もう行くの? と尋ねると、制服のシャツのボタンを骨ばった手で留めあげる彼は、うん、とやわらかく返事をした。

 沈みかけている陽の光に無理やり蓋をするように閉められたカーテンと、じめじめと湿っぽい空気。乱れた服を整えながら、これから何ともないような顔で街を歩くための準備をする、彼。


 あたしはこの空間が、嫌いじゃない。


 だって、彼とこの空間を共有できるのは、あたしだけだから。



紬乃(ゆの)、こっち向いて」



 鏡を覗き込んで口紅を塗り直していたあたしに声をかけた彼は、あたしが顔を上げると同時に、そっとあたしの唇に甘美な熱を送り込んだ。

 唇にやわらかな感触を感じたかと思えば、まぶたを閉じる間もなくそれは離れていく。



「、あ」

「……ごめん、唇の色、落ちちゃった?」



 意地の悪い笑い方をする彼が愛おしくて、何とも言えず目を逸らした。

 じゃあまた明日、と言って、いつの間にか身なりを整えたらしい彼は、鞄を掴んであたしの部屋を出て行く。

 ぱたん、と扉が閉まったあと、自分の唇に触れてみる。微かにキスの感触と、そこに内包された熱が残っている感じがして、よりいっそう、彼への情愛が深まる。そんな、そんな夕方。