「三列目の」
「前から何番目?」
「分かるだろ! 三番目!」
「うお、ほんとだ可愛い」

 新入生の教室を廊下から覗き込んだ上級生が、不躾(ぶしつけ)な声をあげた。

 中学校の入学式のあとのこと。サイズの合わない制服に身を包んだ新入生たちが、居所を探して教室内を遊泳している。同じ小学校から上がってきた生徒たちは、仲の良さそうなのもそうでも無さそうなのも、とりあえずという形で数名で固まっていた。固まりはぐれた生徒は、気にもしないという顔を作って、席についている。真新しい教科書を開いたり閉じたり、鞄を掛け直したり、何かしらのやることがあって一人で座っているのだという演技を続けている。

 小学校からの数少ない親しい友人とクラスが分かれてしまった田中啓子は、自分の座席で教科書に名前を書きこんでいた。別に今やる必要のない用事だ。根を詰め過ぎないよう、気楽な様子を装って書く。誰かが話しかけようとしても躊躇(ちゅうちょ)しないように隙を作っておく。耳には周囲の会話が絶え間なく流れ込んでくる。聞きながらでも、書きなれた名前はすらすらと書ける。

 そんな風にして、入学式後の特有の緊張感と駆け引きの中にいたところで、先の上級生の声が教室に響いたのだ。
 新入生たちの会話がほんの一瞬途切れて、それから三列目の三番目の席にひかえめに視線が集まる。
 啓子は視線をあげた。鼻の奥に、油性ペンの匂いの名残があった。くらりとぼやける頭で、自分の席を数える。
 廊下側から三列目の、いち、に、さん、よん。前から四番目だ。教室内外からの視線が集まっているのは、啓子の一つ前の座席の女子生徒だった。

 彼女は遊泳していなかった。自分の席に座る彼女の周り、珊瑚に集まる魚のように他の生徒が取り囲んでいる。同じ小学校から上がってきたのだろう取り巻き達は、男子も女子も「マリちゃん」「マリナ」と下の名前で口々に呼ぶ。そのたびに彼女が鼻にかかった高い声で「ふうん」「そうお」と相槌を返していた。
 小学校が違うからだろうか、男子が女子を下の名前で呼ぶという文化の違いにまず驚く。そしてマリナの大人びた容姿にも、対応にも、引け目とともに恐ろしさを覚えた。

「うお、かわいい」

 廊下にいる上級生が増えたのだろうか、また声が上がる。前から三番目の席の子。四番目の啓子では当然ない、という事実をいちいち噛みしめる。どうしてだか啓子はいたたまれなくなり、一つに縛ったくせ毛をおろして、顔を覆うように(うつむ)いた。俯いて、また名前書きの作業に戻った。油性ペンの匂いがまたつんと上がってくる。
 目に入る毛先は明るい茶色だが、これは生まれつきのものだ。友人が羨ましがる茶色の地毛も、パーマのような強いうねりのくせも、啓子にとっては面倒なものでしかなかった。上級生に目をつけられやすくなるし、学校には届け出をしなければならない。自分ではない、それこそ目の前の席に座るようなかわいい女の子にこそ与えられるべきものだったんじゃないかと思う。

「ね、なんか廊下に先輩たち集まってるよ」

 マリナと親しいらしい、高い位置でポニーテールをした少女が大きな声を出した。廊下をちらりと振り向き、視線を送りながら、言外にマリナの感想を求めている。

「えー、なんか、やらしいー」

 笑いながら、髪をかき分けたマリナは、さりげなく廊下のギャラリーたちを一瞥(いちべつ)する。それだけで、ギャラリーたちが一層盛り上がるのだった。
 栗色の髪は根元が黒く、きっと校則で禁じられている染色をしている。肩までのストレートヘアに多めのシャギーを入れて、その毛先が枝毛になっているのがやけにはっきりと見えた。傷んだ毛先がマリナの大人っぽさの象徴のようで、妙に艶っぽい。
 やらしいのはどっちだ、と啓子は自分の髪をいじりながら思った。

「ももどう? かっこいい人居そう?」

 ポニーテールの少女はももという名前らしい。脂の艶を感じさせる白い肌が肉感的な顔を覆う。奥二重の目は細く切れ長で、白目は殆ど見えなかった。低くて小さな鼻も相まって、よく太った猫が笑っているようにも見える。

「よく見えないけど、うーん、無しかな」

 再度振り向いたももがそう答えると、マリナは「ひどっ」と笑い、取り巻きの男子女子も「ひどっ」と口々に笑う。そしてもうギャラリーの話題に戻ることは無かった。

 やがてチャイムが鳴り、廊下にいた上級生は一斉に去った。去り際、数人の女子の声で「そうでもないじゃん」「ね」「雰囲気だけじゃね」という声を聞いた。特別大きな声では無かったが、チャイムの後の一瞬の静寂のなかそれはよく響いた。
 啓子の耳に届いたということは、マリナも聞こえたということだ。どうするのだろう、とうかがうと、マリナは彼女たちを鼻で笑った。
 上級生に対するマリナの態度は、啓子の常識からは考えられなかった。小馬鹿にしたように笑う横顔と、形のよい鼻から勢いよく抜かれた鼻息の音が意識から離れない。恐れの感情をはっきりと覚えた。得体が知れず、恐ろしく、気になる存在になった瞬間だ。
 視線を落とすと、名前をとっくに書き終えている教科書がある。
 いつもより丁寧に書いたつもりだが、田中啓子という四角い漢字がますます角ばっていて、うまく書けたと思える出来ではなかった。マリナとはどんな漢字なのだろう。あの子はどんな字を書くのだろう。丸いのか、細いのか、斜めなのか。そんなことを考えているうちに、担任がやっと教室に入ってきたのだった。



 入学初日というのもあり、大概の授業は簡単なオリエンテーリングのみだった。
 唯一、古典の渡貫(わたぬき)だけは教室に入ってすぐに通常の授業を開始したので、生徒からは非難がましい声があがった。渡貫はそれを雑音として処理すると、指定のページを淡々と読み始める。低くて通るが抑揚のない声だ。早くも船をこぎ始める二つ前の席の男子のうなじが見えた。
 その背を真理奈が指先でつついている。つつく、なぞる、ちいさく弾く。男子は気づかずにただ天井にうなじを晒して寝ている。そういえばこの男子は、どこのグループに居たのだろうか。少なくとも真理奈を取り巻くメンバーには見当たらなかった。
 真理奈は諦めたように肩をすくめると、背もたれに寄りかかるようにして上半身全体で啓子の側に振り向いた。

「……ちゃん」

 教科書から顔を上げた啓子は一瞬何を言われているのか理解がおいつかず、呆けた顔で真理奈を見詰め返した。真理奈は眼球まで美しかった。濃茶色の光彩のまわりは緑がかったとび色で、午前の日差しを浴びて実際よりも薄い色に見えた。

「ケイちゃん」

 もういちど、真理奈は言った。

「あ、はい」
「ごめぇん、何かシャーペン持ってない?」

 小さく胸の前で手をあわせて、まゆじりを下げてみせる真理奈だが、特別申し訳なさは伝わらなかった。唇からのぞく八重歯が、きっとそう思わせたのだろう感じながら、啓子はあせって筆箱を探す。
 入学祝いに叔父から貰ったパールピンクの細軸のシャープペンシルがあった。もったいなくて、まだ自分では使っていなかったものだ。ほかには、キャラクターのプリントがかすれたペンや星型の消ゴムつきキャップをはめたちびた鉛筆しかなかった。
 子供っぽかったり、使い古していたり。そんなペンは彼女に渡せないと自然と考えていた。

 パールピンクのシャープペンシルを渡すと、真理奈は「ありがと!ケイちゃん」とだけ言ってさっさと向き直った。
 背中越しに、真理奈のさくら色の爪とパールピンクのシャープペンシルが見える。ノートも用意していなかったらしく、直接教科書に線を引いていた。
 似合っている、それが悔しかった。
 古典が終わり、真理奈は律儀にシャープペンシルを返そうとしてきたが、今日一日貸すとなぜか約束してしまった。言い出したのは啓子だ。
 その返答をとくに驚きもなく受け止めた真理奈が、また白い八重歯を見せて笑う。

「可愛いペンだね」
「そうかな」

 とだけ答えて、手持ちぶさたに髪を結び直したり、次の教科の準備をしたり。八重歯のことは考えないようにしたかった。
 真理奈のもとにももがやってきて、会話が終了した。真理奈とどう関わればいいのか分からない啓子は、はっきりと安堵した。

「真理奈メモとってたね、真面目じゃん」

 ももの手にはピンク色に薄く色づくリップクリームが握られている。どうやらそれを塗りながらきたらしい。ももの席は啓子の後ろだった。

「なんか、目つけられたら無理っぽい先生だったから」

 無理っぽいとはなんだろう、と思いながら啓子は次の数学の教科書のかたい表紙にきっちりと折りを入れて開き癖がつくようにする。真新しい教科書の匂いにまじり、イチゴの香りがももの持つリップから漂ってきた。どちらも人工的だけど、教科書の匂いの方が落ち着く、と思った。

「ケイちゃんが貸してくれたんだけどね、可愛いペン」

 また真理奈がこちらを振り向く。手のひらでぐいぐいと開き癖をつけていた啓子は、自分が汗をかいている気がしてさりげなく前髪を直してかおを上げた。
 ももは身長が高い。骨格から大きいような健康的な体つきをしていて、見下ろされると真理奈とまた別の迫力と緊張感があった。

「そうなんだ、後ろの席だねえ、よろしく」
「田中です。よろしく」
「そ、田中ちゃん。ケイちゃんね」

 二人の興味はすぐに啓子かららそれた。真理奈が前の席の男子の背を指先でぴんと弾いたからだ。

「ソウくんずっと寝てるし! 渡貫こっち見てたよ! 私までちゃんとしてないのバレるじゃん!」
「あんだよ? 俺?」

 うなじの少年が振り向いた。うなじと同じ白い肌で、顔色が悪く、まだ眠いのか目は半開きだ。半開きのまぶたの奥は不思議とギラリと光っていた。

「そ、ソウくーん」

 自己紹介で高木奏と名乗っていた少年は、真理奈のなかではもうソウくんにされてしまった。それが格上げなのかは分からないが。

「叩くなよな」

 高木奏の返答はフラットだった。啓子にはそう感じられた。それで少し興味を覚えて、自己紹介の続きを思い出してみる。
 遠い学区から来ている。高木奏の出身小学校は二つの中学校の学区の中間あたりで、大体は部活動が有名で学園祭も華やかなもうひとつの学校に行く。このクラスにも高木奏と同じ小学校の出身者はほかに二人しかいなかった。
 高木奏は、軽音楽部があるからこちらの中学校を選んだのだという。父親の影響で洋楽が好きで、ギターをやっているとも言っていた。顔色も悪く生白い印象だが、ワイシャツをめくった腕は筋が目立ち、男子の腕だった。手も大きく、指の先は乾燥して硬そうだった。
 それが自己紹介の時に啓子が観察した高木奏の姿だ。

 自己紹介で趣味のことを長々と話す男子は珍しかった。大抵は、名前と出身小学校、好きなドラマや漫画と、入りたい部活をぼそぼそと話して終わる。たまに調子に乗った男子が好きなアイドルをあげて騒がれたり、あだ名を名乗ったり、それくらいだ。好きなものとその理由を淡々と、準備してきたかのようにすらすらと話す奏は、他の男子よりも大人びて見えた。

「ソウは演奏の、奏です」という言葉を聞いて、啓子はこっそりと電子辞書で調べた。履歴を誰かに見られたらと思うと、とたんにとんでもないことをしてしまったような気がした。電子辞書を閉じた時、ぱたんと意外に大きな音がしてしまった。大きな、とは言ってもそれは前後左右の席に聞こえるくらいだろう。
 こん、と指先で机を叩かれて顔をあげると、小さくウインクをする真理奈と目が合った。啓子はバツが悪くなって、目線で、前を向くように真理奈を即した。奏の自己紹介は終わっていて、真理奈の番を教室中が待っていた。

 真理奈が立ち上がり、ゆっくりと教室を見渡してからにこりと笑ってみせた瞬間、啓子は、真理奈に集まる上級生の視線から逃げるように、髪をおろして顔を隠した自分を思い出した。自分など誰も見てないというのに、それでも比べられることを恐れていた。恥じても居た。
 人民の人民による、とでも演説をしそうなほど堂々とした立ち姿で、真理奈は「マリナって呼んでね」とだけ告げた。それは聴衆にとってもはや、守るべき規律となった。鷹藤真理奈は、『マリナ』と呼ばねばならない。
 それからちらりと啓子の机の上の電子辞書に視線をやると、真理奈は「ちなみに漢字は、真理に、奈良県の奈です。よろしくね」と首をかしげて微笑んでみせて、すべての反応も余韻も拒否するかのように、糸の切れた人形よろしく重力のままに着席したのだった。

 教室の空気が一気に演説会場のそれに変わってしまって、静かな熱気が立ち上っていた。当の真理奈は機嫌よさげに爪をいじったり眺めたり、もう自分の爪以外の何にも興味がないという様子で座っている。
 啓子の順番だった。
 電子辞書で高木奏の漢字を調べていたことが真理奈にバレていたのだ、という動揺に頭が真っ白になっていた。
 そのまま、何を話したのかもわからない自己紹介を終えるしかなかった。啓子は名前の漢字について、紹介しなかった。説明もしにくい、かたい漢字だ。それに意味も自分に合わないと思う。ひらく、教え導く、どれも自分からはほど遠い。

 マリナが真理という字を持っているということの皮肉も同時に思う。偶像、アイドル、そんなふるまいの真理奈の内の真理とは何なのだろう。そんなものがあってもなくても、きっとその真理を求めたいと思わせる力だけで、真理奈は支配者にもなれるし、火種にもなれるのだろう。
 そのくすぶる火はすでに教室に生まれている。啓子のうちにも、無意識に生まれていた。