その後から練習を再開した第二楽章は、四日さぼった分を取り返すのに、二日分のレッスンを費やした。そこから新しい部分を覚えるのに三日かかり、通し練習をしながら大まかな曲想をつけるのに、更に二日の時間を要した。
刻一刻と過ぎていく時間が名残惜しくもあったけれど、レッスンをしている間は、別れへの寂しさを感じる余裕など毛ほどもなかった。新しいことを覚え、できるまで練習するだけで、毎日頭も体もへとへとだった。
そうやって日々を重ね、芯がようやっと奏太から及第点をもらえる演奏ができたのは、母が迎えに来る日の前日だ。練習後、客間でサンドイッチをご馳走してもらった芯は、意を決して奏太に声をかけた。
「ついてきてほしいところがあるんだ」
突然の誘いに、奏太は最初、戸惑っていた。しかし、じっと自分を見つめる芯の表情から並々ならぬ緊張を感じ取ったのか、結局は行き先も聞かずにうなずいてくれた。
戸締まりだけ済ませて、二人は五分もしないうちに洋館を後にした。屋敷のわき道から県道に出て、寒空の下のアスファルトを、落ち葉を踏みながら登っていく。
吹きつける風に、冬のにおいを感じた。ここを離れた冬。奏太がいない冬。自分はなにをしているだろう。自分はどうやって、生きていけばいいんだろう。
「俺さ、多分、生きて、色々なものが積み上がっていくことが、ずっと怖かったんだ」
芯のつぶやきに、奏太はただ「うん」と答えた。前を歩く芯からは、その顔は見えない。それでも、振り返らずとも、すぐ後ろから聞こえる温かい足音が、芯の言葉をしっかりと受け止めた。
「でも、奏太にピアノを教わって、できることが増えるのは嬉しかった。ピアノに真剣な奏太を格好いいと思ったし、自分もそんな風に、なにかにまっすぐ向き合えたらって思ったんだ」
未来に怯え、身動きが取れなくなっていた芯に、世界の彩りを思い出させてくれたのは奏太だ。奏太とピアノを弾いている間は、容赦なく押し寄せてくる未来など忘れて、今この時だけを考えていられるような気持ちになった。
本当はずっと、このまま、二人だけの洋館で生きていたい。でもきっと、世界はそれを許さない。時は流れ、季節は移ろい、芯たちは大人になっていく。
そしてなにより、他でもない奏太自身が、新しい未来に向かって羽ばたこうとしているのだ。本気でそばにいたいと思うのなら、芯だけがここで足踏みしているわけにはいかない。怖くても苦しくても、きちんと前に進まなければならない。
緩やかなカーブを登りきると、道の先に大きな建物が姿を現す。高いところに掲げられた、教育施設特有のアナログ時計を見て、芯は音をたてて唾を飲み込んだ。
二か月半前にここを訪れた時には、足がすくんでこれ以上近づくことができなかった。それがなぜか、今ならわかる。
学校は、意味や理由を求められる場所だ。第一希望から第三希望までの三つの空欄に、長い長い人生を当てはめなければいけない場所。生きていく術を身につけるために、「皆と同じ」を学ぶ場所。
芯にとって、学校はいつの間にか、息苦しい灰色の未来の象徴になってしまっていた。
心のままに生きられないことが怖い。一つのことを続けなければならないことが怖い。そうやって定まっていくことが怖い。可能性を引き剝がされ、つまらない大人になっていく自分が怖い。
「芯」
青ざめた顔で立ち尽くす芯の顔を、奏太が覗き込んだ。心配そうな表情のまま廃校舎を指差し、「芯の行きたい場所ってここ?」と首を傾げる。
「うん。そう」
「大丈夫? 冷汗すごいけど」
「駄目かも」
芯はつい、弱気になってうつむいた。奏太と一緒なら、この校舎にも入ることができるかもしれないと思っていたが、やはりまだ自分には難しいのかもしれない。
不確かでわずかな期待だったとはいえ、芯の心を、じわじわと落胆が支配する。この廃校舎に入れないということは恐らく、東京に戻っても、学校には行けないということだ。
不登校になったと気づいたばかりだった、九月の一ヶ月間を思い出す。気晴らしもできず、ただ時間だけが過ぎていく日々がまたやってくるのかと思うと、胃の辺りが締めつけられたように痛くなる。
今にもしゃがみ込みそうな芯の隣で、奏太はじっと、なにかを考えていた。黒髪から覗く顔は、ピアノを弾いている時と同じくらい真剣な表情だ。
「芯」
数十秒後、考えがまとまったのか、奏太はようやく口を開いた。
「発表会をしよう」
わざとらしくおどけた口調と、耳慣れない単語の響きに、芯は思わず視線を上げた。ぽかんと口を開けたまま拍子抜けする芯に、奏太はしたり顔で言葉を続けた。
「あれは多分、小学校だよね? 音楽室に行って、もしピアノがあったら、そこで発表会をしよう。せっかく第二楽章を弾けるようになったのに、僕が聴くだけじゃもったいない」
え、と戸惑う芯の腕を、奏太は強引に引っ張った。頑なに動かなかった右足が、傾いた体を支えるために、一歩踏み出す。バランスを取るために、二歩、三歩、と足取りが続く。
「発表会って言ったって、奏太以外に誰が聴くんだよ」
足が動いても、動悸は激しいままだ。弱々しく抵抗を試みる芯を振り返って、奏太は心の底から楽しそうな、晴れやかな表情で笑ってみせた。
「ベートーヴェン先生だよ」
黒い瞳に、稲妻が駆ける。網膜を焼いたその閃光に見惚れているうちに、芯はいつの間にか、廃校舎の敷地に足を踏み入れていた。
ロータリーを進み、昇降口に入って、土足のまま廊下に上がる。リノリウムの床はホコリと砂にまみれて、靴底越しにも、ざらざらとした質感が伝わってきた。
下駄箱を含め、校舎内はどこもかしこもひと回り小さく、それが芯の動悸を少し落ち着かせた。しかし、芯がなんとか話せるようになっても、奏太は握った手を離さないでいてくれた。
音楽室を探して、校舎全体を歩き回る。廊下から各教室を覗き、所々に残された小さな椅子や緑色の黒板を眺めていると、自然と自分の小学校時代が思い出された。
ロッカーの上の壁には、『将来の夢』と題した絵が飾られていた。クラスメイトの『将来の夢』を見ながら、世の中にはこんなにも、多種多様な夢があるのかと驚いたものだ。
「奏太の小さい頃の夢ってなんだった?」
学校という空間の圧にもだいぶ慣れ、ようやく少し余裕が出て、芯は問いかける。「ピアニスト」と即答した奏太を見て、芯は思わず吹き出した。
「ブレないなあ。しかもちゃんと、叶ってるし」
「そんなことないよ。まだまだ全然、できるようにならなきゃいけないことがいっぱいある」
まっすぐ前を見つめる瞳に、芯は思わず目を細めた。ああやっぱり、好きだなあと、妙に納得する。心臓がぎゅっと苦しくなって、つないだ手に力がこもる。
音楽室は、図工室や理科室が並ぶ三階の、一番奥にあった。ホコリっぽい部屋の中央には、奏太の読み通り、古ぼけたグランドピアノが鎮座していた。
奏太は音楽室の入口でやっと芯の手を離すと、カーペット敷きの床を駆け抜けて、慎重にグランドピアノの屋根を開けた。そのまま鍵盤側に回り込み、流れるように音階を奏でる。
「うん。だいぶ狂ってるけど、ちゃんと鳴るね」
奏太は満足気にうなずいて、ふいに斜め上に視線を向けた。そのまま芯に向けて手招きをし、「あれがお客さんだよ」と嬉しそうに言う。
芯は足早に奏太に近づき、顔を上げて苦笑した。入口側の壁の上方には、しかめっ面のベートーヴェンを筆頭に、音楽家たちの懐かしい肖像画がずらりと並んでいた。
じゃあ僕は、ここで座って見てるから。
部屋の隅からパイプ椅子を引っ張ってきて、奏太は芯の顔と手元が一番よく見える位置に座った。
「お辞儀して、演奏して、またお辞儀ね。僕がいつもやってるみたいに。それじゃあ、どうぞ」
いきなり言われて戸惑いながらも、芯は奏太に指示された通りに、ピアノの前でお辞儀をして椅子に腰かけた。目の前に広がる白黒の鍵盤が、なんだかいつもより大きく見える。
ボロボロの校舎に、古ぼけたピアノ。煌びやかなステージとはかけ離れたシチュエーションなのに、芯は今、人生で一番の緊張を感じていた。
奏太が毎日何時間も練習をする気持ちが、今ならわかるような気がした。複雑で繊細な動きを人前で完璧にこなすには、相当な鍛錬と、努力に対する自負が欠かせない。
やっぱり奏太はすごい。
そう思いながら、芯は意を決して、最初のポジションに手を置いた。奏太がいつもそうするように軽く息を吸い、そっと静かに、丁寧な動きで鍵盤を押し込む。
少し軋んだ、それでいて温かな音色につられて、目の前に湖が広がった。芯は指を動かしながら、驚きに目を瞠った。
音はまだ荒い。強弱も稚拙だ。それでも一拍目を弾いたあの一瞬、第二楽章の湖に、芯は意識を引き込まれた。
奏太は見てくれていただろうか。芯の描いた世界を、一緒に感じてくれていただろうか。
芯はつい、視線を動かして、客席の様子を探った。そして、パイプ椅子から立ち上がって歩いてくる奏太を見て、ひどく混乱した。
「……ごめん、やっぱり連弾で」
芯の右側に立った奏太が、小さくささやく。少し身をかがめて、高い音域で第二楽章を演奏し始める。
きらきらと輝く音色は、鍵盤の上を跳ね回って踊る子どものようだ。「芯が楽しそうだから、僕も弾きたくなっちゃった」という言い訳が、その音から聞こえてきた気がした。
人の発表会に乱入するなんて、奏太も大概、勝手じゃないか。
そんな文句が思い浮かぶ頃には、演奏への緊張はすっかり解けて、芯は知らぬ間に笑っていた。ユニゾンのメロディと、余白を彩る飾り音符。隣あった腕が触れるたび、胸の内に温かな喜びが咲く。
「なに笑ってんの」
芯につられて笑いながら、奏太がついに、普通の声で喋り出した。「別に?」と肩をすくめて返したら、左手の音を盛大に間違えた。
こんな好き勝手な演奏を聴いたら、ベートーヴェンはきっと、怒るだろう――それでいいのかもしれない。
怒られたら謝って、間違えたら訂正して。
そうやって少しずつ大人になった未来で、また彼と出会いたいと思う。逃げた先ではなく、選んだ居場所として。季節が巡っても、揺るぎなく共に在れるように。
「またいつか、会いにいってもいい?」
全て弾き終わった時、芯の頬は涙に濡れていた。演奏の楽しさと別れへの寂しさ、そこに未来への不安が入り混じって、どんな顔をすればいいのか、芯自身にもわからない。
そんな芯を見て、奏太は小さく笑った。困ったような、それでいてどこか嬉しそうな表情で目を細めて、芯の後頭部に手を伸ばす。
「うん。待ってる」
やがて離れた唇が、祈るようにつぶやく。その音色を、去り際の稲妻を、芯は今でもはっきりと覚えている。
刻一刻と過ぎていく時間が名残惜しくもあったけれど、レッスンをしている間は、別れへの寂しさを感じる余裕など毛ほどもなかった。新しいことを覚え、できるまで練習するだけで、毎日頭も体もへとへとだった。
そうやって日々を重ね、芯がようやっと奏太から及第点をもらえる演奏ができたのは、母が迎えに来る日の前日だ。練習後、客間でサンドイッチをご馳走してもらった芯は、意を決して奏太に声をかけた。
「ついてきてほしいところがあるんだ」
突然の誘いに、奏太は最初、戸惑っていた。しかし、じっと自分を見つめる芯の表情から並々ならぬ緊張を感じ取ったのか、結局は行き先も聞かずにうなずいてくれた。
戸締まりだけ済ませて、二人は五分もしないうちに洋館を後にした。屋敷のわき道から県道に出て、寒空の下のアスファルトを、落ち葉を踏みながら登っていく。
吹きつける風に、冬のにおいを感じた。ここを離れた冬。奏太がいない冬。自分はなにをしているだろう。自分はどうやって、生きていけばいいんだろう。
「俺さ、多分、生きて、色々なものが積み上がっていくことが、ずっと怖かったんだ」
芯のつぶやきに、奏太はただ「うん」と答えた。前を歩く芯からは、その顔は見えない。それでも、振り返らずとも、すぐ後ろから聞こえる温かい足音が、芯の言葉をしっかりと受け止めた。
「でも、奏太にピアノを教わって、できることが増えるのは嬉しかった。ピアノに真剣な奏太を格好いいと思ったし、自分もそんな風に、なにかにまっすぐ向き合えたらって思ったんだ」
未来に怯え、身動きが取れなくなっていた芯に、世界の彩りを思い出させてくれたのは奏太だ。奏太とピアノを弾いている間は、容赦なく押し寄せてくる未来など忘れて、今この時だけを考えていられるような気持ちになった。
本当はずっと、このまま、二人だけの洋館で生きていたい。でもきっと、世界はそれを許さない。時は流れ、季節は移ろい、芯たちは大人になっていく。
そしてなにより、他でもない奏太自身が、新しい未来に向かって羽ばたこうとしているのだ。本気でそばにいたいと思うのなら、芯だけがここで足踏みしているわけにはいかない。怖くても苦しくても、きちんと前に進まなければならない。
緩やかなカーブを登りきると、道の先に大きな建物が姿を現す。高いところに掲げられた、教育施設特有のアナログ時計を見て、芯は音をたてて唾を飲み込んだ。
二か月半前にここを訪れた時には、足がすくんでこれ以上近づくことができなかった。それがなぜか、今ならわかる。
学校は、意味や理由を求められる場所だ。第一希望から第三希望までの三つの空欄に、長い長い人生を当てはめなければいけない場所。生きていく術を身につけるために、「皆と同じ」を学ぶ場所。
芯にとって、学校はいつの間にか、息苦しい灰色の未来の象徴になってしまっていた。
心のままに生きられないことが怖い。一つのことを続けなければならないことが怖い。そうやって定まっていくことが怖い。可能性を引き剝がされ、つまらない大人になっていく自分が怖い。
「芯」
青ざめた顔で立ち尽くす芯の顔を、奏太が覗き込んだ。心配そうな表情のまま廃校舎を指差し、「芯の行きたい場所ってここ?」と首を傾げる。
「うん。そう」
「大丈夫? 冷汗すごいけど」
「駄目かも」
芯はつい、弱気になってうつむいた。奏太と一緒なら、この校舎にも入ることができるかもしれないと思っていたが、やはりまだ自分には難しいのかもしれない。
不確かでわずかな期待だったとはいえ、芯の心を、じわじわと落胆が支配する。この廃校舎に入れないということは恐らく、東京に戻っても、学校には行けないということだ。
不登校になったと気づいたばかりだった、九月の一ヶ月間を思い出す。気晴らしもできず、ただ時間だけが過ぎていく日々がまたやってくるのかと思うと、胃の辺りが締めつけられたように痛くなる。
今にもしゃがみ込みそうな芯の隣で、奏太はじっと、なにかを考えていた。黒髪から覗く顔は、ピアノを弾いている時と同じくらい真剣な表情だ。
「芯」
数十秒後、考えがまとまったのか、奏太はようやく口を開いた。
「発表会をしよう」
わざとらしくおどけた口調と、耳慣れない単語の響きに、芯は思わず視線を上げた。ぽかんと口を開けたまま拍子抜けする芯に、奏太はしたり顔で言葉を続けた。
「あれは多分、小学校だよね? 音楽室に行って、もしピアノがあったら、そこで発表会をしよう。せっかく第二楽章を弾けるようになったのに、僕が聴くだけじゃもったいない」
え、と戸惑う芯の腕を、奏太は強引に引っ張った。頑なに動かなかった右足が、傾いた体を支えるために、一歩踏み出す。バランスを取るために、二歩、三歩、と足取りが続く。
「発表会って言ったって、奏太以外に誰が聴くんだよ」
足が動いても、動悸は激しいままだ。弱々しく抵抗を試みる芯を振り返って、奏太は心の底から楽しそうな、晴れやかな表情で笑ってみせた。
「ベートーヴェン先生だよ」
黒い瞳に、稲妻が駆ける。網膜を焼いたその閃光に見惚れているうちに、芯はいつの間にか、廃校舎の敷地に足を踏み入れていた。
ロータリーを進み、昇降口に入って、土足のまま廊下に上がる。リノリウムの床はホコリと砂にまみれて、靴底越しにも、ざらざらとした質感が伝わってきた。
下駄箱を含め、校舎内はどこもかしこもひと回り小さく、それが芯の動悸を少し落ち着かせた。しかし、芯がなんとか話せるようになっても、奏太は握った手を離さないでいてくれた。
音楽室を探して、校舎全体を歩き回る。廊下から各教室を覗き、所々に残された小さな椅子や緑色の黒板を眺めていると、自然と自分の小学校時代が思い出された。
ロッカーの上の壁には、『将来の夢』と題した絵が飾られていた。クラスメイトの『将来の夢』を見ながら、世の中にはこんなにも、多種多様な夢があるのかと驚いたものだ。
「奏太の小さい頃の夢ってなんだった?」
学校という空間の圧にもだいぶ慣れ、ようやく少し余裕が出て、芯は問いかける。「ピアニスト」と即答した奏太を見て、芯は思わず吹き出した。
「ブレないなあ。しかもちゃんと、叶ってるし」
「そんなことないよ。まだまだ全然、できるようにならなきゃいけないことがいっぱいある」
まっすぐ前を見つめる瞳に、芯は思わず目を細めた。ああやっぱり、好きだなあと、妙に納得する。心臓がぎゅっと苦しくなって、つないだ手に力がこもる。
音楽室は、図工室や理科室が並ぶ三階の、一番奥にあった。ホコリっぽい部屋の中央には、奏太の読み通り、古ぼけたグランドピアノが鎮座していた。
奏太は音楽室の入口でやっと芯の手を離すと、カーペット敷きの床を駆け抜けて、慎重にグランドピアノの屋根を開けた。そのまま鍵盤側に回り込み、流れるように音階を奏でる。
「うん。だいぶ狂ってるけど、ちゃんと鳴るね」
奏太は満足気にうなずいて、ふいに斜め上に視線を向けた。そのまま芯に向けて手招きをし、「あれがお客さんだよ」と嬉しそうに言う。
芯は足早に奏太に近づき、顔を上げて苦笑した。入口側の壁の上方には、しかめっ面のベートーヴェンを筆頭に、音楽家たちの懐かしい肖像画がずらりと並んでいた。
じゃあ僕は、ここで座って見てるから。
部屋の隅からパイプ椅子を引っ張ってきて、奏太は芯の顔と手元が一番よく見える位置に座った。
「お辞儀して、演奏して、またお辞儀ね。僕がいつもやってるみたいに。それじゃあ、どうぞ」
いきなり言われて戸惑いながらも、芯は奏太に指示された通りに、ピアノの前でお辞儀をして椅子に腰かけた。目の前に広がる白黒の鍵盤が、なんだかいつもより大きく見える。
ボロボロの校舎に、古ぼけたピアノ。煌びやかなステージとはかけ離れたシチュエーションなのに、芯は今、人生で一番の緊張を感じていた。
奏太が毎日何時間も練習をする気持ちが、今ならわかるような気がした。複雑で繊細な動きを人前で完璧にこなすには、相当な鍛錬と、努力に対する自負が欠かせない。
やっぱり奏太はすごい。
そう思いながら、芯は意を決して、最初のポジションに手を置いた。奏太がいつもそうするように軽く息を吸い、そっと静かに、丁寧な動きで鍵盤を押し込む。
少し軋んだ、それでいて温かな音色につられて、目の前に湖が広がった。芯は指を動かしながら、驚きに目を瞠った。
音はまだ荒い。強弱も稚拙だ。それでも一拍目を弾いたあの一瞬、第二楽章の湖に、芯は意識を引き込まれた。
奏太は見てくれていただろうか。芯の描いた世界を、一緒に感じてくれていただろうか。
芯はつい、視線を動かして、客席の様子を探った。そして、パイプ椅子から立ち上がって歩いてくる奏太を見て、ひどく混乱した。
「……ごめん、やっぱり連弾で」
芯の右側に立った奏太が、小さくささやく。少し身をかがめて、高い音域で第二楽章を演奏し始める。
きらきらと輝く音色は、鍵盤の上を跳ね回って踊る子どものようだ。「芯が楽しそうだから、僕も弾きたくなっちゃった」という言い訳が、その音から聞こえてきた気がした。
人の発表会に乱入するなんて、奏太も大概、勝手じゃないか。
そんな文句が思い浮かぶ頃には、演奏への緊張はすっかり解けて、芯は知らぬ間に笑っていた。ユニゾンのメロディと、余白を彩る飾り音符。隣あった腕が触れるたび、胸の内に温かな喜びが咲く。
「なに笑ってんの」
芯につられて笑いながら、奏太がついに、普通の声で喋り出した。「別に?」と肩をすくめて返したら、左手の音を盛大に間違えた。
こんな好き勝手な演奏を聴いたら、ベートーヴェンはきっと、怒るだろう――それでいいのかもしれない。
怒られたら謝って、間違えたら訂正して。
そうやって少しずつ大人になった未来で、また彼と出会いたいと思う。逃げた先ではなく、選んだ居場所として。季節が巡っても、揺るぎなく共に在れるように。
「またいつか、会いにいってもいい?」
全て弾き終わった時、芯の頬は涙に濡れていた。演奏の楽しさと別れへの寂しさ、そこに未来への不安が入り混じって、どんな顔をすればいいのか、芯自身にもわからない。
そんな芯を見て、奏太は小さく笑った。困ったような、それでいてどこか嬉しそうな表情で目を細めて、芯の後頭部に手を伸ばす。
「うん。待ってる」
やがて離れた唇が、祈るようにつぶやく。その音色を、去り際の稲妻を、芯は今でもはっきりと覚えている。