり前だと言い聞かせつつも、さすがに気まずいなと思わなくもない。
 頬が熱い気がして、つい視線を下げたら、スラックスに覆われた細い腰が目に入ってよけいに後悔した。奏太の長い手足や細い腰は、男目線でもひどく艶めかしい瞬間がある。
「芯、大丈夫?」
 不審そうに声をかけられて、芯は慌てて顔を上げた。上げた先でばっちり目が合ってしまい、もう一度心臓が跳ねたのを誤魔化しながら、「ごめん、疲れちゃって」と苦笑いをつくる。
「じゃあちょっと休憩にしよう」
 奏太はそう宣言すると、脇に置いてあった背もたれつきのピアノ椅子に腰を下ろした。ぐっと一度伸びをしてから、芯に飲みかけの麦茶を渡してくれる。
「芯はずっとここにいるの?」
 ふいに尋ねられ、芯はグラスを受け取りながら、曖昧に答えた。
「ああ、うん……どうなんだろうね」
「どうなんだろうねって?」
「いやあの、なんていうか。もう気づいてるかもしれないけど、俺今学校行けてなくて」
 改めて口にすると、現状がぐっと深刻さを増した気がした。事実の重さに押しつぶされないよう、芯は精一杯の作り笑いを浮かべた。
「でもいじめがあったとか、そういうんじゃないんだ。変だよね。自分でもわかってるんだけど、学校に行こうとするとどうしても、体が重くなって」
 芯は久しぶりに、学校に行けない朝の暗い気持ちを思い出す。起きようと思っても起きられないこと。起きられないとわかっているのに、起きようと努力しなければならないこと。
 最近はずっと、ほぼ毎日この洋館に通い詰めていたので、あの絶望感をすっかり忘れていた。この洋館にはそれくらい、どこか浮世離れした雰囲気があった。
 荒れ放題の庭は一周回って秘密基地みたいだし、室内は土足、黒く艶めくピアノが羽を広げ、家主の奏太はいつも、白シャツに黒いスラックスを合わせている。
「そんなに珍しいことでもないんじゃない」
 馬鹿にするでも、同情するでもない声が返ってきて、芯はなんだか拍子抜けする。傾けていたグラスの角度を元に戻し、奏太の顔を改めて見つめる。
「生きてれば誰だって、自分がどうしたいのかとか、どうするべきなのかとか、わからなくなっちゃう時があるもんでしょ」
 寂しそうに笑った奏太は、膝の上で伸ばした自らの指先をぼんやりと眺めていた。儚げに震えるまぶたは芯に、奏太もまた、この山奥の洋館でなにか考えることがあるのだろうと感じさせた。
「奏太はどうしてここにいるの?」
 勇気を出して、努めて静かに尋ねてみる。今までは自分のことばかり気にしていたが、よく考えれば、奏太とここで出会ったことも、なかなかに不思議な縁である。
 それこそ、同い年のはずなのに、学校はいいのだろうか。なぜ日本にいるのか。いつも熱心に練習している曲たちは、一体どこで披露するつもりなのか。
 じっと見つめると、奏太は視線を上げて芯を見返した。闇色の瞳に、稲妻がちらりと走る。
「僕もまあ、夏休みの延長線ってところ。本当はドイツのギムナジウムに籍があるんだけど、昔からお世話になってる日本の先生に習いたくて、一時的に帰国してる」
「ここは奏太の実家ってこと?」
「いや? 実家は静岡。ここはドイツ人だった曽祖父の屋敷」
 山奥だけどこっちの方が東京に近いから、とまとめて、奏太は笑った。一線を引くようなその笑みに、芯はもどかしさを覚える。
 奏太が落ち込んでいると、なぜか自分まで胸が痛んだ。少しでも自信を持ってほしくて、芯は思わず口を開いた。
「奏太って恰好いいよね」
「ええ? なに、急に」
「だって、同い年なのにさ、ドイツとか帰国とか一人暮らしとか」
 芯の言葉に、奏太は今度は、照れくさそうに頬をかいてはにかんだ。そんなことないよ、と答える声には年相応の感情がにじんでいて、芯はこっそり胸を撫で下ろす。
「芯は今、どこに住んでるの?」
「ここより少し下にある、じいちゃんの家。海外旅行が多い人だから一人暮らし状態だけど、俺の場合は奏太とは違って、ただ逃げてきたようなもんだから」
 学校からも、母の小言からも逃げて、芯はここに来た。挙げ句の果て、学校に行けない自分からも逃げて、芯は今この洋館にいる。
 奏太の経歴やピアノへの真摯さを、素直にうらやましいと思う。そんな風に一つのことに向き合える人間だったら、自分は今悩んではいないんじゃないかと考える。
「空っぽなんだ、結局。なにやっても続かないし、行きたい大学も将来就きたい職業も決まらないし」
 いつからだろう。体がこんなに重くなったのは。頭の中が時々、こんなにも霞がかって、足元すらおぼつかない感覚に陥るようになったのは。
 そう自問しながら、芯はぼんやりと、四月に進路希望調査票を配られた時のことを思い出していた。第一希望から第三希望までの三つの空欄を前に、突然大きな不安感が迫ってきて、足元が揺らぐような感覚に襲われた。
「芯は最初、僕のピアノを湖に喩えたよね」
 背を丸め、項垂れて黙り込んでいた芯に、奏太は唐突に言った。「あれはどうして?」と尋ねる顔は、いつもピアノに向かっている時と同じ、一途で真剣な表情だ。
「どうしてもなにも……感じたままを言っただけだよ。奏太の演奏を聴いて、俺には湖が見えたんだ。だからそう言っただけ」
 戸惑いながら答える。奏太に「すごいね」と返されて、芯は本気で首を傾げた。すごいのはむしろ、あんな世界をピアノの音だけで創り出す、奏太の方ではないだろうか。
「僕にはあんまり、そういうのはわからないから」
 少し困ったように笑いながら、奏太は言葉を続ける。
「僕はね、音楽を聴けば全部の構成音がわかるし、その曲の調とか拍子、リズムまで、簡単な楽譜におこせるくらいには把握できる。でも芯が言った、景色とか、温度とか、そういうのはよくわからない。ドはドだし、レはレだし、音の響きや曲の構成を美しいと思っても、それが視覚や触覚的な心地よさには結びつかないんだ」
 奏太の言葉を、芯は意外に思う。それはつまり、奏太はなにか音楽を聴いても、どこか別の場所の景色が思い浮かんだり、暖かさや寒さのイメージをもったりはしない、ということだろうか。
 芯は困って、視線をさまよわせた。音楽を聴いた時に想像が広がり、出来上がった世界に感覚を刺激されるのは、当たり前のことだと思っていた。
「それって、奏太は音楽やってて、楽しいの?」
 どう答えるのが正解か迷った末、芯はつい、頭に浮かんだ疑問をそのまま口に出してしまった。言い切ってから、失礼だったかもしれないと気づき、慌てて口元を押さえる。
 なぜこんなことを聞いてしまったのか――奏太が音楽を楽しんでいるのは、普段の様子を見ていればすぐにわかることなのに。
 申し訳なさから、少し上目遣いに、芯は奏太の顔を覗き込む。しかし奏太は、特に気分を害した様子もなく、「楽しいよ」と言って薄く笑った。
「景色や温度と結びつかなくても、綺麗な音を聴けば心が震える。和声の進行とか、主題の繰り返しとか、いいものに出会うとすごく嬉しいし、ベートーヴェンのソナタの再現部なんか、カッコよくてゾクゾクする」
 和声。主題。再現部。
 芯の知らない用語を並べて音楽を語る姿に、奏太はやっぱり、別世界の人間なのだなと実感する。それでも、その頬が珍しく紅潮していることに気がついて、芯は無性に嬉しくなった。
 同じ音を聴いているのに、全く違う捉え方をする人がいる。全く違う捉え方をしているのに、最後には、同じ曲を同じだけ「美しい」と感じる。
 複雑で不思議で、驚くほどに面白い。
 初めて奏太の瞳を覗き込んだ時の、胸の高鳴りが蘇る。やはり、宇宙の秘密はここにあった。目の前のこの男の、暗闇を駆ける稲妻の中に。
「芯は自分のこと、『空っぽだ』って言ったけど、そんなことないと思うよ。芯は僕にないものを、ちゃんともってるんだから」
 ふいを突かれて、芯は押し黙った。眩しいものを見るような目で、奏太が自分を見ている。そのまなざしに、言葉に込められた想いに、じんわりと体温が上がるのを感じる。
 暗く淀んでいた心に優しい色彩が加わって、軋んでいたはずの体中の関節の動きが、少しずつ滑らかになっていくような感じがした。気を抜いたら泣いてしまいそうで、芯は奏太と目を合わせないまま、小さな声で礼を言った。
 「どういたしまして」と、なんでもないような調子で奏太が応じる。やがて訪れたくすぐったい沈黙に、芯も奏太もぎこちなくうつむいた。
「でもあんまり、芯を励ますのはやめようかな」
 やがて奏太は、小さな声でぽつりとつぶやいた。なんで? と顔を上げた芯に、照れくさそうな、少しいたずらっぽい笑顔が向けられる。
「だって寂しいじゃん。芯は元気になったら、ここには来なくなるんでしょ」
 稲妻の瞳はやはり、なぜか眩しそうに細められていた。ピアノのそばにいる時の優しい表情が、惜しみなく自分に向けられていることに気がついて、芯は小さく息をのむ。
「君が来なくなったら、僕は寂しいよ」
 その肌の白さに、瞳の美しさに、視界を奪われて離せなくなる。ここではいつも、聴覚ばかり敏感になるけれど、今この瞬間だけは、全身が視神経になって世界を見つめていた。
 そっちこそ、いつまで日本にいるつもりなの。
 喉まで迫り上がった問いを、芯はすんでのところで飲み込んだ。それを聞いたら最後、この美しい魔法は解けて、もう二度と彼に会えなくなってしまうような気がした。
「俺だってできればずっと、ここにいたいよ。母さん過保護で、うるさいし」
 胸を締めつける寂しさを紛らわせようと、芯はわざと冗談混じりに言葉を返した。にじみ出た愚痴っぽい響きに、奏太は肩をすくめて苦笑する。
「へえ。なにか言われた?」
「どうして学校に行けないんだって。そんな簡単に理由がわかるんだったら、俺だってこんな、焦んないし」
 焦んないしと言って初めて、ああ自分は焦っていたのかと自覚する。友だちは多いつもりでいたけれど、こうやって素直に弱いところを見せられる相手は、奏太が初めてかもしれない。
「嫌なんだったら、嫌って言えばいい。そこで親に忖度する義務なんて、僕たち子どもには一ミリもないんだから」
 自分を子どもだと言い切ってしまえる奏太は、芯から見れば十分に大人だった。そんな簡単に割り切れたら苦労しないんだよと、つい文句を言ってやりたくなる。
「……奏太、もし、もしだよ。ピアノが弾けなくなったら、奏太はどうするの?」
 少し意地悪なことを聞いて、たまには奏太の焦っているところを見てみたい。そんな出来心からの質問だった。だから芯は、返ってきた単語の強さや声色の揺るぎなさに、ただ驚くことしかできなかった。
「そんなのはもう、とっくに決まってるよ」

 ピアノが弾けなくなったら、僕は死ぬんだ。
 芯が奏太から「ピアノを聴いてほしい」と頼まれたのは、三日後のことだった。昼前に芯が洋館を訪れると、奏太はピアノソナタ第八番ではない、別の曲を練習していた。
 線の細い、優雅に宙を漂うような曲調を聞いて、なんとなくベートーヴェンの作品ではないように感じた。それでも芯はいつも通り、外の壁際に座り込んで、演奏が終わるのを待った。
 演奏中の部屋に押し入るのは、いくら本人に許可を出されてもためらわれる。奏太が一人でピアノを弾く時、その周りには、触れがたい緊張感が漂っている。
 もちろん、芯が同じ部屋にいても、奏太は一切気を散らすことなく素晴らしい演奏をする。それでも、そういう時の演奏と、彼が本当に「ひとり」でいる時の演奏とでは、やはりなにかが違うのだ。
「芯」
 程なくして、窓から奏太が顔を出す。芯は内心驚いた。奏太が演奏を途中で切り上げて声をかけてくるのは、芯がこの洋館を訪れるようになってから初めての出来事だった。
「どうしたの?」
 慌ただしく立ち上がると、奏太は芯に、室内に入るよう手招きで合図した。若干戸惑いつつ、普段通りの要領で窓枠をくぐると、奏太は芯の目をじっと覗き込んで口を開いた。
「ピアノ、聴いてほしくて。『バラード第一番』っていう、今度レッスンで弾く曲なんだけど」
 その声は珍しく強張っていて、表情もどこか硬い感じがした。口早に告げられた注釈を聞いて、彼が緊張しているのだと芯は気づく。
「もちろん、俺でよければ」
 こうやって改めて頼まれると、自分が演奏するわけでもないのに足が震えた。そんな芯の元に、奏太はわざわざ背もたれつきのピアノ椅子を持ってきて、客席だと思って座るように促した。
 腰を下ろして目の前のグランドピアノを眺める。それだけで、簡素な部屋は小さなコンサートホールに様変わりした。秋の穏やかな陽光に、よく磨かれたグランドピアノの屋根が光っている。
 芯の準備が整ったのを見て、奏太は視界の左側から颯爽と歩いてきた。つま先を揃え、優雅にお辞儀をする姿は、紛れもなく本物のピアニストだ。
 椅子の位置を調整する音が、静まりかえった部屋に響く。芯はその音を聞きながら、白いシャツにスラックスという奏太の出立ちが、いつでも舞台に出られる格好だということに気づく。
 芯の座っている位置からは、奏太の白い横顔がよく見えた。一切手を抜く気のない、怖いくらいに真剣な表情だ。すっかり気圧された芯は、奏太はいったい、どこまで音楽に身を捧げているのだろうかと考える。
 張り詰めた空気の中、長い指先が鍵盤に触れる。
 沈黙を鮮やかに切り裂いて、最初の一音が奏でられた。テナーとバスのユニゾンが、どこまでも深い響きで空気の色を変えた。
 シンプルかつ圧倒的な音色の美しさが、芯の心を掴んで離さない。震える弦まで見えるようだ。
 曲の途中、芯からすれば神業のように見える技術的な難所も、奏太は難なく弾きこなしてみせた。最後の和音が途切れたタイミングで、芯は奏太に、盛大な拍手を送った。
「すごい、こんなに難しい曲が弾けるなんて。全然間違えないんだ。楽譜も見てないのに」
 ただ思ったことを、いつも通り素直に伝える。芯はすっかり、奏太の複雑な指の動きや、数多の構成音をコントロールしきる集中力に魅せられていた。
 それはもちろん、心からの称賛のつもりだった。しかしお辞儀をしてこちらに歩いてきた奏太は、やけに険しい顔をして芯を見返した。
「……それだけ?」
「え?」
「感想、それだけ?」
 鋭い視線に体が強張る。射すくめられ、最初に会った時のように動けなくなってしまう。
 芯が怯えていることに気がついた奏太は、はっと我に返って気まずそうに謝った。ピアノの前の椅子に戻って楽譜を開きながら、「やっぱり駄目か」と小さくつぶやく。
「え、なにが? どこが駄目だったの? 俺変なこと言った?」
 芯としては、聞き捨てならない言葉だった。奏太の演奏は文句なしに素晴らしい。自分なんかの感想で奏太が落ち込んでしまっては、空から槍が降るくらいの一大事だ。
「いや、芯は悪くないよ。怖がらせてごめん」
「それは別に……それより、なんで」
 奏太はしばらく、なにかを言い渋っていた。答えるよう促しても、「言わせることじゃないから」の一点張りで取り合ってくれない。
 それでも諦めずに、芯は奏太を見つめた。この前「空っぽじゃない」と励ましてもらったことが、まだ芯の胸に残っていた。
 傷つけたのなら謝りたいし、もし奏太が悩んでいるのなら、できる限り彼の力になりたい。そうやって自分も、奏太の役に立ちたいのだ。
 芯の必死の視線に根負けしたのか、やがて奏太は、苦々しく笑いながら説明を始めた。
「演奏を聴いた人の感想でさ、最初に出てくる言葉が、『難しい曲だね』とか『間違えてなかったね』じゃ駄目だよなって思うんだ」
 それって、この曲のよさよりも、僕っていう演奏者の方が印象に残ったってことだろ。
 口元は笑っている。眉も困ったように下がっている。でもその瞳の奥では、理想通りの演奏ができない悔しさや歯痒さ、それでもよりよい演奏を目指すのだという強い意志が、いくつもの閃光を放ちながら蠢いていた。
 芯は、自分の背筋が大きく震えるのを感じた。奏太は今まで、どれほどの熱意で音楽と向き合ってきたのだろう。これからの人生を、どれだけピアノに捧げるつもりなのだろう。
 ――ピアノが弾けなくなったら、僕は死ぬんだ。
 迷いなく放たれた言葉の重みが突然、二倍にも三倍にも膨れ上がる。信じていなかったわけではない。それでも、なにかを大切にし続けた経験のない芯には、奏太の覚悟など最初から、理解できるはずがなかったのだ。
「『バラード第一番』はショパンの曲。確かに難しい曲だよ。でもそれ以上に叙情的で、聴く人に訴えるものがある曲のはずなんだ。技術的なことばっかりできたって、それは本当のピアニストとは言えない。人の心を動かせなくちゃ意味がない」
 より高みを目指して、奏太はもがいていた。まだ未完成の、剥き出しの自分を抱えて。
 胸が締めつけられて、芯は息が苦しくなる。「ピアノが弾けなくなったら死ぬ」とまで言っていた奏太にとって、自分の演奏を「意味がない」と感じる瞬間というのは、どれほどの痛みを伴うだろうか。
 技術的にすばらしい演奏に意味がないとは、芯は思わない。だけどきっと、そんな慰めは、奏太には通用しないのだろう。
「奏太」
 奏太がゆっくりとこちらを見る。ひりついた表情に見え隠れする不安に気づき、芯は唇を引き結んだ。
 芯は素人だ。技術的なアドバイスなんてできるわけがないし、それっぽい言葉で誤魔化すこともしたくない。
 だとしたらもう、演奏を聴かせる相手として奏太が選んだ自分を信じて、まっすぐにぶつかることしかできない。
「楽しもう!」
「は?」
 突然明るい声を出した芯を、奏太は怪訝そうに見た。
「俺はやっぱり素人だから、難しいことはよくわからない。でもなんだって、楽しくないよりは楽しい方がいいはずだろ。ピアノが楽しいってこと、俺に教えてくれたのは奏太だ。奏太のピアノをもっといっぱい聴いていたい。ピアノを弾く奏太をもっと見ていたい」
 全部が本当の気持ちだった。奏太の演奏を聴いて、ピアノに興味を持った。自分で弾くのは難しいけれど、諦めないで練習している。ピアノを弾く奏太を見ていると、不思議と心が安らかになる。
 奏太って、クラシックじゃなくても弾けるの?
 芯が尋ねると、奏太は戸惑いながらもうなずいた。
「まあ、知ってる曲なら。あんまり詳しくないけど」
「じゃあさ、これは?」
 芯は視線を斜め上にやって、コンビニエンスストアの入店音を口ずさんだ。「それはまあ、有名なやつじゃん」と拍子抜けしたように言って、奏太はメロディーを右手で追った。
 芯は今度は、SNSで流行っている歌を歌ってみる。あまりピンときていない様子の奏太だったが、芯の歌から音を探り当てて、なんとか弾いてみせた。
 夕方五時の放送が、メッセージアプリの着信音が、奏太の長い指から軽やかに紡ぎ出される。ピアノの音色で聞く日常の音たちは、なんだか澄まして、余所行きの格好をしているみたいだ。
 CMでよく聞く曲を頼んだら、クラシックだけ異様にスムーズなのがおかしかった。電気屋やスーパーマーケットのテーマソングは、奏太の伴奏に合わせて芯が歌った。
 最寄駅の発着メロディを聞いて、無性に旅行に行きたくなる。聞き慣れた音の羅列が、芯をたまらなく愉快にさせる。芯が笑えば笑った分だけ、それにつられるようにして、奏太の頬の強張りも解けていく。
 そのうち奏太は、自動車のクラクションやトラックがバックする時の警告音、レジの音など、曲とも呼べない生活音すら、ピアノで再現してみせた。奏太には普段から、これらの音が全て、ドレミで聞こえているようだった。
「絶対音感ってやつ?」
 芯が尋ねると、奏太は「うん」と自然な調子でうなずいた。
「踏切の音とか、鳥の鳴き声、あとは赤ちゃんの泣き声なんかも、結構音程で聞こえたりする」
「すごい。それって鬱陶しかったりしないの?」
 もし自分だったら、と想像してみる。ドレミで考えると実感しづらいが、まあつまり、周囲から聞こえる音全部が、言葉に聞こえることと同じではないだろうか。
 外にいる間中、どこに行っても他人の話し声が聞こえる状態なんて、想像しただけで大変そうだ。気疲れも多いだろうなと、芯は少し心配になる。
「そうでもないよ。具合悪いときとか、疲れてる時はさすがに、勘弁してくれって感じだけどね。僕の場合は物心ついた時からこうだったし、周りにいつも友だちがいるみたいで、小さい頃はむしろ楽しかったなあ」
 懐かしむような表情で、奏太は鍵盤を見つめた。そのまま、愛おしそうな手つきで鍵盤を撫でる。穏やかな沈黙に、奏太の優しい声が響く。
「だから僕は、ピアノが好きなのかもしれない」
 その言葉には、揺るぎない愛情がこもっていた。その笑顔から目が離せなくなったまま、むしろしっかりと見つめ返して、芯は口を開く。
「奏太、俺今、すごく楽しい。色々弾いてくれてありがとう」
 俺、奏太のピアノ好きだよ。
 だから大丈夫だよ。
 恥ずかしかったけれど、誤魔化さないで伝えてみる。ピアノに真剣な奏太は格好いい。でも同時に、どこか追い詰められているような、苦しそうな空気をまとっていたのが気になった。
 演奏者が苦しそうだと、聴いている方もなんだか、苦しくなってしまう。今日は奏太の緊張が伝播して、芯も体が強張っていた。そういう何気ない、小さなことの積み重ねが、曲を聴く芯の感性にも影響を与えたのかもしれない。
 芯の言葉を聞いたっきり、奏太はすっかりうつむいてしまった。芯は「どうしたの」と声をかけ、恐る恐る近づいて顔を覗き込む。
 その表情を見て、芯は目を見開いた。奏太の瞳は涙で潤み、滑らかな頬は、耳の方まで赤く染まっていた。
「え、えっ? ごめん、俺また変なこと言った?」
 芯は戸惑って、つい意味もなく辺りを見回してしまう。普段大人っぽい奏太に泣かれると、ひどく調子が狂った。なんと声をかけていいかわからないし、わからないのに、赤くなった目元や小さな唇が妙に可愛く見えて、本当に困る。
「別に、そういうわけじゃない」
「でも」
「いい。本当に、――けだから」
 顔を逸らしながら、奏太がなにやらつぶやく。聞こえなかったので問い返すと、「嬉しかっただけだから」と、今度は大きな声で返された。
「僕のピアノを好きって言ってもらえて嬉しかった。君の演奏は面白くないとか、ドイツにいた時、レッスンで少し、色々言われて。曲の表情とかイメージとか、僕はよくわからないから、よけい不安で」
 奏太の口から、ぽろぽろと想いがこぼれていく。
 今までは技術的な向上を目指してひたすらやってきたけれど、今年の夏頃から、それだけでは超えられない壁を感じ始めたこと。突破口を求めて日本に来たはいいものの、いくら練習してもなにも変われていないような気がして、どうしても焦ってしまうこと。
 その言葉の端々には、得体の知れないものと向き合うことの怖さや、それでもやるしかない苦しみがにじんでいた。
「僕はピアノが好きだ。だから一番頑張りたいのに、最近は時々、すごく虚しくなる時があるんだ。好きなはずなのに、僕は本当にピアノが好きなのかなって考えたり、一生懸命やってる自分が馬鹿らしく思えたり」
 強く握られた拳が、スラックスの膝の上で震えていた。その様子を見て、芯は気づく。
 奏太も自分と同じように、ここに逃げてきたのだ。足を止めればすぐさま置いていかれるような、忙しない世界を離れて。そんな世界から、小さな自分を守るために。
 初めて奏太の音を耳にした時。
 あの、雷のような和音が心を震わせたのは、そこに込められた奏太の気持ちが、自分と同じ色をしていたからなのかもしれない。
 あの時、自分はきっと、呼ばれていた。助けてくれと願うのと同じだけの強さで、助けてほしいと求められていた。
 人生が変わる予感に身を任せて、ただ夢中になって坂を走った。そうして出逢った。黒い瞳に稲妻を宿した、俺の運命。
「奏太、ベートーヴェン弾いてよ」
 無性に聴きたくなって、芯は奏太に、悲愴の第二楽章をリクエストした。第一楽章も第三楽章も好きだけれど、自分でも練習している分、やはり第二楽章は特別だ。
「今は絶対に上手く弾けないから、嫌なんだけど」
 まだ目元の赤い奏太が、弱々しく抵抗する。そんな彼に、芯はにっこりと笑いかけて、「下手でもいいじゃん」と説得を試みる。
「上手く弾けなくたって、それこそ間違えたって、大丈夫だよ。ここには俺と奏太しかいないんだから」
 ね? と念を押すと、奏太はもごもご文句を言いながらも、観念して鍵盤に指を乗せた。その仕草だけで、何度も見た奏太の演奏姿が、自然と芯の脳内に浮かび上がった。
 ウェーブがかった黒髪。滑らかな白い頬。小さい唇。長い首。清潔なワイシャツ。華奢な腰。黒いスラックスに覆われた長い足。つま先を覆う革靴の艶。
 あれ、と芯は首を傾げる。いつの間に自分は、こんなにも奏太のことを見ていたのだろう。いつの間に自分は、こんなに彼に惹かれていたのだろう。
 芽生えた想いは初めてではなくて、でもきっと、今まで抱いたどんな感情とも違う色をしていた。暗闇を駆ける鮮烈な稲光を、自分はこれからも、飽きることなく求め続けるだろうという予感があった。
 長い指先が、すっかり耳に馴染んだ旋律を奏で始める。湖の世界は、いつもの何百倍も優しく、温かく感じられた。音色に聴き入って閉じていた目を開くと、奏太はまぶたを閉じたまま、幸せそうな表情でピアノを弾いていた。
 悲愴の第二楽章が好きだ――それを弾いている時の、奏太が好きだ。
 ベートーヴェンはもっと、気難しくて恐ろしい人だと思っていた。でもこの曲を聴いたら、奏太の演奏を聴いたら、そんな風には思わなくなった。
 空に向かう光の階段。もしくは、窓辺から差し込む月明かり。神様が降りてくる感じがする。この人が弾くと、よけいに。
 芯はそっと身を屈めた。譜面台の横に片手をついたまま、奏太の小さな唇に口づける。
 柔らかい感触の直後、音が止まって、時が止まった。まぶたのシャッターが開いた先で、黒く艶めく瞳の中を、ひときわ明るい稲妻が駆け抜けた。
「ごめん」
 咄嗟に謝って、芯は奏太から顔を背ける。心臓がばくばくとうるさくて、体中がかっと熱くなって、今にもめまいで倒れそうだった。
「別にいい。……嫌だったら、嫌って言う」
 少しの間の後、ひどく照れくさそうな返事があった。長い静寂に包まれた部屋で、窓際のレースのカーテンだけが、秋風に吹かれてはためいていた。