宴会が行われるのは、鬼の当主達が住むという本家だ。
 本家に訪れたのは、前世でのお披露目の時以来だ。あの時は緊張していたせいか、殆ど記憶が残っていない。なので、久しぶりにやって来た本家の荘厳な外観に目を剥いた。
「こ、こんなに広かったですっけ」
「広さは変わっていないはずだ」
 ちょっとした遊園地くらいの広さはあるだろう。一度入ったら迷子になってしまいそうだ。
 不安感から伊織と繋いでいる手をぎゅっと握りしめる。
「どうした? 帰るか?」
 伊織は琉歌の不安を感じ取るとすぐに帰ろうとする。
「帰らないです」
 その度に首を振り、足を進めた。
「早く入ろうぜ」
 天馬にも促され、琉歌達は本家の門をくぐった。
 宴会が行われるのは日が暮れてからだが、その前に着替えなければいけない。伊織によると着物や化粧の準備は本家の方でしてくれるらしい。
「いらっしゃい、伊織、天馬君、それから琉歌さん」
 琉歌達を迎え入れてくれたのは、昨日よりも顔色の良い純恋だ。薄紫の着物がよく似合っている。
「宴会、すごく楽しみなのよ。美味しいものをたくさん用意しているからね」
 そう言って笑う純恋の片方の口角が引きつっているのに気づく。もしかしたら彼女も天馬と同じように怖がっているのかもしれない。その恐怖を脱却するためにこの宴会は開かれたのだろうと予想がつく。早々に準備が整っていったのも純恋の精神面を考慮してのことだろう。
 トラウマを乗り越えるために避けようとしたのが天馬で、上書きしようとしているのが純恋だ。
 伊織にも天馬にもそれが伝わったようで、ふたりとも純恋を責めなかった。
「じゃあ、入って。三人とも着替えましょうね」
 着替えを手伝ってくれるのは本家で働いている使用人だ、と聞かされた時、伊織が反発した。
「信用できない」
「え?」
 純恋が子供みたいに瞬いた。
「俺が知っている者に手伝わせてくれ」
「伊織が知っている使用人なんて、男性ばかりだから駄目よ。わがまま言わないで」
 純恋の声が微かに震える。苛立ちがこもった声に伊織は憮然とした態度を崩さない。
「それじゃあ、母さんが着替えを手伝ってくれ。それか、天馬をつけるか……」
「純恋さんは忙しいし、天馬は男の子でしょ。駄目よ」
 伊織と純恋の話に割り込んだのは、美晴だ。今しがた来たようで右手には荷物がぶら下がっている。
「私が手伝ってあげる。感謝しなさい」
 相変わらず高圧的な態度ではあるが、提案自体は有難い。琉歌は別段天馬と着替えることになっても気にしないが、手伝ってくれる使用人は困惑するだろうし、変な噂がたって問題になるのは避けたい。
「美晴さん、ありがとうございます」
「勘違いしないで、あんたのためじゃないから。私はまだあんたが本物だなんて認めてないから」
 美晴は琉歌の手を取ると廊下を慣れた様子で進んでいく。
「おい、美晴。手荒に扱うな」
「丁重に扱ってるわよ」
 美晴は、伊織にも刺々しい物言いをした。琉歌にはずっとこうだったが、伊織にはもっと柔らかかった記憶がある。
 何か、あったのだろうか。琉歌の腕を掴む美晴の華奢な手を見ながら首を傾げた。
 美晴に連れてこられたのは、大きな姿見があるだけの一室だ。
「男子禁制だから。伊織と天馬はここまでよ!」
 ついて来ていた伊織と天馬に言い放ち、鼻の前でぴしゃりと襖を閉めた。
「琉歌、すぐ傍にいるから何かあったら呼んでくれ」
「伊織も準備があるでしょうが」
 美晴が呆れた様子で言い放つ。加えて「何もしないわよ」と言うと伊織は渋々その場から去った。
「さて、じゃあ準備するわよ」
 美晴は言葉とは裏腹に優しい手つきで着付けを施してくれた。
「この着物は伊織が選んだんだって」
 身に着けた着物は華やかな赤色だ。
「琉歌の赤毛に似合うからだって。千年前にオーダーメイドしていたよ」
「え、千年前から?」
「そう。まぁ、千年前に作ったものは朽ち果てちゃったから、これは新調したものだけどね」
 伊織が琉歌を想ってオーダーした着物は、赤に蝶が散っている。
 姿見に映る着物姿の自分は、何の違和感がない。様相よりも馴染んでいる気がした。
「伊織は、ずっとあんたのこと好きだったんだって。一目ぼれしたけど、素直になれないって、どうしたらいいか聞かれたよ。私はさ、幼馴染の恋に嫉妬しながらも応援していたの。むかつくけど、幸せになってほしかった」
 琉歌の髪を解きながら独り言のようなトーンで美晴が言う。
「幸せそうだったよ、あんたといる時」
 手が止まった。
「ねぇ、教えてほしいんだけど」
 美晴は言葉を切る。姿見越しに美晴の揺れる瞳と目があった。
「どうして、自死なんてしたの?」
「え?」
 何を言われたのか一瞬わからなかった。
 自死、と聞こえた気がしたが、そんなわけないと打ち消す。
 混乱している琉歌を置いて、美晴は言葉を吐き続ける。
「私が帰って来るなって言ったから? あんなの冗談じゃん。嘘だよ。むかつくから言っちゃっただけ。本当に思っていたわけじゃ」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
 怒涛の言葉を慌てて止める。
「なによ」
「自死ってなんですか? 私、自殺したことになっているんですか?」
「はあ? 何言ってんの、そんなの当たり前……」
 琉歌の驚きに満ちた表情を見た美晴が言葉を止めた。
「え? もしかして、自殺じゃないの?」
 怒りで澱んでいた美晴の目が、困惑に変わる。
「私が死んだのは」
 理由を思い出そうとしたのに思考に靄がかかってうまくいかない。
 今まで何も疑問を抱いていなかったが、自分の死因を思い出せないことに気が付いた。
「えっと、あれ?」
 鬼の家で宴会が行われるから一時的に実家へ帰った記憶はあるが、その後が曖昧だ。思い出そうとすると途端に頭の奥がずきずきと痛む。
 痛みに呻くと美晴が慌てた様子で隣に腰を下ろした。
「大丈夫?」
「はい。落ち着きました」
 痛みが引き、ふうと息を吐く。
 美晴は表情に緊張感を滲ませながら琉歌に言った。
「私とあんたで認識の齟齬があるみたいだから擦り合わせをした方が良さそうね」
 琉歌と美晴は向き合い、お互いの知らない部分を補いために口を開いた。
「鬼の家にあんたの訃報が届いたのは、宴会が始まってから三時間後くらい。日付が変わってすぐだった。すぐに天狗の家に行き、あんたの遺体や周辺を確認した所、不審な者はいなかったし、誰かが侵入した形跡もない。そもそも伊織の式神を搔い潜って中に入るのは不可能な状態だった。あんたの死因が毒だったのもあって、自死だろうと結論が出た」
「毒……」
 その瞬間、最期の記憶がフラッシュバックする。
「部屋に置いてあったグラスの水を飲んだんです。それからすぐに苦しくなって……誰かが、毒を入れてんですか?」
 それしかないと思ったのに美晴は煮え切らない返事をした。
「その水がいつ用意されたのか分かる?」
「えっと、たしか……」
 琉歌が実家へ帰ってから自室へ入った回数は二回。食事の後と寝る前だ。記憶を必死に巡らせ、いつからあの水が置かれていたのか思い出す。
「部屋に籠っている時にはまだなかったと思います。その後、お風呂に入りに行った時に部屋を空けました。その後、戻って来た時にはもうあったはずです」
「ということは、あんたが風呂に入っている間に入れられた可能性が高いのね」
 時間が絞れれば犯人の特定に繋がると希望を抱いたのに、美晴は首を振った。
「犯人は特定できない。さっきも言ったけど天狗の家は伊織の式神が守っていたから不審者は侵入できなかったのよ」
「私が家に帰った時に既に家の中にいたのなら?」
 琉歌の帰宅は天狗の家に知らせていた。情報が洩れていたのなら侵入者が潜伏している可能だってある。
「それもない。伊織から説明を受けてない? 伊織の式神は妖術と殺気に反応するの」
「あ、そういえば、聞いた気がします」
 伊織の警備は完璧だった。その最たる理由が、殺気へ反応できることだった。
「誰かが琉歌を殺そうと毒を入れたのなら式神の感知に引っかかるはず。式神が反応しなかったということは、あの場に琉歌を殺そうとした者はいなかったってことよ。だから、琉歌は自死したっていう結論になったの」
 状況から考えて琉歌が誰かに殺されたとは考え難い。しかし、琉歌だけは自分が自死ではないとはっきりと言い切れる。
「私は絶対に自殺ではありません」
 美晴の目を見つめ断言した。
「そっか」
 美晴の瞳の奥がゆらっと揺れた。
「伊織の式神は完璧だから誰も疑えなかった。それに天狗の実家で不当な扱いを受けていたって天馬に聞いたし、鬼の家でも幸せとは言い辛かったかもしれない。自死の要因は散らばっていた。私があんたに帰って来るなって言ったのもきっと要因だって皆思っていた」
 その声色には不安や懺悔が滲んでいる。
 きっと純恋と同じように自分を責めてきたのだろう。周りに対しての刺々しい物言いは、虚勢を張っているようにも見えた。
「気にしてなかったです。帰るつもりでした」
 帰りたいという願いは、あの時は叶わなかったが、時を超えて叶った。
 それでいいと今なら思える。
「もう昔のことは忘れましょう」
 琉歌はもう自分のせいで誰かが自責の念に駆られているのを見るのが辛かった。
 前世のことはもう過去として清算し、これから新しい未来を生きればいい。そう前向きに考える琉歌に美晴は緊迫感のある声で言った。
「昔の話で終わっているならいいけど、そうじゃないなら?」
「どういう意味ですか?」
「犯人がまだ生きていたら、また琉歌を殺しに来るかもしれない」
 美晴の言葉にぞっと背筋が冷えた。
 殺意のない殺人鬼が琉歌を虎視眈々と狙っているかもしれない。急に怖くなり、辺りを見渡した。当たり前だがこの部屋には美晴と琉歌以外はいない。
 しかし、前世だって琉歌はひとりきりの部屋で死んだのだ。いつ何が原因になるかわからない。
「……宴会は危険かもしれない。今からでも中止にした方がいいかも」
 美晴が呟く。
 不特定多数が入り混じる場で琉歌の安全がどれだけ確保できるかわからない。伊織や彼の両親には悪いが、安全を優先した方が良さそうだ。
 伊織ならばふたつ返事で頷いてくれるだろうと考え、ふと、違和感に気が付く。
 琉歌が自死をしたと思っているのに伊織はその話題に一度も触れなかった。よくよく考えれみれば天馬にも言われていない。
「どうして自殺したんだって伊織達は聞かなんだろう」
「思い出してほしくなかったんでしょうね。死んだ時の気持ち。死んだ原因を思い出して、苦痛を感じた琉歌がいなくなるのが怖かったんだよ」
 伊織はずっと琉歌を気遣ってくれたのは、そういう理由もあったのか。
 もしかしたら一緒に寝たがるのにも琉歌をひとりにするのが怖いという理由が隠されていたのかもしれない。
「それじゃあ、今から伊織様の所へ行きましょう」
「ちょっと待って。あのさぁ」
 早速部屋から出ようとした琉歌を美晴が引き止めた。
「……ごめん、酷い態度をとって。言っちゃいけないこと言った。本当にごめん」
 改めて頭を下げられ、琉歌はすぐに顔を上げさせた。
「そんな謝らないでください。気にしていないですよ。大丈夫です。犯人については過去のものと割り切れないけど、千年も前の発言なんて覚えていなくていいですよ。忘れましょう」
 もう忘れてほしいのだと伝え、この話は終わりだと手を打った。
 そして伊織と会うために廊下へ出た。
「伊織様がどこにいるのかって分かります?」
「うん、こっちにいるからついて来て」
 美晴の案内に従い廊下を進んでいく。本家は使用人の数が多く、宴会の準備をしているらしい鬼とすれ違った。手にお茶請けを持っているので来客があったのだと察する。もしかしたらもう何人か集まっているのかもしれない。
 気持ちが急くのに比例して歩く速度も上がっていく。
 廊下の角を曲がったところで、死角から現れた人物にぶつかりそうになった。
「わっ」
 美晴が華麗に避けたのに琉歌はよろけて転びそうになる。
「おっと」
 その琉歌の体は前方から伸びきた手によって支えられた。
「大丈夫? って、あれ、琉歌さんだ」
 ぶつかりかけた男性は、伊織の叔父である総一郎だった。彼の見た目はほっそりとしているが、琉歌を支える手は意外にも安定感がある。
 総一郎から身を離し、ぺこぺこと頭を下げた。
「すみません、前を見てなくて。ぶつからなくて良かったです」
「いいよ。僕もぼうっとしていたからお互い様だよ。それより、もう準備は整っているのかな?」
 総一郎が琉歌の着ている着物を見ながら言った。
「いえ、それがちょっといろいろありまして」
「いろいろって?」
 総一郎に話してもいいのか、ちらりと美晴を見ると首を横に振られた。
 言わない方がいいという意味だろうと解釈し、何とか誤魔化そうと必死で思考を巡らせる。
「まぁ、言えない事情もあるだろうから深くは聞かないよ。それよりも琉歌さん、ありがとうね。宴会を開いてくれて」
「え?」
「琉歌さんが帰ってきてから義姉さんの精神が安定しているんだ。宴会っていうトラウマを乗り越えたら完治すると思う。本当に感謝してもしきれないよ」
 鬼の本家で純恋達と共に暮らしているらしい総一郎は、鬼の当主と同じくらい純恋の回復を願っているのだ。腰を折って感謝を告げる総一郎の声色から心底安堵しているのが分かった。
 駄目だ、と思ってしまった。
 琉歌がここで宴会を中止にすれば、純恋は完璧にはトラウマから脱却できないかもしれない。皆の中で琉歌の死は過去のものにならずにずっと痛みを与え続ける。それは、嫌だった。
「琉歌、どうした?」
 背後から聞こえてきた声にはっと振り返る。
 すぐ後ろに着替えを済ませた伊織が立っていた。自然な動作で肩を抱かれ、急激に近くなった距離に恥ずかしさよりも安堵感を覚える。
「叔父さん。一体何の話を?」
「宴会楽しみだねって言っていただけだよ、ね、美晴ちゃん」
 伊織が美晴に視線を向ける。美晴が頷いたのを見て「そうですか」と平坦に返したが、その後すぐに琉歌と目を合わせる。探るような視線に頷きで答えた。
「仲睦まじいようで安心したよ」
 と総一郎に微笑まれ、伊織の身内の前で密着しすぎたと慌てて伊織の腕の中から逃げ出した。
 伊織が何か言おうと口を開いた時、純恋が廊下を歩いてくるのが見えた。
「あ、いた。もう皆揃ったから始めますよ」
 純恋はぱたぱたと小走りで近づいて来て、琉歌の着物姿を足元からつま先まで確認し、満足げに頷いた。
「うん、可愛い。よく似合ってるわね」
「ありがとうございます」と返した瞬間、手を握られ引っ張られた。
「もう天馬君と太陽は会場にいるから、行きましょうね。宴会たくさん楽しんで」
 大きな声と強引さは陽気に映る一方で、よく見れば顔が少しだけ強張っている。
 そんな姿を見て、中止にしようなどとは琉歌も美晴も口にできなかった。

 宴会が開かれる大広間には、百人近くの鬼達が既に座って待っていた。
 琉歌が部屋に入った途端、今まで雑談を繰り広げていたらしい鬼達が一斉に口を閉じた。目をこれでもかと見開く者や呆けた様子でぽかんと口を開けて琉歌を見つめる者もいる。
 琉歌が生まれ変わった話は本家以外には伝えられていないようだった。
 しんと静まりかえる室内を歩き、上座に伊織と共に腰を下ろす。普通は当主が上座に座るものだが、今日の主役は伊織なので当主は鬼達に紛れてどこにいるのかわからなかった。
「本日は集まっていただきありがとうございます。昨日、こちらにいる琉歌と籍を入れましたので、どうぞよろしくお願いします」
 伊織は無表情のまま決められた台詞をなぞる様に言い、軽く頭を下げる。
 鬼達はざわついていたが、当主が拍手をし始めると追従し始め、室内は拍手の音でいっぱいになった。
「あ、あの」
 拍手の音よりも大きな声を出しながら部屋の中央辺りにいた中年の女性が立ち上がった。
「その方は昔の婚約者様とよく似ていらっしゃいますが、他人の空似でしょうか? 失礼ですが、伊織様は騙されていませんか?」
 じっと射貫くような視線は、琉歌への警戒が滲んでいる。女性の発言に一気に室内が緊張感で包まれた。
「問題ない。騙されてもいないから安心してくれ」
 伊織はその言葉で一蹴した。
 鬼達の中には発言したそうにしている者もいたが、宴会の場で空気を乱すわけにはいかないと思ったのか誰も何も言わず、徐に飲み物が入ったコップを手に取った。
 琉歌も近くに置かれていたコップを手に取り、高い位置に掲げた。
「では、結婚を祝いまして」
 乾杯の音頭をとったのは当主だ。穏やかな声に皆が掲げていたコップを合わせた。
 酒が入ってしまえば深刻な雰囲気は消え、すぐに陽気な空気に包まれた。鬼は酒飲みが多く、テーブルに乗っている酒や食べ物がどんどんなくなっていく。
「すごいですね」
「いつも以上に酒の減りが早いな。琉歌も遠慮せずに食べていいからな」
 琉歌は何も食べる気になれなかった。乾杯をしたお茶にすら口をつけていない。
 前世で水に混入していた毒で死に至った話をした後では、何を口に入れるのも怖かった。
「緊張しているからですかね、お腹空いてなくて……」
 食欲がないのは本当なので嘘は吐いていないが、誤魔化している自覚があるので気まずくなって目を逸らす。伊織は目ざとく気が付いた。
「何かあったか?」
 耳元に口を寄せられ囁くように問われる。
 伊織に話したいが、大衆がいる場で打ち明けるべきではないだろう。しかし、ふたりで抜け出すのは不自然だ。
 悩んだ末に琉歌は伊織の耳に顔を寄せ、囁く。
「伊織様、実は――」
 不意にどこからか強い視線を感じた。
「琉歌? どうし」
 伊織の言葉に被せるように誰かの怒鳴り声が部屋中に響いた。その瞬間、ひゅっと風を切る音が耳の近くでしたとと同時に伊織の腕の中に抱き込まれた。
 一瞬で視界が暗くなり、何も見えなくなる。何が起きているのかわからず困惑する。視界が塞ががれているので頼りになるのは聴覚しかないのに、何故か無音だ。
 何も聞こえなくなってしまった、とパニックになりかけた琉歌に伊織の声が落ちてきた。
「琉歌、怪我は?」
「大丈夫です。えっと、一体何が?」
 抱きかかえられたまま辺りを見渡す。
 部屋の中は一瞬でぐちゃぐちゃになっていた。テーブルはひっくり返り、上に乗っていた皿が散乱している。琉歌の傍では大量にガラスが割れている
「な、何があったんですか?」
「あいつが暴れたんだ」
 伊織の指さす先には、女性が周りの鬼達に拘束されていた。
 その女性は先ほど伊織に「騙されていないか?」と聞いていた鬼だ。暴れようとはせずに、ただじっと憎しみの籠った目で琉歌を見ていた。
「人間風情が伊織様に近づくな! 身の程を弁えろ!」
 周りの鬼達が女性の口を塞ごうとやっきになっているが、女性は首を振り声を荒げる。
「汚らしい天狗が死んだと思ったら、どうして次はあれよりも下級の人間を選ぶんですか! 伊織様は騙されていらっしゃいます。どうか、目を覚ましてください。その人間がいるから駄目なんですよね。私が消して差し上げますから」
「おい、黙れ!」
 鬼達の怒号が飛ぶ。
 琉歌は女性の澱んだ目を見ていられなくなり、俯いた。すると今まで黙ってみているだけだった伊織が琉歌を置いて立ち上がろうとした。ふっと今まで近くにあった体温が遠ざかり、慌てて伊織の着物を握りしめて引き止める。
「伊織さ、ま」
 見上げた先、女性へ視線を向ける伊織の目は見たこともないくらい冷たく、ぞっと腹の奥が冷えた。自分に向けられたわけじゃないのに伊織の怒りは怖かった。しかし、このまま離れてしまう方がよっぽど嫌だった。
 荒れ狂う感情のまま女性の元へ行こうとする伊織の名前をもう一度、今度は強く呼ぶ。
「伊織様、行かないで」
 ぎゅっと抱き着くように腕を回すと伊織の動きが止まり、驚きで丸くなった目が琉歌を見た。
「お願いします、ここにいて」
 懇願すると伊織の怒りが萎んでいくのが分かった。
「悪かった、冷静じゃなかったな……ここにいる。ひとりにしない」
 もう一度抱きしめられ、ほっと安堵の息を吐いた。
「どうして!」と女性が喚く声がする。癇癪を起した様子でそれからも何か理解できない言葉を吐き続け、鬼達に連行されて部屋から出て行った。
 女性の声が聞こえなくなった瞬間、部屋に残っていた皆が大きく息を吐き出した。
「まさかあんな暴挙に出るなんて」
 鬼達は緊張感から解放され、各々話を始めた。
「琉歌、怪我はないか?」
「大丈夫です。助けてくださってありがとうございます」
 近くに散乱しているガラスの破片から察するにグラスを琉歌に向かって投げたようだ。伊織が抱き寄せてくれなかったら直撃していたかもしれない。
「無事ならいい。怖かっただろう。もう今日は休もう」
「でも」
 琉歌は部屋を見渡し、天馬達の無事を確認した。
 天馬は太陽に抱き抱えられている。その隣には美晴の姿もあった。三人とも何ともないようで、目が合うと太陽の腕からぴょんと飛び降りて寄って来た。
「おい、大丈夫か?」
 そう聞いてきた天馬の顔色は青白く、血の気が引いている。
 琉歌よりも余程大丈夫じゃなさそうだ。
「大丈夫だよ」
 しゃがんで天馬と目線を合わせ、その丸い頬を撫でる。
 安心させるために宴会に参加したが逆に心労をかけてしまった申し訳ない気持ちになる。そして、安心させたかったもうひとりのあやかしを思い出してはっと顔を上げた。
 純恋は当主の隣に立っていた。少しだけ顔色が悪く見えたが、琉歌と目が合うと微笑んでくれた。表情は硬いが、不安定さは感じない。大丈夫そうだと安堵した途端、体から力が抜けた。
 よろけた所を伊織に支えられる。
「もう戻ろう」
 返事をする前に抱き上げられ、そのまま部屋を出ていく。
「伊織様、歩けますから」
「俺が抱えていたいんだ。悪いが、我慢してくれ」
 切なさを滲ませた声で言われ拒否できなかった。琉歌は、伊織の首に腕を回し、周りから顔が見えないように俯いた。
 そのまま部屋を出ようとしたが、その直前に聞こえてきた言葉に伊織の足が止まった。
「前の襲撃もあの女だったのかもな。ほら、あっただろ、町の喫茶店で」
 町、喫茶店、襲撃。という単語で琉歌の頭には、伊織との最初で最後のデートで妖術によって操られていた男性に殺されかけた記憶が蘇る。
「あの女、明らかに天狗を下に見ていたからな。あり得る」
 先程、女性は確かに『汚らしい天狗』と言っていた。あれは前世の琉歌のことで間違いないだろう。
 天狗に対してなのか、それとも琉歌の羽がみすぼらしかったからなのかは判断できないが、人間というだけで殺そうとするのなら、妖術を使って琉歌を襲わせた可能性はある。
「もしかして、毒もあの鬼が?」
 疑問がつい口から出て行った。
 その瞬間、琉歌を抱く伊織の腕の力が強くなり、うっとうめき声をあげた。
「伊織様?」
 どうしたのかと問う琉歌の言葉には答えず、伊織は足を進めて部屋を出た。
 それから家に着くまでの間、伊織は一度も口を開かなかった。

「おかえりなさいませ」と玄関先で迎えてくれた使用人は、伊織に抱きかかえられている琉歌を見て、一瞬動きを止めたが、何事もなかったかのように自分の仕事に戻って行った。
 伊織は琉歌の部屋に入るなり、琉歌を床にそっと下ろした。
「毒って、なんのことだ?」
 見上げた先にあった伊織の表情は硬い。
 琉歌は伊織の手を引いて正面に座らせた。美晴との会話を反芻しながら話す内容を整える。
「前世で、私は自殺したことになっていると聞きましたが、自殺ではありません」
 そう言うと伊織は息を呑んだ。
「枕元にあった水に毒が入れられていました。伊織様の式神が殺意に反応しなかった件に関しては説明できませんが、絶対に自殺ではないと断言できます」
 じっと伊織の目を見つめながら、できるだけ真摯に聞こえるように言う。
 伊織は、吐息のとうな声を吐き出した。
「本当に?」
「はい。私は、伊織様の元に帰るつもりでした。帰りたかったです」
 膝の上に置かれている伊織の手を握る。緊張しているのか、いつもよりも温度が低くひんやりとしている。
「伊織様にもう一度会いたかった」
 声に出して初めて、自分の気持ちに気が付いた。
 あの時、死の淵にたった琉歌は確かに伊織に恋をしていた。あれが恋でないのなら琉歌は恐らく誰にも恋などしない。
「あなたが好きです」
 その言葉はすんなりと口から出て行った。
 告白など前世を含めて初めての経験だったが、不思議と恥ずかしさは少しもない。むしろ伝えられた喜びで口角が上がった。
 心に余裕がある琉歌と対照的に伊織は、びしりと固まってしまった。
「伊織様、だいじょうぶ」
 ですか、と言い終わる前に琉歌は再び伊織に抱きしめられていた。骨が軋んでしまうほどの強い抱擁に「うっ」と小さく呻く。痛いと反射的に言いそうになったが、すぐに伊織の肩が震えているのに気が付いて口を閉じた。
 恐る恐る伊織の背に手を回し、ぎゅっと抱き着く。
「ずっと、その言葉が聞きたかった」
 伊織の声は濡れていた。
「泣かないで」
「泣いていない」
 強がりだと分かる言葉にふっと笑みが零れる。
 笑ったのを叱るように頬を優しく齧られ、ぎゃっと声を上げた。
「噛んだ!」
「甘噛みだ」
 甘噛みなら許してもらえると思っているのだろうか。
 落ち着いてから伊織から離れ、座りなおす。まだ真剣な話は終わっていないのだ。
「美晴さんと毒を盛った犯人がまた襲ってくる可能性について話していたのですが、伊織様はどう思いますか? 今回襲ってきたあの女性が毒の件に関わっていると思いますか?」
 伊織は逡巡し、首を振った。
「今回襲ってきたあの女はあまりにも短絡的だ。殺意を消し、犯行に及ぶほどの冷静さは感じられない。喫茶店の襲撃事件に関しても犯行の証拠を残していない点から毒を盛った犯人と同一のような気がする」
 どれだけ考えても『殺意を消して殺害した』という点でどうしても行き詰る。
「考えても仕方ないな。危険がないように守るしかない」
 伊織は顔を寄せてきた。
 え、と驚き、反射的に顔を引こうとしたが、後頭部を引き寄せられ逃げ道を絶たれた。至近距離で目を合わせながら、こつんと額どうしがぶつかる。
「今度は必ず守る」
 強い決意の言葉に琉歌は祈る様に目を閉じた。