いきなりだが、寿は麺を啜るのが下手だ。
どうしていきなり夏原(なつはら) 寿(ことぶき)という男の、しかも麺を啜るのが苦手というさして受験にも人生の教訓にもならない話を出したかというと。

「……今回もできそうにない」

目の前でその夏原 寿がラーメンを啜ろうと奮起しているからである。

人が何かに考えを馳せる時、大抵その答えは単純なものに辿り着く。

「まあも少し粘ってみろよ」

俺は脱力したように笑ってから、何気なく麺を啜る。この間行った家系ラーメンとは違い、魚介たっぷりのあっさりとしたそれは、熱と共に旨みが口いっぱいに広がった。啜りながら、程よく熱を覚まし、咀嚼して、飲み込む。その、単調な繰り返し。そして、それができない寿は、箸とレンゲを手にしたまま、その様子を見つめてくる。

椿木(つばき)はなんでそんな上手く啜れるんだ?」

まるでお手本を見るような視線をこちらに寄越しながら、向かいに座る寿が訊ねてくる。俺は咀嚼をしたまま、目の前の寿を見つめ返す。回転率の良いラーメン屋の天井の隅に備え付けられたテレビから、笑い声が聞こえる。店員のしゃっきりとした声と、客の麺を啜る音。麺の硬さだとか、無量の半ライスだとか、餃子は頼むか頼まないかだとか、そういう会話だけが店内に飛び交っている。

「(ほんっと、似合わねえなあ)」

寿とこうしてラーメン屋に足を踏み入れる度に、飽きもせずに思う。目の前の男は、ラーメン屋がこの上なく似合わない。
帰国子女でありながら、越してきた先で最も近い高校が、俺のような平々凡々しかいないところしかなかった寿は、あらゆる場面で浮いていた。偶像化されていた、と言った方がいいかもしれない。
そんな寿は、転校してきた初日で、隣の席だった俺に、なぜか懐いた。俺がラーメン屋でバイトしていると知った寿は、ひとりで入店してきたかと思えば、券売機の前で立ち尽くした。寿と、庶民の平凡は別世界だった。

「坊ちゃんにはまだ修行が足りんのよ」

ふふん、と冗談を交えた口調で答えれば、寿は納得いかないように眉根を寄せる。
口数は多くないが、寿は意外と表情に出やすい男だった。寿は気を取り直して、姿勢を正すと、髪を耳にかけた。その濡鴉のように綺麗な黒髪と同じく、その双眸も黒く艶やかだ。深い印象を与える黒は、目尻にかけて緩やかに落ちゆく垂れ目によって柔らかな雰囲気を滲ませている。
その美しい黒に反して、高い鼻梁も、形の良い眉も輪郭も、小さな黒子を下側に携えた唇も、寿を、どこか日本から離れた血を思わせた。
俺は寿の美しさをオカズに、咀嚼したものをごくりと喉奥へと流し込む。
ぶっちゃけ味なんて途中からわからなかった。寿の美しさは味覚さえも故障させるらしい。

「椿木に聞いた俺が馬鹿だった」
「あ、お前、その顔。高校までラーメンを食べたことのない坊ちゃんが不服そうな顔すんな」
「俺はもう2年もこいつに挑んでる」
「2年? 笑わせるな。俺はそこに×8.5は修行を積んでるんだ」

メンマを口に放り込みながら横暴な態度で言ってみせれば、寿はム、とした顔をする。それから、手元の一向に減らない麺から顔を逸らしながら素っ気なく呟く。

「長ければいいってものじゃないだろう。同じ期間だけ教育を受けてるはずなのに椿木は俺の×9は学業が不足してる」
「おい、さりげなく0.5増えてんぞ」

怒るふりをしつつも、寿に言われる言葉はどれも俺の頬を緩ませる力を持っている。
寿は今回も啜ることを諦めように、レンゲの上に麺を適量乗せ、ぱくりと口の中へ運ぶ。その仕草はどんな女子がやるよりも静かで品がある。
ラーメンを啜るよりもよっぽど高等教育を受けている寿に似合うのは、どうしたって星のついたレストランなのだろう。そしてきっと、俺はその星のついたレストランには入れない。一生、似合わない。

「なあ、寿。」

本当なら関わりのない、俺と寿。

「──もうやめる?」

食べ方を変えただけで食事のスピードを上げた寿に、そっと、何気ない声を努めながら、訊ねた。

食べる直前で、ぴたり、と動きを止めた寿が、わずかに上目遣いで俺に視線を寄越す。
その黒真珠の瞳が、すう、と細められた。寿の表情はわかりやすい。
けれど、時々不意に見せつけられる〈この仕草〉の意味だけがどうしても俺には理解できない。

「何を?」

静かに問い返されて、俺は「んー?」と誤魔化すように口角を上げた。その針のように突き刺さる視線から顔を逸らし、湯気の立つ麺を、意味もなく箸で器の端に纏めていく。スープの上に浮いた油が、ぶわりと形を変えて2つに割れた。

「いや、別に麺が啜れなくても寿だったら女子にはモテるから無理すんなよっていう、俺の心遣いなんだけど、」
「どうして異性が今の話で出てくるのかわからない」
「女子とはなかなかこういうラーメン屋には来ないだろ。デートだったらなおさら」

いつもの調子を崩さないように、お調子ものの声色で言ってみたけれど、どこかぞんざいな言い方になってしまう。溜息が溢れる。左手に持っていたレンゲがゆるりと力を失った指先から落ちて、器の縁を滑り、そのまま弧を描くように縁から逸れて、汁の上に落ちた。その(さま)が、まるで、俺。
俯いた視界の先に、す、と寿の細く綺麗な指が現れたかと思えば、汁の上に落ちたレンゲを躊躇いもせずにそっと持ち上げる。

「椿木は一緒にラーメンが食べられる奴のがいいだろう?」

そのレンゲの行方を追うように顔を上げた先、持ち手をティッシュで丁寧に拭う寿の顔へと移る。その端正な顔が、問いの答えを待つように、まっすぐと俺を見つめていた。思わず、頷く。

「え? あ、うん」

寿は綺麗にしたレンゲを再び俺の前に差し出す。

「だとしたら、俺にやめるつもりはない。」

穏やかな口調はいつもの寿だが、はっきりと言い切る低い声に、俺はいつもの冗談を返せずに、ただ静かに「うん」と頷いた。
食べることを再開した向かいの寿はもう一度、麺を啜ろうと試みている。そして、やはり失敗する。
寿は麺を啜るのが下手だ。

人が何かに考えを馳せる時、大抵その答えは単純なものに辿り着く。
──ただ、そこに深く感情が絡み始めるとその思考は細々と枝分かれし、自分でさえも理解できない境地にまで、先に走り出してしまうことがある。

「無理すんなよ」

そう言って俺はお手本のように麺を啜る。目の前の寿は、俺の励ましの言葉に、若干不服そうな視線を俺に向けてくる。その視線を受けて、俺は呆れたように笑う。今度は、彼の胸にまっすぐと届く確かな言葉を選ぶ。

「……また別のところで頑張ってみればいいだろ?」

たとえばそう、実は俺が表向きの発言とは打って変わって、寿にはいつまで経っても麺を啜れない人間であってほしいという矛盾を孕んでいることとか。

「うん」

俺の言葉にわずかに口角を上げて笑う寿を、ずっと見ていたいとか。