あたしがトイレから戻ってくるのがあまりにも遅かったからだろうか。

 藍とおぼしき足音が2階の方から聞こえてきて、そのあと、彼が階段を降りてくる音が微かに鼓膜を伝った。


 2階のトイレにあたしがいないことに気づいて、1階に降りてきたのだろう。

 そのうち藍は、あたしがいるトイレの扉の前に立って、紬乃、と扉越しに声をかけてきた。


 吐き気はさっきよりもマシになっていたけれど、それでも、顔面が色々な体液でぐちゃぐちゃになっていたのと、まだも残っている内臓不快感があたしを思い切り地獄に突き落とすものだから、あたしは藍の言葉に反応することができず、ただうずくまって、苦痛の波が過ぎていくのを待つことしかできなかった。



「紬乃、お願い、鍵だけ開けてくれ」

「……ぐるしい、け、ど、やだ」



 助けを求めたいくらいの気分の悪さなのに、こんなみっともない姿を見せられない、だなんてことを考えてしまうのは、あたしは常に完璧な状態でいなきゃいけなくて、醜い姿なんか誰にも見せてはいけないという、歪んだ認知のせい。



「紬乃!」



 だいじょうぶだから、お願いだから開けて、と強い言葉で捲し立てる彼。


 それに対して反応せずにいると、「開けてくれなかったら、救急車呼ぶから」とそんなことを言いはじめたので、あたしは仕方なくわざと音を立てて内鍵を外した。



「紬乃、」



 扉を開けて、あたしがうずくまっているのを見た藍が、長い身体を折りたたみ、あたしに目線の高さを合わせて、

 やさしく、やさしく背中を擦ってくれた。


 だいじょうぶだよ、と、顔面がぐちゃぐちゃになったあたしに呼びかけながら、彼はあたしが床に落としたスマホを拾って、何も言わず側に置いてくれた。


 藍から与えられる、底なしの愛情を感じながら、

 愛しい人を、地獄へと引きずり込んだ自分自身に対する憎悪が膨れ上がっていく。