鷹藤真理奈の信望者は多い。しかしそれ以上に、面白く思わない人間も多い。表立ってトラブルにならないのは、真理奈と敵対することで生じる不利益と現状の不快感を天秤にかけて、皆、前者を避けるからだ。
どこまで本当かは疑わしいが、不良と付き合いがあるとか、彼氏を寝取られた高校生に集団で詰められたことがあるとか、それを川に突き落として返り討ちにしたとか、そういった過激な噂にも事欠かない。
啓子は噂を信じるわけではないが、そんな噂が広まる相手と積極的に関わりたいとは思わなかった。近づく事による利を取って、裏で文句をいいながらも友達付き合いするクラスメイトもいたが、啓子は真理奈以上にそういった類の人間と違う次元に居たかった。高潔で、居たかった。
座席が前後になったことで当初は真理奈から「ケイちゃん」と頻繁に声をかけられていた。しかし最低限の反応だけを返すようにした結果、進級前には殆ど話すことも無くなっていた。
進級してクラスが変われば、やっと真理奈と物理的にも距離を取れる。そう思うと最後の期末試験が近づいて来ていることも、楽しみでしかない。解放が近づく予感に浮かれながら、同時に今まで溜められるだけ溜め続けた鬱憤が、気を抜くと漏れ出そうになる自分にも気付いていた。
最後の期末試験こそは、歴史と古文で真理奈よりも良い成績を取りたいというのも、その一つだ。
啓子は基本的に真面目だが、要領が良い方ではない。音楽以外に得意科目も苦手科目もなく、どれも平均より少し上といったところだ。
一方真理奈はというと、真面目に授業を受けている様子もないわりに、歴史と古文だけは極端に成績が良いのだ。どうやらこの二つの科目の担当教師は、毎年新しい問題を作るのが面倒らしく、三年ごとに同じ問題を使いまわしているようだ。それを、仲の良い先輩のつてを使って、卒業した先輩から過去問を買っているらしい。
これは噂ではない。真理奈が珍しく真面目に勉強している横を通った際、過去問が見えてしまったのだ。
真理奈は悪びれた様子もなく、売ろうとしてきた。断っても無駄だった。歴史の年代の問題を、一文だけ無理に教えてきたのだ。
「おすそ分け」
人差し指を立てて唇にあて、そう告げられたのだ。つまりは口止め料というわけだが、これを教師に言ったところで真理奈はうまく切り抜けるだろうし、ただ啓子がチクったことがバレるだけだ。それに教師にこっそり注進するという行為も、啓子のなかでは潔くなかった。
啓子はその時、特に歴史に身を入れて試験勉強をして、自力で真理奈よりも高得点を取った。無理やり教えられた一問はわざと空欄にして、それを成すのが啓子の小さな反抗だった。それはとても気分が良いものだったが、毎回テストの度にそんな事はしていられない。その時の試験では、歴史以外の成績は散々だったのだから。
そうして件の二教科については真理奈に負け続けてきたわけだが、学年最後の期末試験だけは、すべての成績で真里奈を上回りたかった。ひとり相撲なのは承知していても、心の中で答案用紙を真理奈に叩きつけて終えたかったのだ。
そんな折、小さな事件が起こった。
その日啓子は、連日の試験勉強による睡眠不足で、変に気持ちが高揚していた。自身のなかの攻撃性が増しているというのか、怒りっぽくなっている事は自覚していた。
教師の配るプリントが、列ごとに前から後ろへと手渡しで配布されていく。真里奈から啓子へ、啓子から後ろのももへと渡ることになるのだが、時折真理奈は小細工をする。印刷のかすれたものや折れたものが友人のももの所へ回りそうになると、手元で用紙の順番を入れ替えるのだ。
素直に上から取って回すと、そのハズレを啓子がひくことになる。
いつもなら、くだらないと流してハズレをひくところだ。どうせ内容は同じだし、読めないほどであれば直接教師に交換を頼めば良いだけのこと。それがその日は、猛烈な怒りを啓子に沸き立たせたのだ。
あからさまにないがしろにされ、恐らくはそれを啓子に覚られても問題ないと見られている。存在を軽く見られている。第一に上から取っていくのが常識ではないか。たまたまハズレを引いたとして、それが運というものだ。公平性に欠く行いは啓子の最も忌避するところだった。
啓子は真理奈からまわされたプリントを手荒に奪い取ると、無言でハズレ用紙の下からプリントを抜き取った。真理奈が肩越しに啓子を覗き、片目を細めてなにか言いたげな表情を見せる。啓子はそれを無言のまま正面から見返すと、背を向けて後ろのももへとプリントを回した。向き直って、まだこちらを見ている真理奈に鼻から細く息を漏らしながら笑いかける。これは真理奈自身の癖でもあった。それをやってやった。
普段の啓子なら決してしなかった大胆な行動。とにかくその日は、普通じゃなかったのだ。
その直後、もも宛の手紙が放るように回された。渋々ももに回してやると、すぐに真理奈宛のメモがももから寄越される。なん往復も続く。
鬱陶しいが、愉快でもあった。どうせ内容は啓子のことだろう。
「怒ってやんの。ウケる」
啓子は前後の席に聞こえるか聞こえないかというほど絞った声で、つぶやいた。ちまちまとメモで悪口でもなんでも言いあえばいいと思った。
午後の授業でも、メモ回しは頻繁に行われた。さすがに授業の邪魔だったし、怒りが多少晴れて冷静になってきた啓子はそれに付き合うのも馬鹿らしくなった。それで、わざと教師が横を通るタイミングで、止めていたメモを落としてやったのだ。
それも堅物で、真理奈の調子の良い媚も効かない家庭科の寺井――通称テラセンの授業で。
当然メモはテラセンに拾われ、その場で真理奈とももは注意された。メモを開いて、テラセンは啓子をちらりと見た。
「田中さんにも迷惑でしょう、授業の邪魔になります」
そう付け加えたあたり、やはり自分の話題が書かれていたのだろうと啓子は確信した。その後、真理奈と啓子の冷戦は進級まで続いた。
しかし良い点もあった。雰囲気が悪くなるごとに、試験勉強が捗るのだ。怒りが原動力になることを啓子は初めて知った。長く燃え続け、自分を突き動かすほどの激しい感情を、その恍惚を、真理奈という存在によって知ったのだ。
どこまで本当かは疑わしいが、不良と付き合いがあるとか、彼氏を寝取られた高校生に集団で詰められたことがあるとか、それを川に突き落として返り討ちにしたとか、そういった過激な噂にも事欠かない。
啓子は噂を信じるわけではないが、そんな噂が広まる相手と積極的に関わりたいとは思わなかった。近づく事による利を取って、裏で文句をいいながらも友達付き合いするクラスメイトもいたが、啓子は真理奈以上にそういった類の人間と違う次元に居たかった。高潔で、居たかった。
座席が前後になったことで当初は真理奈から「ケイちゃん」と頻繁に声をかけられていた。しかし最低限の反応だけを返すようにした結果、進級前には殆ど話すことも無くなっていた。
進級してクラスが変われば、やっと真理奈と物理的にも距離を取れる。そう思うと最後の期末試験が近づいて来ていることも、楽しみでしかない。解放が近づく予感に浮かれながら、同時に今まで溜められるだけ溜め続けた鬱憤が、気を抜くと漏れ出そうになる自分にも気付いていた。
最後の期末試験こそは、歴史と古文で真理奈よりも良い成績を取りたいというのも、その一つだ。
啓子は基本的に真面目だが、要領が良い方ではない。音楽以外に得意科目も苦手科目もなく、どれも平均より少し上といったところだ。
一方真理奈はというと、真面目に授業を受けている様子もないわりに、歴史と古文だけは極端に成績が良いのだ。どうやらこの二つの科目の担当教師は、毎年新しい問題を作るのが面倒らしく、三年ごとに同じ問題を使いまわしているようだ。それを、仲の良い先輩のつてを使って、卒業した先輩から過去問を買っているらしい。
これは噂ではない。真理奈が珍しく真面目に勉強している横を通った際、過去問が見えてしまったのだ。
真理奈は悪びれた様子もなく、売ろうとしてきた。断っても無駄だった。歴史の年代の問題を、一文だけ無理に教えてきたのだ。
「おすそ分け」
人差し指を立てて唇にあて、そう告げられたのだ。つまりは口止め料というわけだが、これを教師に言ったところで真理奈はうまく切り抜けるだろうし、ただ啓子がチクったことがバレるだけだ。それに教師にこっそり注進するという行為も、啓子のなかでは潔くなかった。
啓子はその時、特に歴史に身を入れて試験勉強をして、自力で真理奈よりも高得点を取った。無理やり教えられた一問はわざと空欄にして、それを成すのが啓子の小さな反抗だった。それはとても気分が良いものだったが、毎回テストの度にそんな事はしていられない。その時の試験では、歴史以外の成績は散々だったのだから。
そうして件の二教科については真理奈に負け続けてきたわけだが、学年最後の期末試験だけは、すべての成績で真里奈を上回りたかった。ひとり相撲なのは承知していても、心の中で答案用紙を真理奈に叩きつけて終えたかったのだ。
そんな折、小さな事件が起こった。
その日啓子は、連日の試験勉強による睡眠不足で、変に気持ちが高揚していた。自身のなかの攻撃性が増しているというのか、怒りっぽくなっている事は自覚していた。
教師の配るプリントが、列ごとに前から後ろへと手渡しで配布されていく。真里奈から啓子へ、啓子から後ろのももへと渡ることになるのだが、時折真理奈は小細工をする。印刷のかすれたものや折れたものが友人のももの所へ回りそうになると、手元で用紙の順番を入れ替えるのだ。
素直に上から取って回すと、そのハズレを啓子がひくことになる。
いつもなら、くだらないと流してハズレをひくところだ。どうせ内容は同じだし、読めないほどであれば直接教師に交換を頼めば良いだけのこと。それがその日は、猛烈な怒りを啓子に沸き立たせたのだ。
あからさまにないがしろにされ、恐らくはそれを啓子に覚られても問題ないと見られている。存在を軽く見られている。第一に上から取っていくのが常識ではないか。たまたまハズレを引いたとして、それが運というものだ。公平性に欠く行いは啓子の最も忌避するところだった。
啓子は真理奈からまわされたプリントを手荒に奪い取ると、無言でハズレ用紙の下からプリントを抜き取った。真理奈が肩越しに啓子を覗き、片目を細めてなにか言いたげな表情を見せる。啓子はそれを無言のまま正面から見返すと、背を向けて後ろのももへとプリントを回した。向き直って、まだこちらを見ている真理奈に鼻から細く息を漏らしながら笑いかける。これは真理奈自身の癖でもあった。それをやってやった。
普段の啓子なら決してしなかった大胆な行動。とにかくその日は、普通じゃなかったのだ。
その直後、もも宛の手紙が放るように回された。渋々ももに回してやると、すぐに真理奈宛のメモがももから寄越される。なん往復も続く。
鬱陶しいが、愉快でもあった。どうせ内容は啓子のことだろう。
「怒ってやんの。ウケる」
啓子は前後の席に聞こえるか聞こえないかというほど絞った声で、つぶやいた。ちまちまとメモで悪口でもなんでも言いあえばいいと思った。
午後の授業でも、メモ回しは頻繁に行われた。さすがに授業の邪魔だったし、怒りが多少晴れて冷静になってきた啓子はそれに付き合うのも馬鹿らしくなった。それで、わざと教師が横を通るタイミングで、止めていたメモを落としてやったのだ。
それも堅物で、真理奈の調子の良い媚も効かない家庭科の寺井――通称テラセンの授業で。
当然メモはテラセンに拾われ、その場で真理奈とももは注意された。メモを開いて、テラセンは啓子をちらりと見た。
「田中さんにも迷惑でしょう、授業の邪魔になります」
そう付け加えたあたり、やはり自分の話題が書かれていたのだろうと啓子は確信した。その後、真理奈と啓子の冷戦は進級まで続いた。
しかし良い点もあった。雰囲気が悪くなるごとに、試験勉強が捗るのだ。怒りが原動力になることを啓子は初めて知った。長く燃え続け、自分を突き動かすほどの激しい感情を、その恍惚を、真理奈という存在によって知ったのだ。