翌朝早く、次に帰ってくるのは一週間後だと言い残して、祖父は関西へと旅立っていった。いきいきとした笑顔を見送ってから、芯は自室の窓を開け放ち、部屋の掃除を始めた。
 冷たい風が吹き込んで、体が震える。それでもかまわずに、芯は机の上に積みっぱなしの漫画本やゲームを段ボール箱に戻し、食べ散らかしたお菓子のゴミを捨て、掃除機をかけた。
 部屋を綺麗にした後は、いつも通りに食パンを食べて、芯は家を出た。吹きつける風に、出掛けに羽織ったジャンパーの襟元を引き寄せる。
 目指すのはもちろん、奏太の過ごす洋館だ。
 学校に行けない理由を考えるんじゃなくて、学校に行きたくなる理由を作ること。アプローチできない理由を考えるんじゃなくて、好きだと思った気持ちを大事にすること。
 昨日聞いた祖父の言葉が、丸まった芯の背中を押した。奏太と自分を比べては、すっかり落ち込み、萎縮していた心が、少しだけ弾力を取り戻して芯の体を動かした。
 学校のことも、奏太のことも、なにが正解かなんてわからない。相変わらず不登校の原因は不明だし、そんな自分が奏太の近くにいたいと思うのは、ずいぶんと迷惑な願いなのかもしれない。
 でも少なくとも、芯が奏太を好きな気持ちは、紛れもなく本当だった。
 初めて彼の音を聴いた時の稲妻が、今も芯の体を震わせている。そのためだけに、どんなことでもできるような気持ちになる。
 急にレッスンに行かなくなったことを謝りたい。ベートーヴェンの第二楽章を最後まで弾けるようになりたい。そうしてちゃんと、お礼を言って、もう一度好きだと伝えたい。
 身勝手な芯に、奏太は愛想をつかして、取り合ってくれないかもしれない。それでも芯は、奏太に会いに行く。心の底から、彼に会いたいと思うからだ。
 はやる気持ちのまま歩いたら、普段の半分ほどの時間で洋館についた。家を出た時間も早かったので、いつもより一時間は早い計算になる。
 壊れた鉄門扉の前まで来ても、ピアノの音は聞こえなかった。一瞬芽生えた不安を無理矢理抑え込み、芯は荒れた庭をまっすぐ進んで、インターフォンのボタンを押した。
 初めて聞くドアチャイムの音が、芯の鼓膜を震わせる。しばらく経っても反応がないので、芯はもう一度ボタンを押した。
 じっとその場に立ち尽くして、耳をそばだてて中の様子を伺う。やはり、なにも聞こえない。沈黙に鼓動が急いて、芯の頭に、嫌な想像が浮かんでくる。
 もしかして奏太は、自分のことなどすっかり割り切って、もうドイツへ帰ってしまったのではないか。自分が奏太に会うことは、もう二度と叶わないのではないか。
 その可能性を、考えなかったわけではない。でも芯は、心のどこかで、奏太は自分が来るのを待っていてくれると思っていた。
 一向に聞こえてこない物音に、それすらも身勝手な妄想だったのだと痛感する。祖父と話して上向いていた気持ちが、反動でどこまでも落ちていく。
 そんな自分にも落胆した。自分はいったい、どこまで甘いのか。たったひと晩で変われた気になって、なにもかも、ここから巻き返せるような夢を見て。
 不甲斐なさに胸を押しつぶされそうだ。身勝手で甘ったれの自分に、思わず大きなため息が漏れる。
 それでも、もう一度奏太に会いに来たことを後悔しないで済んだのは、それが自分だとようやく認めることができたからかもしれない。
 移り気で、身勝手で、都合のいい妄想ばかりで。理想の姿とは程遠い、そんな自分が嫌いだ。でもきっと、自分はこれからも、そうやって生きていくしかないのだ。
 芯の脳裏に、ピアノと向き合う奏太の、真剣な瞳が蘇る。奏太は自分の弱点をわかっていたけれど、文句を言わずに、毎日ピアノを練習していた。
 自分もそう生きたいと芯は思う。ただ、自分の気持ちに正直に。剥き出しの自分を抱えて、もがきながらでも、一歩ずつ前に進んでいけるように。
 にじんだ涙をぐっとこらえて、芯は洋館に背を向けた。見渡せば、庭の雑草はいつの間にか枯れ果て、紅葉は北風に舞い、目に映る景色の全てが秋の終わりを告げていた。
 ――来月になったら急に涼しくなるよ。日本の秋ってそんなもんだろ。
 出会って間もない頃、芯がそう言った時、奏太は手元のグラスをじっと見つめていた。その横顔をふいに思い出して、芯は一人苦笑した。
 あの時奏太は、なにを思っていたのだろうか。それを確かめる術も、今はもうない。
 いっそすがすがしいような気持ちになって、芯は右足を大きく一歩踏み出した。
 ちゃんと後悔して、この恋は終わりにしよう。東京の家に帰って、母の薦めるカウンセラーとやらに会って、学校に戻れるように頑張ろう。
 ひときわ大きく風が吹く。芯は慌てて身をすくめた。ジャンパーの襟元に顔をうずめた瞬間、衣擦れの音に混ざって、「芯」と名前を呼ばれた気がした。
 芯は驚いて、足を止める。幻聴だと思って、自分はどこまで都合のいい人間なのかと苦笑した。振り返る勇気はなかった。これ以上落胆したら、いくらなんでも泣いてしまうと思ったから。
「芯!」
 もう一度、先ほどよりもはっきりと、声が聞こえる。芯は目を見開いて、今度こそ勢いよく後ろを振り返った。
 パジャマの上にコートを羽織っただけの奏太が、裸足にスリッパをつっかけて、視界の先に立っていた。あの稲妻の瞳が、芯を見ている――見たこともないような、必死な色を浮かべて。
 名前を呼び返すよりも先に、駆けだしていた。せっかくこらえていた涙が、安堵と喜びに種類を変えて、流れたそばから風に攫われる。
 なにか言うよりも先に、腕が勝手に、細い体を抱きしめていた。奏太は相変わらず、抱き返してはこなくて、それでも震える声で、「芯」ともう一度名前を呼んだ。
「急に来なくなるから、予定を早めて東京に帰ったんだと思った。だからもう、僕もドイツに帰ろうとしたんだけど」
 そこで奏太は、視線を下げて言葉を切った。少しの沈黙の後、長い指を静かに伸ばしながら顔を上げ、おずおずといった調子で芯の髪を梳き始める。
「なんだかすごく、ここを離れ難くて。調子が狂って、午前中の練習もまともにできないし、そもそもベートーヴェン、最後まで教えきれてないし」
 僕だって本当は、秋の短さが寂しかった。もうずっと、君のいない季節が来るのが怖かったんだ。
 ピアノ部屋でグラスを見つめていた時と同じ、揺れる瞳が、今度は正面から芯を見ていた。一人で考えていた時にはわからなかった奏太の気持ちが、今は手に取るようにはっきりと伝わってくる。
「うん。ごめん」
 芯の謝罪に、奏太は意外そうな表情をつくった。その顔をしっかりと見つめ返して、芯は畳みかけるように口を開く。
「せっかく教えてもらったのに、勝手に投げ出してごめん。奏太はピアノが一番だって知ってたのに、無理言ってごめん。勝手に嫌われたと思って……自分ばっかり好きだと思って、奏太の気持ち疑って、本当にごめん」
 嫌だったら、嫌って言う。
 初めて唇を重ねた時、そうやって奏太は言っていたのに。それが、奏太なりの、精一杯の答えだったのに。
 芯の肩口に、奏太は甘える猫のように額をすり寄せた。その頬を両手で包み込んで引き上げ、芯はもう一度、艶やかな黒い瞳と目を合わせる。
 そっと口づけて、その柔らかな熱に、胸が安らぐのを感じた。こうやって身を預けられる居場所を、自分はずっと探していたのかもしれないと思った。
「寒いから中に入ろう。ピアノも芯を待ってる」
 赤い頬のまま目線を逸らして、奏太が言う。「ピアノも」という小さな言い回しにすら、気づいた瞬間に体温が上がる。
 ピアノにも、奏太にも、待っていてもらえたことが嬉しい。前を歩く細い背を、思わずもう一度抱きしめたくなるほどに。
 そのまま洋館に入れてもらった芯は、客間で奏太の身支度が終わるのを待った。無防備なパジャマ姿が惜しくて「そのままでいいのに」と声をかけたが、奏太は恥ずかしがって聞き入れてくれなかった。
 ソファに座り、この前出されたのと同じティーカップで紅茶を飲む。寒々とした庭を見ながら、自分が今ここにいることを不思議に思う。
 奏太のパジャマ姿も、この景色も、あのまま拗ねて諦めていたら、一生見ることはなかったものだ。
 一歩踏み出すまではわからなかった――踏み出した先に、こんな未来があったなんて。
「ごめん、待たせた」
 紅茶を半分ほど飲み終わったころ、いつも通りのワイシャツとスラックスに着替えた奏太が、客間の入り口から顔を覗かせた。
 その表情に、先ほどまでの揺らぎは微塵もない。さすがだなと感心しつつ、少し残念な気持ちにもなった芯である。動揺する奏太は、普段の大人びた雰囲気とのギャップもあって、とても可愛らしかった。
 しげしげと奏太を見つめていると、「なんかお前、変なこと考えてない?」と勘づかれてしまった。そんなことないよと白を切って、紅茶を飲み干して立ち上がる。
 芯は奏太と連れ立って廊下を歩き、ピアノ部屋に向かった。そして、自分の練習を始める前に、奏太にベートーヴェンを弾いてほしいと頼んだ。
「ええ、今から? 急だな」
「どうしても聴きたいんだ。ずっと聴いてなかったから、寂しくて」
 芯の言葉に、奏太はうっすら頬を染めてうつむいた。「それじゃあまあ、仕方ないけど」などともごもご言いながら、いつかのように背もたれつきのピアノ椅子を引っ張ってくる。
 奏太が準備してくれた客席に座って、芯はピアノソナタ第八番に聴き入った。
 『悲愴』という通り名を体現する、重々しい第一楽章。ベートーヴェンの楽曲の中で指折りの美しさと評される第二楽章。駆け上がる旋律が焦燥感を駆り立てる第三楽章。
 それは、奏太が芯のためだけに創り出してくれた、約十八分の夢の世界だった。芯は目を閉じて、最初にここで奏太のピアノを聴いた時のことを思い出していた。
 鼓膜を震わせた音色の美しさと、わき上がるイメージの鮮明さに驚いた。どうしようもなく胸が高鳴って、考えるよりも先に、身を乗り出して感想を伝えていた。
 今も奏太の演奏の美しさは健在だ。出会った時から、少しだけ色を変えて。より鮮やかに、豊かになった音色で、芯の心を彩ってくれる。
 第三楽章を弾き終えてお辞儀をした奏太に、芯は目一杯の拍手を送った。一生分の拍手を送りたいと思うくらい、聴く人の心を動かす、いい演奏だった。
「すごい。俺もいつか、そんな風にピアノを弾いてみたい」
 ピアノについて全くの素人ではなくなった芯は、それがどれほど困難な願いか、もうよくわかっていた。ピアノは一朝一夕でどうにかなるものではない。自分はきっと、一生かかっても、奏太のような演奏はできない。
 もちろん奏太も、それはよくわかっていたはずだ。それでも奏太は、芯の目をまっすぐ見て、「芯ならできるよ」と微笑んだ。
 そう言ってもらえたことが嬉しくて、芯はにっこりと笑い返した。同時に、張りつめていた気持ちが一気にほどけて、安堵の涙が少しだけ目元を濡らした。