八月だと言うのに魔女はダッフルコートに身を包んでいた。首元では花櫛のように美しい髪の毛が、血のように燻んだ赤いマフラーに巻き込まれている。八月の室内に相応しい格好だとはとても思えない。もしかすると、今が八月だというのはわたしの思い違いなのかもしれない。魔女のちぐはぐな格好に思わずそんなことを考えたけれど、店の外で自身の存在を喧しく主張する蝉の鳴き声を聞いて思い直す。

「いらっしゃい」

 その平坦な声は、とても大きいとは言い難かったけれど、何故か店中に響き渡るように聞こえた。当の魔女はどこか冷えたような視線で、手元の本に目を落としている。ただ、どうしてか、その顔は少し悲しそうに見えた。

「逢野さんはさ、神様が創った物語と人間が作った物語、どっちが面白いと思う?」

「どうして……」と思わず口をついて出る。

「どうしてその名前をって? また馬鹿なこと訊くなあ、魔女だから。ただそれだけだよ」

 全てが当然のことであるかのように、魔女はケタケタと笑っていた。

「それより答えてよ。どっちだと思う?」

 神様が創った物語。それは要するにわたしたちの人生のことだろうか。

「神様の物語」

「どうして?」

 魔女が間髪入れずに訊き返す。

「だって、事実は小説より奇なりなんて言葉もあるくらいだし。結局神様が作る本物には勝てないでしょ?」

「なるほどね」 

 魔女は初めて手元の本から視線を上げた。

「だけどね、私たちはそうは思わない」

 魔女はやはり平坦な声で、しかしどこか確信を持っているかのように言い放つ。心なしかその頬は、林檎のように薄紅に染まって見えた。

「だって、神様が創ったものって全部偶然の産物でしょ。天と地。昼と夜。空と海、大地。植物。星。獣。そして人間。ただ何となくそこにあるだけ。そこに後から意味を見出すことはできても、本質的な意味なんてどこにもない。でも人間が作ったものは違う。人間が作るものは全部祈りから生まれるの」

「祈り?」 

 わたしは自然と復唱していた。

「そう。祈り。こう在りたいとか、こう在って欲しいとか、人間が作るものは全部そういう祈りから生まれるの。それは憧れだったり、妬みだったり、恐れだったり、何にしてもそこには必ず意味がある。人間が作るものは、誰かが願ったから生まれて来てるんだよ。確かな必然性を持って生まれて来てるの」

 確かに、人間は世界をより良くするために、毎日いろいろなものを生み出している。少しでもいい世界になるように。わたしたちが今、恩恵を受けているものは、全部誰かの願いから生まれたのかもしれない、

「どうか一片も欠けることなく、輝き続けてくれって。人が作るものにはそんな祈りが編まれてる。それには生まれてきた理由がある。だから、人が作るものはどうしようもなく美しいの。神様が創った偶然なんかじゃ敵うわけがない。ウルルの大自然より、マンハッタンの摩天楼の方が美しいに決まってるんだ」

 魔女はまた、ケタケタと笑っていた。その目は吸い込まれてしまいそうなくらい輝いている。

「だから聞かせてよ。君の祈りを。君の望む物語を」

「わたしの祈りなんてどう頑張っても美しくはならないと思うけど」と剥き出しの本心が口を出る。

「そんなことないよ。だって女の子(わたしたち)は恋に生きる生き物でしょ?」

 降って湧くように出てきたその言葉の真意はどうにも捉えかねるもので、なんだか化かされているような気分になる。それに、やっぱりどう頑張ってもわたしの祈りが美しくなるわけがない。どこまでも身勝手で、ご都合主義で、夢見心地な、そんな祈りなのだから。しかし、そう伝えても魔女は「美しいよ。人間の話はいつだって美しいんだ」と笑うばかりだった。

「まあ、座りなよ」

 いつの間にかカウンターテーブルのこちら側に、一脚の椅子が置かれていた。これも魔女の力なのだろうか。気づけば魔女が手に持っていた本は机の隅に押しやられ、その視線も興味もわたしに移っているようだった。ここからわたしが取ることのできる選択は一つしかない。そう理解してわたしは、自分の祈りを明確にイメージしながら席につく。店の外では騒々しい蝉の声がいつまでも鳴り響いていた。