あやかしが住むかくりよを統治している鬼の次期当主と天狗の娘である琉歌の婚約が決まったのは、琉歌が十六の時だった。
 夜中に帰って来た父親は親戚全員を家に集めた。鬼との話合いをしたという前置きの後、父親は口を大きく開いて言った。
「鬼の次期当主との婚約が決まった。これで鬼との懇意になれば、天狗は安泰だ」
「私は嫌よ。恋人がいるもの」
 そう言って不機嫌そうに断ったのは、琉歌の姉である未来だ。彼女に同じ天狗の恋人がいるのは家族全員が知っていた。なので、必然的にその場に集まっていた親戚一同の視線は部屋の隅で縮こまっていた琉歌に向かった。
「琉歌、漸くこの家に役に立つのね」
 母親が涙ぐむのを眺めながら琉歌は「結婚なんてしたくない」などと口にできなかった。
 琉歌は、天狗の当主の娘だが、家の中での立場は悪い。その理由は力の強い当主ではなく、母親の方に似てしまったからである。特に顕著だったのは、その髪の毛だ。琉歌の髪は母に似た赤毛で、父親の黒髪とは似ても似つかない。
 しかも天狗の誇りともいえる羽も小さく、色味もくすんでいるので親だけでなく親戚にも馬鹿にされている。
 そんな姿では嫁にいけないぞ、と言われていた琉歌に縁談が来たのだ。それもあやかしの長である鬼との婚姻だ。琉歌に拒否権などないのは明らかだった。
「次期当主って、あれでしょ、冷酷非道って噂の」
 未来がくすりと笑いながら言った。
 琉歌もその噂を耳にしたことがある。鬼の長はいつも微笑みを浮かべた穏やかなあやかしだが、その息子はいつも無表情で何を考えているのか分からない。かなりの人間嫌いで、気にくわないことがあるとすぐに手が出る、なんて囁かれている。
 あまり表舞台に出て来ないから噂はどんどん尾ひれがつき、今では顔面に大きな傷があるとか、顔が怖くて直視できないなんて言われているが、真偽は分からない。
 しかし、良い噂がないのは確かだ。
 冷酷非道と呼ばれている鬼と一緒に生活を送るなんて考えたら、気分が悪くなった。
「かわいそう」
 ちっとも可哀想なんて思っていないだろう未来の一頃に琉歌は唇を噛みしめながら、自分の運命を呪った。

 鬼との顔合わせは、その話から一週間後だった。
 場所は鬼が所有している平屋に両親と共にやって来た。家の中には既に鬼の気配がある。
 あやかしの長の気配は外にいても分かるほど強い。威圧するような気配に怖気づきながら家の中に入った。
「待っておりました。天狗の御一行」
 玄関で待っていた鬼の付き人だというあやかしの男性に案内され、向かったのは客間だ。この中に既に鬼がいるのは気配で分かっている。
 重圧にごくりと生唾を飲み込むと案内してくれた鬼が微かに頬を緩めた。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。取って食ったりしませんから」
 そう言われても他のあやかしとの関わりなど皆無だった琉歌は、威嚇に近い気配に気分が悪くなってきていた。
「それでは開けますね」
 男性が扉を開け放った。
 広い部屋の中央に置かれた背の低いテーブルの向こうに見覚えのあるあやかしの姿が見える。鬼の当主と奥方だ。
 琉歌はふたりの隣に腰を下ろすあやかしに数回瞬きをした。黒い着物を身に着けた黒髪の男性だ。無表情、というか不機嫌にも見える表情でじっと琉歌を見ている。
「ようこそいらっしゃいましたね」
 鬼の当主の言葉にはっとして慌てて頭を下げる。
「この度は、お招きいただきありがとうございます」
 緊張で強張りながら言った琉歌に対し、鬼の当主は鷹揚に笑った。
「そう固くならずに。こちらへどうぞ」
 天狗の一家は、鬼達の前にテーブルを挟んで座った。
「初めまして、琉歌さん。私は鬼の当主の豊。隣にいるのが妻の純恋。それから奥に居るのが、息子の伊織です」
 琉歌はそろりと視線を伊織と紹介された男性に向けた。
 やはり、この仏頂面が琉歌と婚約する男性らしい。彼は噂と違わぬ冷たい眼光をしているが、その顔には傷など全くなく、美しい顔立ちをしている。
 噂などやはり信用できないな、と思っていると一瞬、伊織と目が合った。しかし、すぐに勢いよく逸らされた挙句、眉間に皺を寄せ始めた。その様子から伊織がこの婚約を快く思っていないのが見て取れた。きっと鬼の当主に無理やり連れて来られたのだろう。父親の血を色濃く受け継いだ未来なら兎も角、羽が不揃いの琉歌が来て心底がっかりしているに違いない。
 いつの間にか威圧するような気配は消えているが、伊織の態度で胃がきりきりと痛んだ。
 顔を顰めそうになるのを耐え、笑顔を向ける。ここで婚約が破談になれば琉歌の家での待遇は悪化するだろう。それは避けたいと願うが、伊織の素っ気ない態度からしてきっと婚姻は白紙に戻るだろう。
 琉歌は半ば諦めていた。
「……結婚の日取りにこだわりはあるか?」
 予想に反して、伊織は婚約を進める姿勢を見せた。
 驚いて目を見開く琉歌をちらりと一瞥した後「どうなんだ」と聞いて来たので、慌てて応える。
「こだわりなどありません」
「では、一月後の満月の日に」
 そうしてすんなりと琉歌と伊織の婚姻は決まった。
「結婚式の前に鬼の一族へのお披露目もしようと思うのだけど、琉歌さんは問題ない?」
 鬼の当主、豊の言葉に反射的に頷く。
 了承してから言葉を理解し、冷や汗が滲む。鬼が一堂に会する場に行くのは今以上に緊張するだろう。粗相でもしようものなら首が飛ぶかもしれないと嫌な想像で鳥肌が立つ。
「緊張しなくても大丈夫。挨拶程度だから。ご両親もぜひいらしてください」
「は、はあ。それは有り難い」
 豊の言葉に父親が表情を強張らせながら何度も頷いた。
「お披露目が終わったら俺と共に暮らしてもらうが、問題ないか?」
「え……」
 てっきり結婚してから一緒に暮らすようになるのだとばかり思っていたので、伊織の申し出に戸惑いを覚えた。心の準備に出来ていないと母親に視線を向ける。
「勿論です」
 両親は嬉しそうに笑いながら琉歌の背を押した。
 彼らからしたら厄介払いが出来て清々するだろう。家には優秀な未来がいる。琉歌などあの家には不要なのだ。
 琉歌は申し出を受け入れた。
 鬼の一族へのお披露目は十日後に行われる運びとなり、最初の顔合わせはそこで終わった。

「どうだった? 鬼の次期当主」
 家に帰った琉歌達に留守番をしていた未来が開口一番に言った台詞である。
 玄関までわざわざ迎えに来たのは、それだけ早く琉歌を揶揄い嘲笑いたくて仕方なかったのだろう。にやついた表情を浮かべている。
 未来はきっと酷い結果を待っていたのだろうが、両親は未来の真意に気が付かないのか興奮状態で言った。
「凄かったわ。まさかあんな美丈夫だとは思わなかった。それにすんなり結婚が決まるとも思っていなかった」
「よくやった」
 両親の反応が意外だったのか、未来は大きく目を見開き、訝しんだ様子で眉根を寄せた。
「美丈夫? 鬼の当主が? ていうか、上手くいったの? 琉歌の羽こんなんなのに」
「羽の美醜など鬼には分からないのかもしれないな。断られなかったら上手くいったと言っていいだろう。まぁ、あまり興味はなさそうだったな。強制されて嫌々来たと言ったところか。それでも話が進めば問題ない。さっさと結婚してしまえばいい」
 父親は口の端を引き上げた。
「向こうの気が変わらないと良いわね。特に鬼の一族への挨拶では絶対に粗相をしないように」
「そうだな。あと十日しかないから礼儀を叩きこめ」
 両親の話を聞きながら憂鬱な気分になった。
 幼い頃の琉歌は両親の関心を引こうと必死だったが、今は期待という重圧で押しつぶされそうだ。それに礼儀なんて少しも分からないので、苦しい日々が続くのは目に見えていた。
 自室に帰った琉歌は、すぐに畳の上に身を投げた。
 久しぶりの外出に加えて、鬼との会合はかなりの体力と精神力を削っていた。床に転がると体に力が入らなくなり、もう立てそうにない。
「疲れた……」
 はあ、と溜め息を共に吐き出した言葉があまりにも疲労が滲んでいて苦笑が零れる。
 結婚すればずっと鬼と暮らす生活になるというのに、少し会話をしただけでこんなに疲れていて大丈夫だろうかと不安になった。
「おーい、琉歌、いるか?」
 ふと、外から聞こえて来た聞き慣れた声に反射的に体が起き上がった。
 まだ体力は残っていたらしい。琉歌は膝立ちで庭に面している襖まで歩き、そこを開けた。すると縁側に小さな鴉がちょこんと居た。つぶらな目で琉歌を見つめている。
「おかえり琉歌」
「ただいま、天馬」
 鴉の名前は天馬という。大抵の天狗は鴉とコミュニケーションをとることができ、琉歌と天馬は幼い頃から交流があった。琉歌にとって天馬は気心の知れた友達だ。
「どうだったよ、鬼との顔合わせは」
 天馬の声色には揶揄いと心配の色が混じっていた。
「うーん、思ったよりスムーズに話が進みそう」
「まじか! 琉歌が鬼の花嫁になるなんてな。良かったな。こんなクソみたいな家から出られそうで」
 天馬はぴょんぴょんと跳ねながら部屋の中に入って来た。
「口悪いよ。誰かに聞かれるかも」
「誰もいないから安心しろよ」
 どこから自信が沸いて来るのか分からないが、天馬の暴言が家族に伝わった経験はないので安心していいだろう。
「それで、鬼はどんな奴だった? 嫌な奴? 噂通りの冷血漢?」
「うーん、あまり会話をしていないから分からない。結婚に前向きかどうかもよくわからなかった」
「なんだそれ」
 琉歌は伊織との対面を事細かく話した。
「ふうん、よくわからない奴だな」
「そうだね」
 やはり天馬にもよくわからないらしい。
「それよりも大丈夫なのか。その礼儀指導。またお前いじめられるんじゃないのか」
「……どうかな」
 琉歌は思わずそっと目を伏せた。
「おいおい、絶対酷い目にあうだろ」
 天馬が心配そうに寄って来て、琉歌の膝に己の額を擦り付ける。可愛らしい仕草にふっと頬が緩んだ。
「鬼に嫁入りする身だからね、そんなに酷い目には合わないはずだよ。大丈夫だからね」
 そっと小さな額を撫でる。鴉の表情の変化は分かりにくいのに天馬の表情だけはすぐに読み取れた。
 琉歌の言葉を信じていない。心配そうな顔に琉歌は大丈夫だと言葉を重ねるしかできない。何故なら琉歌も天馬と同じく不安なのだ。大丈夫と自分に言い聞かせていないと怖くてたまらなくなってしまう。
「きっと大丈夫だよ」
 思ってもいない言葉を吐き続けた。

 天馬の予想通り、両親が用意した教育係はかなり厳しいあやかしで、琉歌がひとつでも出来ないと怒鳴り声をあげた。鬼に嫁入りする体なので傷をつけてはならないと暴力を振るわれなかったのは幸いだが、鬼は羽の美醜に無頓着だと聞くと躾と称して少しだけ羽を抜かれた。
 痛みと恐怖に耐え、何とか礼儀を覚えて十日がたった。
 母親が選んだという蝶の刺繍が入った桃色の上品な着物を着つけて貰う。
「こんな高価なものまさかあんたに買う日が来るとね」とは、着物を渡してきた母親が言った言葉である。琉歌もまさか着るとは思っていなかった。
「苦しくはないですか?」
 着付けを担当してくれている女中の言葉に「大丈夫」と微笑む。
 使用人の中には琉歌に酷い言葉を投げかけて来る者もいたが、優しくしてくれる者もいた。彼女はそのひとりだった。
 昔からこの家に使えているらしい彼女の名前は国利という。老齢のあやかしで幼い頃両親にぞんざいな扱いを受けている時も守ってくれた。
「琉歌様が幸せになれますように心を込めて準備をいたしますね」
 国利は涙ぐみながら琉歌の着物を整えてくれた。
「ありがとう国利さん」
「いえいえ、いいのですよ。このくらいしか私にはできませんからね」
 国利の温かい手がそっと琉歌の背を撫でる。優しい手つきに初めてこの家を去るのが名残惜しいと思った。
「国利さんがいてくれて良かったです。今までお世話になりました」
 涙声で告げた琉歌の背を撫でる国利の手が少しだけ震えた。
「ねぇ、これなにか知ってる?」
 ふたりのしんみりした空気を裂くように襖が開き、母親が顔を出した。その手には箱が乗せられている。
「いえ、その箱どうしたんですか?」
「送られて来たのよ。あんた当てにね」
 そう言って渡された箱を受け取る。真っ白い箱には確かに宛先に琉歌の名前が書いてある。差出人の名前はない。
「誰からですかね」
 隣にいた国利と共に首を傾げながら箱を開けた。
 中に入っていたのは、花の髪飾りだった。
「わぁ、綺麗……」
 硝子で作られた半透明の花飾りは、見ただけで高級品だと分かる。
 琉歌の反応に母親も箱の中を覗き込み、ぎょっと目を見開いた。
「これ、花の音の髪飾りじゃないの!」
「花の音って何ですか?」
 聞き覚えのない言葉だったので、質問をすると母親が興奮した様子で捲し立てる。
「町にあるガラス細工の店よ。かなりの高級品で中々てに入らないのよ。それがどうしてここに……」
 母親ははっとした様子で箱の中に手を突っ込み、髪飾りの横に差してあった紙を手に取った。
「……これ、鬼からの贈り物だわ」
 その紙に書かれていたのは鬼の次期当主である伊織の名前だった。他には何のメッセージもないが、このタイミングで贈られて来たと言うことは、着けて来いという意味だろう。
 恐る恐る箱から出してみる。ガラス細工なのに少しも重くなく、長時間着けていても問題なさそうだ。
「早速髪を結 いましょう」
 国利の言葉に頷いた時、開けっ放しだった襖から未来が顔を覗かせた。
「ねぇ、これどう?」
 お披露目に琉歌の家族として出席する予定の未来も着付けをしていた。琉歌とは違った青色の艶やかな着物はかなり目を惹く。
 母親に着物姿を見せに来たらしい未来は、琉歌の手にある髪飾りを目にして顔を顰めた。
「なにそれ」
「鬼からの贈りものらしいわ」
 未来の問いかけに母親が答えた。
「それって花の音の髪飾り? 嘘でしょ。琉歌には似合わないわよ」
 そう言うと未来はにやりと笑って琉歌の手から髪飾りを奪い取り、自身の頭上に掲げた。
「これ、私が着けようかな。ていうか、結婚も私がしちゃおうかな」
「え? 姉さんには婚約者がいるじゃないですか」
 未来の婚約者は同じ天狗だ。五年前に婚約して今まで仲睦まじいと噂を聞いていたので、他に目移りしたような発言に琉歌は思わず声を上げた。すると途端に未来は顔を歪めた。
「知らないわよ、あんな男」
 未来はそう言うと不快気に息を吐き、髪飾りを投げ捨てるように琉歌に渡すと部屋を出た。
 どうやら婚約者と何かあったようだ。
 事情を知っているらしい母親は疲れた様子で息を吐いた。
「……何かあったんですか?」
「あの子にも色々あるのよ。あんたはお披露目だけに集中しなさい。失敗なんてしたら承知しないからね」
 それだけ言うと未来の後を追うように母親も部屋を出て行った。
 残された琉歌と国利は目を合わせた。
 母親の言う通り今は鬼に気に入られる方法を考えなければいけない。例え嫌々だったとしても結婚を決めなければいけない。
 琉歌は国利に髪を結って貰い、気合を入れた。

 それなりの覚悟をして来たつもりでいたのだが、鬼の本家で多数の鬼に囲まれると大きすぎる気配に心臓が縮み上がった。
 隣にいる両親と未来も珍しく緊張しているようで顔が強ばっている。鬼の当主が場を和ませようと「気軽な飲み会だと思ってくれたらいい」と微笑んだが、気軽になどいられない。
 あやかしは綺麗な者が多いが、鬼は桁違いに美しい。そろりと視線を動かした所、後ろで髪をひとつに結った凛とした佇まいの女性と目があった。途端、きつく睨まれて慌てて頭を垂れた。
 どう考えても歓迎されていない。
 こんな未熟な天狗が鬼に嫁入りするなど反対されても当然だ。
「ちょっと、惨めったらしく頭下げないでよ」
 背後から未来に小突かれ頭を上げる。
「あんたがそんな態度だと天狗全体の評価が下がるって分からないの?」
 その通りだと思い直し、未来に「すみません」と謝罪をしてから顔を上げた。
 丁度その時、奥の扉が開き、黒に金糸の刺繍がついた着物姿の伊織が現れた。
 先日同様にその綺麗な顔は仏頂面で、雰囲気もどこか尖っている。伊織の登場に鬼達は頭を下げる者もいれば、近寄って親し気に声をかける者もいた。
「ね、ねえ」
 未来に袖を引かれ、視線を向ける。
「あれが鬼の次期当主? 綺麗過ぎる……」
 未来は目をこれでもかと開き、頬を高揚させながら伊織を一心に見つめていた。
「あれがあんたの結婚相手? ありえない。釣り合って無さすぎる」
 そう言うなりぎっと強い視線で睨まれ、たじろぐ。
 釣り合っていないのは重々承知だが、突っかかられても困ってしまう。この結婚を決めたのは琉歌ではないのだ。
「琉歌」
 不意に名前を呼ばれ、はっと顔を戻した眼前に伊織が立っていて飛び跳ねそうになった。
「あ、お、おはようございます。今日はお招きいただきありがとうございます」
「そう畏まらなくていい」
 伊織は一旦言葉を止め、琉歌の頭の方をじっと見つめた。そこには伊織から贈られた髪飾りが着いている。
「こんな高価なものをくださってありがとうございます」
「ああ、気に入ったのなら良かった」
 そう言うと伊織はすぐにそっぽを向いてしまった。何か気に障ることでも行ってしまったかと冷や汗を掻いたが、隣に立っているのに気配は落ち着いていたので気分を害した風ではなさそうであった。
 こっそり安堵の息を吐き、お披露目という名の宴会が始まるのを待った。
「本日はお忙しい中伊織のためにご足労いただきありがとうございます」
 鬼の当主の粛々とした言葉で始まったお披露目会という名の宴会は、最初こそ畏まっていたが、すぐに酒やご飯が並び、数分もしない内に空気は完全に緩んだ。
 和気藹々とした空気の中、琉歌は緊張で吐き気を覚えながら何度も目の前の水を飲みこんでいた。
 これまで天狗としか関わりが無かったのに急に大勢の鬼に囲まれ、隣にはずっと仏頂面の伊織がいるので心が休まらない。
 ため息を飲み込み、顔が暗くなってしまわないように笑顔を作った。
「気分が悪いのか?」
「えっ」
 声をかけられ、驚いた。いつの間にか伊織がじっと琉歌を見つめていた。
「顔色が悪い」
 端的な物言いに首を振る。
「緊張してしまっているだけで、体調は問題ありません」
「そうか。それなら早く終わらせよう」
 そう言うなり伊織は手を上げて、誰かを呼んだ。
「太陽、こっちへ」
 伊織の声にやって来たのは、先日初めて顔合わせの時に玄関まで迎えに来てくれた男性だ。
「先日お会いしましたね。伊織様の従者をしています。太陽と申します」
「よろしくお願いします。琉歌です」
 太陽という男性はどこか厳めしいイメージの鬼の中ではかなり柔和なタイプらしく、浮かべている笑みは名前の通り光り輝いている。伊織の隣に並ぶと雰囲気の差が激しい。
「太陽とは長い付き合いになるだろうから顔を覚えておいてくれ」
「は、はい」
 伊織と結婚するのなら従者である太陽と関わる機会は多そうだ。
「困ったことがあったら気兼ねなく言ってくださいね」
 そう言って太陽は人の良さそうな笑みを浮かべた。
 話易そうな鬼で良かったと安堵した。
「僕の妹も紹介していい?」
 太陽は他に聞かれないような声量で言う。気安い口調に驚いたが、ふたりの年が近いことから従者というより友人のような関係なのかもしれないと思った。
「ああ」
 伊織が承諾すると太陽は背後を振り返り、誰かを手招きで呼んだ。そして太陽の傍に立ったのは先程目があった綺麗な女性だった。
「妹の美晴です」
 美晴と呼ばれた女性はじっと琉歌を見つめながら「どうも」とつんとした態度で言った。
「こら、美晴。何だその態度。ちゃんと挨拶するって言っただろ。すみません琉歌様」
 するとすかさず太陽が美晴を叱り、ぺこぺこと琉歌に頭を下げる。
「だって認められないんですもん。どうして伊織がこんなみすぼらしい天狗なんかと結婚するんですか」
 みすぼらしい天狗、と言われ慣れた暴言に傷つくよりも何だか安堵を覚えてしまったのは、琉歌の家での扱われ方が乱雑だったからだろう。家族に踏みにじられた自己肯定感のせいで、丁寧に扱われると戸惑いを覚えてしまうのだ。
 伊織も太陽も気にしていないようだったが、琉歌の羽は自分でもみすぼらしいと思うので、異論などない。だからぶつけられる言葉を全て受け入れようと耳を傾けた。
「大体、なんで」
「おい」
 美晴の言葉を伊織が遮ったその。冷え冷えとした声に背筋が凍る。
「文句は俺に言えと言ったはずだ。琉歌に当たるな」
 伊織の怒りを滲ませた声に美晴は驚いた様子で目を見開いた後、目に涙を浮かべた。
「だって、急に結婚なんて言うから私、驚いて……伊織と結婚するのは私だと思ってたのに」
 美晴はそう言って顔を押え始めた。泣き出す前のような雰囲気に流歌は慌てた。
 もしかしてふたりは恋仲だったのだろうか。何か事情があって結婚できないのかもしれない。
「あの、おふたりはお付き合いを?」
「違う」
 ばっさりと否定され、拍子抜けする。伊織は呆れた様な表情を浮かべた後、美晴を睨んだ。
「美晴と太陽とは幼なじみのようなもので、それ以上でも以下でもないから、勘違いしないでくれ」
「なに、その言い方。妹みたいに大切にしているって説明してよ」
「いいから、ちょっと黙って居ろ」
 伊織と美晴の間には上下関係のようなものは感じない。美晴が言う様に妹のような存在なのかもしれない。
 美晴や太陽と話をしている時の伊織は琉歌と接している時よりも表情が柔らかく、親愛が窺えた。まだ二回しか会っていない琉歌と家族のようなふたりでは比べ物ならないのは当たり前なのだが、その和気藹々とした光景は羨ましいと素直に思った。
「こんにちは、今、大丈夫でしょうか?」
 ぼうっと二人のやりとりを見ていた琉歌は不意に聞こえて来た声にはっと我に返った。
 声が聞えた方を振り向くと背の高い男性が立っていた。眼鏡をかけた柔和な雰囲気の男性に見覚えはない。
「えっと、あの」
 困惑している琉歌に男性は眉を下げた。
「すみません、突然話しかけてしまって、ご挨拶だけでもしたかったのですが、タイミングが分からず」
「いえ、こちらこそ、挨拶が遅れてしまいすみません」
 咄嗟に頭を下げると男性はふっと笑みを浮かべた。
「どんなお嬢さんが来るかと思ったら、素敵なあやかしで驚きました」
「す、素敵?」
 男性に褒められた経験などない琉歌は目を白黒させた。
「はい。お召し物も似合っていますし、綺麗な顔立ちで……」
「叔父さん来ていたんですね」
 怒涛の褒め言葉に固まっていた琉歌の横から伊織がずいっと琉歌と男性との間に入った。
 男性の視線が伊織の背中で遮られ、こっそり安堵の息を吐いたが、すぐに伊織が口にした単語に瞬いた。
「え、叔父さんって、その方は」
「俺の父親の弟だ」
 当主の弟、と改めて叔父と呼ばれた男性の顔を見上げる。確かに当主と似ている。伊織とはあまり似ていないのは、伊織が母親だからだろう。
「自己紹介が遅くなってしまってすまないね。伊織の叔父の総一郎です。今後ともよろしくお願いしますね」
「はい、こちらこそ、よろしくお願いいたします」
 慌てて頭を下げると総一郎はふふっと笑みを零した。
 何の笑みだろうか。もしかして失敗してしまっただろか、と冷や汗を浮かべる琉歌に総一郎は弧を描いた口元を手で隠しながら言う。
「いやぁ、まさか伊織が結婚するなんて思わなかったな。直前まで嫌がっていたからね、駄々を捏ねていたのを思い出したんだ。琉歌さんを笑っているわけではないよ」
 嫌がっていた、と聞きやっぱりなと納得する。しかし、高潔そうな伊織が駄々を捏ねるなんて信じられない。
「嫌がってもいないし、駄々も捏ねていない。ねつ造しないでくれ」
 伊織は不機嫌そうに吐き捨てた。
 どちらが真実を言っているのか定かではないが、嫌がっていたのは本当だろう。いや。今だって嫌がっているように見える。
 琉歌に気を使っているのかも、という考えが浮かび、すぐに否定する。鬼である伊織が琉歌なんかに気を使うはずはない。
 このままいけば結婚するのは確実なので、嫌々結婚しているなんて言って今度始まる結婚生活に支障が出るのを下げているのかもしれない。そうに違いないと琉歌は自分の中で答えを出した。
「最後に両親に挨拶だけして帰ろう」
 総一郎との話を終えるなり伊織は部屋を見渡し、そう言った。
「え、まだ三人しか挨拶していませんが」
「問題ない。どうせ結婚式の場で顔を合わせる」
 伊織は言い切ると話したそうにしている鬼達を全て無視して鬼の当主の元へ向かった。琉歌もその後に続く。当主とその奥方は琉歌の家族と談笑していた。伊織が近づいてのに気が付いたようで、声をかける前に当主の視線が伊織に向く。
「挨拶はもういいのかな?」
「はい。太陽達への紹介は済ませましたから」
 当主の視線が伊織から琉歌へ移る。
 柔らかい笑みに琉歌は震えそうになる呼吸を抑え込んで笑みを返しながら言葉を吐き出そうとした。それよりも早く当主が片手を差し出して来た。
「琉歌さんどうか、伊織をよろしくお願いしますね」
 好意的な態度に差し伸べられた手を取る。温かい手に握られ、琉歌は唇を震わせる。
 次期に鬼の当主となる伊織と結婚するのだ。当主である豊の言葉は穏やかなのに重みがあり、その現実が急に重く圧し掛かって来た。ごくりと生唾を飲み込みながら頷く。
「不束者ではありますが、伊織様に尽くすことを約束します」
 手が震えてしまったのに豊は気づいただろうが、触れなかった。そっと手を離し、息を吐く。
「琉歌のご両親も結婚を認めてくれてありがとうございます」
 伊織が両親に挨拶しているのを聞き、何だか落ち着かない気持ちになる。
「いえ、そんな。何もできない娘ではありますが、次期当主に気に入っていただけて光栄です」
 父親が緊張で口の端を引き攣らせた不格好な笑みのまま言った言葉に微かに伊織の眉が動く。気配が若干鋭くなった。しかし、伊織は何も言わずに琉歌の手を引いた。
「もう挨拶もしたから帰ろう」
「え、あ、でも、いいんでしょうか」
 ちらりと当主の顔を窺うとにこにこしながら頷かれた。
 どうやら帰ってもいいらしい。
 琉歌は伊織に手を引かれるまま会場を後にした。

 帰る、と言っても実家にではない。初めての顔合わせて話していた通り、連れて行かれたのは伊織の家だった。
 てっきり本家に住むものだと身構えていたが、着いた先にあったのは先日訪れた鬼の家よりも小さい平屋だ。小さいと言っても琉歌の実家と同じくらいの広さだろう。
 住んでいるのは、伊織と使用人が数人だけらしい。
「ここが俺達の家だ。好きに過ごしてくれて構わない。結婚式までまったりしていろ」
 伊織はぶっきらぼうにそれだけ告げた。
 結婚に前向きなのか、それとも嫌々なのか未だによくわからなかった。