目を開けた途端、自分がどこへいるのかわからなった。
 顔を横に向けると目の端から涙が零れ落ちる。涙を拭いながら起き上がり、部屋を見渡した。真っ白い部屋には家具がほとんどない。今寝ているベッドと簡易的な机だけだ。
 そこは琉歌の部屋だ。
 どうやら夢を見ていたらしい。夢といってもただの夢ではない。さっき見ていたのは、所謂前世にあった出来事だ。
 誰に言っても信じてもらえないだろうが、琉歌には前世の記憶がある。
 前世、琉歌は天狗の家に生まれ、出来損ないの子供として育てられた。そして伊織という名前の鬼の元へ嫁ぐ直前で死んだ。あの頃のことを思い出すと胸が痛む。毎日のように夢を見て、涙を流しながら起きるのが日常と化している。
 立ち上がって鏡の前に立ち、前世とあまり見た目の変わらない自身を見つめる。十七歳になった現在の自分は昔と変わらず赤毛で、顔も同じだった。しかしその背には天狗の羽はない。今の琉歌はあやかしではなく、ただの人間なのだ。
 まさか生まれ変わって人間になるとは思っていなかった。
 よりによって前世で最後に会いたいと望んだ相手が毛嫌いしていた人間に生まれ変わるなんて、なんて残酷なのだろうか。琉歌は毎日自分の背に羽がないのに落胆し、同時に羽の美醜で評価されないことに安堵している。
「そろそろ降りないと」
 制服に着替え、二階の自室から出て階段を下りている最中に台所で調理をしている母親の後ろ姿が目に入った。
「おはようございます」
 その背中に声をかけると母親は一瞬だけ動きを止めたが、何も答えずに作業に戻った。
 人間になるという大きな変化があったが、変わらないこともあった。人間に生まれ変わった琉歌の家族は相変わらず琉歌に厳しかった。しかし前世とは大きく違って、今の両親が琉歌を嫌っているのには正当なわけがある。それは、両親と琉歌があまりにも似ていないからだ。
 両親ともに生粋の日本人で、祖先にも外国の血もあやかしの血も入っていないのに琉歌の髪色は赤毛で、目は蜂蜜のように薄い色をしている。両親に全く似ていないせいで、母親は浮気を疑われ義母達に散々責められたらしい。それはⅮNA検査を行い両親の子供だと判明するまで続き、母親はかなり精神をすり減らしたようだった。
 それに加え、琉歌は生まれた時から前世の記憶があるせいで他の子供よりも達観していた。どんなに子供っぽく振舞おうが限度はある。両親は見た目の似てなさも相まって琉歌の心の成熟っぷりを気味悪がっていた。
 それでも、琉歌がひとりだった時はそれなりに愛情はあったように思う。琉歌が生まれて二年後に妹が生まれてくるまでの話だ。
「おはよう」
 二階から欠伸交じりの挨拶をしながら妹の優梨愛が降りてきた。
「おはよう、優梨愛。顔洗ってきなさいね」
「はーい」
 琉歌の存在を無視して交わされる会話を聞きながら母親が用意している朝食に目をやる。朝食もだが、弁当も琉歌の分も用意してあるのにほっとする。
 琉歌も優梨愛と入れ替わりで洗面台に向かい、寝起きでぼんやりしている顔を洗った。
 台所へ戻ると父親が起きてきていた。四人掛けのダイニングテーブルには既に三人が着席し、それぞれ食事を始めている。琉歌も父親の前に腰を下ろし、手を合わせて食事を始めた。
 食卓には両親と優梨愛の話す声が飛び交っている。琉歌は話に入らず、黙々と食事を口に運んだ。
「そういえば、今度あやかしのパーティーに招待されたんだよね」
 優梨愛の発言に思わず箸を止めた。
「あら、すごいじゃない。いつ? 洋服買いに行かないとね」
「今度の日曜日だから土曜日に買いに行くよ」
 母親と優梨愛が和気藹々と話す内容にそっと耳を傾けてしまったのは、あやかしという言葉に反射的に反応してしまったからだ。
 昔はかくりよで生活するか、人間界で影に隠れて生活していたあやかしは、琉歌が生まれ変わった現代では人間界で普通に生活を送っている。初めて人間と共に生活を送るあやかしを見た時は目が落ちてしまいそうなほど驚いた。
 前世では、人を毛嫌いしているあやかしも多かったというのに今ではあやかしが一緒に生活しているのに疑問を抱くものはいないようだ。しかし、まだ人間とあやかしの中には大きな壁があるのも事実。見た目の差や生活環境の差はどうしても埋められない。だから人間と結婚するあやかしは未だに少ない。
「それでさ、琉歌もつれて来いって言われたんだけど、一緒に行く?」
 優梨愛が琉歌を見ながら聞いた。
 久しぶりに話かけられ、琉歌は目を瞬かせた。驚いたのは両親も同じだった。
「え、どうしてこの子も?」
 母親が唇の端をひきつらせながら問う。
「誘ってくれた子のお兄ちゃん琉歌の隣にクラスのあやかしなんだけど、琉歌が気になっているんだって。お近づきになりたいって言っていたよ」
 隣にクラスの生徒を全員は把握していないので誰の話をしているのかわからない。気になっていると言われても琉歌の心は動かなかった。
「いや、私は行けないよ。粗相をしたら申し訳ないし」
「行かない方が失礼だと思わないの?」
 優梨愛の顔に剣呑さが混じった。その顔に未来を苛立った表情を思い出した。茶髪を肩の位置で切りそろえられた優梨愛と長く美しい黒髪だった未来ではぱっと見の印象は異なる。顔立ちも釣り目気味で綺麗系の未来と可愛い系の優梨愛では全く似ていないのに醸し出す雰囲気はどこか似ている。
 琉歌を見る目が特に一緒だ。
「断ると私の立場が悪くなるじゃん。私だってあんたと一緒になんて行きたくないよ。でも断れないの。ていうか、あんたに断る権利なんてないから。はい。じゃあ決定ね」
 優梨愛は話は終わりだと手を打ち鳴らし、スマホを操作し始めた。
「はい。了承したから。あんたも土曜日に服買いに行きなよ」
 否定の言葉は受け付けられるわけもなく、琉歌の参加が決定した。
 思わずため息を吐いてしまった琉歌に優梨愛が目を吊り上げて怒りを露にする。
「なにその態度。被害者ぶるのやめてよね」
「ぶってないよ。ごめん」
「すぐ謝るなよ、うざいな。物わかりのいい振りしてんのむかつくんだけど」
 どう言えばいいのだろうか。なんと言っても優梨愛の反感を買うのでもうだんまりを決め込むしかないのだが、黙ったらそれはそれで起こるのだ。
 優梨愛はきっと琉歌のすべてが不快なのだろう。こういう態度の人間を相手取る方法は前世からわからなかった。他者との関りがほとんどなかったので、そもそも普通の人付き合いの仕方すらわからないのだから、穏便に話を終わらせるなどできそうにない。
 だからいつも優梨愛の気が済むまで暴言に近い言葉の羅列を聞くしかできない。
 ため息が漏れ出てしまわないように気を引き締めながら優梨愛の苦言に相槌を打った。

 嫌な予定が入っている時は、時間が早く過ぎるのは何故なのだろうか。
 あやかしのパーティーの話を聞いてからあっという間に当日になった。昨日優梨愛に引っ張られて連れていかれた店で全く趣味じゃないフリルのついた薄い桃色のワンピースを買わされた。曰く、琉歌の気に入っているというあやかしの趣味らしい。
 しっかりした質感の着物と違い、ふわりと広がるひざ丈のワンピースは捲くれ上がってしまいそうで心もとない。
 そのワンピースに身を包んだ琉歌は、優梨愛と共に都内の一等地にあるホテルに来ていた。俗世に疎い琉歌でも知っているような有名なホテルは、見上げるほど大きい。慄きつつ中に入った琉歌を待っていたのは、天井に吊り下げられているシャンデリラに照らされた広いロビーだ。床に敷かれたマットは土足で踏むのを躊躇ってしまうほど高価そうだ。
「ちょっと、きょろきょろしないでよ。みっともない」
 前を歩く優梨愛に尖った声で怒られ「ごめん」と小さく謝罪を口にする。
 しかし、落ち着きなく視線を動かすのをやめられない。
 ホテルのロビーには数人の人間とあやかしが屯しているのが見えた。比較的若いあやかしが多く、琉歌と目が合っても一瞥するだけですぐに逸らされる。その反応に内心でほっとする。
 琉歌がパーティーに来るのを拒否したのには理由がある。
 あやかしは人間と寿命が違うので、長く生きる。殺されたり、祓われたりしなければ、それこそ何百年、何千年と生きるものもいる。つまり、前世の琉歌を知っている者もあやかしの中にいる可能性があるのだ。
 知り合いといっても天狗の実家か伊織の周りの者しかいないので、会う可能性は少ないが、警戒は怠るわけにはいかない。
 あやかしに、昔の知り合いには会えない。特に伊織には。
 何故なら今の琉歌は彼の嫌いな人間で、前世は帰ると約束したのに裏切ってしまった負い目がある。それに――彼が琉歌を覚えていないかもしれない可能性があるのも辛かった。
 琉歌は死んですぐに生まれ変わったような感覚なので、前世は遠い過去ではない。しかし、ずっと生き続けている伊織からしたら琉歌などずっと前に少しの間だけ過ごした元婚約者に過ぎない。顔も覚えていなければ、存在すら覚えていない可能性がある。
 誰だ、と言われるのは苦しい。琉歌は、ずっと天狗の家で別れ際に見せた伊織の微笑みを忘れられずにいるので猶更辛い。
 だから、誰にも会いたくない。どうか、知り合いと繋がっているあやかしに会いませんようにと願いながら先を行く優梨愛の後を追った。
 パーティー会場には、人とあやかしが種族を超えて交流していた。
「まだ来てないみたい」
 広い会場の隅っこで縮こまる琉歌に隣でスマホを操作していた優梨愛が眉を寄せながら言った。
 件の琉歌を気に入ったというあやかしの話だろう。一生来なくてもいいのに、と思いながら会場を見渡す。
 楽し気に談笑する人間とあやかし。前世では考えられない光景だ。
「あやかしって皆綺麗だよね。いいな。あ、あのあやかしかっこいい」
 優梨愛も琉歌と同じように会場を見渡しながら言う。その言葉の通り、あやかしは皆美しい見た目をしている。可憐で華やかだ。
 その中で、伊織はとび抜けて綺麗だったな、と全く薄れない美しい鬼を思い浮かべる。
 何千年も前に終わった関係だ。恋と呼べるまで育たず、中途半端になってしまっているせいか、琉歌はずっと忘れられない。あまりにも未練がましくて嫌になる。
「着いたって」
 優梨愛が楽し気に言った。
「あ、いた」
 近くから聞き覚えのない声が聞こえ、視線を向ける。いつの間にか隣にふたりのあやかしが立っていた。
「やっと来た。遅いよ」
 優梨愛の言動からして気安さが伺える。同じ学校なのだろうが片方の黒いスーツを着たあやかしは見覚えがない。その隣にいる紺のスーツ姿のにやついた表情を浮かべたあやかしには見覚えがあった。彼が琉歌をここへ呼んだのだろうな、とすぐにわかり、その熱の籠った視線に嫌気がさした。
「俺のこと、わかる?」
 紺のスーツを着たあやかしは琉歌の前に来ると自身を指さしながら聞いてきた。
「顔は分かりますけど、すみません、名前まではわからないです」
 そう言うと彼はつまらなそうな顔をした。
「俺、これでも有名なんだけどな」
「琉歌が無知なだけで、鎌街先輩を知らない人なんていないよ、ね」
 鎌街と呼ばれたあやかしをフォローするように優梨愛が言う。優梨愛は隣に立っている同い年らしい黒いスーツのあやかしに腕を絡ませ、同意を求めるように見上げた。ふたりは良い仲なのか親密な空気感だ。鎌街も優梨愛の恋人も見た目ではどんなあやかしか判断できない。
「俺達はカマイタチのあやかしだよ」
 カマイタチと言われても知り合いにいなかったので、よくわからなかった。首を捻る琉歌に鎌街は苦笑を零した。
「琉歌ちゃんは、あんまりあやかし興味ない? それとも緊張しているだけとか?」
「え、いや、そんなことは」
「だって、俺達とこんなに近くで接しているのに全く動揺しないんだもん」
 鎌街はそう言いながら身を寄せてきた。
 嗅ぎなれないムスクの匂いに拒否感を覚え、体は自然と背後に後退する。
 この鎌街という男性は、相当自分に自信があるらしい。あやかしは人間よりも美しく、家柄が良いものが多いので、擦り寄る人間は多いのだろう。垣間見える傲慢さに琉歌は強く帰りたいと思った。
「ねえ、パーティーもいいけど、ふたりで抜け出して遊ばない?」
 鎌街の手が琉歌の右手に触れた。ひんやりした温度にぞっとして体が震えた。
「いいじゃん、ね」
 顔を寄せられ耳元で甘く囁かれ、思わず耳を抑える。
 覚えのない体温も声も嫌だった。嫌悪感に耐えられず、鎌街の方に手を置いてそっと距離を置く。
「すみません、私、こんなパーティー来るの初めてで、楽しみだったので、もっといたいです」
 本当は今すぐ帰りたいが、会場から出た途端に鎌街に連れ去られる可能性が滲んで嘘を吐いた。鎌街は琉歌が何も考えていないと思っているのか、それともいつでも落とせると思っているのか、快く頷いた。
 近くでやり取りを見ていた優梨愛が不満げに顔を顰めている。その顔には『さっさと抜け出してよ』と書いてあったが、無視をした。
「琉歌ちゃん、恋人いないんだよね? 好きな人もいない?」
 鎌街の問いかけに一瞬伊織の顔が頭に浮かんだが、首を縦に振った。
 好きな人がいるから、と断ろうかと思ったが、誰かと追撃で聞かれたら咄嗟に言葉が出ないのは明白だ。
「俺、人間と付き合うの初めてだけど琉歌ちゃんとなら仲良くやれると思うんだよね」
 するりと腰を抱かれ、口から「ひえ」と悲鳴が漏れた。
 伊織よりもずっと近い距離に嫌悪感が限界を迎え、振り払う決心をする。優梨愛に非難されるより鎌街にちょっかいかけられる方がずっと嫌だった。
 琉歌が声を上げようとした。
 その時、会場の扉が開き、誰かが入って来た。
「あれって」
 誰かがぼそりと呟く声が聞こえた。
 今まで談笑していた皆が今しがた会場に入って来た者に注目している。談笑している人もいるが、視線は扉の方へ釘付けだ。
「誰か来たんですか?」
 異様な雰囲気に思わず問うと視線を扉の方へ向けたまま鎌街が答える。
「ああ、鬼が来たんだ」
 その答えを聞いた途端、こつと床に革靴が触れる音がやけに大きく響いた。
「鬼って」
 頭に浮かぶのは、美しい元婚約者の顔だ。
 まさか、そんなわけない。否定の言葉を思い浮かべながらも琉歌の心臓は早打ち始めている。もしかしたら、そうかもしれない。という期待と不安で手が震えた。その震えを恐怖だと受け取った鎌街が琉歌を安心させるためか更に身を寄せてきた。
「大丈夫。鬼なんて怖くないよ」
 琉歌はさっきまで気になっていた距離感なんてどうでもよくなっていた。
 会場に入って来た者が誰なのか、それだけが気になって仕方がない。
 琉歌は、一歩踏み出し、入って来た者の顔を見ようと身を乗り出した。
「かっこいい」
 優梨愛が惚けた様子で呟く声が聞こえてきた。それと同時に琉歌の視界にもその者が映り込んだ。
「あ」
 伊織だ。見慣れないスーツを着たあやかしは間違いなく、伊織だ。相変わらず表情は仏頂面で誰も話しかけるのを許さないようなとげとげした雰囲気を醸しだしている。
 あんなに会うのが怖いと思っていたのに、久しぶりに見た伊織があまりにも変わっていないのでなんだかおかしくなって笑いが漏れた。
「伊織様」
 鈴を転がしたような美しい声が伊織の名前を呼んだ。声の主は綺麗な栗色の髪をした女性だ。後ろ姿しか見えないのであやかしなのか人間なのか判断ができないが、その立ち姿や振る舞い方から自信が伺える。
 あれが、伊織の恋人だろうか。と疑問に思ったのは一瞬のこと。
「伊織様、お会いできて光栄です。あの私……」
 伊織は女性を追う払うようなしぐさをした。恋人に対する態度ではないそれに女性はたじろぎ、そのまま人込みにまぎれた。
「あーあ、酷いよね。いつもああだよ。伊織様」
 それやり取りを見ていた鎌街が呟く。
「いつも?」
「うん。寄って来た女性にすごく冷たい。でも、めちゃくちゃモテるから次から次へと女性が群がってくる。ほら」
 鎌街の言う通り、伊織がどれだけ冷めた態度をとろうが関係ないとばかりに女性が寄って行っている。私こそはと挑戦する姿は凛々しい勇者のようだが、牽制しあっている様は狩人のそれで恐怖を感じた。
「彼には、恋人はいるんですか?」
 決まった相手がいるから全て断っているのかと思い聞いただけのに、鎌街は不愉快そうに顔を顰めた。
「もしかしてさあ、琉歌ちゃんも好きになっちゃったの? 止めなよ」
「なんで?」
 鎌街の言葉に返答したのは、優梨愛だ。彼女は初めて見る伊織の美しさに充てられたのか顔を赤くしている。さっきまで仲良さそうにしていたあやかしは、困った様子でため息を吐いた。
「優梨愛まで虜じゃん。でも伊織様は絶対無理だよ」
「だから何でよ」
 優梨愛が焦れた様子で声を上げる。
 その背後では、伊織が群がってくる女性達に辟易した様子で息を吐いた。その時、たまたま伊織の視線が持ち上がり、琉歌の方を見た。
 目があった。
「伊織様は、死んだ婚約者のことがずっと忘れられないんだって」
 鎌街の話は全く入って来ない。ただ、伊織の目が見開かれるのを見ていることしかできなかった。
「琉歌ちゃん? どうしたの」
 鎌街が呆然とする琉歌の顔を覗き込んだのと伊織が動いたのは同時だった。
 伊織が周りにいた女性達をなぎ倒す勢いで琉歌の方へ歩いてくる。
「ちょっと待って、こっち来る」
 優梨愛が興奮した声を上げた。
「まじじゃん、琉歌ちゃんちょっと横にどけて……」
 鬼の進路を妨害してはいけないと思ったのか鎌街が琉歌を引っ張るが、琉歌は動かなかった。否、動けなかった。
「琉歌」
 伊織が目の前にいて、琉歌の名前を呼んだ。
「琉歌」
 もう一度、今度は確かめるように呼ばれる。
 琉歌は、それに応えようと口を震わせた。
「いおりさま」
 声になっていたのか自分でもわからないほど、小さな声だったのに伊織は少しだけ口角をあげ、笑った。
 思い出の中にあるものと違わない笑みに目の奥がぎゅっと痛くなった。泣きそうなのだと気が付き、口を引き結んで耐える。
「会いたかった」
 伊織はそう言うなり琉歌を抱きしめ――そのまま持ち上げた。
「えっ」
 子供みたいに持ち上げられ、そのまま会場から連れ出されそうになる。
 鎌街が可愛いと思えるぐらい強引な人攫いだ。
「ま、待って、伊織様」
「話はあとで聞くから、少しだけ大人しくしていてくれ」
 有無を言わさない口調は相変わらずである。恐らく何を言っても取り合ってもらえないだろうと分かり、琉歌は力を抜いた。
 ちらりと見えた先で鎌街と優梨愛達がぽかんと口を開けている。彼らになんと説明すればいいのだろうか。前世からの関りなどといっても信じてもらえるといいのだが。琉歌は八つ当たりするように伊織の頭にぐりっと額を押し付けた。
「あの、どこへ行くんですか?」
 会場の敷地内を出て、迷いなく歩く様子に声をかける。
 すると伊織は漸く足を止めた。
「婚姻届けをもらいに行こう」
「はい?」
「今すぐ結婚しよう」
 何を言っているのかわからず、首を捻る。
 婚姻届け、結婚。どういう意味だろうか。
「あの、結婚するんですか?」
「ああ」
「誰と?」
 一応聞いておこうと質問したところ、伊織は何を言っているのかわからないといった様子で首を傾げた。
「琉歌以外にいないだろう」
 言い切られると琉歌の方が間違っているみたいだ。加えて伊織の目が何の曇りもないせいで、否定するのも憚られる。
 しかし、ここで訂正しなければ、今すぐに役所にいって婚姻届けをもらってきそうだ。そもそも役所はこんな夜に開いているのだろうか。
「あの私まだ十七なので結婚できません」
 伊織がびしりと固まった。
「そうか、人間には年齢制限があったな」
 あやかしの結婚には年齢の制限がない。幼くして嫁ぐ者もいるのだ。伊織はその感覚が抜けなのだろう。ちっと舌打ちが聞こえた。
「それに私達、まだ会って数分ですし」
 琉歌の感覚的には前世の自分と今の自分では大きな変化はない。しかし、天狗から人間への変化は無視できるものではない。
 一旦落ち着いて琉歌と向き合ってほしかった。そして、捨てるのなら今、この場で捨てておいてほしかった。
 伊織は、眉を下げて掠れた声で言った。
「千年間、琉歌だけを探していた。生まれ変わったら絶対に見つけ出すと決めていた。天狗だろうが人間だろうが関係ない」
 きっぱりと言い切った伊織に琉歌は何度も瞬きを繰り返した。
「なんで、そんなに」
 琉歌と伊織が過ごしたのは短い時間だった。千年以上生きている伊織の中では一呼吸分ぐらいに過ぎないはずだ。
 それなのに何故、そこまで思ってくれているのだろう。琉歌の疑問に伊織はさっと視線を下げた。
「好きだった」
「え」
「一目ぼれだった」
 衝撃的な発言に目を見開く。
「そんな素振りなかったのに」
「伝え方がわからなかった……素直になれなかったんだ」
 伊織は苦しそうに目を伏せた。琉歌を抱えている手に力が入り、彼の胸にある後悔の片鱗を感じ取る。
 安心させてあげたくて、頭を抱きかかえた。雰囲気に呑まれてとんでもない行動に出ているが、気づかないふりをした。
 今はただ言葉を重ねていたかった。
「大切にされていることは伝わってました」
 触れた手の感触を思い出す。
 実家までの道を手を繋いで歩いた時間が、琉歌の人生でもしかしたら一番幸せだったのかもしれない。
「帰れなくて、ごめんなさい」
 死に際に帰りたいと願った体温に身を寄せると少しだけ目が潤んだ。

 こんこん、とドアのノックの音で目を覚ました。
 寝起きで鈍い思考のまま今日は休みだったかどうかを考え、身を捩ったところで腹が温かいもので拘束されているのに気が付いた。
「えっ」
 ばっとかけている布団を捲り、腹を確認すると背後から太い腕が回っていて、悲鳴を上げかけた。
「おはよう」
 背後から聞こえてきた声に悲鳴を飲み込み、振り返る。すぐ近くに伊織の顔があり今度こそ「ぎゃっ」と声が漏れた。
「どうした」
「い、や、びっくりして」
 一気に目が覚め、昨日の出来事を思い出す。
 あやかしのパーティーで伊織と再会したのだった。結婚したい役所に行きたいと騒ぐ伊織を説得した後、連れてこられたのはパーティー会場になっていたホテルの一室だった。伊織が宿泊するためにとっていたらしい。
 部屋は矢鱈と広いのにベッドがひとつしかなく、押し問答の末に一緒に寝たのだった。
「伊織様、近いです」
 腹に回った手をとんっと叩くと簡単に手が離れた。
「悪い、寝相が悪いんだ」
 全く悪びれもせずに嘘とわかる言葉を吐いた伊織に疑惑の目を向ける。
 前世では一度も同衾しなかったので、伊織の寝相がどんなものなのかわからないが、腹に腕を回したのは明らかに故意だ。まさか癖でやってしまったわけではないだろう。とそこまで考えて、はたと気が付いた。
 千年もの間伊織は生きていたのだからこれまで恋人がいたとしてもおかしくはない。琉歌を探していたといっても鬼の当主やその周りが伊織の独り身を許すだろうか。子を成せとせっつかれて、結婚も経験しているかもしれない。
 思わず眉間にしわを寄せた琉歌を伊織が不思議そうな顔をした。
「琉歌? どうした」
「いえ……」
 何でもない、と続けようとした時、こんこんこんと扉を強めに叩く音が聞こえてきた。
「そう言えば、さっきもノックされたような気がします」
 目を覚めるきっかけになったのが扉を叩く音だったのを思い出す。
「誰も来る予定はないが……」
 話をしている間にもどんどんと扉を叩く音は強くなっていく。
「伊織、いるんだろ。開けろ」
 ノック音の合間に聞こえてきたのは、男性の声だった。
「あれ、この声」
 聞き覚えのある声だ。
「太陽だな」と伊織が呟き、面倒くさそうにしながらも立ち上がって扉の方へと向かう。
 太陽とは伊織の側近だった鬼の名前だ。彼は相変わらず伊織と共にいるらしい。しかし、前世では穏やかな関係だったふたりの間に何がったのか、扉への打撃音と外から聞こえてくる声には怒りが滲んでいる。
「太陽、今開けるから騒ぐな」
 伊織が扉を開けた。隔てるものがなくなり、太陽のよく通る声が室内に木霊した。
「伊織、パーティー会場から女を連れ帰ったってどういうことだ? 琉歌に一生を捧ぐっていう誓いは嘘だったのか? そんな軽薄な男だとは思わなかった。鬼なら鬼らしく愛した者へ生涯を捧げなよ」
「ちょっと落ち着け」
 伊織が宥めようとするが、逆効果だった。
「これが落ち着いていられるか? あの伊織が琉歌以外の女に靡くなんて……最悪だ。鬼の風上にも置けない。極刑だ」
「い、言い過ぎでは」
 太陽な過激な発言に思わず小さく呟いた言葉は、太陽の耳にも入ったらしい。伊織の背で隠れていて見えなかった太陽が、顔をずらして中を覗き込んできた。
 そして、太陽と目があった。その途端、太陽の動きが完全に止まった。
「え……琉歌さん?」
「お久しぶりです、太陽さん」
 ベッドに座ったままでは失礼かと床に降りて、頭を下げた。
 信じられない様子で太陽が何度も瞬きを繰り返し、伊織と琉歌へ視線を行ったり来たりさせた。
「ど、え、ん? なに、どういう、え?」
「落ち着けよ」
「俺の妄想? あ……幽霊?」
 伊織がはあとため息を吐いた後、困惑しっぱなしの太陽を部屋に招き入れた。
 ソファに座る太陽の対面に伊織と並んで腰を下ろす。太陽は早く説明してほしそうにそわそわしている。
「それで、何がどうなってそうなったの?」
「生まれ変わったんだろ」
「本当に? 騙されていない?」
 太陽が抱いている疑惑は最もだ。化けるのが得意なあやかしが琉歌の真似をして伊織に近づいた可能性だってある。伊織には忘れられない女性がいるというのは有名らしいし、それが琉歌だと知っている者も中にはいるかもしれない。鬼の懐に入るためなら手段を選ばない者はいる。
 伊織もそれをわかっているので、冷静な態度で返した。
「大丈夫だ。他の者と琉歌を間違えたりしない」
「そっか……」
 太陽は伊織の言葉を信じたようで、ゆっくりと嚙みしめるように頷いた。そして、琉歌に微笑みかけた。
「良かった。本当に」
 太陽の膝の上にある拳に力が入る。
「パーティーで伊織が女を連れ去ったって聞いたときは何かの間違いだと思ったよ。千年前から琉歌さん一筋でやって来たのに急に何があったんだって。不義理を働くようなら俺がこの手で制裁を加えようと誓ったところだった」
「不義理って、もう千年前に死んでいるのに」
 冗談かと思ったが、太陽も伊織も真剣だった。
「死んでいたって関係ない。鬼というのはそういう生き物だ」
「そういうって」
「生涯に愛するのは、ひとりだけ。死ぬまでずっと忘れられない」
 伊織に熱の籠った目で見られ、ぎくりとした。
 天狗と鬼とでは愛に対しての考え方は大きく違うらしい。もしかしたら結婚しているかも、なんて思った自分が恥ずかしくなった。
 伊織の真っすぐな目を見ていられなくて逸らした先で、太陽がにこにこと笑っていた。
「それで、結婚はいつにするの?」
「私、まだ結婚できる年齢じゃないので」
 そう答えた所、太陽が強い衝撃を受けたような顔をして、立ち上がった。
「法律を変えよう」
「太陽さん、落ち着いて」
「伊織なら法律変えるぐらいできるよ。今すぐ変えよう。結婚できる年齢を引き下げよう」
 本当にできそうだから怖いのだ。冗談じゃなさそうな雰囲気に助けを求めるように伊織に視線を向ける。
「今すぐ手続きをしよう」
 伊織が強く頷いた。
「申請すればすぐ通るか?」と伊織が真剣に問う。
「一週間、いや、三日あれば通す」
「よし」
 伊織も立ち上がったところで慌てて琉歌が声をあげた。
「よしじゃない。良くないですよ! ちょっとおふたりとも落ち着いてください。伊織様は昨日納得してくれたじゃないですか」
 昨日、ホテルの部屋で今後について話をした。琉歌が結婚を渋っているのには何も年齢だけの問題ではない。
「そもそもまだ再会して一日もたっていないですし、すぐに結婚には踏み切れないです」
「まぁ、それはそうだよね」
 琉歌の言葉に冷静さを取り戻したらしい太陽が腰を落とした。しかし、すぐにはっとした様子で顔を上げる。
「琉歌さん、恋人とかいないよね?」
「いないです」
 人間として生まれてきてからずっと恋愛と関わらなかった。言い寄られたのは、昨日のパーティーで絡んできた鎌街だけだ。
「あ」
 そういえば、優梨愛達を会場に残したまま伊織と出てきてしまった。その上、無断外泊までしてしまった。
「どうした?」
「家に連絡を入れていなかったのを思い出しました」
 今から連絡だけでもした方がいいだろうか、とスマホを取りに行き確認したところ、画面には優梨愛と両親から連絡が入っていた。内容は連絡がない琉歌を心配するものではなく、鎌街を置いて行った琉歌を非難するものと伊織とどこで知り合ったのか問いただすものばかりだ。
 両親の連絡も似たようなものだ。きっと優梨愛に言われて送ったのだろう。
 少し悩んでから『無断外泊してごめんなさい。帰ったら説明します』と返して、スマホをしまい「そろそろ帰らないと」と告げようとしたタイミングで、太陽のスマホが鳴った。
「ごめん、ちょっと出てくる」
 あやかしが現代機器を使用している光景は中々慣れそうにないな、と別室へ去っていく後ろ姿を見送る。
 ふたりきりになった途端、伊織がそっと身を寄せてきた。鎌街に近づかれた時に感じた不快感はない。むしろ安心する温度と匂いに自然と体から力が抜けた。
 緊張感が抜けたせいか、ずっと気になっていた疑問が零れ落ちた。
「私が死んだ後、天馬はどうなりました?」
 鬼の家に残してしまったのは伊織だけでなく、天馬もだ。素直じゃない友達は琉歌が帰って来なくても幸せに暮らしただろうか。それがずっと気になっていた。
「天馬は、鬼の家で働いているよ」
「ん? 働いて、いる?」
 伊織の言い方は、まるで今も継続されているような言い方だ。
「ああ、天馬は天狗になったんだ」
「えっ!」
「長生きしすぎた動物があやかしになる現象はたまに起きる。天馬は今でも元気だから安心してくれ」
 そんな話を聞くには初めてだった。
「会いに行くか?」
 そう伊織に聞かれた瞬間、天馬の顔が頭に浮かんだ。
 もう二度と会えないと思っていた友人に会えるかもしれない。それはあまりにも甘美な誘いだった。
「かくりよに一緒に行こう」
 そっと手を握られ、行かない選択などすぐに消してしまった。

 すぐにでも行きたかったが、何日間かくりよで生活するのか未定なので、一旦帰宅した。
 琉歌が家に入った途端、いつも無関心を貫き琉歌を無視する両親が目を吊り上げて怒りを露にして待っていた。
「あんた優梨愛を置いてどこに……」
 母親の言葉は、後から入って来た伊織を見た途端、止まった。
「だ、誰ですか?」
 母親が怯えた様子で問う。
「こちら、鬼のあやかしの……」
「あんたに聞いてないわよ!」
 琉歌の声を母親が遮った。きんと高い声が耳に刺さり、思わず顔を顰める。
 するとその表情が母親の怒りに触れたようで、怒りが爆発した。
「なんなのよ、あんた。私のこいつも馬鹿にして」
 パニックでヒステリックになっているのだろう。琉歌が何を言っても無駄だと分かるが、父親も空気に圧倒されて何も言えなくなっているので琉歌が落ち着かせるしかない。一応、家族なのだ。向こうがそう思っているのかはわからないが。
 噛みつく勢いの母親を止めようと伊織が動くのが見えたが、首を振って制した。
「お母さん、あのね」
「あんたにお母さんなんて呼ばれたくないわよ。私の娘はずっと優梨愛だけだもの」
 腹を痛めて生んでも琉歌みたいな人間を自分の子だと認められなかったらしい。
 まあ、そうだよね、と琉歌は達観していた。全く似ていない、自分の子供だと思えない女をよく育ててくれたものだと感謝こそすれ、恨みなどない。
「伊織様とかくりよに行きます。いつ帰ってくるのかは、まだ決まっていなくて……」
「帰って来なくていい」
 母親は声を震わせながら言った。
「もう、帰って来ないで」
 濡れた声で言われてしまうと何も言えなくなってしまった。
「あー! 帰ってきてる!」
 その時、階段の上部から優梨愛の声が聞こえてきた。
 彼女は俯いている母親とおろおろしている父親を訝し気に見たが、すぐに伊織の存在に気が付いたようで、ぱっと顔を明るくした。
「伊織さん!」
 優梨愛は伊織を呼び、近づいて来ようとした。愛されるのに慣れている優梨愛は、断れることを知らない。だから何も考えずに無邪気に伊織に近づいて行った。
「近づくな」
 そんな優梨愛を伊織は素っ気ない態度でいなした。
 そして伊織が「大丈夫か」と琉歌の顔を覗いたので、優梨愛は分かりやすく怒った。
「え、なに、どういう関係?」
 優梨愛が不機嫌になっている時の声は、低く平坦なのですぐにわかる。自分よりも琉歌に伊織の興味が向いているのが気に食わないのだ。
 どういう関係か聞かれても上手く答えられないので、用件だけ告げてさっさと家を出ようと決めて自室へ向かった。
「ちょっと待って、どこへ行くのよ」
 手を掴まれ、一旦止まる。
「かくりよ行って来るからその用意をしに」
「はあ? かくりよ? 伊織さんとだよね、私も行く!」
 ぱっと目を輝かせた優梨愛に口の端が引くつく。先ほど冷たくされたのは彼女の記憶に残らなかったのだろうか。
「いや、ごめんけど、連れていけないよ。いつ帰れるかわからないし」
「はあ? なんでよ。琉歌だけずるいじゃん。何で琉歌がよくて私が駄目なの? 意味わかんない」
 優梨愛は昔からこうと決めたら曲げなかった。今も何を言っても着いて来そうだ。さて、どうするかと頭を悩ませた時。
「連れていくわけがないだろう」
 伊織が面倒そうにしながら、きっぱりと断った。
「琉歌、用意しておいで」
 優梨愛へ向けている言葉とは対照的な優しい言葉に琉歌は、迷いながらも自室へ帰ってかくりよへ行く準備を整えた。
 一階へ降りようと扉を開けた途端、優梨愛の声が飛び込んできた。
「なんでそんなこと言うの? 琉歌よりも私の方がいいに決まっているじゃない」
 ぱっと弾けるような声に琉歌は慌てて階段を下りた。一階では伊織と優梨愛が向き合っていた。
「話にならない。琉歌行こう」
 伊織に呼ばれ、小走りで玄関に向かう。
「ちょっと待ちなさいよ」
 優梨愛が後からついて来ようとした。
 それを伊織の声が止める。
「いい加減にしろ。琉歌の妹だから優しく対応してやっているんだ。今のうちに俺の視界から消えろ。不快だ」
 伊織的に優梨愛への対応は優しいらしい。どこの辺りが優しかったのか、琉歌にはまるで分らなかった。
 最後のきつい言葉に優梨愛は足を止めて、ぎゅっと顔を顰めた。今にも泣きそうな表情に傍で見ていた父親が慌てて近寄る。その隙に伊織と琉歌は家を後にした。
 家の前で待っていた太陽の車の乗りこむと一気に気が抜けた。
「説得はうまく行かなかった?」
「いえ、それは割とすんなりいったんですけど、別の件でちょっと揉めまして」
 家族間のいざこざを大雑把に説明した。
 家族と違う容姿に子供らしからぬ言動が両親に受け入れられず、無視をされる日々を過ごしていたと話したところ伊織が怒りを露にした。
「戻ってくれ、今すぐ話をつけてくる」
「駄目ですよ! 別に平気なんです。前世の記憶を持って生まれた私はきっとイレギュラーな存在で、両親は、特に母親はかなり悩んだんだと思います。自分の子供じゃないと思っていてもここまで育ててくれて、有難いくらいです」
 泣き崩れる母親の姿が脳裏に過る。彼女の苦悩は娘の立場からは想像もできない。自分が彼女の子供として生まれてきてしまったのを申し訳ないとすら思ってしまう。
「どんな理由があっても不当な扱いを受けていいわけがない」
 伊織はそれだけ言って琉歌の頭を撫でた。
 労わる様な手つきにぐっと胸に込み合えて来た思いがある。
 どんなに冷たく扱われても平気だったが、最後に聞いた母親の沈痛な「帰って来なくていい」は心にぐさりと刺さった。
 家族に対して線引きをしていたのは琉歌も同じだ。自分の家族でないから、と割り切っていたのにいざ帰る場所を奪われると喪失感を覚える。
「……あれ、私もしかして帰る場所無くなりました?」
 母親の言葉は本気だった。
 琉歌が家に帰ったら母親の精神状況は悪化するだろうから、帰らない方が賢明だ。
「かくりよにいればいい」
 そっと手を握られ、反射的に伊織を見る。
「かくりよに住んでいる人間も数は少ないが、いる。琉歌も一緒に暮らそう。かくりよにいる間に今後どうするかは考えればいい」
 人間が住む現世に未練はない。目立つ容姿のせいか、それとも性格のせいか、友人と呼べる人もいなかったのでかくりよに行くのは問題ない。
 じっくり考えて答えを出せばいいという伊織の言葉に甘えることにした。