伊織との生活は恐ろしく穏やかに過ぎていった。実家にいた時のように罵声を浴びせられる事態もなく、家事もお手伝いのあやかしがしてくれるので、兎に角やることがない。
 緊張感がない生活の一番の原因は、伊織がほとんど家にいないからだ。
 伊織は忙しいのか外出している時間が長く、朝挨拶をするだけの日も多い。顔を合わせない日だってあるのだ。
 快適か、と言えばそうなのだが、結婚に対して少なからず憧れがある流歌は、結婚しても淡白な関係が続くのに寂しさを覚えていた。
「はぁ」
 やることもないのて、縁側に腰掛けぼんやりしながらため息を吐き出す。
「結婚前の花嫁が重いため息なんか吐くなよ」
 聞こえてきた声に視線を向けるといつの間にか天馬がいた。
 天狗の住処から鬼の家は気軽に行き来できる距離ではない。天馬も流歌に合わせて居住地を移したらしい。
 素直じゃない天馬は言葉にしないが、寂しかったらしい。
「なんか不満か? 嫌なことでもされたか?」
 心配そうにすり寄る天馬の額を撫でながら首をふる。
「不満なんてないよ。穏やかで、すごく居心地がいい」
 それだって嘘ではないのだ。
「お前、さては寂しいんだな」
「え?」
「旦那に構ってもらえなくて寂しいんだろ」
 天馬の言葉に数回瞬きをした。
「寂しい……?」
「結婚するのに家開けてばっかりらしいな。甲斐性なしって言ってやれ」
 文句など言えるはずはない。
 それに寂しいなんて感じたこともなかった、はずだ。しかし、天馬に言われて脳裏に浮かぶ光景がある。
 お披露目の時の太陽や美晴と親しげに会話する伊織。お披露目の後にも何度かふたりとは顔を合わせたのだが、伊織のふたりに対する態度は流歌へのものよりもずっと柔らかい。
 接している年月か違うのだから当たり前だと頭では分かっているのだが、いいなと思うのを止められない。
 せっかく結婚するのだから、と流歌は思うのに伊織はそうじゃない。彼は、流歌と距離をとり、関わりを避けている。
 避けられているのがわかるから、少しだけしんどい。
「お前らは会話しろよ。最後に話したのいつだ?」
「えっと……」
 記憶を浚っている時、玄関の方から音がした。
「帰ってきたんじゃないか?」
 天馬の言葉に流歌は立ち上がり、音のした方へと向かった。
「あれ」
 玄関先にいたのは、伊織ではなく、美晴だった。いつものつんとした態度で腕を組んで立っている。
「どうされたんですか? 今、伊織様いらっしゃらなくて」
「知ってるわよ。私は伊織がどこにいるのかも知っているんだから」
 あんたとは違ってね、と追加で言葉が聞こえて来そうだ。
 伊織がどこへ行っているのか、流歌は知らない。一度だけ聞いたことがあるが『琉歌に関係ないことだから』と言われてしまった。それ以来聞けずにいる。
 それを美晴は知っているらしい。
 ちくちくと胸が痛んだ気がした。
「そうじゃなくて、書類を届けに来たの。これ伊織に渡しておいて。それとこれ」
 そう言いながら美晴は流歌に封筒と共に何か重たいものが入っている袋を回してきた。
 受け取って中身を確認し、瑞々しい赤色にわっと目を見開いた。
 中に入っていたのは、林檎だった。
「分かりました。渡しておきます」
 結構な量が入っているが、伊織ひとりで痛む前に食べられるだろうか。
 不安に思っている流歌に美晴が言う。
「余り物よ。あんたも一緒に処理してよね」
 美晴はぷいっと顔を背けた。
 彼女の態度はお披露目の時よりもかなり軟化した。気に入ってもらっているとまではいかないが、気にかけてはくれているらしい。
「はい、ありがとうございます」
 美晴は言動はきつい時もあるが、何だかんだ優しいのだ。
 だからこそ、感情のやりようがない。
 書類と林檎をおいて美晴が帰ると家の中は一気に静まり返った。使用人達が暮らしているのに彼らはあまり流歌の前に顔を出さない。
 ひとりきりだ。
 天馬の言った通り、きっと流歌は寂しいのだ。天狗の家は厳しい環境だったが、国利がいたので寂しさを感じなかった。頼れる先や気軽に話せる相手が、ここにはいない。唯一まともに話せるのは、天馬だけだ。
「ちょっと、しんどいのかも……」
 ぽつりと呟いたと同時に再び玄関の前に気配が立った。
 はっとして顔を上げる。
 期待した。もしかしたら伊織がいるかもしれないと思ったのだ。
 しかし、目の前に立っていたのは、伊織ではなかった。
「こんにちは、お久しぶりです」
 微笑みを浮かべて立っているのは、伊織の叔父である総一郎だ。
「お久しぶりです。えっと、今伊織様は外出してまして……」
「ああ、そうなんですね。これを届けたかったんだけど」
 総一郎は腕に抱えた花束を見下ろしながら言った。
「綺麗ですね」
 その花束は、薔薇だった。かくりよでは薔薇はかなり珍しい。
「ふたりのお祝いに」
「え! ありがとうございます」
 差し出された花束を受け取って腕に抱えた。ふわりと花の香りが鼻腔を擽る。
「それと、これも」
 そう言って総一郎が流歌の鼻先に突きつけたのは、黒い薔薇だった。
「黒い薔薇もあるんですね」
「うん。綺麗でどうしても渡したかったんだ」
 黒い薔薇は、確かに綺麗だった。しかし、どこか不気味に写ってしまい、唇の端がひきつりそうになる。
「ありがとうございます」
 慌てて薔薇を受け取った。
「流歌さん何か困ったことはない?」
「え?」
「少し浮かない顔をしているから」
 お見通しだとばかりに総一郎が言った。
 そんなに表情に出ていただろうか。気を付けなければいけないと頬にふれる。
 その手を取られた。
「何かあったのなら話してほしい。きっと役に立てるから」
「えっと……」
 誰かに話したいとは思っていたけれど、流歌は首を横に振った。
「大丈夫です。ありがとうございます」
 きっと話すべき相手は伊織だ。それに叔父だからと言って勝手に家に入れるべきではないと思ったのだ。
「流歌さん、でも」
 総一郎が追いすがるように流歌の方へ身を寄せた。
 その時、ふっと空気が重くなった。
「何をしている」
 聞こえてきたその声に流歌はそろりと視線を向ける。するとそこには冷たい目をした伊織が立っていた。
 伊織の目に怒りの色を見つけ、流歌はぎゅっと胸の前で手を握りしめる。
 家族に怒りを向けられ続けていたので、慣れているとばかり思っていたが、そんなことはなかった。伊織から向けられた尖った感情に流歌はきちんと傷ついた。
 は、と震える息を吐き出した時、伊織と目があった。途端、冷たかった目に熱が灯り、怒りの色が消えていく。
「流歌、ただいま」
「おかえりなさい」
 ぎこちない挨拶を交わし、どうやら彼の怒りが自分に向けられたものではないことに気がつく。
「叔父さん。俺の留守中に家に入るのは止めてください」
 重ねて告げられた言葉に総一郎が肩を竦めた。
「ごめん。花を届けたかっただけなんだ。それに立ち話しただけだよ」
「花?」
 伊織がちらりと流歌が抱えている花束を見つめ、少しだけ目を細めた。
「ありがとうございます。では、用が済んだなら帰ってください」
 そう言うなり伊織は総一郎を追い出した。
 虫を追い払うみたいな態度だ。叔父にそんな態度でいいのだろうかと不安を覚える。
「流歌、俺がいない間、誰か来ても開けなくていい」
「でも、追い返すなんてできません」
「居留守を使えばいい。家の誰かが勝手に応対する」
 伊織はぱっと視線を逸らし、流歌の隣を通りすぎて家の中に入っていく。
 余計なことをするなと暗に窘められ、咄嗟に謝罪を口にする。
「すみません」
「怒っているわけじゃない」
 そう言いながら伊織は琉歌の方を少しも見ない。流歌は震えそうになる唇を動かして、伊織の背中に手を伸ばした。
「伊織さ」
 手が触れる直前、伊織が避けた。
 頭が真っ白になった。
「どうした」
 意図的だったのか、それとも偶々だったのかはわからない。もしかしたら避けたつもりなんてないのかもしれない。
 今、流歌を見つめる伊織の目はいつも通り平坦で、嫌悪の色は浮かんでいない。
 それでも流歌の心がぎしりと軋んだ。
「あ、の。これ、美晴様が」
 必死に取り繕い、頑張って微笑む。林檎の入った袋を渡した。
 袋の中を覗いた伊織の口角が少しだけ持ち上がる。
「そうか、ありがとう」
 伊織は袋を持って炊事場の方へと歩いていく。
 断られるのが怖くて一緒に食べませんか、とは言えなかった。

 貰った花は好きにしていいと言われたので、部屋に飾った。
 殺風景な部屋が華やかになった気がして少しだけ気分が上がる。
 流歌の部屋は伊織とは別だ。結婚前だからと最初に言われたが、きっと結婚しても別なのだろう。
 伊織が、何を考えているのかわからない。どうして流歌と結婚しようと思ったのだろう。
「流歌、どうした」
 はっとして顔を上げ、真正面に座る伊織の不思議げな表情に慌てた。
 今は、久しぶりに伊織と夕食を共にしているのだ。ぼうっとしているなんて失礼な態度を取ってしまった。
「体調が優れないか?」
「いえ、少しぼうっとしてしまっただけですので」
 使用人の作った食事は天狗の家とは比べ物にならないぐらい美味しい。
 体調に問題ないのは本当なのに伊織は流歌の返答を信じなかったようで、腰を浮かせた。
「休んだ方がいいな」
「いいえ、本当に問題ないです。大丈夫です」
 慌てて立ち上がり、流歌を休ませようとする伊織を制止する。
 ずっと家にいて何もしていないのだ。疲れるはずがない。体調だって天狗の家よりも良いぐらいだ。
 それは伊織とて分かっているはずなのに彼は信じていない様子でじっと流歌を窺ってくる。流歌は安心させるように口角を上げた。
「……それならいい」
 伊織は視線を逸らし、食事に戻った。
 途端、食卓に沈黙が戻る。伊織も流歌も喋る方ではないので、ふたりでいても会話は続かない。
 何か空白を埋めようと話題を探すが、何を聞いていいのか分からないので言葉に詰まってしまう。このままじゃ駄目だと分かっているのに口を開く勇気が出ない。さっき手を避けられたのもあって怖じ気づいてしっていた。
「明日は」
 唐突に伊織が言葉を発した。
「出掛けるから」
 伊織は流歌を見ずに言った。
「は、はい」
 いつも何も言わずに出掛けているじゃないですか、とは言えず頷く。
 何故今更報告する気になったのかは分からない。何かしらの心境の変化があったのだろうと結論付け流歌も食事を再開した。

 翌日、流歌は高価な着物に身を包み、伊織と共に町を歩いていた。
 大通りは道に面した雑貨屋を覗くあやかしや食べ物を片手に歩くあやかし達が犇めいている。
 殆ど家から出た経験がない流歌はあやかしの多さに目を白黒させ、伊織の後をちょこちょこと追うので精一杯だ。
 昨夜『出掛けるから』と伊織が言っていたのを流歌は、伊織だけで出掛けると勘違いしていたが、どうやら流歌と共に出掛けるという意味だったようで、昼前に使用人に囲まれ出掛ける準備を済ませた。
 何か用事があるのかと着いてきたのだが、特に目的があるようには思えない。
 時折「何か食べるか」と無表情で聞かれたが、何が売っているのかもわからなかったので、首を振った。すると伊織はすぐに興味を失ったようで、ずんずんと先を行く。
 彼の真意が全く読めない。
 ほとんど出歩かないせいか段々と足が痛くなってきた。思わずため息を吐きそうになった時、ふと横にある店に目がいった。装飾品の店だ。色とりどりの綺麗な髪留めや帯留めが並んでいる。
 そこに見慣れないものがあった。
「あれって」
「どれだ」
 つい口から飛び出した疑問に答えが返ってきて驚いた。先を歩いていたはずの伊織がいつの間にか隣にいて琉歌が覗いている店内をじっと見ていた。
「何か気になるものでもあるのか?」
 近い距離に驚く琉歌とは対照的に伊織は冷静に聞いてくる。その声色に琉歌は慌てて指をさした。
「あの輪っかって何か知っていますか?」
「輪? ああ、あれは、人間が婚姻に用いる指輪というものらしい」
 伊織は少しだけ不快気に顔を歪めた。
 どうやら伊織は人間が好きではないらしい。分かりやすい反応にまずいことを聞いてしまったと冷汗が流れる。
 これ以上は話を膨らませずに話題を変えようと口を開いたが、その琉歌の気遣いは急に割り込んできた声によって粉砕された。
「そこのおふたり、指輪が気になっているんですか?」
 陽気な調子で割り込んできたのは、この店の店員らしき男性だった。
「いや……」
「いやあ、お目が高い! こちら最近かくりよでも流行ると言われている品物ですよ」
 店員は否定しようとした伊織の言葉を遮りながら指輪の宣伝を始めた。
「指輪を相手に贈り、愛を誓い合うのという人間の風習に感銘を受けるあやかしが意外と多いのです。心は見えませんからね、こうやって形のあるもので愛情を示すことで安心を得られるのです。それに指輪を見れば離れていても相手を感じられますからね。注文していただければ一週間くらいえお作りできますよ」
 愛には形がないので不安に思う気持ちは人間もあやかしも変わらない。愛おしい相手から贈られたものをずっとつけていられるのは確かに幸せかもしれない。
 琉歌はもっとよく見ようと顔を寄せた。
 指輪はシンプルなデザインのものもあれば、花な蝶などが彫られているものもある。
「……欲しいのか?」
 伊織に声をかけられ、はっとした。
「いえ、そういうわけではないです」
 熱心に見すぎていたかもしれない。強請っていると思われたくはないので、何度も首を振って否定する。
「綺麗すぎて私には似合いません」
 それに伊織との愛のない婚姻に指輪は不釣り合いに思えた。
「時間を取らせてしまってすみません。行きましょう」
 人間嫌いの伊織にこれ以上この話題は酷だろうと思い、そう言うと伊織は何か言いたげにしていたが、それ以上は何も言わずに店を後にした。
「ここへ入ろう」
 伊織が足を止めたのは、甘味処だった。甘味が好きな印象はなかったので内心驚きながらも顔には出さずに伊織に従って中に入る。店内は若い女性客が多く、軽やかな笑い声が店内に響いていたが、伊織が入店した途端、笑い声が一瞬止まった。
 その場にいた全員の視線が伊織に集まっている。その美貌にぽかんと口を開けているあやかし達の中で、一番最初に正気を取り戻したのは店員だった。
「い、いらっしゃいませ。何名様でしょうか」
 駆け寄って来た女性店員は、伊織と目が合うとぱっと顔を赤くし、しばしば見惚れた。
「ふたりだ」
 伊織の言葉に店員は今気づいたとばかりに琉歌に視線を向けた。そして、店内にいる全員が伊織を見た。そして琉歌を品定めするように視線を移動させた。
 何故、こんなのが鬼と一緒にいるんだろう。と純粋な疑問を抱いているのが伝わってきて、居心地が悪い。被害妄想であればいいが、中には明らかに悪意のこもった視線も含まれており、琉歌に対して好意的な感情はなさそうだ。
「何が食べたい?」
「えっと」
 案内された席に腰を落ち着かせ、メニュー表を覗くが甘味処など初めて来たので何を頼めばいいのかわからない。さっと視線を滑らせ、一番安いもの見つめて指をさした。
「これを」
「団子が好きなのか?」
 指さしたのがみたらし団子だったからか、伊織がそう聞いていた。
「はい、好きです」
 みたらし団子は昔国利に作ってもらった思い出がある。棒に刺さった団子は食べ辛かったが、甘じょっぱいみたらしは感動するほど美味しかった。
 その時のことを思い出しつい頬が緩んでしまい、にこりと笑顔で頷いた。伊織は一瞬固まった後すっと視線を逸らした。
 笑顔が気持ち悪かっただろうかと不安に思った時だった。不意に伊織の耳が赤くなっているのに気が付く。
「ん?」
「どうした」
 琉歌が漏らした声に伊織が反応し、さっと視線を合わせてくる。
「いえ、あの……今日の目的は一体何なのかと思いまして」
「……婚約者と出かけるのに理由がいるのか?」
 じっと見つめてくる視線とその言葉、それと先ほど見えた赤くなっている耳を見て、琉歌の中で疑念が浮かぶ。
 もしかして、そんなに嫌われていないのではないだろうか。普通嫌っている者と例え婚約者であっても出かけたりなどしないはずだ。伊織は彼なりに琉歌との距離を縮めようとしているのかもしれない。
 琉歌は一気に気が抜けて、ふっと息を吐いた。
「いらないです。連れ出してくれてありがとうございます」
「行きたいところがあったら遠慮なく言ってくれ。どこでも連れて行くから」
 ふいっと言い辛そうに視線が逸らされる。
 不器用な言葉に琉歌はそっと微笑み、頷こうとした。
「おい」
 唐突に知らない声が割り込んできた。
 つられるように視線を上げ、目の前に振り上げられた包丁に呆気にとられた。
「え」
 体は急には動かない。振り下ろされる様をじっと見つめることができなかった。
 包丁の切っ先が琉歌に到達する前に目の前から男が消えた。遅れて鈍い音と女性の悲鳴が耳に飛び込んでくる。はっとして立ち上がり、店内を見渡して琉歌に包丁を向けていた男が伊織に蹴り飛ばされている場面が目に入った。
「い、伊織様」
「琉歌、近づくな。大丈夫だからそこで待っていて」
 伊織は暴れる男を抑え込みながら琉歌を安心させるように柔らかい声色で言う。無力な琉歌ではどうすることもできないので、その場から伊織達を見守ることしかできない。
「なんで琉歌を狙った? 何が狙いだ?」
「うううううう」
 伊織の鋭い声色に男はうめき声を漏らすばかりで何も言わない。
「答えろ」
 伊織が押さえつけている力を強めたのが分かった。男の苦し気な声が大きくなる。
「おお、おれは、俺は、おれは」
 男はそれ以上は何も言わなかった。急に黙り込んだと思ったら体が弛緩し、動かなくなってしまった。どうやら気を失ったらしい。
「これは」
 動かなくなった男を見下ろしながら伊織が何かを呟く。琉歌も恐る恐る近づき、伊織がのぞき込んでいる男の顔を見た。
「この男に見覚えがあるか?」
「いえ」
 男の顔色は青白く、半開きの唇から吐き出される息は浅く荒い。体は病気を思わせるほど細い。その顔は初めて見るものだ。
 その男の首元に赤黒い模様が浮かんでいるのに気が付いた。琉歌の視線に気が付いた伊織が模様を指さす。
「この模様は妖術がかけられている証だ。恐らく洗脳されていたんだろう。琉歌がこの男を知らないのも当然だ」
「誰かがこのあやかしを操って襲わせたということですか?」
 伊織は神妙な面持ちで頷いた。
「そんな……いったい誰が」
 今まで生きてきて蔑まれた経験はあれど、命を狙われたのは初めてだった。ほとんど外に出て交流などしなかった琉歌は誰かに恨まれる心当たりなどない。
「……悪い。俺の婚約者だから狙われたのかもしれない。立場上、恨まれることは多いんだ」
 伊織は顔を伏せながら申し訳なさそうに言った。
 鬼は絶対的な強者であり、あやかしを束ねる立場だが、下克上を狙っているあやかしも中には存在している。それが次期当主である伊織の婚約者の命を狙うのはなにもおかしな話ではない。
 しかし、なんだか釈然としない。
 結婚した後ならばわかるが、結婚前に琉歌を殺した所で鬼に大したダメージは与えられないだろう。それは伊織もわかっているようで自身の考えに首を捻っていた。
 不意に伊織が顔を上げ、外を見た。
「騒ぎを聞きつけたらしい」
 伊織の視線の先には焦った様子の太陽の姿があった。
 店内に入って来た太陽に事情を説明し、倒れている男を任せた後、琉歌と伊織は帰路についた。
 慣れない外出と店での騒動ですっかり疲れ切っていた琉歌は部屋に帰った途端床に崩れ落ちた。もう力が抜けて、今にも瞼が落ちてきそうだ。
「死にかけたんだって?」
 聞こえてきた声に視線だけを向ける。いつの間にか部屋の中に天馬がいた。
「もう噂になっているの?」
「カラスは耳が早いからな。犯人は捕まったんだろ?」
「実行犯は捕まったんだけど……」
 琉歌は体を起こし、今日の出来事を話した。
「そんな大変な目にあっててよくそんな冷静でいられるな」
 呆れたように言われ、琉歌は確かにと思った。
 命を狙われるのなんて初めてだった。琉歌を殺そうとした男の澱んだ目を思い出すとぞっと背筋が凍る。今まで平気だったのに意識した瞬間、あの時感じた恐怖がぶり返し、体が震える。
「……思い出させない方が良かったよな。ごめん」
 顔色を悪くし震えだした琉歌に天馬が慌てた様子ですり寄る。小さな体から伝わる暖かさはいつもなら安心できるのに、今は酷く心もとない。膝に乗って来た天馬を抱き寄せて頬を寄せた。
 とんとん、と扉を叩く音に体がびくつく。
「琉歌、いるか?」
 一瞬硬直した体が扉の向こうから聞こえてきた声に力が抜けていく。
「伊織様」
 震える口で名前を呼ぶと扉が開き、伊織が顔を出した。
「大丈夫か?」
 伊織は琉歌の傍に膝をつき、じっと顔色を窺うように顔を寄せた。琉歌の顔色が悪いのに気づいた伊織の顔が歪む。伊織の手が琉歌の方へ伸びた。実家で受けた暴力が一瞬脳裏に過り、体がびくついた。しまった、と思った時には伊織の手が琉歌の頬に触れる寸前で止まり、そのまま握りこまれ、伊織の膝の上に収まった。
「無事でよかった」
 伊織が苦し気に言葉を吐き出す。声が微かに震えていた。
 本気で琉歌を案じているのが伝わってくる。
「これからもきっと狙われるだろう。それでも、結婚を取りやめはしない。悪いとは思うが、腹を括ってくれ」
 伊織の目は不安からか微かに揺れていたが、言葉には有無を言わさない強さがあった。
 鬼の当主になる伊織は、もしかしたら命を狙われることなんて日常茶飯事なのかもしれない。琉歌は鬼に嫁ぐ意味を全く理解していなかった。覚悟がまるでなかったのだ。
 琉歌はぎゅっと拳を握りこみ、伊織を見つめ返した。
「もちろんです。私の方こそご迷惑をおかけすると思いますが、どうぞよろしくお願いします」
 今更結婚をやめるなんてできない。帰る場所などもうないのだから。
「迷惑なんていくらでもかけていい。不自由は思いは絶対にさせない。怖い思いをするかもしれないが、俺が守ると誓う。必ず」
 鬼の次期当主の言葉は、どのあやかしよりも心強い。
 いつの間にか止まっていた体の震えが止まっていた。
「ありがとうございます」
 頭を下げた時、膝の上に乗せたままになっていた天馬と目が合った。
「あっ」
「どうした……なんだ、それは」
 これまで天馬は琉歌がひとりでいる時にしか会いに来なかったので、伊織と顔を合わせるのはこれが初めてだ。
「烏だよ、見てわかるだろ」
 琉歌の膝からぴょんっと飛び降りた天馬がふんっと顔を背けた。
 鬼相手になんて態度をとるんだと慌てた琉歌だったが、天馬の声は鬼である伊織には聞こえなかったようだ。
「天狗は烏と話せるんだったか」
「はい。この烏は天馬といって、実家にいた時からの友人なんです」
「友人か」
 伊織がぽつりと呟き、警戒する天馬に顔を寄せた。
「な、なんだよ」
「挨拶が遅くなってすまない。俺は琉歌と結婚する伊織だ。どうぞよろしく」
「はあ? なんだその偉そうな態度は」
 天馬はぎゃあぎゃあと喚き始めたが、琉歌は伊織の言葉が嬉しかった。
 実家では烏を友達と呼ぶ琉歌を馬鹿にする者も多かった。なので、友人だとすぐに受け入れられたのにほっとする。
「何か言っているようだが、聞き取れないな。よろしくって言っているのか?」
「そんなわけないだろ」
 天馬と伊織のかみ合わない会話を聞きながら、琉歌はそっと伊織の窺った。
 今話している伊織に最初の冷たさは感じない。もしかしたら、今なら、避けられないかもしれない。
 琉歌は恐る恐る手を伸ばして伊織の背中に触れた。
 その途端、伊織がばっと音が出そうなほど勢いよく顔を琉歌に向けた。目が驚愕に見開かれた後、すっと伏せられた。
「俺は、部屋に戻る。邪魔して悪かった」
 早口でそう言い立ち上がった伊織を琉歌は引き止めなかった。
「また夕食の時に」
「……ああ」
 扉が閉まり、伊織が廊下を歩く音が遠ざかって行くのが聞こえてくる。
「なんだ、あいつ。突然出て行って」
「えっと……」
 琉歌は見た。出ていく前の伊織の耳が赤く染まっていたのを。
 もしかして、とは思っていたことが確証に変わる。
「伊織様、女性が苦手なのかも」
「あの顔で?」
「顔関係ある?」
 伊織は表舞台に立つ機会が少なかったと聞く。あやかし達との交流がなかったのなら女性に免疫がないのも頷ける。
 琉歌が手を伸ばした時に避けたのも店で耳を赤くしていたのもそういった理由からだろう。
 ひとり納得する琉歌に天馬が首を傾げた。
「幼馴染の女がいなかったっけ?」
「あれ、本当だ。じゃあ、なんでだろう」
 あれだけ美しい美晴が傍にいたのに何故琉歌にあんな態度をとるのだろうか。
「まぁ、幼馴染なんて兄妹みたいなものだから女と思っていないのかもな」
 天馬は興味なさげに言った。

 町へ襲われてから数日たったが、犯人は見つけられなかったらしい。夕暮れ時に帰って来た伊織から口惜しそうに告げられた言葉に琉歌はただ頷いた。
 犯人が野放しになっているので恐怖はもちろんあるが、外に出なければいいだろうと思っていた。結婚式の時に外に出るのでその時は危険が付いて回るが、鬼が周りを固める中で犯行に及ぶとは思えない。
 琉歌は犯人に襲われる恐怖よりも結婚への緊張感が高まり、だんだん睡眠が浅くなっていっていた。
「目の下に隈ができている」
 玄関に立ったままの伊織が琉歌の顔を覗き込みながら言う。
「ちょっと、夜更かししてしまっていて」
「眠れないのか?」
「そういうわけじゃないんです」
 不意に伊織の手が伸びてくる。
 恐怖はない。しかし、体が勝手に震えそうになり、自然と瞬きが増えた。
「傷つけたりしない。少し触れるだけだ。嫌がってもいい」
 そっと囁くように言われ、琉歌は伸びてきた手を受け入れようと思った。しかし、耳に飛び込んできた声に伊織の手が止まった。
「こんばんは、あら」
 玄関が開き、顔を出したのは伊織の母親である純恋だった。
 どうして、と琉歌が疑問を口にするよりも前に伊織がため息を吐き出した。
「なんでいるんだ」
「結婚前に挨拶に来たの。お邪魔しちゃってごめんね」
 うふふ、と口に手を当てながら笑う純恋に伊織は舌を打った。随分生意気な態度だが、純恋は気にした様子もなく琉歌に向き合う。
「琉歌さんもお久しぶりね。元気にしていた? 夕食、一緒に食べてもいいかしら」
「もちろんです」
 断る理由もなかったので了承すると伊織は抗議の声を上げた。
「だめだ」
「伊織には聞いていないわ」
 伊織よりも純恋の方が強く、つんけんしている伊織の言葉をものともせずに純恋は家の中へ入って来た。
 純恋は、おっとりしているが、強いあやかしだった。何がというと押しがである。
「琉歌さん、一緒に食事を作りましょう。使用人は今日はお休みね。伊織は部屋で待っていなさいね」
 そう言うと琉歌を連れて台所へと向かった。伊織が「火を使うなんて危ない」とまるで過保護な親のような文句を言っていたが、すべて無視して調理を始めたので、伊織は大きくため息を吐いて部屋を出て行った。長年の経験で何を言っても無駄だとわかっていたのかもしれない。
 琉歌は、作れる食事の種類は少ない。鬼が満足するものなど作れないが、誘われたのなら断るわけにもいかず、緊張した面持ちで純恋の指示を待った。
「そんなに緊張しないで。作るのは簡単なものでいいの。卵焼きとか。卵かけだっていいのよ」
「卵かけは、怒られませんかね」
「怒らないわ。作ってないやつに怒る資格なんてないのよ」
 純恋は琉歌の覚束ない手つきの包丁さばきをにこにこと見守ってくれた。
「琉歌さんは、どんな食事が好き?」
「卵料理が好きです。でも、なんでも食べます。ここの料理は全部美味しいので」
 実家の料理がまずかったわけではない。ただ父親好みの料理は味が濃く、琉歌の舌には合わなかった。伊織の家のご飯は、優しい味付けでどの料理も美味しい。
「そう。良かった」
 純恋はにこにこと楽し気に笑っていた。
「伊織とはうまくいっているみたいで安心したわ」
「えっ」
 急に問われ、危うく包丁で手を切りそうになった。
「う、うまくいっているように見えましたか?」
「うん。玄関先で仲良さそうにしていたから……もしかしてうまくいっていないの?」
「いえ、そういうわけではないです」
 顔を合わせた時よりかは距離は近づいているが、会話という会話はない。まだ結婚していないが、夫婦としてはスタート地点にすら立っていないだろう。
「伊織、あなたといると幸せそうよ」
「へ?」
 伊織の顔が頭に浮かんだ。いつも仏頂面で、たまに緩むことはあったが、微々たるものだ。伊織は天馬よりも表情の機微が分かりづらいとすら思う。
「母親だからね、わかっちゃうのよ」
 純恋は少しだけ寂しさを滲ませながら言った。しかし、すぐにぱっと顔を明るくさせ、手を止めている琉歌に向き合った。
「そういえば、伊織から聞いた? 結婚前夜に鬼の宴会をするって」
「いえ、初めて聞きます」
「伊織は別にしなくていいって言っているんだけど、親戚達や美晴ちゃん達がどうしても集まりたいって聞かなかったのよ。だからここに鬼達が来るんだけど」
 純恋は一度言葉を切った後に続けた。
「琉歌さんは、その時実家に帰らない?」
 その言葉を聞いた瞬間、琉歌は純恋がここにやって来たのはこの話をするためだと気が付いた。
 結婚前夜に身内だけで集まりたいのだろう。その中に琉歌がいたらできない話もきっとあるはずだ。
 実家に帰ると思うと胃が重くなるが、それでも鬼達の邪魔をしたいわけではない。一日だけなら天狗側も文句を言わないだろう。もしかしたら鬼達と同じように宴会なんて話になるかもしれない。
 それに琉歌も国利に最後に挨拶をしておきたい。と色々と帰る理由を見つけて琉歌は笑顔で頷いた。
「そうですね。私も実家の皆に挨拶をしたいと思っていたので、うれしいです」
「そう、よかった」
 純恋がほっと安堵の息を吐いた。
 しかし、いい顔をしなかったのは伊織である。
「だめだ」
 食事の準備だけして帰った純恋を見送り、いつも通り伊織とふたりで食卓を囲っている最中に結婚前日に実家に戻る話をしたところ、帰って来たのは短い拒否の言葉だった。
「何が起こるかわからないんだから、外に出るのは危ない」
「でも実家に帰るだけですし、それに身内だけで集まるのなら私はいない方が……」
「集まらなくていい。結婚したところで二度と会えないわけじゃないんだ。宴会なんてしなくてもいい。そんなことよりも安全の方が大切だろう」
 この話は終わりだとばかりに言い切った伊織に琉歌は首を振った。
「結婚っていう門出を祝うのは特別なことですよ。私も実家でお世話になった者に挨拶をしたいので一旦帰りたいのです」
 伊織は苦虫を嚙み潰したような顔をした。恐らく琉歌の言い分を尊重したい気持ちはあるのだろう。
「お願いします」
 膝に置き、頭を下げると伊織から大きなため息が聞こえ来た。やっぱりだめか、とぎゅっと拳を握った時、続けて落ちてきた言葉にはっとした。
「……わかった」
 しょうがないなと言わんばかりな声色だった。
「ただし条件がある。俺が実家まで送る。それと護衛もつける」
「はい。わかりました。ありがとうございます」
 了承が返ってきたことに安心して自然と頬が緩む。純恋の提案を通せた安堵感と伊織が琉歌の意見を尊重してくれた事実に顔が明るく乗ったのが、自分でもわかった。
 伊織は眉を下げて困ったように笑った。

 結婚が近づくと家の中は慌ただしくなった。といっても琉歌がしたのは着用する白無垢や装飾品を選ぶだけだったので、忙しく動き回ったりはしなかった。しかし家の中がばたばたしているので、ぼんやりするわけにもいかず、少しでも見栄えが良くなるようにと見た目に気を使った。
 一度だけ訪ねてきた美晴に『今更何をやっても遅いでしょ』と呆れられたが、何もしないでいるのは気が引けたので聞き流した。
 そして、結婚前夜になった。
「ついに結婚か」
 一度帰宅するための準備をしている琉歌の背後で天馬が呟く。
「明日だけどね。天馬も実家に一緒に来る?」
「いやだね。天狗の家は陰湿で空気が悪いんだよ。ここは、使用人がご飯分けてくれるし、可愛がってくれるし最高だからここにいる。宴会の豪勢なご飯くれるらしいしな」
 どうやらいつに間にか鬼の使用人と仲良くなっているらしい。、琉歌よりもよっぽど可愛がられているらしいエピソードに微笑ましくなった。
「そっか。じゃあ、いい子に待ってるんだよ?」
「子供扱いすんな。言われなくても上手くやるよ」
 天馬はふんっとそっぽを向いた。
 そんな仕草が子供っぽいんだよと思い、ふっと込み上げて笑いを手で押さえた。
「琉歌、準備できたか?」
 扉の外から伊織に声を掛けられ、手荷物を確認しながら扉を開けた。
「はい。大丈夫です」
「行こう。……天馬は一緒に帰らないのか?」
 伊織が部屋に残っている天馬に視線を向けながら言う。
「ここが居心地がいいみたいです」
「そうか。じゃあ、行こう」
 くるりと琉歌に背を向けて玄関に向かう伊織を追いかけようとして、一度足を止めて振り返り、天馬に手を振った。
「じゃあね。天馬。行ってきます」
「うん、じゃあね」
 天馬が片方の羽を上げた。
 不愛想な顔を作っているが、長年の付き合いから天馬が寂しがっているのが分かった。
「すぐ帰ってくるからね」
「いいからさっさと行け」
 友人でありながら弟のような天馬の反応に笑いながら伊織の後を追う。伊織は玄関で待っていてくれた。
「すみません、遅れてしまって」
「いい。もっと話していても良かったくらいだ」
 伊織の言葉は平坦で音だけ聞くと冷たいのに内容は琉歌を思いやっているので、不思議な気持ちになる。
 靴を履いてさあ出かけようと足を踏み出そうとした時、目の前に伊織の手が出された。
「え?」
「手を」
 どういう意味があって手を差し出されているのかわからず、戸惑いながら琉歌も手を出すと握りこまれた。
「嫌だったら止める」
 伊織はそう言うと琉歌に背を向けた。
 琉歌は何が何だかわからないまま繋がれた手を見つめる。
 強い力で握られているわけではない。琉歌が少しでも嫌な素振りを見せたらすぐにでも離れてしまうだろう。
 何故手を握っているのか、伊織に聞きたいが、その背中は質問を拒んでいるように見えて憚られた。しかし、振り払おうとはは少しも思わなかった。
 琉歌は繋がれている手を握り返した。一瞬、伊織の手がぴくりと跳ねたが、何も言わなかった。
 男性どころか女性とも手を繋いだ記憶がない琉歌は、初めての体験にどぎまぎしつつ、無言の伊織に次いで家を出た。
「こんばんは、伊織」
 家の前に美晴と太陽が立っていた。ふたりとも着飾っていて、並んでいる姿は華やかだ。
「早く来すぎちゃったから、中で待っていてもいい?」
 美晴がそう言いながら伊織に向かってくる。楽し気だったその目は、伊織が琉歌と手を繋いでいるのを見た途端ぎょっと見開かれた。
「な、え、て、て、手を、伊織が、手を」
「落ち着きなよ、美晴」
「だって、あの伊織が女と手を繋いでいるのよ。落ち着いていられるわけないじゃない」
 宥めてくる太陽の手を振り払った美晴がずんずんと琉歌の方へ歩いてくる。
「あんたね、ちょっと伊織に気に入られているからって調子に乗るんじゃないわよ。伊織はね、あんたなんか」
「こらー、やめなさい」
 太陽が美晴の口を塞いだ。
「ごめんなさい琉歌さん、こいつ気性が荒くて」
 暴れる美晴を抑え込みながら困った様子で眉を下げる太陽に琉歌は首を振った。
 伊織の結婚前できっと鬼達は浮かれている一方で気が立っているのだろう。天狗の子が、それも出来損ないの方が嫁ぐのだから反発もある。それに加えて美晴は兄のように慕っていた伊織が嫁を取るのだ。反発して当然だ。
「大丈夫です。それよりも今日は私のわがままに付き合ってくださり、ありがとうございます」
 実家へ帰省するにあたって伊織だけでなく、彼の側近である太陽も同行する。手間をかけさせてしまったと申しわけなくなり、頭を下げる琉歌に太陽は快活に笑った。
「気にするようなことじゃないですよ」
「そうだ。それに先に帰省を促したのはどうせ母さんだろう。琉歌が気にする必要はこれっぽっちもない」
 伊織は全部わかったいる様子で憎々しく言った。
「それじゃあ、そろそろ行こう」
 伊織に手を引かれ、その場を離れる。
 嫌味みたいになるかと思ったが、一応礼儀として美晴に頭を下げた。すると太陽の拘束から抜け出した美晴が言葉を投げつけた。
「天狗の家にずっといればいいわ。帰って来ないで」
 美晴は足音を立てながら伊織の家に入って行った。
「ごめんなさい……うちの妹が、本当に……」
 太陽が疲れた様子でため息を吐いた。
「いえ、気にしていないです」
「琉歌にこれ以上言うんだったら二度とうちに踏み込ませないようにする」
 伊織がとんでもないことを言い始めたので、慌てて止めに入る。
「そんなことしないでください。私、全然気にしていないです。それに美晴さん、本気で私を恨んでいるとかじゃないのは、なんとなくわかります」
 ずっと実家で負の感情を向けられていたから、本気で琉歌を追い出そうとしているわけじゃないのはわかる。
 美晴は、少しだけ天馬に似ている。素直じゃなく憎まれ口を叩きがちなところも甘えるような態度も。それから分かりにくい優しさが。
「これから普通に話せるようになればいいんですけどね」
「それは大丈夫じゃないかな、ね。伊織」
 太陽は嬉しそうに伊織を見た。
「……あいつを庇うわけじゃないが、今はまだ警戒しているだけだ。琉歌ならすぐに打ち解ける。でも、もし無理ならすぐに言ってくれ。二度と視界に入れないようにする」
「だ、大丈夫です。打ち解けられるよう頑張ります」
 きっと時間はかかるだろう。
 それでも嫌われるよりは好かれる方がずっといい。努力すればどうにかなる問題でもないが、伊織達が言うのなら本当に打ち解けられる気がした。

 天狗の実家に到着して両親との挨拶もそこそこに伊織は家の中を見て回り、危険がないのを確認してから外へ出た。
 そして、懐から白い紙を取り出すと何やら小さく呟き、ふっと息を吐きかけた。するとその紙はひらひらと舞い、地面に落ちたと同時に角の生えた人型に変わった。服は黒い着物で、顔は黒い布で覆われているので表情はわからない。
 妖術で作った式神らしい。天狗は式神を扱わないので、見るのは初めてだ。
 伊織はその式神を量産しながら琉歌に言った。
「俺の式神を置いていく。そこらのあやかしよりも何倍も強いから誰かが侵入する事態は起きないだろうが、もし何かあったら……やっぱり俺もここに残ろう」
「宴会の主役がいなくちゃ駄目ですよ。あの、それと、何体作るんですか? ちょっと多い気が」
 鬼の式神の数はどんどん増えていき、十を超えたあたりで待ったをかけたが、伊織はまだ足りないと首を振る。
「百体は作ろう」
「多すぎますよ」
「問題ない。少ないくらいだ」
 いくら式神の知識がなくてもそれが嘘なのはわかる。琉歌が何とか説得しようとしたが、これぐらい普通だと言って聞かないので、助けを求めるように太陽に視線を向けた。
「伊織様、流石に多すぎですよ。百体も作ったら琉歌さんが落ち着けませんって」
 太陽に言われて漸く伊織の手が止まった。既に式神の数が三十を超えている。真っ黒い式神達が並んでいる様子は安心感よりも恐怖を覚えた。これでは太陽の言う通り落ち着かないし、母親や未来が見たら悲鳴を上げるだろう。
「まあ、これくらいでいいか。この式神は妖術と殺意に反応して動く。誰かが妖術を使ってあやかしを操っても、犯人自ら琉歌を殺そうとしても式神が気づき、即座に助けに行く。一先ずこれで安心だろう」
 犯人がどんな妖術を使ってもこの式神が反応し駆けつけてくれるらしい。見た目は子供の様だが、その力が強いのは琉歌にも分かった。
「何から何までありがとうございます」
「いい。俺がしたいだけだ」
 伊織はもう一度家の周りを見て、危険がないのを確認した。
「明日の朝、迎えに行く」
 伊織が琉歌の手を握りながら言った。
 結婚式は明日の夜からだから、朝早くから迎えに来てもらわなくてもいい。宴会をするのならかなり遅くまで酒を飲むかもしれない。それなら迎えは昼でもいい。そう思ったが、琉歌は敢えて口にしなかった。
「はい。待っています」
 出来るだけ早く帰りたいと琉歌は思った。
 そして、それはきっと伊織にも伝わったのだろう。琉歌に手を握る力が少しだけ強まる。
「……連れて帰りたい」
 伊織がぽつりと言った。
「え」
「いや、なんでもない。明日、楽しみにしている」
 伊織が手を放した。去り際にぎこちない手つきで琉歌を頭を撫でて天狗の敷地内から出ていく。
 放心していた琉歌だったが、去っていく後ろ姿に向かって声を上げた。
「私も楽しみにしています!」
 すると伊織が立ち止まって琉歌に向かってほほ笑んだ。柔らかい、幸せそうな笑みだった。それは一瞬のことですぐにいつもの仏頂面に戻り、会釈をしてから今度こそ去って行った。
「連れて帰りたいって、言ったよね?」
 先ほど伊織が言った言葉を思い浮かべる。聞き間違いかと思ったが、どれだけ考えても他の言葉に変換できない。
 もしかしたら琉歌が思っているよりもずっと伊織は琉歌を想ってくれているのかもしれない。そう思ってしまうのは美晴の言う通り調子に乗っているのだろうが、浮ついた気持ちを落ち着かせる術を琉歌は知らなかった。

 久方ぶりに帰った実家は、なんだかよそよそしかった。
 鬼へ嫁ぐ者が出たのは家としても名誉であるはずなのに両親はどこか暗い顔だ。使用人も息を殺して過ごしている空気を感じる。
「何かあったの?」
 琉歌はこっそりと国利に聞いたところ、国利は困った様子で眉を下げた。
「実は、未来様が破局したようで」
「えっ」
「お相手が、浮気していたんですって」
 数年恋仲で結婚の約束をしていたのに琉歌が家を出ている間に破局してしまったらしい。最後に会ったお披露目の時に様子がおかしかったのも相手と仲違いをしていたからだった。それからずっと未来の機嫌は悪く、家の空気は澱んでいる。
 天馬は帰って来なくて正解だったな、と風呂を済ませて部屋に戻った琉歌は思った。
 未来を刺激するわけにもいかないので、宴会などは開けるわけもなく、両親から琉歌へ向けられた言葉は「捨てられないようにしなさいよ」の一言だけだった。
 祝福を期待していたわけではないので落胆はない。
 しかし、不思議とため息が漏れた。
「早く、帰りたいな」
 国利に改めて挨拶ができたので、もう帰ってしまいたい。伊織が迎えに来るまであと何時間くらいだろうかと思いながら時計を見た。
「琉歌、いる?」
 ぎし、と廊下が軋む音と共に扉の向こうから声がした。
 機嫌が悪いと噂の未来の声だ。
「いるよ」
 一瞬寝ているふりをしようかとも思ったが、起きているのがバレた時に怖いので対応する。できれば穏便に済ませたいと緊張しながら扉を開けた。
「おかえり、向こうの家はどう?」
 未来は、話に聞いたよりもずっと元気そうに見えた。
 機嫌も悪いどころか、今までで一番いいかもしれない。
「ただいま。良くしてもらっているよ」
「そうなんだ。鬼の次期当主はどんなあやかし?」
 未来は部屋の前で話し続ける。中へ入るように促してもそこから動かず、ひたすら琉歌の近況を尋ねた。
「伊織様は、すごく優しいよ」
「そっか」
 家はどんなところで、誰がいて、どんなことをしていて、伊織とどんな話をしていて。未来の質疑はいつまでも続きそうだ。一体何が気になるのだろうか。今まで邪険にしていた妹の生活がそんなに気になるのだろうか。
 ひとしきり質問した未来は、一瞬閉口した。
 そして、唇を震わせながら聞いてきた。
「今、幸せ?」
 幸せかなんてわからなかった。でも、天狗の家にいた時よりはずっと息がしやすく、笑顔を浮かべるのに躊躇いを覚えず、優しい手に導かれるのに安心した。きっとこれを世間は幸せと呼ぶのだろう。
 琉歌は伊織が別れ際に見せた微笑みを思い出しながら頷いた。
「幸せだよ」
 その答えを聞いた未来は、よくわからない顔をした。苦しく泣きそうなのを堪えたような顔に見えたが、笑みを抑え込んでいるようにも見えた。
「そう」
 それだけ言うと未来は去って行った。
 彼女が何を聞きたかったのかわからないまま、琉歌はその背を見送る。これ以上話をしたいとは思わなかった。
「もう寝ないと」
 早く寝れば、早く朝が来る。
 寝るまに枕元に置いてあった飲み口の広いグラスを手に取った。きっと国利が琉歌が風呂に入っている間に置いてくれたのだろう。少しだけぬるくなった水を口に含みんだ。
 苦みがある、と気づいた時にはもう飲み下していた。
 喉へ異変を感じ、手で押さえたと同時に激しい吐き気と体が内側から壊されるように苦痛を覚えた。
「うううううう」
 声は出ない。痛みと吐けきと苦しみで頭が真っ白になり、座っていることもできずに床に転がる。苦しみを紛らわせるために畳を掴み、搔きむしった。
 痛い。苦しい、誰か。
 助けを呼ぼうと開いた口からは呻き声と浅い呼吸が漏れるだけで、声は出ない。
 助けて。頭に伊織の顔が浮かぶ。幸せそうだった彼の顔がどんどん黒く塗りつぶされていく。
 明日、楽しみだと言っていたのに。
 幸せだと思ったのに。
 琉歌は最期の力を振り絞って彼の名前を呼んだ。それは何の音にもならず、ひとりぼっちの部屋に落ちた。
 帰れなくて、ごめんなさい。琉歌は目を閉じた。