運命は変えられる。今、僕は桐枝さんと出会って、確かに僕は過去を変えた。ほんの少しだけかもしれない。リスが大事に抱え込む木の実くらいの、ごく僅かな変化かもしれない。世界中で僕と桐枝さんしか気に留めないであろう微細な違い。それでも確かに運命は変わった。逢野昭を連れてあの町に行くと約束したのだ。
逢野昭に付き纏って離れない最悪の運命にだって、抗う方法はある。その高揚感が折れかけていた僕を鼓舞した。幾度となく繰り返される夏に削り細らされていた心も、今ならイッカクの牙のように研ぎ澄まされていたのだと思うことができるだろう。強靭な運命にも穴は必ずある。ないなら僕がこじ開ければいい。ずっと後悔し続けた結末を変えるために、僕はこの夏にいるのだ。だから立ち向かおう。真正面に立って、最悪の運命を変えるために。
そう意気込んで僕は、もう何度目かもわからない八月一日を迎えた。だけど今までとは確実に違う。ここにはもう運命を変えられると知っている僕がいるのだから。
——そうして、もちろんまた失敗した。
何も特別なことなんてなかった。またいつものように、逢野が父親を刺してお終い。何度も見た、当然の結末だ。
何を浮かれていたのだろうか。自分で言っていたじゃないか。どれだけ奇跡的な出会いだって、結局全てが無に帰るのだと。その言葉通り、何も変わらなかった。一瞬の奇跡に浮かされて、勘違いを重ねた果てに、またすぐ奈落に突き落とされた。夏に酔っていたいなんて言っていた、あの夏から何も変わっていない。僕は未だにあのときと同じ間違いを繰り返し続けていた。
それでも僕はまた戻る。奇跡も約束も全部、泡のように無に帰るとしても戻らなくてはならない。これが義務や使命だったらどれだけよかっただろうか。それなら僕はまだ、その使命を呪いながらも受け入れることができる。でも現実は違う。これは僕の身勝手で、我儘で、エゴでしかない。僕が呪っていいものなんてどこにもあるはずがなかった。
そうやって無間の夏に戻り続ける僕を、魔女は痛々しそうな目で見つめる。それでも僕は「もう一回」と縋りつき、魔女もまたそれに応えた。何度も何度も同じことを繰り返す。逢野が、姉が、母が、桐枝さんが、磯崎が、逢野の父親が、世界中の全員が全てを忘れて巻き戻り、僕と魔女だけが全てを覚えている。僕と魔女だけが、この幾千の失敗を忘れられずに、また何度も繰り返さなくてはならない。誰も知らない世界で、僕らだけが。
あつち死に。耳にタコができるくらい受けた、古典の授業で聞いた言葉。身悶えてのた打ち回りながら死ぬこと。熱に浮かされた僕の行き着く先が、そこにあるような気がした。
*
その夏、僕は正面から逢野の家に乗り込んでいた。どれだけ手を尽くしても変えられないのなら、もうあれこれ考えるのをやめたかったのだ。
「誰だお前?」
土足で上がり込んだ部屋の中で、酩酊した逢野の父親がそう僕を睨んだ。逢野は僕の服の袖を掴んで震えている。
改めて向き合ってみると、僕が知っていた昔の彼とは全く違う。無精髭に燻んだ肌。でこぼこに伸びた爪で掴むひしゃげた缶ビール。ボサボサに伸び散らかった髪で隠れた、死んだような目。今の僕も同じような目をしてるのだろうか。
「友達です」
そんな小綺麗な言葉も、僕は桐枝さんのような芯を持った目で言うことはできない。
友達。だから助けたい。だから何度も、何度も……。
逢野の父親は呂律の回らない舌で何かを喚いている。だから僕は彼を無視して自分の主張を続けた。
「助けに来ました」
誰を? そう心の中で自問する。逢野を? この父親を? それとも……。
それ以上考える間も無く、顔面に強い衝撃が走った。身体がグラリと持ち上がって床に倒れ込む。そのまま休む暇もなく彼の足が僕を襲った。断続的にその足が蹴り落とされる。口の中が鉄の味で塗り潰されて、思い出したのはいつかの公園だった。
僕の力は酒に溺れた中年にすら敵わないのだなと思い知らされる。このまま終わってしまいたい。降り止まぬ暴力の嵐のなか、ふとそんなことを考えてしまう。このままこいつに殺されて、そうしたら楽になれるのだろうか。悪魔のような囁きが耳の底を打った。もうこのまま、終わってしまおうと。
しかし、先に終わったのは僕の人生ではなく、僕に降りかかる暴力だった。「終わった」ではなく、「終わらされた」の方が正しいのかもしれない。
七時二八分三六秒。僕を蹴りつけていた彼の身体には、いつものように包丁が突き立てられていた。彼が大きな叫び声を上げて地面をのたうち回る。逢野は肩で息をしながら震えていた。もう何度も見た光景だ。そんな逢野にかける言葉を、僕はいつだって持ち合わせてはいない。
気づけば僕はそこから逃げ出していた。ボロボロの身体を無理やり動かして走っている。外は土砂降りの雨が空と地面を繋いでいた。天気は変えられる。最初にこの夏に戻ってきた時は晴れていた。それが何の因果か雨に変わった。過去は変えられる。天候すらも変えられる。それなのに……、それなのに、何度やっても逢野が父親を殺す運命だけが変わらない。
僕のせいだ。今、逢野が父親を殺したのは僕を守るためだった。僕のせいで逢野が父親を殺した。僕は何をしているんだ。無駄だった。僕がやってきたこと全部。全部、全部無駄だった。雨と蝉が世界を打ちつける音だけが響いている。
「神様は意地悪なんだ」
魔女の声だ。どこからともなく現れた魔女が、僕に傘を差し出した。
「濡れたい」と僕は拒絶する。
すると魔女は自分がさしていた傘も畳んで、二本の傘を地面に突き刺した。アスファルトが砕け散る音がする。
「刺しちゃった」
茫然と眺めていた僕に魔女がそう目を細める。
「どこに?」と意味のない言葉が口をついて出た。
「神様の掌」
魔女は今までに見たことのないような真剣な顔つきをしていた。
「神様は意地悪なんだよ」
「意地悪?」
「例えば全てがトントン拍子にうまくいくような、ハッピーエンドのお話があったとして、神様はそれをご都合主義の夢物語だって断罪するの。リアリティがないって」
それはこれまで何度も聞いて来た、あの飄々とした魔女の声ではなかった。どこか切実で、心に迫ってくるようなそんな感覚があった。
「だけど反対に、全てがボタンの掛け違いみたいにすれ違っていく、バッドエンドのお話があったとするでしょ。それを見て神様は言うの、リアリティに溢れたお話だって」
魔女の目はどこか遠くを見ているような気がした。
「おかしいでしょ? 全てがいい方向へ進む可能性と全てが悪い方向に進む可能性は、どっちだって同じ確率なはずなのに。それなのに片方はリアリティのない駄作。もう片方はリアリティのある名作になるの」
魔女が僕の答えを窺うようにこちらを見た。
それは人生の話なのだろうか。だとすれば人間の一生は悲劇だ。
「だから、時の魔女なんてものをやってるのか?」
運命に抗わせるために。バッドエンドがハッピーエンドに変わる瞬間を見るために。だとすれば、きっとそんな魔女の一生だって……。
「そうだよ。だから諦めないよね? 私は何回だって巻き戻してあげる。どこまででも付き合うよ。何十年、何百年、何千年、何億年——だって。だから匂坂くんも諦めないよね?」
いつもと変わらない平坦な声なはずのに、どうしてからそれは縋るような想いを感じさせた。ずっとケタケタと笑っていた魔女が初めて見せた姿。その声を聞いて僕はわかってしまった。きっとこの魔女の期待に応えられた人間は今まで一人もいなかったのだろう。これまで何人もの人間がこうして過去に戻って、そして一度も運命を変えられなかった。そんな失敗を魔女はずっと見続けて来たのだ。いつだったか、魔女の掌の上で踊らされてるのではないかと疑ったことを思い出す。だけど違った。魔女もずっと抗っていたのだ。このどうしようもない運命に。僕なんかよりも遥かに長い時間をかけて。それでも何も変わらなかった。だったら、僕が過去に戻り続けた先にある結末だってきっと……。
多分僕はもう随分前からそのことに気がついていたのだと思う。だけど認めたくなかった。それを認めてしまえば、本当に終わってしまうから。僕は逃げていたのだ。過去に戻ることで、変えられない現実から逃げていた。もう終わりにしよう。逃げ続けた先には何もない。そんなことずっと前からわかっていたのだから。
「わたしが死ねばよかったんだ」
いつかの逢野の言葉が頭の中に蘇る。世界中の悲しみを集めたような顔で、逢野は俯いていた。もう二度とあんな顔をさせたくはない。だから、もう終わりにしよう。
僕は魔女の問いに一言だけ返した。
「次が最後だ。三年前に戻してくれ」
魔女の顔が強張る。それは失望なのか、絶望なのか、きっと魔女はずっとこんなことを繰り返して来たのだろうなと思う。
物語の幕が閉じようとしていた。
せめて逢野が、何の苦しみも知らない時にしたかった。優しい父親と優しい母親に囲まれて、幸せに生きていた頃。決着をつけるならそこがいい。幸福の絶頂で全てを終わらせよう。幸福の中に全てを閉じ込めて終わらせる。そうしてドライフラワーのように飾ればいい。実ることもなく、しかし枯れることもなくいつまでも咲き続けられるように。
その日は僕の家族と逢野の家族で集まって、バーベキューをしていた。逢野の父親がまだ優しいお父さんだった頃。逢野の母親が子供思いのお母さんだった頃。姉が僕のことを名前で読んでいた頃。母に僕がまだ見えていた頃。そして父がいた頃。僕らが一番幸せだった頃。ここで終わりにしよう。僕の背中を押すように蝉が爆発する。本当にどうしようもなくうるさい虫だ。
迷いはなかった。両手で握った包丁を強く握りしめる。ああ、やっと終わるんだ。
——突き立てた包丁は、呆気なく背中へと吸い込まれていった。肉を捻り込むような感覚がある。逢野の悲鳴が河原に響き渡った。僕は刃が前に進まなくなったのを確認して一度抜き取る。そしてもう一度捻じ切るように刺した。何度も、何度も、全てを終わらせるように。——気づけば僕は取り押さえられていて、それはもう二度と動かない肉塊へと変わっていた。
あれだけうるさかった蝉の声も、もう僕の耳には届かなかった。
あれから三年が経った。あの忌まわしき八月一日、僕は何故かこの町に立っている。今、僕がここで、こうして自由に歩き回っているのは、本来であればあり得ないことだ。日本の法律はそれを許さないし、僕だってもう二度と戻るつもりはなかった。
それなのに僕はここにいる。いろいろな偶然が重なった結果だ。それは偶然というより奇跡と言った方がいいのかもしれない。それくらいあり得ないこと。それが今この町で起きている。だけど、もし僕の推測が正しいとすれば、これはきっと必然だった。それは僕が嫌というほど思い知らされた、運命によく似た顔をしている。もっとも、これは推測なんて言うよりも、ただの想像に過ぎないのかもしれないが。しかし、目の前に見えるその姿が、僕の想像を肯定しているように思えてならなかった。
「もう雨止んでるよ」
魔女が自分の傘を畳みながら言った。相変わらずのダッフルコートに赤いマフラーだ。先ほどまでパラパラと降っていた雨が止んでいるのを手で確認して傘を畳む。
「久しぶり、匂坂くん。元気にしてた?」
「あんまりかな。逃走中の身だからさ。生きた心地がしないよ」
「それは大変だ」
そのケタケタという笑い声がなんだか懐かしい。
「昔、君が他の人にどう見えてるかって話したの覚えてる?」
「覚えてるよ。それが?」と魔女が不思議そうな顔で訊き返す。
「あれって、カメラとか鏡はどうなるのかなと思って。吸血鬼は鏡に映らないって言うだろう?」
「そんなの気分次第だよ。映りたかったら映るし、映りたくなかったら映らない。ずっと言ってるでしょ? それが魔女だよ。吸血鬼なんて化け物と一緒されるなんて心外だなぁ」
魔女もまたいつかのように不満を露わにしたので、僕も「ごめん。人と話す機会が少なかったんだよ、この三年間」と笑顔で返す。
「それにしても、久しぶりに会って訊くことがそれ?」と魔女は首を傾げた。
「そこかしこに防犯カメラがあるだろ? 君があれに映らないなら、僕は一人でキョロキョロしている不審者だ」
田舎道には似つかわしくない無骨なカメラが点々と設置されている。きっと三年前の事件が原因なのだろう。
「意外と気にしいだね、匂坂くんは」
「映る気分になってくれると助かるよ」
飽きもせずにケタケタ笑う魔女に僕はリクエストする。
「いいよ。それでどう? 久しぶりの故郷は」
「あんまりいい気分じゃないかな。だって僕の想像が正しければ、僕は今日また人を殺さなきゃいけないんだろ?」
僕は魔女の目をじっと見つめてそう口に出した。改めて言葉にすると、なんとも物騒な話だ。それを聞いた魔女の顔を見て、想像は確信に変わる。
「やっぱり君は面白いな。私の期待通りだった」
「少しでも魔女の役に立てたなら光栄だよ。君には随分と世話になった」
もし魔女に出会えなかったとしたら、僕はきっと一生後悔の中で生きていくことになったのだと思う。
「そ? でも私もたくさん楽しませてもらったよ」
「だったら君の期待に添えたご褒美に一つお願いを聞いてほしいんだけど」
「いいよ。なに?」
優しい魔女はあっさりと快諾する。だから僕も意を決してそれを言うことができるのだ。
「ちょっとそこまでデートしようよ」
*
「時計、まだつけてくれてるんだね」
隣り合ってあの裏山を登っている最中、魔女が僕の左手首に視線を落としてそう言った。
「この時計と、着ている服と、傘が今の僕の全財産だから」
これから最後の勝負をしに行くと言うのになんとも心許ない装備だ。
「それは可哀想だな。でも残念ながらもう私があげられるものはないんだ」
魔女が申し訳なさそうな素振りをする。いつもの芝居がかったあれだ。
「いいよ。前に言ってただろ? 君とデートができるだけで元気づけられるんだ」
「言うようになったじゃん」と魔女は満足げに頷く。
「君のおかげだよ。君はずっと正しかった。あの時からずっと」
「そうかな?」
「そうだよ。やっぱりあの時、君の言った通りだった。君の言う通り、僕は逢野に恋をしてた。僕は逢野昭が誰かに傷つけられることが許せなかったんだ。あの父親に汚されていくことが許せなかった。僕の知る逢野はそうじゃなかったから。逢野昭は、真っ直ぐで、綺麗で、自由でなきゃいけなかった。そう在って欲しかった。だから誰かに傷つけられて壊される前に、僕が自分の手で傷つけて終わらせることを選んだ。そんな身勝手で、我儘で、エゴイスティックな想い。相手のためにする、愛なんてとても呼べたものじゃない、それが僕の醜い恋心だったんだ」
ずっと認めたくなかった。そんな自分勝手な感情を逢野に押し付ける自分を。だけど僕が選んだ現実は、やっぱりそんな醜いものだった。だったら認めるしかない。僕は逢野昭に恋していたのだと。あれだけ認めたくなかった醜く幼い想いも、一度受け入れてしまえば案外楽になるものだ。開き直ってると言われればそれきりだが、これはもうどうしようもないことなのだろう。教室の片隅でツルを折ろうとしていたあの時から、僕はずっとそうだったのだ。
しかし、そんな僕の穏やかな心とは裏腹に、魔女は思案顔を作っている。そして優しい微笑みを浮かべながら、指を一本こちらに差し出した。
「やっぱり匂坂くんは一つ勘違いしてるよ」
「勘違い?」
あの日と同じようなやりとり。この期に及んで僕はまだ間違いを積み重ねているのだろうか。
「確かに私は君が逢野さんに恋してるって言ったよ。恋は自分のためにするものだからって。それは間違いない。でも私は別に、愛は相手のためにするものだなんて一言も言ってないよ」
それは思ってもみない一言だった。鼓膜の奥底で大砲を撃ち込まれたような衝撃。あの時僕の頭の中では、その二つは対極にあるものだと決めつけていた。コペルニクスも直立不動を貫くくらいに。
「恋は自分のためにするもの。愛は自分たちのためにするものなんだよ」
「……自分たち?」
「そう。自分たち。自分たち以外の全てを投げ打ってでも、それでも二人の願いを貫き通す。二人でいることを選ぶ。二人の究極的な利己主義。それが愛だ。相手のためにするなんて、そんな献身的なものじゃないよ」
二人の究極的な利己主義。なんと甘美な響きだろうか。その言葉を聞いた時、僕は胸の中でずっと引っかかっていた一つの感情に名前をつけることができた。もしそれが正しいのだとすれば——
「僕は君のことを愛してるんだと思う」
なんと間抜けな言葉だろう。それでも言わずにはいられなかった。
魔女は珍しく虚を突かれたとでもいうように一瞬静止し、奇妙な静寂がそよ風のように流れた。そうして、今度は耐えきれなくなったかのように、大きな笑い声が堰を切って響く。これまでにないくらい、大きな、大きな声だ。
「初めてだよ。そんな告白なんてされたの」
目尻に優しく触れながら魔女は言った。とびきり可笑しいという様子で。それでも、僕は至って真剣だ。
「告白なんてものじゃないよ。ただの確認だ」
魔女と僕にはどうしても見たい景色がある。全てを投げ打ってでも見たい景色が。その景色を見るために、僕らは何度も過去に戻っては打ちのめされていたのだ。共有されたこの想いに名前があることを、ぼくは今初めて知った。身勝手で、我儘で、エゴイスティックな二人の愛。
僕は逢野昭に恋をし、魔女を愛している。
「本当に匂坂くんは面白いね。大好きだよ。私も」
今度はいつもの調子に戻った魔女が、またケタケタと喉を鳴らした。
「嬉しいよ。心から」
魔女がいたから僕は前に進むことができた。魔女に出会えて良かったと、切実にそう思う。僕は魔女からたくさんのものを貰った。たくさんのことを教えてもらった。だけど僕が魔女にできることと言えば、僕の物語で魔女の退屈を紛らわせることくらいなのだろう。それが愛する魔女に贈れる、僕のたった一つのもの。とっておきのたった一つだ。
僕の人生が、魔女に当てた一通の手紙のようなものになるのだとすれば、それほど良いことはない。
*
「いい景色だねぇ」
壮大な確認を終え、切り立った崖の上まで辿り着くと、魔女が大きく手を広げてそう言った。町中と大空を一望できる最高のロケーションだ。
これを見るとやはり彼のことを思わずにはいられない。ララ・エイビス。彼はどんな思いでこの空を駆け巡ったのだろうか。
「やっぱりエイビスは飛んだんだよ」
今ここにきて、やっとそれを確信できた。僕がララ・エイビスを信じ続けた理由を。
「エイビスはさ、ずっと馬鹿にされてた。空なんて飛べるわけがない。北の森になんて行けるわけがない。それでもエイビスは諦めず直向きに空を目指し続けて、ようやく辿り着いた北の森は手垢の付いた汚い世界で、自分と同じように窮屈な世界にうんざりしている人間がいて、それが何よりの絶望なんだって君は言ったよね」
「うん。それは最期に目指した宇宙だって同じことだって」
「でもさ、きっとエイビスは楽しんでたんだよ」
「楽しんでた?」
「そう。他の鳥たちに馬鹿にされながら、その小さな翼を精一杯羽撃かせていた時も。わけのわからない人力飛行機と毎日睨めっこしながら整備していた時も。何度も失敗して、何度も馬鹿にされて、それでも何度も挑戦する。そんな時間をエイビスは楽しんでたんだ」
魔女は僕が吐き出す言葉を決して聴き逃しはしないと言うように、真剣な顔つきで耳を傾けてくれていた。そんな魔女がいるから、僕は安心して全てを話すことができる。
「だからエイビスは飛んだ。焦がれ続けていた場所に未知も自由もなかったと知っても、新しい未知を求めて、新しい自由を求めて飛ぶことを選んだんだ。トリカゴの外を目指そうと踠き羽撃くその瞬間こそが、エイビスにとっての何よりかけがえのない時間だったんだ」
「それが匂坂くんの答え?」
「そうだよ。それが僕の信じた、ララ・エイビスだ」
空に焦がれ続けたエイビスは、新しい空を目指しながらその一生を終えた。憧れ続けた大空で彼は人生の幕を下ろしたのだ。その瞬間彼はこの世界の誰よりも自由で、誰よりも幸福だった。彼は幸福の絶頂の中死んでいったのだ。
「やっぱり匂坂くんは最高だね」
そう言って魔女は嬉しそうに手を鳴らした。僕にはそれが祝福を告げる音色に聴こえる。
「ねぇ、匂坂くんは私の名前知ってる?」
「時の魔女でしょ?」
「それは人間の呼び方。本当の名前は別にあるんだ」
そういえばいつかの中華料理屋で、安直だと笑ったことを思い出す。あの時はこんなことになるなんて、思いもしなかった。全てが始まったあの場所にも、もう戻ることはないのだろう。
「私の本当の名前は、徒花の魔女。決して実ることない、無駄な魔法を使うことしかできない魔女。だから徒花。匂坂くんにだけ教えてあげる。特別だよ」
徒花。安直ではなくなった。むしろややこしい。気取ってるようにも聞こえる。それでも、なんだか耳に優しく馴染む。
「素敵な名前だ」
「本当に思ってる?」と魔女は訝しげな顔を浮かべる。
「思ってるよ。でも間違ってる」
そうだ、間違ってる。だって——
「無駄じゃなかった。君の魔法で僕は救われたから」
君に会えて良かった。君の魔法はとても綺麗だった。だから無駄なことなんて一つもない。実る必要なんてないんだ。その花がなによりも美しいのだから。
「優しいね。匂坂くんは。私も君に会えてよかった。君じゃなきゃだめだった。だから——私を見つけてくれてありがとう匂坂くん」
それは僕にとって、この上ない賛辞だった。
「そろそろお別れの時間だね」
惜しむように魔女がその時を告げる。僕は返事をする代わりに、地面に窄めた傘を突き立てた。魔法の力はないから、雨でぬかるんだ土の上に。これが愛する魔女への想い全てを、過不足なく伝える方法なのだと心から信じていた。魔女は心底嬉しそうに笑い声を響かせる。
「いいね。どこに刺したの?」
当然のことを確認すると言った様子で、魔女はこちらに視線をやった。僕はそれに答えるように、揚々と宣言をする。
「神様の掌」
気づくと魔女の姿はいつかのように消えていて、あのケタケタという笑い声だけがしばらく響いていた。
*
それからしばらく一人でエイビスに思いを馳せていると、すぐにその時は訪れた。懐かしい声が耳に突き刺ささる。途端に僕の頭はその人で埋め尽くされた。そうして僕は声の先へ目をやる。一番会いたくなかった。だけど、一番会いたかった人。
「やっと見つけた」
——そこには逢野昭が身構えるように立っていた。
僕はいつかの約束を思い出す。「どこにいても絶対わたしが見つけるから」。あの日、逢野はそう言った。あれから僕は何回逢野に見つけてもらったのだろう。何回も、何回も、僕がどこにいても逢野は必ず僕を見つけに来てくれる。自分がどこにいるかわからなくなったとしても、逢野さえいれば大丈夫なのだと僕は信じられた。僕はずっと逢野に救われていたんだ。僕の隣にはいつも逢野がいて、それだけで自分の存在を信じることができた。隣にいなくても生きて行けるなんて、呆れるくらいの嘘っぱちだ。逢野がいないと僕は駄目だった。逢野昭がいたから僕は僕でいられたのだ。
そして今日もやっぱり逢野は僕を見つけてくれた。
「どうして、……どうしてお父さんを殺したの」
目を潤ませながら逢野が掠れた声を出す。きっと何度も考えて来たのだろう。この三年間ずっと、その答えを探して彷徨い続けて来たのだ。
だけど、僕の答えは決まっていた。
「——蝉がうるさかったから」
僕にあるのは、ずっとそれだけだ。彼を殺すのは逢野であってはいけなかった。逢野が彼を殺す未来だけは許してはいけないと。そう蝉の声が僕を駆り立てたのだ。だから僕が殺した。それで終わると思っていたから。
「……ふざけないで!」
怒りだ。身から沸々と湧き上がるような怒り。それは逢野のこの三年間を何よりも如実に表していた。父親を殺した僕を怨み続けて、毎日生きて来たのだろう。いつか来るこの日を待ち続けながら。
きっと逢野は、心の底から父親のことが好きだったのだと思う。彼は本当に優しい父親として逢野に記憶され死んでいった。それでいい。幸福の象徴として彼は、今でも逢野の心で咲き誇り続けてくれている。代わりの怒りや悲しみは僕が全て引き受けよう。
いつの間にか逢野の手には包丁が握られていた。手を震わせながら、鋒を僕の方へ向けている。
神様ってやつは本当に性格が悪いのだなと思う。僕らはこの夏からはどうやったって逃れられない。過去や未来で何をしてもだめなのだ。結局僕たちはここに戻って来る。僕らはこの八月一日に打ち克たなければ前に進めないのだ。
だからやっぱり、僕が殺す。逢野に殺させるわけにはいかない。三年前の先延ばしを今ここで清算しよう。
逢野がこちらに向かって走り出した。その顔は怒りに打ち震えているようにも、悲しみに打ちひしがれているようにも見える。どちらにせよ僕が引き受けるべきものだ。これが最後だ。これで全てが終わる。
——僕は手を大きく横に開いて、倒れるように崖から身を放り投げた。
落ちていく。風を切るように落下している。地球が僕の到着を歓迎するようにその力を働かせていた。
空中に刃を突き刺した逢野の取り乱した顔が目に映る。ああ、これが僕のハッピーエンドだ。見てるか? ようやく僕の長い長い八月が終わる。ふと魔女に貰った腕時計が目に入った。あと三秒だ。二秒、一秒。時計の針が七時二八分三七秒を指したその瞬間、僕は勝ち誇った顔で天に手を伸ばした。
「これが僕の飛び方だ」
八月だと言うのに魔女はダッフルコートに身を包んでいた。首元では花櫛のように美しい髪の毛が、血のように燻んだ赤いマフラーに巻き込まれている。八月の室内に相応しい格好だとはとても思えない。もしかすると、今が八月だというのはわたしの思い違いなのかもしれない。魔女のちぐはぐな格好に思わずそんなことを考えたけれど、店の外で自身の存在を喧しく主張する蝉の鳴き声を聞いて思い直す。
「いらっしゃい」
その平坦な声は、とても大きいとは言い難かったけれど、何故か店中に響き渡るように聞こえた。当の魔女はどこか冷えたような視線で、手元の本に目を落としている。ただ、どうしてか、その顔は少し悲しそうに見えた。
「逢野さんはさ、神様が創った物語と人間が作った物語、どっちが面白いと思う?」
「どうして……」と思わず口をついて出る。
「どうしてその名前をって? また馬鹿なこと訊くなあ、魔女だから。ただそれだけだよ」
全てが当然のことであるかのように、魔女はケタケタと笑っていた。
「それより答えてよ。どっちだと思う?」
神様が創った物語。それは要するにわたしたちの人生のことだろうか。
「神様の物語」
「どうして?」
魔女が間髪入れずに訊き返す。
「だって、事実は小説より奇なりなんて言葉もあるくらいだし。結局神様が作る本物には勝てないでしょ?」
「なるほどね」
魔女は初めて手元の本から視線を上げた。
「だけどね、私たちはそうは思わない」
魔女はやはり平坦な声で、しかしどこか確信を持っているかのように言い放つ。心なしかその頬は、林檎のように薄紅に染まって見えた。
「だって、神様が創ったものって全部偶然の産物でしょ。天と地。昼と夜。空と海、大地。植物。星。獣。そして人間。ただ何となくそこにあるだけ。そこに後から意味を見出すことはできても、本質的な意味なんてどこにもない。でも人間が作ったものは違う。人間が作るものは全部祈りから生まれるの」
「祈り?」
わたしは自然と復唱していた。
「そう。祈り。こう在りたいとか、こう在って欲しいとか、人間が作るものは全部そういう祈りから生まれるの。それは憧れだったり、妬みだったり、恐れだったり、何にしてもそこには必ず意味がある。人間が作るものは、誰かが願ったから生まれて来てるんだよ。確かな必然性を持って生まれて来てるの」
確かに、人間は世界をより良くするために、毎日いろいろなものを生み出している。少しでもいい世界になるように。わたしたちが今、恩恵を受けているものは、全部誰かの願いから生まれたのかもしれない、
「どうか一片も欠けることなく、輝き続けてくれって。人が作るものにはそんな祈りが編まれてる。それには生まれてきた理由がある。だから、人が作るものはどうしようもなく美しいの。神様が創った偶然なんかじゃ敵うわけがない。ウルルの大自然より、マンハッタンの摩天楼の方が美しいに決まってるんだ」
魔女はまた、ケタケタと笑っていた。その目は吸い込まれてしまいそうなくらい輝いている。
「だから聞かせてよ。君の祈りを。君の望む物語を」
「わたしの祈りなんてどう頑張っても美しくはならないと思うけど」と剥き出しの本心が口を出る。
「そんなことないよ。だって女の子は恋に生きる生き物でしょ?」
降って湧くように出てきたその言葉の真意はどうにも捉えかねるもので、なんだか化かされているような気分になる。それに、やっぱりどう頑張ってもわたしの祈りが美しくなるわけがない。どこまでも身勝手で、ご都合主義で、夢見心地な、そんな祈りなのだから。しかし、そう伝えても魔女は「美しいよ。人間の話はいつだって美しいんだ」と笑うばかりだった。
「まあ、座りなよ」
いつの間にかカウンターテーブルのこちら側に、一脚の椅子が置かれていた。これも魔女の力なのだろうか。気づけば魔女が手に持っていた本は机の隅に押しやられ、その視線も興味もわたしに移っているようだった。ここからわたしが取ることのできる選択は一つしかない。そう理解してわたしは、自分の祈りを明確にイメージしながら席につく。店の外では騒々しい蝉の声がいつまでも鳴り響いていた。