箕輪と別れ、真崎はゆく当てもなくふらふらと歩いていた。
 会社に置いていた真崎の荷物は、今の住所に送ってもらうことになっている。彼女は最後に何か言いたげな様子だったが、無理やり作った笑みを浮かべ、そのまま立ち去っていった。
(さて、これからどうするか)
 真崎は自宅のあるマンションへ足を向けていながらも遠回りをしていた。道順を完全に思い出したわけではない。直感に身を任せているだけで、特に深い意味はなかった。
 待ち合わせのカフェへ行く前に銀行で貯金額を確認したが、あまり金を使うことをしていなかったようで、当分働かなくても生活はできるだろう。しかし、怪我が完全に治るまでだとしても、再就職はしなければならない。
 出原曰く、記憶を失う前の真崎は営業部で実績を積んできたと言っていたし、おそらくどの職業に応募しても大概採用されるだろう。だが、今の自分に同じことができるかと問われたら、何とも言えない。少なくとも、倒産に加担した疑惑がある限り、同じように働けるとは到底思えなかった。
 ここは地道にアルバイトからと思い、スマートフォンで求人サイトを開く。すると突然、ぽつぽつと雨が降ってきた。
「……最悪だな」
 先程まで晴れていた青空に灰色の雲が覆う。夕立ちのようだが、生憎近くには傘を買えるようなコンビニも、雨宿りができる屋根もなかった。周囲は人通りの少ないコンクリートの塀に囲まれた家ばかり。遠回りして歩いていたものの、気付かぬうちに迷い込んでいたようだ。
(そもそも記憶自体ないんだけどさ)
 自嘲気味に笑うと、真崎は雨に自ら打たれるように見上げた。
 退院の手続きの際、対応してくれた看護師から、発見されてから十日以上も経過していることを教えてくれた。「よく頑張りましたね」と励ましてくれたが、真崎がしたことといえば、長時間の検査に耐え、薄味の病院食と苦い薬を胃に入れたことくらいだ。
 結局、どんなに時間をかけて脳の検査をしても、何一つ思い出せていない。
 それでもいろんな人から話を聞く限りでは、真崎大翔という人間は平凡ながらも絶好調な人生を送っていたようだった。真面目で、人に好かれやすいタイプ――気付かないうちに天狗にでもなったのかもしれない。それが突然足をすくわれ、崖の上から突き落とされたようにあっという間に人生が暗転した。
 記憶喪失にならなければ。事件に巻き込まれなければ。理に反した自分を止めていれば――職や実績だけでなく、人としての信頼も失わなかったかもしれない。薬品臭いベッドの中で、真崎は毎晩同じことを考えていた。
 次第に雨は本格的に降り出した。その場に立ち止っていた真崎は、すでに全身ずぶ濡れの状態だった。このまま気絶して倒れたら、高熱でも出たら記憶が戻るんじゃないかと、ふざけた考えが頭を過ぎる。
「……なぁ、俺は何者なんだ?」
 問いかける声は、雨がコンクリートを打ち付ける音でかき消されていく。
 諦め半分で目を伏せた――その瞬間。

「――みーぃつけた」

 身体を打ち付けるように降る雨が止んだ。いや、目をそっと開けば、頭の上に何かが覆いかぶさっていた。どこにでも売っている黒い傘だ。
 振り向けば、大学生くらいだろうか、自分より頭一つ分くらい低い青年が小さく笑って立っていた。
 年季の入った革ジャンの中に目立つ赤いパーカー。黒のチノパンと、登山用に等しい安全靴。かぶっている黒のニット帽にはカラフルな缶バッジが二つ付いており、銀髪から覗かせた猫目のアンバーの瞳は今にも吸い込まれそうで、異質な雰囲気を醸し出していた。
 茫然と見入る真崎に、青年は「ハハッ」と笑った。
「幽霊でも見たような顔すんなよ。さすがの俺も傷つくって」
 真崎は彼から目が離せなかった。幼い顔つきも、浮かべた笑みもいたって普通だ。それなのにアンバーの瞳だけは、獲物に狙いを定めた獣の殺気を感じ取った。しかし、初対面にも関わらず、その鋭い目にどこか懐かしさを覚える。
 すると、青年は真崎の顔を覗き込むようにしてじっと見つめると、すぐに鼻で嘲笑った。
「というか、ここにいるってことは記憶が戻ったってこと? なんだぁ、さっさと連絡してこいって」
「……れん、らく?」
「あれ? その様子だと思い出した感じでもないのか。そりゃそうか、雨に打たれただけで思い出せたら、割に合わねぇもんな」
 大人っぽい低音で繰り出される毒舌。まさか初対面でそこまでずけずけと踏み込まれるとは思っていなかった真崎は、圧倒されたままぽかんと口が開いたままだった。
「そもそも、高熱だけでは脳に異常が起きたら、ほとんどの子どもは記憶を飛ばしているって。期待するだけ無駄。実践するだけ無駄なんだから、そんなものに縋るなよ」
「……せぇよ」
「ん?」
「うるせぇ! 初対面相手だからって人のデリケートな部分を勝手に踏み荒らしてくるな!」
 真崎は思わず彼を指さしながら、感情のまま怒鳴り散らした。記憶を失ってから――いや、こんなに声を荒げたのは生まれて初めてかもしれない。
 苛立ちが収まらない。辛うじて覚えている入社前、出原や他の先輩社員に歓迎された時、これからともに働く新しい日々を確かに楽しみにしていたはずだった。
 それなのに、次に目を覚ました時には三年も月日は流れていて、知らぬ間に自分が窮地に立たされている現実を、理不尽にも暴力的に叩きつけられた。
 自分の記憶も職も、存在意義も全部、すぐ近くにあったものはすべて、何も無くなってしまった。虚しさと苛立ちが溢れ、絶望と化している。
 だからこそ今の真崎には、過去の自分に向けた怒りの矛先をどこにも向けられない。自分が悪いのだから、誰かに向けてはいけないと、必死に抑えることしかできない。
 貯水されたダムのように、捌け口がわずかでもあれば、醜い感情は外へ溢れ出してしまう。
「人間誰しも、立ち寄らせない境界線(ボーダーライン)ってのがあるんだよ! 他人だからって土足で踏み込んでくるな! こっちがどんな思いでここにいるのか、一ミリも知らないくせに!」
「感情ぐちゃぐちゃ! 情緒不安定かよ。でも元気そうじゃん」
「全っ然よくない! こちとら退院したばかりの怪我人だっつーの! もっと丁寧に扱え!」
 青年はニヤニヤと笑みを浮かべるばかりで、全く話を聞いてもらえそうになかった。質(たち)の悪いカツアゲというわけでもないらしい。
「何が目的だ? 俺を揺すったところで夢も希望も出てこねぇぞ!」
「自分で言って悲しくない? 大分痛いよ」
「笑いたければ笑えばいい! 君がしっかり仕事して稼いだ金が全部、努力の結晶だって胸張って言えるならな!」
「うわぁ……そんなマイナスに開き直るなって。こうなったマ(・)サ(・)キ(・)って面倒なんだよなぁ……」
「大体君は……ん?」
 待てよ? と真崎は一度言葉を飲み込んだ。
(コイツ今……俺のことをマサキって呼んだ? シンザキじゃなくて?)
 読み間違われることが多い苗字ではあるが、この青年はさも当然のように真崎のことを「マサキ」と呼んだ。名前を知っていること自体おかしい話だが、もしかしたら事故に遭う前の自分に会っていたのではないかと憶測がよぎる。
 それだけではない。
(なんで俺が記憶喪失であることを知っているんだ?)
 コンテナに閉じ込められていた件はニュースにもなったが、真崎の容姿を含む個人情報は一切公開されていない。むしろ警察でしか取り扱われていない現状で、外部の人間が知るはずがないのだ。
 単にこの青年が真崎に接触してきたのが昔の友人であるならば、懐かしいと思ってしまったこの感覚にも納得するが――
(……いやいやまさか。そんな偶然があるわけがない)
 ましてや人を言葉で蹴り飛ばすような、感動とは程遠い最悪の再会があってたまるかと首を振った。
 その顔色を見て察したのか、青年は口元をまたにやりと歪めた。
「安心しなよ、俺達はちゃーんと深い繋がりを持つ者同士だ。例えるなら……そう、親友とか? いや、友人の類は距離があるな。かといって兄弟のような間柄でもないし……」
「君は一体……?」
「ああ、そうだ。これが一番しっくりくる」
 青年がぱぁっと顔を上げると同時に、急に振り出した雨が次第に弱まった。不気味な灰色の雲が遠くへ流れていき、淡い夕空が視界いっぱいに広がる。まるで自分の周辺だけ時間が止まったような気がした。
 青年は傘を降ろすと、まるで歓迎するかのように両腕を広げた。
「俺はシグマ。待っていたよ――相棒」
 喧嘩を吹っ掛けられるようにして果たした最悪の再会。真崎にとっては初対面のはずなのに、不思議と心が震えた。