二日後、芯が洋館を訪れると、奏太はベートーヴェンのピアノソナタ第八番を弾いていた。少し早歩きでここまでやって来た芯は、乱れた息のままその場に立ち尽くした。
奏太のピアノが変わったような気がしたのだ。どこか几帳面な印象だった演奏にいい意味でのゆとりが生まれ、曲への想いや愛情が素直に伝わってくる音が鳴っている。
最近、閉まっていることの方が多い窓からは、白いワイシャツの背中がちゃんと見えた。それでも芯は、あれは本当に奏太なのだろうかと疑ってしまう。
「来てたんだ。ごめん、気がつかなくて」
奏太に声をかけられて初めて、芯は演奏が終わっていたことに気がついた。慌てて駆け寄り、奏太が開けてくれた窓から、室内に足を踏み入れる。
「お邪魔します」
発した声がいつもより硬いことに、自分で気づく。たった二日来なかっただけなのに、がらんと広いピアノ部屋は、芯の目にひどくよそよそしく映った。
「飲み物持ってくるから、少し弾いて思い出してて。寒いからあったかいのにしよう。紅茶は飲める?」
部屋の入り口で振り返った奏太に、芯は咄嗟にうなずいた。よかった、と笑って、奏太は小走りで部屋を出ていった。
後ろ手で窓を閉め、芯はゆっくりとピアノに近づく。二日ぶりに腰を下ろしたピアノ椅子の座面は、クッション性が高すぎて落ち着かない。
恐々と鍵盤に触れ、練習を始めた芯は、動きのぎこちなさに愕然とした。指が動きにくいだけではなく、できていたはずのところや、覚えていたはずのところが、なぜか上手く弾けなくて止まってしまう。
どうして、と考え出したら、さっと血の気が引いて、よけいに練習どころではなくなった。体が一気に冷たくなって、混乱と焦りが、急速に芯の胸を蝕んでいく。
「大丈夫?」
ティーカップを持って戻ってきた奏太が、ピアノの前で呆然とする芯に、声をかける。芯は奏太の方を振り返って、「全然弾けないんだ」と訴えた。
「今まで弾けてたところまで弾けなくなってる。どうしよう、奏太がせっかく教えてくれたのに」
労力を積み重ねて身につけたことができなくなるのは、芯の心にかなり堪えた。進路希望調査票をもらった時と同じ、足場をごっそり奪われたような不安感が、芯の動悸をさらに激しくする。
労力だけの問題ではない。芯にはもう、時間がないのだ。既にさらったところから復習していたら、第二楽章を教わり切らないうちに、あっという間に二週間が過ぎてしまう。
「それなら大丈夫。ちゃんと、何回か弾くうちに思い出せるから」
奏太はしかし、芯をなだめるように柔らかく言って、紅茶を差し出した。芯はゆっくりと顔を上げ、カップを受け取る。焦っていた気持ちが、陶器ごしの温かさで少しだけ和らぐ。
奏太いわく、久しぶりにピアノを弾く時は、先ほどの芯のように上手く弾けないことも多いらしい。ピアノ演奏は繊細なコントロールを必要とするので、少しの感覚のズレが大きな違和感となって、演奏者の意識を乱すのだ。
十分ほどかけて紅茶を飲んでから、芯は練習を再開した。忘れてしまったところは奏太に手伝ってもらいながら思い出し、新しいところはやはり、十分集中しては休憩してを繰り返して、少しずつ少しずつ曲を進めていく。
レッスンの間、奏太は終始、機嫌がよさそうだった。いつその顔を盗み見ても、口元には薄い笑みが浮かんでいて、そこから紡ぎ出される言葉たちにも、肩の荷が下りたような穏やかさがあった。
「なにかいいことあった?」
一区切りついたタイミングで声をかけると、鍵盤から顔を上げた奏太が、「なんで?」と問うてくる。芯は正直に「嬉しそうだから」と答え、黒い瞳を見返した。
「俺がここに来た時のベートーヴェンも、いつもとなんか違ったから」
芯の言葉に、奏太はぱっと目を見開いた。その表面を一瞬、稲妻の黄色が走り、小さな唇が、心から嬉しそうにほどける。
「レッスンでこの前のショパン弾いたら、変わったねって言われた。音に余裕が出て、聴かせる演奏ができるようになってきたって。ずっと悩んでたことだから、できるようになってきたことが嬉しくて」
なんの含みもひねりもない、純粋な喜びが、滑らかな頬を彩っていた。それに気づいた途端、芯の胸は、ぎゅっと掴まれたように苦しくなる。奏太が喜んでいて嬉しいはずなのに、心の奥の方で、暗く冷たい感情が渦巻いている。
「よかったね」
それでも芯は、平静を装って相づちを打った。そして、返ってきた言葉の意外さに、ぱちくりと目をしばたたいた。
「うん。芯のおかげ」
「俺の?」
「そう。芯のこと考えながら弾いたんだ」
「え、」
心臓が跳ねる。じっと顔を見つめると、奏太は照れくさそうに視線を逸らした。
「僕自身はやっぱり、曲のイメージとかはよくわからないから、芯だったらどう感じるかなって想像してみた。芯にどう感じてもらえたら嬉しいかなって、考えながら弾いてみたんだ」
芯がなにか答えるよりも先に、奏太は扉に向かって踵を返した。「お昼にしようか」とつぶやいて歩き始めたので、芯は戸惑いながらも立ち上がり、奏太の細い背を追った。
素人の自分が本当に奏太の役に立てたかどうかなど、芯にはわからなかった。奏太の長年の努力が実を結んだタイミングで、たまたま自分がそばにいただけなのではないだろうか。
それでも、奏太が今、なにか大きな壁を乗り越え、成長したのだということだけは、痛いほどよく伝わってきた。胸の奥の暗く冷たい感情が大きくなったことに気がついて、芯は客間の入口で立ち止まった。
ぼんやりと目の前の光景を見つめる。自分を置いてキッチンへ進む背中と一緒に、色々なものが遠ざかっていくような心地になる。
奏太もピアノも、学校も将来も、秋が去るのと同じように、思い出だけ残して消えていく――ひとり取り残された枯れ枝の庭は、きっととても寒い。
ウェーブがかった黒髪がキッチンへと消える直前、芯は勢いよく足を踏み出して、近づいた細い背を強く抱きしめていた。鼻先を肩に埋めて縋りつくと、奏太が息をのむのがわかった。
「芯――」
小さな頭を無理矢理引き寄せて、自分の名を呼ぶ唇を強引に奪う。無理な体制を強要したせいで、奏太の顔が苦しげに歪んだ。芯は一度唇を離し、奏太の華奢な体を腕の中で回して、今度は正面から口づける。
柔く軽い感触ではすぐに物足りなくなって、緩く開いた隙間から舌を差し込んだ。初めて味わう他人の口内はひどく温かく、それが心地よくて、なのに心ばかりがずっと寒くて、輪郭を包む両手につい力がこもる。
右手を滑らせて背をなぞり、細い腰を抱く。奏太は思いの外大きな動きで肩を震わせた。目の前の肢体を手放したくなくて、芯は奏太を客間まで引き戻し、二人がけのソファに押し倒した。
「奏太」
荒い呼吸のまま呼びかけると、熱に浮かされて潤んだ瞳が、戸惑ったような表情で芯を見上げていた。第一ボタンの空いたワイシャツの胸が、自分と同じ速さで上下していた。
「芯」
衝動の名残を多分に残したまま、小さな唇が震える。こめかみにはうっすらと汗がにじんでいて、襟元からは長い首が無防備に伸び、白くて滑らかな肌をさらしている。
このまま奪って、閉じ込めて、自分のものにしてしまいたかった。でもそれがどこまでも身勝手な欲望だということを、芯はちゃんと知っていた。
自分の傷が癒えないからといって、羽ばたく相手を引き止めるのは違う。一人取り残されるのが怖くても、奏太と奏太の夢だけは、きちんと手放して送り出さなければならない。
「好き」
絞り出した声が震える。「好きだ」ともう一度言って、奏太の顔を見返した瞬間、目の縁から涙がこぼれた。
「本当はずっと一緒にいたい。ドイツにだって帰らないでほしい。上なんて目指さないで、今の奏太の演奏でいいから、俺のためだけにピアノを弾いてほしい」
眼下の白い頬が、いくつもの水滴で濡れていく。長い長い沈黙の間、艶やかな黒い瞳は、ひと時も逸らされることなく芯を見つめていた。
「僕は、ピアノが一番なんだ」
やがて話し始めた奏太は、寂しそうな顔で笑っていた。
「ずっとそれだけを考えて生きてきた。上手くいく時も、上手くいかない時もあるけど、僕の人生の中心はピアノだ。だからそれ以外のことには構っていられない。誰かを一番にすることなんてできない」
その言葉に、予感は確信へと変わる――本当は気づいていた。キスをするのはいつも自分からで、奏太はただ、拒まずにそれを受け入れるだけだった。
逃れようのない事実を突きつけられて、気持ちが急いた。「二番目でいいから」と訴えると、間髪入れずに言葉が返ってくる。
「僕が駄目なんだ。芯を好きになったら、日本に残りたくなっちゃうだろ。好きな人に会わなくても平気なほど、僕は器用な人間じゃない」
芯の頬に、ワイシャツの腕がするりと伸びてくる。長い指に目尻を撫でられ、恐る恐る視線をやると、奏太は困ったように眉尻を下げて微笑っていた。
「ごめんね、芯」
まぶたを伏せて上半身を起こした奏太は、音もなくひっそりとソファを抜け出した。乱れたワイシャツを整えて、今度こそキッチンへと消えていく。
冷蔵庫を開ける音が聞こえ、中身を漁る気配があった。芯はよろめきながら立ち上がり、キッチンと客間の境から、奏太に声をかけた。
「俺、あと二週間で東京の家に帰るんだ」
カッティングボードを準備していた奏太の手が、ほんの一瞬、動きを止める。すぐに再開して、脇に置いてあったトマトを、規則正しい動きで輪切りにしていく。
「わかった。ピアノの方はもう一息ってところまできてるから、心配しないで大丈夫。気を抜かないで頑張ろう」
淡々と返されて、ただうなずくことしかできなかった。うなずいた直後、またもや涙がこぼれそうになって、芯は考えるよりも先に洋館を飛び出していた。
まぶたの内側がほの明るくなり、芯はゆっくりと目を開けた。ぼんやりと見えた自室は荒れ放題に荒れている。
起きて、掃除をしなければ。
わかっていても起き上がる気にはならず、芯は枕を引き寄せて、もう一度目をつむる。部屋の明るさ的に、もう昼過ぎだ。
いつもだったら、サンドイッチを食べようと奏太に誘われるくらいの時間だろうか。しかし今日は、空腹は感じても、なにかを食べる気持ちにはならない。
洋館を飛び出してから今日までの四日間、胃のあたりで、強く握られたような痛みが続いている。その間ずっと、芯は奏太に会っていない。
会いたい気持ちはあるのに、体が動かないのだ。自分の体が思い通りに動かない様子は、まるで学校に行けない日の朝のようだった。
自分が突然来なくなって、奏太はどう思っているだろうか。
フラれたくらいでピアノを諦める、根性なしだと思われただろうか。
ごめんね、と謝られた時の、困ったような笑顔が、脳裏に焼きついて離れない。ピアノのことも奏太のこともまだ好きなのに、あの表情を思い出すと、一歩踏み出すのがたまらなく怖くなる。
迷い、悩んでばかりの自分とは全く違う、強い意志の宿った瞳だった。奏太は奏太なりに、色々なことを考え、乗り越えて、ああ言ったのだろうと芯は思った。
だったらもう、会わない方がいいのではないか――奏太が決めた未来の邪魔をしないために。自分が寂しさで押しつぶされないために。
俺は三日坊主だから大丈夫、と、芯は自分に言い聞かせた。ピアノを弾きたいと思う気持ちも、奏太の柔らかい唇を恋しく思う気持ちも、ただ一時の衝動にすぎないはずだ、と。
この苦しさも、時が経てば、きっと綺麗さっぱり割り切ることができる。今までずっと、色々なものに興味をもっては、すぐに飽きて忘れてきたように。
母が迎えに来る日が、今となっては待ち遠しかった。ここにいる限り、自分は奏太に会いたくなってしまうから。
ままならない現実から目を逸らそうと、芯は強制的に、自らの思考を停止させた。どうせ自分には、予定などないのだ。寝れるだけ寝てやろうと、意味もなく開き直ってみる。
夕方、玄関の外から物音が聞こえてきて、芯は目を覚ました。じっと耳を澄ませると、一人分の足音に続いて、扉の開く音がした。
母かもしれない、と思い至り、芯は飛び起きた。荒れ放題の自室と同じく、一階もなかなかに酷い有様なのだ。母に見られたら、何時間お説教されるかわかったものではない。
芯は自室を出て階段を下り、気配を追ってキッチンへと向かった。短い廊下を進むと、ビニール袋同士が擦れる音が、部屋の中から聞こえてくる。
雷が落ちるのを覚悟して覗いた芯はしかし、そこにいた人物を見て目を丸くした。
「じいちゃん……?」
半信半疑の芯の呼びかけに、赤いチェックのシャツを着た、少し丸まった背中が振り返る。祖父は芯の姿を認めると、目元のシワを深くして懐かしそうに笑った。
「よう、芯。大きくなったなあ」
想像以上に親しげな声が返ってきて、芯は内心戸惑った。目を泳がせつつ、とにかくなにか反応しなければと思い、「ああ」とか「まあ」とか曖昧に返事をしてうなずいてみる。
祖父と最後にまともに話したのは、小学校低学年の頃だっただろうか。
七歳の時に祖母が亡くなってから、祖父とはめっきり疎遠になった。今も、「この家の鍵を持っている老人」という条件で脳内を検索して、目の前のこの人間を祖父だと思っただけである。
名乗る間もなく「芯」と呼ばれたことで、彼が本当に自分の祖父だということを、今ようやく信じたくらいだ。それほどまでに、芯の幼い頃の記憶は朧げだった。
「じいちゃんはあと一週間くらいは帰ってこないって、母さんから聞いたんだけど」
母の言葉を思い出して、芯はおずおずと尋ねる。聞いた話の通りにいけば、自分は祖父と入れ替えで東京の家に帰る予定だったはずだ。
「明日から一週間は、関西の友だちに会ってくるからなあ。宿代わりに、今日だけここに戻ってきたんだ。俺のことは構わなくていいぞ、芯」
そんなことを言われても、いくら身内とはいえ、これだけ交流がなければ他人も同然だ。しかも自分は、居候としてこの家に住まわせてもらっている立場なわけで。
困ったそばから、シワだらけの手が冷凍食品やカップラーメンのゴミを片づけていることに気がついて、芯は慌てて祖父の元へ寄った。
「ごめん、散らかして」
「ん? いい、いい。男なんてこんなもんだ」
「でも」
「じゃあ、風呂沸かしてきてくれや。飛行機乗ったら、体が痛くて敵わん」
そう言う祖父の手は、手伝う隙もないほどテキパキと動いている。仕方がないので、芯はキッチンを出て風呂場へ向かった。
普段はシャワーで済ませているのもあって、この家の浴槽をまじまじと覗き込むのは初めてだった。ホコリや水垢で汚れていて、とてもじゃないが、そのまま使える状態ではない。
掃除をしてからお湯を溜めることに決めた芯は、シャワーで全体をざっと濡らし、浴槽内の手すりに吊るしてあった洗剤とスポンジを手に取った。
スプレーで泡を吹きかけて、端から順に擦っていく。小さな浴槽とはいえ、頑固な汚れを取ろうと力を込めれば、少し汗をかくくらいには体力を使った。
不登校の判明から約二ヶ月半、こんなに集中して体を動かしたのは久しぶりだった。単純作業に没頭することで、寝過ぎでぼんやりとしていた意識がはっきりしてくる。
最後に泡を流すと、浴槽は見違えるほど綺麗になっていた。栓をして給湯器のボタンを押し、ささやかな達成感を覚えながらキッチンに戻ると、祖父は調理台でニンジンを切っていた。
「風呂、やってきたけど」
「おお、ありがとさん。夕飯、芯も食べるだろ」
恐る恐る覗き込むと、流しに溜まっていた箸やグラスは全て洗われ、水切りカゴに並べられていた。軽く磨いたのか、ステンレスのシンクも、部屋の灯りを反射して光っている。
「ごめん、じいちゃん。なんか他にやることある?」
ぐうたらの後始末をさせた上、夕食まで作らせてしまったとなれば、さすがにいたたまれない気持ちになった。自分一人ならいくらでもだらしなくするが、高校生にもなって身の回りのことを人にやらせるのは、ずいぶんと憚られた。
「大丈夫だから座っとき。そんな大したもんは作っとらん」
芯の訴えも虚しく、祖父はやはり、手出しのしようがないほどの手際のよさで、冷蔵庫から出した豚肉をフライパンに入れた。芯は諦めて、言われた通りキッチンの椅子に座り、料理の完成を待った。
五分ほどで完成したのは、シンプルな肉野菜炒めだった。祖父が肉野菜炒めを皿に盛っている間、芯は二人分の茶碗に白米をよそって、箸と飲み物を準備した。
母の作る料理よりはだいぶ簡素な夕食だが、久しぶりにレトルト以外の食材の匂いをかいで、芯の腹はにわかに空腹を訴えた。今度こそ、「食べたい」という明確な欲求を伴う、正真正銘の空腹感だ。
祖父と向かい合わせで座り、同時に手を合わせて「いただきます」と唱える。手に取った箸は、自然と中央の大皿に伸びた。豚肉とキャベツを同時に口に含んで、芯は思わず「おいしい」とつぶやく。
味がしっかりとついていて、胡椒の効き加減も絶妙だ。白米をかき込む芯を見て、祖父は嬉しそうに前歯を見せた。
「よかったよかった。芯は昔っから、これが好きだからなあ」
祖父の言葉に驚いて、芯は茶碗から顔を上げる。「俺、前にもこれ食べたことあるの?」と尋ねると、祖父はもちろんとうなずいた。
「お前が小学校に上がる前までは、 奈美恵はよくうちに来てたからな。ばあさんがいない時なんかは、俺が昼飯作ってやったんだぞ」
そんなこともあったのか、と芯は驚く。祖父といえば疎遠、というイメージが強すぎて、自分はどうやら、予想以上に色々なことを忘れているらしい。
「俺ってどんな子どもだった?」
好奇心から問いかけると、祖父は懐かしそうな表情で口を開く。
「芯は珍しい物があるとすぐに飛びついて、そのくせすぐに飽きてグズってたぞ」
ベビーベッドの上のモビール。新しいブランケット。見たことのない遊具。初めてやる遊び。初めて出会う人。
幼い芯はなんにでも興味を持つ子どもで、いつも目をきらきらと輝かせて動き回っていたそうだ。子どもらしい代わりに落ち着きもなく、興味の対象がころころ変わるので、母は当時から、芯の将来を案じていたらしい。
「こんなに飽きっぽくて大丈夫かしら、ってな。そんなこと今から心配したって仕方ねえだろって俺は言ってやったけど、あいつも昔っから、心配性だからなあ」
三つ子の魂百までってやつだ、とつけ加えて、祖父は豪快に笑った。「どうだい、奈美恵は元気かい?」と尋ねられて、「元気だよ」と答える。「相変わらず細かいか?」と聞かれて、芯は思わず沈黙する。
「はは、お前、いい子に育ったなあ」
芯は妙にくすぐったい気持ちになった。幼稚園児に向けられるような微笑みで見つめられるのは、ごく一般的な男子高校生としては、気恥ずかしいことこの上ない。
「そんなことない。母さんが心配した通りだ。俺、これから先やっていける自信とか、全然ないし」
照れ隠しついでに吐いた弱音は、予想以上に深刻な雰囲気をまとっていた。不登校になってから二ヶ月半、じめじめグルグル考えた結果を目の当たりにして、胃の辺りが再び痛み始める。
すっかりうつむいてしまった芯を前に、「ずいぶん弱気だな」と祖父は苦笑した。
「学校、行けてないって聞いたぞ。いじめか?」
この家を借りる話をした際に、祖父は母から、芯に関するだいたいの事情を聞いているはずだ。それでも尋ねてくるのは、芯の言葉を引き出して、相談にのろうとしてくれているからだろうか。
「違うよ。そうだったら楽だなって思ってるくらい」
祖父が意外そうに片眉を上げる。それに促されて、芯は箸を動かす手を止めた。視線を落として、テーブル中央の肉野菜炒めを見つめながら、ぽつぽつと言葉を落とす。
「なんで学校に行けないか、自分でもずっとわからないんだ。だけど母さんは、学校に行けない理由とか、どうやったら行けるようになるのかとか、すごい聞いてくるから。わかりやすい理由があれば、色々問い詰められなくて楽だなって……こんなこと、思っちゃいけないのもわかってるけど」
芯がそう打ち明けても、祖父は怒らなかった。
「まあ芯は、昔から自由だからな。ただでさえ人間なんて、自分のことなんか全然、わかっちゃいないんだから」
そう答えたきり、祖父はまた自分の食事に戻っていった。静かに米や肉を咀嚼する祖父に合わせて、芯も黙々と自分の食事を続けた。
塩胡椒の味や野菜の歯ごたえに集中していると、ここ数日の悶々とした気持ちが、少し落ち着いていく。ちゃんとご飯を食べるって大事なんだと感心してから、奏太はなにをしているだろうかと考えた。
奏太はもう、夕食は食べただろうか。それともまだ、粘ってピアノを弾いているのだろうか。
ギムナジウムの勉強って、日本の高校とどう違うのだろう。あの洋館の風呂はやっぱり、浴槽はなくてシャワーだけなのだろうか。
せっかく好きになったのに、そんなささいなことすらわからない。ずっと、自分のことばっかりだったな、と気づけば、芯の胸はきりりと痛む。
ピアノが上達したことを、奏太は「芯のおかげ」と言った。けれど、そんなのはやっぱり違うと、芯は思う。
自分は本当に、ただ好きなように振舞っただけだ。奏太の演奏をすごいと思ったからそう伝えた。ピアノや奏太を好きだと思ったから、足繫くあの洋館に通ったし、励ましたり協力したりしたいと思った。
むしろすごいのは――そんな芯を受け入れ、ピアノまで教えてくれたのは、他でもない奏太だ。
なのに自分は、まだ感謝の気持ちすら伝えていない。勝手に告白して、勝手に傷ついて、せっかく教えてもらったピアノさえ、中途半端なまま放り出して逃げ出した。
母のことを言えないくらい、自分は奏太に対して身勝手だった。そう気づいたとたん、喉の奥がぐっと詰まって、体温が急激に下がっていく。
俺はなんて駄目な人間なんだろう。
落ち着いて冷静になった頭でしみじみと考えてしまい、芯は大きくため息をついた。そんな芯の様子を見て、祖父は興味深々といった視線をよこす。
「なんだ、恋煩いか」
「えっ? ち、違うよ」
咄嗟に否定した芯に、祖父はにやにやと笑いかける。「男同士だろ。遠慮するなよ」と嬉しそうに言って、グラスに注いであった水を一気に飲み干した。
「いいか、芯。人生も恋愛も、楽しんだもん勝ちなんだ。生きてく上で一番やっちゃいけないことって、芯は知ってるか?」
突然問われ、芯は首を横に振った。そんな芯を見て、祖父はくつくつと愉快そうに笑うと、確信に満ちた口調で言い切った。
「できない理由を考えることだ」
少し白みがかった黒目が、芯の姿をじっと見つめていた。その目にはもしかしたら、芯には見えない色々なものが、鮮明に映っているのかもしれない。
学校に行けない理由を考えるんじゃなくて、学校に行きたくなる理由を作ること。
アプローチできない理由を考えるんじゃなくて、好きだと思った気持ちを大事にすること。
「そうやって生きていかないと、人生はできないことだらけになっちまう。そんなのお前、耐えられないだろ」
出口のない暗闇に、ひと筋の光が差す。思わず顔を上げると、目が合った祖父は少しはにかんで、「まあ全部、ばあさんの受け売りだけどな」と付け加えた。
「死に際に言ってたんだ。もっとああしたかった、こうしたかったって。だから俺は、ばあさんができなかった分まで、今自由にさせてもらってる」
全然かまってやれなくて悪いな。応援してるから、まあせいぜい頑張れや。
祖父はそう言って、自分の食器を流しに置くと、風呂に入ると宣言してキッチンを出ていった。すれ違いざまに二度、頭をぽんぽんと撫でられて、芯は小さな頃の記憶を思い出した。
――バスに揺られていた。隣には祖父が座っていた。つり革や手すりの煌めきに目を奪われ、振動に体を揺らし、乗り降りする人々の服装や仕草を楽しんだ。
バス停を告げるアナウンスが、芯の耳を心地よく撫でる。思えば昔は、今よりもっと、世界には音があふれていた。低い走行音や後ろの席から聞こえる異国の言葉だけで、わくわくと胸が躍る時代があった。
道行く大人の真似をしては、なんにでもなれたような気がしていた。夢は無限に広がっていて、世界は芯を愛していた。
きっと世界は、あの頃も今も変わらない。先に裏切ったのは芯の方だ。意味や理由にとらわれて、そうしなければならないと思い込んで。
芯は唇を引き結んで、食べかけの夕食を見つめた。しばらくそうしてから、もう一度箸を持ち、米と肉と野菜を順番に口に運んでしっかりと噛む。
程よい塩味が味蕾を刺激し、胡椒の香りが、すっきりと鼻腔を通り過ぎた。その感覚と一緒に、頭の中に立ち込めていた霧が、少しずつ晴れていくような心地になる。
芯は残りの肉野菜炒めと白米を食べきってから、きちんと皿洗いをして風呂に入った。その日の夜は久しぶりに、夢も見ずにぐっすりと眠ることができた。
翌朝早く、次に帰ってくるのは一週間後だと言い残して、祖父は関西へと旅立っていった。いきいきとした笑顔を見送ってから、芯は自室の窓を開け放ち、部屋の掃除を始めた。
冷たい風が吹き込んで、体が震える。それでもかまわずに、芯は机の上に積みっぱなしの漫画本やゲームを段ボール箱に戻し、食べ散らかしたお菓子のゴミを捨て、掃除機をかけた。
部屋を綺麗にした後は、いつも通りに食パンを食べて、芯は家を出た。吹きつける風の冷たさに、出掛けに羽織ったジャンパーの襟元を引き寄せる。
目指すのはもちろん、奏太の過ごす洋館だ。
学校に行けない理由を考えるんじゃなくて、学校に行きたくなる理由を作ること。アプローチできない理由を考えるんじゃなくて、好きだと思った気持ちを大事にすること。
昨日聞いた祖父の言葉が、丸まった芯の背中を押した。奏太と自分を比べては、すっかり落ち込み、萎縮していた心が、少しだけ弾力を取り戻して芯の体を動かした。
学校のことも、奏太のことも、なにが正解かなんてわからない。相変わらず不登校の原因は不明だし、そんな自分が奏太の近くにいたいと思うのは、ずいぶんと迷惑な願いなのかもしれない。
でも少なくとも、芯が奏太を好きな気持ちは、紛れもなく本当だった。
初めて彼の音を聴いた時の稲妻が、今も芯の体を震わせている。そのためだけに、どんなことでもできるような気持ちになる。
急にレッスンに行かなくなったことを謝りたい。ベートーヴェンの第二楽章を最後まで弾けるようになりたい。そうしてちゃんと、お礼を言って、もう一度好きだと伝えたい。
身勝手な芯に、奏太は愛想をつかして、取り合ってくれないかもしれない。それでも芯は、奏太に会いに行く。心の底から、彼に会いたいと思うからだ。
はやる気持ちのまま歩いたら、普段の半分ほどの時間で洋館についた。家を出た時間も早かったので、いつもより一時間は早い計算になる。
壊れた鉄門扉の前まで来ても、ピアノの音は聞こえなかった。一瞬芽生えた不安を無理矢理抑え込み、芯は荒れた庭をまっすぐ進んで、インターフォンのボタンを押した。
初めて聞くドアチャイムの音が、芯の鼓膜を震わせる。しばらく経っても反応がないので、芯はもう一度ボタンを押した。
じっとその場に立ち尽くして、耳をそばだてて中の様子を伺う。やはり、なにも聞こえない。沈黙に鼓動が急いて、芯の頭に、嫌な想像が浮かんでくる。
もしかして奏太は、自分のことなどすっかり割り切って、もうドイツへ帰ってしまったのではないか。自分が奏太に会うことは、もう二度と叶わないのではないか。
その可能性を、考えなかったわけではない。でも芯は、心のどこかで、奏太は自分が来るのを待っていてくれると思っていた。
一向に聞こえてこない物音に、それすらも身勝手な妄想だったのだと痛感する。祖父と話して上向いていた気持ちが、反動でどこまでも落ちていく。
そんな自分にも落胆した。自分はいったい、どこまで甘いのか。たったひと晩で変われた気になって、なにもかも、ここから巻き返せるような夢を見て。
不甲斐なさに胸を押しつぶされそうだ。身勝手で甘ったれの自分に、思わず大きなため息が漏れる。
それでも、もう一度奏太に会いにきたことを後悔しないで済んだのは、それが自分だとようやく認めることができたからかもしれない。
移り気で、身勝手で、都合のいい妄想ばかりで。理想の姿とは程遠い、そんな自分が嫌いだ。でもきっと、自分はこれからも、そうやって生きていくしかないのだ。
芯の脳裏に、ピアノと向き合う奏太の、真剣な瞳が蘇る。奏太は自分の弱点をわかっていたけれど、文句を言わずに、毎日ピアノを練習していた。
自分もそう生きたいと芯は思う。ただ、自分の気持ちに正直に。剥き出しの自分を抱えて、もがきながらでも、一歩ずつ前に進んでいけるように。
にじんだ涙をぐっとこらえて、芯は洋館に背を向けた。見渡せば、庭の雑草はいつの間にか枯れ果て、紅葉は北風に舞い、目に映る景色の全てが秋の終わりを告げていた。
――来月になったら急に涼しくなるよ。日本の秋ってそんなもんだろ。
出会って間もない頃、芯がそう言った時、奏太は手元のグラスをじっと見つめていた。その横顔をふいに思い出して、芯は一人苦笑した。
あの時奏太は、なにを思っていたのだろうか。それを確かめる術も、今はもうない。
いっそすがすがしいような気持ちになって、芯は右足を大きく一歩踏み出した。
ちゃんと後悔して、この恋は終わりにしよう。東京の家に帰って、母の薦めるカウンセラーとやらに会って、学校に戻れるように頑張ろう。
ひときわ大きく風が吹く。芯は慌てて身をすくめた。ジャンパーの襟元に顔をうずめた瞬間、衣擦れの音に混ざって、「芯」と名前を呼ばれた気がした。
芯は驚いて、足を止める。幻聴だと思って、自分はどこまで都合のいい人間なのかと苦笑した。振り返る勇気はなかった。これ以上落胆したら、いくらなんでも泣いてしまうと思ったから。
「芯!」
もう一度、先ほどよりもはっきりと、声が聞こえる。芯は目を見開いて、今度こそ勢いよく後ろを振り返った。
パジャマの上にコートを羽織っただけの奏太が、裸足にスリッパをつっかけて、視界の先に立っていた。あの稲妻の瞳が、芯を見ている――見たこともないような、必死な色を浮かべて。
名前を呼び返すよりも先に、駆けだしていた。せっかくこらえていた涙が、安堵と喜びに種類を変えて、流れたそばから風に攫われる。
なにか言うよりも先に、腕が勝手に、細い体を抱きしめていた。奏太は相変わらず、抱き返してはこなくて、それでも震える声で、「芯」ともう一度名前を呼んだ。
「急に来なくなるから、予定を早めて東京に帰ったんだと思った。だからもう、僕もドイツに帰ろうとしたんだけど」
そこで奏太は、視線を下げて言葉を切った。少しの沈黙の後、長い指をこちらに伸ばしながら顔を上げ、おずおずといった調子で芯の髪を梳き始める。
「なんだかすごく、ここを離れ難くて。調子が狂って、午前中の練習もまともにできないし、そもそもベートーヴェン、最後まで教えきれてないし」
僕だって本当は、秋の短さが寂しかった。もうずっと、君のいない季節が来るのが怖かったんだ。
ピアノ部屋でグラスを見つめていた時と同じ、揺れる瞳が、今度は正面から芯を見ていた。一人で考えていた時にはわからなかった奏太の気持ちが、今は手に取るようにはっきりと伝わってくる。
「うん。ごめん」
芯の謝罪に、奏太は意外そうな表情をつくった。その顔をしっかりと見つめ返して、芯は畳みかけるように口を開く。
「せっかく教えてもらったのに、勝手に投げ出してごめん。奏太はピアノが一番だって知ってたのに、無理言ってごめん。勝手に嫌われたと思って……自分ばっかり好きだと思って、奏太の気持ち疑って、本当にごめん」
嫌だったら、嫌って言う。
初めて唇を重ねた時、そうやって奏太は言っていたのに。それが、奏太なりの、精一杯の答えだったのに。
芯の肩口に、奏太は甘える猫のように額をすり寄せた。その頬を両手で包み込んで引き上げ、芯はもう一度、艶やかな黒い瞳と目を合わせる。
そっと口づけて、その柔らかな熱に、胸が安らぐのを感じた。こうやって身を預けられる居場所を、自分はずっと探していたのかもしれないと思った。
「寒いから中に入ろう。ピアノも芯を待ってる」
赤い頬のまま目線を逸らして、奏太が言う。「ピアノも」という小さな言い回しにすら、気づいた瞬間に体温が上がる。
ピアノにも、奏太にも、待っていてもらえたことが嬉しい。前を歩く細い背を、思わずもう一度抱きしめたくなるほどに。
そのまま洋館に入れてもらった芯は、客間で奏太の身支度が終わるのを待った。無防備なパジャマ姿が惜しくて「そのままでいいのに」と声をかけたが、奏太は恥ずかしがって聞き入れてくれなかった。
ソファに座り、この前出されたのと同じティーカップで紅茶を飲む。寒々とした庭を見ながら、自分が今ここにいることを不思議に思う。
奏太のパジャマ姿も、この景色も、あのまま拗ねて諦めていたら、一生見ることはなかったものだ。
一歩踏み出すまではわからなかった――踏み出した先に、こんな未来があったなんて。
「ごめん、待たせた」
紅茶を半分ほど飲み終わった頃、いつも通りのワイシャツとスラックスに着替えた奏太が、客間の入口から顔を覗かせた。
その表情に、先ほどまでの揺らぎは微塵もない。さすがだなと感心しつつ、少し残念な気持ちにもなった芯である。動揺する奏太は、普段の大人びた雰囲気とのギャップもあって、とても可愛らしかった。
しげしげと奏太を見つめていると、「なんか芯、変なこと考えてない?」と勘づかれてしまった。そんなことないよと白を切って、紅茶を飲み干して立ち上がる。
芯は奏太と連れ立って廊下を歩き、ピアノ部屋に向かった。そして、自分の練習を始める前に、奏太にベートーヴェンを弾いてほしいと頼んだ。
「ええ、今から? 急だな」
「どうしても聴きたいんだ。ずっと聴いてなかったから、寂しくて」
芯の言葉に、奏太はうっすら頬を染めてうつむいた。「それじゃあまあ、仕方ないけど」などともごもご言いながら、いつかのように背もたれつきのピアノ椅子を引っ張ってくる。
奏太が準備してくれた客席に座って、芯はピアノソナタ第八番に聴き入った。
『悲愴』という通り名を体現する、重々しい第一楽章。ベートーヴェンの楽曲の中で指折りの美しさと評される第二楽章。駆け上がる旋律が焦燥感を駆り立てる第三楽章。
それは、奏太が芯のためだけに創り出してくれた、約十八分の夢の世界だった。芯は目を閉じて、最初にここで奏太のピアノを聴いた時のことを思い出していた。
鼓膜を震わせた音色の美しさと、わき上がるイメージの鮮明さに驚いた。どうしようもなく胸が高鳴って、考えるよりも先に、身を乗り出して感想を伝えていた。
今も奏太の演奏の美しさは健在だ。出会った時から、少しだけ色を変えて。より鮮やかに、豊かになった音色で、芯の心を彩ってくれる。
第三楽章を弾き終えてお辞儀をした奏太に、芯は目一杯の拍手を送った。一生分の拍手を送りたいと思うくらい、聴く人の心を動かす、いい演奏だった。
「すごい。俺もいつか、そんな風にピアノを弾いてみたい」
ピアノについて全くの素人ではなくなった芯は、それがどれほど困難な願いか、もうよくわかっていた。ピアノは一朝一夕でどうにかなるものではない。自分はきっと、一生かかっても、奏太のような演奏はできない。
もちろん奏太も、それはよくわかっていたはずだ。それでも奏太は、芯の目をまっすぐ見て、「芯ならできるよ」と微笑んだ。
そう言ってもらえたことが嬉しくて、芯はにっこりと笑い返した。同時に、張りつめていた気持ちが一気にほどけて、安堵の涙が少しだけ目元を濡らした。
その後から練習を再開した第二楽章は、四日さぼった分を取り返すのに、二日分のレッスンを費やした。そこから新しい部分を覚えるのに三日かかり、通し練習をしながら大まかな曲想をつけるのに、更に二日の時間を要した。
刻一刻と過ぎていく時間が名残惜しくもあったけれど、レッスンをしている間は、別れへの寂しさを感じる余裕など毛ほどもなかった。新しいことを覚え、できるまで練習するだけで、毎日頭も体もへとへとだった。
そうやって日々を重ね、芯がようやっと奏太から及第点をもらえる演奏ができたのは、母が迎えに来る日の前日だ。練習後、客間でサンドイッチをご馳走してもらった芯は、意を決して奏太に声をかけた。
「ついてきてほしいところがあるんだ」
突然の誘いに、奏太は最初、戸惑っていた。しかし、じっと自分を見つめる芯の表情から並々ならぬ緊張を感じ取ったのか、結局は行き先も聞かずにうなずいてくれた。
戸締まりだけ済ませて、二人は五分もしないうちに洋館を後にした。屋敷のわき道から県道に出て、寒空の下のアスファルトを、落ち葉を踏みながら登っていく。
吹きつける風に、冬のにおいを感じた。ここを離れた冬。奏太がいない冬。自分はなにをしているだろう。自分はどうやって、生きていけばいいんだろう。
「俺さ、多分、生きて、色々なものが積み上がっていくことが、ずっと怖かったんだ」
芯のつぶやきに、奏太はただ「うん」と答えた。前を歩く芯からは、その顔は見えない。それでも、振り返らずとも、すぐ後ろから聞こえる温かい足音が、芯の言葉をしっかりと受け止めた。
「でも、奏太にピアノを教わって、できることが増えるのは嬉しかった。ピアノに真剣な奏太を格好いいと思ったし、自分もそんな風に、なにかにまっすぐ向き合えたらって思ったんだ」
未来に怯え、身動きが取れなくなっていた芯に、世界の彩りを思い出させてくれたのは奏太だ。奏太とピアノを弾いている間は、容赦なく押し寄せてくる未来など忘れて、今この時だけを考えていられるような気持ちになった。
本当はずっと、このまま、二人だけの洋館で生きていたい。でもきっと、世界はそれを許さない。時は流れ、季節は移ろい、芯たちは大人になっていく。
そしてなにより、他でもない奏太自身が、新しい未来に向かって羽ばたこうとしているのだ。本気でそばにいたいと思うのなら、芯だけがここで足踏みしているわけにはいかない。怖くても苦しくても、きちんと前に進まなければならない。
緩やかなカーブを登りきると、道の先に大きな建物が姿を現す。高いところに掲げられた、教育施設特有のアナログ時計を見て、芯は音をたてて唾を飲み込んだ。
二か月半前にここを訪れた時には、足がすくんでこれ以上近づくことができなかった。それがなぜか、今ならわかる。
学校は、意味や理由を求められる場所だ。第一希望から第三希望までの三つの空欄に、長い長い人生を当てはめなければいけない場所。生きていく術を身につけるために、「皆と同じ」を学ぶ場所。
芯にとって、学校はいつの間にか、息苦しい灰色の未来の象徴になってしまっていた。
心のままに生きられないことが怖い。一つのことを続けなければならないことが怖い。そうやって定まっていくことが怖い。可能性を引き剝がされ、つまらない大人になっていく自分が怖い。
「芯」
青ざめた顔で立ち尽くす芯の顔を、奏太が覗き込んだ。心配そうな表情のまま廃校舎を指差し、「芯の行きたい場所ってここ?」と首を傾げる。
「うん。そう」
「大丈夫? 冷汗すごいけど」
「駄目かも」
芯はつい、弱気になってうつむいた。奏太と一緒なら、この校舎にも入ることができるかもしれないと思っていたが、やはりまだ自分には難しいのかもしれない。
不確かでわずかな期待だったとはいえ、芯の心を、じわじわと落胆が支配する。この廃校舎に入れないということは恐らく、東京に戻っても、学校には行けないということだ。
不登校になったと気づいたばかりだった、九月の一ヶ月間を思い出す。気晴らしもできず、ただ時間だけが過ぎていく日々がまたやってくるのかと思うと、胃の辺りが締めつけられたように痛くなる。
今にもしゃがみ込みそうな芯の隣で、奏太はじっと、なにかを考えていた。黒髪から覗く顔は、ピアノを弾いている時と同じくらい真剣な表情だ。
「芯」
数十秒後、考えがまとまったのか、奏太はようやく口を開いた。
「発表会をしよう」
わざとらしくおどけた口調と、耳慣れない単語の響きに、芯は思わず視線を上げた。ぽかんと口を開けたまま拍子抜けする芯に、奏太はしたり顔で言葉を続けた。
「あれは多分、小学校だよね? 音楽室に行って、もしピアノがあったら、そこで発表会をしよう。せっかく第二楽章を弾けるようになったのに、僕が聴くだけじゃもったいない」
え、と戸惑う芯の腕を、奏太は強引に引っ張った。頑なに動かなかった右足が、傾いた体を支えるために、一歩踏み出す。バランスを取るために、二歩、三歩、と足取りが続く。
「発表会って言ったって、奏太以外に誰が聴くんだよ」
足が動いても、動悸は激しいままだ。弱々しく抵抗を試みる芯を振り返って、奏太は心の底から楽しそうな、晴れやかな表情で笑ってみせた。
「ベートーヴェン先生だよ」
黒い瞳に、稲妻が駆ける。網膜を焼いたその閃光に見惚れているうちに、芯はいつの間にか、廃校舎の敷地に足を踏み入れていた。
ロータリーを進み、昇降口に入って、土足のまま廊下に上がる。リノリウムの床はホコリと砂にまみれて、靴底越しにも、ざらざらとした質感が伝わってきた。
下駄箱を含め、校舎内はどこもかしこもひと回り小さく、それが芯の動悸を少し落ち着かせた。しかし、芯がなんとか話せるようになっても、奏太は握った手を離さないでいてくれた。
音楽室を探して、校舎全体を歩き回る。廊下から各教室を覗き、所々に残された小さな椅子や緑色の黒板を眺めていると、自然と自分の小学校時代が思い出された。
ロッカーの上の壁には、『将来の夢』と題した絵が飾られていた。クラスメイトの『将来の夢』を見ながら、世の中にはこんなにも、多種多様な夢があるのかと驚いたものだ。
「奏太の小さい頃の夢ってなんだった?」
学校という空間の圧にもだいぶ慣れ、ようやく少し余裕が出て、芯は問いかける。「ピアニスト」と即答した奏太を見て、芯は思わず吹き出した。
「ブレないなあ。しかもちゃんと、叶ってるし」
「そんなことないよ。まだまだ全然、できるようにならなきゃいけないことがいっぱいある」
まっすぐ前を見つめる瞳に、芯は思わず目を細めた。ああやっぱり、好きだなあと、妙に納得する。心臓がぎゅっと苦しくなって、つないだ手に力がこもる。
音楽室は、図工室や理科室が並ぶ三階の、一番奥にあった。ホコリっぽい部屋の中央には、奏太の読み通り、古ぼけたグランドピアノが鎮座していた。
奏太は音楽室の入口でやっと芯の手を離すと、カーペット敷きの床を駆け抜けて、慎重にグランドピアノの屋根を開けた。そのまま鍵盤側に回り込み、流れるように音階を奏でる。
「うん。だいぶ狂ってるけど、ちゃんと鳴るね」
奏太は満足気にうなずいて、ふいに斜め上に視線を向けた。そのまま芯に向けて手招きをし、「あれがお客さんだよ」と嬉しそうに言う。
芯は足早に奏太に近づき、顔を上げて苦笑した。入口側の壁の上方には、しかめっ面のベートーヴェンを筆頭に、音楽家たちの懐かしい肖像画がずらりと並んでいた。
じゃあ僕は、ここで座って見てるから。
部屋の隅からパイプ椅子を引っ張ってきて、奏太は芯の顔と手元が一番よく見える位置に座った。
「お辞儀して、演奏して、またお辞儀ね。僕がいつもやってるみたいに。それじゃあ、どうぞ」
いきなり言われて戸惑いながらも、芯は奏太に指示された通りに、ピアノの前でお辞儀をして椅子に腰かけた。目の前に広がる白黒の鍵盤が、なんだかいつもより大きく見える。
ボロボロの校舎に、古ぼけたピアノ。煌びやかなステージとはかけ離れたシチュエーションなのに、芯は今、人生で一番の緊張を感じていた。
奏太が毎日何時間も練習をする気持ちが、今ならわかるような気がした。複雑で繊細な動きを人前で完璧にこなすには、相当な鍛錬と、努力に対する自負が欠かせない。
やっぱり奏太はすごい。
そう思いながら、芯は意を決して、最初のポジションに手を置いた。奏太がいつもそうするように軽く息を吸い、そっと静かに、丁寧な動きで鍵盤を押し込む。
少し軋んだ、それでいて温かな音色につられて、目の前に湖が広がった。芯は指を動かしながら、驚きに目を瞠った。
音はまだ荒い。強弱も稚拙だ。それでも一拍目を弾いたあの一瞬、第二楽章の湖に、芯は意識を引き込まれた。
奏太は見てくれていただろうか。芯の描いた世界を、一緒に感じてくれていただろうか。
芯はつい、視線を動かして、客席の様子を探った。そして、パイプ椅子から立ち上がって歩いてくる奏太を見て、ひどく混乱した。
「……ごめん、やっぱり連弾で」
芯の右側に立った奏太が、小さくささやく。少し身をかがめて、高い音域で第二楽章を演奏し始める。
きらきらと輝く音色は、鍵盤の上を跳ね回って踊る子どものようだ。「芯が楽しそうだから、僕も弾きたくなっちゃった」という言い訳が、その音から聞こえてきた気がした。
人の発表会に乱入するなんて、奏太も大概、勝手じゃないか。
そんな文句が思い浮かぶ頃には、演奏への緊張はすっかり解けて、芯は知らぬ間に笑っていた。ユニゾンのメロディと、余白を彩る飾り音符。隣あった腕が触れるたび、胸の内に温かな喜びが咲く。
「なに笑ってんの」
芯につられて笑いながら、奏太がついに、普通の声で喋り出した。「別に?」と肩をすくめて返したら、左手の音を盛大に間違えた。
こんな好き勝手な演奏を聴いたら、ベートーヴェンはきっと、怒るだろう――それでいいのかもしれない。
怒られたら謝って、間違えたら訂正して。
そうやって少しずつ大人になった未来で、また彼と出会いたいと思う。逃げた先ではなく、選んだ居場所として。季節が巡っても、揺るぎなく共に在れるように。
「またいつか、会いにいってもいい?」
全て弾き終わった時、芯の頬は涙に濡れていた。演奏の楽しさと別れへの寂しさ、そこに未来への不安が入り混じって、どんな顔をすればいいのか、芯自身にもわからない。
そんな芯を見て、奏太は小さく笑った。困ったような、それでいてどこか嬉しそうな表情で目を細めて、芯の後頭部に手を伸ばす。
「うん。待ってる」
やがて離れた唇が、祈るようにつぶやく。その音色を、去り際の稲妻を、芯は今でもはっきりと覚えている。
ドイツの四月は日本よりも肌寒い。ミュンヘンのホテルを出た芯は、スプリングコートの襟元に顔を埋めながら、スマートフォンの位置情報に目を凝らした。
マリエン広場で開かれるチャリティコンサートは明後日からだ。明日の昼に到着していればいいところを、わけあって一日早く渡独した芯は、ホテル最寄りのバス停を目指して足早に歩いていた。
芯ははやる気持ちをなだめるため、胸に手を当てて深呼吸をする。それでも自然と、感慨深さから、ここに来るまでの苦労が走馬灯のように脳内をよぎる。
今の出版社に新卒で入ったばかりだった去年は、基本的なマナーや取材方法、記事の書き方を学ぶのに必死で、海外取材どころではなかった。
そこから一年、コツコツ努力し、普段の仕事にはだいぶ慣れてきた。クラシック業界を含めた世界の音楽事情にも、かなり詳しくなったつもりである。
初めて経験した社会人生活は、目の回るような忙しさだった。けれども芯は、大学時代に専攻していたドイツ語の独学を続け、それを周囲にアピールし続けた。
チャリティコンサートの話が上がったのは、今年の三月初めだ。真っ先に名乗り出て、先輩記者に駄目押しした甲斐もあってか、見習い兼荷物持ちとして芯も取材に同行できる運びとなった。
取材のために手に入れた番号に、私用のスマートフォンからかけてしまったのが、一週間前。仕事として会う前に一度、どうしても、どうしても彼の声が聞きたくて、一回だけと決めて通話ボタンを押した。
長いコールに鼓動が急いた。全く反応がなくて、もう諦めようと思った瞬間、賑やかな雑踏が芯の鼓膜を震わせた。
続けて聞こえた、「榛です」という落ち着いた声。とたんに体が熱くなり、なにも言えないでいると、名乗る間もなく「芯?」と尋ねられた。
それだけで、芯の意識は七年前に引き戻され、脳裏には洋館での日々が鮮明に蘇った。迷い、悩んでいたあの時間。苦くて眩しい、一度きりの青春。
最後の連弾の後、連絡先は交換しなかった。また会えると信じていたから。ちゃんと成長した自分で、彼に会いにいきたいと思ったから。
奏太から告げられた住所は、ミュンヘン郊外のアパルトメントを指していた。交通の便はいささか悪いが、音楽大学に通う学生が多く暮らす、楽器演奏が可能な物件らしかった。
やがてやってきたバスに乗り込み、揺られること十五分。芯はステップを降り、再びスマートフォンのナビを頼りに、込み入った路地を進む。
事前に外観の写真を見てはいたものの、あたりは同じような造りの建物ばかりだ。約束の時間まであと五分しかないのに、もう少しというところで、芯は完全に迷子になっていた。
異国の路地で、さてどうしたものかと首を傾げる。再会初日に迷子なんて、ダサいから嫌だなあと思うけれど、背に腹は代えられない。
観念して通話アプリを開いた時だった。雷のようなあの和音が、芯の心を震わせた。
防音壁の影響だろう。大きさ自体は、周囲の迷惑にならない程度の、小さな音だ。でもその響きを聴いた途端、芯の体には電流が駆け抜けて、喜びに胸が高鳴った。
ベートーヴェンのピアノソナタ第八番が、あの頃と変わらぬ切実さで芯を呼んでいた。重々しい第一楽章に、あまりにも美しい第二楽章。駆け上がる旋律が焦燥感を駆り立てる第三楽章。
早足が駆け足に変わる。風にもつれるスプリングコートの裾がもどかしい。灰色の空と、嵐の前触れ――それはきっと、胸を震わせる運命の予感だ。
白いシャツのおもかげが、ピアノを背景にそっと微笑む。その瞳に走る稲妻を思い出しながら、芯は奏太の住むアパルトメントの階段を、勢いよく駆け上った。